表紙 > 人物伝 > 袁術を諌めつづけたお友達? 張承伝(張範伝より)

02) 漢の天命は、改まらない

陳寿「魏志」巻11より、張範伝。
『三国志集解』を参照し、叮嚀に読みます。

張範は、おなじ三公の家に生まれて、
袁術と(いちおう)付き合ってあげて、袁術を論争した人。
袁術に、名士の知り合いがいたのは、驚きです。

曹操が袁紹と戦うのは、ムチャじゃないか

是時,太祖將征冀州,術複問曰:「今曹公欲以弊兵數千,敵十萬之眾,可謂不量力矣!子以為何如?」承乃曰:「漢德雖衰,天命未改,今曹公挾天子以令天下,雖敵百萬之眾可也。」術作色不懌,承去之。

このとき、曹操は冀州を攻めようとしていた。

官渡の戦いに向かうとき。袁術の最晩年だ。すでに徐州を攻めることに失敗し、死を待っている時期。

ふたたび袁術は、張承に問うた。

たびたび、話し相手には、なってくれたらしい。微笑ましい。

「いま曹操は、つかれた兵の数千で、袁紹の10万と戦おうとしている。曹操は、自分の力を分かっていないと、云うべきじゃないかね。張承は、どう思うか」

袁術は、曹操と袁紹に関心を持っている。意外に知られていない記述では? もしくは、他人の批評だけをしているのか。暇つぶしに・・・
いや違う。張承の答え次第では、もういちど北伐する。もしくはかたく袁紹と同盟し、曹操を滅ぼす計画があったに違いない。現役だ。

張承は、すぐに袁術に云った。
「漢の徳は衰えましたが、天命は改まっていません。いま曹操は、天子をたばさみ、天下に号令しています。敵が100万であっても、勝てるでしょう」

張承の答えは、抽象的だ。これで戦さに勝てたら、苦労はない。
おそらく張承は、袁術がリアルな戦況分析をしていないことを知っていた。すでに袁術軍は、頭数も食料もない。「天命は改まった」と勘違いをした、袁術をやり込めただけである。文人だしね。

袁術は顔色をかえ、嬉しくなさそうだ。張承は、袁術を去った。

列伝の主人公であるはずの、兄の張範が、ぜんぜん袁術と絡まない。兄は、どこにいたの? 若いときと同じく、家に引きこもったか。
だとしたら、批判したなりにも、袁術と付き合ってくれた張承は、よほど袁術に心を開いていたと云える。敢えて家から出てきた。
例えば、孫呉の張昭は、孫権に反対ばかりしているが、孫権の臣には変わりない。この張承も同じか。張承の名誉のため「袁術の招きに応じた」とは書かれていないが、じつは気心の知れた意見役として、近くにいた?


魏の建国を牽制した、名門

太祖平冀州,遣使迎範。范以疾留彭城,遣承詣太祖,太祖表以為諫議大夫。

曹操は袁紹に勝ち、冀州を平定した。曹操は、張範を迎えた。張範は病気だとして、彭城に留まった。

やはり、断る人なのです。引きこもりだ。
もしくは、張範はひそかに袁紹に通じてた。だから袁術との会話に出てこない。いま曹操が袁紹を倒したばかりだから、気まずい。とか想像してみましたが・・・それはないかな。

張範は、弟の張承を、曹操に会いに行かせた。曹操は張承を、諌議大夫にした。

範子陵及承子戩為山東賊所得,範直詣賊請二子,賊以陵還範。范謝曰:「諸君相還兒厚矣。夫人情雖愛其子,然吾憐戩之小,請以陵易之。」賊義其言,悉以還範。

張範の子・張陵と、張承の子・張戩は、山東の賊に捕らえられた。張範は、じかに賊と会い、子供を返せと云った。

兄の張範は、どんな仕官の誘いも断る。ただの引きこもりだと思っていたが、出るときは出る。ちゃんと信念あって、引きこもったんだろう。

賊は、張範の子・張陵を返した。張範は、謝した。
「きみたちは、私の子を返してくれた。人情として、自分の子が可愛い。だが、おい(張承の子)は幼いから、可哀想だ。張陵は返すから、張戩を放してくれ」
賊は、張範の言葉に義を感じ、張陵も張戩も返した。

『集解』にぜんぜん注釈がありません。
曹操が納める山東に、名士の子をうばう賊がいたことが、新鮮に感じられます。もしくは張氏は、ひねくれて、よほどの奥地にいたのか。


太祖自荊州還,範得見於陳,以為議郎,參丞相軍事,甚見敬重。太祖征伐,常令范及邴原留,與世子居守。太祖謂文帝:「舉動必諮此二人。」世子執子孫禮。

曹操が荊州から戻ると、張範は陳国で曹操と会った。

曹操が赤壁に負けたあとだ。曹操は弱り、人材を招いた。

張範を議郎とし、丞相軍事に参じさせた。曹操は張範を、はなはだ敬重した。太祖が征伐するとき、つねに張範と邴原を、曹丕とともに留守させた。太祖は、曹丕に云った。
「行動を起こすなら、かならず張範と邴原に相談しろ」
曹丕は、子や孫としての礼式で、張範と付き合った。

曹丕は、張範に頭が上がらない。張範みたいに、ロコツに曹操の昇進に反対しないが、黙って漢を支持しつづける名士は、多かったに違いない。だから曹氏は、名士たちを鄭重に扱った。


救恤窮乏,家無所餘,中外孤寡皆歸焉。贈遺無所逆,亦終不用,及去,皆以還之。建安十七年卒。魏國初建,承以丞相參軍祭酒領趙郡太守,政化大行。太祖將西征,徵承參軍事,至長安,病卒。

窮乏した人を救恤したから、張範の家には、余財がなかった。中外の故事や寡婦は、みな張範をたよった。

冒頭の人柄の記述と、よく対応します。分かりやすい人だったようです。悪く言えば、面白くない。

プレゼントは受け取ったが、自分で使わなかった。(官位や土地を)去るとき、みな持ち主に返した。張範は、建安17年に卒した。
はじめ魏國が建国されると、弟の張承は、丞相の參軍祭酒となり、趙郡太守を領した。

『三国職官表』によれば、参軍祭酒は、第7品だ。定員は1人。参軍は、曹操が丞相になったときに置かれた。後にはない。

張承により、政化は大いに行われた。太祖が西征するとき、張承に軍事を任せようとした。張承は長安に到り、病卒した。

袁術に逆らい続けた人の最期です。袁術には「漢の天命は改まらない」と云ったが、曹氏に対しては、どう云ったのか。張承は、曹丕が禅譲を受ける前に死んだ。禅譲に反対する張承が見られなくて、残念だ。


魏書曰:文帝即位,以範子參為郎中。承孫邵,晉中護軍,與舅楊駿俱被誅。事見晉書。

魏書がいう。曹丕が即位すると、張範の子・張参は、郎中となった。張承の孫・張邵は、西晋で中護軍となった。しゅうとの楊駿ともに、誅された。晉書に書いてある。

『集解』がいう。『晋書』の楊駿伝にある。楊駿は、おいの段広や張邵を近侍の仕事につけたと。
孫もまた「チョウショウ」です。ウンザリ。ちなみに裴松之が注釈した『晋書』は、今日のぼくたちが見る『晋書』とは違います。成立年代は、『晋書』のほうが後だから。


後半は、平凡な名門の動き。袁術との絡みがメインで。100522