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- (前154) 呉楚七国の乱
景帝の即位から2年は、こちらにあります。
『資治通鑑』巻15 漢文帝の下を抄訳 (前169-155)
晁錯が藩王を削り、乱を準備する
冬,十月,梁王來朝。時上未置太子,與梁王宴飲,從容言曰:「千秋萬歲後傳於王。」王辭謝,雖知非至言,然心內喜,太后亦然。詹事竇嬰引卮酒進上曰:「天下者,高祖之天下,父子相傳,漢之約也,上何以得傳梁王!」太后由此憎嬰。嬰因病免;太后除嬰門籍,不得朝請。梁王以此益驕。
春,正月,乙巳,赦。長星出西方。洛陽東宮災。冬10月、梁王が來朝した。ときに天子は太子を置かず、梁王と宴飲していう。「千年や万年の後(私が死んだら)梁王に天子を伝えよう」と。梁王は辞謝して、何も言わないが、内心で喜んだ。皇太后も同じ考えである。詹事の竇嬰が天子に酒を進めていう。「天下は、高祖の天下です。父子が相伝するのが、漢の約です。天子はなにを根拠に梁王に伝えると言ったか」と。竇太后は竇嬰をにくむようになった。竇嬰は病気といって免ぜられ、竇太后は竇嬰を(宮殿の門に出入できる者の)名簿から除き、朝請できなくした。梁王は(次に天子になると思って)ますます驕った。
◆太子時代の景帝が、呉太子を殺す
初,孝文時,吳太子入見,得侍皇太子飲、博。吳太子博爭道,不恭;皇太子引博局提吳太子,殺之。遣其喪歸葬,至吳,吳王慍曰:「天下同宗,死長安即葬長安,何必來葬為!」復遣喪之長安葬。吳王由此稍失籓臣之禮,稱疾不朝。京師知其以子故,系治、驗問吳使者;吳王恐,始有反謀。後使人為秋請,文帝復問之,使者對曰:「王實不病;漢系治使者數輩,吳王恐,以故遂稱病。夫察見淵中魚不祥,唯上棄前過,與之更始。」於是文帝乃赦吳使者,歸之,而賜吳王幾杖,老,不朝。吳得釋其罪,謀亦益解。然其居國,以銅、鹽故,百姓無賦;卒踐更,輒予平賈;歲時存問茂材,賞賜閭里;他郡國吏欲來捕亡人者,公共禁弗予。如此者四十餘年。はじめ文帝期、呉の太子が入見した。皇太子(景帝)と酒を飲んで、博をした。2人は博で言い争った。皇太子は博局をつかんで呉太子にぶつけて殺した。呉太子の死体が呉国に運ばれ、呉王は怒った。「天下は同宗(祖先が同じ劉氏の同族)である。長安に葬ってくれても良いのに」と。死体を長安に戻して葬った。
呉王は藩臣の礼を失い、病といって入朝しない。長安では、呉王の使者を捕らえて(なぜ入朝しないのかと)問い詰めたので、呉王は恐れて謀反を考えるようになった。刑罰を執行する冬の前に、秋に罪の軽重を修正できる。秋、文帝が「呉王はなぜ入朝しない」と再び問う。呉王の使者「呉王はほんとうに病気でない。漢は我ら使者の数人を捕らえたから、病気だと詐称するのだ。夫れ淵中の魚を察見するは不祥なり。
天子が下々の案件にいちいち関わるのは不吉である。これは『韓子』『文子』の言葉である。前の過失は棄てて、もう許してよ」と。文帝は孫呉の使者を許して帰した。呉王に(病人が杖つくための)幾杖を賜り、老年だから朝見しなくて良いとした。呉王は使者が釈放されたので、ほっとした。
呉王は国にいて、銅と塩を製造して豊かなので、百姓に賦を課さない。ついに更を践ましめ輒ち平賈を予(あた)ふ。
服虔はいう。兵卒が任期を終えて交代するとき、銭300を出せば、任期を過ぎても兵卒でいられた。これを「更を践む」という。呉王は民心を得たいから、兵卒に庸(奴隷)を雇わせ、時期ごとに庸に払うべき給料を与えた。師古によると、これは正しくない。
晋灼によると、銭を払えば、兵卒にならずにすんだ。師古よると、こっちが正しい。金銭による兵役のがれにより、呉王は(豊かな)百姓に恩を施した。
歲時に優れた人材がいないか問い、閭里に賞賜した。他の郡国の吏が、呉国に逃げこんだ罪人を求めても、呉王は引き渡さない。このようにして、呉国は40余年、ほぼ独立国である。
晁錯數上書言吳過,可削;文帝寬,不忍罰,以此吳日益橫。及帝即位,錯說上曰:「昔高帝初定天下,昆弟少,諸子弱,大封同姓,齊七十餘城,楚四十餘城,吳五十餘城;封三庶孽,分天下半。今吳王前有太子之郤,詐稱病不朝,於古法當誅。文帝弗忍,因賜幾杖,德至厚,當改過自新,反益驕溢,即山鑄錢,煮海水為鹽,誘天下亡人謀作亂。今削之亦反,不削亦反。削之,其反亟,禍小;不削,反遲,禍大。」上令公卿、列侯、宗室雜議,莫敢難;獨竇嬰爭之,由此與錯有郤。及楚王戊來朝,錯因言:「戊往年為薄太后服,私奸服舍,請誅之。」詔赦,削東海郡。及前年,趙王有罪,削其常山郡;膠西王卬以賣爵事有奸,削其六縣。晁錯は、しばしば上言して、「呉王は過失があるから、封地を削れ」という。文帝は寛であり、罰するに忍びない。ゆえに呉王はほしいままに振る舞う。景帝が即位すると、晁錯はいう。「はじめ高皇帝が天下を定めた直後は、昆弟が少なく、諸子が弱いので、同姓に大きな封地を与えた。斉国・楚国・呉国だけで、天下の半分を占めた。いま呉王は、病気と偽って入朝しないから、古法に照らせば誅すべきだ。文帝は忍びずに放置したが、いま陛下が即位した機会に、施策を改めよ。呉国は、山で銅を掘って銭を鋳造し、海水を似て塩をつくり(財力を利用して)天下を乱そうとする人々をあつめる。いま呉国を削れば、彼が反乱しても禍害は小さい。いま呉国を削らねば、禍害は大きくなる」と。
天子は、公卿・列侯・宗室に議論させたが、晁錯に反対する者はない。ただ竇嬰だけが反対した。これにより、竇嬰と晁錯は仲が悪くなった。
楚王の劉戊が来朝したとき、晁錯は「かつて楚王は、薄太后の服喪の最中に、性交した。楚王を誅すべきだ」という。詔して楚王を赦し、東海郡を削るだけにした。前年には趙王に罪があり、常山郡を削った。膠西王の劉卬は、不正に爵位を売ったので、6県を削られた。
楚王、趙王、膠西王は、呉王に呼応して起兵する。
◆呉王が膠西王・楚王を説得する
廷臣方議削吳。吳王恐削地無已,因發謀舉事。念諸侯無足與計者,聞膠西王勇,好兵,諸侯皆畏憚之,於是使中大夫應高口說膠西王曰:「今者主上任用邪臣,聽信讒賊,侵削諸侯,誅罰良重,日以益甚。語有之曰:『狧糠及米。』吳與膠西,知名諸侯也,一時見察,不得安肆矣。吳王身有內疾,不能朝請二十餘年,常患見疑,無以自白,脅肩累足,猶懼不見釋。竊聞大王以爵事有過。所聞諸侯削地,罪不至此;此恐不止削地而已。」王曰:「有之。子將奈何?」高曰:「吳王自以與大王同憂,願因時循理,棄軀以除患於天下,意亦可乎?」延臣が、呉国を削る議論をした。呉王は削られるのを恐れ、ついに決意した。膠西王が勇で兵を好むと聞き、呉の中大夫の応高をやり、膠西王を説得させた。「いま天子は、邪臣の晁錯を用いて、諸侯を削る。『糠を舐めたら米に及ぶ』と言う。
晁錯が、封地をちょっとずつ舐め取ったら、ついに本国まで食べられてしまい、諸侯は路頭に迷うのだよと。呉王と膠西は、諸侯に名を知られる。膠西王も、爵位の販売のことで、封地を削られたよね。今回の減封だけで済まないんじゃないか」と。膠西王「そうだな。私は何をしたら良い」。呉使の応高「呉王は、膠西王と憂いを共有する。身を棄てて、天下の患いを除こう(起兵しよう)。同意してくれるか」と。
膠西王瞿然駭曰:「寡人何敢如是!主上雖急,固有死耳,安得不事!」高曰:「御史大夫晁錯,營惑天子,侵奪諸侯,朝廷疾怨,諸侯皆有背叛之意,人事極矣。彗星出,蝗蟲起,此萬世一時;而愁勞,聖人所以起也。吳王內以晁錯為誅,外從大王后車,方洋天下,所向者降,所指者下,莫敢不服。大王誠幸而許之一言,則吳王率楚王略函谷關,守滎陽、敖倉之粟,距漢兵,治次舍,須大王。大王幸而臨之,則天下可並,兩主分割,不亦可乎!」王曰:「善!」歸,報吳王,吳王猶恐其不果,乃身自為使者,至膠西面約之。膠西群臣或聞王謀,諫曰:「諸侯地不能當漢十二,為叛逆以憂太后,非計也。今承一帝,尚雲不易;假令事成,兩主分爭,患乃益生。」王不聽,遂發使約齊、菑川、膠東、濟南,皆許諾。膠西王は驚いた。「なぜ私が起兵なんてするか。天子のやり方はひどいが、天子に死ねと言われたら死ぬしかない」と。応高「御史大夫の晁錯は、天子を惑わして諸侯を削る。呉王が内に晁錯を誅し、外では膠西王の兵車に後続すれば、天下に帰服しない者はない。膠西王が『やろう』の一言を言ってくれたら、呉王は自ら楚王をひきいて函谷関を攻め、栄陽・敖倉の粟を守って漢兵を防ぎ、膠西王の到着を待つだろう。膠西王が到着したら、呉王と膠西王とで天下を2分割しよう」と。膠西王「イイネ!!」と。
応高は呉国に帰って、膠西王の合意を伝えた。呉王は約束が果たされないのを恐れ、呉王が自ら膠西王に会って、約束を確認した。膠西王の郡臣は諌めて、「諸侯の地を合わせても、漢の10分の2ほどだ。反逆すれば(膠西王の母の)太后に心配させる。もし長安に勝っても、2分割して統治なんてできず、呉王と争うことになる」と。膠西王は聴かず、斉国・菑川・膠東・済南と、起兵を約束した。みな許諾した。
◆楚王も起兵する
