表紙 > ~後漢 > 『後漢書』列伝15,16,17,18,19,20を抄訳して、光武をしらべる

02) 伏湛、伏隆、侯覇

『後漢書』列伝16・伏湛、伏隆、侯覇伝
渡邉義浩主編『全訳後漢書』をつかいながら、抄訳します。

伏湛子隆侯霸宋弘族孫漢蔡茂郭賀馮勤趙熹牟融章彪族子義

伏湛:今文「尚書」を発掘した子孫、平原をたもつ

伏湛字惠公,琅邪東武人也。九世祖勝,字子賤,所謂濟南伏生者也。湛高祖父孺,武帝時,客授東武,因家焉。父理,為當世名儒,以《詩》授成帝,為高密太傅,別自名學。
湛性孝友,少傳父業,教授數百人。成帝時,以父任為博士弟子。五遷,至王莽時為繡衣執法,使督大奸,遷後隊屬正。

伏湛は、あざなを惠公。琅邪の東武の人。九世の祖・伏勝は、あざなを子賤。いわゆる、濟南の伏生のことだ。

渡邉注はいう。伏生は、前漢初の尚書学者。焚書のとき、書物を壁にかくし、『尚書』29編を、斉魯のあたりで教授した。これが「今文尚書」だ。伏生の学説が『尚書大伝』。『漢書』儒林伝。

伏湛の祖父は、伏孺。武帝のとき、東武で客授して、東武にすむ。伏湛の父は、伏理。伏理は名儒で、『詩経』を成帝にさずける。高密王の劉寛の太傅となる。師匠の匡衡と、わかれて『伏詩学』という名がついた。

伏理のことは、『漢書』儒林伝にある。

伏湛は、性質が孝友だ。父業をつたえ、數百人に教授した。成帝のとき、質任によって、博士弟子となる。

渡邉注はいう。質任とは、高官である父のかわりに、郎などに任官されること。博士弟子は、太学の学生であり、官僚の候補生。博士につき、儒教および官僚としての知識をえる。登用試験である「射経」をへて、一定の官位につく。
西川利文「漢代博士弟子制度の展開」1991

5たびうつり、王莽のとき、繡衣執法。大奸を督し、後隊の屬正にうつる。

李賢はいう。武帝は、繡衣御史をおく。王莽は、御史をあらため、執法という。
渡邉注はいう。後隊は、6隊の1つ。前隊は南陽、後隊は河内、左隊は頴川、右隊は弘農、兆隊は河東、キ隊は河南。キ隊を滎陽する説があるが、漢代に滎陽郡はない。ぼくは思う。日本の平成の大合併みたいな、あじけないネーミング。
属性は『漢書』王莽伝中によると、都尉のごとし。郡におかる軍事官。


更始立,以為平原太守。時倉卒兵起,天下驚擾,而湛獨晏然,教授不廢。謂妻子曰:「夫一穀不登,國君徹膳;今民皆饑,奈何獨飽?」乃共食粗糲,悉分奉祿以賑鄉里,來客者百余家。時門下督素有氣力,謀欲為湛起兵,湛惡其惑眾,即收斬之,徇首城郭,以示百姓,於是吏人信向,郡向以安。平原一境,湛所全也。

更始がたつと、平原太守。兵乱があるが、伏湛は教授をやめず。妻子にいった。「『礼記』はいう。1年が不作なら、君子は食膳をへらす。私も飽食できない」と。伏湛は粗食して、財産をわけた。
ときに門下督は、伏湛のために起兵したい。伏湛は、門下督を斬り、起兵の意思がないとしめした。平原は、無傷のまま。

伏湛:

光武即位,知湛名儒舊臣,欲信幹任內職,征拜尚書,使典定舊制。時,大司徒鄧禹西征關中,帝以湛才任宰相,拜為司直,行大司徒事。車駕每出征伐,常留鎮守,總攝群司。建武三年,遂代鄧禹為大司徒,封陽都侯。

光武が即位した。伏湛が、名儒・舊臣なので、尚書として、旧制を典定させた。ときに大司徒の鄧禹は、關中にいる。光武は、伏湛が宰相にふさわしいので、司直、行大司徒事させた。光武がでると、伏湛が洛陽をまもる。百官をすべる。

