表紙 > 人物伝 > 袁術を責めつづけたお友達? 張承伝(張範伝より)

01) 三公の家が、揚州へ避難

陳寿「魏志」巻11より、張範伝。
『三国志集解』を参照し、叮嚀に読みます。

張範は、おなじ三公の家に生まれて、
袁術と(いちおう)付き合ってあげて、袁術を論争した人。
袁術に、名士の知り合いがいたのは、驚きです。

2世で三公の家柄、袁隗をことわる

張範,字公儀,河內脩武人也。祖父歆,為漢司徒。父延,為太尉。

張範は、あざなを公儀という。河内郡の脩武県の人だ。

『郡国志』がいう。脩武県は、司隷に属す。むかし周の武王が、殷のチュウ王を討ったとき、兵を集めた。だから「武を修める」という地名だ。

祖父の張歆は、後漢の司徒だ。

范曄『後漢書』桓帝紀がいう。建和3年(149年)大司農の張歆は、司空となった。元嘉元年(151年)やめた。
章懐太子がいう。張歆は、あざなを敬譲という。

父の張延は、太尉となった。

『後漢書』霊帝紀がいう。中平2年5月、太僕の張延は、太尉となった。中平3年2月やめた。10月、宦官にそしられて、獄死した。
章懐太子がいう。張延は、あざなを公威という。
恵棟がいう。『後漢書』は河南の人とするが、河内の誤りだろう。


太傅袁隗欲以女妻范,范辭不受。性恬靜樂道,忽於榮利,徵命無所就。

太傅の袁隗は、むすめを張範の妻にしたいと考えた。だが張範は、袁氏との結婚を断った。

三公の家同士の結婚。断る理由は、ひとつだろう。袁隗が、濁流と見なされたから。張範の父は、宦官に殺されてます。張氏は、妥協しない清流だったのでしょう。袁術と対立する伏線(笑)

張範の性格は、恬靜で樂道だ。榮利をもとめない。官位に招かれても、就職しなかった。

弟承,字公先,亦知名,以方正徵,拜議郎,遷伊闕都尉。

弟の張承は、あざなを公先という。兄の張範と同じく、名を知られた。方正の科目で、推挙された。議郎となり、伊闕都尉に移った。

趙一清がいう。伊闕都尉とは、霊帝が置いた、洛陽のまわりの8つの関所を守る、軍人のポストの1つだ。


北に逃げれば袁紹、南に逃げれば袁術

董卓作亂,承欲合徒眾與天下共誅卓。承弟昭時為議郎,適從長安來,謂承曰:「今欲誅卓,眾寡不敵,且起一朝之謀,戰阡陌之民,士不素撫,兵不練習,難以成功。卓阻兵而無義,固不能久;不若擇所歸附,待時而動,然後可以如志。」承然之,乃解印綬間行歸家,與範避地揚州。

董卓が、朝廷を乱した。張承は、兵士を集めて、董卓を誅そうとした。張承の弟の張昭は、ときに議郎となり、たまたま長安から来た。

盧弼がいう。三国には、2人の張昭と、2人の張承がいる。孫呉の張昭は、子を張承という。
同姓同名。しかも日本語の音で「チョウショウ」と読む人が、4人も出てきた。いま読んでいる張範の弟は、孫呉の張昭の兄ではない。

張昭は、兄の張承に云った。
「いま董卓を誅したい。しかし少数では、多数に勝てません。しかも、いちど朝廷で謀略を使えば、千百の民を戦いに巻き込みます。

「だから慎重にすべきだ」でしょう。
ちくま訳は、農民兵を使うから勝てない、と言っている。違うと思う。

指揮官は、ふだんから手なずけていません。兵士は、訓練が足りません。董卓を誅せないでしょう。

黄巾の乱で、洛陽の兵は動いていない。例えば、袁紹も袁術も、黄巾で功績がない。西方で、異民族と戦ってきた、董卓に勝てない。
張承は、霊帝の直属軍にいた人だ。霊帝の軍が、使い物にならないと、暴露しているに等しい。笑

しかし董卓は、義がないのに、兵に守らせています。もとより董卓は、長持ちしないでしょう。

董卓は、自分を守らせる兵にやられる。呂布だ。

私たち張氏に従ってきた人を選ぶのが、よい。タイミングを待って動きましょう。その後で、志を実現すればよい」

董卓が壊れれば、張氏に人が集まる。故吏ってやつかな。三公の家だから、読めることだ。袁氏も、同じような計画だったでしょう。

「張昭の云うとおりだ」
張承は、賛成した。公職の印綬をとき、故郷に帰った。張承は、張範とともに、揚州に避難した。

故郷は、河内郡。董卓軍にさらされる。司馬懿も河内郡の人だが、董卓の乱を避けて、北へ避難した。
北へ避難した人が袁紹にしたがう。南に避難した人が、袁術にしたがう。のちに、曹操と孫権へ人材が引きつがれる。単純化のしすぎは慎むべきだが、キレイな図式ができました。笑


袁術が覇王になることに、反対する

袁術備禮招請,範稱疾不往,術不強屈也。遣承與相見,術問曰:「昔周室陵遲,則有桓、文之霸;秦失其政,漢接而用之。今孤以土地之廣,士民之眾,欲徼福齊桓,擬跡高祖,何如?」

袁術は、礼をそなえて、張範を招いた。張範は、病気だと口実をつけ、袁術に仕えない。だが袁術は、ムリに張範を引っぱり出さなかった。

家柄は、袁氏のほうが歴史が長いだけ、上である。だが三公の家という点で、高さは同じである。
袁氏から出た三公が多いのは、濁流に身を染めたからだ。ほかの三公の家から、袁術が仲良くしてもらえない理由は、これだろうか? 袁術その人のキャラに、不人気の理由を結びつけるのは、ほどほどに。

袁術は、張承に問うた。
「むかし周室が衰えたとき、斉の桓公と、晋の文公は、覇者となった。秦が政治をミスったとき、漢が皇帝を皇帝を接いだ。いま私(袁術)は、領土が広い。人口が多い。桓公や文公、劉邦のマネをしたいが、どうかな」

袁術が、先人のマネを言い出した。「桓公や文公、劉邦を知れば、袁術の志の中身が分かる」と云いたいところが、ダメだ。なぜなら、あまりに有名すぎる例だから。もっとマイナーな人を選んでくれれば、袁術のキャラを立たせるため、役に立ったのに。


承對曰:「在德不在強。夫能用德以同天下之欲,雖由匹夫之資,而興霸王之功,不足為難。若苟僭擬,幹時而動,眾之所棄,誰能興之?」術不悅。

張承は、袁術に答えた。
「桓公や文公、劉邦は、徳があったのだ。強さは関係ない。徳をもちい、天下の望みと同じことをすれば、つまらん男の資質しかなくても、覇王の功績を興せます。

桓公は、小白という名の地味な君主。臣下の管仲のおかげで、名を売った。劉邦は、それこそ「匹夫」の代表みたいな男。袁術に反論しているから、張承は「忠臣」に見える。だが張承は、けっこう辛口である。
張承は袁術をやり込めるため、これを云った。つまり袁術が、万民の望みと違うことをしているのは、自明だったのだ。笑

もし天下の望みと違い、自分の望みのために動けば、万民に見捨てられるでしょう。誰が、そんなムチャを実現できるものですか」

「袁術が強い」には、張承は反論がない。たしかに袁術が強いのか、話題にするのも面倒くさいのか。笑

袁術は、悦ばなかった。

次回、袁術が「曹操vs袁紹」について、張承に質問!