初,楚元王好書,與魯申公、穆生、白生俱受《詩》於浮丘伯;及王楚,以三人為中大夫。穆生不耆酒;元王每置酒,常為穆生設醴。及子夷王、孫王戊即位,常設,後乃忘設焉。穆生退,曰:「可以逝矣!醴酒不設,王之意怠;不去,楚人將鉗我於市。」遂稱疾臥。申公、白生強起之,曰:「獨不念先王之德與!今王一旦失小禮,何足至此!」穆生曰:「《易》稱:『知幾其神乎!幾者,動之微,吉兇之先見者也。君子見幾而作,不俟終日。』先王之所以禮吾三人者,為道存也。今而忽之,是忘道也。忘道之人,胡可與久處,豈為區區之禮哉!」遂謝病去。申公、白生獨留。王戊稍淫暴,太傅韋孟作詩諷諫,不聽,亦去,居於鄒。戊因坐削地事,遂與吳通謀。申公、白生諫戊,戊胥靡之,衣之赭衣,使雅舂於市。休侯富使人諫王。王曰:「季父不吾與,我起,先取季父矣!」休侯懼,乃與母太夫人奔京師。はじめ楚元王は書を好み、魯申公・穆生・白生とともに『詩』を浮丘伯で受けた。彼が楚王となると、3人を中大夫とした。穆生は酒を飲まないが、楚元王はいつも酒を飲む。つねに穆生に酒を勧める。楚元王が死に、子の夷王・孫の王の劉戊が即位しても、つねに穆生のために酒席を設けて、忘れない。のちに酒席の準備が忘れられていた。穆生は退いて、「もし私の酒席が準備されていなければ、楚王の気持ちが弛んだことが分かる。楚王が弛めば、私は楚国の人によって市で鉗される」と。病気と言って臥せった。申公・白生が穆生をムリに起こして、「祖父の楚元王の徳を思わないのか。今日の孫の楚王が、いちど失礼をしたところで、どうして出仕を辞めるか」と。穆生「『易』に、ものごとの兆しを感知できるのが神である、とある。吉凶を先見する君子は、日を待たずに対処するものだ」と。楚元王が尊重した3人の学者のうち、穆生は去ったが、他の2人は残った。
やがて楚王は淫暴となり、封地を削られると、申公・白生の2人が諌めたが、かえって処罰された。穆生が楚王の変化の予兆を見抜いた通りになった。
呉王が起兵し、広陵から梁国を攻める
及削吳會稽、豫章郡書至,吳王遂先起兵,誅漢吏二千石以下;膠西、膠東、菑川、濟南、楚、趙亦皆反。楚相張尚、太傅趙夷吾諫王戊,戊殺尚、夷吾。趙相建德、內史王悍諫王遂,遂燒殺建德、悍。齊王後悔,背約城守。濟北王城壞未完,其郎中令劫守,王不得發兵。膠西王、膠東王為渠率,與菑川、濟南共攻齊,圍臨菑。趙王遂發兵住其西界,欲待吳、楚俱進,北使匈奴與連兵。呉王のところに、呉郡・会稽・豫章を削るという文書が届いた。呉王はついに起兵して、漢吏の二千石より以下を殺した。膠西・膠東・菑川・濟南・楚国・趙国も反した。楚相の張尚、太傅の趙夷吾は、楚王を諌めて殺された。趙相の建德、内史の王悍も、趙王を諌めて焼き殺された。
斉王は起兵を後悔して、呉楚との約束に背いて城を守った。済北王は、城ごと呉楚に味方する前に、郎中令が王に背いて、兵を出させなかった。
膠西王・膠東王は、兵をひきいて、菑川・済南とともに、斉を攻めて臨菑を囲む。趙王はついに兵を発して、領土の西の境界にゆき、呉楚とともに進むために待った。北に使者をだして、匈奴と連携する。
吳王悉其士卒,下令國中曰:「寡人年六十二,身自將;少子年十四,亦為士卒先。諸年上與寡人同,下與少子等,皆發。」凡二十餘萬人。南使閩、東越,閩、東越亦發兵從。吳王起兵於廣陵,西涉淮,因並楚兵,發使遺諸侯書,罪狀晁錯,欲合兵誅之。吳、楚共攻梁,破棘壁,殺數萬人;乘勝而前,銳甚。梁孝王遣將軍擊之,又敗梁兩軍,士卒皆還走。梁王城守睢陽。呉王は士卒を総動員して、国中に令を下した。「私は62歳だが、自ら将となる。わが少子は14歳だが、士卒として先頭で突っこむ。上は私と同じ62歳、下は少子と同じ14歳まで、みな発する」と。呉王は広陵で起兵して、淮水を渡り、楚兵とあわさる。諸侯に文書を回付して、晁錯を誅そうと呼びかける。
呉王は、広陵が本拠地。だから、呉郡や会稽を削れる。呉楚はともに梁国を攻める。梁孝王は将軍に迎撃させるが、呉楚に敗れた。梁孝王は睢陽を守る。
初,文帝且崩,戒太子曰:「即有緩急,周亞夫真可任將兵。」及七國反書聞,上乃拜中尉周亞夫為太尉,將三十六將軍往擊吳、楚,遣曲周侯酈寄擊趙,將軍欒布擊齊;復召竇嬰,拜為大將軍,使屯滎陽監齊、趙兵。
初,晁錯所更令三十章,諸侯讙嘩。錯父聞之,從穎川來,謂錯曰:「上初即位,公為政用事,侵削諸侯,疏人骨肉,口語多怨,公何為也?」錯曰:「固也。不如此,天子不尊,宗廟不安。」父曰:「劉氏安矣而晁氏危,吾去公歸矣!」遂飲藥死,曰:「吾不忍見禍逮身!」後十餘日,吳、楚七國俱反,以誅錯為名。はじめ文帝が死にそうなとき、太子(景帝)に戒めた。「緩急をつけて対応するなら、周亜夫に将兵を任せろ」と。七国が反乱する文書が回付されると、天子は周亜夫を太尉として、36将軍をひきいて呉楚をうつ。
景帝期は、文帝期の伏線を回収して、問題を収束させている時代という感じ。もちろん、伏線の回収のなかでも、漢家にとって最良の結末を選び取っているから、景帝もすごいんだけど。はじめ晁錯は、30章にわたって法令を変更した。
晁錯がいかに法令をかえて、文帝の統治を助けたかは、『資治通鑑』の文帝期の記事で充分にみた。とても筋が通ってて、民の衣食を回復して、天子に権力を集約するためには、有効な話ばかりで、今週ぼくも感心したところでした。晁錯の政策は、諸侯と対立した。晁錯の父は、故郷の頴川からきて、晁錯に「いまの天子が即位してから、きみは政治を任され、諸侯を削減する。怨まれているが、どうするの」と。晁錯「知ってます。しかし諸侯を削らねば、天子が尊くなく、宗廟が安じない」と。晁錯の父「劉氏が安全になっても、わが晁氏が危険になった。私はきみの前から消えよう」と。
前漢の天子権力は、周勃・晁錯・周亜夫などの犠牲によって成り立つ。彼らは、天子以上に天子のために働くが、けっきょくジャマになる。しかし彼らが残した成果は、天子が受け継ぐ。ついに毒を飲んで、晁錯の父が死んだ。「私はわが身に禍いが及ぶのを見るのは忍びない」と言い遺した。十余日の後、呉楚七国が反して、晁錯を誅することを名目とした。
袁盎が晁錯を誅殺させ、天子が後悔
上與錯議出軍事,錯欲令上自將兵而身居守;又言:「徐、僮之旁吳所未下者,可以予吳。」錯素與吳相袁盎不善,錯所居坐,盎輒避;盎所居坐,錯亦避;兩人未嘗同堂語。及錯為御史大夫,使吏按盎受吳王財物,抵罪;詔赦以為庶人。吳、楚反,錯謂丞、史曰:「袁盎多受吳王金錢,專為蔽匿,言不反;今果反,欲請治盎,宜知其計謀。」丞、史曰:「事未發,治之有絕;今兵西向,治之何益!且盎不宜有謀。」錯猶與未決。人有告盎,盎恐,夜見竇嬰,為言吳所以反,願至前,口對狀。嬰入言,上乃召盎。盎入見,上方與錯調兵食。天子は、晁錯と軍を出すことを議した。晁錯は、天子に親征させ、自分は長安に残りたい。晁錯「徐県や僮県(臨淮)のあたりで、まだ呉王に下らない県は、呉王に与えてしまえ」と。
晁錯は諸侯の封地の削減を主張してきた。いま2県を呉王に与えろといった。晁錯の意見は、首尾一貫していないのだ。晁錯は、もとより呉相の袁盎と仲がわるい。晁錯がいたら袁盎は同席を避けて、袁盎がいたら晁錯は同席を避けた。かつて2人が同席して喋った。晁錯が御史大夫として、吏に命じて、袁盎が呉王からもらった財物を調査し、有罪とした。天子は詔して袁盎を(死罪から赦して)庶人とした。
呉楚が反すると、晁錯は(属官の)丞・史にいう。「袁盎は呉王から金銭をおおく受けたが、もっぱら隠して言わなかった。いま呉王が反した。袁盎を取り調べれば、呉王の計謀が分かるだろう」と。丞・史はいう。「袁盎が何かをする前から取り調べれば、袁盎は口を閉ざすだけだ。いま呉楚の兵が長安をめざす。袁盎を調べて、何か利益があるか。きっと袁盎は謀略に参加していなかろうし」と。
晁錯はなお、袁盎を取り調べたい。袁盎に(晁錯の思惑を)告げる者がいて、袁盎は恐れた。夜に竇嬰に会って、「呉王が反した理由を言うから、天子の御前に行きたい」と言った。竇嬰が取りなして、袁盎は天子に面会できた。天子は晁錯と、兵糧の計画をしていた。
上問盎:「今吳、楚反,於公意何如?」對曰:「不足憂也!」上曰:「吳王即山鑄錢,煮海為鹽,誘天豪傑;白頭舉事、此其計不百全,豈發乎!何以言其無能為也?」對曰:「吳銅鹽之利則有之,安得豪傑而誘之!誠令吳得豪傑,亦且輔而為誼,不反矣。吳所誘皆亡賴子弟、亡命、鑄錢奸人,故相誘以亂」錯曰:「盎策之善。」上曰:「計安出?」盎對曰:「願屏左右。」上屏人,獨錯在。盎曰:「臣所言,人臣不得知。」乃屏錯。錯趨避東廂,甚恨。上卒問盎,對曰:「吳、楚相遺書,言高皇帝王子弟各有分地,今賊臣晁錯擅適諸侯,削奪之地,以故反,欲西共誅錯,復故地而罷。方今計獨有斬錯,發使赦吳、楚七國,復其故地,則兵可毋血刃而俱罷。」天子は袁盎に問う。「いま呉楚が反したが、袁盎はどう考えるか」と。袁盎「憂う必要はない」。天子「呉王は山で銭を誅し、海水を煮て塩をつくり、天下の豪傑を財物で誘った。白髪頭で(老齢だから思慮深いはずで)計画が万全でなく、行動を起こすことがあろうか。どうして憂う必要がないのか」。袁盎「呉国には、銅銭と塩の利得があるが、豪傑を誘うことができない。本当に呉国に豪傑がいるなら、呉王を適切に輔佐して、謀反なんかさせないはずだ。呉国は、無頼の子弟や亡命した者をあつめただけ。財物に目がくらみ、呉王に乱を誘ったのだ」と。晁錯「袁盎の策は優れている」。天子「袁盎はどうやって、その見解を得たのか」。晁錯「人払いをして下さい」。
天子は左右の者を遠ざけた。晁錯だけが残った。袁盎「私が今から言うことは、人臣が聞いてはならぬことだ」と。晁錯を遠ざけた。晁錯は追い出されて、ひどく恨んだ。
天子が袁盎に問う。袁盎「呉楚は、高皇帝の子弟として封地をもらったが、いま賊臣の晁錯が諸侯から封地を削り取る。ゆえに呉楚は反して、西に進軍して晁錯を討ち、旧来の封地を回復せよと言っている。いま晁錯を(天子が長安のなかで先手を打って)斬り、呉楚七国の封地をもどせば、彼らは血刃を引っこめて軍を解散する」と。だから呉楚七国の乱は、憂う必要がないと袁盎はいう。そりゃあ、晁錯の前で言うことができない。