ぼくは思う。曹丕と司馬懿の関係とくらべて、どうだろう。

建武三年(027)、鄧禹にかわり、大司徒。陽都(城陽国)侯。

時,彭寵反于漁陽,帝欲自征之,湛上疏諫曰:「臣聞文王受命而征伐五國,必先詢之同姓,然後謀於群臣,加占蓍龜,以定行事,故謀則成,卜則吉,戰則勝。其《詩》曰:'帝謂文王,詢爾仇方,同爾弟兄,以爾鉤援,與爾臨沖,以伐崇庸。'崇國城守,先退後伐,所以重人命,俟時而動,故參分天下而有其二。陛下承大亂之極,受命而帝,興明祖宗,出入四年,而滅檀鄉,制五校,降銅馬,破赤眉,誅鄧奉之屬,不為無功。今京師空匱,資用不足,未能服近而先事邊外;且漁陽之地,逼接北狄,黠虜困迫,必求其助。又今所過縣邑,尤為困乏。種麥之家,多在城郭,聞官兵將至,當已收之矣。大軍遠涉二千餘裏,士馬罷勞,轉糧限阻,今兗、豫、青、翼,中國之都,而寇賊從橫,未及從化。漁陽以東,本備邊塞,地接外虜,貢稅微薄。安平之時,尚資內郡,況今荒耗,豈足先圖?而陛下舍近務遠,棄易求難,四方疑怪,百姓恐懼,誠臣之所惑也。複願遠覽文王重兵博謀,近思征伐前後之宜,顧問有司,使極愚誠,采其所長,擇之聖慮,以中土為憂念。」帝覽其奏,竟不親征。

ときに彭寵が、漁陽でそむく。光武の親征を、伏湛がいさめた。「周文王は、親征に慎重でした。いま光武は連戦したばかり。兗州、豫州、青州、冀州は、中國之都ですが、寇賊がいる。親征するな」と。光武は、親征せず。

くわしい現代語訳は、『全訳後漢書』343頁。『資治通鑑』でもやったなあ。


時,賊徐異卿等萬余人據富平,連攻之不下,唯雲:「願降司徒伏公。」帝知湛為青、徐所信向,遣到平原,異卿等即日歸降,護送洛陽。 湛雖在倉卒,造次必於文德,以為禮樂政化之首,顛沛猶不可違。是歲奏行鄉飲酒禮,遂施行之。

ときに賊の徐異卿(獲索の賊帥・徐少)らは、富平(平原)にいる。連年くだらず。ただ「司徒の伏公にくだりたい」という。光武は、伏湛が、青州と徐州で信頼されるので、平原にゆかす。徐異卿は、即日くだり、洛陽に護送さる。
伏湛は、兵乱のときも、禮樂にのっとる。伏湛は、鄉飲酒禮を提案し、施行する。

渡邉注はいう。鄉飲酒禮は、周代の士大夫がおこなった、儀礼。3年ごとに、主人と先生が、賢能な年長者をえらび、「賓」「介」に任じる。主人がへりくだり、郷校でもてなす。郷大夫は、賢能な人を登用する。民衆にこれをしめし、賢能な年長者をとうとぶことを、教えた。『儀礼』にある。ふーん。


伏湛:

其冬,車駕征張步,留湛居守。時,蒸祭高廟,而河南尹、司隸校尉于廟中爭論,湛不舉奏,坐策免。六年,徙封不其侯,邑三千六百戶,遣就國。

この冬、光武は張歩をうつ。伏湛は、洛陽をまもる。ときに、高廟を蒸祭した。河南尹と司隸校尉が、廟中で爭論した。伏湛は、この争論を(弾劾)上奏しないので、免じられた。六年(031)、不其侯、国につく。

ぼくは補う。国につく=中央の政治を、クビになる。


後南陽太守杜詩上疏薦湛曰:「臣聞唐、虞以股肱康,文王以多士寧,是故《詩》稱'濟濟',《書》曰'良哉'。臣詩竊見故大司徒陽都侯伏湛,自行束修,訖無毀玷,篤信好學,守死善道,經為人師,行為儀錶。前在河內朝歌及居平原,吏人畏愛,則而象之。遭時反復,不離兵凶,秉節持重,有不可奪之志。陛下深知其能,顯以宰相之重,眾賢百姓,仰望德義。微過斥退,久不復用,有識所惜,儒士痛心,臣竊傷之。湛容貌堂堂,國之光輝;智略謀慮,朝之淵藪。髫發厲志,白首不衰。實足以先後王室,名足以光示遠人。古者選擢諸侯以為公卿,是故四方回首,仰望京師。柱石之臣,宜居輔弼,出入禁門,補缺拾遺。臣詩愚戇,不足以知宰相之才,竊懷區區,敢不自竭。臣前為侍御史,上封事,言湛公廉愛下,好惡分明,累世儒學,素持名信,經明行修,通達國政,尤宜近侍,納言左右,舊制九州五尚書,令一郡二人,可以湛代。頗為執事所非。但臣詩蒙恩深渥,所言誠有益於國,雖死無恨,故複越職觸冒以聞。」

