03) 宋弘、蔡茂、郭賀、馮勤、趙熹
『後漢書』列伝16・宋弘、蔡茂、郭賀、馮勤、趙熹伝
渡邉義浩主編『全訳後漢書』をつかいながら、抄訳します。
侯覇の後任・韓歆:光武の司徒は、獄死がつづく
韓歆は、あざなを翁君。南陽の人。扶陽侯。直言をこのむ。光武が、隗囂と公孫述がかわした文書をよんだ。韓歆はいった。「某国の君主は、才能がある。夏桀、殷紂は、才能がある。隗囂と公孫述も、才能がある」と。光武は怒る。
饑凶のとき、天を指さし、地に線をひき、「光武のせいだ」という。司隷校尉の鮑永が、たすけたいが、光武はゆるさず。華歆は、自殺した。おおくの人が、光武をうらんだ。光武は、韓歆を成礼した。
のちに千乘の歐陽歙、清河の戴涉は、かわりに大司徒となる。獄死した。これより、宰相につきたがらない。
河內の蔡茂、京兆の玉況、魏郡の馮勤は、みな在官で薨位じた。玉況は、あざなを文伯。陳留太守から、司徒。4年後、薨じた。
宋弘:桓譚の音楽、光武の女色をいましめる
宋弘は、あざなを仲子。京兆の長安の人。父の宋尚は、成帝のとき少府。哀帝がたち、董賢におもねらず、罪をうける。宋弘は、哀帝と平帝のとき、侍中となる。王莽のとき、共工(少府)。
赤眉が、長安にはいる。宋弘は迫られ、渭橋までゆくが、渭水にとびこむ。家人に、すくわれた。いつわって死に、赤眉に登用されず。
帝嘗問弘通博之士,弘乃薦沛國醒譚才學洽聞,幾能及楊雄、劉向父子。於是召譚拜議郎、給事中。帝每宴,輒令鼓琴,好其繁聲。弘聞之不悅,悔於薦舉,伺譚內出,正朝服坐府上,遣吏召之。譚至,不與席而讓之曰:「吾所以薦子者,欲令輔國家以道德也,而今數進鄭聲以亂《雅》、《頌》,非忠正者也。能自改邪?將令相舉以法乎?」譚頓首辭謝,良久乃遣之。後大會群臣,帝使譚鼓琴,譚見弘,失其常度。帝怪而問之。弘乃離席免冠謝曰:「臣所以薦醒譚者,望能以忠正導主,而令朝廷耽悅鄭聲,臣之罪也。」帝改容謝,使反服,其後遂不復令譚給事中。弘推進賢士馮翊桓梁三十餘人,或相及為公卿者。
光武が即位すると、太中大夫。建武二年、王梁にかわって大司空、栒邑侯。(封国の)租と、(大司徒の)奉は、すべて9族にあたえる。宣平侯。
光武は宋弘に、通博之士をきく。沛國の桓譚をすすめた。「桓譚は、楊雄、劉向、劉鈞におとらぬ」と。桓譚を、議郎、給事中。
光武が桓譚に、音楽をやらせるので、宋弘はおこった。光武は、桓譚に給事中させない。宋弘は、馮翊の桓梁など、30余人をあげた。前後して、公卿となる。
トラブルの詳細は、『全訳後漢書』368頁。光武も、たいへんだなあ。前漢の儒者をおもんじて、国家の体裁をととのえる。しかし前漢の儒者は、光武にさからう。しかし、儒者と敵対できない。
時帝姊湖陽公主新寡,帝與共論朝臣,微觀其竭。主曰:「宋公威容德器,群臣莫及。」帝曰:「方且圖之。」後弘被引見,帝令主坐屏風後,因謂弘曰:「諺言貴易交,富易妻,人情乎?」弘曰:「臣聞貧賤之知不可忘,糟糠之妻不下堂。」帝顧謂主曰:「事不諧矣。」
光武が、列女の画像をちらちら見るので、宋弘がおこった。
光武の姉・湖陽公主は、寡婦となる。宋弘をめとりたいが、宋弘は「糟糠の妻をおいださない」と、湖陽公主との再婚をことわった。光武は、屏風のうしろにいる湖陽公主に「うまくいかない」と言った。