於是上默然良久,曰:「顧誠何如?吾不愛一人以謝天下。」盎曰:「愚計出此,唯上孰計之!」乃拜盎為太常,密裝治行。後十餘日,上令丞相青、中尉嘉、廷尉歐劾奏錯:「不稱主上德信,欲疏群臣、百姓,又欲以城邑予吳,無臣子禮,大逆無道。錯當要斬,父母、妻子、同產無少長皆棄市。」制曰:「可。」錯殊不知。壬子,上使中尉召錯,紿載行市,錯衣朝衣斬東市。上乃使袁盎與吳王弟子宗正德侯通使吳。天子はながく黙然として、「顧るに誠に何如。吾 一人を愛せずして以て天下に謝すか」と。袁盎は「私の考えは言いました。ただ採用するかは天子次第です」と。天子は袁盎を太常として、ひそかに装って(晁錯を)治行させた。10余日後、天子は丞相の陶青、中尉の某嘉、廷尉の張歐に、晁錯を劾奏させた。「天子の德信とたたえず、群臣・百姓を疎みあわせ、城邑を呉に与えろという。晁錯には臣子の禮がなく、大逆・無道である。晁錯は腰斬にすべきだ。父母・妻子、同産の者は、少長となく、みな棄市せよ」と。天子は制書に「可」とした。晁錯は、ことに知らず、壬子、天子は中尉に晁錯を召させ、あざむいて(市中に行きますから)と言って車に載せた。晁錯は朝衣を着て、東市で斬られた。天子は、袁盎と呉王の弟の子である宗正をする德侯の劉通に、呉王へ使いさせた。
謁者僕射鄧公為校尉,上書言軍事,見上,上問曰:「道軍所來,聞晁錯死,吳、楚罷不?」鄧公曰:「吳為反數十歲矣;發怒削地,以誅錯為名,其意不在錯也。且臣恐天下之士拑口不敢復言矣。」上曰:「何哉?」鄧公曰:「夫晁錯患諸侯強大不可制,故請削之以尊京師,萬世之利也。計畫始行,卒受大戮。內杜忠臣之口,外為諸侯報仇,臣竊為陛下不取也。」於是帝喟然長息曰:「公言善,吾亦恨之!」謁者僕射の鄧公は校尉となり、上書して軍事のことをいう。天子は見て、問うた。「長安に向かっている軍は、晁錯が死んだと聞いたはず。呉楚は進軍をやめないか」と。鄧公「呉王が天子に反して、数十年がたつ。怒りのきっかけは晁錯による封地の削減なので、晁錯の誅殺を名目にした。だが真意は晁錯にない。私は天下の士たちが(天子のミスを指摘できず)口を閉ざすのを恐れる」と。天子「どうしよ」。鄧公「晁錯は諸侯が強大となり、制せないのを恐れた。ゆえに諸侯を削り、天子を尊くした。万世の利である。だが晁錯は、最後は大戮を受けた。内では忠臣の口を閉ざし、外では諸侯に報仇させる。私は陛下のために、晁錯を殺すべきでないと思う」と。天子は喟然と長息して、「公の言や善し。吾 亦 之を恨む」と。
呉王が「東帝」を称し、周亜夫に敗れる
袁盎、劉通至吳,吳、楚兵已攻梁壁矣。宗正以親故,先入見,諭吳王,令拜受詔。吳王聞袁盎來,知其欲說,笑而應曰:「我已為東帝,尚誰拜!」不肯見盎,而留軍中,欲劫使將;盎不肯,使人圍守,且殺之。盎得間,脫亡歸報。袁盎・劉通が呉にいたる。呉楚の兵は、すでに梁国の城壁を攻める。宗正は呉王の親族なので、先に呉王に会い、呉王に「詔を受けろ」と諭した。呉王は袁盎がきたと聞いて、どうせ天子に従えと説得するのだろうと考え、笑って応じた。「私はすでに東帝である。なお誰に拝する必要があるか」と。袁盎に会うことを認めず、軍中に留め置いた。将に袁盎を劫させた。袁盎はこの状況を許さず、護衛に囲んで守らせ、呉将を殺した。袁盎はすきを見つけて、脱出して長安に報告した。
太尉亞夫言於上曰:「楚兵剽輕,難與爭鋒,願以梁委之,絕其食道,乃可制也。」上許之。亞夫乘六乘傳,將會兵滎陽。發至霸上,趙涉庶說亞夫曰:「吳王素富,懷輯死士久矣。此知將軍且行,必置間人於殽、澠厄狹之間;且兵事上神密,將軍何不從此右去,走藍田,出武關,抵洛陽!間不過差一二日,直入武庫,擊鳴鼓。諸侯聞之,以為將軍從天而下也。」太尉如其計,至洛陽,喜曰:「七國反,吾乘傳至此,不自意全。今吾據滎陽,滎陽以東,無足憂者。」使吏搜殽、澠間,果得吳伏兵。乃請趙涉為護軍。太尉の周亜夫は天子にいう。「楚兵は剽輕であり、正面から鋒を交えても勝てない。梁国を捨てて、呉軍の兵糧の補給路を断てば、呉軍を制することができる」と。天子はこれを許した。
周亜夫は6乗だての傳車に乗り、兵を(粟を備蓄する)栄陽に集めようとした。出発して覇上に至ると、趙渉が周亜夫を遮った。「呉王はもとより富み、財物をつかって死士を懐けて集めて久しい。もし周亜夫が栄陽を目指すと知れば、必ず殽・澠の間で挟撃してくる。孝兵事は神密なるを尊ぶ。周亜夫は、この右より行かないか。つまり、藍田を走り、武關を出でて、洛陽に抵たれ。到着する日は、1日か2日しか違わない。
左からゆけば、呉王に挟撃されるリスクのある、殽・澠を通らねばならない。右からゆき、わざと迂回すれば、藍田・武関・洛陽を通ることになる。これは迂回に違いないが、左からゆく場合と比べても、1日か2日しか、遅れない。兵は、行き先を悟らせずに、「神密」であることが重要なので、いまは迂回したほうが良いよと。ただちに洛陽の武庫を抑え、鼓を打ち鳴らせ。諸侯はこれを聞けば、周亜夫のために天下から集まってくる」と。
周亜夫は合意して、洛陽に到った。周亜夫は喜び、「七国が反したが、私は傳車に乗って洛陽に来たからには、敵は意志を全うできない。いま私が(洛陽からさらに移動して)栄陽に拠れば、栄陽より東は心配いらない」と。吏に(左周りの経路であった)殽・澠の間を捜索させると、果たして呉王の伏兵がいた。(正しい進軍経路を進言してくれた)趙渉を護軍にした。
太尉引兵東北走昌邑。吳攻梁急,梁數使使條侯求救,條侯不許。又使使訴條侯於上。上使告條侯救梁,亞夫不奉詔,堅壁不出;而使弓高侯等將輕騎兵出淮泗口,絕吳、楚兵後,塞其饟道。梁使中大夫韓安國及楚相尚弟羽為將軍;羽力戰,安國持重,乃得頗敗吳兵。吳兵欲西,梁城守,不敢西;即走條侯軍,會下邑,欲戰。條侯堅壁不肯戰;吳糧絕卒饑,數挑戰,終不出,條侯軍中夜驚,內相攻擊,擾亂至帳下,亞夫堅臥不起,頃之,復定。吳奔壁東南陬,亞夫使備西北;已而其精兵果奔西北,不得入。吳、楚士卒多饑死叛散,乃引而去。二月,亞夫出精兵追擊,大破之。吳王濞棄其軍,與壯士數千人夜亡走;楚王戊自殺。太尉の周亜夫は、兵をひき東北にゆき昌邑にゆく。
呉軍が梁国を厳しく攻める。梁国は條侯を使者にして、しばしば救援を求めたいが、條侯は任務を受けない。
勃海に脩県がある。條侯はここの侯爵である。梁孝王は條侯に「天子への使者となれ」という。天子の使者は、條侯に「漢軍が梁国を救うぞ」と告げた。だが漢軍をひきいる周亜夫は詔に従わず(梁孝王のいる睢陽を救わず、昌邑に向かったので)梁孝王は壁を堅くして出ない。
(周亜夫が梁孝王を救わぬ一方で)弓高侯らは軽騎をひきいて、淮泗口に出て、呉楚の兵の後ろを絶ち、食糧の補給路を塞いだ。梁孝王は中大夫の韓安国、楚相の張尚の弟の張羽を将軍とした。張羽は力戦したが、韓安国は持重して(一丸となって戦わず)呉軍にひどく敗れた。呉軍は西にむかいたいが、梁国が睢陽を堅守するので、あえて西にゆかない。呉軍は條侯を破って、下邑(梁国)にきて、戦いたい。條侯は壁を堅くして、戦いに応じない。呉軍の兵糧が続かず、兵卒が飢えたので、しばしば挑戦するが、條侯は出ない。
條侯の軍中は、夜に驚いて同士討ちをして、條侯の帳下まで騒いだ。だが周亜夫はじっと臥して立たない。周亜夫が落ち着いているうちに、條侯の軍中は静まった。
呉軍は東南の隅の城壁にはしったが、周亜夫は西北の城壁を備えた。呉軍の精鋭は、じつは西北にいたのだが、周亜夫の準備のために入城できず。
呉楚の兵士はおおくが飢えて死に、叛いて散った。梁孝王の包囲を解いて去った。
呉楚七国の主力は、けっきょく梁孝王を囲んで、陥落させることが出来ずに、兵糧が絶えて、包囲を維持できなくなったと。これだけの話。2月、周亜夫は精兵で追撃して、呉楚を大破した。呉王の劉濞は軍を棄て、壮士の数千とともに夜に逃げた。楚王の劉戊は自殺した。
呉王の最期
吳王之初發也,吳臣田祿伯為大將軍。田祿伯曰:「兵屯聚而西,無它奇道,難以立功。臣願得五萬人,別循江、淮而上,收淮南、長沙,入武關,與大王會,此亦一奇也。」吳王太子諫曰:「王以反為名,此兵難以借人,人亦且反王,奈何?且擅兵而別,多它利害,徒自損耳!」吳王即不許田祿伯。呉王が初めて発するとき、吳臣の田禄伯を大將軍とした。田祿伯「兵屯をあつめて西にゆくのは、奇道ではなく、成功しにくい。私に5万の兵をくれたら、江淮をさかのぼり、武関から入って(長安で)呉王を迎えよう。これが奇策だ」と。呉王の太子が諌めた。「呉王は『天子に反く』という名目で起兵するが、これでは兵から力を借りることが難しい。兵たちは呉王にも反くだろう。そう思わないか。いま兵を2つに分けて(5万を別行動させたら)利害を共有しなくなる(別働隊が漢に降る可能性もある)。自ら、5万の兵を手放すようなものだ」と。呉王は田禄伯に別働させず。
けっきょく呉王は、梁孝王の城を落とせずに、それだけで終わった。こういう奇策に対する「もしかしたら」という思いは、残る。諸葛亮と魏延と同じである。
吳少將桓將軍說王曰:「吳多步兵,步兵利險;漢多車騎,車騎利平地,願大王所過城不下,直去,疾西據洛陽武庫,食敖倉粟,阻山河之險以令諸侯,雖無入關,天下固已定矣。大王徐行留下城邑,漢軍車騎至,馳入梁、楚之郊,事敗矣。」吳王問諸老將,老將曰:「此年少,椎鋒可耳,安知大慮!」於是王不用桓將軍計。吳少將の桓將軍は、呉王に説いた。「吳は歩兵がおおく、歩兵は険しい地形で有利である。漢は車騎がおおく、車騎は平地で有利である。呉王は、通過地点にある城を攻略せず、まっすぐ進み、はやく西にゆき、洛陽の武庫と、敖倉の粟庫を抑えろ。山河の険しい地形にこもって諸侯に号令せよ。そうすれば、長安への関を突破しなくても、天下は定まるだろう。呉王が徐行して、留まって通過地点の城邑を攻略するうちに、漢軍の車騎が到着する。梁・楚の郊外に漢軍が馳入すれば(郊外は平地なので)呉王は敗れる」と。吳王は老將たちに聞く。老將「桓将軍は年少だから、敵の先鋒を攻撃したいだけだ。桓将軍が大慮を知るものか」と。ここにおいて桓将軍の計略を用いない。
ぼくは思う。周亜夫は、洛陽と栄陽を抑えてから、梁国を救援した。呉軍は、敖倉を抑えることもなく、兵糧が絶えて、梁国を攻めきれなかった。桓将軍の計画というのも、もしかしたら、呉軍が勝ったかも、と思わせる惜しいアイディアです。
