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03) 宋弘、蔡茂、郭賀、馮勤、趙熹

『後漢書』列伝16・宋弘、蔡茂、郭賀、馮勤、趙熹伝
渡邉義浩主編『全訳後漢書』をつかいながら、抄訳します。

侯覇の後任・韓歆:光武の司徒は、獄死がつづく

歆字翁君,南陽人,以從攻伐有功,封扶陽侯。好直言,無隱諱,帝每不能容。嘗因朝會,聞帝讀隗囂、公孫述相與書,歆曰:「亡國之君皆有才,桀、紂亦有才。」帝大怒,以為激發。歆又證歲將饑凶,指天畫地,言甚剛切,坐免歸田裏。帝猶不釋,複遣使宣詔責之。司隸校尉鮑永固請不能得,歆及子嬰竟自殺。歆素有重名,死非其罪,眾多不厭,帝乃追賜錢谷,以成禮葬之。

韓歆は、あざなを翁君。南陽の人。扶陽侯。直言をこのむ。光武が、隗囂と公孫述がかわした文書をよんだ。韓歆はいった。「某国の君主は、才能がある。夏桀、殷紂は、才能がある。隗囂と公孫述も、才能がある」と。光武は怒る。
饑凶のとき、天を指さし、地に線をひき、「光武のせいだ」という。司隷校尉の鮑永が、たすけたいが、光武はゆるさず。華歆は、自殺した。おおくの人が、光武をうらんだ。光武は、韓歆を成礼した。

李賢はいう。成礼は、礼をそなえること。不慮の死をとげたが、葬式の格式をおとさないこと。ぼくは思う。光武にミスをさせた韓歆は、めずらしい人材。


後千乘歐陽歙、清河戴涉相代為大司徒,坐事下獄死,自是大臣難居相任。其後,河內蔡茂、京兆玉況、魏郡馮勤,皆得薨位。況字文伯,性聰敏,為陳留太守,以德行化人,遷司徒,四年薨。

のちに千乘の歐陽歙、清河の戴涉は、かわりに大司徒となる。獄死した。これより、宰相につきたがらない。
河內の蔡茂、京兆の玉況、魏郡の馮勤は、みな在官で薨位じた。玉況は、あざなを文伯。陳留太守から、司徒。4年後、薨じた。

渡邉注はいう。蔡茂は、『後漢書』蔡茂伝。おなじ巻。哀帝の、侍中。王莽につかえず。竇融におされ、光武につかえる。044年、大使徒。047年、在官にて72歳でしぬ。


宋弘:桓譚の音楽、光武の女色をいましめる

宋弘字仲子,京兆長安人也。父尚,成帝時至少府。哀帝立,以不附董賢,違忤抵罪。弘少而溫順,哀、平間作侍中,王莽時為共工。赤眉入長安,遣使征弘,逼迫不得已,行至渭橋,自投于水,家人救得出,因佯死獲免。

宋弘は、あざなを仲子。京兆の長安の人。父の宋尚は、成帝のとき少府。哀帝がたち、董賢におもねらず、罪をうける。宋弘は、哀帝と平帝のとき、侍中となる。王莽のとき、共工(少府)。

ぼくは補う。少府=共工だから、宋尚と宋弘の父子は、同官。

赤眉が、長安にはいる。宋弘は迫られ、渭橋までゆくが、渭水にとびこむ。家人に、すくわれた。いつわって死に、赤眉に登用されず。

ぼくは思う。赤眉は、前漢の高官から、支持がないんだなあ!


光武即位,征拜太中大夫。建武二年,代王梁為大司空,封栒邑侯。所得租奉分贍九族,家無資產,以清行致稱。徙封宣平侯。
帝嘗問弘通博之士,弘乃薦沛國醒譚才學洽聞,幾能及楊雄、劉向父子。於是召譚拜議郎、給事中。帝每宴,輒令鼓琴,好其繁聲。弘聞之不悅,悔於薦舉,伺譚內出,正朝服坐府上,遣吏召之。譚至,不與席而讓之曰:「吾所以薦子者,欲令輔國家以道德也,而今數進鄭聲以亂《雅》、《頌》,非忠正者也。能自改邪?將令相舉以法乎?」譚頓首辭謝,良久乃遣之。後大會群臣,帝使譚鼓琴,譚見弘,失其常度。帝怪而問之。弘乃離席免冠謝曰:「臣所以薦醒譚者,望能以忠正導主,而令朝廷耽悅鄭聲,臣之罪也。」帝改容謝,使反服,其後遂不復令譚給事中。弘推進賢士馮翊桓梁三十餘人,或相及為公卿者。

