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08) 蘇竟、楊厚

『後漢書』列伝18・蘇竟、楊厚伝
渡邉義浩主編『全訳後漢書』をつかいながら、抄訳します。

蘇竟:劉歆の従子・劉龔を、図讖でくだす

蘇竟字伯況,扶風平陵人也。平帝世,竟以明《易》為博士講《書》祭酒。善圖緯,能通百家之言。王莽時,與劉歆等共典校書,拜代郡中尉。時匈奴擾亂,北邊多罹其禍,竟終完輯一郡。光武即位,就拜代郡太守,使固塞以拒匈奴。建武五年冬,盧芳略得北邊諸郡,帝使偏將軍隨弟屯代郡。竟病篤,以兵屬弟,詣京師謝罪。拜侍中,數月,以病免。

蘇竟は、あざなを伯況。扶風の平陵の人。平帝のとき、『易』にくわしいので、博士講《書》祭酒となる。圖緯がうまい。王莽のとき、劉歆らと校書を共典して、代郡中尉。ときに匈奴がみだすが、代郡を完輯した。

李賢はいう。王莽は、六経祭酒をおく。王莽の官制につき、渡邉注あり。
ぼくは思う。なんで劉歆サマと、文書を研究して、代郡なんて辺境にとばされるのだろう。因果関係が、よくわからない。王莽は、ただ匈奴の脅威をのぞくため、有能な蘇竟にまかせたか。

光武の代郡太守。匈奴をこばむ。建武五年(032)冬、盧芳が北邊をおかす。光武は、偏將軍の隨弟(ほかに史料なし)を代郡におく。蘇竟は重病なので、随弟にまかせた。侍中、病免。

初,延岑護軍鄧仲況擁兵據南陽陰縣為寇,而劉歆兄子龔為其謀主。竟時在南陽,與龔書曉之曰:
君執事無恙。走昔以摩研編削之才,與國師公從事出入,校定秘書,竊自依依,末由自遠。蓋聞君子湣同類而傷不遇。人無愚智,莫不先避害然後求利,先定志然後求名。昔智果見智伯窮兵必亡,故變名遠逝,陳平知項王為天所棄,故歸心高祖,皆智之至也。聞郡前權時屈節,北面延牙,乃後覺悟,棲遲養德。先世數子,又何以加。君處陰中,土多賢士,若以須臾之間,研考異同,揆之圖書,測之人事,則得失利害,可陳于目,何自負畔亂之困,不移守惡之名乎?與君子之道,何其反也?
世之俗儒末學,醒醉不分,而稽論當世,疑誤視聽。或謂天下迭興,未知誰是,稱兵據土,可圖非冀。或曰聖王未啟,宜觀時變,倚強附大,顧望自守。二者之論,豈其然乎?夫孔丘秘經,為漢赤制,玄包幽室,文隱事明。且火德承堯,雖昧必亮,承積世之祚,握無窮之符,王氏雖乘間偷篡,而終嬰大戮,支分體解,宗氏屠滅,非其效歟?皇天所以眷顧蜘躕,憂漢子孫者也。論者若不本之於天,參之於聖,猥以《師曠雜事》輕自眩惑,說士作書,亂夫大道,焉可信哉?

はじめ延岑の護軍・鄧仲況は、南陽の陰縣を寇した。劉歆の兄子・劉龔を、謀主とした。蘇竟は南陽にいたので、劉龔に文書した。
「私は、あなたの叔父・国師公の劉歆と、校書した。きみは延岑についたが、隠棲した。陰県にいる賢者にきけば、図書でわかる。鄧仲況につくなと」と。
さらに言う。「世俗の儒者は、だれが天下をとるか分からぬという。ウソだ。孔子が緯書をつくり、漢の赤制をつくり、漢室がつづくことを明らかにした。光武につけ」と。

ぼくは思う。図讖は、この時代の人たちには、充分に「合理的」「客観的」「近代的」「先進的」「普遍的」「絶対的」な学問なのである。蘇竟の発言は、学問にかなっている。ぼくらが読むのは、むずかしい。蘇竟はバカと、切り捨ててはいけない。しかし、図讖を持ちあげすぎてもいけない。図讖は「もっとも説得力のある意見の1つ」として、過不足なくあつかわねば。