王專並將兵。兵未度淮,諸賓客皆得為將、校尉、候、司馬,獨周丘不用。周丘者,下邳人,亡命吳,酤酒無行;王薄之,不任。周丘乃上謁,說王曰:「臣以無能,不得待罪行間。臣非敢求有所將也,願請王一漢節,必有以報。」王乃予之。周丘得節,夜馳入下邳;下邳時聞吳反,皆城守。至傳舍,召令入戶,使從者以罪斬令,遂召昆弟所善豪吏告曰:「吳反,兵且至,屠下邳不過食頃;今先下,家室必完,能者封侯矣。」出,乃相告,下邳皆下。周丘一夜得三萬人,使人報吳王,遂將其兵北略城邑;比至陽城,兵十餘萬,破陽城中尉軍;聞吳王敗走,自度無與共成功,即引兵歸下邳,未至,疽發背死。呉王は将兵の人事を思いどおりにした。兵が淮水を渉り終える前、賓客は、将・校尉・候・司馬になれた。ただ周丘だけが用いられない。周丘は下邳の人で、呉国に亡命してきた。酒を飲むと行いが乱れ、呉王に疎まれて任じられない。周丘は上謁して、呉王にいう。「私は無能だが、罪を待って時間を過ごしたくない。王が漢の節を1つ与えてくれたら、呉王に報いよう」と。王は周丘に節を与えた。
周丘は節をもらうと、夜に馳せて下邳に入った。下邳は、呉王が反したと聞き、みな城を守る。周丘は傅舎にゆき、戸から入らせた。従者に(節の権限に基づき)罪を理由に下邳の守兵を斬らせた。周丘は、彼の昆弟と仲のよい豪吏に告げた。「呉王が反して、兵が下邳に至りそうだ。すぐに下邳をほふるだろう。いま先に呉王に下れば、家室は必ず全うでき、功績があれば侯爵なれるかも知れない」と。出て、下邳の守兵たちに知らせあった。下邳はくだった。
周丘は1夜で下邳の3万人を得て、呉王に知らせた。周丘は3万をひきいて、北上して城邑を侵略した。陽城に至るころ、10余万となる。陽城中尉の軍をやぶった。
『漢書』は城陽とするが、地理的には陽城であると。やがて呉王の敗走を聞いて、周丘は下邳に帰った。下邳に到着する前に、背中にできものができて、周丘は死んだ。
胡三省はいう。呉王は才能を用いられず、敗れたのだ。ぼくは思う。この一言を胡三省に総括させるために、司馬光は、さまざまな「未遂」の戦略を紹介したのだ。
壬午晦,日有食之。吳王之棄軍亡也,軍遂潰,往往稍降太尉條侯及梁軍。吳王渡淮,走丹徒,保東越,兵可萬餘人,收聚亡卒。漢使人以利啖東越,東越即紿吳王出勞軍,使人鏦殺吳王,盛其頭,馳傳以聞。吳太子駒亡走閩越。吳、楚反,凡三月,皆破滅,於是諸將乃以太尉謀為是;然梁王由此與太尉有隙。壬午みそか、日食あり。吳王が軍を棄てて逃亡すると、呉軍は潰えた。太尉の周亜夫、條侯および梁軍に降った。呉王は淮水をわたり、丹徒ににげて、東越にとりでする。兵は1万余人いて、亡卒を収容した。漢の使は、利で東越の人を釣った。東越の人は、呉王をあざむいて、出て軍を労わせ、呉王を戟で刺殺した。呉王の頭を盛って、傳を馳せて長安に報告した。吳太子の劉駒は、閩越に亡走した。
呉楚が反して、およそ3ヶ月で、みな破滅した。諸將は、周亜夫の謀略が正しいと認めた。だが梁王は、周亜夫と仲が悪くなった。
周亜夫は、梁孝王を最優先に救ってくれなかったから。これが、周亜夫の短所を天子にふきこむ張本である。
膠西王が斉国を囲む(呉楚以外の戦局)
三王之圍臨菑也,齊王使路中大夫告於天子。天子復令路中大夫還報,告齊王堅守,「漢兵今破吳楚矣。」路中大夫至,三國兵圍臨菑數重,無從入。三國將與路中大夫盟曰:「若反言:『漢已破矣,齊趣下三國,不,且見屠。』」路中大夫既許,至城下,望見齊王曰:「漢已發兵百萬,使太尉亞夫擊破吳、楚,方引兵救齊,齊必堅守無下!」三國將誅路中大夫。齊初圍急,陰與三國通謀,約未定;會路中大夫從漢來,其大臣乃復勸王無下三國。會漢將欒布、平陽侯等兵至齊,擊破三國兵。解圍已,後聞齊初與三國有謀,將欲移兵伐齊。齊孝王懼,飲藥自殺。3王(膠西・膠東・菑川の王)が斉国の臨菑をかこむと、斉王は路中大夫をやって天子に危機をつげた。天子は路中大夫を返して、「斉王は堅守しろ。漢兵がいまに呉楚を破る」という。路中大夫が臨菑にもどっても、包囲が厚くて入城できない。包囲する3国の将は、路中大夫に誓わせた。「もし城内にもどったら、『すでに漢は敗れた。斉国は早く下さないと、皆殺しにされる』と」と。路中大夫は同意して、城下にゆき、城内にいる斉王を見ると、「漢兵はすでに百万の兵を発した。太尉の周亜夫が呉楚を破って、斉を救いにくる。堅守して下るな」と(事前の約束を破って本当のことを斉王に告げた)。3国の将は路中大夫を殺した。
はじめ斉国は、包囲がきついので、ひそかに3国と通謀しようとしたが、まだ約束が定まらない。そのころ路中大夫が「漢兵がくる」というので、斉国の大臣は「やっぱり3国に下るな」と説得した。ちょうど漢將の欒布・平陽侯の曹氏らがきて、3国の兵を撃破した。包囲がとけ、斉国に3国と通じる意志もあったと知った漢軍は、斉王を伐とうとした。斉孝王は懼れ、毒を飲んで自殺した。
膠西、膠東、菑川王各引兵歸國。膠西王徒跣、席蒿、飲水謝太后。王太子德曰:「漢兵還,臣觀之,已罷,可襲,願收王餘兵擊之!不勝而逃入海,未晚也。」王曰:「吾士卒皆已壞,不可用。」弓高侯韓頹當遺膠西王書曰:「奉詔誅不義,降者赦除其罪,復故;不降者滅之。王何處?須以從事。」王肉袒叩頭,詣漢軍壁謁曰:「臣卬奉法不謹,驚駭百姓,乃苦將軍遠道至於窮國,敢請菹醢之罪!」弓高侯執金鼓見之曰:「王苦軍事,願聞王發兵狀。」王頓首膝行,對曰:「今者晁錯天子用事臣,變更高皇帝法令,侵奪諸侯地。卬等以為不義,恐其敗亂天下,七國發兵且誅錯。今聞錯已誅,卬等謹已罷兵歸。」將軍曰:「王苟以錯為不善,何不以聞?及未有詔、虎符,擅發兵擊義國?以此觀之,意非徒欲誅錯也。」乃出詔書,為王讀之,曰:「王其自圖!」王曰:「如卬等死有餘罪!」遂自殺,太后、太子皆死。膠東王、菑川王、濟南王皆伏誅。膠西・膠東・菑川の王は、兵をひいて帰国した。膠西王は、はだしで、ワラに座り、水を飲んで、母の太后に謝った。王太子の劉德はいう。「漢兵は還った。私が見るに、追撃のチャンスがある。勝てなければ、その後で逃げて海に入っても遅くない」と。膠西王「わが士卒は、みな壊れた。使えない」と。弓高侯の韓頹は、膠西王に文書を与えた。「天子に降れば罪を許され、旧来の待遇にもどされる。降らねば滅ぼされる。膠西王はどっちにする。天子の従事がくるのを待て」と。膠西王は肉袒・叩頭して、漢軍に詣でて壁謁した。「ごめん」と。弓高侯は金鼓を執ってこれを見て、「王は漢の軍事を苦しめた。どうして起兵したか説明してもらおう」と。膠西王は頓首・膝行していう。「いま晁錯が天子に用いられ、高皇帝の法令を変えて、諸侯から土地を奪う。晁錯は不義であり、彼が天下を敗乱天させることを恐れ、七国の兵を発した。すでに晁錯が誅されたと聞き、兵を引いたのです」と。漢の將軍「もし膠西王が晁錯が善くないと考えるなら、なぜ天子に上聞しない。どうして天子の詔書・虎符がないのに、かってに兵を発したか。起兵の真意は、晁錯の誅殺にないのでは」と。漢の将軍は詔書を出して、王にこれを読ませ、「王は自ら図った(晁錯の誅殺でなく、自分の利益のために起兵した)」という。膠西王「起兵した我らは、死んでも罪を償いきれない」と。ついに自殺した。膠西王の太后・太子も死んだ。膠東王・菑川王・濟南王も、みな誅された。
酈將軍兵至趙,趙王引兵還邯鄲城守。酈寄攻之,七月不能下。匈奴聞吳、楚敗,亦不肯入邊。欒布破齊還,並兵引水灌趙城。城壞,王遂自殺。
帝以齊首善,以迫劫有謀,非其罪也,召立齊孝王太子壽,是為懿王。酈將軍の兵が趙国にいたると、趙王は兵をひいて邯鄲(趙国)にもどって城を守る。酈将軍が邯鄲に攻め寄せるが、7ヶ月たっても下せず。匈奴は、呉楚が敗れたと聞き、入辺(して呉楚に援軍する)のに同意しない。欒布は斉をやぶって還り、兵は水をひいいて趙城を水没させた。城が壊れ、趙王の劉遂は自殺した。
帝は、はじめは斉国に叛意がなく、ちょっとだけ叛意が生じたのは厳しい包囲のせいだと考え、罪としなかった。斉孝王の太子の劉壽を、懿王とした。
濟北王亦欲自殺,幸全其妻子。齊人公孫玃謂濟北王曰:「臣請試為大王明說梁王,通意天子;說而不用,死未晚也。」公孫玃遂見梁王曰:「夫濟北之地,東接強齊,南牽吳、越,北脅燕、趙。此四分五裂之國。權不足以自守,勁不足以捍寇,又非有奇怪雲以待難也;雖墜言於吳,非其正計也。鄉使濟北見情實,示不從之端,則吳必先歷齊,畢濟北,招燕、趙而總之,如此,則山東之從結而無隙矣。今吳王連諸侯之兵,驅白徒之眾,西與天子急衡,濟北獨底節不下;使吳失與而無助,跬步獨進,瓦解土崩,破敗而不救者,未必非濟北之力也。夫以區區之濟北而與諸侯爭強,是以羔犢之弱而扞虎狼之敵也。守職不橈,可謂誠一矣。功義如此,尚見疑於上,脅肩低首,累足撫衿,使有自悔不前之心,非社稷之利也。臣恐籓臣守職者疑之。臣竊料之,能歷西山,徑長樂,抵未央,攘袂而正議者,獨大王耳。上有全亡之功,下有安百姓之名,德淪於骨髓,恩加於無窮,願大王留意詳惟之。」孝王大悅,使人馳以聞;濟北王得不坐,徙封於菑川。済北王もまた自殺しようとしたが死なず、妻子も生き存えた。斉人の公孫玃が済北王にいう。「済北王のために、梁王を通じて天子に申し開きをしよう。これに失敗してから死んでも遅くない」と。公孫玃は梁王にいう。「済北の地は、東は斉国を支援し、南は呉越を牽制し、北は燕趙に脅迫される地勢にある。四分五裂の国と言えましょう。権力は自守するに足らず、強さは周囲を討つには足りない。
