表紙 > ~後漢 > 『後漢書』列伝15,16,17,18,19,20を抄訳して、光武をしらべる

07) 申屠剛、鮑永、郅惲

『後漢書』列伝19・申屠剛、鮑永、郅惲伝
渡邉義浩主編『全訳後漢書』をつかいながら、抄訳します。

申屠剛1:ああ

申屠剛字巨卿,扶風茂陵人也。七世祖嘉,文帝時為丞相。剛質性方直,常慕史、汲黯之為人。仕郡功曹。 平帝時,王莽專政,朝多猜忌,遂隔絕帝外家馮、衛二族,不得交宦,剛常疾之。及舉賢良方正,因對策曰:

申屠剛は、あざなを巨卿。扶風の茂陵の人。七世祖の申屠嘉は、文帝のとき丞相となる。

『史記』張丞相伝。申屠嘉は、梁の人。高帝にしたがい、項羽とたたかう。文帝のとき、御史大夫、丞相。文帝の寵臣・鄧通を批判した。景帝のとき、チョウソを批判した。

申屠剛の質性は、方直。つねに史ユウ、汲黯の人となりを、したう。郡の功曹。

『史記』はいう。史ユウは、孔子の弟子。「直だな」と評価された。汲黯は『漢書』汲黯伝。武帝に直諫した。「汲直」とよばれた。
渡邉注はいう。功曹は、功曹従事のこと。郡の属吏のうち、地位がたかい。郡を代表する豪族から選ばれる。渡邉義浩「支配」にあり。

平帝のとき、王莽は專政した。王莽は、馮氏(平帝の祖母)、衛氏(平帝の母)の2族をとおざけた。2族を、官僚からでだてた。申屠剛は賢良方正にあがり、王莽に対策した。

馮氏と衛氏は、『漢書』外戚伝。ぼくは思う。申屠剛は、王莽にまで、意見しちゃうんだ。さすが、直諫。こんな人材を、光武はつかいこなせるのか。


臣聞王事失則神祇怨怨,奸邪亂正,故陰陽謬錯,此天所以譴告王者,欲令失道之君,曠然覺悟,懷邪之臣,懼然自刻者也。今朝廷不考功校德,而虛納毀譽,數下詔書,張設重法,抑斷誹謗,禁割論議,罪之重者,乃至腰斬。傷忠臣之情,挫直士之銳,殆乖建進善之旌,縣敢諫之鼓,辟四門之路,明四目之義也。
臣聞成王幼少,周公攝政,聽言不賢,均權市寵,無舊無新,唯仁是親,動順天地,舉措不失。然近則召公不悅,遠則四國流言。夫子母之性,天道至親。今聖主幼少,始免繈褓,即位以來,至親分離,外戚杜隔,恩不得通。且漢家之制,雖任英賢,猶援姻戚。親疏相錯,杜塞間隙,誠所以安宗廟,重社稷也。今馮、衛無罪,久廢不錄,或處窮僻,不若民庶,誠非慈愛忠孝承上之意。夫為人後者,自有正義,至尊至卑,其勢不嫌,是以人無賢愚,莫不為怨,奸臣賊子,以之為便,不諱之變,誠難其慮。今之保傅,非古之周公。周公至聖,猶尚有累,何況事失其衷,不合天心者哉!
昔周公先遣伯禽守封于魯,以義寒恩,寵不加後,故配天郊祀,三十餘世。霍光秉政,輔翼少主,修善進士,名為忠直,而尊崇其宗黨,摧抑外戚,結貴據權,至堅至固,終沒之後,受禍滅門。方今師傅皆以伊、周之位,據賢保之任,以此思化,則功何不至?不思其危,則禍何不到?損益之際,孔父攸歎,持滿之戒,老氏所慎。蓋功冠天下者不安,威震人主者不全。今承衰亂之後,繼重敝之世,公家屈竭,賦斂重數,苛吏奪其時,貪夫侵其財,百姓困乏,疾疫夭命。盜賊群輩,且以萬數,軍行眾止,竊號自立,攻犯京師,燔燒縣邑,至乃訛言積弩入宮,宿衛驚懼。自漢興以來,誠未有也。國家微弱,奸謀不禁,六極之效,危於累卵。王者承天順地,典爵主刑,不敢以天官私其宗,不敢以天罰輕其親。陛下宜遂聖明之德,昭然覺悟,遠述帝王之跡,近遵孝文之業,差五品之屬,納至親之序,亟遣使者征中山太后,置之別官,令時朝見。又召馮、衛二族,裁與冗職,使得執戟,親奉宿衛,以防未然之符,以抑患禍之端,上安社稷,下全保傅,內和親戚,外絕邪謀。

