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- 天鳳4-5年、呂母と赤眉の乱
天鳳4年、六筦を徹底し、呂母が挙兵する
四年五月,莽曰:「保成師友祭酒唐林、故諫議祭酒琅邪紀逡,孝弟忠恕,敬上愛下,博通舊聞,德行醇備,至於黃發,靡有愆失。其封林為建德侯,逡為封德侯,位皆特進,見禮如三公。賜弟一區,錢三百萬,授幾杖焉。」天鳳四年(後17)5月、王莽はいう。「保成師友祭酒の唐林と、もと諫議祭酒した琅邪の紀逡は、(白髪もぬけた)黄髪の老人になっても、儒教を実践している。孝弟・忠恕し、敬上・愛下する。舊聞に博通し、德行は醇備である。唐林を建德侯、紀逡を封德侯にしろ。位は特進、礼は三公なみ。第1區、錢3百萬、幾杖(ひじかけ、つえ)をさずけろ」と。
『補注』はいう。白髪がすべて抜け落ちたら「黄髪」となる。ぼくは思う。黄色いから、めでたいのか。王莽は最盛期の王朝だから、わりに余裕がある褒賞をだす。
六月,更授諸侯茅土于明堂,曰:「予製作地理,建封五等,考之經藝,合之傳記,通于義理,論之思之,至於再三,自始建國之元以來九年於茲,乃今定矣。予親設文石之平,陳菁茅四色之土,欽告于岱宗泰社後土、先祖先妣,以班授之。各就厥國,養牧民人,用成功業。其在緣邊,若江南,非詔所召,遣侍於帝城者,納言掌貨大夫且調都內故錢,予其祿,公歲八十萬,侯、伯四十萬,子、男二十萬。」然複不能盡得。莽好空言,慕古法,多封爵人,性實遴嗇,托以地理未定,故且先賦茅土,用慰喜封者。6月、王莽は明堂にて、諸侯に茅土を授けた。
ちくま訳はいう。天子が諸侯を封じるとき、封じる土地の方角にちなんで、方角のシンボルカラーをした土をプレゼントする。これを茅土という。「私は9年にわたり、古典どおりの地理を製作し、5等爵を建てて封じた。私が真皇帝になって9年、研究成果により制度が定まった。文字を刻んだ瓦、着色をした4色の土を授ける。
師古はいう。『尚書』禹貢に、茅土がある。土地には5色をわりふるが、中央の土は(王莽が封じられた者なので)支給しない。だから4色である。『周書』作洛にも、四方に4食の土を配る記事がある。岱宗(泰山)泰社(帝王)後土(土地)、先祖と先妣(父系と母系)に配る。5等爵にある者は、就国して人民を養牧せよ。辺縁か江南にいる者と、詔で召されない者は、侍官を長安にやって(王莽からの瓦と土を代理で)受けとれ。納言は貨大夫を管理し、都内の故銭を5等爵に応じて支給させよ」と。
だが全額が支給されない。
王莽は、空言をこのみ、古法をしたう。おおく人に爵位をくばった。だが、じつは王莽の性格はケチだ。地理が古典どおりに定まらないことを理由に、金銭をくばらず、茅土だけをくばり、封者を慰めて喜ばせた。
ぼくは思う。いちいち班固が、王莽を批判している。蛇足! 史書が悪事の原因を、個人の性格のせいにするとき、洞察が浅くなる。財政の問題、もしくは「制度を平定するあいだ、給与支払がない」とは「制度の改革は、あたかも天下統一の戦争に等しいから、苦労を共有してくれ」という王莽の発想かも知れない。真皇帝になって9年で、やっと「天下統一」に成功したのだ。王莽は戦い方が違った。
ぼくは思う。ちくま訳は、空言と古法と封爵の理由を、ケチだとする。文章の切れ目を、誤っていると思う。空言と古法をこのむから、爵位をくばる。ケチだから、金銭を支給しない。因果関係は、これだ。
茅土は、原価が安かったらしい。笑
是歲,複明六管之令。每一管下,為設科條防禁,犯者罪至死,吏民抵罪者浸眾。又一切調上公以下諸有奴婢者,率一口出錢三千六百,天下愈愁,盜賊起。納言馮常以六管諫,莽大怒,免常官。置執法左右刺奸。選用能吏侯霸等分督六尉、六隊,如漢刺史,與三公士郡一人從事。この歳、ふたたび六管之令を、明らかにした。
ぼくは補う。酒、塩、鉄、銭、山、沢に課税する制度。王莽が、国家による経済統制をつよめたらしい。経済は野生動物だから、言うなりには、なるまいに。法律をきめるごとに、違反者をきつく取り締まった。だが死刑にあたる罪ですら、犯す人は減らない。上公より以下、奴婢をもつ者に課税した。奴婢1名あたり銭36百とする。天下はうれい、盗賊が起きた。
ぼくは思う。どこまで盗賊が起きたのか、よく分からん。『漢書』は王莽のわるさを、誇張するから。個別&具体的な記述しか、信じないようにしよう。納言の馮常は、六管之令をいさめた。
周寿昌はいう。すぐ上に「納言が貨大夫を掌握する」という記述がある。また後で、納言将軍の厳尤、秩宗将軍の厳茂は、それ以前に「納卿」「言卿」「秩卿」「宗卿」と呼ばれている。劉氏(劉奉世?)は誤りである。虚号でない。王莽はおおいに怒り、馮常を免官した。執法左右刺奸を設置した。能吏の侯霸に、六尉と六隊を監察させた。漢代の刺史と同じである。三公士とともに、郡に1人ずつ従事をおく。
ぼくは思う。六尉と六隊は、長安周辺と洛陽周辺の6郡ずつ。だから後漢や曹魏の「司隷校尉」「雍州刺史」を、侯覇が兼ねたのだと捉える。
ぼくは思う。郡には、三公士(三公の属官)と、いま従事が1人ずつ設置された。もと太守、もと都尉という、行政と軍事の長官も、郡ごとに1人ずついるのだ。三公士と従事が、太守と都尉を監察するのだろう。
◆呂母の乱
臨淮瓜田儀等為盜賊,依阻會稽長州,琅邪女子呂母亦起。初,呂母子為縣吏,為宰所冤殺。母散家財,以酤酒買兵弩,陰厚貧窮少年,得百餘人,遂攻海曲縣,殺其宰以祭子墓。引兵入海,其眾浸多,後皆萬數。莽遣使者即赦盜賊,還言:「盜賊解,輒複合。問其故,皆曰愁法禁煩苛,不得舉手。力作所得,不足以給貢稅。閉門自守,又坐鄰伍鑄錢挾銅,奸吏因以愁民。民窮,悉起為盜賊。」莽大怒,免之。其或順指,言「民驕黠當誅」。及言「時運適然,且滅不久」,莽說,輒遷之。臨淮の瓜田儀らは、盗賊となった。会稽の長州に拠った。
服虔はいう。瓜田が姓で、儀が名である。師古はいう。長州とは、枚乗のいう「長州之苑」のこと。胡三省はいう。蘇州の長州県である。琅邪の女子である呂母もまた、起った。
ぼくは思う。臨淮も琅邪も、徐州だ。福井重雅氏がいうところの、旧斉の文化圏だ。春秋戦国のとき、秦に対抗した大国。関中にある統一王朝にたいし、そむく伝統がある。曹操がひきいた、青州黄巾の前身だとか。はじめ呂母の子は、県吏になった。だが、冤罪で県宰に殺された。呂母は家財を散らし、武器と若者を1百余人あつめた。海曲県を攻め、県宰を殺した。
師古はいう。県宰とは県令である。王莽が改めた。
李賢はいう。海曲の故城が、密州の莒県の東にある。斉召南はいう。『通鑑』によると、新市の王況、王鳳、南陽の馬武、頴川の王常、成丹、南郡の張覇、江夏の羊牧らは、みな呂母のあとに起兵した。呂母が最初だったと。
呂母は、兵たちと海上の島にうつった。兵は1万を数える。
ぼくは思う。原文は「引兵入海」だ。後漢末の青州黄巾も、海上の島に散り、官軍を困らせたにちがいない。遼東と山東半島は、連絡がある。王莽は使者をやり、盗賊をゆるした。使者は報告した。
「盗賊は、いちど解けましたが、すぐ集まりました。理由を聞きました。禁令がわずらわしく、税金が高いからです。門をとざして、越度がないように気をつけても、隣家が伍鑄錢になる銅財をもてば、連坐する。奸吏が民を愁わせる。民は旧望するから、すぐに盗賊にもどる」と。
ぼくは思う。王莽の政治の欠点を、シンプルに表現していると思う。王莽はおおいに怒り、使者を免じた。盗賊の弾圧を唱えた者、盗賊は偶然に発生したと唱えた者が、王莽に喜ばれて出世した。
ぼくは思う。王莽の認識のズレが露見する。現地現物した者と、長安のなかで理論を弄ぶ者のギャップ。このズレが、王莽が滅亡する原因だろうか。ここばかりは「班固が不当に王莽に不利な記述をした」と、王莽を弁護しきれない。
けっきょく「窮乏した者」によって、王莽は倒されるのか。経済が上位機関を規定する、というテーゼを、今さら主張しても仕方ないが。王莽が強いた「前漢を改革するための苦しみ」に、百姓の経済が耐えられなかった、という結論なのか。なんだか、どうしようもない感じだ。現実界からの奇襲である。
ぼくは思う。呂母の息子を殺した県宰は、おそらく自分のアタマで、学問をしたことがなかろう。しかし、王莽が研究のすえに編み出した「象徴界は万能である」という幻想、「シニフィアン(表象するもの)が全てである。シニフィエ(表象されるもの)を虐げても良い」という誤解には、染まってしまった。これが、県宰におかしな傲慢さを生んだのかも知れない。
是歲八月,莽親之南郊,鑄作威鬥。威鬥者,以五石銅為之,若北斗,長二尺五寸,欲以厭勝眾兵。既成,令司命負之,莽出在前,入在禦旁。鑄鬥日,大寒,百官人馬有凍死者。この歳の8月、王莽は南郊して、威斗を鋳作した。
沈欽韓はいう。『南史』何承天伝はいう。張永が玄武湖をひらくと、古い墓から銅斗がでてきた。何承天は「王莽が作って三公に配布したものだ。莽新の三公のうち、長江を渡ったのは、大司徒の甄邯だけだ。古い墓は、甄邯のものだ」という。沈欽韓が考えるに、太保の甄邯は、大司馬となる。始建国3年、甄邯は死んだ。いま銅斗は天鳳4年につくられた。年数も官位もあわない。
『魏志』甄皇后伝はいう。甄皇后は中山無極の人。漢末の太保・甄邯の後裔であると。『寰宇記』はいう。甄邯の墳墓は無極県にある。以上より、甄邯の墓が、南朝の領域にあるのはおかしい。何承天は誤りである。
威斗とは北斗の形をして、銅製で2尺5寸の、戦勝を祈る呪具だ。威斗は司命がもち、王莽が外出すれば前にあり、王莽が入室すれば傍にある。 王莽が威斗をつくった日、8月なのに寒く、人馬が凍死した。
ぼくは思う。「オカルト=暗君」という図式は、成り立たないだろう。オカルトなだけじゃ、王莽批判にならないから、凍死の記事が加わえられたのだと思う。現代人の「科学」を、持ちこめない。ヒーロー側の光武帝だって、銅製のマジナイをやったはずだ。
ぼくは思う。鋳造とは「あつい」もの。だが天候が「つめたい」になった。王莽の鋳造が、天意にかなっていないと言いたかったのか。知らん。
天鳳5年、孫が皇帝を気どり、琅邪で赤眉が起つ
◆封建制の失敗か
五年正月朔,北軍南門災。
以大司馬司允費興為荊州牧,見,問到部方略,興對曰:「荊、揚之民率依阻山澤,以漁采為業。間者,國張六管,稅山澤,妨奪民之利,連年久旱,百姓饑窮,故為盜賊。興到部,欲令明曉告盜賊歸田裏,假貸犁牛種食,闊其租賦,幾可以解釋安集。」莽怒,免興官。天鳳五年(後18)正月ついたち、北軍塁門の南門が燃えた。
王莽は、大司馬司允の費興を、荊州牧にした。費興はいう。「荊州と揚州の民は、けわしい山沢で、魚や野菜や果実を狩猟採集して生活します。六管の制度で、山沢に課税した。日照で窮乏した百姓が盗賊になった。私は荊州牧として、盗賊を田里に帰したい。耕牛や種籾を貸し出し、租賦を軽減して、百姓の生産を補助する」という。王莽は怒り、費興を免官した。
ぼくは思う。税金を納めたら、良民。税金を納めなければ、盗賊。
きっと、こういうロジックだ。武装した窃盗団がのさばる、北斗の拳みたいな世界を、想像してはいけない。北斗の拳、よく知らんが。
王莽は、自分にきびしく、他人にきびしい。「税金を納めないバカモノどもを、甘やかすな」としか、考えないのだろう。現実界からの奇襲(日照)を認めない。というか、現実界をそのまま認めず、安定したものとして把握し、制御したがるのが、象徴界の定義そのものだから。王莽が味わう困難は、象徴界そのものの困難である。けわしい山沢などは、現実界の最たる者である。ここに課税すれば、現実界を「征服」したことになるだろう。だから課税する。「財政が苦しいから、課税できるものには全て課税する」という、足算と引算の発想だけではない。象徴界の不可能性との戦いを、ケチっぽく矮小化してはいけない。
ぼくは思う。王莽伝中までは、象徴界の話。最後の王莽伝下は、現実界の話。それなら、王莽伝上は想像界の話と設定されるべきだ。王元后という「母」を鍵にした鏡像段階である。
天下吏以不得奉祿,並為奸利,郡尹縣宰家累千金。莽下詔曰:「詳考始建國二年胡虜猾夏以來,諸軍吏及緣邊吏大夫以上為奸利增產致富者,收其家所有財產五分之四,以助邊急。」公府士馳傳天下,考覆貪饕,開吏告其將,奴婢告其主,幾以禁奸,奸愈甚。天下の吏は俸禄をもらえず、奸悪な利益をかせぐ。郡尹や県宰(太守と県令)の家に、1千金がたまる。
ぼくは思う。これは封建制だからじゃないか。つまり、漢代のように郡県制のもと中央から赴任した長官なら、俸禄を頼りに生活する。任地には数年しか留まれないから、職務の代価を中央から受けとる。しかし王莽は、地方の長官を爵位と連動させ、世襲にした。だから、俸禄が滞っても、長官は自活する。これは後漢から見ると、「長官がかってに利殖した。王莽は支払をおこたった」となるだろうが。王莽が設計した制度の、正常な運用ではないのか。
ぼくは思う。王莽は、ちまちました俸禄に先だって、爵位と官爵(財物を得る原資)をまず贈与してる。それは上の班固のコメントにもった。班固が「爵位だけじゃ、食えないよ。俸禄をだせよ」という批判の仕方をするのは、的外れじゃないか。周代の諸侯は、周室からの俸禄に、それほど執着したか。それよりも領国経営に熱心だったのでは。だから周室は分裂したのだが。
となれば。荊州牧の費興は、独自の経営方針を主張しすぎ、王莽にロコツに反対したから、免官された。 費興の前提には、「自分の統治圏では、王莽ですら口出すべきでない。全国の経済政策を、土地にあわせて改変しても良い」という諒解があったはずだ。費興は、直接的すぎたから王莽と衝突したが、各地の長官は同じような認識のもと、わりに独自の政策を模索したのかも。
ぼくは思う。莽新で各地が窮乏したのは、王莽の責任でなく、王莽が封じた諸侯の運営の問題だろう。もちろん諸侯を封じたのは王莽だから、王莽は免責されないけど。王莽は贈与の原理に基づき、周代の封建社会を再現しようとした。しかし諸侯は、せいぜい漢代の官僚としてのノウハウしかない。権限(王莽からの贈物)が大きすぎるから統治に失敗し、かえって諸侯は威信を失墜させたのだ。王莽は詔した。「始建国2年から、匈奴との戦費がかかる。軍吏や辺縁の吏大夫で、姦利増産した者は、財産の8割を没収して、戦費にあてる」と。
ぼくは思う。国家が、人民や役人からお金を取ることを「課税」という。「没収」とは云わない。班固は、ありふれた課税という政策を、没収のニュアンスに書き換えることで、王莽をわるく描いたか。王莽に失敗があるとしたら、課税の仕方が、下手だったこと。極端だ。辺境の防衛費がかさむのは、漢民族なら、みな納得することだろうに。
ぼくは思う。王莽は「姦利」だけを課税対象にしている。通常の仕方で(何を通常と言うのか判定が難しいが)蓄積した財産は、姦利とは言わないから、没収はされない。思うに、王莽が諸侯や官僚にやってほしかった「経営」と、諸侯や官僚が実際にやった「姦利増産」は、ギャップがあった。諸侯や官僚は、せいぜい「役得のあるうちに、利益を吸い上げろ」という仕方で臨んだのだろう。爵位による権限委譲は、「皇帝=経営者の意識を共有せよ」だっただろうが、失敗した。