光武が即位すると、太中大夫。建武二年、王梁にかわって大司空、栒邑侯。(封国の)租と、(大司徒の)奉は、すべて9族にあたえる。宣平侯。

渡邉注はいう。9族は、古文尚書説では、高祖父から玄孫までの直系。今文尚書説では、高祖、曽祖、祖父、父親、自分、父の兄弟姉妹、自分の兄弟姉妹、子供、母の父族、母の母族、母の兄弟姉妹、妻の父族、妻の母族の、異姓をふくむ。

光武は宋弘に、通博之士をきく。沛國の桓譚をすすめた。「桓譚は、楊雄、劉向、劉鈞におとらぬ」と。桓譚を、議郎、給事中。

帝每宴,輒令鼓琴,好其繁聲。弘聞之不悅,悔於薦舉,伺譚內出,正朝服坐府上,遣吏召之。譚至,不與席而讓之曰:「吾所以薦子者,欲令輔國家以道德也,而今數進鄭聲以亂《雅》、《頌》,非忠正者也。能自改邪?將令相舉以法乎?」譚頓首辭謝,良久乃遣之。後大會群臣,帝使譚鼓琴,譚見弘,失其常度。帝怪而問之。弘乃離席免冠謝曰:「臣所以薦醒譚者,望能以忠正導主,而令朝廷耽悅鄭聲,臣之罪也。」帝改容謝,使反服,其後遂不復令譚給事中。弘推進賢士馮翊桓梁三十餘人,或相及為公卿者。

光武が桓譚に、音楽をやらせるので、宋弘はおこった。光武は、桓譚に給事中させない。宋弘は、馮翊の桓梁など、30余人をあげた。前後して、公卿となる。

渡邉注はいう。桓譚は、『後漢書』桓譚伝。讖緯思想を否定した。
トラブルの詳細は、『全訳後漢書』368頁。光武も、たいへんだなあ。前漢の儒者をおもんじて、国家の体裁をととのえる。しかし前漢の儒者は、光武にさからう。しかし、儒者と敵対できない。


弘當宴見,禦坐新屏風,圖畫列女,帝數顧視之。弘正容言曰:「未見好德如好色者。」帝即為徹之。笑謂弘曰:「聞義則服,可乎?」對曰:「陛下進德,臣不勝其喜。」
時帝姊湖陽公主新寡,帝與共論朝臣,微觀其竭。主曰:「宋公威容德器,群臣莫及。」帝曰:「方且圖之。」後弘被引見,帝令主坐屏風後,因謂弘曰:「諺言貴易交,富易妻,人情乎?」弘曰:「臣聞貧賤之知不可忘,糟糠之妻不下堂。」帝顧謂主曰:「事不諧矣。」

光武が、列女の画像をちらちら見るので、宋弘がおこった。
光武の姉・湖陽公主は、寡婦となる。宋弘をめとりたいが、宋弘は「糟糠の妻をおいださない」と、湖陽公主との再婚をことわった。光武は、屏風のうしろにいる湖陽公主に「うまくいかない」と言った。

弘在位五年,坐考上党太守無所據,免歸第。數年卒,無子,國除。
弘弟嵩,以剛強孝烈著名,官至河南尹。嵩子由,元和間為太尉,坐阿党竇憲,策免歸本郡,自殺。由二子:漢、登。登在《儒林傳》。

宋弘は、大司徒を5年。上党太守をせめたが、無罪だったので、宋弘が免官された。数年して卒した。子なし。弟の宋嵩は、河南尹。

論曰:中興以後,居台相總權衡多矣,其能以任職取名者,豈非先遠業後小數哉?故惠公造次,急於鄉射之禮;君房入朝,先奏寬大之令。夫器博者無近用,道長者其功遠,蓋志士仁人所為根心者也。君子以之得,固貴矣;以之失,亦得矣。宋弘止繁聲,戒淫色,其有《關雎》之風乎!

