07) 申屠剛、鮑永、郅惲
『後漢書』列伝19・申屠剛、鮑永、郅惲伝
渡邉義浩主編『全訳後漢書』をつかいながら、抄訳します。
申屠剛1:ああ
申屠剛は、あざなを巨卿。扶風の茂陵の人。七世祖の申屠嘉は、文帝のとき丞相となる。
申屠剛の質性は、方直。つねに史ユウ、汲黯の人となりを、したう。郡の功曹。
渡邉注はいう。功曹は、功曹従事のこと。郡の属吏のうち、地位がたかい。郡を代表する豪族から選ばれる。渡邉義浩「支配」にあり。
平帝のとき、王莽は專政した。王莽は、馮氏(平帝の祖母)、衛氏(平帝の母)の2族をとおざけた。2族を、官僚からでだてた。申屠剛は賢良方正にあがり、王莽に対策した。
臣聞成王幼少,周公攝政,聽言不賢,均權市寵,無舊無新,唯仁是親,動順天地,舉措不失。然近則召公不悅,遠則四國流言。夫子母之性,天道至親。今聖主幼少,始免繈褓,即位以來,至親分離,外戚杜隔,恩不得通。且漢家之制,雖任英賢,猶援姻戚。親疏相錯,杜塞間隙,誠所以安宗廟,重社稷也。今馮、衛無罪,久廢不錄,或處窮僻,不若民庶,誠非慈愛忠孝承上之意。夫為人後者,自有正義,至尊至卑,其勢不嫌,是以人無賢愚,莫不為怨,奸臣賊子,以之為便,不諱之變,誠難其慮。今之保傅,非古之周公。周公至聖,猶尚有累,何況事失其衷,不合天心者哉!
昔周公先遣伯禽守封于魯,以義寒恩,寵不加後,故配天郊祀,三十餘世。霍光秉政,輔翼少主,修善進士,名為忠直,而尊崇其宗黨,摧抑外戚,結貴據權,至堅至固,終沒之後,受禍滅門。方今師傅皆以伊、周之位,據賢保之任,以此思化,則功何不至?不思其危,則禍何不到?損益之際,孔父攸歎,持滿之戒,老氏所慎。蓋功冠天下者不安,威震人主者不全。今承衰亂之後,繼重敝之世,公家屈竭,賦斂重數,苛吏奪其時,貪夫侵其財,百姓困乏,疾疫夭命。盜賊群輩,且以萬數,軍行眾止,竊號自立,攻犯京師,燔燒縣邑,至乃訛言積弩入宮,宿衛驚懼。自漢興以來,誠未有也。國家微弱,奸謀不禁,六極之效,危於累卵。王者承天順地,典爵主刑,不敢以天官私其宗,不敢以天罰輕其親。陛下宜遂聖明之德,昭然覺悟,遠述帝王之跡,近遵孝文之業,差五品之屬,納至親之序,亟遣使者征中山太后,置之別官,令時朝見。又召馮、衛二族,裁與冗職,使得執戟,親奉宿衛,以防未然之符,以抑患禍之端,上安社稷,下全保傅,內和親戚,外絕邪謀。
申屠剛は王莽にいう。「政治がみだれれば、天地がみだれる。直言の口をふさぐな。むかし周成王がおさなく、周公が政務を代行した。いま平帝はおさない。外戚に、政務をまかせよ。王莽が独占すると、霍光のように、族殺される」と。
王莽は元后に詔させた。「申屠剛は、田里にかえれ」と。王莽が簒奪すると、申屠剛は河西ににげた。巴蜀にゆき、20年ばかり、うろうろ。
申屠剛2:
隗囂が隴右により、光武にそむき、公孫述につきたい。申屠剛は隗囂にいう。「天命は光武にある。公孫述につくな」と。隗囂は、申屠剛をいれず。
建武七年、光武は申屠剛を徴した。わかれぎわ隗囂に「私の直言を聞き、光武につけ」という。隗囂はきかず。申屠剛は、光武の侍御史、尚書令。