公府士(公府の属官)は、天下をまわり、姦悪な官吏を調査した。属吏には将を、奴婢には主を、告発する権利をあたえた。しかし姦悪は、ますますひどい。
ぼくは思う。班固は「だから莽新は悪い時代だ」と言いたいのだろうが。莽新は15年ほどだ。1世代の半分だ。前漢の善良な官僚層と、後漢の善良な官僚層と、人材の顔ぶれが重なっているだろう。彼らの本性は変わるまい。じゃあ何が違うか。王莽が官僚に、裁量を与えすぎた(贈与しすぎた)のだろう。王莽からの贈与は爵位であり、爵位は象徴界のものである。だから官僚は、象徴界の万能感に酔った。王莽に罪悪があるとしたら、象徴界の限界(現実界と想像界とボロメオで結びついていること)をきちんと教育しなかったことだ。
ぼくは思う。王莽によって、事後的に設定された教育の手段が「下位者からの告発」だ。王莽が官僚を抑えるときも、悲しいかな、象徴界の内側でしかやりようがない。
◆王莽の嫡孫の王宗が誅される
皇孫功崇公宗坐自畫容貌,被服天子衣冠,刻印三:一曰「維祉冠存己夏處南山臧薄冰」,二曰「肅聖寶繼」,三曰「德封昌圖」。又宗舅呂寬家前徙合浦,私與宗通,發覺按驗,宗自殺。莽曰:「宗屬為皇孫,爵為上公,知寬等叛逆族類,而與交通;刻銅印三,文意甚害,不知厭足,窺欲非望。《春秋》之義,『君親毋將,將而誅焉。』迷惑失道,自取此事,烏呼哀哉!宗本名會宗,以製作去二名,今複名會宗。貶厥爵,改厥號,賜諡為功崇繆伯,以諸伯之禮葬於故同穀城郡。」王莽の孫で、功崇公の王宗は、自画像をかかせた。天子の衣服をつけた。王宗は「私が王莽をつぐ」等の3つの刻印をつくった。発覚すると、王宗は自殺した。
応劭はいう。王莽は虞舜の後裔である。だから「天宝亀」を立宗した。王宗が「宝を継ぐ」と印綬に書いたのは、虞舜の宝を継ぐという意味である。蘇林はいう。王宗は徳により封じられた。天下の図籍(図讖)を受けたと自称した。
王莽の新室そのものを、否定した話ではない。新室の内側のあらそいか。王莽は、子を殺すのが趣味だ。可愛い、わが子すら殺すことが、無私の美徳だと思っている。その延長で、孫を殺しただけかな。「子殺し」とは、始皇帝とは異なった形態での「不老不死でありたい」という意思表明だろうか。いくらか抑圧されているが。
王宗は、合浦に流された舅の呂寛にも通じていた。 王莽はいう。「『公羊伝』で公子牙は親に逆らって誅された。父母に逆らえば誅して良いのだ。
ぼくは思う。王宗は新都侯となり、王莽の代理として王莽の母に服喪した。事実上の後継者のようなものだった。だがそれをアピールし過ぎて誅殺された。やはり王莽に「無限に生きたい」という抑圧された欲望があるんだろう。王莽自身が自覚してなさそうだから、フロイト的にぴったりなんだ。60歳を過ぎて、「7年後に遷都する」と言ったりとか、かなり不死の願望が強い。
ぼくは思う。王莽は上中下あるが、これは3人分の人生を歩んだ。上巻は霍光のような功臣として。中巻は漢武帝のような、匈奴すら圧倒する成功した君主として。下巻は亡国の皇帝として。不死を確信しても(不死の願望の抑圧に無自覚であっても)おかしくないほどの、おそらく身体性も含んだ天才レベルの人物だと思う。王宗の名を、もとの王会宗にもどし、1字名の規則を適用しない。爵位と称号をおとす。功崇繆伯として、伯爵の礼で穀城郡に葬れ」
師古はいう。王宗は、もともとの封地である穀城郡に葬られた。
ぼくは思う。名を1字にしたのは、王莽。三国の人が、みな1字の名をもつのは、王莽のせいだ。王莽が定めたことが、生きつづけたらしい。
会宗を「宗」と改めた例が、見れました。王莽の孫ですら、初めは2字名をつけていたのが驚き。王莽の目標は、漢家との差異を創出することだから。ちょっとムチャなくらいが、変化に富んで宜しい。
宗姊妨為衛將軍王興夫人,祝詛姑,殺婢以絕口。事發覺,莽使中常侍惲{帶足}責問妨,並以責興,皆自殺。王宗の姉である王妨は、衛將軍の王興の夫人だ。王妨は、姑を呪詛したが、奴婢を殺して秘密にした。発覚した。王莽は、中常侍のタイ惲に調査させた。王興と王妨の夫婦は自殺した。連座して自殺した。
ぼくは思う。王宗の姉(王莽の孫)が王興にとつぐ。同姓で結婚するのは、禁じられているが、「祖先の違う王氏なら良い」というのが莽新の規則。なぜなら王莽の皇后が王氏だから。
ぼくは思う。王妨の舅とは、王莽の子・王宇の妻だろうか。
事連及司命孔仁妻,亦自殺。仁見莽免冠謝,莽使尚書劾仁:「乘『乾』車,駕『神』馬,左蒼龍,右白虎,前硃雀,後玄武,右杖威節,左負威鬥,號曰赤星,非以驕仁,乃以尊新室之威命也。仁擅免天文冠,大不敬。」有詔勿劾,更易新冠。其好怪如此。司命の孔仁の妻も、王宗や王妨に連座した。孔仁は、冠をとって謝った。王莽は、孔仁をせめた。「孔仁に車馬の特権をあたえ、赤星と号させたのはなぜか。孔仁を驕らせるためでない。孔仁を新室の威命として尊ぶためだ。だが孔仁は、天文冠をぬぐ(新室の官職を辞職する)という。不敬である」と。
沈欽韓はいう。赤星とは熒惑(火星)である。熒惑は刑罰をつかさどる。だから司命の官を「赤星」という。
ぼくは思う。王莽は孔仁に「頼むから辞めないで」と言ったのだ。孔仁まで連坐するのを避けたかった。袁安のデビュー戦も同じだが、皇帝はわりと、連坐の過剰な波及を懼れる。人材がいなくなっちゃうから。
王莽は孔仁をゆるし、新しい冠を与えた。王莽が、鬼神・怪異をこのむのは、こんな調子である。
ぼくは思う。原文は「其好怪如此」です。「鬼神」という訳語は、『補注』師古からひいた。鬼神・怪異とは、具体的には、刑罰を管理する司命を、火星に象徴化して、火星の冠をかぶせたこと。これって、儒教の本質である。というか、ソシュールのいう人間の言語活動の隠喩、ラカンのいう精神の構造と同じである。
あの四つ足の動物に「イヌ」と名づけたことも、象徴化である。この隠喩を「鬼神・怪異」というなら、言語をあやつる人間の全てが、「鬼神・怪異」である。いや、意外とそうかも知れない。シニフィエとシニフィアンの結合は「恣意的」なものだから。と、妙に納得してしまったw
ぼくは思う。天体の運行に、何らかの規則を読む。さらに意図を読む。これは「文字を読む」ことと、本質的に完全に同一である。あるおじさんを「孔仁」と呼ぶこと、ある仕事を「司命」と呼ぶこと、ある星を「熒惑」と呼ぶことは、隠喩である。司命と熒惑を結ぶことは、換喩である。隠喩より換喩のほうが、跳躍すべき幅が質的に小さい。というわけで王莽は、なにも特別なことはしてない。ただ少し、換喩が盛んなので、象徴界の怪物に見えるし、古文学でディスタンクシオンする偉大な学者に見える。
◆かたづかない赤眉
以真道侯王涉為衛將軍。涉者,曲陽侯根子也。根,成帝世為大司馬,薦莽自代,莽恩之,以為曲陽非令稱,乃追諡根曰直道讓公,涉嗣其爵。
是歲,赤眉力子都、樊崇等以饑饉相聚,起於琅邪,轉抄掠,眾皆萬數。遺使者發郡國兵擊之,不能克。王莽は、真道侯の王渉を、衛將軍とした。王渉とは、曲陽侯・王根の子だ。王根は、成帝のとき大司馬となった。王根は、王莽を後任に薦めてくれた。王莽は、王根に恩を感じていた。曲陽という名が良くないので、王根の爵位を、直道讓公と改めた。王渉は、直道讓公の爵位をついだ。
ぼくは思う。王根は、王莽の叔父だ。つまり王渉は、王莽の従弟である。呂母の乱を受けて、皇族で軍事の要職を固めたのだろうか。
ぼくは思う。かなり現実的な人事だ。しかし班固は、王莽の打ち手が適切だと、気に入らないらしい。爵位の名前を変えたことを省かず、王莽のアナクロニズムを強調したいらしい? もしくはこれは「過剰な読み」だろうか。王莽は、白川静が唱えるような意味での「呪術者」なんだなあ。文字や言霊による支配。
この呪術は、上に書いたように、言語活動する人間がすべて当事者。いま月曜の早朝(2:45に起きた)キーボードを入力しているぼくも、呪術をかけているのだ。パソコンを知らない人が見たら、深夜に画面を中止して、指を小刻みに動かし、よく分からない記号を紡ぎ出すのだから、呪術であるw
この歳、赤眉の力子都、樊崇らが、飢えた民をあつめて、琅邪で起った。赤眉は数万になった。王莽は、郡国の兵をむけたが、勝てず。130225
ぼくは思う。呂母から、赤眉に発展。琅邪も、旧斉の文化圏。
『姓譜』はいう。力という姓は、黄帝の臣・力牧の後裔である。
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- 天鳳6年、赤眉を横目に、匈奴攻め
暦法を変え、音楽をやる
六年春,莽見盜賊多,乃令太史推三萬六千歲曆紀,六歲一改元,布天下。下書曰:「《紫閣圖》曰『太一、黃帝皆仙上天,張樂昆侖虔山之上。後世聖主得瑞者,當張樂秦終南山之上。』予之不敏,奉行未明,乃今諭矣。複以甯始將軍為更始將軍,以順符命。《易》不雲乎?『日新之謂盛德,生生之謂易。』予其饗哉!」欲以誑耀百姓,銷解益賊。眾皆笑之。天鳳六年(後19)。盗賊が多いから、太史に36千年の暦記を研究させ、6年ごとの改元を定めた。王莽は符命『紫閣圖』に基づき、改元の制度を説明した。寧始将軍を、符命に従って更始将軍とした。『易経』から「日を新たにすれば徳は盛んになる。生成することを易という」と説明した。
ぼくは思う。「改元して気分を変えたら、統治がうまくいくのかも」である。言い方1つで、物事が変わったりする。名づけの変更、言い換えにより、事態を好転させる。言語活動する者にとっては有効。あなどれない。王莽は、万民をだまして、盗賊を抑えようとしたのだ。人々は、みな王莽を笑った。
ぼくは思う。後漢は、王莽と同じく、符命や図讖を信じた。『後漢書』の詔勅を読めば、「非科学的」な説明が、いくらでも付いている。もし班固が、王莽のマジナイを批判したら、後漢まで批判することになる。班固が、そんなこと、できるわけがない。だから班固は、後漢に逮捕されたのだろうかw
ぼくは思う。『後漢書』本紀にも、よく年始に所信表明がある。いろいろ古典を引用する。班固のコメントを、どこにでも移動させることができる。班固は王莽を批判したくて、うっかり(王莽を継承した)後漢まで批判した。
初獻《新樂》於明堂、太廟。群臣始冠麟韋之弁。或聞其樂聲,曰:「清厲而哀,非興國之聲也。」「新楽」を明堂と太廟で演奏した。群臣は鹿皮の冠をかぶる。音色を聞いた者がいう。「清くはげしいが、哀しい音色だ。国家の発展を感じさせない」と。
ちくま訳は「興國之聲」を「新興の国の声調」とする。王朝名が新室なのに、「新興」という形容詞をつかうなんて、センスがない。原文に近づけて、抄訳しました。
先謙はいう。べつの版本で「衰えた音色」という。ロコツ!
赤眉、益州、匈奴との戦い
是時,關東饑旱數年,力子都等黨眾浸多,更始將軍廉丹擊益州不能克,征還。更遣復位後大司馬護軍郭興、庸部牧李曄擊蠻夷若豆等,太傅犧叔士孫喜清潔江湖之益賊。而匈奴寇邊甚。莽乃大募天下丁男及死罪囚、吏民奴,名曰「豬突豨勇」,以為銳卒。一切稅天下吏民,訾三十取一,縑帛皆輸長安。令公卿以下至郡縣黃綬皆保養軍馬,多少各以秩為差。又博募有奇技術可以攻匈奴者,將待以不次之位。言便宜者以萬數:或言能度水不用舟楫,連馬接騎,濟百萬師;或言不持鬥糧,服食藥物,三軍不饑;或言能飛,一日千里,可窺匈奴。莽輒試之,取大鳥翮為兩翼,頭與身皆著毛,通引環紐,飛數百步墮。莽知其不可用,苟欲獲其名,皆拜為理軍,賜以車馬,待發。このとき関東は、飢饉と日照が、数年つづいた。赤眉の力子都は、ふくらんだ。更始將軍の廉丹は、益州で勝つことができず、長安に帰還した。
ぼくは思う。「更始將軍」というのは、王莽がエンギをかついで「甯始將軍」から改めた称号。のちに王莽の敵として、更始帝が登場する。敵に呼称をパクられるなんて、、商標登録はお忘れなく。
復位した大司馬護軍の郭興、庸部牧の李曄は、益州の蛮夷・若豆を攻撃した。太傅犧叔の士孫喜は、江湖の益賊を平定した。
胡三省はいう。王莽は太傅に夏をつかさどらせ、ゆえに(太傅の属官として)羲叔の官をおく。 ぼくは思う。益州の蛮夷は、以前から叛いている。これに赤眉が加わり、戦線が増える一方であると。つぎは匈奴の話。匈奴の進攻がはげしい。王莽は天下から丁男や死刑囚をあつめ、「豬突豨勇」と名づけて精鋭軍とする。天下の吏民から、30分の1を徴収して、絹帛を長安に輸送させる。公卿から郡県の黄綬までに、軍馬を保養させ、費用を支給した。
特殊能力のある人材を集めて、官軍を強化した。
どんな特殊能力か。食べなくていいとか、瞬間移動できるとか、空を飛べるとか。ドラゴンボール的な。
ぼくは思う。悪意をもって読めば、王莽は、ほら吹きにだまされた。ほら吹きに、軍を任せちゃっているから、バカだなあと。だが、好意をもって読めば、人材と技術の収集に貪欲だった。空を飛ぶ道具とか、発明ですよ。新技術に興味を向けるとは、近代的な意味で、軍事的にすぐれていると思う。班固は、けなす目的で書いているだろうが。
(曹操の人間くささを批判した文が、近代人には魅力的に映るのと同じ)功名を欲する者は、みな理軍を拝して、車馬を賜り、出発をまつ。
初,匈奴右骨都侯須蔔當,其妻王昭君女也,嘗內附。莽遣昭君兄子和親侯王歙誘呼當至塞下,脅將詣長安,強立以為須卜善於後安公。始欲誘迎當,大司馬嚴尤諫曰:「當在匈奴右部,兵不侵邊,單于動靜,輒語中國,此方面之大助也。於今迎當置長安槁街,一胡人耳,不如在匈奴有益。」莽不聽。即得當,もともと、匈奴の右骨都侯である須卜當は、王昭君の娘を妻とした。須卜當は、かつて前漢に内付した。王莽は、王昭君の兄の子・和親侯の王歙をおくり、須卜當を国境に誘った。須卜當を脅して、長安に連れてきた。王莽は、須卜當を「善于」「後安公」とした。
師古はいう。善于は匈奴の号である。後安公は莽新の爵位だ。2つの称号を加えたのだ。はじめ大司馬の嚴尤は、王莽をいさめた。
「須卜當は、匈奴右部のなかにいて、匈奴右部が莽新を攻めぬよう抑えている。単于の動静を伝えてくれる。もし須卜當が長安に来たら、1個の胡人でしかない。須卜當は匈奴のなかに置き、莽新に益させるべきだ」と。王莽は許さず、須卜當を長安においた。
ぼくは思う。王莽は、強烈な中央集権をやりたい人だろう。だから異民族すら、長安に置きたい。だが、君主権力の集中は、反発を招くのが、ツネです。前漢が拡散して滅びたばかりだ。ゆるめるのも不安だ。バランスが難しいなあ。
ぼくは思う。王莽の匈奴政策は、強硬なだけでない。こういう複雑な工作もやっている。班固がきちんと残してくれた、史実を順番にならべて年表を書けば、何かが浮かび上がるはずだ。マスメを塗るパズルみたいに。