弘弟嵩,以剛強孝烈著名,官至河南尹。嵩子由,元和間為太尉,坐阿党竇憲,策免歸本郡,自殺。由二子:漢、登。登在《儒林傳》。
宋弘は、大司徒を5年。上党太守をせめたが、無罪だったので、宋弘が免官された。数年して卒した。子なし。弟の宋嵩は、河南尹。
范曄の論にいう。光武の宰相は、徳義や礼儀を、名分や法律よりも、おもんじた。だから伏湛は、郷射の礼をととのえた。侯覇は「寛大の詔」をさせた。宋弘は、桓譚に音楽をやめさせ、女色をいましめた。
蔡茂:外戚の陰氏をせめた広漢太守、司徒
蔡茂は、あざなを子禮。河內の懷県の人。哀帝と平帝のとき、儒學により、博士にためさる。災異を對策した。高等(成績優秀)により、議郎。侍中にうつる。王莽が摂政したので、王莽につかえず。
「臣聞興化致教,必由進善;康國甯人,莫大理惡。陛下聖德系興,再隆大命,即位以來,四海晏然。誠宜夙興夜寐,雖休勿休。然頃者貴戚椒房之家,數因恩勢,干犯吏禁,殺人不死,傷人不論。臣恐繩墨棄而不用,斧斤廢而不舉。近湖陽公主奴殺人西市,而與主共輿,出入宮省,逋罪積日,冤魂不報。洛陽令董宣,直道不顧,幹主討奸。陛下不先澄審,召欲加B258。當宣受怒之初,京師側耳;及其蒙宥,天下試目。今者,外戚憍逸,賓客放濫,宜敕有司案理奸罪,使執平之吏永申其用,以厭遠近不緝之情。」光武納之。
竇融に身をよせる。竇融は、蔡茂を張掖太守としたい。うけず。必要なぶんだけ、食糧をもらう。竇融とともに洛陽にゆき、議郎、広漢太守。治績あり。
ときに外戚の陰氏の賓客が、広漢の境界にくる。郡吏のルールをやぶる。たまたま洛陽令の董宣が、湖陽公主をとがめた。光武は董宣をとがめ、ゆるした。蔡茂は、貴戚をせめるチャンスだと思った。上奏した。
茂初在廣漢,夢坐大殿,極上有三穗禾,茂跳取之,得其中穗,輒複失之。以問主簿郭賀,賀離席慶曰:「大殿者,宮府之形象也。極而有禾,人臣之上祿也。取中穗,是中台之位也。於字禾失為秩,雖曰失之,乃所以得祿秩也。袞職有闕,君其補之。」旬月而茂征焉,乃辟賀為掾。
建武二十年(044)、戴涉にかわり、蔡茂が司徒となる。二十三年、官位にて薨じた。72歳。東園の梓棺をたまう。
蔡茂は広漢にいるとき、司徒になる前兆のユメをみた。主簿の郭賀が、ユメをといた。旬月、蔡茂は司徒となる。郭賀を、司徒掾とする。
蔡茂の掾・郭賀:建武のとき、尚書令、荊州刺史
郭賀は、祖父と父が、王莽につかえず。建武のとき、尚書令を6年。荊州刺史。明帝に、三公の伏をもらう。
馮勤
馮勤は、魏郡の人。曾祖父は、宣帝の弘農太守。8子がみな2千石となるので「万石君」とよばれた。馮勤の祖父は、身長がひくい。馮勤の父に、長身の妻をめとらす。馮勤は、191センチ。
魏郡太守の銚期のもと、功曹従事となる。銚期は光武にしたがい、政事は馮勤にまかす。馮勤と同県の馮巡は、豪右の焦廉にそむかれ、光武にしたがえない。馮勤は、家属をつれて光武にのがれる。郎中、尚書。
軍糧をはかる。光武は左右に「馮勤は、よい吏だ」という。
諸侯をふうじるとき、その配置を、馮勤がうまくやった。
