表紙 > ~後漢 > 『後漢書』列伝15,16,17,18,19,20を抄訳して、光武をしらべる

06) 桓譚、馮衍

『後漢書』列伝18・桓譚伝、馮衍伝
渡邉義浩主編『全訳後漢書』をつかいながら、抄訳します。

桓譚1:

桓譚字君山,沛國相人也。父成帝時為太樂令。譚以父任為郎,因好音律,善鼓琴。博學多通,遍習《五經》,皆詁訓大義,不為章句。能文章,尤好古學,數從劉歆、楊雄辯析疑異。性嗜倡樂,簡易不修威儀,而憙非毀俗儒,由是多見排抵。

桓譚は、あざなを君山。沛國の相県の人。父は、成帝の太樂令。桓譚は、父の質任により、郎。音律をこのみ、鼓琴がうまい。『五經』の大意を、みな理解した。

渡邉注はいう。太楽令は、秦官。少府にぞくす。後漢の060年、大予楽令とあらためる。楽人を管理し、全国の祭祀の音楽を、指導した。『通典』巻25。
李賢はいう。音律には、5声と6律。渡邉注がこまかいが、はぶく。

古學をこのむ。しばしば劉歆や楊雄に師事して、異論を話した。俳優の音楽をこのむ。外見や作法にこだわらず。俗儒をやっつけた。そのため、反撃された。

ぼくは思う。桓譚は、光武のライバル。孫権にとっての張昭のような人物。そういう人が、若いとき、前漢のトップレベルの学者とまじわり、音楽をこのみ、オトナを批判しまくった。いいキャラ。光武をこまらせる儒者の逸話を、ぜんぶ桓譚にあつめても、いいくらい。


哀、平間,位不過郎。傅皇后父孔鄉侯晏深善於譚。是時,高安侯董賢寵倖,女弟為昭儀,皇后日已疏,晏嘿嘿不得意。譚進說曰:「昔武帝欲立衛子夫,陰求陳皇后之過,而陳後終廢,子夫竟立。今董賢至愛而女弟尤幸,殆將有子夫之變,可不憂哉!」晏驚動,曰:「然,為之奈何?」譚曰:「刑罰不能加無罪,邪枉不能勝正人。夫士以才智要君,女以媚道求主。皇后年少,希更艱難,或驅使醫巫,外求方技,此不可不番。又君侯以後父尊重而多通賓客,必藉以重勢,貽致譏議。不如謝遣門徒,務執廉愨,此修己正家避禍之道也。」晏曰:「善」。遂罷遣常客,入白皇后,如譚所戒。後賢果風太醫令真欽,使求傅氏罪過,遂逮後弟侍中喜,詔獄無所得,乃解,故傅氏終全於哀帝之時。及董賢為大司馬,聞譚名,欲與之交。譚先奏書於賢,說以輔國保身之術,賢不能用,遂不與通。當王莽居攝篡弑之際,天下之士,莫不竟褒稱德美,作符命以求容媚,譚獨自守,默然無言。莽時為掌樂大夫,更始立,召拜太中大夫。

哀平のとき、官位は郎にすぎず。哀帝の傅皇后の父・孔鄉侯の傅晏は、桓譚と仲よし。このとき、高安侯の董賢が、妹を哀帝の昭儀として、傅晏のライバルとなる。桓譚は、傅晏に生きのこるアイディアをさずけた。

渡邉注はいう。傅晏は、『後漢書』傅喜伝。傅喜は、河内の温県の人。哀帝の祖母の、従父弟。ぼくは思う。この事件は、かなり『漢書』に記述がおおい。『漢書』を読むべきだ。チェックしたいのは、前漢において、すでに桓譚は、政治の中枢にいたこと。光武が子供のころに、すでに立派な政治家だった。光武は、アタマがあがらん。