欲遣尤與廉丹擊匈奴,皆賜姓徵氏,號二徵將軍,當誅單于輿而立當代之。出車城西橫廄,未發。尤素有智略,非莽攻伐四夷,數諫不從,著古名將樂毅、白起不用之意及言邊事凡三篇,奏以風諫莽。及當出廷議,尤固言匈奴可且以為後,先憂山東盜賊。莽大怒,乃策尤曰:「視事四年,蠻夷猾夏不能遏絕,寇賊奸宄不能殄滅,不畏天威,不用詔命,貌很自臧,持必不移,懷執異心,非沮軍議。未忍致於理,其上大司馬武建伯印韍,歸故郡。」以降符伯董忠為大司馬。王莽は厳尤と廉丹に「徴氏」の姓をたまい、「二徴將軍」とした。
ぼくは思う。厳尤と廉丹は、王莽政権で、重要な将軍だとわかる。廉丹は益州で負けたけど。
いま王莽は、2人におなじ姓をあたえ、擬似兄弟にした。ぼくは類例を知らないが、古典に、根拠があるのだろうか。『補注』は注釈なし。王莽は、いまの単于の興を攻めて、須蔔當を単于に代えたい。
厳尤は長安の城西に戦車をならべ、出陣のまえに王莽を諌めた。四夷の匈奴よりも、赤眉を平定するほうが、優先だと。厳尤は「戦国時代、君主が楽毅や白起を用いずに失敗した」など、3篇を著述して王莽に提出した。匈奴よりも山東の赤眉を優先しろという。
ぼくは思う。厳尤は、自分を楽毅や白起になぞらえる。こういう「天意=史料の記述者と、良い関係を結んでいるだろう」という人物は、正しいことを認められず、悲劇の末路をたどる。王莽は大怒していう。「厳尤は大司馬を4年やるが、蛮夷や寇賊を平定できない。そのくせ私に反発するか。大司馬と武建伯の印綬を返上して帰郷せよ」と。
ぼくは思う。王莽は「匈奴さえ平定すれば、赤眉は何とでもなる」と思ったのだろう。政策には、ただ差異のみがあり、正誤はない。王莽と厳尤、どちらも正誤はない。降符伯の董忠を、厳尤に代えて、大司馬とした。
ぼくは思う。王莽が侮辱外交をしたせいで、匈奴と戦争が始まったとされる。しかし、後漢になっても、異民族は盛んだ。あやまって、すむ問題ではなかった、、というのが、匈奴の制御に成功した、後漢を賞賛する立場からの認識である。
ぼくは思う。もし王莽が、侮辱した書面を送らなくても、早晩、漢族と胡族は、戦い始めたのかも知れない。胡族の人口が増えたとか、生産力が変動したとか、マクロな背景があったのでは? 悪事はすべて王莽のせいじゃない。
翼平連率田況奏郡縣訾民不實,莽複三十稅一。以況忠言憂國,進爵為伯,賜錢二百萬。眾庶皆詈之。青、徐民多棄鄉里流亡,老弱死道路,壯者入賊中。翼平連率の田況は「郡県は課税が足りない」と上奏した。王莽は30分の1を追徴課税した。
先謙はいう。翼平とは、『地理志』によると北海の寿光県。田況の忠言は、莽新を憂いたものなので、田況は伯爵になり、銭2百万をもらう。周書は、田況をののしる。青州と徐州では、故郷を捨てて、流亡した。老弱な者は道で死に、壮健な者は賊になった。
ぼくは思う。青州と徐州だけ、飢饉の記事がある。後漢の本紀をみれば、だいたい、飢饉は全国的に散発する。いま青州と徐州にかたよるのは、不自然か。ぼくが思うに班固は、赤眉を説明&強調するため、青州と徐州の天候不順を、たくさん書いたか。自然より人為のほうがあやしい。悪意はなくとも、「因果関係をつなげるため」の編集により、事実を見誤らせるのだ。
夙夜連率韓博上言:「有奇士,長丈,大十圍,來至臣府,曰欲奮擊胡虜。自謂巨毋霸,出於蓬萊東南,五城西北昭如海瀕,軺車不能載,三馬不能勝。即日以大車四馬,建虎旗,載霸詣闕。霸臥則枕鼓,以鐵箸食,此皇天所以輔新室也。願陛下作大甲高車,賁、育之衣,遣大將一人與虎賁百人迎之於道。京師門戶不容者,開高大之,以視百蠻,鎮安天下。」博意欲以風莽。莽聞惡之,留霸在所新豐,更其姓曰巨母氏,謂因文母太后而霸王符也。征博下獄,以非所宜言,棄市。夙夜連率の韓博は、王莽に上言した。
銭大昭はいう。『地理志』で夙夜は、もとの不夜県という。ここに王莽が郡を設置して、その長官を連率という。
ぼくは思う。山東は、長安からもっとも遠い。いち早く、新室から脱落していたらしい。光武帝は王莽を見て、遠隔地が脱落するのをキラい、わざと真ん中の洛陽に遷都したのかも? もしくは因果関係が逆で、王莽の洛陽遷都の計画が、山東の反乱により延期されそうなのかも。東西南北、東は泰山に行ってから、洛陽にゆく計画だった。「2メートルを越える奇士が、異民族を討伐したいと、志願してきました。彼は巨毋霸と名乗る。海の向こうから来ました。4頭だての馬車で、やっと運べます。鉄の箸で、食べます」と。王莽は韓博を悪んだ。
ちくま訳はいう。王莽は、あざなは巨君。巨ハ、霸トナル毋シ。「王莽は、覇者になれない」という謎かけだ。王莽は巨毋霸を呼び寄せず、「巨母覇」と改姓させた。
ちくま訳はいう。「毋」を「母」にしたので、「王莽の母(おば)は覇者だ」という、メッセージに代わった。エンギかつぎというか、トンチの仕返しである。韓博は言うべきでないことを言ったから、下獄・棄市された。
明年改元曰:地皇,從三萬六千歲曆號也。翌年「地皇」と改元した。36千歳暦からの年号である。130225
蘇輿はいう。『御覧』78は項峻『始学記』をひく。天地がたち、天皇は12頭。天霊という。18千年を治める。地皇は12頭。18千年を治めると。天皇と地皇が18千年ずつを治めるという思想の暦法である。閉じる
- 地皇元年、行政官に将軍号を加え、9廟を建設
春、封建領主+行政長官+将軍号
地皇元年正月乙未,赦天下。下書曰:「方出軍行師,敢有趨訁襄犯法者,輒論斬,毋須時,盡歲止。」於是春夏斬人都市,百姓震懼,道路以目。地皇元年(後20)正月乙未、天下を赦した。「これから軍を出す。処刑は即座に実行しろ。この命令は、今年限りである」と。前漢では、春夏は処刑をしなかった。しかし王莽は、春夏でも都市で人を斬った。百姓はおそれ、道路で目くばせした。
ぼくは思う。王莽は、今年1年だけ厳しくして、短期で内乱を鎮圧する覚悟だ。
渡邉先生の論文では、儒家の寛治と、法家の猛政が、対になる概念として、語られていた。よく王莽を、儒家の原理主義者みたいに云う人がいる。しかし王莽は、法律の執行に厳格である。カンタンに分類できない。
二月壬申,日正黑。莽惡之,下書曰:「乃者日中見昧,陰薄陽,黑氣為變,百姓莫不驚怪。兆域大將軍王匡遣吏考問上變事者,欲蔽上之明,是以適見於天,以正於理,塞大異焉。」2月壬申、太陽が黒くなった。王莽はこれを悪み、書を下した。
「暗くなったのは、私の政治をジャマするやつがいるからだ。兆域大将軍の王匡が、返事を報告したものを調査したら、ジャマ者がいるとわかった」と。
劉奉世はいう。「兆域」「大」将軍なんていない。北城将軍の王匡が正しいか。前に南城将軍があった。この王匡とは、既出の王匡とは別人である。
周寿昌はいう。「大」があっても良い。王莽は州牧に「大将軍」の号をあたえた。莽新には「大将軍」を設置する制度がある。
莽見四方盜賊多,複欲厭之,又下書曰:「予之皇初祖考黃帝定天下,將兵為上將軍,建華蓋,立鬥獻,內設大將,外置大司馬五人,大將軍二十五人,偏將軍百二十五人,裨將軍千二百五十人,校尉萬二千五百人,司馬三萬七千五百人,候十一萬二千五百人,當百二十二萬五千人,士吏四十五萬人,士千三百五十萬人,應協于《易》『孤矢之利,以威天下』。予受符命之文,稽前人,將條備焉。」王莽は盗賊が多発するので、制圧したい。王莽はいう。
「かつて祖先の黄帝は、内に大将をもうけ、外に大司馬を5人おいた。大将軍を25人、偏将軍を125人、裨将軍を1250人、校尉を12500人、司馬を37500人、、おいた。黄帝と同じ軍事組織をつくる」と。
言わずもがな、黄帝は伝説の君主。老荘が重んじる。
於是置前後左右中大司馬之位,賜諸州牧號為大將軍,郡卒正、連帥、大尹為偏將軍,屬令長裨將軍,縣宰為校尉。乘傳使者經歷郡國,日且十輩,倉無見穀以給,傳車馬不能足,賦取道中車馬,取辦於民。王莽は、前後左右中の5人の大司馬をおいた。州牧の号を大将軍とした。卒正、連帥、大尹(太守)を偏将軍とした。属令長を裨将軍、県宰を校尉とした。
晋灼はいう。大司馬から下位に向けて、5倍ずつだ。師古はいう。ちがう。5倍、10倍、3倍など、まちまちだ。ぼくは思う。州は13州で現状維持。これに郡県を付属させるが、きれいな倍数にならない。「数学は美しいから、神が作ったものだ。数は真理だ」という発想が西洋にある。だが王莽は、あまり数字に拘らない。暦法は、そもそも天体が数学的だから、数学的にカッチリつくった。だが地方の行政区分は、わりに現実に妥協的なのだ。
ぼくは思う。爵位による封建君主と、官職による行政官が、もともと融合していた。さらに、軍事官の将軍号まで融合させた。もはや「莽新から独立してくれ」と言わんばかりだ。封君+長官+将軍。西晋末の八王と同じ。軍の使者が郡国を回る。使者に補給する食糧や車馬がない。民から徴発して、軍が使用した。
ぼくは思う。経済のセンスが、ない。しかし、いかなる財政担当の名君だって、ふところは民衆や豪族である。王莽だって、うまく調達&配分すれば、新室は倒れなかったのになあ。財政のやりくりが下手だからって、「王莽は、豪族の支持を得られず」なんて、戦後歴史学の議論に結びつけるのは、短絡的だと思うが。
4男の王臨を統義陽王にして洛陽におく
七月,大風毀王路堂。複下書曰:「乃壬午餔時,有列風雷雨髮屋折木之變,予甚弁焉,予甚栗焉,予甚恐焉。伏念一旬,迷乃解矣。昔符命文立安為新遷王,臨國雒陽,為統義陽王。是時予在攝假,謙不敢當,而以為公。其後金匱文至,議老皆曰:『臨國雒陽為統,謂據土中為新室統也,宜為皇太子。』自此後,臨久病,雖瘳不平,朝見挈茵輿行。見王路堂者,張於西廂及後閣更衣中,又以皇后被疾,臨且去本就舍,妃妾在東永巷。壬午,烈風毀王路西廂及後閣更衣中室。昭甯堂池東南榆樹大十圍,東僵,擊東閣,閣即東永巷之西垣也。皆破折瓦壞,髮屋拔木,予甚驚焉。又侯官奏月犯心前星,厥有占,予甚憂之。優念《紫閣圖》文,太一、黃帝皆得瑞以仙,後世褒主當登終南山。所謂新遷王者,乃太一新遷之後也。統義陽王乃用五統以禮義登陽上千之後也。臨有兄而稱太子,名不正。宣尼公曰:『名不正,則言不順,至於刑罰不中,民無錯手足。』惟即位以來,陰陽未和,風雨不時,數遇枯旱蝗螟為災,穀稼鮮耗,百姓苦饑,蠻夷猾夏,寇賊奸宄,人民正營,無所錯手足。深惟厥咎,在名不正焉。其立安為新遷王,臨為統義陽正,幾以保全二子,子孫千億,外攘四夷,內安中國焉。」7月、大風が王路堂(未央宮前殿)を毀した。王莽は下書した。「私は大風に悩まされる。符命は「3男の王安を新遷王(汝南神蔡の県王)にして、4男の王臨を統義陽王にして、洛陽に都させよ」という。金匱が出てきて「王臨が土中の洛陽で新室の皇統をつげ。王臨を太子とせよ」と読めた。この金匱の重圧により、王臨は寝こんだ。王臨が寝こむ建屋に、大風で木が倒れた。王臨を太子にできない。(符命には従うが、金匱には従わず)3男の王安を新遷王、4弟の王臨を統義陽王とする。2子を保全する」と。
ぼくは思う。皇太子は決めなかったか。結論から&結論を言ってくれ。王莽の本音は「4男の王臨を太子にしたい」であり、王莽に迎合した金匱もあった。だが兄弟の秩序を転倒させるのは、『論語』で孔子が子路に教えたとおり、ダメである。符命に従って封王だけやり、太子を決めない。王莽は老人なのに、まだ太子が決まらない。
是月,杜陵便殿乘輿虎文衣廢臧在室匣中者出,自樹立外堂上,良久乃委地。吏卒見者以聞,莽惡之,下書曰:「寶黃廝亦,其令郎從官皆衣絳。この月、宣帝の杜陵の便殿にあった、乗輿と虎ガラの衣が、ひとりでに外堂の上にたち、地に落ちて倒れた。
ぼくは補う。虎ガラは、黄色。新室のシンボルカラー。新がほろびて、漢が復興するという「不吉」なできごと。ぼくは思う。王莽を見張っているのは、元帝の父・宣帝なのだ。成帝や哀帝や平帝では「父性権力」の色あいが足りない。王莽の祖父の世代。王莽は命じた。「黄色をとうとび、赤色をいやしめ。郎や従官などの下位者は、赤い衣服をつけろ」と。
王莽が9廟をたてる
望氣為數者多言有士功象,莽又見四方盜賊多,欲視為自安能建萬世之基者,乃下書曰:「予受命遭陽九之厄,百六之會,府帑空虛,百姓匱乏,宗廟未修,且袷祭於明堂太廟,夙夜永念,非敢寧息。深惟吉昌莫良於今年,予乃卜波水之北,郎池之南,惟玉食。予又卜金水之南,明堂之西,亦惟玉食。予將新築焉。」於是遂營長安城南,提封百頃。望気者は、王莽に「土功」の象があり、また王莽が盗賊を平定して「万世之基」を立てるという。王莽は下書した。「宗廟を修繕してない。宗廟がないから、明堂と太廟に袷祭するが、本望でない。宗廟を長安の南に建設する」という。
ぼくは思う。地名などは上海古籍6177頁。
九月甲申,莽立載行視,親舉築三下。司徒王尋、大司空王邑持節,及侍中常侍執法杜林等數十人將作。崔發、張邯說莽曰:「德盛者文縟,宜崇其制度,宣視海內,且令萬世之後無以復加也。」莽乃博征天下工匠諸圖畫,以望法度算,乃吏民以義入錢、谷助作者,駱驛道路。壞徹城西苑中建章、承光、包陽、犬台、儲元宮及平樂、當路、陽祿館,凡十餘所,取其材瓦,以起九廟。是月,大雨六十餘日。令民入米六百斛為郎,其郎吏增秩賜爵至附城。9月甲申、王莽は宗廟の建設予定地にゆき、土を3回たたく。
司徒の王尋、大司空の王邑が持節する。侍中常侍執法の杜林らが、数十人をひきいて、宗廟をつくる。崔發と張邯ら王莽にいう。「徳が盛んな者は、万世の後にも見劣りもしない建物をつくる」と。
ぼくは思う。また、あおるんだからw王莽は天下から、諸技術をもつ職人をあつめた。長安の宮殿など10余をつぶして、材瓦をあつめ、9廟をつくる。
つぶされた宮殿の名などは、上海古籍6178頁に注釈あり。この月、60余日も大雨。民が6百石を納めたら、郎とする。郎吏が米を納めたら、秩禄をふやし、付城までの爵位をもらえる。
ぼくは思う。付城は、6番目の等爵。男爵の下。漢代に関内侯、列侯、諸侯王あたりで、ディスタンクシオンする。これと同じ。男爵は小さいなりに封地があり、世襲できるから、特別なんだ。米じゃ買わせない。
九廟:一曰黃帝太初祖廟,二曰帝虞始祖昭廟,三曰陳胡王統祖穆廟,四曰齊敬王世祖昭廟,五曰濟北湣王王祖穆廟,凡五廟不墮雲;六曰濟南伯王尊禰昭廟,七曰元城孺王尊稱穆廟,八曰陽平頃王戚禰昭廟,九曰新都顯王戚禰穆廟。殿皆重屋。太初祖廟東西南北各四十丈,高十七丈,餘廟半之。為銅薄櫨,飾以金銀雕文,窮極百工之巧。帶高增下,功費数百巨萬,卒徒死者萬數。王莽の9廟に入ったのは。黄帝、虞帝、陳胡王、斉敬王、済北愍王までの5廟が不毀。済南伯王、元城孺王、陽平頃王、新都顕王までで9廟。低地に土を盛ったので、費用は数百巨万、作業者は1万が死ぬ。
時令の無視、貨幣の強要、緑林の起兵
巨鹿男子馬適求等謀舉燕、趙兵以誅莽,大司空士王丹發覺以聞。莽遣三公大夫逮治党與,連及郡國豪傑數千人,皆誅死。封丹為輔國侯。鉅鹿の男子である馬適求が、燕趙の兵をあげた。大司空士の王丹は、事前に摘発した。王莽は三公大夫に党与に逮捕させた。郡国の豪傑が数千人も誅された。王丹を輔國侯とした。
師古はいう。馬適が姓で、求が名である。
ぼくは思う。冀州の叛乱は、新末は、おもな勢力にはならず。黄巾とちがうな。王莽も、叛乱の鎮圧に成功することがあるらしい!