范曄の論にいう。光武の宰相は、徳義や礼儀を、名分や法律よりも、おもんじた。だから伏湛は、郷射の礼をととのえた。侯覇は「寛大の詔」をさせた。宋弘は、桓譚に音楽をやめさせ、女色をいましめた。

蔡茂:外戚の陰氏をせめた広漢太守、司徒

蔡茂字子禮,河內懷人也。哀、平間以儒學顯,征試博士,對策陳災異,以高等擢拜議郎,遷侍中。遇王莽居攝,以病自免,不仕莽朝。

蔡茂は、あざなを子禮。河內の懷県の人。哀帝と平帝のとき、儒學により、博士にためさる。災異を對策した。高等(成績優秀)により、議郎。侍中にうつる。王莽が摂政したので、王莽につかえず。

會天下擾亂,茂素與竇融善,因避難歸之。融欲以為張掖太守,固辭不就;每所餉給,計口取足而已。後與融俱征,複拜議郎,再遷廣漢太守,有政績稱。時陰氏賓客在郡界多犯吏禁,茂輒糾案,無所回避。會洛陽令董宣舉糾湖陽公主,帝始怒收宣,既而赦之。茂喜宣剛正,欲令朝廷禁制貴戚,乃上書曰:
「臣聞興化致教,必由進善;康國甯人,莫大理惡。陛下聖德系興,再隆大命,即位以來,四海晏然。誠宜夙興夜寐,雖休勿休。然頃者貴戚椒房之家,數因恩勢,干犯吏禁,殺人不死,傷人不論。臣恐繩墨棄而不用,斧斤廢而不舉。近湖陽公主奴殺人西市,而與主共輿,出入宮省,逋罪積日,冤魂不報。洛陽令董宣,直道不顧,幹主討奸。陛下不先澄審,召欲加B258。當宣受怒之初,京師側耳;及其蒙宥,天下試目。今者,外戚憍逸,賓客放濫,宜敕有司案理奸罪,使執平之吏永申其用,以厭遠近不緝之情。」光武納之。

竇融に身をよせる。竇融は、蔡茂を張掖太守としたい。うけず。必要なぶんだけ、食糧をもらう。竇融とともに洛陽にゆき、議郎、広漢太守。治績あり。
ときに外戚の陰氏の賓客が、広漢の境界にくる。郡吏のルールをやぶる。たまたま洛陽令の董宣が、湖陽公主をとがめた。光武は董宣をとがめ、ゆるした。蔡茂は、貴戚をせめるチャンスだと思った。上奏した。

内容の現代語訳は、『全訳後漢書』376頁。


建武二十年,代戴涉為司徒,在職清儉匪懈。二十三年薨于位,時年七十二。賜東園梓棺,賻贈甚厚。
茂初在廣漢,夢坐大殿,極上有三穗禾,茂跳取之,得其中穗,輒複失之。以問主簿郭賀,賀離席慶曰:「大殿者,宮府之形象也。極而有禾,人臣之上祿也。取中穗,是中台之位也。於字禾失為秩,雖曰失之,乃所以得祿秩也。袞職有闕,君其補之。」旬月而茂征焉,乃辟賀為掾。

建武二十年(044)、戴涉にかわり、蔡茂が司徒となる。二十三年、官位にて薨じた。72歳。東園の梓棺をたまう。

李賢はいう。東園は、少府の部署。棺を製作する。

蔡茂は広漢にいるとき、司徒になる前兆のユメをみた。主簿の郭賀が、ユメをといた。旬月、蔡茂は司徒となる。郭賀を、司徒掾とする。

蔡茂の掾・郭賀:建武のとき、尚書令、荊州刺史

賀字喬卿,洛人。祖父堅伯,父游君,並修清節,不仕王莽。賀能明法,累官,建武中為尚書令,在職六年,曉習故事,多所匡益。拜荊州刺史,引見賞賜,恩寵隆異,及到宮,有殊政。百姓便之,歌曰:「厥德仁明郭喬卿,忠正朝廷上下平。」顯宗巡狩到南陽,特見嗟歎,賜以三公之服,黼黻冕旒。敕行部去襜帷,使百姓見其容服,以章有德。每所經過,吏人指以相示,莫不榮之。永平四年,征拜河南尹,以清靜稱。在官三年卒,詔書慜惜,賜車一乘,錢四十萬。