王莽が居攝・篡弑すると、天下の士人は、符命をつくり王莽をたたえた。桓譚は、何もいわず。王莽の掌樂大夫(太常にあたるか)。更始がたち、太中大夫。

桓譚2

世祖即位,征待詔,上書言事失旨,不用。後大司空宋弘薦譚,拜議郎給事中,因上疏陳時政所宜,曰:
臣聞國之廢興,在於政事;政事得失,由乎輔佐。輔佐賢明,則俊士充朝,而理合世務;輔佐不明,則論失時宜,而舉多過事。夫有國之君,俱欲興化建善,然而政道未理者,其所謂賢者異也。昔楚莊王問孫叔敖曰:「寡人未得所以為國是也。」叔敖曰:「國之有是,眾所惡也,恐王不能定也。」王曰:「不定獨在君,亦在臣乎?」對曰:「居驕士,曰士非我無從富貴;士驕君,曰君非士無從安存。人君或至失國而不悟,士或至饑寒而不進。君臣不合,則國是無從定矣。」莊王曰:「善。願相國與諸大夫共定國是也。」蓋善政者,視俗而施教,察失而立防,威德更興,文武迭用,然後政調于時,而躁人可定。昔董仲舒言「理國譬若琴瑟,其不調者則解而更張」。夫更張難行,而拂眾者亡,是故賈誼以才逐,而朝錯以智死。世雖有殊能而終莫敢談者,懼於前事也。

光武が即位した。徴されて待詔。上書したが、光武の意にそわず、用いず。のちに大司空の宋弘がすすめ、議郎・給事中。上疏して、政治をのべた。
「世にいう賢者と、輔政できる賢者は、ちがう。董仲舒は、琴の音程がくるったら、リセットして、糸を張りなおすと言った。人材をリセットするのは、むずかしい。前漢の賈誼とチョウ錯は、時期にあわぬ中央集権を言って、刑死した。2人は賢者だが、輔政できる賢者でなかった」と。

ぼくは思う。桓譚は、いっぱい上書してる。詳細は、渡邉注を見れば、わかる。『全訳後漢書』489頁だ。大意だけ、書きとめる。なぜ、こんなにザツか。光武が、桓譚を用いないからだ。
ぼくは思う。長い上書を読ませ、それを採用しないで、読者を徒労感をうえつけるのは、『後漢書』によくあること。これは、採用する度量のない暗君を、こっそりケナす手法だと思っていたが、そうでもない。桓譚伝も、おなじパタンだ。


且設法禁者,非能盡塞天下之奸,皆合眾人之所欲也,大抵取便國利事多者,則可矣。夫張官置吏,以理萬人,縣賞設罰,以別善惡,惡人誅傷,則善人蒙福矣。今人相殺傷,雖已伏法,而私結怨仇,子孫相報,後忿深前,至於滅戶殄業,而俗稱豪健,故雖有怯弱,猶勉而行之,此為聽人自理而無複法禁者也。今宜申明舊令,若已伏官誅而私相傷殺者,雖一身逃亡,皆徙家屬于邊,其相傷者,加常二等,不得雇山贖罪。如此,則仇怨自解,盜賊息矣。

桓譚は上書した。「法律や禁令は、悪事をふせぐのでなく、人の望みをかなえるもの。法律にさばかれたのに、逆恨みして私闘をつづける人を、きつく罰せよ」と。

夫理國之道,舉本業而抑末利,是以先帝禁人二業,錮商賈不得宦為吏,此所以抑並兼長廉恥也。今富商大賈,多放錢貨,中家子弟,為之保役,趨走與臣僕等勤,收稅與封君比入,是以眾人慕效,不耕而食,至乃多通侈靡,以淫耳目。今可令諸商賈自相糾告,若非身力所得,皆以臧界告者。如此,則專役一已,不敢以貨與人,事寡力弱,必歸功田畝。田畝修,則穀入多而地力盡矣。
又見法令決事,輕重不齊,或一事殊法,同罪異論,奸吏得因緣為市,所欲活則出生議,所欲陷則與死比,是為刑開二門也。今可令通義理明習法律者,校定科比,一其法度,班下郡國,蠲除故條。如此,天下知方,而獄無怨濫矣。書奏,不省。