自莽為不順時令,百姓怨恨,莽猶安之,又下書曰:「惟設此一切之法以來,常安六鄉巨邑之都,枹鼓稀鳴,盜賊衰少,百姓安土,歲以有年,此乃立權之力也。今胡虜未滅誅,蠻僰未絕焚,江湖海澤麻沸,盜賊未盡破殄,又興奉宗廟社稷之大作,民眾動搖。今夏一切行此令,盡二年止之,以全元元,救愚奸。」王莽が季節を無視して、(春夏に人を斬るなど)法令を執行した。百姓は王莽を怨恨したが、王莽は下書した。「長安まわりの六郷では治安が良いが、匈奴や蛮族、江湖や海沢では盗賊がいる。
ぼくは思う。海沢とは赤眉のことか。私が宗廟を建設して、民衆は動揺した。春夏の刑罰を(当初は1年だけと言ったが)2年やる。百姓を全うし、愚奸を救う」と。
ぼくは思う。宗廟が動揺の原因なら、あやまれよw ぼくは補う。前漢は、春夏には、処刑しないという話が、上にありました。前漢の制度を知らないと、王莽がなぜ反感を持たれたか理解できない。
ぼくは思う。王莽は「時令に順わず」である。四季のねっとりした変遷を、きっちり分節するのが儒教の役割。その儒教が暴走すると、季節を分節するだけでなく、季節を無視する。象徴界の暴走である。漢制で、春夏に刑罰しなかったのは、現実界に基づいた根拠があっただろうに。
是歲,罷大小錢,更行貨布,長二寸五分,廣一寸,真貨錢二十五。貨錢徑一寸,重五銖,枚直一。兩品並行。敢盜鑄錢及偏行布貨,伍人知不發舉,皆沒入為官奴婢。この歳、大小銭をやめて、新たに貨布を発行する。長さ2寸5分、広さ1寸、25銭の価値。貨銭を発行する。直径1寸、重さ5銖、価値1銭。貨布と貨銭を両用させた。盗鋳したり、布貨ばかり使えば、5人の連帯責任で官奴婢におとした。
銭大昭はいう。『食貨志』では「銭」を「泉」という。
ぼくは思う。「王莽の貨幣論」は絶対にやるべきテーマ。ジンメル『貨幣の哲学』は購入した。ぶあつい。レヴィナス『貨幣の哲学』は、熟読しても意味が分からなさそう。こちらはコピーだけ持っている。「自分が発行した貨幣の使用を、ペナルティつきで強制する」とは、いかなる行為か。ここから王莽論の地平が広がるのです。マジで。予感だけがあるが、予感で充分なのだ。書ける。
ぼくは思う。王莽は、まだ使い勝手の良さそうだった、大銭と小銭を廃止した。「使いにくい」からこそ、王莽への忠誠度が測れるのか。大銭と小銭のほうが、布銭や刀銭よりも、抽象度が高かった。王莽は、布銭に「退行」した。これは、王莽の欲動が実現されないから(統治が成功しないから)欲動が実現できるところまで撤退し、成功条件を緩和したともいえる。フロイトも読み始めた。
太傅平晏死,以予虞唐尊為太傅。尊曰:「國虛民貧,咎在奢泰。」乃身短衣小袖,乘牝馬柴車,藉槁,瓦器,又以曆遺公卿。出見男女不異路者,尊自下車,以象刑赭幡污染其衣。莽聞而說之,下詔申敕公卿思與厥齊。封尊為平化侯。太傅の平晏が死んだ。予虞の唐尊を、太傅とした。唐尊は「国家と百姓が貧しいのは、奢侈のせいだ」といい、清貧を演出して、粗末なものを公卿に贈る。男女が道路を区別しないと、下車して衣を赤土で汚した。
ちくま訳はいう。漢代、赤い衣服は罪人がきる。
ぼくは補う。フロイトの女性患者がいた。彼女が抑圧していたのは、新婚の初夜、新郎が不能だと判明したこと。新郎は、召使に不能がバレたくないので、ベッドに赤いインクを垂らした。という話じゃないのか。罪人も赤服かも知れないが。
王莽は、みな唐尊をマネろと命じた。平化侯に封じた。
是時,南郡張霸、江夏羊牧、王匡等起雲杜綠林,號曰:下江兵」,眾皆萬餘人。武功中水鄉民三舍墊為池。このとき、南郡の張霸、江夏の羊牧と王匡らは、雲杜に緑林を起こした。「下江兵」と号して、百余人をあつめた。
晋灼はいう。もとは江夏の雲杜件。のちに別れて西上し、南郡に入り、藍口に屯する。下江兵という。ぼくは補う。赤眉とならび称させる、緑林です。拠点は、荊州南部だ。武功県の中水郷(右扶風の美陽)で、民の3舍が池になった。130225
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春、王莽の妻と、4男の王臨が死ぬ
二年正月,以州牧位三公,刺舉怠解,更置牧監副,秩元士,冠法冠,行事如漢刺史。地皇二年(後21)正月、州牧を三公と同位とした。怠解な者を刺挙させた。牧監副、秩元士、冠法冠をおく。この3つは、漢制の刺史と同じ職務だ。
ぼくは思う。封建制(地方への委任)の好きな王莽が、地方の監察を強めた。珍しいことだ。この1年で、赤眉も緑林も匈奴も、鎮圧するつもりか。
ぼくは思う。革命直後の劉氏の爵位も同じだったが。王莽は、はじめに盛大に贈与したくせに、反動ではげしく回収する。劉氏を優遇したら、きゅうに官爵を奪った。地方にも、統治権を大きく委譲しておきながら、監察官をたくさん任命する。
是月,莽候妻死,諡曰:「孝睦皇后」,莽渭陵長壽園西,令永侍文母,名陵曰「億年」。初莽妻以莽數殺其子,涕泣失明,莽令太子臨居中養焉。莽妻旁侍者原碧,莽幸之。後臨亦通焉,恐事泄,謀共殺莽。臨妻愔,國師公女,能為星,語臨宮中且有白衣會。臨喜,以為所謀且成。後貶為統義陽正,出在外第,愈憂恐。會莽妻病困,臨予書曰:「上于子孫至嚴,前長孫、中孫年俱三十而死。今臣臨複適三十,誠恐一旦不保中室,則不知死命所在!」正月、王莽の妻が死んだ。孝睦皇后とする。王元后に永久に侍らせるため、陵墓を「億年」という。王莽が子を殺すから、王莽の妻は泣いて失明した。
ぼくは思う。「明かりを失う」が、視力がゼロになることを、意味するのか。東晋次氏は、視力ゼロで読んでいた。『補注』は注釈がない。ひどいなあ。王莽は太子の王臨に、妻の介護を命じた。妻の侍女は王莽に寵愛されたが、王臨はこの侍女と密通した。発覚を恐れ、王臨と侍女が王莽を殺そうとした。
王臨の妻の劉氏は、国師公の劉歆の娘だ。劉氏が王臨に「宮中に白衣=喪服があつまる」という。王臨は王莽を殺害できると思い、喜んだ。ぼくは思う。蔡邕と蔡文姫の事例があるように。娘は、父の文化資本を受けつぐ。男系社会のように見えるが、女子も教育されることがある。王元后も、兄を負かして「女のくせに学者になるのか」と言われた。のちに王臨は、太子から統義陽王になる。王莽の妻が病困すると、王臨はいう。「2人の兄・長孫と中孫(王宇と王獲)は、30歳で殺された。私も30歳である。いつ王莽に殺されるか知れない」と。
ぼくは思う。王莽は、自分の身を正す手段として、簡単に子や孫を殺す。子や孫から見たら、おそろしい父や祖父である。抵抗は、仕方ないかも? 「子殺し」の意味について、精神分析を活用して説明をつけたい。王莽ほど、熱心に子殺しをする者も、めずらしい。「筆誅」の演出ではなく、まさに史実だろう。
莽妻疾,見其書,大怒,疑臨有惡意,不令得會喪。既莽,收原碧等考問,具服奸、謀殺狀。莽欲秘之,使殺案事使者司命從事,埋獄中,家不知所在。賜臨藥,臨不肯飲,自刺死。王莽の妻が病むと、王莽は王臨の文書を見た。王臨を、母の葬儀に出させない。王莽は侍女を考問して「王臨が王莽を殺そうとした」計画をあばく。王莽はこの計画を秘して、司命従事(司命の属官)を殺した。司命従事の家属も、行方を知らない。王臨は毒薬をもらうが、飲まずに自ら刺殺した。
親にもらった身体を、傷つけることは、不孝です。服毒は、身体に外傷がつかないから、孝行な死に方。王莽は、王臨に服毒を命じたのに、王臨は父親に抵抗したんだろう。この刺殺により、未遂の「父殺し」を変形して達成した。
ぼくは思う。王莽は「殺したくなる父」なのかも知れない。だから王莽は、対抗手段として「子殺し」をする父となる。父は子を去勢するものだが(フロイト)王莽は子を去勢するだけで足らず、子を殺害した。ラカンのいう象徴界、父の名=父の否である。子に「やぶれかぶれだが、一矢報いたい」と思わせるほど、王莽の父性権力は強力。皇帝権力と父性権力は親和性が高い。儒教では、王朝の秩序と家庭の秩序が、換喩的に把握されるから。王莽は過剰なまでに最強の父=皇帝です。
ぼくは思う。「室」が母親を意味すると、李奇はいう。「室」はフロイト『夢判断』において、女性の象徴。うまいことをいう。周寿昌はいう。王元后は新室、王平后は黄皇室主、王臨の母は中室という。
使侍中票騎將軍同說侯林賜魂衣璽韍,策書曰:「符命文立臨為統義陽王,此言新室即位三萬六千歲後,為臨之後者乃當龍陽而起。前過聽議者,以臨為太子,有烈風之變,輒順符命,立為統義陽正。在此之前,自此之後,不作信順,弗蒙厥佑,夭年隕命,嗚呼哀哉!跡行賜諡,諡曰:『繆王』。」又詔國師公:「臨本不知星,事從愔起。」愔憶自殺。侍中・票騎將軍・同説侯の林に、魂衣・璽綬を賜り、策書した。「符命は、王臨を統義陽王に立てろという。これは新室で36千年後に、王臨の子孫が皇帝になることを意味した。早とちりして王臨を統義陽王にしたが、適任でなかった。王臨に「繆王」と贈ろう」と。
ぼくは思う。「10年後の8月また出会えると信じて」というタイプの、辻褄あわせである。王莽の名誉を守りつつ、莽新が永遠に続くことを言っている。王莽から、國師公の劉歆にいう。「王臨は星を読解できない。王臨の妻=劉歆の娘が、王莽の殺害をけしかけたな」と。王臨の妻も自殺した。
是月,新遷王安病死。初,葬為侯就國實,幸侍者增秩、懷能、開明。懷能生男興,增秩生男匡、女曄,開明生女捷,皆留新都國,以其不明故也。及安疾甚,莽自病無子,為安作奏,使上言:「興等母雖微賤,屬猶皇子,不可以棄。」章視群公,皆曰:「安友于兄弟,宜及春夏加封爵。」於是以王車遣使者迎興等,封興為功脩任,匡為功建公,曄為睦脩任,捷為睦逮任。孫公明公壽病死,旬月四喪焉。莽壞漢孝武、孝昭廟,分葬子孫其中。この月、新遷王の王安(王莽の3男)が、病死した。
ぼくは補う。王安は、王臨の兄。王莽の妻が死んだ月に、子が2人とも死んだことになる。「王莽が王安を殺した」と、ロコツには書いていないが、精神的に追いこんだのかも? それなら、間接的に殺したようなものだ。ただし、新室を継ぐくらいなら、死んだほうがマシかもw王莽は新都国で、侍女(增秩、懷能、開明)に産ませた子供がいた。
ぼくは補う。前漢の哀帝のとき、王莽は政治的に敗北し、新都国に押しこめられた。そのときに、つくった子供である。王莽は、新都国でつくった子を、国許にとどめていた。侍女に子供を産ませたことを、恥じたからだ。
ぼくは思う。班固は、よけいな解釈を、ちょいちょい、はさむ。王莽が、侍女との関係を恥じたかなんて、分からない。ぼくは思う。無用な後継あらそいを、起こしたくなったから、国許にとどめたかも知れない。
列伝の途中で、著者が批判的な意見をはさむのは、珍しい。ぎゃくに云えば、批判的な意見をはさまないと、王莽を賛美する文章になりかねないと、班固は思ったのか。王莽がだす命令は、皇帝のスタイルだし。
師古はいう。王莽の子でない可能性があったから、迎えなかった。
王莽は新都から、侍女の子を迎えた。王興を功脩任、王匡を功建公、王曄を睦脩任、王捷を睦逮任とした。
ちくま訳はいう。「任」は王莽が公主にあたえた爵号。孫の王公明公壽が病死した。旬月で親族4名が死んだ。前漢の武帝と昭帝の廟をこわし、孫をほうむった。
銭大昭はいう。「公明」とは「功明」か。封地の名か。
ぼくは補う。4名とは、王莽の妻、王莽の子である王臨と王安、王莽の孫だ。
武帝と昭帝、かわいそうになあ。新室は禅譲を受けたくせに、前漢を敵視するらしい。だから偽善だと云われるのだ。
見方を変えれば、建材や工事費を節約した。あまりに短期間に、王莽と血縁のちかい「貴い」人が死にすぎた。廟の建造が、追いつかない。財政は赤字だ。
ぼくは思う。王莽のとき、驚くほど武帝が強調されない。宣帝や元帝は出てくるのに、武帝は「その他大勢」である。昭帝のように、ろくな功績がなさそうな皇帝とセットである。「武帝はすごいぞ歴史観」は、後世の歪曲か。『史記』の司馬遷と同時代だが、武帝紀は失われている。『漢書』で儒教の「国教化」の時期が宛がわれたから、武帝が強調されるのか。董仲舒を目立たせすぎなのでなく、その前段階で武帝を目立たせすぎなのかも。日本史の「醍醐と村上の御代」みたいな。
樊王が漢家を復興するという予言
魏成大尹李焉與卜者王況謀,況謂焉曰:「新室即位以來,民田奴婢不得賣買,數改錢貨,徵發煩數,軍旅騷動,四夷並侵,百姓怨恨,盜賊並起,漢家當復興。君姓李,李者徵,徵,火也,當為漢輔。」魏成大尹の李焉に、卜者の王況がいう。
銭大昭はいう。「魏成」とは魏郡である。魏郡太守の李焉ね。
ぼくは思う。王莽は魏郡に本籍があった。またしても革命の前兆が、魏郡から発信された。もちろん、袁紹と曹操が本拠地にする場所。長安や洛陽に隠れているが、魏郡は、じつは天命を揺さぶる毒電波の発信源なのでは。呪われた、もしくは祝福された土地なのでは。文化や流行の発信地なのかな。
「莽新の経済政策はひどい。民田と奴婢を売買できない。貨幣を改鋳し、徴発は煩瑣である。軍旅が騒動し、四夷が一斉に侵攻する。漢家が復興するだろう。きみの姓の「李」は「火」の音に通じる。李氏が火徳の劉氏を補佐する」と。
ぼくは思う。のちに光武帝のためにも、この予言が利用された。宛県の李通が、光武帝を挙兵にさそうとき、「オレは李氏だよ」とアピールした。予言は濫造されるイメージが強いが、わりと共有・流通・参照された。
因為焉作讖書言:「文帝發忿,居地下趣軍,北告匈奴,南告越人。江中劉信,執敵報怨,複續古先,四年當發軍。江湖有盜,自稱樊王,姓為劉氏,萬人成行,不受赦令,欲動秦、雒陽。十一年當相攻,太白楊光,歲星入東井,其號當行。」李焉は讖書をつくる。「漢文帝が王莽に怒って、地下で軍を動かす。文帝が、北の匈奴、南の越人を動かす。(高帝の兄子)江中の劉信は、王莽を倒すために4年以内に軍を発する。江湖の盗賊は、樊王を自称するだろう。樊王は劉氏なので、長安や洛陽を動揺させる。11年目に、樊王が漢家を復興する」と。
ちくま訳はいう。劉信は、漢高帝の兄子。
ぼくは思う。王莽伝に出てくる漢武帝は、王莽の親族が連続で死んだとき、「武帝と昭帝の陵墓を壊して、王氏のために流用した」という記述だけか。ザツな扱い。同列にある昭帝って、何した人だっけ。図讖などで王莽に敵対する皇帝は、高帝や文帝がメイン。宣帝や元帝も時代が近いから出てくる。武帝は中途半端なのか。
もしくは、戻太子の系統である宣帝のとき、武帝は「過去の人」にされたか。武帝の血筋は、一応はつながっているが、心理的には「継体天皇」ばりの別王朝だから。
ぼくは思う。この「樊王」は更始帝を指しているのか。いや光武帝であるべきか。年数が、ちゃんと光武帝と合致するように、班固が書いているのだろう。あとでチェック。
又言莽大臣吉凶,各有日期。會合十余萬言。焉令吏寫其書,吏亡告之。莽遣使者即捕焉,獄治皆死。また李焉は、王莽の大臣の吉凶をいう。寿命の期日をいう。10余万言をつくる。李焉は、魏郡の属吏に、占いを筆写させる。属吏が逃亡して、王莽にチクる。王莽は李焉を捉えて獄死させた。