これは、後漢末に曹操がいた兗州の地勢そのもの。呉国の脅迫に屈したが、本心ではない。呉軍はさきに斉国をとおり、斉国を落としたら済北にきて、燕・趙を招いて済北を攻めただろう。山東の各方面から包囲されたら敵うはずがない。呉王は諸侯の兵を連ねて、西は長安の天子を急衡したが、わが済北だけは呉軍に下らなかった(長安の攻撃に加担しなかった)。敗れた呉王を助けもしなかった。これは、わが済北の功績ではないですか。ムリゲーな地勢のなかで、最低限は漢軍の役に立ったのです。どうか梁王から天子に口添えして、情状酌量してくれませんか」と。梁孝王は大悦して、天子に口添えした。
済北王は、封地の維持までは許されず、菑川に移された。
河間王太傅衛綰擊吳、楚有功,拜為中尉。綰以中郎將事文帝,醇謹無它。上為太子時,召文帝左右飲,而綰稱病不行。文帝且崩,屬上曰:「綰長者,善遇之。」故上亦寵任焉。河間王太傅の衛綰は、呉楚を撃つ功績があり、中尉となる。衛綰は中郎将として文帝に仕えたとき、醇謹(淳厚謹慎)で並ぶ者がない。天子が太子のとき、文帝の左右の者を召して飲んだ。だが衛綰は病気といって、飲みにこない。文帝が崩じるとき、「衛綰は長者である。善く遇せよ」と遺詔した。ゆえに天子は、衛綰を寵任した。
夏,六月,乙亥,詔:「吏民為吳王濞等所詿誤當坐及逋逃亡軍者,皆赦之。」帝欲以吳王弟德哀侯廣之子續吳,以楚元王子禮續楚。竇太后曰:「吳王,老人也,宜為宗室順善;今乃首率七國紛亂天下,奈何續其後!」不許吳,許立楚後。乙亥,徙淮陽王餘為魯王;南王非為江都王,王故吳地;立宗正禮為楚王;立皇子端為膠西王,勝為中山王。夏6月乙亥、詔した。「吏民のうち、呉王の劉濞に巻きこまれて罪を犯したり、軍から逃亡した者は、みな赦す」と。
天子は、呉王の弟の劉広の子に、呉国を継承させたい。楚元王の子の劉禮に楚国を継承させたい。竇太后がいう。「呉王は老人であり、宗室の秩序を守るべき立場なのに、七国の兵を主導した。呉国を継承させるな」と。呉国の継承は許さず、楚国の継承は許した。……140621
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- (前153-150) 太子の劉栄を廃し、劉徹が立つ
景帝前N年とされる時期の残りです。
景帝前四年(前153)
春,復置關,用傳出入。夏,四月,己巳,立子榮為皇太子,徹為膠東王。六月,赦天下。秋,七月,臨江王閼薨。冬,十月,戊戌晦,日有食之。春、関をまた設置し、割符をつかって出入させる。夏4月、劉栄を皇太子として、劉徹(のちの武帝)を膠東王とする。……
初,吳、楚七國反,吳使者至淮南,淮南王欲發兵應之。其相曰:「王必欲應吳,臣願為將。」王乃屬之。相已將兵,因城守,不聽王而為漢,漢亦使曲城侯將兵救淮南,以故得完。
吳使者至廬江,廬江王不應,而往來使越。至衡山,衡山王堅守無二心。及吳、楚已破,衡山王入朝。上以為貞信,勞苦之,曰:「南方卑濕。」徙王王於濟北以褒之。廬江王以邊越,數使使相交,徙為衡山王,王江北。はじめ呉楚七国がそむくと、呉国の使者は淮南にいき、淮南王は起兵して応じた。淮南相「淮南王が呉に応じるとき、きっと私を将軍にしてね」と。淮南王は認めた。淮南相は兵をひきいて城を守り、淮南王から全権を預かって(淮南王の意志に反して、呉王に応じず)漢のために城を守った。漢は曲城侯の蟲捷に淮南を救わせた。(淮南相が内側から漢に味方するので)淮南城は全うされた。
呉王の使者が廬江にゆくが、廬江王は応じない。そこで呉王は越に使者を往来させた。衡山王も、漢に二心がない。呉楚が敗れた後、衡山王が入朝した。天子は、衡山王を貞信として、苦を労った。「南方の気候は卑湿だ」と。衡山王を済北王に移して、呉楚への対応を褒めて報いた。廬江王は、領地が越との境界にあるので、衡山王に移して、長江の北を治所とさせた。
彼らが呉王に付かないから「呉楚」であり「呉越」の反乱にはならなかった。
景帝前五年(前152)
春,正月,作陽陵邑。夏,募民徙陽陵,賜錢二十萬。遣公主嫁匈奴單于。徙廣川王彭祖為趙王。濟北貞王勃薨。春正月、陽陵(景帝の生前墓)の邑(陵墓の建設者の聚落)をつくる。夏、民を募って陽陵にうつし、銭20万をたまう。公主を匈奴の単于にとつがす。廣川王の劉彭祖を趙王とする。濟北貞王の劉勃が薨じた。
景帝前六年(前151)
冬,十二月,雷,霖雨。初,上為太子,薄太后以薄氏女為妃;及即位,為皇后,無寵。秋,九月,皇后薄氏廢。 楚文王禮薨。冬12月、雷あり霖ふる。はじめ(文帝期)天子(景帝)が太子となったとき、薄太后が薄氏の娘を太子妃とした。天子に即位すると皇后にしたが、寵愛せず。秋9月、皇后の薄氏を廃した。楚文王の劉禮が薨じた。
初,燕王臧荼有孫女曰臧兒,嫁為槐里王仲妻,生男信與兩女而仲死;更嫁長陵田氏,生男蚡、勝。文帝時,臧兒長女為金王孫婦,生女俗。臧兒卜筮之,曰:「兩女皆當貴。」臧兒乃奪金氏婦,金氏怒,不肯予決;內之太子宮,生男徹。徹方在身時,王夫人夢日入其懷。はじめ燕王の臧荼は、孫娘を臧兒という。槐里の王仲の妻となり、男子の王信を生むが、2人の娘とともに王仲が死んだ。あらためて長陵の田氏に嫁ぎ、田蚡と田勝を生んだ。文帝のとき、臧兒の長女が金王孫の妻となり、娘の金俗を生む。臧兒は卜筮して、「娘は2人とも貴となる」という。臧兒は金氏の妻を奪った。金氏は怒るが、絶縁まではせずにいた。これを太子宮に入れると、男子の劉徹を生んだ。劉徹が身ごもられるとき、王夫人は日が懐に入る夢をみた。
女系の複雑さは、文帝・景帝への興味ではなく、武帝の興味に支えられないと、追いかけきれない。いまは『資治通鑑』を読むだけに留める。
及帝即位,長男榮為太子。其母栗姬,齊人也。長公主嫖欲以女嫁太子,栗姬以後宮諸美人皆因長公主見帝,故怒而不許;長公主欲與王夫人男徹,王夫人許之。由是長公主日讒栗姬而譽王夫人男之美;帝亦自賢之,又有曩者所夢日符,計未有所定。王夫人知帝嗛栗姬,因怒未解,陰使人趣大行請立栗姬為皇后。帝怒曰:「是而所宜言邪!」遂按誅大行。天子が即位すると、長男の劉栄を太子とした。母の栗姬は齊人である。長公主の劉嫖(景帝の姉)は、娘を太子の劉栄に嫁がせたい。
長公主は、堂邑侯の陳午にとつぎ、娘を産み、武帝の陳皇后となる。栗姬は後宮の諸美人を全て連れて、長公主に従って天子に面会した。ゆえに天子は怒って(長公主の娘を劉栄の妃にすることを)許さず。長公主は王夫人の子の劉徹に娘を与えたい。劉徹の母・王夫人は許した。これにより長公主は、栗姬を讒言して、王夫の子をほめた。天子も劉徹を賢いと考え(太子は劉栄より劉徹が良いという)夢とも一致するので、太子を決められない。王夫人は、天子が栗姫に不満があるのを知り、怒りが解けないうちに「早く栗氏を皇后にせよ」と促した。天子は「お前が口を出すことではない」と怒って(王夫人の思惑どおり)栗氏を誅することを考えるようになった。
王夫人は、栗氏とライバル関係にあるのだが、「栗氏を皇后に」と促すことで、かえって天子がもつ栗氏への怒りを増幅させて、結論を出させた。
景帝前七年(前150)
冬,十一月,己酉,廢太子榮為臨江王。太子太傅竇嬰力爭不能得,乃謝病免。栗姬恚恨而死。庚寅晦,日有食之。二月,丞相陶青免。乙巳,太尉周亞夫為丞相。罷太尉官。夏,四月,乙巳,立皇后王氏。丁巳,立膠東王徹為皇太子。冬11月己酉、太子の劉栄を廃して臨江王とした。太子太傅の竇嬰は、力爭して反対したが、天子は撤回しない。劉栄の母の栗姬は恚恨して死んだ。庚寅みそか、日食あり。
2月、丞相の陶青を免じる。乙巳、太尉の周亞夫を丞相とする。太尉の官職をやめる。夏4月乙巳、王氏を皇后に立てる。丁巳、膠東王の劉徹を皇太子とする。武帝である。
是歲,以太僕劉舍為御史大夫,濟南太守郅都為中尉。
始,都為中郎將,敢直諫。嘗從入上林,賈姬如廁,野彘卒來入廁。上目都,都不行;上欲自持兵救賈姬。都伏上前曰:「亡一姬,復一姬進,天下所少,寧賈姬等乎!陛下縱自輕,奈宗廟、太后何!」上乃還,彘亦去。太后聞之,賜都金百斤,由此重都。都為人,勇悍公廉,不發私書,問遺無所受,請謁無所聽。及為中尉,先嚴酷,行法不避貴戚。列侯、宗室見都,側目而視,號曰「蒼鷹」。この歳、太僕の劉舍を御史大夫とした。済南太守の郅都を中尉とした。
はじめ郅都は中郎将になり、敢へて直諫す。かつて天子に従って上林に入り、賈姬が厠所に行く。にわかに野ブタがきて厠所に入った。天子は郅都に(ブタを止めろと)視線をおくるが、郅都は行かず。天子はみずから兵を持して賈姬を救った。郅都は天子の前に付した。「1人の姫を失っても、また別の姫を仕えさせればいい。天下にとって少なくて貴重なのは、賈氏のような姫でしょうか(いいえ貴重なのは陛下の身です)。陛下が(ブタにケガをさせられたら)宗廟・太后をどうするのか」と。天子はもどり、ブタも去った。
竇太后はこれを聞き、郅都に金百斤を賜って、重用した。
郅都の人となりは、勇悍・公廉であり、私書を発さず、問えば全て答え、謁を請いて聴く所無し。中尉になると、先んじて厳酷たりて、法を行なふに貴戚を避けず。列侯・宗室 都にあえば、側目して視る。郅都は「蒼鷹」とよばれた。140621
貴戚にも容赦なく法を適用して、名をあげるのは、曹操も同じパターンである。爵位が高いと、法を適用されないという常識があるこの時代において、珍しいこと。たとえば現代日本で、法が適用されなはずの小さな子供の行為にも、厳密に対応する警察官とか、、そんなイメージかな。閉じる
- (前149-144) 梁孝王の始末
景帝中N年の時代をやります。
景帝中元年(前149)
夏,四月,乙巳,赦天下。地震。衡山原都雨雹,大者尺八寸。
景帝中二年(前148)梁孝王がこじれる
春,二月,匈奴入燕。
三月,臨江王榮坐侵太宗廟壖垣為宮,征詣中尉府對簿。臨江王欲得刀筆,為書謝上,而中尉郅都禁吏不予;魏其侯使人間與臨江王。臨江王既為書謝上,因自殺。竇太后聞之,怒,後竟以危法中都而殺之。
夏,四月,有星孛於西北。立皇子越為廣川王,寄為膠東王。