申屠剛は王莽にいう。「政治がみだれれば、天地がみだれる。直言の口をふさぐな。むかし周成王がおさなく、周公が政務を代行した。いま平帝はおさない。外戚に、政務をまかせよ。王莽が独占すると、霍光のように、族殺される」と。

ぼくは思う。王莽に、周公の故事をもちだして、議論をいどむとは。キモが、すわっているなあ!霍光を、わるい事例としてひくのは、めずらしいかも。


書奏,莽令元後下詔曰:「剛聽言僻經妄說,違背大義。其罷歸田裏。」後莽篡位,剛遂避地河西,轉入巴、蜀,往來二十許年。

王莽は元后に詔させた。「申屠剛は、田里にかえれ」と。王莽が簒奪すると、申屠剛は河西ににげた。巴蜀にゆき、20年ばかり、うろうろ。

ぼくは思う。この20年が、新室の期間。野の遺賢、というやつ。


申屠剛2:

及隗囂據隴右,欲背漢而附公孫述。剛說之曰:「愚聞人所歸者天所與,人所畔者天所去也。伏念本朝躬聖德,舉義兵,龔行天罰,所當必摧,誠天之所福,非人力也。將軍本無尺土,孤立一隅,宜推誠奉順,與朝並力,上應天心,下酬人望,為國立功,可以永年。嫌疑之事,聖人所絕。以將軍之威重,遠在千里,動作舉措,可不慎與?今璽書數到,委國歸信,欲與將軍共同吉凶。布衣相與,尚有沒身不負然諾之信,況于萬乘者哉!今何畏何利,久疑如是?卒有非常之變,上負忠孝,下愧當世。夫未至豫言,固常為虛,及其已至,又無所及,是以忠言至諫,希得為用。誠願反復愚老之言。」囂不納,遂畔從述。

隗囂が隴右により、光武にそむき、公孫述につきたい。申屠剛は隗囂にいう。「天命は光武にある。公孫述につくな」と。隗囂は、申屠剛をいれず。

建武七年,詔書征剛。剛將歸,與囂書曰:「愚聞專己者孤,拒諫者塞,孤塞之政,亡國之風也。雖有明聖之姿,猶屈己從眾,故慮無遺策,舉無過事。夫聖人不以獨見為明,而以萬物為心。順人者昌,逆人者亡,此古今之所共也。將軍以布衣為鄉里所推,廊廟之計,既不豫定,動軍發眾,又不深料。今東方政教日睦,百姓平安,而西州發兵,人人憂憂,騷動惶懼,莫敢正言,群眾疑惑,人懷顧望。非徒無精銳之心,其患無所不至。夫物窮則變生,事急則計易,其勢然也。夫離道德,逆人情,而能有國有家者,古今未有也。將軍素以忠孝顯聞,是以士大夫不遠千里,慕樂德義。今苟欲決意徼幸,此何如哉?夫天所祐者順,人所助者信。如未蒙祐助,令小人受塗地之禍,毀壞終身之德,敗亂君臣之節,汙傷父子之恩,眾賢破膽,可不慎哉!」囂不納。剛到,拜侍御史,遷尚書令。

建武七年、光武は申屠剛を徴した。わかれぎわ隗囂に「私の直言を聞き、光武につけ」という。隗囂はきかず。申屠剛は、光武の侍御史、尚書令。

渡邉注はいう。建武七年(031)は、隗囂が公孫述にくだったあとだ。建武六年(030)とすべきだ。
ぼくは思う。ひどく、はぶいていますが。ほかの本紀や列伝で読んだことを、ふたたび文書にまとめて、編集しているだけだ。前巻の列伝、桓譚と馮衍は、はぶくことに、ちょっと罪悪感があった。しかし申屠剛については、目新しいことが、ほとんどない。はぶける。