のちに南陽太守の杜詩は、上疏して、伏湛をすすめた。「旧制では、天下から5人の尚書をえらぶ。いま郡ごとに2人。伏湛をつかうべき」と。

現代語訳は、『全訳後漢書』348頁にあり。結論ありき、しかも、この伏湛は、すすめられた甲斐もなく、はたらけない。だから、はぶく。


十三年夏,征,敕尚書擇拜吏日,未及就位,因宴見中暑,病卒。賜秘器,帝親吊祠,遣使者送喪修塚。 二子:隆、翕。(中略)初,自伏生已後,世傳經學,清靜無競,故東州號為「伏不鬥」雲。

十三年(38)夏、尚書は官吏に、伏湛をえらばせた。就位するまえに、伏湛は宴見で暑気にあたり、病卒した。秘器をたまい、みずから吊祠する。郷里まで、死体をおくらせた。
伏湛には、2子あり。伏隆と、伏翕だ。はじめ伏生より以後、世よ經學をつたえた。清靜できそわず。ゆえに東州では、伏氏を「伏不闘」という。

伏湛の子・伏隆:青州で張歩をくだしそこね、客死

隆字伯文,少以節操立名,仕郡督郵。建武二年,詣懷宮,光武甚親接之。

伏隆は、あざなを伯文。郡の督郵につかえる。建武二年、懷宮で、光武にあう。

『東観漢記』はいう。伏隆は、あざなを伯明。


時,張步兄弟各擁強兵,據有齊地,拜隆為太中大夫,持節使青、徐二州,招降郡國。隆移檄告曰:「乃者,猾臣王莽,殺帝盜位。宗室興兵,除亂誅莽,故群下推立聖公,以主宗廟。而任用賊臣,殺戮賢良,三王作亂,盜賊從橫,忤逆天心,卒為赤眉所害。皇天祐漢,聖哲應期,陛下神武奮發,以少制眾。故尋、邑以百萬之軍,潰散于昆陽,王郎以全趙之師,土崩於邯鄲,大肜、高胡望旗消靡,鐵脛、五校莫不摧破。梁王劉永,幸以宗室屬籍,爵為侯王,不知厭足,自求禍棄,遂封爵牧守,造為詐逆。今虎牙大將軍屯營十萬,已拔睢陽,劉永奔迸,家已族矣。此諸君所聞也。不先自圖。後悔何及!」青、徐群盜得此惶怖,獲索賊右師郎等六校即時皆降。張步遣使隨隆,詣闕上書,獻鰒魚。

ときに張歩の兄弟が、齊地による。伏隆は、太中大夫となり、青州と徐州を、まねきくだす。伏隆は、檄文をうつした。「更始は、三王(劉玄伝)におどされた。光武は、王尋と王邑、王郎をやぶった。大トウと高胡、鉄ケイと五校をやぶった。梁王の劉永は、虎牙大将軍の蓋延にかこまれた。光武にくだれ」と。
青州と徐州は、光武をおそれ、獲索賊の右師郎ら6校は、すぐにくだる。張歩は、伏隆に上書して、鰒魚をわたす。

李賢は、鰒魚を注釈する。はぶく。
『東観漢記』はいう。張歩は、掾史の孫昱を、伏隆に随行させた。


其冬,拜隆光祿大夫,複使于步,並與新除青州牧守及都尉俱東,詔隆輒拜令長以下。隆招懷綏緝,多來降附。帝嘉其功,比之酈生。即拜步為東萊太守,而劉永複遣使立步為齊王。步貪受王爵,B37D豫未決。隆曉譬曰:「高祖與天下約,非劉氏不王,今可得為十萬戶侯耳。」步欲留隆與共守二州,隆不聽,求得反命,步遂執隆而受永封。隆遣間使上書曰:「臣隆奉使無狀,受執凶逆,雖在困厄,授命不顧。又吏人知步反畔,心不附之,願以時進兵,無以臣隆為念。臣隆得生到闕廷,受誅有司,此其大願;若令沒身寇手,以父母昆弟長累陛下。陛下與皇后、太子永享萬國,與天無極。」帝得隆奏,召父湛流涕以示之曰:「隆可謂有蘇武之節。恨不且許而遽求還也!」其後步遂殺之,時人莫不憐哀焉。