郭賀は、祖父と父が、王莽につかえず。建武のとき、尚書令を6年。荊州刺史。明帝に、三公の伏をもらう。

馮勤

馮勤字偉伯,魏郡繁陽人也。曾祖父揚,宣帝時為弘農太守。有八子,皆為二千石,趙魏間榮之,號曰「萬石君」焉。兄弟形皆偉壯,唯勤祖父偃,長不滿七尺,常自恥短陋,恐子孫之似也,乃為子伉娶長妻。伉生勤,長八尺三寸。八歲善計。

馮勤は、魏郡の人。曾祖父は、宣帝の弘農太守。8子がみな2千石となるので「万石君」とよばれた。馮勤の祖父は、身長がひくい。馮勤の父に、長身の妻をめとらす。馮勤は、191センチ。

初為太守銚期功曹,有高能稱。期常從光武征伐,政事一以委勤。勤同縣馮巡等舉兵應光武,謀未成而為豪右焦廉等所反,勤乃率將老母、兄弟及宗親歸期,期悉以為腹心,薦于光武。初未被用,後乃除為郎中,給事尚書。以圖議軍糧,在事精勤,遂見親識。每引進,帝輒顧謂左右曰:「佳乎吏也!」由是使典諸侯封事。勤差量功次輕重,國土遠近,地勢豐薄,不相逾越,莫不厭服焉。自是封爵之制,非勤不定。帝益以為能,尚書眾事,皆令總錄之。

魏郡太守の銚期のもと、功曹従事となる。銚期は光武にしたがい、政事は馮勤にまかす。馮勤と同県の馮巡は、豪右の焦廉にそむかれ、光武にしたがえない。馮勤は、家属をつれて光武にのがれる。郎中、尚書。

『東観漢記』はいう。魏郡太守の范横が、上疏して馮勤をすすめる。馮勤は、任命された。

軍糧をはかる。光武は左右に「馮勤は、よい吏だ」という。
諸侯をふうじるとき、その配置を、馮勤がうまくやった。

司徒侯霸薦前梁令閻楊。楊素有譏議,帝常嫌之,既見霸奏,疑其有奸,大怒,賜霸璽書曰:「崇山、幽都何可偶,黃鉞一下無處所。欲以身試法邪?將殺身以成仁邪?」使勤奉策至司徒府。勤還,陳霸本意,申釋事理,帝意稍解,拜勤尚書僕射。職事十五年,以勤勞賜爵關內侯。遷尚書令,拜大司農,三歲遷司徒。

司徒の侯覇は、さきの梁令・閻楊をすすめる。閻楊は、光武にきらわれる。光武は侯覇に「徙刑するぞ」とおどす。馮勤が、侯覇に悪意がないことを、弁明した。尚書僕射を15年。關內侯。尚書令にうつる。大司農を3年。司徒。

先是,三公多見罪退,帝賢勤,欲令以善自終,乃因宴見從容戒之曰:「朱浮上不忠於君,下陵轢同列,竟以中傷至今,死生吉凶未可知,豈不惜哉!人臣放逐受誅,雖複追加賞賜賻祭,不足以償不訾之身。忠臣孝子,覽照前世,以為鏡誡。能盡忠于國,事君無二,則爵賞光乎當世,功名列於不朽,可不勉哉!」勤愈恭約盡忠,號稱任職。
勤母年八十,每會見,詔敕勿拜,令禦者扶上殿,顧謂諸王主曰:「使勤貴寵者,此母也。」其見親重如此。中元元年,薨,帝悼惜之,使者吊祠,賜東園秘器,賵贈有加。

馮勤が司徒になる前、おおく三公は罪せらる。光武は、馮勤を罪したくない。光武は「朱浮は、いばったので、失敗した。馮勤は、いばるな。慎重にせよ」と。馮勤は、つつしんで三公をつとめた。
光武は、馮勤の老母を、うやまう。中元元年(056)、馮勤は薨じた。