光武嘗欲出遊,剛以隴蜀未平,不宜宴安逸豫。諫不見聽,遂以頭軔乘輿輪,帝遂為止。
時內外群官,多帝自選舉,加以法理嚴察,職事過苦,尚書近臣,乃至捶撲牽曳於前,群臣莫敢正言。剛每輒極諫,又數言皇太子宜時就東宮,簡任賢保,以成其德,帝並不納。以數切諫失旨,數年,出為平陰令。複征拜太中大夫,以病去官,卒於家。

光武が出遊すると、「隴蜀が未平なので、あそぶな」といい、車輪にアタマを入れて、いさめた。光武は、出遊をやめた。
ときに內外の群官は、みずから光武が選舉した。群官にたいし、法理は嚴察にくわえれた。職事は過苦だ。尚書の近臣が、光武の前で捶撲・牽曳されても、群臣は正言しない。申屠剛は、これを極諫したが、入れられず。数年して、平陰令に左遷された。太中大夫。病去官、卒於家。

ぼくは思う。光武は、暴君だなあ!典型的な中央集権。もともと皇帝は、人事権も裁判権も、すべて持っている。だが親政して、これを振りまわすかどうかは、別の問題。光武は、振りまわした。
光武は、功臣と談笑する、なごやかなイメージがある。これは、功臣にだけ、見せる顔。内政は、キツいのだ。光武は功臣を、高位につけなかった。高位につけたら、功臣にまで、この厳格な職務体系に、まきこむことになる。だから避けた。
王莽といい、公孫述といい、光武といい。学問があり、職務の細かなところまで、意識が行きとどく。前漢によって、熟成された風土のもとでは、こういう君主が、出やすいのかも知れない。高級な事務官みたいな人。隗囂も、文飾を競ってた。


鮑永1:

鮑永字君長,上黨屯留人也。父宣,哀帝時任司隸校尉,為王莽所殺。永少有志操,習歐陽《尚書》。事後母至孝,妻嘗于母前叱狗,而永即去之。

鮑永は、あざなを君長。上黨の屯留の人。父の鮑宣は、哀帝の司隸校尉で、王莽に殺された。鮑永は、志操があり、歐陽『尚書』をならう。継母につかえた。妻が母の前でイヌをしかると、妻を去らせた。

李賢はいう。王莽は、自分につかない人を誅殺した。
ぼくは思う。イヌの件、妻は何がまずかったのか?


初為郡功曹。莽以宣不附己,欲不其子孫。都尉路平承望風旨,規欲害永。太守苟諫擁護,召以為吏,常置府中,永因數為諫陳興複漢室,剪滅篡逆之策。諫每戒永曰:「君長幾事不密,禍倚人門。」永感其言。及諫卒,自送喪歸扶風,路平遂收永弟升。太守趙興到,聞乃歎曰:「我受漢茅土,不能立節,而鮑宣死之,豈可害其子也!」敕縣出升,複署永功曹。時,有矯稱侍中止傳舍者,興欲謁之。永疑其詐,諫不聽而出,興遂駕往,永乃拔佩刀截馬當匈,乃止,後數日,莽詔書果下捕矯稱者,永由是知名。舉秀才,不應。

はじめ郡功曹。王莽は、鮑宣の子孫をほろぼしたい。上党都尉の路平は、鮑永をころしにくる。上党太守の苟諫は、鮑永をまもり、郡吏として府中におく。鮑永は苟諫に「王莽をたおし、漢室を復興せよ」という。苟諫は「口にだすな」という。苟諫がしぬと、棺を扶風におくった。
鮑永は、路平に弟を人質された。鮑永は「父は漢室に殉じたが、私は死ねない」と歎じて、新室の上党の功曹従事となる。あたらしい上党太守の趙興が、ニセ侍中と会うのをふせぎ、秀才にあげらる。おうじず。

鮑永2:更始の

更始二年征,再遷尚書僕射,行大將軍事,持節將兵,安集河東、並州、朔部,得自置偏裨,輒行軍法。永至河東,因擊青犢,大破之,更始封為中陽侯。永雖為將率,而車服敝素,為道路所識。