ぼくは思う。ひどく、はぶいていますが。ほかの本紀や列伝で読んだことを、ふたたび文書にまとめて、編集しているだけだ。前巻の列伝、桓譚と馮衍は、はぶくことに、ちょっと罪悪感があった。しかし申屠剛については、目新しいことが、ほとんどない。はぶける。
時內外群官,多帝自選舉,加以法理嚴察,職事過苦,尚書近臣,乃至捶撲牽曳於前,群臣莫敢正言。剛每輒極諫,又數言皇太子宜時就東宮,簡任賢保,以成其德,帝並不納。以數切諫失旨,數年,出為平陰令。複征拜太中大夫,以病去官,卒於家。
光武が出遊すると、「隴蜀が未平なので、あそぶな」といい、車輪にアタマを入れて、いさめた。光武は、出遊をやめた。
ときに內外の群官は、みずから光武が選舉した。群官にたいし、法理は嚴察にくわえれた。職事は過苦だ。尚書の近臣が、光武の前で捶撲・牽曳されても、群臣は正言しない。申屠剛は、これを極諫したが、入れられず。数年して、平陰令に左遷された。太中大夫。病去官、卒於家。
光武は、功臣と談笑する、なごやかなイメージがある。これは、功臣にだけ、見せる顔。内政は、キツいのだ。光武は功臣を、高位につけなかった。高位につけたら、功臣にまで、この厳格な職務体系に、まきこむことになる。だから避けた。
王莽といい、公孫述といい、光武といい。学問があり、職務の細かなところまで、意識が行きとどく。前漢によって、熟成された風土のもとでは、こういう君主が、出やすいのかも知れない。高級な事務官みたいな人。隗囂も、文飾を競ってた。
鮑永1:
鮑永は、あざなを君長。上黨の屯留の人。父の鮑宣は、哀帝の司隸校尉で、王莽に殺された。鮑永は、志操があり、歐陽『尚書』をならう。継母につかえた。妻が母の前でイヌをしかると、妻を去らせた。
ぼくは思う。イヌの件、妻は何がまずかったのか?
はじめ郡功曹。王莽は、鮑宣の子孫をほろぼしたい。上党都尉の路平は、鮑永をころしにくる。上党太守の苟諫は、鮑永をまもり、郡吏として府中におく。鮑永は苟諫に「王莽をたおし、漢室を復興せよ」という。苟諫は「口にだすな」という。苟諫がしぬと、棺を扶風におくった。
鮑永は、路平に弟を人質された。鮑永は「父は漢室に殉じたが、私は死ねない」と歎じて、新室の上党の功曹従事となる。あたらしい上党太守の趙興が、ニセ侍中と会うのをふせぎ、秀才にあげらる。おうじず。
鮑永2:更始の
更始二年(024)、更始に徴され、尚書僕射,行大將軍事。持節して、河東、並州、朔部を安集した。みずから偏裨をおく。軍法をおこなう。河東で、青犢をやぶる。更始の中陽侯。將率するが、車服は敝素。道路に知らる。
赤眉が更始をころした。三輔は道絕。光武は、諫議大夫の儲大伯に持節させ、鮑永を徴す。鮑永は、儲大伯をしばり、使者を長安にゆかす。更始の死を確認し、儲大伯をほどく。上將軍・列侯の印綬をかえし、兵をとき、平装で河内へゆく。
渡邉注はいう。『後漢書』岑彭伝によると、更始の河内太守は、韓歆だ。
光武は鮑永に「鮑永の兵はどこか」と聞く。鮑永は叩頭し「更始を、救えなかった。更始の兵をつかい、光武に優遇されたくない」という。光武は「河内の懐県をくだせ」といい、諌議太傅とする。
鮑永は、更始の河内太守を説いて、くだした。光武は、洛陽に邸宅をあたえた。鮑永は、うけず。
