04) 宣秉、張湛、王丹
『後漢書』列伝17・宣秉、張湛、王丹、王良、杜林、郭丹伝
渡邉義浩主編『全訳後漢書』をつかいながら、抄訳します。
宣秉
宣秉は、あざなを巨公。馮翊の雲陽の人。三輔に知らる。哀平のとき、王氏が專政したので、深山に隱遁した。州郡は、つらねて召すが、つかず。王莽は宰衡となる。王莽が辟命するが、宣秉はおうじず。王莽が簒奪して徴すが、おうじず。
更始が即位すると、徴して侍中とする。
ぼくは思う。宣秉は、更始には、すんなり応じた。へんなの!
建武元年、禦史中丞。光武はとくに詔して、禦史中丞と司隸校尉、尚書令は、専用の座席をつくる。ゆえに京師では「三獨坐」という。明年、司隸校尉。
宣秉は大綱をおさえ、苛細をとがめない。百僚に、うやまわる。
宣秉は、性格が節約。布被をきて、瓦器で蔬食した。光武は宣秉に歎じた。「楚國の二龔も、雲陽の宣公(宣秉)におよばない」と。布帛・帳帷・什物をたまう。
四年(028)、大司徒司直。
ぼくは思う。百官をとりしまる役職を、宣秉は歴任する。しかし、それぞれのポストで、どう役割がちがうのだろう。
宣秉は、祿奉をもらっても、親族につかう。孤弱な人には、田地をあたえる。じぶんは、わずかも蓄えず。六年(030)、卒於官。光武はおしみ、子の宣彪を郎とする。
成、哀間,為二千石。王莽時,曆太守、都尉。
張湛は、あざなを子孝。扶風の平陵の人。人がいない部屋でも、キッチリ。妻子にたいし、嚴君のように接する。三輔で「儀表」とさる。ある人が「張湛のキッチリぶりは、ウソだ」という。張湛はわらった。「私はウソする。人は悪をいつわるが、私だけ善をいつわる。よかろうが」と。
「儀表」の「儀」とは、法という意味。「表」とは、正という意味。『尚書』にあり。
成哀のとき、二千石。王莽のとき、太守、都尉を歴任する。
建武初、左馮翊となる。郡にて、典故と礼学をおさむ。條教をつくる。政化は大行する。のちに平陵に帰郷し、平陵の寺門(県府の門)で、下馬した。主簿が「左馮翊さま。みずから威儀をかるくするな」という。張湛は「『礼記』にも、大夫や士人は、公門で下馬して、君主の馬車に手をかけるとある。孔子も、父母がいる郷里では、へりくだった。私は威儀をかるくしたのでない」と。
渡邉注はいう。太守に向けて「明府」とよぶのは、『漢書』韓延寿伝より。このとき張湛は「請仮」して、帰郷した。免職するが、印綬をおびたまま、帰郷できる。待遇は、在官のときとおなじ。だから主簿は、左馮翊を「請仮」している張湛を「明府」とよんだ。大庭脩「漢代官吏の勤務規定ー休暇を忠臣としてー」にある。
七年,以病乞身,拜光祿大夫,代王丹為太子太傅。及郭後廢,因稱疾不朝,拜太中大夫,居中東門候舍,故時人號曰中東門君。帝數存問賞賜。後大徒戴涉被誅,帝強起湛以代之。湛至朝堂,遺失溲便,因自陳疾篤,不能複任朝事,遂罷之。後數年,卒於家。
五年(029)、光祿勳。光武が臨朝して、惰容(怠惰な姿)だと、かならず張湛に叱られた。つねに張湛は白馬にのる。光武は「また白馬生が、私をいさめにきた」といった。
七年(031)、病気なので、(実職のない)光祿大夫。王丹にかわり、太子太傅。041年、郭皇后がはいされると、出仕をやめた。太中大夫。中東門の候がつかう官舎にいる。ゆえに「中東門君」とよばる。
