01) 三公の家が、揚州へ避難
陳寿「魏志」巻11より、張範伝。
『三国志集解』を参照し、叮嚀に読みます。
張範は、おなじ三公の家に生まれて、
袁術と(いちおう)付き合ってあげて、袁術を論争した人。
袁術に、名士の知り合いがいたのは、驚きです。
2世で三公の家柄、袁隗をことわる
張範,字公儀,河內脩武人也。祖父歆,為漢司徒。父延,為太尉。
張範は、あざなを公儀という。河内郡の脩武県の人だ。
祖父の張歆は、後漢の司徒だ。
章懐太子がいう。張歆は、あざなを敬譲という。
父の張延は、太尉となった。
章懐太子がいう。張延は、あざなを公威という。
恵棟がいう。『後漢書』は河南の人とするが、河内の誤りだろう。
太傅袁隗欲以女妻范,范辭不受。性恬靜樂道,忽於榮利,徵命無所就。
太傅の袁隗は、むすめを張範の妻にしたいと考えた。だが張範は、袁氏との結婚を断った。
張範の性格は、恬靜で樂道だ。榮利をもとめない。官位に招かれても、就職しなかった。
弟承,字公先,亦知名,以方正徵,拜議郎,遷伊闕都尉。
弟の張承は、あざなを公先という。兄の張範と同じく、名を知られた。方正の科目で、推挙された。議郎となり、伊闕都尉に移った。
北に逃げれば袁紹、南に逃げれば袁術
董卓作亂,承欲合徒眾與天下共誅卓。承弟昭時為議郎,適從長安來,謂承曰:「今欲誅卓,眾寡不敵,且起一朝之謀,戰阡陌之民,士不素撫,兵不練習,難以成功。卓阻兵而無義,固不能久;不若擇所歸附,待時而動,然後可以如志。」承然之,乃解印綬間行歸家,與範避地揚州。
董卓が、朝廷を乱した。張承は、兵士を集めて、董卓を誅そうとした。張承の弟の張昭は、ときに議郎となり、たまたま長安から来た。
同姓同名。しかも日本語の音で「チョウショウ」と読む人が、4人も出てきた。いま読んでいる張範の弟は、孫呉の張昭の兄ではない。
張昭は、兄の張承に云った。
「いま董卓を誅したい。しかし少数では、多数に勝てません。しかも、いちど朝廷で謀略を使えば、千百の民を戦いに巻き込みます。
ちくま訳は、農民兵を使うから勝てない、と言っている。違うと思う。
指揮官は、ふだんから手なずけていません。兵士は、訓練が足りません。董卓を誅せないでしょう。
張承は、霊帝の直属軍にいた人だ。霊帝の軍が、使い物にならないと、暴露しているに等しい。笑
しかし董卓は、義がないのに、兵に守らせています。もとより董卓は、長持ちしないでしょう。
私たち張氏に従ってきた人を選ぶのが、よい。タイミングを待って動きましょう。その後で、志を実現すればよい」
「張昭の云うとおりだ」
張承は、賛成した。公職の印綬をとき、故郷に帰った。張承は、張範とともに、揚州に避難した。
北へ避難した人が袁紹にしたがう。南に避難した人が、袁術にしたがう。のちに、曹操と孫権へ人材が引きつがれる。単純化のしすぎは慎むべきだが、キレイな図式ができました。笑
袁術が覇王になることに、反対する
袁術備禮招請,範稱疾不往,術不強屈也。遣承與相見,術問曰:「昔周室陵遲,則有桓、文之霸;秦失其政,漢接而用之。今孤以土地之廣,士民之眾,欲徼福齊桓,擬跡高祖,何如?」
袁術は、礼をそなえて、張範を招いた。張範は、病気だと口実をつけ、袁術に仕えない。だが袁術は、ムリに張範を引っぱり出さなかった。
袁氏から出た三公が多いのは、濁流に身を染めたからだ。ほかの三公の家から、袁術が仲良くしてもらえない理由は、これだろうか? 袁術その人のキャラに、不人気の理由を結びつけるのは、ほどほどに。
袁術は、張承に問うた。
「むかし周室が衰えたとき、斉の桓公と、晋の文公は、覇者となった。秦が政治をミスったとき、漢が皇帝を皇帝を接いだ。いま私(袁術)は、領土が広い。人口が多い。桓公や文公、劉邦のマネをしたいが、どうかな」
承對曰:「在德不在強。夫能用德以同天下之欲,雖由匹夫之資,而興霸王之功,不足為難。若苟僭擬,幹時而動,眾之所棄,誰能興之?」術不悅。
張承は、袁術に答えた。
「桓公や文公、劉邦は、徳があったのだ。強さは関係ない。徳をもちい、天下の望みと同じことをすれば、つまらん男の資質しかなくても、覇王の功績を興せます。
張承は袁術をやり込めるため、これを云った。つまり袁術が、万民の望みと違うことをしているのは、自明だったのだ。笑
もし天下の望みと違い、自分の望みのために動けば、万民に見捨てられるでしょう。誰が、そんなムチャを実現できるものですか」
袁術は、悦ばなかった。
次回、袁術が「曹操vs袁紹」について、張承に質問!