桓譚は上書した「農業をおこし、商業をおさえよ。裁判の基準を、そろえろ。判例をつくれ」と。光武は、みず。

是時,帝方信讖,多以決定嫌疑。又酬賞少薄,天下不時安定。譚複上疏曰:
臣前獻瞽言,未蒙詔報,不勝憤懣,冒死得陳。愚夫策謀,有益於政道者,以合人心而得事理也。凡人情忽於見事而貴于異聞,觀先王之所記述,咸以仁義正道為本,非有奇怪虛誕之事。蓋天道性命,聖人所難言也。自子貢以下,不得而聞,況後世淺儒,能通之乎!今諸巧慧小才伎數之人,增益圖書,矯稱讖記,以欺惑貪邪,詿誤人主,焉可不抑遠之哉!臣譚伏聞陛下窮折方士黃白之術,甚為明矣;而乃欲聽納讖記,又何誤也!其事雖有時合,譬猶蔔數隻偶之類。陛下宜垂明聽,發聖意,屏群小之曲說,述《五經》之正義,略雷同之俗語,詳通人之雅謀。

このとき光武は、讖緯をこのむ。こまったら讖緯できめる。賞賜がうすく、天下が安帝しない。桓譚は、上疏した。「くだらん讖緯でなく、五経の正義にそえ」と。

又臣聞安平則尊道術之士,有難則貴介胄之臣。今聖朝興複祖統,為人臣主,而四方盜賊未盡歸伏者,此權謀未得也。臣譚伏觀陛下用兵,諸所降下,既無重賞以相恩誘,或至虜掠奪其財物,是以兵長渠率,各生孤疑,黨輩連結,歲月不解。古人有言曰:「天下皆知取之為取,而莫知與之為取。」陛下誠能輕爵重賞,與士共之,則何招而不至,何說而不釋,何向而不開,何征而不克!如此,則能以狹為廣,以遲為速,亡者複存,失者複得矣。帝省奏,愈不悅。

桓譚は上疏した。「四方に盗賊がのこるのは、なぜか。光武に帰服しても、賞賜がもらえないからだ。征伐するのでなく、賞賜によって、四方の盗賊をなつけよ」と。光武は、ますます不快になった。

桓譚3:

其後,有詔會議靈台所處,帝謂譚曰:「吾欲以讖決之,何如?」譚默然良久,曰:「臣不讀讖。」帝問其故,譚複極言讖之非經。帝大怒曰:「桓譚非聖無法,將下斬之!」譚叩頭流血,良久乃得解。出為六安郡丞,意忽忽不樂,道病卒,時年七十餘。
初,譚著書言當世行事二十九篇,號曰《新論》,上書獻之,世祖善焉。《琴道》一篇未成,肅宗使班固續成之。所著賦、誄、書、奏,凡二十六篇。元和中,肅宗行東巡狩,至沛,使使者祠譚塚,鄉里以為榮。

のちに光武は、霊台の場所を、讖緯できめたい。

渡邉注はいう。霊台は、三雍の1つ。三雍は、皇帝が祭祀する対象。霊台、辟雍、明堂がある。辟雍では、天子による礼楽をやる。明堂では、天子による祖先祭祀をやる。霊台では天子が、陰陽や律暦の調和をやる。

桓譚は「私は讖緯を読まない。讖緯は経典でない」ちおう。光武は「聖なる讖緯をけなした。斬罪せよ」という。桓譚は叩頭して流血した。六安郡丞、病没。70余歳。桓譚は、たくさん著作した。班固が書きたした。

馮衍1:王莽の廉丹、更始の鮑永にアドバイス

馮衍字敬通,京兆杜陵人也。祖野王,元帝時為大鴻臚。衍幼有奇才,年九歲,能誦《詩》,至二十而博通群書。王莽時,諸公多薦舉之者,衍辭不肯仕。

馮衍は、あざなを敬通。京兆の杜陵の人。祖父の馮野王は、元帝の大鴻臚。

『東観漢記』はいう。馮野王は、もと上党の人。京兆にうつる。馮野王は、父の馮座をうむ。関内侯。馮座の子が、馮衍だ。華僑『後漢書』では、馮衍の祖父を、馮立とする。馮立の子を、馮満とする。『漢書』巻79・馮立伝にある。渡邉注はいう。『東観漢記』と華僑『後漢書』は矛盾する。