秋,九月,甲戌晦,日有食之。春2月、匈奴 燕に入る。
3月(天子の廃太子)臨江王の劉栄は、太宗廟の壖垣をやぶって宮を作ったとして、長安にめされて中尉府にゆき、裁判の文書作成に答弁させられた。
景帝が即位した当初、天下の郡国に、太祖廟と太宗廟をつくらせた。劉栄が壊したのは、臨川国の郡国廟である。長安のオリジナルの廟ではない。臨江王の劉栄は、刀筆を使って文書を作成し、天子に謝りたい。だが中尉の郅都は、担当の吏に「臨川王に刀筆を与えるな」と命じてあった。魏其侯は人を忍びこませて、臨江王に刀筆を与えた。臨川王は、天子に謝る文書をつくって自殺した。竇太后はこれを聞いて怒り、法を濫用したとして郅都を殺した。
あとは抄訳をはぶく。
初,梁孝王以至親有功,得賜天子旌旗。從千乘萬騎,出蹕入警。王寵信羊勝、公孫詭,以詭為中尉。勝、詭多奇邪計,欲使王求為漢嗣。栗太子之廢也,太后意欲以梁王為嗣,嘗因置酒謂帝曰:「安車大駕,用梁王為寄。」帝跪席舉身曰:「諾。」罷酒,帝以訪諸大臣,大臣袁盎等曰:「不可。昔宋宣公不立子而立弟,以生禍亂,五世不絕。小不忍,害大義,故《春秋》大居正。」由是太后議格,遂不復言。王又嘗上書;「願賜容車之地,徑至長樂宮,自梁國士眾築作甬道朝太后。」袁盎等皆建以為不可。はじめ梁孝王は、天子と血縁がもっとも近く、呉楚を破った功績があるので、天子の旌旗をもらった。梁孝王は、羊勝・公孫詭らを用いた。彼らは梁孝王を天子にしたい。栗太子が廃されたとき、竇太后は「梁孝王を天子の後嗣にしたい」と思った。竇太后は天子と酒を飲んだとき、「車大駕を安じ、梁王を用て寄と為せ」と。
うまく訳せなかったので、書き下しでごまかした。梁孝王を天子の太子とせよ、ということの遠回しの表現ですが。天子は席にひざで立ち、身を起こして「よい」といった。酒席がおわり、天子が大臣たちの前にいくと、袁盎らがいう。 「むかし宋宣公は、子でなく弟を後嗣にして、5代にわたって乱が起きた。『公羊伝』も、子を立てろと言っている」と。これを聞いて竇太后も「梁孝王を皇太弟に」と言わなくなる。
梁孝王はかつて上書した。「長安のなかで馬車を止める場所を与えてほしい。そこから長楽宮に直通したい。封地の梁国から人手を連れてきて甬道をつくり、長楽宮の竇太后に会いにゆけるように整備したい」と。袁盎らが反対意見を建議した。
梁王由此怨袁盎及議臣,乃與羊勝、公孫詭謀,陰使人刺殺袁盎及他議臣十餘人。賊未得也,於是天子意梁;逐賊,果梁所為。上遣田叔、呂委主往按梁事,捕公孫詭、羊勝;詭、勝匿王后宮,使者十餘輩至梁,責二千石急。梁相軒丘豹及內史韓安國以下舉國大索,月餘弗得。安國聞詭、勝匿王所,乃入見王而泣曰:「主辱者臣死。大王無良臣,故紛紛至此。今勝、詭不得,請辭,賜死!」王曰:「何至此!」安國泣數行下,曰:「大王自度於皇帝,孰與臨江王親?」王曰:「弗如也。」安國曰:「臨江王鱣長太子,以一言過,廢王臨江;用宮垣事,卒自殺中尉府。何者?治天下終不用私亂公。今大王列在諸侯,訹邪臣浮說,犯上禁,橈明法。天子以太后故,不忍致法於大王;太后日夜涕泣,幸大王自改,大王終不覺寤。有如太后宮車即晏駕,大王尚誰攀乎?」語未卒,王泣數行而下,謝安國曰:「吾今出勝、詭。」王乃令勝、詭皆自殺,出之。上由此怨望梁王。梁孝王は、反対意見を建議した、袁盎らを怨んだ。臣の羊勝・公孫詭に計画させ、袁盎ら10余人を刺殺しようとした。暗殺は梁孝王の臣下のしわざだと、天子に気づかれた。天子は、公孫詭・羊勝を捉えた。2人は竇太后の宮に逃げこんだ。天子は(2人が竇太后の宮にいるとは思わず)梁国を捜索させたが、1ヶ月余しても見つからない。
捜索を命じられた梁国内史の韓安国は、梁孝王が2人を匿うと聞いて、梁孝王に泣きついた。「主君が辱められれば、臣下は死ぬもの。梁孝王には良臣がいないから(袁盎の暗殺を計画するような連中のせいで)今日のようになってしまった。2人を引き渡してくれなければ、私は死ぬしかない」と。
梁孝王「羊勝・公孫詭は、どこにいるのやら(私の所にいないぞ)」と。韓安国は泣いて、「梁孝王と皇帝との親しさは、臨江王(廃太子の劉栄)と比べてどちらが上ですか」と。「私のほうが血縁が遠い(子より弟は遠い)」と。韓安国「臨川王は太子になったのに、1つの失言だけで廃された。太宗廟の垣を傷つけたとして、自殺させられた。なぜか。天下が治まれば、『私』によって『公』を乱さないからだ。
天子=景帝は、劉栄が我が子であるという「私」よりも、劉栄が法を破ったから罰するべきだという「公」を優先したんだと。いま梁孝王は藩王だが(臣に袁盎の暗殺を試みさせて)法律を犯した。天子は(2人の実母である)竇太后に忍びないから、梁孝王を法で罰しない。竇太后は、梁孝王が自ら改めないので泣いている。竇太后を悲しませてまで、竇太后の宮に直通する道路を作ってどうするの」と。
韓安国が言い終わらないうちに、梁孝王は泣いて、韓安国に謝した。「羊勝と公孫詭を突きだそう」と。梁孝王は2人を自殺させた。天子はこれにより、梁孝王を怨むようになった。
梁王恐,使鄒陽入長安,見皇后兄王信說曰:「長君弟得幸於上,後宮莫及;而長君行跡多不循道理者。今袁盎事即究竟,梁王伏誅,太后無所發怒,切齒側目於貴臣,竊為足下憂之。」長君曰:「為之奈何?」陽曰:「長君誠能精為上言之,得毋竟梁事;長君必固自結於太后,太后厚德長君入於骨髓,而長君之弟幸於兩宮,金城之固也。昔者舜之弟象,日以殺舜為事,及舜立為天子,封之於有卑。夫仁人之於兄弟,無藏怒,無宿怨,厚親愛而已。是以後世稱之。以是說天子,徼幸梁事不奏。」長君曰:「諾。」乘間入言之。帝怒稍解。梁孝王は(天子の怒りを)恐れて、鄒陽を長安に入らせ、皇后の兄の王信にいう。「竇長君は、皇太后の弟で天子に寵愛されたが、後宮には行けなかった。それでも竇長君の行跡には、道理に合わないものが多かった。いま袁盎は建議して、梁孝王を誅せというが、竇太后は怒らずに、切歯して高官に目配せするだけだ。(行跡において過失のある)竇長君も命が危ないのでは」と。
竇長君「どうしたらよいか」と。
鄒陽「竇長君が心を尽くして天子に説明すれば(袁盎の思惑は外れて)梁孝王は罰せられないでしょう(竇長君も危機が去るはずです)。竇長君が竇太后と親密にすれば、竇太后と王皇后に守ってもらえて、完全に防御できます。むかし舜の弟の象は、舜を殺そうとしたが、舜が天子になると、封建してもらった。兄弟は、怒りや怨みを溜めないもので、この話があるから舜は後世から称えられた。舜の故事を天子(景帝)に話せば、梁孝王は誅されないだろう」と。竇長君「そうしよう」。
舜が弟を許した故事で、景帝に弟の梁孝王を許させようとする。舜は、とても使い道のおおい古代の名君ですね。べつに漢魏革命に限ったことではない。漢魏革命のなかですら、尭舜革命への準拠として参照されることは少ない。竇長君が説得したので、天子は怒りを解いた。
是時,太后憂梁事不食,日夜泣不止,帝亦患之。會田叔等按梁事來還,至霸昌廄,取火悉燒梁之獄辭,空手來見帝。帝曰:「梁有之乎?」叔對曰:「死罪。有之。」上曰:「其事安在?」田叔曰:「上毋以梁事為問也。」上曰:「何也?」曰:「今梁王不伏誅,是漢法不行也;伏法而太后食不甘味,臥不安席,此憂在陛下也。」上大然之,使叔等謁太后,且曰:「梁王不知也。造為之者,獨在幸臣羊勝、公孫詭之屬為之耳,謹已伏誅死,梁王無恙也。」太后聞之,立起坐餐,氣平復。このとき皇太后は、梁孝王を心配して食わず、日夜 泣き止まない。天子も心配した。田叔らが、梁孝王の罪状を焼いて、手ぶらで天子に会う。天子「梁孝王の罪状は」。田叔「死罪です。証拠の文書はここにあります(わざと焼いたから、敢えて手ぶらですけど)」。天子「どこに」。田叔「天子はもう梁孝王のことを問わないで下さい」。天子「なぜ」。田叔「いま梁孝王を誅さねば、漢の法が行われない。梁孝王を誅せば、竇太后は食事をとらず、臥せってしまい、陛下も心配になる」と。天子は同意して、田叔を竇太后に合わせた。田叔「梁孝王は、袁盎の暗殺に関与しない。臣下の羊勝・公孫詭が、かってにやったことだ。2人はすでに誅したから、梁孝王に罪は及ばない」と。竇太后は立って食事をとり、気力を回復した。
天子の実母・竇太后が、漢の法をねじまげさせる。
梁王因上書請朝。既至關,茅蘭說王,使乘布車,從兩騎入,匿於長公主園。漢使使迎王,王已入關,車騎盡居外,不知王處。太后泣曰:「帝果殺吾子!」帝憂恐。於是梁王伏斧質於闕下謝罪。太后、帝大喜,相泣,復如故,悉召王從官入關。然帝益疏王,不與同車輦矣。帝以田叔為賢,擢為魯相。梁孝王は、死体を運ぶための布車に乗って、長公主の園に匿われた。天子の使者が梁孝王を迎えた。梁孝王は関から入ったが、車騎を外に置きっぱなしで、梁孝王の居場所が分からない。竇太后「皇帝がついに我が子を殺しちゃった」と。梁孝王は、闕下に現れて謝罪した。竇太后と天子は喜び、泣きあって、梁孝王の待遇を旧来のままとした。梁孝王の従官すべてを関から入れた。
だが天子は梁孝王をうとみ、馬車に同乗しなくなった。天子は田叔の賢さを評価して、魯相に抜擢した。
景帝中三年(前147)
冬,十一月,罷諸侯御史大夫官。夏,四月,地震。旱,禁酤酒。三月,丁巳,立皇子乘為清河王。秋,九月,蝗。有星孛於西北。戊戌晦,日有食之。冬11月、諸侯・御史大夫の属官を減員した。夏、日照なので酒を醸造を禁じた。など。
◆皇后の兄を侯爵にせず、匈奴の降者を侯爵とする