ぼくは思う。あだ名のおおい人。それだけ存在感があった。だって前漢、王莽でも、2千石だった。「白馬生がきた」は、「花子さんがきた」みたいな感じで、おもしろい。
のちに大司徒の戴涉が誅された。光武は、むりに張湛を大司徒とする。張湛は朝堂につれてこられ、溲便(失禁)した。病気ゆえ、まかる。数年して卒於家。
王丹:
王丹は、あざなを仲回。京兆の下邽の人。哀平のとき、州郡につかう。王莽のとき、連徴され、いたらず。家に千金をかさぬ。隱居・養志する。農時に田間をめぐり、いそしむ人をねぎらう。王丹にねぎらわれぬ怠惰な人は、はじた。
輕黠で、遊蕩・廢業する人を、叱責した。争議に、ほどこした。王丹をまち、葬儀するようになる。10余年、教化は、よくおこなわれた。風俗は、篤くなる。
王丹の資性は、方潔である。強豪を疾惡した。ときに河南太守する、おなじ京兆の陳遵は、關西之大俠である。友人の親がしぬと、陳遵はおおく贈物して、葬儀をたすけた。王丹は、懐中から縑1匹をさしだし、「私の贈物はシンプルですが、自分で働いてつくったものです。陳遵のバラまきとは、ちがいます」といった。陳遵は、はじた。陳遵は王丹とまじわりたいが、王丹はこばむ。
『東観漢記』はいう。更始のとき、陳遵は大司馬護軍となる。匈奴の使者となる。みちで王丹にあう。王丹はいう。「大乱だが、王丹と陳遵は、生きのこった。陳遵は、絶域・匈奴にいく。陳遵へのプレゼントは、ない。鄭重に拝礼しない(今生のわかれとしない)だけが、プレゼントだ」と。陳遵は、よろこんだ。
ぼくは思う。陳遵は、キャラが立っている。読もう、列伝。
時,大司徒侯霸欲與交友,及丹被征,遣子昱候於道。昱迎拜車下,丹下答之。昱曰:「家公欲與君結交,何為見拜?」丹曰:「君房有是言,丹未之許也。」
たまたま前將軍の鄧禹は、關中をせめた。軍糧がとぼしい。王丹は宗族をひきい、2千斛を鄧禹にあげる。鄧禹は王丹に、左馮翊を領させたいが、王丹はつかず。のち、太子少傅。
ときに大司徒の侯霸は、王丹と交友したい。侯覇の子・侯昱に、王丹を迎えさす。王丹は下車して、侯昱に答礼した。侯丹は「なぜ王丹は、私(友人である侯覇の子・侯昱)に、答礼するか」と。王丹は「侯覇は、友人ではないからだ」と。
客初有薦士於丹者,因選舉之,而後所舉者陷罪,丹坐以免。客慚懼自絕,而丹終無所言。尋複征為太子太傅,乃呼客謂曰:「子之自絕,何量丹之薄也?」不為設食以罰之,相待如舊。其後遜位,卒於家。
王丹の子は、同門生が親をなくした。家は、中山国にある。王丹は子を50回、ムチうった。「友人とともに、中山に弔問へゆくな。交友は、むずかしい。管仲と鮑叔、王吉と貢禹は、うまく交友した。張耳と陳余は、殺しあった。蕭育と朱博は、けんかした。交友を全うできる人は、すくない」と。ときの人は、王丹の発言にふくした。
管仲は『史記』管仲伝、鮑叔は『史記』斉太公家、王吉は『漢書』王吉伝、貢禹は『漢書』貢禹伝、張耳と陳余は『史記』同伝、蕭育は『漢書』蕭望之伝、朱博は『漢書』朱博伝。ぼくは思う。みんな専伝を、きちんともっている。めぐまれているなあ!
王丹は、食客がすすめた士人を、選挙した。士人が罪して、王丹は連座した。食客ははじたが、王丹は、とがめず。ふたたび徴され、太子太傅。王丹は食客をよび「私は復官した。さきのミスで、交際を断つなんて、私たちの関係は、そんなに薄いのか」と。食客と、もとどおり接した。太子太傅をかえし、卒於家。
つぎ、同巻の後半と、考察など。つづきます。