『東観漢記』はいう。056年、光武は長安にゆく。園陵をまつる。馮勤は、前殿で1日中、出席した。司徒府にもどり、ぜんそく。光武は、太医に治療させた。馮勤は、しんだ。
ぼくは思う。まもなく光武も死ぬ。世話ないなあ。


趙憙:更始の名家の駒、皇族より節操を優先

趙憙字伯陽,南陽宛人也。少有節操。從兄為人所殺,無子,憙年十五,常思報之。乃挾兵結客,後遂往復仇。而仇家皆疾病,無相距者。憙以因疾報殺,非仁者心,且釋之而去。顧謂仇曰:「爾曹若健,遠相避也。」仇皆臥自搏。後病癒,悉自縛詣憙,憙不與相見,後竟殺之。

趙憙は、あざなを伯陽。南陽の宛県の人。従兄が殺され、子なし。仇敵の病気がなおるのを待ち、報仇した。

更始即位,舞陰大姓李氏擁城不下,更始遣柱天將軍李寶降之,不肯,雲:「聞宛之趙氏有孤孫憙,信義著名,願得降之。」更始乃征憙。憙年未二十,既引見,更始笑曰:「繭栗犢,豈能負重致遠乎?」即除為郎中,行偏將軍事,使詣舞陰,而李氏遂降。憙因進入潁川,擊諸不下者,曆汝南界,還宛。更始大悅,謂憙曰:「卿名家駒,努力勉之。」會王莽遣王尋、王邑將兵出關,更始乃拜憙為五威偏將軍,使助諸將拒尋、邑于昆陽。光武破尋、邑,憙被創,有戰勞,還拜中郎將,封勇功侯。

舞陰の大姓・李氏は、更始の柱天將軍・李寶にくだらず。「宛県の趙憙にくだりたい」という。更始は、20歳未満の趙憙を「角の生えない仔牛」とわらった。更始の郎中、行偏將軍事。舞陰にゆき、李氏をくだす。頴川をうち、汝南の境界をめぐり、宛城にもどる。更始は趙憙を「名家の駒」という。

李賢はいう。武帝は、劉徳を「千里の駒」という。更始は、これになぞられた。ぼくは思う。曹操が曹休を「千里の駒」といったもの、おなじだな。霍光は、劉徳を宗正にした。

王尋と王邑が武関をでると、更始はの五威偏將軍。諸将をたすけ、昆陽で王尋をふせぐ。光武がかつと、趙憙はキズをうけた。更始の中郎將、勇功侯。

更始敗,憙為赤眉兵所圍,迫急,乃逾屋亡走,與所友善韓仲伯等數十人,攜小弱,越山阻,徑出武關。仲伯以婦色美,慮有強暴者,而已受其害,欲棄之於道。憙責怒不聽,因以泥塗伯仲婦面,載以鹿車,身自推之。每道逢賊,或欲逼略,憙輒言其病狀,以此得免。既入丹水,遇更始親屬,皆裸跣塗炭,饑困不能前。憙見之悲感,所裝縑制資糧,悉以與之,將護歸鄉里。

更始がやぶれ、赤眉にかこまる。友善する韓仲伯(ほかに史料なし)と、武関からにげる。趙憙は、韓仲伯の妻をまもる。丹水県(南陽)で、更始の親属に、衣服や食糧をめぐむ。

ぼくは思う。ここまで、更始につくした人は、めずらしい!


時,鄧奉反於南陽,憙素與奉善,數遺書切責之,而讒者因方憙與奉合謀,帝以為疑。及奉敗,帝得憙書,乃驚曰:「趙憙真長者也。」即征憙,引見,賜鞍馬,待詔公車。時,江南未賓,道路不通,以憙守簡陽侯相。憙不肯受兵,單車馳之簡陽。吏民不欲內憙憙,憙乃告譬,呼城中大人,示以國家威信,其帥即開門面縛自歸,由是諸營壁悉降。荊州牧奏憙才任理劇,詔以為平林侯相。攻擊群賊,安集已降者,縣邑平定。