初,上廢栗太子,周亞夫固爭之,不得;上由此疏之。而梁孝王每朝,常與太后言條侯之短。竇太后曰:「皇后兄王信可侯也。」帝讓曰:「始,南皮、章武,先帝不侯,及臣即位乃侯之;信未得封也。」竇太后曰:「人生各以時行耳。自竇長君在時,竟不得侯,死後,其子彭祖顧得侯,吾甚恨之!帝趣侯信也。」帝曰:「請得與丞相議之。上與丞相議。亞夫曰:「高皇帝約:『非劉氏不得王,非有功不得侯。』今信雖皇后兄,無功,侯之,非約也。」帝默然而止。はじめ天子が栗太子を廃したとき、周亞夫は鋭く反対した。天子は周亜夫をうとんだ。梁孝王が朝見するたび、竇太后と一緒になって、條侯の短所をいう。竇太后「皇后の兄の王信を侯爵にしよう」と。天子「南皮侯の竇彭祖(竇太后の弟の竇長君の子)も、章武侯の竇広国(竇太后の弟)も、先帝は彼らを侯爵にしなかった。私が即位してから、彼らは(皇后でなく太后の親類として)侯爵になった。王信はまだ侯爵にしない」と。
竇太后「人の生には時行がある。竇長君(竇太后の弟)は、生前に侯爵になれなかったが、死後に子の竇彭祖が侯爵になれた。私は(生前に)竇長君を侯爵にしてやれなかったので、恨みに思う。はやく王信を侯爵にしてやれ」と。天子「丞相と議論してからね」と。
丞相の周亜夫「高皇帝は『劉氏に非ざれば王たるを得ず。功有らざれば侯たるを得ず』と約した。いま皇后の兄の王信には、功績がない。侯爵にしたら、高皇帝の約にそむく」と。天子は王信を侯爵にしない。
其後匈奴王徐廬等六人降,帝欲侯之以勸後。丞相亞夫曰:「彼背主降陛下,陛下侯之,則何以責人臣不守節者乎?」帝曰:「丞相議不可用。」乃悉封徐廬等為列侯。亞夫因謝病。九月,戊戌,亞夫免;以御史大夫桃侯劉舍為丞相。のちに匈奴の王である徐廬ら6人が降った。天子は「匈奴の王6人を侯爵にしたい」という。丞相の周亜夫「彼らは主君である匈奴の単于にそむき、漢に降った。もしも彼らを侯爵にすれば、人臣の節を守らない者を責める理屈がなくなる」と。天子「周亜夫は却下する」と。降った6人を侯爵にした。
周亜夫は病気といい、9月戊戌に免じられた。御史大夫である桃侯の劉舍を丞相とした。
景帝中四年(前146)
夏,蝗。冬,十月,戊午,日有食之。
景帝中五年(前145)
夏,立皇子舜為常山王。六月,丁巳,赦天下。大水。
秋,八月,己酉,未央宮東闕災。抄訳をはぶく。
九月,詔:「諸獄疑,若雖文致於法,而於人心不厭者,輒讞之。」地震。9月、詔:した。「諸々の獄疑、若し文 法に致ると雖も、而るに人心に於いて厭(ふく)せざれば、輒ち之を讞(さば)け」と。地 震ふ。
法律に照らせば無罪であっても、心証的には有罪だろうという場合は、有罪にすることを検討してもいいよと。
景帝中六年(前144)
冬,十月,梁王來朝,上疏欲留;上弗許。王歸國,意忽忽不樂。十二月,改諸廷尉、將作等官名。
春,二月,乙卯,上行幸雍,郊五畤。三月,雨雪。
冬10月、梁王が来朝した。「長安に留まりたい」と上疏したが、天子は許さない。梁王は帰国するが、がっかりした。
褚少孫が長安に留まれる日数のルールを注釈する。540頁。すべて足しても、年間で20日もいられない。12月、廷尉・将作らの官職名を改めた。
春2月、天子は雍にゆき、五畤を郊す。3月、雪ふる。
◆梁孝王の死
夏,四月,梁孝王薨。竇太后聞之,哭極哀,不食,曰:「帝果殺吾子!」帝哀懼,不知所為;與長公主計之,乃分梁為五國,盡立孝王男五人為王:買為梁王,明為濟川王,彭離為濟東王,定為山陽王,不識為濟陰王;女五人皆食湯沐邑。奏之太后,太后乃說,為帝加一餐。孝王未死時,財以巨萬計,及死,藏府餘黃金尚四十餘萬斤。他物稱是。夏4月、梁孝王が薨じた。竇太后はこれを聞き、哭いて哀しみを極め、食べず、「帝 果して吾が子を殺す」という。景帝は哀懼して、どうしようもない。長公主に相談して、梁孝王の旧領に、彼の5人の子を分けて封建した。娘5人にも湯沐の邑をあたえた。竇太后はよろこび(断食をやめて)景帝と食事した。梁孝王が死んだとき、莫大な財産があった。
旧領を5分割って、「梁王」を弱めるための政策である。竇太后は、とりあえずは喜んだかも知れないが、これは景帝から「梁王」への恩ではないよな。
上既減笞法,笞者猶不全;乃更減笞三百曰二百,笞二百曰一百。又定棰令:棰長五尺,其本大一寸,竹也;末薄半寸,皆平其節。當笞得笞臀;畢一罪,乃更人。自是笞者得全。然死刑既重而生刑又輕,民易犯之。肉刑をゆるめることを徹底し、ムチを痛くないものに定める。死刑は重いままだが、死刑未満の刑罰が軽くなってしまい、民は罪を犯しやすくなった。
◆武帝期の名将・李広の登場
六月,匈奴入雁門,至武泉,入上郡,取苑馬。吏卒戰死者二千人。隴西李廣為上郡太守,嘗從百騎出,卒遇匈奴數千騎。見廣,以為誘騎,皆驚,上山陳。廣之百騎皆大恐,欲馳還走。廣曰:「吾去大軍數十里,今如此以百騎走,匈奴追射我立盡。今我留,匈奴必以我為大軍之誘,必不敢擊我。」廣令諸騎曰:「前!」未到匈奴陣二里所,止,令曰:「皆下馬解鞍!」其騎曰:「虜多且近,即有急,奈何?」廣曰:「彼虜以我為走;今皆解鞍以示不走,用堅其意。」於是胡騎遂不敢擊。有白馬將出,護其兵;李廣上馬,與十餘騎奔,射殺白馬將而復還,至其騎中解鞍,令士皆縱馬臥。是時會暮,胡兵終怪之,不敢擊。夜半時,胡兵亦以為漢有伏軍於旁,欲夜取之,胡皆引兵而去。平旦,李廣乃歸其大軍。6月、匈奴が雁門に入り、武泉に至る。上郡に入り、苑馬(漢の牧場の馬)を取る。吏卒が2千人も戦死した。隴西の李広が上郡太守となり、1百騎で出たとき、匈奴1千騎に遭遇した。匈奴は李広を見つけると、「あの少数の漢兵は、匈奴を誘っている」と考え、驚いて山に登って陣をはる。李広の1百騎は恐れて逃げそう。
李広「漢の大軍は数十里も離れており、もし逃げようとすれば、匈奴に追いつかれて全殺される。留まって、漢の大軍を待っているふりをすれば、匈奴は攻めてこない」と。李広は騎兵たちに「前進せよ」と命令した。匈奴と2百里よりは近づかず、止まって「下馬して鞍を下ろせ」という。騎兵が「匈奴が近いのに、なぜ鞍を下ろすのか」と聞く。李広「匈奴は、我らが逃げると思っているだろう。いま鞍を解けば、我らが逃げないと考え(漢の大軍を待っているんだろうという)誤解を強める」と。
匈奴は攻撃してこない。白馬に乗った将が、匈奴を監督している。李広は馬にのり、10余騎とともに奔り、白馬の将を射殺して戻った。自軍にもどると、鞍を外した馬を寝転ばせた。日暮どき、匈奴は怪しんで攻撃してこない。夜半どき、漢軍に伏兵があると疑い、匈奴は夜に撤退した。翌朝、李広は漢の大軍に合流できた。
李広は、すごい胆力だけど、匈奴と戦略・戦術を尽くして戦い、騎兵の威力で圧倒するような将軍じゃない。もともと、登場シーンからして。
秋,七月,辛亥晦,日有食之。
自郅都之死,長安左右宗室多暴犯法。上乃召濟南都尉南陽寧成為中尉。其治效郅都,其廉弗如。然宗室、豪桀皆人人惴恐。
城陽共王喜薨。秋7月の辛亥みそか、日食あり。
郅都が死んでから、長安の左右・宗室は、暴れて法を犯かす者がおおい。天子は(長安の秩序を回復するため)濟南都尉たる南陽の寧成を中尉とした。寧成の統治は、郅都の方法にならった。しかし寧成の廉直さは、郅都ほどではない。それでも宗室・豪桀は、みな寧成を惴恐した。
城陽共王の劉喜が薨じた。140620
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- (前143-141) 衣食を重んず文・景帝期の終焉
後元年(前143) 景帝が周亜夫に箸を出さず
春,正月,詔曰:「獄,重事也。人有智愚,官有上下。獄疑者讞有司;有司所不能決,移廷尉;讞而後不當,讞後不為失。欲令治獄者務先寬。」
三月,赦天下。夏,大酺五日,民得酤酒。
五月,丙戌,地震。上庸地震二十二日。壞城垣。
秋,七月,丙午,丞相舍免。乙巳晦,日有食之。春正月、詔して曰く、「獄は、重事なり。人に智愚有り、官に上下有り。獄 疑へば有司を讞(さば)き、有司 能く決せざる所なれば、廷尉に移せ。讞きて後に當らざれば、讞きて後に失と為さず。治獄する者をして務めて寛と先とせしめんと欲す」と。
有司を取り調べても、罪状を証明できなければ、有罪にはしない。取り調べる者は、寛大を優先せよ。疑わしきは罰さない方向で。3月、天下を赦す。夏、大酺すること五日、民 酒を酤むことを得たり。
5月丙戌、地震あり。上庸の地 震ふこと二十二日なり。城垣を壞す。
秋7月丙午、丞相の舍 免ず。乙巳晦、日 之を食する有り。
八月,壬辰,以御史大夫衛綰為丞相,衛尉南陽直不疑為御史大夫。初,不疑為郎,同舍有告歸,誤持其同舍郎金去。已而同舍郎覺亡,意不疑,不疑謝有之,買金償。後告歸者至而歸金,亡金郎大慚。以此稱為長者,稍遷至中大夫。人或廷毀不疑,以為盜嫂,不疑聞,曰:「我乃無兄。」然終不自明也。8月壬辰、御史大夫の衛綰を以て丞相と為す。衛尉たる南陽の直不疑 御史大夫と為る。
初め不疑 郎と為り、同舍に歸りを告ぐる有り。誤りて其の同舍の郎が金を持ちて去る。已にして同舍の郎 亡きを覚り、不疑を意とす。不疑 謝して之を有し、金を買ひて償なふ。
盗みの冤罪をこうむったが、罪をかぶって弁償した。曹操の祖先の曹節の逸話が、『後漢書』の誰かと重複するように、定型的な行動の一種だ。後に告歸する者 至りて金を歸す。金を亡なふの郎 大いに慚づ。此を以て長者たりと稱せられ、稍々遷りて中大夫に至る。人 或いは不疑を廷に毀し(廷に当たりて毀り)、以為へらく嫂を盜むと。不疑 聞き、曰く、「我 乃ち兄無し」と。然して終に自ら明らかにせず。
直不疑をそしるなら、事前に家族構成ぐらい調べろよ。まあ、兄嫁を寝取るというのが、人格に問題があるということの定型表現なのでしょう。だから曹操も言った。
帝居禁中,召周亞夫賜食,獨置大胾,無切肉,又不置箸。亞夫心不平,顧謂尚席取箸。上視而笑曰:「此非不足君所乎!」亞夫免冠謝上,上曰:「起。」亞夫因趨出。上目送之曰:「此鞅鞅,非少主臣也。」