更始二年(024)、更始に徴され、尚書僕射,行大將軍事。持節して、河東、並州、朔部を安集した。みずから偏裨をおく。軍法をおこなう。河東で、青犢をやぶる。更始の中陽侯。將率するが、車服は敝素。道路に知らる。

『東観漢記』鮑永は、文教や学問をこのむ。将軍を代行したが、くろく短い着物をつける。行路で「鮑尚書兵馬」とよばれた。


時赤眉害更始,三輔道絕。光武即位,遣諫議大夫儲大伯,持節征永詣行在所。永疑不從,乃收系大伯,遣使馳至長安。既知更始已亡,乃發喪,出大伯等,封上將軍列侯印綬,悉罷兵,但幅巾與諸將及同心客百餘人詣河內。帝見永,問曰:「卿眾所在?」永離席叩頭曰:「臣事更始,不能令全,誠慚以其眾幸富貴,故悉罷之。」帝曰:「卿言大!」而意不悅。時攻懷未拔,帝謂永曰:「我攻懷三日而兵不下,關東畏服禦,可且將故人自往城下譬之。」即拜永諫議大夫。至懷,乃說更始河內太守,於是開城而降。帝大喜,賜永洛陽商裏宅,固辭不受。

赤眉が更始をころした。三輔は道絕。光武は、諫議大夫の儲大伯に持節させ、鮑永を徴す。鮑永は、儲大伯をしばり、使者を長安にゆかす。更始の死を確認し、儲大伯をほどく。上將軍・列侯の印綬をかえし、兵をとき、平装で河内へゆく。

『東観漢記』はいう。鮑永は、儲大伯のもつ節を、晋陽の伝舎のカベに、ふさいだ。長安に使者をだした。ぼくは思う。鮑永は、更始の死を信じず、光武がつぎのリーダーとも信じなかった。光武の天下統一=更始の後継者となること。なのです。
渡邉注はいう。『後漢書』岑彭伝によると、更始の河内太守は、韓歆だ。

光武は鮑永に「鮑永の兵はどこか」と聞く。鮑永は叩頭し「更始を、救えなかった。更始の兵をつかい、光武に優遇されたくない」という。光武は「河内の懐県をくだせ」といい、諌議太傅とする。 鮑永は、更始の河内太守を説いて、くだした。光武は、洛陽に邸宅をあたえた。鮑永は、うけず。

『東観漢記』鮑永が懐県をくだすと、光武はよろこんだ。鮑永と、むきあって食事した。ぼくは思う。光武は、利益のある人は、これ見よがしに、厚遇する。鮑永も、その1つだ。


時,董憲裨將屯兵于魯,侵害百姓,乃拜永為魯郡太守。永到,擊討,大破之,降者數千人。唯別帥彭豐、虞休、皮常等各千餘人,稱「將軍」,不脹下。頃之,孔子闕裏無故荊棘自除,從講堂至於裏門。永異之,謂府丞及魯令曰:「方今危急而闕裏自開,斯豈夫子欲令太守行禮,助吾誅無道邪?」乃會人眾,修鄉射之禮,請豐等共會觀視,欲因此禽之。豐等亦欲圖永,乃持牛酒勞饗,而潛挾兵器。永覺之,手格殺豐等,禽破黨與。帝嘉其略,封為關內侯,遷楊州牧。時南土尚多寇暴,永以吏人痍傷之後,乃緩其銜轡,示誅強橫而鎮撫其餘,百姓安之。會遭母憂,去官,悉以財產與孤弟子。

ときの董憲の裨將は、魯国にいる。鮑永は、魯郡太守。董憲の裨将をくだす。別帥の彭豐は、くだらず。このころ孔子の闕裏で、おのずと荊棘がきえた。講堂から裏門がとおれる。鮑永は、魯郡丞や魯県令に「孔子に歓迎された」といい、鄉射之禮をやる。この儀礼に、彭豐がきた。鮑永は、彭豐をなぐり殺した。関内侯、揚州牧。揚州をやすんず。