司徒の侯覇は、さきの梁令・閻楊をすすめる。閻楊は、光武にきらわれる。光武は侯覇に「徙刑するぞ」とおどす。馮勤が、侯覇に悪意がないことを、弁明した。尚書僕射を15年。關內侯。尚書令にうつる。大司農を3年。司徒。
勤母年八十,每會見,詔敕勿拜,令禦者扶上殿,顧謂諸王主曰:「使勤貴寵者,此母也。」其見親重如此。中元元年,薨,帝悼惜之,使者吊祠,賜東園秘器,賵贈有加。
馮勤が司徒になる前、おおく三公は罪せらる。光武は、馮勤を罪したくない。光武は「朱浮は、いばったので、失敗した。馮勤は、いばるな。慎重にせよ」と。馮勤は、つつしんで三公をつとめた。
光武は、馮勤の老母を、うやまう。中元元年(056)、馮勤は薨じた。
ぼくは思う。まもなく光武も死ぬ。世話ないなあ。
趙憙:更始の名家の駒、皇族より節操を優先
趙憙は、あざなを伯陽。南陽の宛県の人。従兄が殺され、子なし。仇敵の病気がなおるのを待ち、報仇した。
舞陰の大姓・李氏は、更始の柱天將軍・李寶にくだらず。「宛県の趙憙にくだりたい」という。更始は、20歳未満の趙憙を「角の生えない仔牛」とわらった。更始の郎中、行偏將軍事。舞陰にゆき、李氏をくだす。頴川をうち、汝南の境界をめぐり、宛城にもどる。更始は趙憙を「名家の駒」という。
王尋と王邑が武関をでると、更始はの五威偏將軍。諸将をたすけ、昆陽で王尋をふせぐ。光武がかつと、趙憙はキズをうけた。更始の中郎將、勇功侯。
更始がやぶれ、赤眉にかこまる。友善する韓仲伯(ほかに史料なし)と、武関からにげる。趙憙は、韓仲伯の妻をまもる。丹水県(南陽)で、更始の親属に、衣服や食糧をめぐむ。
ときに鄧奉が、南陽で光武にそむく。鄧奉と趙憙は、したしい。鄧奉がやぶれ、光武は文書をみた。「趙憙は、長者である」とおどろいた。
公車に待詔させた。江南がなつかず。簡陽侯相を守す。趙憙は兵をつれず、簡陽にゆく。
父老を説きくだす。荊州牧は、趙憙の治績をほめた。平林侯相。縣邑をたいらぐ。
懷令。大姓の李子春は、琅邪相となるが、帰郷してから豪猾である。趙憙がとりしまる。趙王の劉良は、病死するとき「李子春と親しい。李子春は、趙憙に殺されそうだが、たすけたい」という。劉良が死ぬと、光武は李子春を出獄させた。
二十六年,帝延集內戚宴會,歡甚,諸夫人各各前言「趙憙篤義多恩,往遭赤眉出長安,皆為憙所濟活」。帝甚嘉之。後征憙入為太僕,引見謂曰:「卿非但為英雄所保也,婦人亦懷卿之恩。」厚加賞賜。
二十七年,拜太尉,賜爵關內侯。時,南單于稱臣,烏桓、鮮插並來入朝,帝令憙典邊事,思為久長規。憙上複緣邊諸郡,幽、並二州由是而定。
その歳、平原太守。渠帥をくだす。頴川と陳留に、移住させた。イナゴは、平原の境界で、たちまち死んだ。
051年、光武の父がたの親戚は、趙憙に遮音した。太僕。052年、太尉、関内侯。雲中と五原をもどし、幽州と并州を匈奴からまもる。
054年、光武に封禅させた。光武が死ぬと、趙憙が喪礼した。
范曄の賛はいう。伏湛と侯覇は、それぞれ平原と臨淮をやすんじた。民や賊にしたわれた。宋弘は、仁をわすれない。趙憙は、政治の模範となる事績がおおい。
光武は、外征も内政も、ほぼパーフェクトにこなした名君だという、先入観があった。「光武帝と建武二十八宿伝」というサイト様に、そう書いてあったから。これが誤りなのだ。