ぼくは思う。予言は、象徴界から現実界を縛るための呪文。光武帝は、まったく無計画に動いたのでない。予言にひっぱられ、行動した。呪文の力を見くびれない。王莽が象徴界の強さを証明したので、符命が定着したのでは。
三輔盜賊麻起,乃置捕盜都尉官,令執法謁者追擊長安中,建鳴鼓攻賊幡,而使者隨其後。遣太師犧仲景尚、更始將軍護軍王黨將兵擊青、徐,國師和仲曹放助郭興擊句町。轉天下穀、幣詣西河、五原、朔方、漁陽,每一郡以百萬數,欲以擊匈奴。長安のまわりの三輔で、盜賊が多発した。捕盜都尉をおいた。執法謁者に、長安のなかを追撃させる。鳴鼓を建て、賊幡を攻める。使者はその後ろにつく。
周寿昌はいう。王莽は長安を常安を改めたはずなのに、たびたび「長安」と書いてある。ぼくは思う。班固は、わざと王莽の呼称を使い損ね、しかもミスに一貫性をなくすことで、「王莽の政策なんて、どうでも良いのよ」と主張したふりをしている。「常安と改名するなんて、バッカだねえ」と書くよりも、よほど迫力があるのだ。太師犧仲の景尚と、更始將軍護軍の王黨に、青州と徐州を討たせた。
青州と徐州は、王莽から自立したがる、いちばん困った地域。國師和仲の曹放は、郭興をたすけて(西南夷の)句町を攻撃する。
胡三省はいう。太師は春をつかさどり、属官に羲仲をおく。国師は秋をつかさどり、属官に和仲をおく。諸将軍は、属官に護軍をおく。天下の穀物と貨幣をかたむけ、西河、五原、朔方、漁陽では、1郡あたり1百万の軍資がある。匈奴を攻撃したい。130225
秋、登仙を夢みて、劉邦の廟を殴る
秋,隕霜殺菽,關東大饑,蝗。
民犯鑄錢,伍人相坐,沒入為官奴婢。其男子檻車,兒女子步,以鐵鎖琅當其頸,傳詣鐘官,以十萬數。到者易其夫婦,愁苦死者什六七。孫喜、景尚、曹放等擊賊不能克,軍師放縱,百姓重困。秋、霜でマメが枯れた。関東が飢えた。イナゴ。
貨幣を私鋳して、5人組に連坐した者は、官奴婢となる。鍾官(鋳銭をつかさどる官)に繋がれた者は、10数万人にのぼる。夫婦を交換され、愁苦して死んだ者は7割。青州と徐州を攻めた孫喜、景尚、曹放らは勝てない。官軍が放縦に現地調達したから、さらに関東の万民が飢えた。
兵站にうといのは、袁術も同じでした。古代中国の君主は、経済にうとくて、当たり前なんだと思う。『孫子』は、現地調達と節約を言うのみだ。
曹操の屯田みたいに、経済センスのある人が、ぎゃくに珍しいのだ。王莽も匈奴との国境に屯田を作っていたんだが、青州や徐州は国内だしねえ。
莽以王況讖言刑楚當興,李氏為輔,欲厭之。乃拜侍中掌牧大夫李棽為大將軍、揚州牧,賜名聖,使將兵奮擊。王莽は、王況の予言を気にした。王況は「荊楚で漢室が復興し、李氏がたすける」と予言したが、王莽はこれを潰そうとした。
『後漢書』李通伝はいう。李通は父の李守は、讖文「劉氏が復興し、李氏が輔となる」を説く。王況の予言が伝わったのだろう。光武紀にある。
ぼくは思う。わざわざ王況の予言を、くり返し班固が書くのは、光武帝をほのめかすからだ。王莽は、ぎゃくに李氏をつかい、長江流域を征圧しようとした。的外れな対策だなあ、と笑うために、この一節があるのだろう。王莽は、侍中掌牧大夫の李棽を、大將軍・揚州牧とした。「聖」という名を賜る。李聖は兵をひきいて奮撃する。
上谷儲夏自請願說瓜田儀,莽以為中郎,使出儀。儀文降,未出而死。莽求其屍葬之,為起塚、詞室,諡曰「瓜寧殤男」,幾以招來其餘,然無肯降者。
閏月丙辰,大赦天下,天下大服、民私服在詔書前亦釋除。上谷の儲夏が、盗賊の瓜田儀を説得して、莽新に降伏させるという。王莽は儲夏を中郎とした。瓜田儀は、降伏する前に死んだ。王莽は瓜田儀の死体を葬り、塚をつくり、「瓜寧殤男」という爵と諡をあげた。他の盗賊を招来するためだ。
ぼくは思う。莽新に降伏したくない人が、瓜田儀を殺したんじゃないか。「リーダーの瓜田儀が、新室に降伏するなんて、ふざけたことを言い出した」という理由で。史料に書いてないことです。推測です。だが招来された盗賊はない。
ぼくは思う。曹丕とおなじロジックにして、曹丕とおなじミスである。笑
曹丕は孫権の降伏を信じてやり、天下統一する機会を失った。懐の深さを見せなければならない皇帝は、不利なルールで駆け引きをしなければならない。手を差し伸べて、恥をかくという。閏月丙辰、大赦して、服喪をすべて解除した。
張晏はいう。王莽の妻が死んだのが「大服」で、各人の親が死んだのが「私服」だ。王莽はどちらも解除した。ぼくは思う。王莽の妻の喪よりも、国内外の平定、経済復興が優先だ。「服喪の解除が、皇帝からの恩になる」というのは、さっぱりロジックが通じないが。ともあれ莽新は、亡国の危機という認識があるのだろう。
登仙したく『夢解釈』をやる王莽
郎陽成脩獻符命,言繼立民母,又曰:「黃帝以百二十女致神仙。」葬於是遣中散大夫、謁者各四十五人分行天下,博采鄉里所高有淑女者上名。郎陽の成脩が符命を献じた。民母を継立せよと。またいう。「黄帝は120人の女と神仙になる」と。中散大夫と謁者45人に天下をめぐらせる。
『百官志』はいう。中散大夫は散る6百石。司中に属する。ひろく郷里で淑徳ある女の名を報告させた。
ぼくは思う。ともに神仙になる女を集めたのだ。王莽にも不老不死の願望がでてきた。儒教じゃない。でも王莽の祖先は皇帝だから、黄老もOKなんだろう。儒教と黄老を対立的に捉えるという枠組は、生きているのだろうか。これは、どちらか一方(たとえば儒教)を強調するための、あざとい作戦や操作ではないのか。
莽夢長樂宮銅人五枚起立,莽惡之,念銅人銘有「皇帝初兼天下」之文,即使尚方工鐫滅所夢銅人膺文。又感漢高廟神靈,遣虎賁武士入高廟,拔劍四面提擊,斧壞戶牖,桃湯赭鞭鞭灑屋壁,令輕車校尉居其中,又令中軍北壘居高寢。
王莽は、長楽宮の銅人5枚が立ち上がる夢を見た。
先謙はいう。『史記正義』『三輔旧事』はいう。天下の兵器をあつめて、銅人12を鋳造した。重さは24万斤、漢代は長楽宮門におく。『水経注』では、董卓が銅人9体をこわして銭をつくる。3つのこる。曹叡が洛陽に移動させようとしたが、重くてムリ。覇水の西に留める。石虎が鄴宮におき、符堅は長安にもどす。2つこわして銭にする。1つは符堅が乱す前に、百姓が陜北の黄河に投げ込んだ。ぼくは思う。五胡十六国時代まで、ちゃんとあったのだ。
ぼくは思う。フロイトなら、兵器のように尖ったものは男性であり、兵器から製造された銅人が立ち上がるのは、男性の機能が作動したことを意味しよう。銅人は王莽にとっての「父」である。王莽が最強の父であるべきなのに、さらにその「父」が動き出したら、不都合である。だから王莽は「父殺し」をした。文字もまた、象徴化という父の暴力である。その文字が「天下を兼わす」というのだから、二重に父の暴力である。きっと王莽は、この銅人に高帝の劉邦を見たのだ。
銅人に「皇帝は初めて天下を兼わす」と銘文が刻まれる。尚方工鐫に命じて、夢で立ち上がった5体の銘文を削り取らせた。
また漢高廟に神霊を感じた。虎賁・武士を高廟に入れて、拔劍して四面を提擊した。斧で戶牖を壞した。ムチで屋壁をたたく。輕車校尉を高祖廟のなかにおき、中軍北壘を高寢におく。師古はいう。北軍塁の兵を、高廟の寝中に屯させたのだ。『百官表』はいう。中塁校尉は、北軍塁門の内外をつかさどる。ゆえに本文は「北軍中塁」とすべきだ。
ぼくは思う。銅人と高帝が、王莽のなかで同一視されたことを確認できる。兵士は高廟を守ったのでない。高廟から莽新を守ったのだ。王莽の「父殺し」に加担し、その成果を維持するために設置された。フロイトはいう。老父は体力がないが、子供にとっては超自我として内面化され、絶対権力をふるう。子供が幼かったころの万能な父が、残り続けると。王莽に超自我を形成させた「父」とは劉邦であり、その劉邦の「神霊」が回帰したのだ。
或言黃帝時建華蓋以登仙,莽乃造華蓋九重,高八丈一屍,金瑵羽葆,載以秘機四輪車,駕六馬,力士三百人黃衣幘,車上人擊鼓,挽者皆呼「登仙」。莽出,令在前。百官竊言:「此似軟車,非仙物也。」或者は「黄帝が登仙するとき、建華蓋車に乗った」という。王莽は建華蓋車を再現させて、これを引く者に「登仙」と言わせた。
ぼくは思う。この建華蓋車の描写と説明ははぶきます。王莽が外出するとき、建華蓋車が前にいる。いう、車を再現させた。車をひく人は「登仙」と叫んだ。百官はひそかに「軟車(死体を載せる車)に似ている。神仙のものでない」という。
ぼくは思う。百官は何も分かっていない。登仙と死亡は、じつは同値だろう。生きたいという執着がある者によって、登仙と死亡が区別されるが、それはウソである。永遠の状態が得られるのだから。べつに「登仙するために死ね」とは言わない。もし死んでも、登仙できない確率だってある。だが登仙というシニフィアンと、死亡というシニフィアンがもつ、それぞれのシニフィエは、限りなく接近しているだろう、とぼくは思う。だから、黄帝が登仙するとき、あたかも死体の車だったというのは、わりに本当だと思う。
公孫禄が王莽の政策を批判する
是歲,南郡秦豐眾且萬人。平原女子遲昭平能說博經以八投,亦聚數千人在河阻中。莽召問群臣禽賊方略,皆曰:「此天囚行屍,命在漏刻。」この歳、南郡の秦豊は、1万人をあつめた。
先謙はいう。秦豊は、楚黎王を号した。光武紀にある。ぼくは思う。光武帝が鎮圧する勢力の1つが、出てきている。もう『後漢書』と「同時代」なのだ。平原の女子・遅昭平は経学ができ、8セン投(矢投げ)ができる。黄河に守られた地形で、数千人をあつめた。王莽は群臣に方策をきく。みな「天が罰し、すぐに秦豊や遅昭平を殺してくれる。漏刻(時間の経過)を待て」と。
ぼくは思う。なんの方策にもなってない。
故左將軍公孫祿征來與議,祿曰:「太史令宗宣典星曆,候氣變。以凶為吉,亂天文,誤朝廷。太傅平化侯飾虛偽以偷名位,『賊夫人之子』。國師嘉信公顛倒《五經》,毀師法,令學士疑惑。明學男張邯、地理侯孫陽造井田,使民棄土業。犧和魯匡設六管,以窮工商。說符侯崔發阿諛取容,令下情不上通。宜誅此數子以慰天下!」又言:「匈奴不可攻,當與和親。臣恐新室憂不在匈奴,而在封域之中也。」莽怒,使虎賁扶祿出。然頗采其言,左遷魯匡為五原卒正,以百姓怨非故。六管非匡所獨造,莽厭眾意而出之。もと左將軍の公孫祿を徴して、議論させた。公孫禄はいう。「太史令の宗宣が、天文を誤読して朝廷を誤らせた。太傅・平化侯は、政道を知らないのに官号を飾った「賊夫人之子」である。
師古はいう。『論語』で子路は、子ヨウを費城の宰(長官)にした。孔子は子ヨウを「賊夫人之子」という。子ヨウは政道を知らないのに長官になり、賊に殺害された。國師・嘉信公は、『五經』に傾倒して、師法をこわし、学士を疑惑した。
ぼくは思う。故事=前例よりも経籍を尊び、彼の政策が現実を遊離した。前例と経籍というのは、つねに対置して捉えられるものらしい。明學男の張邯と、地理侯の孫陽は、井田をつくり、民は土業を棄てた。犧和の魯匡は六管をもうけ、工商が窮した。説符侯の崔發は、阿諛・取容する。彼らを誅殺して、天下を慰撫せよ」と。
また公孫禄はいう。「匈奴は攻めるな、和親せよ。新室の憂いは匈奴でなく、封域之中にある」と。王莽は怒り、虎賁に公孫禄を退出させた。しかし公孫禄を採用し、魯匡を五原卒正に左遷した。 百姓が六筦制を、怨み誹るからだ。だが六筦制は、魯匡が1人で作ったのでない。王莽は衆意を厭うので魯匡を長安から出した。
ぼくは思う。王莽の政策を全否定しつつも。王莽伝の制度史のダイジェストを見ることができた。王莽伝は、たびたびこのように、復習をしてくれるのが親切だ。
『後漢書』魯恭伝はいう。魯恭は、あざなを仲康。扶風の平陵の人。祖先は、魯の頃公。魯が楚にほろぼされ、下邑にうつる。ゆえに魯姓となる。世吏二千石。哀帝と平帝のころ、魯からうつる。魯恭の祖父は魯匡。王莽のとき、羲和(大司農)となる。權數があり「智囊」といわれる。魯恭の父は、わからない。建武初、武陵太守となり、卒官した。
ぼくは思う。魯匡は子のとき、いちど没落したが、孫が光武帝に仕えて『後漢書』に列伝をもらった。『後漢書』魯恭伝:白虎観に出席した、戦国魯の末裔王莽は怒ったが、公孫祿の意見をもちいた。人材を移した。
青徐州の流民を、無意識の下に抑圧する
初,四方皆以饑寒窮愁起為盜賊,稍稍群聚,常思歲熟得歸鄉里。眾雖萬數,亶稱臣人、從事、三老、祭酒,不敢略有城邑,轉掠求食,日闋而已。諸長吏牧守皆自亂鬥中兵而死,賊非敢欲殺之也,而莽終不諭其故。はじめ飢えと寒さで、四方の民は盗賊となった。盗賊は群れて増える。だが豊作ならば郷里に帰りたい。盗賊は1万を数えるが(大号を称えず)臣人、從事、三老、祭酒と称するだけだ。
「大号を称えず」と師古が補足した。ぼくは思う。将軍とか天子を名乗らないという意味だろう。組織だった、反乱勢力ではないのだ。またこのマクロな話は、班固による伝聞だから、どこまで信じるべきか、判定が難しい。あえて城邑を寇掠せず、食糧をもとめ、食べつくす。諸長吏と牧守は、みずから乱闘して、兵中で死んだ。しかし盗賊は、あえて長吏や牧守を殺す意図もない。王莽はこの意味を理解できない。
ぼくは思う。班固が書いている、地のコメントです。『漢書』の本紀は、淡々と出来事を並べただけだった。班固の立場を踏まえるなら、賛美しても良さそうなのに、班固は顔を出さなかった。なぜ王莽の内面が分かるのか。さらに「分かってない」という否定的な内面なんて、自分でも察知するのが難しい。「私はこう思う」なら表現できても、「私はこう思わない」は、なかなか言えないよ。
ぼくは思う。もし王莽が民衆=盗賊の意味を、ほんとうに理解してないなら。これは「無意識は知っているが、抑圧されている」のだと思う。なぜ抑圧したか。王莽は父であり、象徴する者だからかな。もし民衆=盗賊=現実界を認めてしまえば、象徴化が破綻する。「失語症」と同じ仕方で、王莽の政事は維持できなくなる。もしくは精神分裂する。王莽がバカだから、民意を理解できないのでない。王莽は民意を(じつは恣意的に)理解しないことで、政権を成り立たせている。
是歲,大司馬士按章豫州,為賊所獲,賊送付縣。士還,上書具言狀。莽大怒,下獄以為誣罔。因下書責七公曰:「夫吏者,理也。宣德明恩,以牧養民,仁之道也。抑強督奸,捕誅盜賊,義之節也。今則不然。盜發不輒得,至成群黨,遮略乘傳宰士。士得脫者,又妄自言:我責數賊:『何故為是?』賊曰:『以貧窮故耳。』賊護出我。今俗人議者率多若此。惟貧困饑寒,犯法為非,大者群盜,小者偷穴,不過二科,今乃結謀連常以千百數,是逆亂之大者,豈饑寒之謂邪?七公其嚴敕卿大夫、卒正、連率、庶尹,謹牧養善民,急捕殄盜賊。有不同心並力,疾惡黜賊,而妄曰饑寒所為,輒捕系,請其罪。」於是群下愈恐,莫敢言賊情者,亦不得擅發兵,賊由是遂不制。大司馬士(大司馬の属官)が、豫州で盗賊をとらわれた。盗賊は大司馬士を県に送付した。大司馬士が還ると、詳細に報告した。王莽は大怒した。大司馬士を「誣罔」の罪で下獄した。王莽が下書して、七公(四輔と三公)を責めた。