渡邉注はいう。郷射は『儀礼』にある。はぶく。
ぼくは思う。光武は「其の略を嘉し」たらしい。まるで鮑永が、孔子さまを、ただの計略のダシにつかったような言い方。光武は、ひたすら実利をとうとぶからなあ。でないと、天下なんて統一できない。


鮑永3:光武にさからい、韓歆を弁護する

建武十一年,征為司隸校尉。帝叔父趙王良尊戚貴重,永以事劾良大不敬,由是朝廷肅然,莫不戒慎。乃辟扶風鮑恢為都官從事,恢亦抗直不避強禦。帝常曰:「貴戚且宜斂手,以避二鮑。」其見憚如此。
永行縣到霸陵,路經更始墓,引車入陌,從事諫止之。永曰:「親北面事人,寧有過墓不拜!雖以獲罪,司隸所不避也。」遂下拜,哭盡哀而去。西至扶風,椎牛上苟諫塚。帝聞之,意不平,問公卿曰:「奉使如此何如?」太中大夫張湛對曰:「仁者行之宗,忠者義之主也。仁不遺舊,忠不忘君,行之高者也。」帝意乃釋。

建武十一年(035)、司隸校尉。光武の叔父・趙王の劉良を、鮑永は「劉良は大不敬」ととがむ。朝廷は肅然とす。扶風の鮑恢をめして、都官從事とす。鮑恢は抗直で、強禦をさけず。光武は「貴戚は手をおさめ、二鮑をさけねば」という。鮑永は、はばかられた。

『東観漢記』はいう。このとき劉良は、中郎将・来歙の死体をおくり、五官中郎将(右中郎将の張邯)と道路で、ぶつかる。道をゆずらず。鮑永はいう「皇族が、公の役人をどやすとは、大不敬です」と。
ぼくは思う。光武は、王莽の時代を知る儒者に、掣肘されるなあ!

鮑永は覇陵にゆき、更始の墓にまいった。従事がとめたが、鮑永は「私は更始につかえた。罪をうけても、更始にまいる」と哀悼した。扶風で、牛をつぶし苟諫にそなえた。光武は、つまらない。公卿に「鮑永は、後漢の公務で、なぜ墓まいりするか」ときいた。太中大夫の張湛は「仁者だから」と説明した。

後大司徒韓歆坐事,永固請之不得,以此忤帝意,出為東海相。坐度田事不實,被征,諸郡守多下獄。永至成皋,詔書逆拜為兗州牧,便道之官。視事三年,病卒。子昱。
論曰:鮑永守義於故主,斯可以事新主矣。恥以其眾受寵,斯可以受大寵矣。若乃言之者雖誠,而聞之未譬,豈苟進之悅,易以情納,持正之忤,難以理求乎?誠能釋利以循道,居方以從義,君子之概也。

大司徒の韓歆が坐事した。かたく鮑永が、韓歆を弁護し、東海相となる。

ぼくは思う。韓歆は、鮑永が説得した、懐県にいた河内太守だ。とちゅうで光武にしたがった、もと更始の人たちは、風あたりがキツい。西晋で、孫呉の人が、出世できなかったことに通じる。

度田が不實なので、おおくの郡守が下獄された。鮑永は成皋にきて、ぎゃくに兗州牧となる。帰任のあしで、兗州へゆく。3年後、病没。子は、鮑昱。
范曄の論はいう。鮑永は、更始の兵をつれず、光武についた。鮑永が、ウソついて、へつらえば、光武に重んじられただろう。鮑永は、へつらわず、光武とぶつかった。

昱字文泉。少傳父學,客授于東平。建武初,太行山中有劇賊,太守戴涉聞昱鮑永子,有智略,乃就謁,請署守高都長,昱應之,遂討擊群賊,誅其渠帥,道路開通,由是知名。後為沘陽長,政化仁愛,境內清淨。

鮑昱は、あざなを文泉。父・鮑永の学問をつたえる。東平で客授した。建武初、太行山中に劇賊がいた。太守の戴涉は、鮑昱を謁して、高都(上党)長を代行させた。劇賊をやぶった。沘陽長となり、政化は仁愛、境內は清淨。