馮衍は、9歳で『詩経』を誦せた。20歳で、群書に博通した。王莽に、つかえず。

時,天下兵起,莽遣更始將軍廉丹討伐山東。丹辟衍為掾,與俱至定陶。莽追詔丹曰:「倉廩盡矣,府庫空矣,可以怒矣,可以戰矣。將軍受國重任,不捐身於中野,無以報恩塞責。」丹惶恐,夜召衍,以書示之。衍因說丹曰:「衍聞順而成者,道之所大也;逆而功者,權之所貴也。是故期於有成,不問所由;論於大體,不守小節。昔逢醜父伏軾而使其君取飲,稱于諸侯;鄭祭仲立突而出忽,終得復位,美於《春秋》。蓋以死易生,以存易亡,君子之道也。詭于眾意,甯國存身,賢智之慮也。故《易》曰'窮則變,變則通,通則久,是以自天祐之,吉,無不利'。若夫知其不可而必行之,破軍殘眾,無補於主,身死之日,負義于時,智者不為,勇者不行。且衍聞之,得時無怠。張良以五世相韓,椎秦始皇博浪之中,勇冠乎賁、育,名高乎太山。將軍之先,為漢信臣。新室之興,英俊不附。今海內潰亂,人懷漢德,甚于詩人思召公也,愛其甘棠,而況子孫乎?人所歌舞,天必從之。方今為將軍計,莫若屯據大郡,鎮撫吏士,砥厲其節,百里之內,牛酒日賜,納雄桀之士,詢忠智之謀,要將來之心,待從橫之變,興社稷之利,除萬人之害,則福祿流於無窮,功烈著於不滅。何與軍覆于中原,身膏於草野,功敗名喪,恥及先祖哉?聖人轉禍而為福,智士因敗而為功,願明公深計而無與俗同。」丹不能從。

王莽は、更始将軍(もと寧始将軍)の廉丹に、山東をうたせる。廉丹は、馮衍を辟して、掾とする。廉丹と馮衍は、定陶にくる。王莽は「官庫がカラだ。絶対に負けるな」とおどした。廉丹はおそれた。夜、馮衍はいう。「廉丹の祖先は、漢室の忠臣だ。王莽のために、力戦しなくてよい」と。廉丹は、馮衍にしたがえず。

進及睢陽,複說丹曰:「蓋聞明者見於無形,智者慮于未萌,況其昭晢者乎?凡患生於所忽,禍發於細微,敗不可悔,時不可失。公孫鞅曰:'有高人之行,負非於世;有獨見之慮,見贅於人。'故信庸庸之論,破金石之策,襲當世之操,失高明之德。夫決者智之君也。疑者事之役也。時不重至,公勿再計。」丹不聽,遂進及無鹽,與赤眉戰死。衍乃亡命河東。

睢陽で、また馮衍はいう。「兆しを感じとれ。負ける」と。廉丹は、無塩で、赤眉にころされた。馮衍は、河東にのがれた。

ぼくは思う。王莽の将軍・廉丹は、『漢書』王莽伝らしい。王莽の将軍へのアドバイスがのこるなんて、馮衍はめずらしい。


更始二年,遣尚書僕射鮑永行大將軍事,安集北方。衍因以計說永曰:
衍聞明君不惡切愨之言,以測幽冥之論;忠臣不顧爭引之患,以達萬機之變。是故君臣兩興,功名兼立,銘勒金石,令問不忘。今衍幸逢寬明之日,將值危言之時,豈敢拱默避罪,而不竭其誠哉!

更始二年(024)、更始は、尚書僕射の鮑永を行大將軍事とし、北方を安集させた。馮衍は、鮑永に計略をいう。

渡邉注はいう。鮑永は、あざなを君長。司隷校尉の鮑宣の子。
ぼくは思う。『漢書』鮑宣伝がある。馮衍は、王莽のつぎは、更始のために働く。馮衍は、更始に義理だてをしすぎて、光武にうとまれる。いま鮑永が「北方を安集」しにゆくが、光武の役割と、どのように棲みわけているんだろう。