ぼくは思う。フロイトが「全ての欲動は、性に関係する」と言ったとき、みんな「ウソだ」と言った。フロイトにかかれば、「私の指摘をウソだと排斥するほど、みなは性の欲動を抑圧している。この排斥こそが、性が全ての原因である証拠だ」となる。いま王莽が、民衆の実態を聞いても「誣罔」と言ったのは、まさに同じ種類の抑圧である。
「吏は理である。万民を牧養し、盗賊を捕誅するのが職務だ。だが現在、盗賊がおおく、宰士(莽新の官僚)の職務を妨害する。大司馬士は盗賊に捕らわれたが脱した。大司馬士は「万民は貧窮して盗賊をやるだけ」と報告した。いま俗人には、同じ報告をする者が多い。貧困と飢えと寒さのせいで、群盗や偷穴になるという。だが千百の集団になる理由は、大逆であるはずだ。七公は、卿大夫、卒正、連率、庶尹に本来の職務をやれと命じろ。つまり盗賊を捕殄せよ。飢えや寒さが原因と報告した者は、捕系せよ」と。
ぼくは思う。王莽はもっぱら、シニフィアンのなかで生きている。シニフィアンが拾い損ねるものに気づかない。現実界に抹消符号がついていることに、気づかないほど、抹消符号が強烈に書き込まれている。抹消符号が太くて長すぎる。
例えばディベートの最中に、退席した者がいたとする。実際は腹痛でトイレに行っただけでも。王莽であれば、「議論が不利だから逃げた」もしくは「時間の間隔を強制的に設けて、議論を仕切り直すのか」と考えるだろう。だがそんなの「意味のある」ことばかりじゃないよ。
ぼくは思う。王莽のように、ある観点から情報を整理することは、パラノイア(精神分裂病)を回避するために、必須の機能である。しかし情報の整理の(相対的な)過不足により、不都合が生じることがあるだろう。
群臣はいよいよ恐れ、だれも王莽に盗賊の実情を言わない。
ぼくは思う。ジークムント・フロイト『モーセと一神教』を読んでます。モーセは、ユダヤ人であり、エジプトの支配からユダヤ人を(川を割って)逃がした。これが『聖書』の記述。しかしフロイトは、モーセがエジプト人の王子だという。エジプトの18王朝の一員だが、19王朝に敗れたモーセ。18王朝では、ファラオを絶対視する一神教的な思想があったが、19王朝に排斥された。ゆえにモーセは、18王朝の一神教をある集団に教えた。その集団がユダヤ人となった。モーセが石板に神託をもらうが、これは18王朝のファラオなのだと。最後にユダヤ人は「父殺し」のために、モーセを撲殺した。
フロイト曰く、ユダヤ教が確立したのち、「モーセは、敵対すべきエジプト人」「神とはエジプト18王朝のファラオ」という事実が抑圧された。「モーセはユダヤ人」「神は神」という物語が公式見解になったと。
ぼくは思う。これって、古文学を「こうに違いない」と独自の解釈をして、ゴリ押しする王莽に似ている。フロイトは、自分で自説を修正することは盛んだが、他人に批判されても絶対に修正しない、という性格だったらしい。アンソニー・ストー『フロイト』より。このあたりも、王莽に雰囲気が似ている。
王莽の姿絵は、どうせ『漢書』のイメージから描かれたものだろう。写真じゃないのだから、必ずしも従わなくてよい。ぼくは王莽の顔が、フロイトに似ていたような気がする。フロイトは重度の喫煙者で、そのせいで口腔が病気になり「口と鼻の境界がなくなるほど」何回も手術をしたらしい。王莽も、反乱軍が長安にせまったとき、アワビを食べ続けてた。口にまつわる退行をするあたり、授乳された経験を懐かしむあたりが、フロイトと王莽に似てる。このコジツケもまた、フロイト的なやり口ですw
群臣は(盗賊の実態が寒く飢えた百姓なので)積極的に兵を発することもできない。盗賊はいよいよ制御できなくなった。
ぼくは思う。前出のストー『フロイト』は、フロイトに批判的だったフロイトの弟子・ユングの派閥に属する人。フロイトに批判的に伝記を書いている。012頁でいう。これは、王莽の諸制度を継承しつつも、王莽に批判的だった後漢に属する、班固に似ている。ストー『フロイト』と班固『漢書』は、双子的な類似がある。
ストーによると、知的偉業をなした人々は、強迫的な性格だ。全てに細かく、用心深く、厳密で、信頼でき、正直である。つねに清潔さ、抑制、秩序などを気にする。強迫神経症者。軽度なら、物事を何度も確かめる。重度になると、生活全般が儀式的行為に支配され、正常な生活をいとなめない。フロイトは自身を「几帳面で、吝嗇で、頑固である」と自分をいう。62歳で死ぬという、死への固着観念があった。どんな数字も、四則演算して62に結びつけ、死の暗示だと考えた。強迫的な収集家である。美に関心がなく、収集することにしか興味がない。抑制・制御を好むため、「未来の伝記作家たちに楽をさせたくない」から、日記やメモを処分した。
以上、現在進行形で気になるフロイトと王莽について、本文とあんまり関係ないけど、ここに挿入してみました。
翼平連率の田況が、青徐州を統治したい
唯翼平連率田況素果敢,發民年十八以上四萬餘人,授以庫兵,與刻石為約。赤糜聞之,不敢入界。況自劾奏,莽讓況:「未賜慮符而擅發兵,此弄兵也。厥罪乏興。以況自詭必禽滅賊,故且勿治。」後況自請出界擊賊,所向皆破。莽以璽書令況領青、徐二州牧事。翼平の連率である田況は、果敢な人である。
ぼくは補う。田況とは、天鳳6年(後19)、課税が足りないと王莽に進言した人である。王莽は、田況の提案を受けて、30分の1税を課した。田況は万民に怨まれた。民から18歳以上を4万余人発して、庫兵を授け、石に誓約を刻む。
ぼくは思う。モーセだ! 『モーセと一神教』の世界だw赤眉はこれをきき、あえて翼平の郡境に入らない。田況が劾奏すると、王莽は田況を責めた。「慮符を賜らず、かってに兵を発し、兵を弄ぶ。田況の行動は、「乏興」の罪に等しい。
ちくま訳はいう。軍用の徴発を乏(す)てる罪。重罪人を赦して辺境を守らせるとき、命令に逆らい、征こうとしない者の罪。軍令違反。しかし田況は、自ら必ず盗賊を禽滅すると宣言した。ゆえに罪を咎めない」のちに田況は、郡境から出撃し、向かう盗賊をみな破る。王莽は璽書を賜り、田況に青州と徐州の牧事をさせる。
ぼくは思う。王莽の地方長官は、わりに放任である。というか、王莽の恩寵により、多大な権限が与えられた。田況は独断専行したが、王莽は咎めなかった。王莽は周室の封建制を理想とする。「小さな政府」を志向する。
ぼくは思う。会社でも、上位者の指示があらく、下位者の権限が強いと。下位者が自ら動いて働きかけないと、状況が動かない。莽新の統治制度も、似ている。だから田況のような長官が必要なのだ。王莽が、青州と徐州という、広範囲の権限を、すんなり与えてしまったことからも明らか。
ただし、大司馬士が盗賊の実情を報告したとき、「ウソだ」と却下したのは、まずかった。これだと上位者に情報が集まらない。班固による史料の取捨選択があるとはいえ、王莽ならずとも上位者として部下を使うのが難しいのは事実。
況上言:「盜賊始發,其原甚微,非部吏、伍人所能禽也。咎在長吏不為意,縣欺其郡,郡欺朝廷,實百言十,實千言百。朝廷忽略,不輒督責,遂至延曼連州,乃遣將率,多發使者,傳相監趣。郡縣力事上官,應寒詰對,共酒食,具資用,以救斷斬,不給複憂盜賊治官事。田況は上言した。「当初の盗賊は軽微なので、部吏や五人組が取り締まらなかった。長吏は県に正確な報告をせず、郡が朝廷に正確な報告をしない。実数は100でも10と報告し、実数は1000でも100と報告した。ゆえに朝廷の対策が遅れ、複数の州に盗賊がひろがる。朝廷から監察の使者を出すと、郡県では使者の応対に追われて、盗賊の取締をしない。
ぼくは思う。王莽の失敗の原因が、もし田況の言うとおりなら。王莽は、権限を委譲しすぎて滅びたのだ。つまり郡県の行政単位が「当事者意識」を持ってしまったせいで、自分の領域の盗賊に対する責任感をもった。ただし王莽は、もう1つの失敗の原因がある。結果に対して厳しすぎること。だから責任感をもった郡県の長官は、「統治はうまくいってる」と言い張るため、実態を報告しなかった。この齟齬が、青州と徐州の飢饉により、悪い方向に増幅されたのだ。
ぼくは思う。フロイトの「意識/前意識/無意識」の構図でいくと。飢饉の実態は、はじめ王莽も意識にあった。少なくとも王莽が前漢の輔政者のときは。だが王莽が皇帝となると、前意識に後退した。つまり「言われたら思い出すが、積極的に自ら言うことはできない」状態である。やがて地方長官が、ゆがんだ責任感を発揮したから、無意識に落ちた。つまり「言われても否定するが、じつは頭のなかにある状態」である。検閲が働いて、抑圧・否定される。検閲とは、1つは地方官のウソ報告、2つは王莽自身による意図せざる恣意的な無視(形容矛盾しているのは気づいてます)。
ぼくは思う。天子の身体が、そのまま王朝の領土に模されるのなら。王朝の情報のながれも、フロイトのいう「意識/前意識/無意識」で分析することができるだろう。
ぼくは思う。フロイトは「失錯」のなかに無意識を見出す。本人は意識していないが、じつは本音でそう思っているという。さっきから「王莽」と入力すべきところ、「フロイト」と入力しそうになる。王莽伝の前半をラカンで読んだとき、ラカンの言説を当てはめていたが、ラカンと王莽を同一視することはなかった。
郡県では、統治の失敗がバレて、断斬されるのを回避する。
將率又不能躬率吏士,戰則為賊所破,吏氣浸傷,徒費百姓。前幸蒙赦令,賊欲解散,或反遮擊,恐入山谷轉相告語,故郡縣降賊,皆更驚駭,恐見詐滅,因饑饉易動,旬日之間更十余萬人,此盜賊所以多之故也。将率は吏士を使いこなせず、戦うたびに盗賊に敗れた。吏士の戦意はおとろえ、百姓の資産を浪費した。王莽が赦令を出したとき、盗賊は解散したいが、ある者が官軍と衝突したので、つるんで山谷に入りこむ。郡県が盗賊を降すと、みな「官軍は赦すと詐り、じつは私たちを滅ぼす」と恐れた。飢饉により土地への執着がないので、旬月のうちに盗賊は10余万となる。
ぼくは思う。これがほんとの、経済的な意味に限定しない「恐慌」である。パニックは、このように「理性的には正しくない」筋道によって、起こっていく。正しくないから、パニックというのだが。以上が盗賊の増えた理由である。
今雒陽以東,米石二千。竊見詔書,欲遣太師、更始將軍,二人爪牙重臣,多從人眾,道上空竭,少則亡以威視遠方。宜急選牧、尹以下,明其賞罰。收合離鄉、小國無城郭者,徙其老弱置大城中,積藏谷食,並力固守。賊來攻城,則不能下,所過無食,勢不得群聚。如此,招之必降,擊之則滅。今空複多出將率,郡縣苦之,反甚於賊。宜盡征還乘傳諸使者,以休息郡縣。委任臣況以二州盜賊,必平定之?」莽畏惡況,陰為發代,遣使者賜況璽書。使者至,見況,因令代監其兵。況隨使者西,到,拜為師尉大夫。況去,齊地遂敗。いま洛陽より東では、米1石で2千銭である。詔書を見ると、太師と更始将軍を派遣するらしい。この2名がくると、道中でコストが莫大である。(大軍を派遣する代わりに)州郡の長官に、賞罰を明らかにさせ、郷里を離れた者を、帰郷させるべきだ。小城をあぶれた者は、大城に徙せ。穀物を蓄積して、城を固守させろ。盗賊が城にきても、食糧が尽きて退くだろう。これなら盗賊は必ず降ってくる。
ぼくは思う。けっきょくは百姓が、食糧がなくて故郷の城にいられなくなり、移動しているだけだ。これが莽新末の状況だ。「王莽は正しくないから、王莽を撃て」という話ではない。さらに言えば、この飢民たちと、更始帝を筆頭する反王莽勢力とは、あまり関係がない。むしろ「更始帝が飢民を(自身の正統化のために、理論上で)利用した」とも言える。上位階級と下位階級という2分法に、ぼくは情熱を燃やせないが。王莽の中央軍がきても、郡県の負担になり、かえって盗賊を増やす。中央の使者を帰らせ、郡県を休息させろ。私=田況に、青州と徐州を委任してもらえば、必ず平定する」と。
ぼくは思う。後漢の刺史のような監察官は、皇帝の代理だから、郡県の「休息」を妨害する。この妨害により、監察官のすごさを発見できる。会社の内部監査などとは、比べものにならないw 「監査は経営者の右腕」という建前があり、むなしいばかりだがw、ほんとうに右腕の監査なら、「休息」を妨害するほどの権限を発揮するだろう。
ぼくは思う。会計監査などの観点から、類推するに。監察官は、後出しジャンケンができる。自分は統治をしないから、外野かつ大所高所から、行政官を批判できる。ずるいくらいに、怖い存在である。
ぼくは思う。戦国時代に斉を治めたのは、田氏でした。王莽は田氏の子孫を自称している。田況が、この要職をもらったのは、広義の皇族だからか。しかも斉王の故地を委任せよという。王莽と田況のあいだで、血筋と歴史的経緯に関する合意が、暗黙のうちにあったのだろう。王莽は田況(の有能さ)を畏惡して、田況を交代させたい。使者から田況に璽書を与えた。王莽は使者に、田況の兵を監察させた。田況は使者に従って西にゆき、師尉大夫となる。田況が去り、斉地は敗れた。130302
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- 地皇3年、青徐州を討伐、流民が関中に流入
春、青徐州を10余万で討ち、貧困を促進
三年正月,九廟蓋構成,納神主。莽謁見,大駕乘六馬,以五采毛為龍文衣,著角,長三尺。華蓋車,元戎十乘有前。因賜治廟者司徒、大司空餞客千萬,侍中、中常侍以下皆封。封都匠仇延為邯淡裏附城。地皇3年(後22)正月、九廟が完成し、神主を入れた。王莽が謁見した。王莽は馬上で、高さ3尺の飾りをつける。建築の管理者(の功績)として、司徒と大司空に1千万を賜う。侍中や中常侍より以下、みなを封じた。都匠の仇延を、邯淡里の附城とした。
師古はいう。都匠とは、大匠である。「邯淡」とは豊盛の意。
ぼくは思う。関係ないけど、忘れぬうちにフロイト『モーセと一神教』056頁より。
モーセが民に強いた宗教を、エジプト内において崩壊したアートンの宗教であったとする私の構築、この憶測による組立を、私が余りにも大胆に物証による根拠もなく論じたことを、非難されるだろうと私は予測する。だが、私はこの非難は不当であると思う。私はすでに序論において、議連を抱かれて然るべき事情を強調しておいたし、それを言わば括弧づきのものとしたのである。すべての疑わしい項目をそのつど括弧に入れて書く煩雑は省略されてもよかろう。
ぼくの、こののホームページの表紙に引用したいくらいだw
ツイッター用まとめ。冒頭に「ここでは根拠のうすい憶測を書きます」と断れば、文中でその都度「憶測ですが」「憶測ですが」と、くり返す必要はない。文中で、断定の表現形式を使って、憶測に過ぎない内容を書いたって、ぼくを批判してはならない。そんな批判は不当である。って、フロイト先生が『モーセと一神教』で書いてたw