ぼくは、はじめ、誤りの理由を「史料の偏向」のせいだと思った。すなわち『後漢書』は、光武をすばらしく描くに、決まっている。上記サイトは、史料を鵜呑みにしたから、光武がパーフェクトだと解釈したのだと、ぼくは思った。
もし『後漢書』が光武をパーフェクトに描くなら、史料批判のしがいがあるが、史料読みの段階では、おもしろくないな、と思っていた。欠点のない名君が、成功するフィクションなんて、願いさげた。
ちがう。『後漢書』は、光武の失敗を、きちんと書いている。
光武が成功したのは、同世代の腹臣たちと、統一戦争を勝ちぬいたこと。若くて、颯爽としている。物語としては、周瑜と孫策のたぐいだ。この側面のすばらしさは、上記サイトで、たっぷり勉強できる。いっぽう光武が失敗し、『後漢書』があまさず書いているのは、上世代の儒者たちと、国家の体制を整備すること。年齢や価値観がバラバラな人をまとめて、1つの国をつくるのは、試行錯誤だった。世代がズレるのは、王莽による断絶をはさんで「漢の制度」を知る世代が、スポッと抜けたからだ。光武だって、前漢に仕えていない。儒者と対するとき、光武は、けっして、神話めいた円滑さはない。賢者を三公にまねきながら、つぎつぎ三公を罪した。
この光武の失敗が記された理由には、2つの可能性がある。1つは「君主を善導する儒者」という定型文にハメて、書かれたってこと。史料をつくるのは、儒教の教養がある人たち。「光武すら掣肘した先輩の皆さま」というのは、輝かしい。だから、脚色した。2つは、じっさいに光武が、儒者たちとギクシャクしたってこと。光武は、長安に留学したものの、皇帝の職務をすべてこなせるほどの、学者ではない。王莽と、ちがう。だから光武は、儒者と折りあうことに、苦労した。これが、事実に近かろう。
光武は、功臣(同世代の統一戦争を勝ちぬいた仲間)を、高位につけなかった。官吏としてミスをしないように、という配慮らしい。前漢の高帝のように、功臣が割拠するリスクに、おびえたのでない。光武は、儒者との対立から、功臣をまもったのかも。儒者と対立するのは、光武1人で充分である。もし、鄧禹みたいなピュアな人が、三公を継続すれば、儒者とゴチャゴチャ議論しなければならない。きっと、言い負かされて、事件をおこして、失点がつくだろう。
後漢は、つぎの明帝や章帝のとき、儒教国家として、ととのう。光武のとき、どこまで儒教が、いわゆる「国教」なのか、定かでない。光武じしんが、儒教のあつかいについて、いろいろ試していたのかも。ちょっと前、儒教の天才・王莽が、滅びたばかりだ。
以上から、この列伝16は、光武が実際にゴタゴタした人たちであり、光武がパーフェクトでなかった「史料的根拠」というやつだ。光武が、統一後、じょじょに儒者と妥協して、三公の職務を全うさせるように配慮するまで、かなり苦しかっただろう。
パーフェクトな光武を読みとろうとしたり、パーフェクトな光武のアラを見つけようとしたり、そういう姿勢で読んでも、理解にくるしむ。それが、前漢を知る儒者で、後漢初に三公となった人物をあつめた、列伝16だった。
つぎ、列伝17です。儒者の話が、つづくのだろうか。110802