馮衍はいう。「耳にいたい言葉でも、聞きなさい。私が言う」

『東観漢記』はいう。馮衍は、更始の偏将軍となる。鮑永と、仲がよい。更始がやぶれても、かたく守った。建武のとき、揚化大将軍(堅鐔)の掾となる。鄧禹に辟召された。しばしば鄧禹に、上言した。李賢はいう。ここにある言葉は、鄧禹をいさめた言葉だ。鮑永に言ったのでない。なぜ、鮑永と鄧禹が入れちがったか、わからないと。
ぼくは思う。ふつうに鮑永に言ってそうだ。つぎにある言葉だが「并州を鎮撫し」が、人と特定する言葉。鮑永が并州にいったか、どこかで探さねば。この馮衍伝を見るかぎり、鮑永に言ったということで、ツジツマがあう。


伏念天上離王莽之害久矣。始自東郡之師,繼以西海之役,巴、蜀沒于南夷,緣邊破于北狄,遠征萬里,暴兵累年,禍拏未解,兵連不息,刑法彌深,賦斂愈重。眾強之黨,橫擊於外,百僚之臣,貪殘於內,元元無聊,饑寒並臻,父子流亡,夫婦離散,廬落丘墟,田疇蕪穢,疾疫大興,災異蜂起。於是江湖之上,海岱之濱,風騰波湧,更相駘藉,四垂之人,肝腦塗地,死亡之數,不啻太半,殃咎之毒,痛入骨髓,匹夫僮婦,鹹懷怨怒。皇帝以聖德靈威,龍興鳳舉,率宛、葉之眾,將散亂之兵,C77C血昆陽,長驅武關,破百萬之陳,摧九虎之軍,雷震四海,席捲天下,攘除禍亂,誅滅無道,一期之間,海內大定。繼高祖之休烈,修文武之絕業,社稷複存,炎精更輝,德冠往初,功無與二。天下自以去亡新,就聖漢,當蒙其福而賴其願。樹恩布德,易以周洽,其猶順驚風而飛鴻毛也。然而諸將虜掠,逆倫絕理,殺人父子,妻人婦女,燔其室屋,略其財產,饑者毛食,寒者裸跣,冤結失望,無所歸命。今大將軍以明淑之德,秉大使之權,統三軍之政,存撫並州之人,惠愛之誠,加乎百姓,高世之聲,聞乎群士,故其延頸企踵而望者,非特一人也。且大將軍之事,豈得珪璧其行,束修其心而已哉?將定國家之大業,成天地之元功也。昔周宣中興之主,齊桓霸強之君耳,猶有申伯、召虎、夷吾、吉甫攘其蝥賊,安其疆宇。況乎萬里之漢,明帝復興,而大將軍為之梁棟,此誠不可以忽也。

馮衍は鮑永にいう。「王莽の末期から、四方で戦乱がある。百姓が被害をうけた。将軍は、并州を鎮撫した。征服した地域で、掠奪しないように」と。

ぼくは思う。『後漢書』王莽伝はないが、隗囂伝が王莽の悪口をいい、王莽の業績をのせる。ここ馮衍伝でも、王莽の業績がのる。范曄は、王莽を描かずには、おれない。


且衍聞之,兵久則力屈,人悉則變生。今邯鄲之賊未滅,真定之際複擾,而大將軍所部不過百里,守城不休,戰軍不息,兵革雲翔,百姓震駭,奈何自怠,不為深憂?夫並州之地,東帶名關,北逼強胡,年穀獨孰,人庶多資,斯四戰之地,攻守之場也。如其不虞,何以待之?故曰「德不素積,人不為用。備不豫具,難以應卒」。今生人之命,縣于將軍,將軍所杖,必須良才,宜改易非任,更選賢能。夫十室之邑,必有忠信。審得其人,以承大將軍之明,雖則山澤之人,無不感德,思樂為用矣。然後簡精銳之卒,發屯守之士,三軍既整,甲兵已具,相其土地之饒,觀其水泉之利,制屯田之術,習戰射之教,則威風遠暢,人安其業矣。若鎮太原,撫上党,收百姓之歡心,樹名賢之良佐,天下無變,則足以顯聲譽,一朝有事,則可以建大功。惟大將軍開日月之明,發深淵之慮,監《六經》之論,觀孫、吳之策,省群議之是非,詳眾士之白黑,以超《周南》之跡,垂《甘棠》之風,令夫功烈施於千載,富貴傳於無窮。伊、望之策,何以加茲!