『東観漢記』はいう。沘陽の趙堅は、殺人して下獄された。父母にたのまれ、監獄に妻をいれた。妊娠して、子孫をのこすことができた。

荊州牧に推挙され、、以下、時代がくだるので、はぶく。

郅惲1:

郅惲字君章,汝南西平人也。年十二失母,居喪過禮。及長,理《韓詩》、《嚴氏春秋》,明天文歷數。
王莽時,寇賊群發,惲乃仰占玄象,歎謂友人曰:「方今鎮、歲、熒惑並在漢分翼、軫之域,去而複來,漢必再受命,福歸有德。如有順天發策者,必成大功。」時左隊大夫逯B228素好士,惲說之曰:「當今上天垂象,智者以昌,愚者以亡。昔伊尹自鬻輔商,立功全人。惲竊不遜,敢希伊尹之蹤,應天人之變。明府儻不疑逆,俾成天德。」B228奇之,使署為吏。惲不謁,曰:「昔文王拔呂尚於渭濱,高宗禮傅說於岩築,桓公取管仲於射鉤,故能立弘烈,就元勳。未聞師相仲父,而可為吏位也。非窺天者不可與圖遠。君不授驥以重任,驥亦俯首裹足而去耳。」遂不受署。

郅惲は、あざなを君章。汝南の西平の人。年12で失母、居喪は過禮。『韓(韓嬰)詩』『嚴氏春秋』天文・歷數にあかるい。
王莽のとき、郅惲は天文をみて「王莽がほろび、漢室がもどる」という。王莽の左隊大夫の逯ヘイは、郅惲が「私は伊尹になりたい」というのを聞き、署して吏とする。郅惲は「私は伊尹になりたい。たかが吏になれるか」と言い、うけず。

西至長安,乃上書王莽曰:
臣聞天地重其人,惜其物,故運機衡,垂日月,含元包一,甄陶品類,顯表紀世,圖錄豫設。漢曆久長,孔為赤制,不使愚惑,殘人亂時。智者順以成德,愚者逆以取害,神器有命,不可虛獲。上天垂戒,欲悟陛下,令就臣位,轉禍為福。劉氏享天永命,陛下順節盛衰,取之以天,還之以天,可謂知命矣。若不早圖,是不免於竊位也。且堯、舜不以天顯自與,故禪天下,陛下何貪非天顯以自累也?天為陛下嚴父,臣為陛下孝子。父教不可廢,子諫不可拒,惟陛下留神。
莽大怒,即收系詔獄,劾以大逆。猶以惲據經讖,難即害之,使黃門近臣脅惲,令自告狂病恍忽,不覺所言。惲乃瞋目詈曰:「所陳皆天文聖意,非狂人所能造。」遂系須冬,會赦得出,乃與同郡鄭敬南遁蒼梧。

長安で、郅惲は王莽に上書した。 「漢室の暦数はながい。孔子は赤制をつくり、愚者が天子をぬすまぬようにした。王莽が、漢室に天子をかえせ」と。
王莽は詔獄につなぐが、郅惲の知識をおしんだ。郅惲に「さきの上書は、気がくるって書いた」と自白させたい。郅惲は「天意を、くるって書けるはずがない」と、ことわる。大赦。郅惲は、同郡の鄭敬と、蒼梧ににげた。

ぼくは思う。渡邉注によると、王莽の政権の正統性を、讖緯について、郅惲がゴチャゴチャいう。論文を読まないと、いきなりこれを読んでも、きびしいだろうなあ。禅譲がおわったあと、王莽に正面から「漢新革命はウソだ」と言う人がいるとは、知らなかった。


郅惲2:

建武三年,又至廬江,因遇積弩將軍傅俊東徇揚州。俊素聞惲名,乃禮請之,上為將兵長史,授以軍政。惲乃誓眾曰:「無掩人不備,窮人于厄,不得斷人支體,裸人形骸,放淫婦女。」俊軍士猶發塚陳屍,掠奪百姓。惲諫俊曰:「昔文王不忍露白骨,武王不以天下易一人之命,故能獲天地之應,克商如林之旅。將軍如何不師法文王,而犯逆天地之禁,多傷人害物,虐及枯屍,取罪神明?今不謝天改政,無以全命。願將軍親率士卒,收傷葬死,哭所殘暴,以明非將軍本意也。」從之,百姓悅服,所向皆下。