その冬、伏隆は光祿大夫。ふたたび張歩し使者する。新任した青州の牧守や都尉をともない、東した。伏隆は、県令や県長より以下を、任じた。光武は「伏隆は、酈生のようだ」という。張歩を東莱太守とする。
ライバルの劉永は、張歩を齊王とする。張歩は、光武と劉永を、ゆれうごく。伏隆は「劉氏でなければ、王になれない」という。張歩は「私と伏隆で、青州と徐州をおさめよう」という。伏隆がきかないので、張歩は伏隆をとらえた。
伏隆は上書した。「私は死んでもよいので、光武は天下をとれ」と。光武は、伏隆の父・伏湛に、伏隆の上書をみせた。光武は泣いて「伏隆は、蘇武とおなじ功績がある。はやく帰還させるべきだった」と。張歩は、伏隆をころした。

李賢はいう。前漢の武帝のとき、蘇武は匈奴に使者した。降伏した匈奴とはかり、単于の母をおどして、前漢に帰国させようとした。単于にバレた。蘇武は、自殺をはかった。蘇武は、単于にしたがわず。前漢の使者をしめす節をついて、放牧した。19年後、前漢にかえれた。『漢書』蘇武伝。
ぼくは思う。伏隆の活躍は、この1つのみ。『資治通鑑』とカブる。


五年,張步平,車駕幸北海,詔隆中弟咸收隆喪,賜給棺斂,太中大夫護送喪事,詔告琅邪作塚,以子瑗為郎中。

五年(029)、張歩がたいらぎ、光武は北海へゆく。伏隆の中弟・伏咸に、伏隆の死体をひろわせた。太中大夫が、死体をおくる。瑯邪に、墓をつくらせた。

侯覇:宦官の族子、穀梁伝の学者、王莽の臨淮太守

侯霸字君房,河南密人也。族父淵,以宦者有才辯,任職元帝時,佐右顯等領中書,號曰大常侍。成帝時,任霸為太子舍人。霸矜嚴有威容,家累千金,不事產業。篤志好學,師事九江太守房元,治《谷梁春秋》,為元都講。

侯霸は、あざなを君房。河南の密県の人。族父の侯淵は、宦者だった。元帝のとき、石顕らをたすけ、中書を領した。大常侍とよばれた。

渡邉注はいう。石顕は、済南の人。宦官として、元帝につかえる。尚書令。名儒の蕭望之そしられたので、自殺させた。元帝が崩じるまで、政権をにぎる。『漢書』侫幸伝。

成帝のとき、侯覇は、太子舍人となる。実家に資産があり、産業せず。九江太守の房元に師事して、『谷梁春秋』をやる。房元の都講。

『漢官儀』はいう。太子舎人は、良家の子孫をえれあび、2百石。
渡邉注はいう。穀梁伝は、穀梁赤がつくる。宣帝による石渠閣隗義で、たたえられた。公羊伝ともに、博士官がたつ。後漢では、主流の公羊伝、新興の左氏伝におされた。しかし鄭玄は、穀梁伝が、もっとも『春秋』を意図をつたえるという。
『東観漢記』はいう。鍾寧君より、律をならう。


王莽初,王威司命陳崇舉霸德行,遷隨宰。縣界曠遠,濱帶江湖,而亡命者多為寇盜。霸到,即案誅豪猾,分捕山賊,縣中清靜。再遷為執法刺奸,糾案勢位者,無所疑憚。後為淮平大尹,政理有能名。及王莽之敗,霸保固自守,卒全一郡。

王莽初、王威司命の陳崇は、侯覇を隨宰とする。

李賢はいう。王莽は、五威司命将軍をおく。また県令と県長を、県宰という。随県は、南陽にある。 渡邉注はいう。五威司命は、将軍号。五威司命、五威中城、五威前関、五威後関、五威左関、五威右関の6将軍をおく。『漢書』王莽伝。
渡邉注はいう。陳崇は、南陽の人。大司徒の司直となる。王莽の片腕。孫宝や陳遵など、王莽に敵対する人を、失脚させた。王莽の即位後、統睦侯、五威司命将軍。側近をつづけた。