諸儒或曰:今五星失晷,天時謬錯,辰星久而不效,太白出入過度,熒惑進退見態,鎮星繞帶天街,歲星不舍氐、房。以為諸如此占,歸之國家。蓋災不徒設,皆應之分野,各有所主。夫房、心即宋之分,東海是也。尾為燕分,漁陽是也。東海董憲迷惑未降,漁陽彭寵逆亂擁兵,王赫斯怒,命將並征,故熒惑應此,憲、寵受殃。太白、辰星自亡新之末,失行算度,以至於今,或守東井,或沒羽林,或裴回籓屏,或躑躅帝宮,或經天反明,或潛臧久沈,或衰微暗昧,或煌煌北南,或盈縮成鉤,或偃蹇不禁,皆大運蕩除之祥,聖帝應符之兆也。賊臣亂子,往往錯互,指麾妄說,傳相壞誤。由此論之,天文安得遵度哉!
乃者,五月甲申,天有白虹,自子加午,廣可十丈,長可萬丈,正臨倚彌。倚彌即黎丘,秦豐之都也。是時月入于畢。畢為天網,主網羅無道之君,故武王將伐紂,上祭于畢,求助天也。夫仲夏甲申為八魁。八魁,上帝開塞之將也,主退惡攘逆。流星狀似蚩尤旗,或曰營頭,或曰天槍,出奎而西北行,至延牙營上,散為數百而滅,奎為毒螫,主庫兵。此二變,郡中及延牙士眾所共見也。是故延牙遂之武當,托言發兵,實避其殃。今年《比卦》部歲,《坤》主立冬,《坎》主冬至,水性滅火,南方之兵受歲禍也。德在中宮,刑在木,木勝土,刑制德,今年兵事畢已,中國安寧之效也。五七之家三十五姓,彭、秦、延氏不得豫焉。如何怪惑,依而恃之?《葛累》之詩,「求福不回」,其若是乎!

蘇竟はいう。「天文の分野では、東海の董憲、漁陽の彭寵にわざわいがあった。賊軍は、都合よく天文をよむが、ダメである」と。
さらに言う。「5月甲申、白虹があった。黎丘の秦豊をさす分野だ。きみ(劉龔)がしたがう、延牙をさす天文は、不吉だった。彭寵、秦豊、延牙は、天命がない。劉氏にしか、天命がない」と。

圖讖之占,眾變之驗,皆君所明。善惡之分,去就之決,不可不察。無忽鄙言!
夫周公之善康叔,以不從管、蔡之亂也;景帝之悅濟北,以不從吳濞之畔也。自更始以來,孤恩背逆,歸義向善,臧否粲然,可不察歟!良醫不能救無命,強梁不能與天爭,故天之所壞,人不得支。宜密與太守劉君共謀降議。仲尼棲棲,墨子遑遑,憂人之甚也。屠羊救楚,非要爵祿;茅焦幹秦,豈求報利?盡忠博愛之誠,憤懣不能已耳。

蘇竟はいう。「劉龔は、図讖を理解できるだろう。投降せよ」と。

又與仲況書諫之,文多不載,於是仲況與龔遂降。
龔字孟公,長安人,善論議,扶風馬援、班彪並器重之。竟終不伐其功,潛樂道術,作《記誨篇》及文章傳於世。年七十,卒於家。

蘇竟は、鄧仲況にも文書をあたえたが、ながいので『後漢書』にのせない。ここにおいて、鄧仲況と劉龔は、くだった。
劉龔は、あざなを孟公。長安の人。論議をよくす。扶風の馬援、班彪は、劉龔の器をおもんじた。蘇竟は、劉龔をくだした功績をほこらず。道術をたのしみ《記誨篇》らを記す。70歳で、卒於家。

『三輔決録注』はいう。ただ劉龔の議論に、見るべきものがあると。李賢はいう。班彪は、京兆丞の郭季通に文書をあたえた。「劉龔は、大器をかくす。心があつく、かたい。宗廟の宝である」と。
ぼくは思う。劉歆につらなる劉龔、馬援や班固の人脈は、光武からすこし独立して、不気味に影響力がおおきい。明帝や章帝のことを読めば、わかるのだろうが。また後日。


楊厚:祖父が公孫述の殉死した、図讖の家

楊厚字仲桓,廣漢新都人也。祖父春卿,善圖讖學,為公孫述將。漢兵平蜀,春卿自殺,臨命戒子統曰:「吾綈帙中有先祖所傳秘記,為漢家用,爾其修之。」統感父遺言,服闋,辭家從犍為周循學習先法,又就同郡鄭伯山受《河洛書》及天文推步之術。建初中為彭城令,一州大旱,統推陰陽消伏,縣界蒙澤。太守宗湛使統求為郡求雨,亦即降澍。自是朝廷災異,多以訪之。統作《家法章句》及《內讖》二卷角說,位至光祿大夫,為國三老。年九十卒。

楊厚は、あざなを仲桓。廣漢の新都の人。祖父の楊春卿は、圖讖學によい。公孫述の將となる。公孫述がほろび、春卿は自殺した。死にぎわ、楊春卿は、子の楊統にいましめた。「わたしのあつい絹袋に、祖先の秘文がある。後漢に役だつ」と。

『益部耆旧伝』はいう。楊統は、あざなを仲通。曾祖父の楊仲続は、河東郡の方正。祁県の県令。めぐみぶかい政治で、祠をたてられた。楊統は、益州の風俗をたのしみ、とどまって、新都に家をたてた。夏侯尚書をつたえた。
ぼくは思う。公孫述についたせいで、後漢への政権参加がおくれた豪族がいるという。東晋次氏が、書いていた。たとえば、この楊氏だろう。

楊統は、服闋し(喪があけ)、家をでて、犍為の周循にまなぶ。同郡の鄭伯山から、《河洛書》や天文推步之術をならう。
明帝の建初中、楊厚は彭城令、、以下、時代がくだるのではぶく。

つぎは『後漢書』列伝21。ちょっと世俗にもどってくる。ふぅ。110806
とりあえず、ここで区切ります。『全訳後漢書』がなくなった。