ときの董憲の裨將は、魯国にいる。鮑永は、魯郡太守。董憲の裨将をくだす。別帥の彭豐は、くだらず。このころ孔子の闕裏で、おのずと荊棘がきえた。講堂から裏門がとおれる。鮑永は、魯郡丞や魯県令に「孔子に歓迎された」といい、鄉射之禮をやる。この儀礼に、彭豐がきた。鮑永は、彭豐をなぐり殺した。関内侯、揚州牧。揚州をやすんず。
ぼくは思う。光武は「其の略を嘉し」たらしい。まるで鮑永が、孔子さまを、ただの計略のダシにつかったような言い方。光武は、ひたすら実利をとうとぶからなあ。でないと、天下なんて統一できない。
鮑永3:光武にさからい、韓歆を弁護する
永行縣到霸陵,路經更始墓,引車入陌,從事諫止之。永曰:「親北面事人,寧有過墓不拜!雖以獲罪,司隸所不避也。」遂下拜,哭盡哀而去。西至扶風,椎牛上苟諫塚。帝聞之,意不平,問公卿曰:「奉使如此何如?」太中大夫張湛對曰:「仁者行之宗,忠者義之主也。仁不遺舊,忠不忘君,行之高者也。」帝意乃釋。
建武十一年(035)、司隸校尉。光武の叔父・趙王の劉良を、鮑永は「劉良は大不敬」ととがむ。朝廷は肅然とす。扶風の鮑恢をめして、都官從事とす。鮑恢は抗直で、強禦をさけず。光武は「貴戚は手をおさめ、二鮑をさけねば」という。鮑永は、はばかられた。
ぼくは思う。光武は、王莽の時代を知る儒者に、掣肘されるなあ!
鮑永は覇陵にゆき、更始の墓にまいった。従事がとめたが、鮑永は「私は更始につかえた。罪をうけても、更始にまいる」と哀悼した。扶風で、牛をつぶし苟諫にそなえた。光武は、つまらない。公卿に「鮑永は、後漢の公務で、なぜ墓まいりするか」ときいた。太中大夫の張湛は「仁者だから」と説明した。
論曰:鮑永守義於故主,斯可以事新主矣。恥以其眾受寵,斯可以受大寵矣。若乃言之者雖誠,而聞之未譬,豈苟進之悅,易以情納,持正之忤,難以理求乎?誠能釋利以循道,居方以從義,君子之概也。
大司徒の韓歆が坐事した。かたく鮑永が、韓歆を弁護し、東海相となる。
度田が不實なので、おおくの郡守が下獄された。鮑永は成皋にきて、ぎゃくに兗州牧となる。帰任のあしで、兗州へゆく。3年後、病没。子は、鮑昱。
范曄の論はいう。鮑永は、更始の兵をつれず、光武についた。鮑永が、ウソついて、へつらえば、光武に重んじられただろう。鮑永は、へつらわず、光武とぶつかった。
鮑昱は、あざなを文泉。父・鮑永の学問をつたえる。東平で客授した。建武初、太行山中に劇賊がいた。太守の戴涉は、鮑昱を謁して、高都(上党)長を代行させた。劇賊をやぶった。沘陽長となり、政化は仁愛、境內は清淨。
荊州牧に推挙され、、以下、時代がくだるので、はぶく。
郅惲1:
王莽時,寇賊群發,惲乃仰占玄象,歎謂友人曰:「方今鎮、歲、熒惑並在漢分翼、軫之域,去而複來,漢必再受命,福歸有德。如有順天發策者,必成大功。」時左隊大夫逯B228素好士,惲說之曰:「當今上天垂象,智者以昌,愚者以亡。昔伊尹自鬻輔商,立功全人。惲竊不遜,敢希伊尹之蹤,應天人之變。明府儻不疑逆,俾成天德。」B228奇之,使署為吏。惲不謁,曰:「昔文王拔呂尚於渭濱,高宗禮傅說於岩築,桓公取管仲於射鉤,故能立弘烈,就元勳。未聞師相仲父,而可為吏位也。非窺天者不可與圖遠。君不授驥以重任,驥亦俯首裹足而去耳。」遂不受署。