建武三年(027)、郅惲は廬江にいる。積弩將軍(馮愔もつく)の傅俊(列伝12)が、揚州をとなえる。傅俊は郅惲をまねき、將兵長史とし、軍政をさずく。

渡邉注はいう。将兵長史は、官名。将軍府の幕僚のトップ。将軍ではなく、長史が軍隊を指揮するとき、将兵長史とよぶ。『後漢書』和帝紀の注釈。知らなかった。

郅惲は、傅俊の軍が、残虐や掠奪や姦淫することを、いましめた。

ぼくは思う。光武の傅俊軍、ふつうにダメじゃん。光武だけじゃ新興勢力で、おさえが利かない。王莽の時代から、官界にいた人がくわわって、はじめて治まる。豪族もついてくる。支配の原理なのだろう。


七年,俊還京師,而上論之。惲恥以軍功取位,遂辭歸鄉里。縣令卑身崇禮,請以為門下掾。惲友人董子張者,父先為鄉人所害。及子張病,將終,惲往候之。子張垂歿,視惲,歔欷不能言。惲曰:「吾知子不悲天命,而痛仇不復也。子在,吾憂而不手;子亡,吾手而不憂也。」子張但目擊而已。惲即起,將客遮仇人,取其頭以示子張。子張見而氣絕。惲因而詣縣,以狀自首。令應之遲,惲曰:「為友報仇,吏之私也。奉法不阿,君之義也。虧君以生,非臣節也。」趨出就獄。令跣而追惲,不及,遂自至獄,令拔刃自向以要惲曰:「子不從我出,敢以死明心。」惲得此乃出,因病去。

七年(031)、京師にもどるが、官位をうけず帰郷。縣令は、門下掾としたいが、郅惲はうけず。友人の董子張は、死にぎわに「父を報仇できない、無念だ」と泣いた。郅惲は、仇敵のクビをとってきて、転がした。県令は、郅惲を罪せず。県をさる。

郅惲3:汝南の人事評価で、太守の歐陽歙に反論

久之,太守歐陽歙請為功曹。汝南舊俗,十月饗會,百里內縣皆齎牛酒到府宴飲。時臨饗禮訖,歙教曰:「西部督郵繇延,天資忠貞,稟性公方,摧破奸凶,不嚴而理。今與眾儒共論延功,顯之於朝。太守敬嘉厥休,牛酒養德。」主簿讀教,戶曹引延受賜。惲於下坐愀然前曰:「司正舉觥,以君之罪,告謝於天。案延資性貪邪,外方內員,朋黨構奸,罔上害人,所在荒亂,怨慝並作。明府以惡為善,股肱以直從曲,此既無君,又複無臣,惲敢再拜奉觥。」歙色慚動,不知所言。門下掾鄭敬進曰:「君明臣直,功曹言切,明府德也。可無受觥哉?」歙意少解,曰:「實歙罪也,敬奉觥。」惲乃免寇謝曰:「昔虞舜輔堯,四罪鹹服,讒言弗庸,孔任不行,故能作股肱,帝用有歌。惲不忠,孔任是昭,豺虎從政,既陷誹謗,又露所言,罪莫重焉。請收惲、延,以明好惡。」歙曰:「是重吾過也。」遂不宴而罷。惲歸府,稱病,延亦自退。

汝南太守の歐陽歙に請われ、功曹従事となる。汝南の旧賊では、10月に人材を評価する。西部督郵の繇延の評価について、郅惲が歐陽歙に、さからった。門下掾の鄭敬が、とりなす。郅惲は、病として退いた。