二月,霸橋災,數千人以水沃救,不滅。莽惡之,下書曰:「夫三皇象春,五帝象夏,三王象秋,五伯象冬。皇王,德運也;伯者,繼空續乏以成歷數,故其道駁。惟常安禦道多以所近為名。乃二月癸巳之夜,甲午之辰,火燒霸橋,從東方西行,至甲午夕,橋盡火滅。大司空行視考問,或雲寒民舍居橋下,疑以火自燎,為此災也。其明旦即乙未,立春之日也。予以神明聖祖黃、虞遺統受命,至於地皇四年為十五年。正以三年終冬絕滅霸駁之橋,欲以興成新室統一長存之道也。又戒此橋空東方之道。今東方歲荒民饑,道路不通,東嶽太師亟科條,開東方諸倉,賑貸窮乏,以施仁道。其更名霸館為長存館,霸橋為長存橋。」
是月,赤眉殺太師犧仲景尚。關東人相食。
2月、覇橋が燃えた。数千人で水をかけたが、火は消えず。飢えた民の、焚き火が原因だった。王莽はいう。「三皇五帝は、天地の地理を結びつけて解釈した。いま覇橋は東から西に燃えた。東へゆく橋がなくなったのは、長安から青州への道が絶えたことを連想させて不吉である。長存橋と改名して、架けなおせ」と。
ぼくは思う。漢室の火徳を連想させつつ、首都の荒廃と、領土の縮小も表せる。王莽の衰退を表現するためには、最高のできごとである。おもしろいのは、この不吉な連想を、王莽みずからやったこと。フロイト『夢判断』ばりの連想力だ。
夢を解釈して、意味を引き出すのではない。夢はすでに解釈して表象したものである。解釈して表象したものとは、その代表は言語である。フロイトの外国語の事例だと分からないので、日本語の事例をぼくが作ると、、ある将軍が城攻に苦戦した。将軍は夢で、歓楽街であそんだ。将軍は「女遊の欲望を抑圧しているから、こんな夢を見るのか」と考えた。だが占者によれば、「歓楽は陥落を意味します。将軍はあの城を陥落させるでしょう」といったと。一見すると、将軍の分析のほうが「それっぽい」が、夢とはすでに表象したものだから、そのなかで解釈すべきなのだと。
ぼくは思う。長安の都市空間は、天体の運行を表象し、王朝の地理も表象する。だから、長安の橋が燃えるとは、天地の異常をあらわす。これは、表象したものの内部での連想だから、フロイト的には「あり」なのだ。
東嶽太師に命じて、東方の倉庫を開かせ、窮乏者に賑貸させた。
この月、赤眉は、太師犧の仲景尚を殺した。関東では人が相食む。
青州と徐州を鎮圧するため、派遣された将軍である。
夏、王況と廉丹が、徐青州に進軍
四月,遣太師王匡、更始將軍廉丹東,祖都門外,天大雨,沾衣止。長老歎曰:「是為泣軍!」4月、太師の王匡と、更始將軍の廉丹は、東へ出征した。
ぼくは思う。前任が戦死した地域に、行きたくないなあ。でも、王匡も廉丹も、新室の重鎮である。イヤと云っている場合ではない。新室に殉じる人だ。
ぼくは思う。太師と更始将軍を派遣して、道中を食い尽くした。田況が「やるな」と言ったことを、王莽がやる。いや、王莽がやったことを、田況が「やるな」と言ったに違いないと、遡及的に確定した。歴史記述というのは、こういう模造記憶の産物だから、前後関係や因果関係の指摘がむずかしい。これは「歴史書は政治的な意図をもって作られる」からでない。人間の記憶とは、原理的にそういうものだからだ。
出発するとき、雨が降った。軍装がぬれた。長老は「泣き軍だ」と嘆いた。
沈欽韓はいう。『御覧』368にひく『六韜』では、雨が降って衣装が濡れたら潤軍で、雨が降っても衣装が濡れないと泣兵という。『御覧』11にひく魏武兵書按要はいう。大軍がゆくとき、衣冠が濡れればレイ(さんずいに麗)兵である。めでたい。大将がゆくとき、衣冠が濡れねば、天が泣いており大凶であると。王莽伝の長老は、兵書と符合しない。
ぼくは思う。王莽軍の出発は、天に祝福されていた。もとは王莽軍を祝福する記録だった。だが班固が保身のために、長老の言葉を書き加えた。班固が立派なのは、改竄して内容を変えるのでなく、追記により内容をごまかしたこと。後世の者は、追記の部分を割り引くことができる。また班固の追記は、意図的に過剰にザツである。具体的に制度を述べたあと、直後にきわめて抽象的に「だからよー、王莽は超ダメなんだ、全体的に、ともかくね」と追記する。また長老(っていうか長老って誰だよ、固有名詞もない適当なモブキャラだよ)に、わざと兵書を誤解したセリフを言わせる。「泣軍」のおかしな解釈もまた、追記だと思う。班固の史家としてのプライドが後漢に抵抗し、わざと誤った解釈を追記したのでは。
班固を代弁すると。「これは王莽にとっての慶事の記録だ。しかし王莽を祝福する記述をすると、後漢ににらまれる。だから王莽にとって不吉な出来事だと、解釈と意味をゆがめて書いたのだ。これで検閲を通過するだろう。だが王莽に不吉という解釈を、素直につけるのはイヤだ。だから王莽への批判者に、誤ったことを言わせよう。検閲者が兵書を知らず、「王莽にとって不吉な記事だから、書いてよし」と認可したら、その検閲者がバーカなんだ。兵書を知る人にだけ、屈節したぼくの本音が分かるのだ」と。
ぼくらは、班固の目配せを、受信しなければならないw
莽曰:「惟陽九之厄,與害氣會,究於去年。枯旱霜蝗,饑饉薦臻,百姓困乏,流離道路,于春尤甚,予甚悼之。今使東嶽太師特進褒新侯開東方諸倉,賑貸窮乏。太師公所不過道,分遣大夫謁者並開諸倉,以全元元。太師公因與廉丹大使五威司命位右大司馬更始將軍平均侯之兗州,填撫所掌,及青、徐故不軌盜賊未盡解散,後複屯聚者,皆清潔之,期於安兆黎矣。」王莽はいう。「昨年が最悪の歳だった(今年から良くなるはずだ)。
ぼくは思う。王莽は、占いばかりやっているイメージ。これは、班固が、王莽の言動を、忠実に引っぱってきた証拠だと思う。もしくは王莽自身が、記録魔であり、それを発信する機会があった。占いを非合理だとする、ぼくのような「近代人」から見ると、王莽伝は、王莽を貶めているように見せる。しかし実際は、王莽リスペクトなんだ。高帝・劉邦の本紀より、王莽伝に字数を割いているのだから。光武帝の周囲だって、細かいセリフを採録すれば、王莽と同じく、占いに頼ってばかりだっただろうな。ただ、記録者や発表の意図がいなかっただけで。東方の百姓が窮乏した。いま東嶽太師・特進・褒新侯に、開東の諸倉を開かせ、窮乏者に賑貸する。太師公が通過しない道には、大夫と謁者をゆかせ、諸倉を開かせ、百姓を保全する。
太師公は、大使・五威司命・位は右大司馬・更始將軍・平均侯の廉丹とともに、兗州にゆき、領域を填撫せよ。青徐の盗賊を解散させ、治安を回復しよう」と。
ぼくは思う。ちょっと後手に回ったが。王莽は有効そうな対策をうつ。王莽に難点があるなら、「気前の良さ」が徹底しないこと。わりに気前よくバラまくのに、肝心なときに贈物を取り戻す。はじめから贈与しないよりも、さらにケチくさくなる。田況に委任すれば良かったのに、というのが班固の叙述の姿勢だが、ぼくも同じように感じる。
けっきょく王莽は、自分の直接の命令のもと、東方を回復せずにはいられない。「何でも自分でやりたがるから、行政が停滞した」と、さっき王莽伝にあったし。
太師、更始合將銳士十余萬人,所過放縱。東方為之語曰:「寧逢赤眉,不逢太師!太師尚可,更始殺我!」卒如田況之言。太師と更始将軍は、10余万をひきいる。通過した地で、放縱である。
ぼくは思う。「所過放縱」も、追記できるタイプの悪口だ。というか、10余万の軍を動かせば、どれだけ慎ましく移動したとしても、膨大なコストがかかる。生物としての人間が移動するのだから。行軍のコストも、王莽にとっては「現実界からの、想定外の一撃」なんだろう。
ぼくは思う。原義どおり訳せば、官軍は「通過した先々で、ほしいままに略奪した」となる。しかし、略奪でなく、現地調達だと思う。ものは、云いようである。東方ではいう。「赤眉のほうが太師よりマシ。太師のほうが更始将軍よりマシ。更始将軍に殺される」と。田況の言うとおりになった。
ぼくは思う。賛否の言説が、吹き荒れるものだ。教育を受けていない飢民の知性は、現実界に接近する。だから、肯定と否定に激しくブレる。このブレた結果を、史書に収録しちゃダメでしょ。絶対に(これは絶対と断言できる)王莽軍を賛美する言説も、飛び回っていただろう。ユングは「均衡が崩れるのは、一方が多すぎるのでなく、もう一方が少なすぎるから」と言ったらしい。王莽伝は、このシーソーゲームの場である。
莽又多遣大夫謁者分教民煮草木為酪,酪不可食,重為煩費。莽下書曰:「惟民困乏,雖溥開諸倉以賑贍之,猶恐未足。其且開天下山澤之防,諸能採取山澤之物而順月令者,其恣聽之,勿令出稅。至地皇三十年如故,是王光上戊之六年也。如令豪吏猾民辜而攉之,小民弗蒙,非予意也。《易》不雲乎?『損上益下,民說無疆。』《書》雲:『言之不從,是謂不艾。』咨乎群公,可不憂哉!」王莽は、多くの大夫と謁者を派遣し、草木を食品に加工する技術を教えたが、食べられたものではない。かえって、指導のコストがかさんだ。王莽は下書した。「倉庫を開いたが、足りないかも知れない。山沢への立入禁止と課税をやめる。地皇30年に、禁止と課税をもどす。中間搾取する官吏を取り締まれ」と。
ぼくは思う。だいたい25年後の約束だ。王莽は、時間軸のスケールがでかい。さすがに、地皇30年に生きているつもりはなかろう。西暦のような通し番号がないと、「何年後」というとき、不便ですね。
王莽が口走った、王光上戊之六年は、独自の暦。「戊」は土である。上海古籍6194頁。十干十二支の60の始点をいじくる。
王莽はいう。「『易経』益篇はいう。上位者を損ない、下位者を益やせば、民は悦ぶと。『書経』洪範はいう。言葉が従われないことを、”治まらず”というと。群公は嘆息するな」と。
◆下江兵を孔仁と陳茂が撃つ
是時,下江兵盛,新市硃鮪、平林陳牧等皆複聚眾,攻擊鄉聚。莽遣司命大將軍孔仁部豫州,納言大將軍嚴尤、秩宗大將軍陳茂擊荊州,各從吏士百餘人,乘船從渭入河,至華陰乃出乘傳,到部募士。尤謂茂曰:「遣將不與兵符,必先請而後動,是猶絏韓盧而責之獲也。」このとき、下江兵は盛んである。新市の硃鮪、平林の陳牧らは、兵を集めた。王莽は、司命・大將軍の孔仁に、豫州を部させた。納言・大將軍の嚴尤と、秩宗・大將軍の陳茂は、荊州を撃った。吏士1百余人を従え、船で渭水から黄河に入る。華陰からは馬車で移動して、兵士を募る。
厳尤は陳茂にいう。「王莽は、兵士をろくに与えずに平定を命じる。猟犬をつなぎながら(莽新の正規兵を温存しながら)獲物をとれ(下江兵を撃て)と命じるのと同じだ。できるわけがない」
ぼくは補う。厳尤は、いっぱい出てきます。王莽政権を、第三者的に見つめている重臣です。ちゃんと最期は、新室に殉じます。
師古はいう。韓盧とは、古代の春秋韓の名犬である。黒いので盧という。
長安の首都圏に流民が進入する
夏,蝗從東方來,蜚蔽天,至長安,入未央宮,緣殿閣。莽發吏民設購賞捕擊。莽以天下穀貴,欲厭之,為大倉,置衛交戟,名曰「政始掖門」。地皇3年夏、イナゴが東方の天をおおい、長安に到る。イナゴは未央宮に入る。王莽は吏民を発して、イナゴを捕擊したら購賞した。穀物の価格が高いから、大倉をつくって衛兵をおき、「政始掖門」と名づけた。た。
ぼくは思う。護衛強化じゃなくて、経済政策をお願いします。朝廷の倉庫から、暴力によって穀物を引き出そうとする者が、出てくるのだろう。当然の帰結だ。
流民入關者數十萬人,乃置養贍官稟食之。使者監領,與小吏共盜其稟,饑死者十七八。先是,莽使中黃門王業領長安市買,賤取於民,民甚患之。業以省費為功,賜爵附城。莽聞城中饑饉,以問業,業曰:「皆流民也。」乃市所賣梁飰肉羹,持入視莽,曰:「居民食咸如此。」莽信之。関東の流民が数十万、函谷関から首都圏に入った。養贍官を設置して食わせた。使者が監領する。使者は小吏とともに食糧を盗む。餓死者は8割、9割である。
これより先、王莽は、中黃門の王業に、長安の市場で穀物の売買を管理させ、民から安く買い取った。民は患った。沈欽韓はいう。唐徳宗がやる宮市の政策には、王莽の前例がある。王業は購入原価を節約したので、付城の爵位をもらう。王莽は、長安の城中が飢饉だと聞き、王業に問う。王業は「みな流民である」といい、米と肉を買ってきて見せ「みな民はこれを食べている」という。王莽は王業を信じた。
ぼくは思う。王莽の現実界との没交渉は、ちょっと過剰なのかも。
冬、現地調達する名将・廉丹が赤眉に殺される
冬,無鹽索盧恢等舉兵反城。廉丹、王匡攻拔之,斬首萬餘級。莽遣中郎將奉璽書勞丹、匡,進爵為公,封吏士有功者十餘人。
地皇3年冬、索盧恢が無塩城に拠って叛いた。
師古はいう。索盧が姓で、恢が名である。廉丹と王匡は、無塩をぬき、1万余の首級をとった。王莽は中郎将に璽書を持たせ、廉丹と王匡を公爵にすすめた。功績ある吏士10余人に爵位を封じた
ぼくは思う。無塩も山東だ。新室の良民となるべき人を、1万余も斬ってしまった。困ったことだが、王莽は、どうしたら良かったんだろう。
ぼくは思う。莽新末は、東方の飢饉がトリガーとなった。後漢末は、黄巾の乱でなく、董卓(と袁紹)がトリガーとなった。
赤眉別校董憲等眾數萬人在梁郡,王匡欲進擊之,廉丹以為新拔城罷勞,當且休士養威。匡不聽,引兵獨進,丹隨之。合戰成昌,兵敗,匡走。丹使吏持其印韍符節付匡曰:「小兒可走,吾不可!」遂止,戰死。校尉汝雲、王隆等二十餘人別鬥,聞之,皆曰:「廉公已死,吾誰為生?」馳奔賊,皆戰死。莽傷之,下書曰:「惟公多擁選士精兵,眾郡駿馬倉谷帑藏皆得自調,忽於詔策,離其威節,騎馬呵噪,為狂刃所害,烏呼哀哉!賜諡曰『果公』。赤眉の別校・董憲らは、梁郡に数万人をあつめた。
廉丹は「連戦しているから、兵を休息させろ」という。だが王匡は、赤眉に突撃した。成昌で王匡は敗れた。廉丹は吏に印綬と符節をあずけ、王匡に渡した。胡三省はいう。成昌とは、『後漢書』では無塩の県境である。廉丹はいう。「小児の王匡は(私の印綬を預けるから)逃げろ。私は逃げない」と。廉丹が戦死した。校尉の汝雲と王隆ら20余人は「廉公が死んだ。誰のために生きるか」といい、戦闘して死んだ。
ぼくは思う。新室にも、美談があるのですね。後漢は、赤眉を打倒して成立した。だから、赤眉に善戦した将軍の話は、『漢書』に書くことができる。王莽は下書した。「廉丹は西平をひきい、駿馬と食糧等を現地調達した。私の詔策にそむき、符節を手放し、騎馬を走らせて、赤眉につっこんだ。哀しいかな。果公とする」と。
ぼくは思う。王莽も、兵站の重要性には気づいていた。っていうか、食べなきゃ死ぬのだから、気づいて当たり前か。輸送でなく、現地調達という原則は、変える気はないようですが。関東は飢えてるのに。廉丹は「現地調達して戦った」ところも含めて、功績なのです。会社内で新たな事業を提案した者が、自己資金で事業をやるようなもの。もちろん会社の名は借りるが、実際に集めて使うのは提案者である。さきに関東は、「廉丹に会えば、殺される」と恐れた。財産的な意味で?