ときに鄧奉が、南陽で光武にそむく。鄧奉と趙憙は、したしい。鄧奉がやぶれ、光武は文書をみた。「趙憙は、長者である」とおどろいた。

ぼくは思う。鄧奉と趙憙が、通じていたか否かは、ここに書いてない。きっと通じていた。ところが、通じているにせよ、その文面がすばらしかったから、光武はおどろいたのだろう。

公車に待詔させた。江南がなつかず。簡陽侯相を守す。趙憙は兵をつれず、簡陽にゆく。

『東観漢記』はいう。光武は趙憙に、騎都尉の儲融から兵2百をうけとり、道路をつうじさせたい。趙憙は「単車でゆき、さぐってくる」と、兵をことわった。光武はゆるした。

父老を説きくだす。荊州牧は、趙憙の治績をほめた。平林侯相。縣邑をたいらぐ。

後拜懷令。大姓李子春先為琅邪相,豪猾並兼,為人所患。憙下車,聞其二孫殺人事未發覺,即窮詰其奸,收考子春,二孫自殺。京師為請者數十,終不聽。時,趙王良疾病將終,車駕親臨王,問所欲言。王曰:「素與李子春厚,今犯罪,懷令趙憙欲殺之,願乞其命。」帝曰:「吏奉法,律不可枉也,更道它所欲。」王無複言。既薨,帝追感趙王,乃貰出子春。

懷令。大姓の李子春は、琅邪相となるが、帰郷してから豪猾である。趙憙がとりしまる。趙王の劉良は、病死するとき「李子春と親しい。李子春は、趙憙に殺されそうだが、たすけたい」という。劉良が死ぬと、光武は李子春を出獄させた。

ぼくは思う。趙憙は、皇族よりも、法律を優先する。だから豪族からしたわれ、説得だけで、県城をおとせるのだろうが。光武にとっては、うるさい存在。自律した価値観をもっている人は、あつかいにくい。


其年,遷憙平原太守。時,平原多盜賊,憙與諸郡討捕,斬其渠帥,餘黨當坐者數千人。憙上言:「惡惡止其身,可一切徙京師近郡。」帝從之,乃悉移置潁川、陳留。於是擢舉義行,誅鋤奸惡。後青州大蝗,侵入平原界輒死,歲屢有年,百姓歌之。
二十六年,帝延集內戚宴會,歡甚,諸夫人各各前言「趙憙篤義多恩,往遭赤眉出長安,皆為憙所濟活」。帝甚嘉之。後征憙入為太僕,引見謂曰:「卿非但為英雄所保也,婦人亦懷卿之恩。」厚加賞賜。
二十七年,拜太尉,賜爵關內侯。時,南單于稱臣,烏桓、鮮插並來入朝,帝令憙典邊事,思為久長規。憙上複緣邊諸郡,幽、並二州由是而定。

その歳、平原太守。渠帥をくだす。頴川と陳留に、移住させた。イナゴは、平原の境界で、たちまち死んだ。
051年、光武の父がたの親戚は、趙憙に遮音した。太僕。052年、太尉、関内侯。雲中と五原をもどし、幽州と并州を匈奴からまもる。

三十年,憙上言宜封禪,正三雍之禮。中元元年,從封泰山。及帝崩,憙受遺詔,典喪禮。是時,籓王皆在京師,自王莽篡亂,舊典不存,皇太子與東海王等雜止同席,憲章無序。憙乃正色,橫劍殿階,扶下諸王,以明尊卑。時,籓國官屬出入宮省,與百僚無別,憙乃表奏謁者將護,分止它縣,諸王並令就邸,唯朝晡入臨。整禮儀,嚴門衛,內外肅然。