ぼくは思う。これです。渡邉義浩先生の本で「名士」の人材評価の事例としてあげられる。べつの人が「光武帝紀の事例をもちだしても、時代がちがいすぎる」と、ブッた切る。


鄭敬素與惲厚,見其言許歙,乃相招去,曰:「子廷爭繇延,君猶不納。延今雖去,其勢必還。直心無諱,誠三代之道。然道不同者不相為謀,吾不能忍見子有不容君之危,盍去之乎!」惲曰:「孟軻以強其君之所不能為忠,量其君之所不能為賊。惲業已強之矣。障君於朝,既有其直,而不死職,罪也。延退而惲又去,不可。」敬乃獨隱于弋陽山中,居數月,歙果複召延,惲於是乃去,從敬止,漁釣自娛,留數十日。惲志在從政,既乃喟然而歎,謂敬曰:「天生俊士,以為人也。鳥獸不可與同群,子從我為伊、呂乎?將為巢、許,而父老堯、舜乎?」敬曰:「吾足矣。初從生步重華于南野,謂來歸為松子,今幸得全軀樹類,還奉墳墓,盡學問道,雖不從政,施之有政,是亦為政也。吾年耄矣,安得從子?子勉正性命,勿勞神以害生。」惲於是告別而去。敬字次都,清志高世,光武連征不到。

鄭敬は、ふだん郅惲と仲がよい。繇延の扱いについて、ケンカ別れした。鄭敬は、あざなを次都。光武が連徴したが、いたらず。

ぼくは思う。歐陽歙、繇延、鄭敬のあいだで、モメてます。『全訳後漢書』670頁。


郅惲4:

惲遂客居江夏教授,郡舉孝廉,為上東城門候。帝嘗出獵,車駕夜還,惲拒關不開。帝令從者見面於門間。惲曰:「火明遼遠」。遂不受詔。帝乃回從東中門入。明日,惲上書諫曰:「昔文王不敢槃于游田,以萬人惟憂。而陛下遠獵山林,夜以繼晝,其于社稷宗廟何?暴虎馮河,未至之戒,誠小臣所竊憂也。」書奏,賜布百匹,貶東中門候為參封尉。

江夏に客居して、教授した。郡が孝廉にあげ、上東城門候。光武が狩猟すると、門をふさぎ、狩猟をいさめた。參封(瑯邪)の県尉に降格された。

後令惲授皇太子《韓詩》,侍講殿中。及郭皇后廢。惲乃言於帝曰:「臣聞夫婦之好,父不能得之於子,況臣能得之於君乎?是臣所不敢言。雖然,願陛下念其可否之計,無令天下有議社稷而已。」帝曰:「惲善恕己量主,知我必不有所左右而輕天也。」後既廢,而太子意不自安,惲乃說太子曰:「久處疑位,上違孝道,下近危殆。昔高宗明君,吉甫賢臣,及有纖介,放逐孝子。《春秋》之義,母以子貴。太子宜因左右及諸皇子引愆退身,奉養母氏,以明聖教,不背所生。」太子從之,帝竟聽許。

のち太子(劉彊)に『韓詩』をさずけ、殿中で侍講した。041年、郭皇后が廃された。郅惲は、廃太子に反対した。劉彊に教えて、皇太子を辞退させた。

ぼくは思う。劉彊の廃太子の事件は、前代からの重臣は、みな反対する。以前にも書いたが、孫権の二宮の変ににている。うるさい儒教官僚を、だまらせるのが目的?


惲再遷長沙太守。先是,長沙有孝子古初,遭父喪未葬,鄰人失火,初匍匐柩上,以身扞火,火為之滅。惲甄異之,以為首舉。後坐事左轉芒長,又免歸,避地教授,著書八篇。以病卒。子壽。 贊曰:鮑永沈吟,晚乃歸正。志達義全,先號後慶。申屠對策,郅惲上書。有道雖直,無道不愚。

郅惲は、長沙太守。長沙にいる古初は、父の死体にかぶさり、火災から守った。主席で察挙した。

ぼくは思う。火葬の手間がはぶけて、いいじゃねえか。というわけでない。加地伸行『沈黙の宗教-儒教』はいう。死体に祖先の魂を招き、再生させる。神主(位牌)は死体の代替品。死体は、魂をよぶために、保存しなければならない。だから土葬。日本人が、遺骨よりも位牌を大切にするのは、おなじ風潮だと。「地震のとき、位牌をもって逃げます」という現代日本人は、古初とおなじである。

のちに轉芒長に、左遷された。免官され、8冊かいた。子は郅壽。

郅惲の子・郅寿は、時代がくだるので、はぶく。


つぎは『後漢書』列伝20。光武より時代のくだる列伝がおおい。