随県は、境界がひろく、湖沼がある。亡命したひとが、寇盜する。侯覇は、随県を清靜とした。執法刺奸にうつる。権勢ある人を、摘発する。

渡邉注はいう。執法刺奸は、司隷校尉にあたる。左右にわかれる。左執法刺奸は、六尉をみる。右執法刺奸は、六隊をみる。

のちに淮平大尹(臨淮太守)となる。王莽がやぶれても、臨淮郡をたもつ。

ぼくは思う。前漢の宦官の族子。穀梁伝の学者。王莽の高官。すごいキャラ。


侯覇:前漢の知識を活かし、後漢の体制をととのえる

更始元年,遣使征霸,百姓老弱相攜號哭,遮使者車,或當道而臥。皆曰:「願乞侯君複留期年。」民至乃戒乳婦勿得舉子,侯君當去,必不能合。使者慮霸就征,臨淮必亂,不敢授璽書,具以狀聞。會更始敗,道路不通。
建武四年,光武征霸與車駕會壽春,拜尚書令。時無故典,朝廷又少舊臣,霸明習故事,收錄遺文,條奏前世善政法度有益於時者,皆施行之。每春下寬大之詔,奉四時之令,皆霸所建也。明年,代伏湛為大司徒,封關內侯。在位明察守正,奉公不回。

更始元年(023)、更始が侯覇を臨淮から、ひきはがす。百姓は泣き「侯覇のいない臨淮では、子を産むな。育てられない」と言った。更始がやぶれ、道路がとざされた。侯覇は、臨淮をはなれず。

『東観漢記』はいう。更始は、謁者の侯盛と、荊州刺史の費遂をおくり、璽書をもたせ、侯覇を徴召しようとした。
ぼくは思う。すごいなあ!王莽の太守でも、うまい人は、うまくやる。

建武四年(028)、光武が侯覇をめし、寿春であう。尚書令。故典がなく、朝廷に舊臣がすくない。侯覇は、故事に明習し、遺文を(尚書台に)收錄する。前世の善政や法度のうち、有益なものを施行させた。

ぼくは思う。光武と同世代の将軍たちは、前漢のことを知らない。光武のとき、すでにジイサンだった人が、前漢と後漢をつないだ。もし光武が2代かけて、天下を統一していたら、もっと断絶はおおきかっただろう。

春ごとに「寬大之詔」をだし、四時之令をたてまつる。侯覇がはじめたことだ。

『礼記』月令はいう。春には徳をたれて、慶事をする。恵みを、民にほどこす。ゆえに「寛大」という。四時をやるとは、『礼記』月令をやること。

明年(029)、伏湛にかわり、大司徒。關內侯。在位にあり、明察・守正。公のためにし、まげず。

渡邉注はいう。関内侯は、寛大の爵位の1つ。二十等ある爵位の上から2番目。列侯とことなり、奉邑をもたない。『後漢書』百官志5。


十三年,霸薨,帝深傷惜之,親自臨吊。下詔曰:「惟霸積善清潔。視事九年。漢家舊制,丞相拜曰,封為列侯。朕以軍師暴露,功臣未封,緣忠臣之義,不欲相逾,未及爵命,奄然而終。嗚呼哀哉!」於是追封諡霸則鄉哀侯,食邑二千六百戶。子昱嗣。臨淮吏人共為立祠,四時祭焉。以沛郡太守韓歆代霸為大司徒。

十三年(038)、侯覇は薨じた。光武は、みずから弔問す。詔した。「侯覇は、大司徒を9年した。漢室の故事では、丞相になる当日に、列侯とする。軍事がやまず、侯覇がのぞまぬので、侯覇を列侯としなかった。かなしい」と。

李賢はいう。高帝のときから、列侯を丞相とした。武帝は、元勲や佐命がすでに死に絶えたので、列侯でない公孫弘を丞相とした。あわせて、平津侯とした。このため漢室では、丞相のついた日に、列侯にふうじることが、故事となった。

侯覇を列侯とし、則鄉哀侯とした。臨淮の吏人は、ともに侯覇を立祠した。沛郡太守の韓歆が、かわりに司徒となる。

つぎ、侯覇の後任・韓歆伝。つづきます。