馮衍は鮑永にいう。「ライバルに、邯鄲の王郎、真定の劉揚がいる。将軍は、賢者をまねき、上党に屯田すれば、伊尹や呂尚の方策です」

永既素重衍,為且受使得自置偏裨,乃以衍為立漢將軍,領狼孟長,屯太原,與上党太守田邑等繕甲養士,扞衛並土。

鮑永は、馮衍をおもんじる。更始から権限をもらい、鮑永は偏裨(副官)をおける。馮衍を立漢将軍、狼孟(并州)長として、太原におく。

『東観漢記』はいう。鮑永は、副将を5人おけた。ぼくは思う。更始の国号も「漢」だとわかる。光武にゆがめられ、更始の国号が、いまいち書かれてない。
副官が、并州の県長をやるのだから、鮑永の担当は并州でよい。

上党太守の田邑らと、兵士をあつめ、并州をまもる。

馮衍2:更始の上党太守・田邑の裏切りを咎む

及世祖即位,遣宗正劉延攻天井關,與田邑連戰十餘合,延不得進。邑迎母弟妻子,為延所獲。後邑聞更始敗,乃遣使詣洛陽獻璧馬,即拜為上党太守。因遣使者招永、衍,永、衍等疑不肯降,而忿邑背前約,衍乃遺邑書曰:
蓋聞晉文出奔而子犯宣其忠,趙武逢難而程嬰明其賢,二子之義當矣。今三王背畔,赤眉危國,天下蟻動,社稷顛隕,是忠臣立功之日,志士馳馬之秋也。伯玉擢選剖符,專宰大郡。夫上黨之地,有四塞之固,東帶三關,西為國蔽,奈何舉之以資強敵,開天下之匈,假仇讎之刃?豈不哀哉!

光武が即位した。宗正の劉延が、天井關をせめ、田邑と10余回、連戦した。劉延はすすめず。田邑は、母弟妻子を、劉延にとらわれた。田邑は、更始がやぶれたと聞き、璧馬を洛陽におくる。そのまま上党太守。

『東観漢記』はいう。鄧禹は、積弩将軍の馮セキに、田邑をうたせた。馮セキは、田邑の母弟妻子をとらえた。騎都尉の弓里ユウと、諌議大夫の何叔武をおくり、田邑を上党太守とした。

光武は、鮑永と馮衍をまねきたい。くだらず。鮑永と馮衍は「田邑は、更始をうらぎり、光武にくだった」と怒る。馮衍は、田邑に文書した。
「更始が3王(張卬、廖湛、胡殷)にそむかれた。田邑は、更始の上党太守として、まもるべきだった」

衍聞之,委質為臣,無有二心;挈瓶之智,守不假器。是以晏嬰臨盟,擬以曲戟,不易其辭;謝息守郕,脅以晉、魯,不喪其邑。由是言之,內無鉤頸之禍,外無桃萊之利,而被畔人之聲,蒙降城之恥,竊為左右羞之。且邾庶其竊邑畔君,以要大利,曰賤而必書;莒牟夷以土地求食,而名不滅。是以大丈夫動則思禮,行則思義,未有背此而身名能全者也。為伯玉深計,莫若與鮑尚書同情戮力,顯忠貞之節,立超世之功。如以尊親系累之故,能捐位投命,歸之尚書,大義既全,敵人紓怨,上不損剖符之責,下足救老幼之命,申眉高談,無愧天下。若乃貪上党之權,惜全邦之實,衍恐伯玉必懷周趙之憂,上黨複有前年之禍。昔晏平仲納延陵之誨,終免欒高之難;孫林父違穆子之戒,故陷終身之惡。以為伯玉聞此至言,必若刺心,自非嬰城而堅守,則策馬而不顧也。聖人轉禍而為福,智士因敗以成勝,願自強于時,無與俗同。