居無何,亞夫子為父買工官尚方甲楯五百被,可以葬者。取庸苦之,不與錢。庸知其盜買縣官器,怨而上變,告子,事連污亞夫。書既聞,上下吏。吏簿責亞夫。亞夫不對。上罵之曰:「吾不用也!」召詣廷尉。廷尉責問曰:「君侯欲反何?」亞夫曰:「臣所買器,乃葬器也,何謂反乎?」吏曰:「君縱不欲反地上,即欲反地下耳!」吏侵之益急。初,吏捕亞夫,亞夫欲自殺,其夫人止之,以故不得死,遂入廷尉,因不食五日,歐血而死。帝 禁中に居り、周亞夫を召して食を賜ふ。独り大胾(骨なしの肉の塊)を置き、肉を切る無く、又 箸を置かず。亞夫 心に不平たり。顧みて席を尚(つかさ)るものに謂ひて箸を取る。上 視て笑ひて曰く、「此れ君の不足とする所に非ざるや」と。
肉をおいて箸がない、という料理の出し方では、周亜夫はご不満かねと。孟康によると、周亜夫を「嫌恨」した発言。如淳によると、「周亜夫は、食事ができるように箸を準備してあげるほどの価値がある人間ではない」と景帝は言っている。師古はいう。景帝は、食品を与えて箸を設けない。景帝が伝えようとした意図は、君主のやることとして、足らないことがあるのかね?ということ。つまり周亜夫のために設けてあげる箸なんかないよと。亞夫 冠を免じて上に謝す。上曰く、「起て」と。亞夫 因りて趨り出づ。上 目もて之を送りて曰く、「此の鞅鞅たること、主 臣を少なきとするに非ず」と。
居して何ばくも無く、亞夫の子 父の為に工官(官職)より尚ほ方に甲楯の五百を買ひて被(そな)ふ。(周亜夫の子が調達した甲楯は)以て葬る可き者なり。庸を取ること(代金を払うこと)之を苦とし、銭を与へず。
師古によると、周亜夫の子は知識がないので、(販売元の工官に)代金を支払わねばならぬことを知らなかった。代金を踏み倒した罪が、やがて父の周亜夫に及ぶと。景帝の恵みが少ないから周亜夫は死ぬのだが、原因は周亜夫の子にもあると。庸 其の盜みて縣官の器を買ふを知り、怨みて変(トラブル)を上し、子に告ぐ。事 連なりて亞夫を汚す。書 既に聞き、下吏に上す。吏 簿して亞夫を責む。亞夫 對へず。上 之を罵りて曰く、「吾 用てせざるなり(言い訳は聞きたくない、殺してやる)」と。召して廷尉に詣でしむ。廷尉 責問して曰く、「君侯 反かんと欲するは何ぞや」と。亞夫曰く、「臣の器を買ふ所、乃ち葬器なり。何ぞ反くを謂ふや」と。吏曰く、「君 縱ひ地上に反くと欲せざるとも、即ち地下にて反かんと欲す」と。之を侵すこと益々急たり。
むちゃくちゃな拷問。初め、吏 亞夫を捕へ、亞夫 自殺せんと欲す。其の夫人 之を止む。故を以て死するを得ず。遂に廷尉に入り、因りて食はざること五日、歐血して死す。
是歲,濟陰哀王不識薨。是の歳、濟陰哀王の劉不識 薨ず。
後二年(前142) 万民の衣食を保全する
春,正月,地一日三動。
三月,匈奴入雁門,太守馮敬與戰,死。發車騎、材官屯雁門。
春,以歲不登,禁內郡食馬粟;沒入之。春正月、地 一日に三たび動く。
3月、匈奴 雁門に入る。雁門太守の馮敬 戰ひて死す。車騎・材官を發して雁門に屯せしむ。
春、歲に登らざるを以て、内郡の馬の粟を食むを禁じ、之を没入す。
馬に粟を食べさせるのを禁じて、馬を国家の管理下に没収した。
夏,四月,詔曰:「雕文刻鏤,傷農事者也;錦繡纂組,害女工者也。農事傷則饑之本,女工害則寒之原也。夫饑寒並至而能亡為非者寡矣。朕親耕,後親桑,以奉宗廟粢盛、祭服,為天下先;不受獻,減太官,省繇賦,欲天下務農蠶,素有蓄積,以備災害。強毋攘弱,眾毋暴寡;老耆以壽終,幼孤得遂長。今歲或不登,民食頗寡,其咎安在?或詐偽為吏,以貨賂為市,漁奪百姓,侵牟萬民。縣丞,長吏也;奸法與盜盜,甚無謂也!其令二千石各修其職;不事官職、耗亂者,丞相以聞,請其罪。佈告天下,使明知朕意。」夏4月、詔して曰く。「雕文・刻鏤、農事を傷なふ。錦繡・纂組、女工を害す。農事 傷なへば則ち饑の本(飢えの原因)なり。女工 害せば則ち寒の原(寒さの原因)なり。夫れ饑寒 並びに至りて能く亡して非と為す者 寡なし(誰だって我慢できない)。朕 親ら耕し、后 親ら桑し、以て宗廟の粢盛・祭服を奉る。
皇帝が農業で食事を、皇后が養蚕で衣服を、という象徴的な役割分担があるらしい。そして皇帝がつくった食事も、皇后がつくった衣服も、宗廟に祭るのに使う。天下の為に先んずればなり。獻を受けず、太官を減じ、繇賦を省き、天下に農蠶を務めんと欲するは、素より蓄積有り、以て災害に備へんとすればなり。強けれども弱を攘たず、衆けれども寡を暴せず、老耆 壽を以て終はり、幼孤 遂に長ずるを得たり。今歲 或いは登らず、民の食 頗る寡なし。其の咎 安にか在る。或いは詐偽して吏と為り、貨賂を以て市を為し、百姓を漁奪し、萬民を侵牟するは、縣丞・長吏なり。法を奸すこと盜盜と与にし、甚だ謂ふこと無し。其れ二千石をして各々其の職を修めしめよ(県丞・長吏を取り締まれ)。官職に事へず、耗亂する者あれば、丞相 以て聞き、其の罪を請ふ。天下に佈告し、朕の意を明らかに知らしめよ」と。
万民の衣食を妨げる地方役人がいたら、取り締まれと。景帝の詔や経済政策は、父の文帝を踏襲したものだから、一連のもとして、班固や司馬光に、この巻末で論じられるのだ。衣食、衣食、衣食ばかり。
五月,詔貲算四得官。秋,大旱。5月、詔して貲算四得官。秋、大いに旱あり。
胡注をちゃんと読む。分からなかった。
景帝後三年(前141)天子が崩ず
冬,十月,日月皆食,赤五日。
十二月晦,雷;日如紫;五星逆行守大微;月貫天廷中。抄訳はぶく。
春,正月,詔曰:「農,天下之本也。黃金、珠、玉,饑不可食,寒不可衣,以為幣用,不識其終始。間歲或不登,意為末者眾,農民寡也。其令郡國務勸農桑,益種樹,可得衣食物。吏發民若取庸采黃金、珠、玉者,坐贓為盜。二千石聽者,與同罪。」春正月、詔して曰く。「農は、天下の本なり。黄金・珠・玉、饑うれども食らふ可からず。寒くとも衣る可ならず。幣用と為すを以て、其の終始を識らず。間歲 或いは登らず(収穫がなく)、意 末と為る者(商業に熱中する者)衆く、農民 寡なし。其れ郡國をして農桑を務勸せしめ、種樹を益し、衣食の物を得可し。
黄金や珠玉など、いわゆる貨幣になるものを悪み、穀物や衣服のように実用なものを尊ぶのは、父の文帝のときから同じ。ぎゃくに、人々が穀物や衣服を軽んじてまで、貨幣のようなものに執着するという風潮が窺われる。流動性がほしいのだ。吏 民を發して若し庸を取りて黄金・珠・玉を采る者、贓に坐して盜と為す。二千石 聽す者、与に罪を同じくす」と。
甲寅,皇太子冠。甲子,帝崩於未央宮。太子即皇帝位,年十六。尊皇太后為太皇太后,皇后為皇太后。二月,癸酉,葬孝景皇帝於陽陵。三月,封皇太后同母弟田蚡為武安侯,勝為周陽侯。正月甲寅、皇太子 冠す。甲子、帝 未央宮に崩ず。太子 皇帝の位に即き、年十六なり。……
呂太后期から読み始めた、今週の『資治通鑑』も、ついに漢武帝が登場してしまった。予定では、つぎは南朝梁の武帝に飛ぶ予定。漢武帝は、また大きなテーマなので、べつのときに。2月癸酉、孝景皇帝を陽陵に葬る。3月、皇太后の同母弟たる田蚡を武安侯に封じ、田勝を周陽侯と為す。
班固贊曰:孔子稱:「斯民也,三代之所以直道而行也。」信哉!周、秦之敝,罔密文峻,而奸軌不勝,漢興,掃除煩苛,與民休息;至於孝文,加這以恭儉;孝景遵業。五六十載之間,至於移風易俗,黎民醇厚。周雲成、康,漢言文、景,美矣!班固はいう。文帝と景帝は、50-60年で民政を立て直した。周の成王・周の康王に匹敵するような、立派な君主であった。
漢興,接秦之弊,作業劇而財匱,自天子不能具鈞駟,而將相或乘牛車,齊民無藏蓋。天下已平,高祖乃令賈人不得衣絲、乘車,重租稅以困辱之。孝惠、高後時,為天下初定,復馳商賈之律;然市井之子孫,亦不得仕宦為吏。量吏祿,度官用,以賦於民。而山川、園池、市井租稅之入,自天子以至於封君湯沐邑,皆各為私奉養焉,不領於天下之經費。漕轉山東粟以給中都官,歲不過數十萬石。繼以孝文、孝景,清淨恭儉,安養天下,七十餘年之間,國家無事,非遇水旱之災,民則人給家足。都鄙廩庾皆滿,而府庫餘貨財;京師之錢累巨萬,貫朽而不可校;太倉之粟陳陳相因,充溢露積於外,至腐敗不可食。眾庶街巷有馬,而阡陌之間成群,乘字牝者擯而不得聚會。守閭閻者食粱肉,為吏者長子孫,居官者以為姓號。故人人自愛而重犯法,先行義而後絀辱焉。當此之時,罔疏而民富,役財驕溢,或至兼併;豪黨之徒,以武斷於鄉曲。宗室有土,公、卿、大夫以下,爭於奢侈,室廬、輿服僭於上,無限度。物盛而衰,固其變也。自是之後,孝武內窮侈靡,外攘夷狄,天下蕭然,財力耗矣!文帝と景帝は倹約につとめて、70余年のうちに、民の経済状況が復活して、備蓄もできた。すごいなあ。武帝のとき、使い果たしてしまうけどと。詳細ははぶく。140620
ぼくは思う。ある人物を主人公にした歴史小説を書くための「ノート」について試行錯誤したい。ただの年表だけでは、史料の整理として不足する。紀伝体は王朝の歴史をうまく表現した「ノート」だけど、誰か1人を主人公にした史書のまとめは、別の形になるはず。本紀的なもの=主人公の年表、は同じだろうが。
曹丕が規範とした、前漢の文帝に興味がある。1週間かけ、もうすぐ『資治通鑑』の前漢の文帝期と景帝期が読み終わる。景帝期は、文帝期の伏線の回収みたいな時代だから、オマケで読んだ。つぎの武帝期は、それ自身が完結した巨大な時代だから、そこまでは読まない。ここから『史記』と『漢書』にゆく。
史料が豊富な漢文帝につき、「ノート」を作ってみて、お話をまとめる自分なりの方法を獲得したい。実在する史料でやれたら、 #曹丕80歳 で架空の史料をノート形式にまとめ、曹丕のイフのお話を書きたい。もし書けたら、2014年度中の開催とされる三国志フェスで同人誌を出展したい←超・未定 20140621
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