054年、光武に封禅させた。光武が死ぬと、趙憙が喪礼した。

牟融伝と、韋彪伝は、光武にからまないので、はぶく。


贊曰:「湛、霸奮庸,維寧兩邦。淮人孺慕,徐寇要降。弘實體遠,仁不忘本。憙政多跡,彪明理損。牟公簡帝,身終上袞。

范曄の賛はいう。伏湛と侯覇は、それぞれ平原と臨淮をやすんじた。民や賊にしたわれた。宋弘は、仁をわすれない。趙憙は、政治の模範となる事績がおおい。

ぼくは思う。この列伝16に、苦戦して(すなわち退屈)して、行きづまった。気分転換にシャワーをあびたら、アタマのなかが、すこし整理できた。
光武は、外征も内政も、ほぼパーフェクトにこなした名君だという、先入観があった。「光武帝と建武二十八宿伝」というサイト様に、そう書いてあったから。これが誤りなのだ。
ぼくは、はじめ、誤りの理由を「史料の偏向」のせいだと思った。すなわち『後漢書』は、光武をすばらしく描くに、決まっている。上記サイトは、史料を鵜呑みにしたから、光武がパーフェクトだと解釈したのだと、ぼくは思った。
もし『後漢書』が光武をパーフェクトに描くなら、史料批判のしがいがあるが、史料読みの段階では、おもしろくないな、と思っていた。欠点のない名君が、成功するフィクションなんて、願いさげた。
ちがう。『後漢書』は、光武の失敗を、きちんと書いている
光武が成功したのは、同世代の腹臣たちと、統一戦争を勝ちぬいたこと。若くて、颯爽としている。物語としては、周瑜と孫策のたぐいだ。この側面のすばらしさは、上記サイトで、たっぷり勉強できる。いっぽう光武が失敗し、『後漢書』があまさず書いているのは、上世代の儒者たちと、国家の体制を整備すること。年齢や価値観がバラバラな人をまとめて、1つの国をつくるのは、試行錯誤だった。世代がズレるのは、王莽による断絶をはさんで「漢の制度」を知る世代が、スポッと抜けたからだ。光武だって、前漢に仕えていない。儒者と対するとき、光武は、けっして、神話めいた円滑さはない。賢者を三公にまねきながら、つぎつぎ三公を罪した。
この光武の失敗が記された理由には、2つの可能性がある。1つは「君主を善導する儒者」という定型文にハメて、書かれたってこと。史料をつくるのは、儒教の教養がある人たち。「光武すら掣肘した先輩の皆さま」というのは、輝かしい。だから、脚色した。2つは、じっさいに光武が、儒者たちとギクシャクしたってこと。光武は、長安に留学したものの、皇帝の職務をすべてこなせるほどの、学者ではない。王莽と、ちがう。だから光武は、儒者と折りあうことに、苦労した。これが、事実に近かろう。
光武は、功臣(同世代の統一戦争を勝ちぬいた仲間)を、高位につけなかった。官吏としてミスをしないように、という配慮らしい。前漢の高帝のように、功臣が割拠するリスクに、おびえたのでない。光武は、儒者との対立から、功臣をまもったのかも。儒者と対立するのは、光武1人で充分である。もし、鄧禹みたいなピュアな人が、三公を継続すれば、儒者とゴチャゴチャ議論しなければならない。きっと、言い負かされて、事件をおこして、失点がつくだろう。
後漢は、つぎの明帝や章帝のとき、儒教国家として、ととのう。光武のとき、どこまで儒教が、いわゆる「国教」なのか、定かでない。光武じしんが、儒教のあつかいについて、いろいろ試していたのかも。ちょっと前、儒教の天才・王莽が、滅びたばかりだ。
以上から、この列伝16は、光武が実際にゴタゴタした人たちであり、光武がパーフェクトでなかった「史料的根拠」というやつだ。光武が、統一後、じょじょに儒者と妥協して、三公の職務を全うさせるように配慮するまで、かなり苦しかっただろう。
パーフェクトな光武を読みとろうとしたり、パーフェクトな光武のアラを見つけようとしたり、そういう姿勢で読んでも、理解にくるしむ。それが、前漢を知る儒者で、後漢初に三公となった人物をあつめた、列伝16だった。

つぎ、列伝17です。儒者の話が、つづくのだろうか。110802

ぼくは思う。范曄の賛で、民や賊が、光武の武力とは、べつの原理で、後漢にくだったように見える。光武が力づくで統一したのでない。漢室をなつかしむ気持ちが、民や賊をくだしたのでもない。もっと根底にある、よくわからん、価値観のようなものだなあ。それを儒教と言っていいのか、いかんのか、いまは確定的なことは、言えません。