馮衍は田邑にいう。「鮑永と強力して、上党をまっとうせよ」と。

邑報書曰: 僕雖駑怯,亦欲為人者也,豈苟貪生而畏死哉!曲戟在頸,不易其心,誠僕志也。 間者,老母諸弟見執于軍,而邑安然不顧者,豈非重其節乎?若使人居天地,壽如金石,要長生而避死地可也。今百齡之期,未有能至,老壯之間,相去幾何。誠使故朝尚在,忠義可立,雖老親受戮,妻兒橫分,邑之願也。 間者,上黨黠賊,大眾圍城,義兵兩輩,入據井陘。邑親潰敵圍,拒擊宗正,自試智勇,非不能當。誠知故朝為兵所害,新帝司徒已定三輔,隴西、北地從風回應。其事昭昭,日月經天,河海帶地,不足以比。死生有命,富貴在天。天下存亡,誠雲命也。邑雖沒身,能如命何? 夫人道之本,有恩有義,義有所宜,恩有所施。君臣大義,母子至恩。今故主已亡,義其誰為;老母拘執,恩所當留。而厲以貪權,誘以策馬,抑其利心,必其不顧,何其愚乎! 邑年三十,曆位卿士,性少嗜欲,情厭事為。況今位尊身危,財多命殆,鄙人知之,何疑君子?
君長、敬通揭節垂組,自相署立。蓋仲由使門人為臣,孔子譏其欺天。君長據位兩州,加以一郡,而河東畔國,兵不入彘,上黨見圍,不窺大谷,宗正臨境,莫之能援。兵威屈辱,國權日損,三王背畔,赤眉害主,未見兼行倍道之赴,若墨翟累繭救宋,申包胥重胝存楚,衛女馳歸唁兄之志。主亡一歲,莫知定所,虛冀妄言,苟肆鄙塞。未能事生,安能事死?未知為臣,焉知為主?豈厭為臣子,思為君父乎!欲搖太山而蕩北海,事敗身危,要思邑言。

田邑は馮衍にこたえる。「私は命をおしまない。だから光武の宗正・劉延をこばんだ。だが大司徒の鄧禹が、三輔をたいらげた。隴西や北地がなびいた。天命が、更始から光武にうつった。私には変更できない。
鮑永は、更始から、2州(朔方と并州)をまかされ、河東もまかされた。だが宗正の劉延が私をせめても、鮑永は援軍してくれなかっただろう。私をせめるな。鮑永と馮衍は、光武にくだれ」と。

衍不從。或訛言更始隨赤眉在北,永、衍信之,故屯兵界休,方移書上党,雲皇帝在雍,以惑百姓。永遣弟升及子媚張舒誘降涅城,舒家在上黨,邑悉系之。又書勸永降,永不答,自是與邑有隙。邑字伯玉,馮翊人也,後為漁陽太守。永、衍審知更始已歿,乃共罷兵,幅巾降於河內。

馮衍は、田邑にしたがわず。更始が赤眉にしたがい、北にいるというデマあり。鮑永と馮衍は、デマを信じた。界休(太原)に兵をおき、上党に移書して「更始が雍にいる」と惑わした。

『東観漢記』はいう。鮑升と張舒たちは、営尉の李匡に涅城をそむかせた。涅県長の馮晏をころし、もと謁者の祝回を涅県長とした。涅県は、上党にぞくす。
渡邉注はいう。営尉は、ふつうの県尉とべつに、辺郡においた障塞尉のこと。『後漢書』百官志5にある。羌族や夷族をふせぐ。

鮑永は、弟の鮑升と、子媚の張舒をつかい、涅城をくだす。張舒の家属は上党にいたから、田邑がこれを拘束した。鮑永に降伏をさそう。鮑永はくだらず。

『東観漢記』は、田邑から鮑永への文書をのせる。「鮑永は、更始が敗れたくせに死なないこと、光武が即位して強まることを、受けいれられない。更始の残党を、あつめようとする。涅県をせめた。やめろ」と。ぼくは思う。この文書は、とても長い。ていねいに読めば、『後漢書』本文とおなじく、おもしろい。おそらく范曄が、クドいから捨てたんだろう。

田邑は、あざなを伯玉。馮翊の人。のち漁陽太守。鮑永と馮衍は、更始が没したと知り、冠幘をつけず、光武の河内郡にくだる。

馮衍3:光武にくだり、

帝怨衍等不時至,永以立功得贖罪,遂任用之,而衍獨見黜。永謂衍曰:「昔高祖賞季布之罪,誅丁固之功。今遭明主,亦何憂哉!」衍曰:「記有之,人有挑其鄰人之妻者,挑其長者,長者詈之,挑其少者,少者報之,後其夫死而取其長者。或謂之曰:'夫非罵爾者邪?'曰:'在人欲其報我,在我欲其罵人也。'夫天命難知,人道易守,守道之臣,何患死亡?」頃之,帝以衍為曲陽令,誅斬劇賊郭勝等,降五千餘人,論功當封,以讒毀,故賞不行。