郅惲は、あざなを君章。汝南の西平の人。年12で失母、居喪は過禮。『韓(韓嬰)詩』『嚴氏春秋』天文・歷數にあかるい。
王莽のとき、郅惲は天文をみて「王莽がほろび、漢室がもどる」という。王莽の左隊大夫の逯ヘイは、郅惲が「私は伊尹になりたい」というのを聞き、署して吏とする。郅惲は「私は伊尹になりたい。たかが吏になれるか」と言い、うけず。
臣聞天地重其人,惜其物,故運機衡,垂日月,含元包一,甄陶品類,顯表紀世,圖錄豫設。漢曆久長,孔為赤制,不使愚惑,殘人亂時。智者順以成德,愚者逆以取害,神器有命,不可虛獲。上天垂戒,欲悟陛下,令就臣位,轉禍為福。劉氏享天永命,陛下順節盛衰,取之以天,還之以天,可謂知命矣。若不早圖,是不免於竊位也。且堯、舜不以天顯自與,故禪天下,陛下何貪非天顯以自累也?天為陛下嚴父,臣為陛下孝子。父教不可廢,子諫不可拒,惟陛下留神。
莽大怒,即收系詔獄,劾以大逆。猶以惲據經讖,難即害之,使黃門近臣脅惲,令自告狂病恍忽,不覺所言。惲乃瞋目詈曰:「所陳皆天文聖意,非狂人所能造。」遂系須冬,會赦得出,乃與同郡鄭敬南遁蒼梧。
長安で、郅惲は王莽に上書した。
「漢室の暦数はながい。孔子は赤制をつくり、愚者が天子をぬすまぬようにした。王莽が、漢室に天子をかえせ」と。
王莽は詔獄につなぐが、郅惲の知識をおしんだ。郅惲に「さきの上書は、気がくるって書いた」と自白させたい。郅惲は「天意を、くるって書けるはずがない」と、ことわる。大赦。郅惲は、同郡の鄭敬と、蒼梧ににげた。
郅惲2:
建武三年(027)、郅惲は廬江にいる。積弩將軍(馮愔もつく)の傅俊(列伝12)が、揚州をとなえる。傅俊は郅惲をまねき、將兵長史とし、軍政をさずく。
郅惲は、傅俊の軍が、残虐や掠奪や姦淫することを、いましめた。
七年(031)、京師にもどるが、官位をうけず帰郷。縣令は、門下掾としたいが、郅惲はうけず。友人の董子張は、死にぎわに「父を報仇できない、無念だ」と泣いた。郅惲は、仇敵のクビをとってきて、転がした。県令は、郅惲を罪せず。県をさる。
郅惲3:汝南の人事評価で、太守の歐陽歙に反論
汝南太守の歐陽歙に請われ、功曹従事となる。汝南の旧賊では、10月に人材を評価する。西部督郵の繇延の評価について、郅惲が歐陽歙に、さからった。門下掾の鄭敬が、とりなす。郅惲は、病として退いた。
鄭敬は、ふだん郅惲と仲がよい。繇延の扱いについて、ケンカ別れした。鄭敬は、あざなを次都。光武が連徴したが、いたらず。
郅惲4:
江夏に客居して、教授した。郡が孝廉にあげ、上東城門候。光武が狩猟すると、門をふさぎ、狩猟をいさめた。參封(瑯邪)の県尉に降格された。
のち太子(劉彊)に『韓詩』をさずけ、殿中で侍講した。041年、郭皇后が廃された。郅惲は、廃太子に反対した。劉彊に教えて、皇太子を辞退させた。
郅惲は、長沙太守。長沙にいる古初は、父の死体にかぶさり、火災から守った。主席で察挙した。
のちに轉芒長に、左遷された。免官され、8冊かいた。子は郅壽。
つぎは『後漢書』列伝20。光武より時代のくだる列伝がおおい。