光武は、馮衍がくだるのが遅いので、うらむ。鮑永は功績により、贖罪して任用された。馮衍だけ、任用されず。鮑永は馮衍にいう。「光武は明主だ。いま任用されなくとも、心配ない」と。馮衍は「ある男が、近所の妻2人を誘惑し、年長のほうに罵倒された。のちに妻2人が後家となった。男は、自分を罵倒した年長のほうを、めとった。私は年長の妻、光武は男とおなじ」と。
馮衍は、光武の曲陽(常山)令。劇賊の郭勝らを斬った。讒言で、賞されず。

建武六年日食,衍上書陳八事:其一曰顯文德,二曰褒武烈,三曰修舊功,四曰招俊傑,五曰明好惡,六曰簡法令,七曰差秩祿,八曰撫邊境。書奏,帝將召見。初,衍為狼孟長,以罪摧陷大姓令狐略。是時,略為司空長史,讒之于尚書令王護、尚書周生豐曰:「衍所以求見者,欲毀君也。」護等懼之,即共排間,衍遂不得入。

建武六年(030)、日食した。馮衍は8つを、のべた。かつて馮衍が、更始の狼孟長だったとき、大姓の令狐略を弾圧した。令狐略は、このとき司空長史。令狐略は、尚書令の王護にふきこみ、馮衍を光武に会えなくした。

ぼくは思う。更始も、豪族と対決した。光武は、そのまま更始の後継政権だ。やっていることは、おなじ。ただ、トップの顔がちがうだけ。のっとり。


後衛尉陰興、新陽侯陰就以外戚貴顯,深敬重衍,衍遂與之交結,是由為諸王所聘請,尋為司隸從事。帝懲西京外戚賓客,故皆以法繩之,大者抵死徙,其餘至貶黜。衍由此得罪,嘗自詣獄,有詔赦不問。西歸故郡,閉門自保,不也複與親故通。

のちに衛尉の陰興、新陽侯の陰就は、外戚だから貴顯だが、馮衍をおもんじた。馮衍は、外戚とまじわる。諸王は、馮衍を聘請した。司隸從事(司隷校尉の属官)となる。光武は、前漢で、外戚の賓客がのさばったので、これに懲りて、死徙・貶黜した。馮衍は、みずから詣獄したが、恩赦された。故郷にかえり、閉門・自保した。親故とまじわらず。

ぼくは思う。光武は、誰とでも、仲がいいのでない。更始の忠臣には、ひっかかった。外戚の陰氏だって、皇后その人は親しいが、外戚のとりまきには厳しい。まったく、ふつうの人間としての皇帝だ。理想化されているわけでない。王莽や更始のために、せっせと文書を発行した、馮衍伝が、ながなが載っていることが証拠。
ぼくは思う。列伝18下をはぶく。馮衍が、建武の末期に、みずからの不遇を上疏する。明帝が「馮衍は、大げさだから」と、しりぞける。読まなくてもいいなあ。


論曰:夫貴者負勢而驕人,才士負能而遺行,其大略然也。二子不其然乎!馮衍之引挑妻之譬,得矣。夫納妻皆知取詈己者,而取士則不能。何也?豈非反妒情易,而恕義情難。光武雖得之于鮑永,猶失之于馮衍。夫然,義直所以見屈於既往,守節故亦彌阻於來情。鳴呼!
贊曰:譚非讖術,衍晚委質。道不相謀,詭時同失。體兼上才,榮微下秩。

范曄の論にいう。才能があれば、おごる。桓譚と馮衍も、例外であろうか。また馮衍は、2人の妻にたとえた。男女については、節操がかたいほうがいい。だが君臣については、おなじか。更始につくした馮衍と、光武は和解しなかった。
范曄の賛にいう。桓譚は、讖緯をとがめた。馮衍は、更始につくした。時世にかなわず、官位はいやしかった。次巻につづく。