國將哀章謂莽曰:「皇祖考黃帝之時,中黃直為將,破殺蚩尤。今臣中黃直之位,願平山東。」莽遣章馳東,與太師匡並力。又遺大將軍陽浚守敖倉,司徒王尋將十余萬屯雒陽填南宮,大司馬董忠養士習射中軍北壘,大司空王邑兼三公之職。司徒尋初發長安,宿霸昌廄,亡其黃鉞。尋士房揚素狂直,乃哭曰:「此經所謂『喪其齊斧』者也!」自劾去。莽擊殺揚。國將の哀章は、山東平定を志願した。「王莽の祖先・黄帝のとき、中黄直が蚩尤を破殺した。いま国将である私は、中黄直と同じ官職だ。山東を平定したい」と。
先謙はいう。中黄直は、黄帝の将軍であった。『御覧』328にひく『玄女兵法』にある。ぼくは思う。黄帝の故事をひっぱってくるあたり、哀章は王莽に迎合しているw王莽は、哀章を東にゆかせ、太師の王匡と力をあわす。
また大将軍の陽浚が、敖倉を守る。銭大昭はいう。ここは「誅貉将軍」陽浚が正しいのでは。司徒の王尋は、10余万で雒陽の南宮に屯する。大司馬の董忠は、士を養い、射を習わせ、中軍北壘をつくる。大司空の王邑は、三公之職を兼ねる。司徒の王尋が長安を発するとき、霸昌廐で黃鉞をなくした。
師古はいう。覇昌観の厩である。『三輔黄図』は覇昌観が洛陽の城外にあるという。『正義』では、雍州の萬年県にあるという。王尋の士(属官)の房揚は、狂直である。房揚が哭した。「『易経』巽卦にいう、その利斧を喪うだ」という。房揚が去った。王莽は房揚を殺した。
ぼくは思う。黄鉞とは、皇帝権力の象徴。与えられた人は、皇帝とおなじ裁断権をもつ。それをなくすとは、、どれだけ軍紀がゆるんでいるんだか。プロ意識がない。
ぼくがおもしろいと思うのは。黄鉞を紛失した者でなく、紛失を『易経』に結びつけて解釈した者が殺されたこと。王莽にとっては、現実界よりも象徴界が大切なので。
厳重に管理されているはずの黄鉞がなくなった。このあり得ない事態は、ありえないゆえに、「解釈せよ」と強く要請してくる。しかし黄鉞の紛失が、めでたいはずがない。オイディプスのように「謎を解いた者」は(人格破綻者のレッテルのもとで)殺されなければならない。ぎゃくに殺すことで、この紛失と謎かけの呪縛から、莽新は解放されるのだ。
応劭らによる『易経』の読み方は、上海古籍6197頁。
◆光武帝の登場
四方盜賊往往數萬人攻城邑,殺二千石以下。太師王匡等戰數不利。莽知天下潰畔,事窮計迫,乃議遣風俗大夫司國憲等分行天下,除井田奴婢山澤六管之禁,即位以來詔令不便於民者皆收還之。待見未發,會世祖與兄齊武王伯升、宛人李通等帥舂陵子弟數千人,招致新市平林硃鮪、陳牧等合攻拔棘陽。是時,嚴尤、陳茂破下江兵,成丹、王常等數千人別走,入南陽界。四方の盗賊は、数万になることもあり、新室の2千石より以下を殺した。太師の王匡らは、しばしば負けた。王莽は、風俗大夫する司國憲らを派遣し、天下を調査させた。井田の土地制度、奴婢の売買禁止、山沢への課税、六筦の経済政策は、万民に便益がないので、辞めたと告知したい。出発前、使者が王莽と召見するのを待つとき、
ぼくは思う。これは、光武帝の登場をドラマチックにするための演出だ。王莽が、即位から制定してきた制度を、撤廃するはずがない。せいぜい「運用の実態調査」であろう。全廃したら、余計に混乱するだろうし。
『漢書』のレトリックとしては、もし王莽の使者が間に合っていれば、光武帝は挙兵しなかったのに。莽新は滅びずに済んだのに。この莽新のタイミングの悪さが、王莽に天命がないことを意味するー、という感じか。絶妙な「物語り」@野家啓一 です。ちょうど、光武帝の兄・劉伯升は、宛県の李通と挙兵した。劉伯升は舂陵の子弟を数千ひきいる。新市・平林の硃鮪や陳牧らと合わさり、棘陽を抜いた。このとき厳尤と陳茂は、下江兵を破った。下江兵の成丹や王常らは、数千人で逃げ南陽郡の境界に入った。
ぼくは思う。南陽郡とは、劉伯升のいるところだ。荊州で、あちこちの反乱軍が散り、劉伯升のもとに集まり始めた。話がうますぎるが、少なくとも『漢書』では、そうなっている。
このあたりのことは、『後漢書』にある。
劉縯伝、更始帝に荊州北を奪われた敗者(光武の兄)
『後漢書』劉盆子を抄訳、青州黄巾がわかる列伝
『後漢書』劉玄伝、袁術が目標とした 一番のりの皇帝
十隻月,有星孛于張、東南行,五日痘見。莽數召問太史令宗宣,諸術數家皆繆對,言天文安善,群賊且滅。莽差以自安。11月、彗星が「張」に現れ、東南にゆく。太史令の宗宣は、新室にとって、善い天文だと報告した。群賊が滅びると。王莽は安心した。130302
ぼくは思う。ちっとも安心できないのに。皮肉がきいた、小説的な演出だ。光武帝が登場してしまった時点で、『漢書』の筆は、ずいぶん重くなるだろう。閉じる
- 地皇4年上、史皇后を立て、昆陽で大敗する
春、旗幟なき赤眉、将軍号のある劉伯升
四年正月,漢兵得下江王常等以為助兵,擊前隊大夫甄阜、屬正樑丘賜,皆斬之,殺其眾數萬人。地皇四年(後23)正月、漢兵(更始帝と劉伯升ら)は、下江の王常の兵を得た。前隊大夫の甄阜、屬正の樑丘賜を、漢兵が斬った。数万を殺した。
先謙はいう。『後漢書』王常伝にある。
『後漢書』王常伝:もっぱら下江兵の司令官・王常伝
初,京師聞青、徐賊眾數十萬人,訖無文號旌旗表識,鹹怪異之。好事者竊言:「此豈如古三皇無文書號諡邪?」莽亦心怪,以問群臣,群臣莫對。唯嚴尤曰:笭此不足怪也。自黃帝、湯、武行師,必待部曲旌旗號令,今此無有者,直饑寒群盜,犬羊相聚,不知為之耳。」莽大說,群臣盡服。及後漢兵劉伯升起,皆稱將軍,攻城掠地,既殺甄阜,移書稱說。莽聞之憂懼。はじめ京師では、「青徐州の賊は数十万だが、文號・旌旗・表識がない」と聞き、怪異だと思った。好事者はいう。「古代の三皇は、文書・號諡がなかった。三皇と同じだ」という。王莽は心怪して、群臣に問う。群臣は回答できない。
ぼくは思う。レヴィ=ストロースによると、トーテムの動物は、民族の血縁集団等を象徴するものである。日本の家紋も同じ。「漢」「新」の国号だって、旗に使えばトーテムとなる。中国の王朝が、紋章を使わないのは、皇帝の姓や国号が、紋章と同じような役割を果たすからか。
すると、なぜ漢字をつかう日本で、家紋とか旗印が発達したのか。
ぼくは思う。王莽は、象徴界に生きている。王莽ならずとも、儒教官僚たちは、象徴界の居心地がよい人々。トーテムのない集団を把握することができない。「名状しがたい気持ち」のように、扱いにくい。把握できなきゃ、撃破もできない。ぼくらが「幽霊と格闘する」のと、困難さの次元は同じだ。「幽霊を殴り直さない限り、あなたの家は滅びます」と言われたときと同じくらい、困ったことだ。
@bb_sabure さんはいう。五本指の竜だとか、王朝の徳を表す色などが、皇帝のシンボルとして機能してますね。黄色が特に有名ですね。私はどんなものか知らないんですが、三国時代にも天子の旗は有ったようですし、皇帝のシンボルはなにかしらあるのでしょう。
ぼくはいう。『晋書』には、平和の象徴である動物を書いた「騶虞」の旗なんてありました。皇帝の停戦命令の代理です。皇帝専用の言葉づかいや文書形式も、シンボルかも知れません(言語は事物を象徴化したものとも言われます)。抽象化の度合を決めておかないと、「こういうものがある」「ない」という議論が収束しないなあ。
ただ厳尤だけはいう。「怪しむことはない。黄帝、殷湯王、周武王のときから、部曲は旌旗・號令を持つものだ。いま盗賊に旌旗がないのは、ただ飢えて寒がる群盗だからだ。犬羊の集まりと同じ。黄帝からの前例である、旌旗を知らないのだ」と。王莽は大悦し、群臣は感服した。
漢兵の劉伯升が起つと、みな将軍を称した。劉伯升が城や地を攻めとり、甄阜を殺した。文書を開府して、甄阜の死を宣伝した。王莽は憂懼した。
ぼくは思う。旧斉の文化圏は、ヨコのつながりで動く。タテの官僚組織が、なじまない。曹操が青州兵を、個人的な紐帯?でつかった。臧覇に、間接的に統治させた。そういう自由な地域らしい。
ぼくは思う。トーテム=象徴界の内部で、把握できるような敵が出てきてくれて、良かったなあ。王莽は「幽霊」よりも、人間に殺されたいだろう。青州や徐州とちがい、劉伯升は、組織化された軍隊である。王莽と競合するとしたら、こちらである。赤眉は「怪異」の対象であり、劉伯升は「憂懼」の対象である。
漢兵乘勝遂圍宛城。初,世祖族兄聖公先在平林兵中。三月辛巳朔,平林、新市、下江兵將王常、硃鮪等共立聖公為帝,改年為更始元年,拜置百官。莽聞之愈恐。欲外視自安,乃染其鬚髮,劉伯升は、勝ちに乗じて、宛城を囲んだ。はじめ光武帝の族兄・劉玄は、平林兵のなかにいた。3月辛巳ついたち、
周寿昌はいう。『後漢書』光武紀では2月である。王莽は暦を改めて、建丑を正月とした。王莽の3月は、漢代の夏正の暦では2月となる。下に「4月」とあるが、これは漢代の3月にあたる。
ぼくは思う。『漢書』は『漢書』のくせに、王莽の採用した暦で月日を書いていた。孺子嬰から光武帝まで、漢の暦で読み換えることは、ムリでない。王莽の暦で記すとは、王莽の正統性を必ずしも全否定しないという立場を表明している。もし王莽が、箸にも棒にも掛かるべきでない逆賊なら、すべて漢の暦に戻されるはずだ。もしくは。光武帝が「誤りを是正した」ことを際立たせるために、王莽の暦を書くのか。平林、新市、下江の兵たちは、劉玄を皇帝につけて、更始元年と改元した。百官を設置して任命した。
ぼくは思う。ちくま訳は更始帝を劉玄でなく、劉伯升とする。ちがうよ!王莽は、更始帝の即位に恐れた。自安すると見せるため、鬚髪を染めた。
周寿昌はいう。須鬚(ひげとかみ)を染めたという記述が史書にあるのは、王莽が初めてである。ぼくは思う。班固から王莽への愛の深さが知れる。こまかく書いてある。前後の権力者も、老齢になれば、同じように染めたんだろう。この非常時に、王莽がファッションの技法を発明するとは思えない。
ぼくは思う。王莽の身体描写は、ほとんどなかった。というか、史料は身体描写をほとんどしないから。なぜか。史料が現実界でなく象徴界の産物だから。王莽は史料によく馴染むタイプの政治家だった。どんな行動も、古典を根拠とし、文書の発行を以て実行する。記録に残しやすい。
ぼくは思う。ここにきて王莽は、旗幟のない盗賊と、老いた自分の身体という、2つの現実界から規制を受けている。成人男子として、綺麗に掃除したオフィスで、サプリメントを食べながら、古典と政策の論議をしていたときが、懐かしい。
ちょっと余談。
ぼくは思う。『三国志』で、戦闘者(いわゆる武将)の記述量が少ない。だが記述量の少なさを理由に、「軽んじられた」というのは誤解。戦闘者は、現実界に軸足のある生き物である。王莽のような政治家は、象徴界に軸足のある生き物だ。だから戦闘者は、史料に残らない。まるで、「ユダヤ人の歴史書に、日本のことが少ししか書かれていない」と嘆くような仕方で(数項目は日本人が載っているらしい)滑稽である。
ただし、史書に記述がすくない戦闘者は、政権における重要度が低いのでない。戦闘者がいないと、三国とも建国できないのだから。戦闘者は重要ですよ。「史料に記述が少ないから、戦闘者は冷遇された。もしくは小説や物語が、戦闘者を派手に扱いすぎ」という意見も、また的外れとなる。戦闘者は重要で、厚遇された者もいるが、記述されない。
北方謙三『三国志』は、戦闘シーンをたくさん描く。ラグビーだかのスポーツの比喩らしい。戦闘を詳細に描くのは、そもそも言語が不得意とするところだ。辛うじてスポーツの記述だけは、長い年数で練られてきた。無数の約束を築いた。そのルールが過剰だから、スポーツ新聞で野球の記事を読んでも、過剰な省略表現と、過剰な定型表現により、前者は意味不明、後者はウンザリ(どうして、どちらも過剰なんだろう)。だがスポーツ新聞読者は、これで「ふむふむ、そういう試合だったのだな」と頭のなかで再生できる。はずだ。恐らく、テレビ中継を見る、翌日の新聞を読む、という往復運動により「学習」したのだろう。相撲のラジオもおなじ。しかし将棋や囲碁の棋譜のような正確さは望むべくもないでしょ。これが、現実界と象徴界の接続のあまさ。
これが、王莽伝が充実し、武将の列伝があっさりする理由。
更始帝に対抗するため、史皇后を立てる
進所征天下淑女杜陵史氏女為皇后,聘黃金三萬斤,車馬、奴婢、雜帛、珍寶以巨萬計。莽親迎於前殿兩階間,成同牢之禮於上西堂。備和嬪、美禦、和人三,位視公;嬪人九,視卿;美人二十七,視大夫;禦人八十一,視元士:凡百二十人,皆佩印韍,執弓。封皇后父諶為和平侯,拜為甯始將軍,諶子二人皆侍中。是日,大風髮屋折木。王莽は、天下の淑女を徴した。杜陵の史氏の娘を皇后とした。膨大な経済財を史氏に支払う。王莽が自ら迎えた。他の妻として、和嬪・美禦・和人の3人おき、位は三公なみ。嬪人を9人おき、位は九卿なみ。美人を27人おき、、後略。皇后の父・史諶を和平侯・甯始將軍とする。
ぼくは思う。「和平」は、王莽が更始帝と仲良くしたい(降伏してほしい)という思いがこもるだろう。漢代の爵位は土地の名をかぶせるが、王莽は爵号に意味をこめる。まあ、地名の決め方の1つに、意味をこめるという発想もあるから、王莽が逸脱してるとは言えないが。王莽は意味をこめることが多いのが特徴。史諶の子2人を侍中とする。この日、大風が建屋や樹木をこわす。
ぼくは思う。老いた男が、若い女と結婚することは、べつに「天地の秩序をこわす倒錯」ではないんだろう。男が陽、年長が陽、ということで、陽に傾きすぎるが。この大風は、何を意味しているのかなあ。
ぼくは思う。王莽は更始帝のせいで、死ねなくなった。更始帝は、王莽を打ち負かすべきが、王莽を若返らせてしまった。
群臣上壽曰:「乃庚子雨水灑道,辛醜清靚無塵,其夕穀風迅疾,從東北來。辛醜。《巽》之宮日也。《巽》為風為順,後誼明,母道得,溫和慈惠之化也。《易》曰:『受茲介福,于其王母。』《禮》曰:『承天之慶,萬福無疆。』諸欲依廢漢火劉,皆沃灌雪除,殄滅無餘雜矣。百谷豐茂,庶草蕃殖,元元歡喜,兆民賴福,天下幸甚!」群臣は上書して、皇后が立つのを祝った。「先日の雨も風も、『易経』巽卦と晋卦も、王莽が皇后を立てれば、漢の火徳・劉氏の残党を廃除することができる暗示する。天下万民は幸せだなあ」と。
ぼくは思う。「正しい」でなくとも、ロジカルならば良いのだ。解釈とはそういうものだ。『易経』をめくり、母や皇后をが秩序を整えるという記述を、見つけてきたのだろう。
莽日與方士涿郡昭尹等於後宮考驗方術,縱淫樂焉。大赦天下,然猶曰:「故漢氏舂陵侯群子劉伯升與其族人婚姻党及北狄胡虜逆輿洎南僰虜若豆、孟遷,不用此書。有能捕得此人者,皆封為上公,食邑萬戶,賜寶貨五千萬。」王莽は日ごとに、涿郡の方士の昭君らを後宮におき、方術を考験する。ほしいままに淫楽した。
ぼくは思う。昭君は、女性の方士だろうか。後宮にいるし。よく言うところの、男女が交合すると、陰陽がまざりあい、、という発想の行為か。王莽が後宮で遊びまくることは、重要な「政治行為」なんだろう。班固は、王莽の無策を追及しただろうが。少なくとも近現代のぼくらの第一印象は、王莽の無策である。だが将軍を派遣した王莽は、対策は充分に打ってあるのだ。
ぼくは思う。王莽が男女関係を回復するときは、『易経』に冷凍された儀式の再現として、取り組んだのだろうか。はじめ王莽は、男性原理の『尚書』に基づいてきたが、いま男女を混合させた『易経』が臣下の口から出た。王莽は、そのときの状況に合わせて、典拠を使い分けるのだ。前半は父親として厳粛に。厳粛すぎて、更始帝の反乱を招いたあとは、良き夫として均衡を重んじて。王莽がはじめて「淫楽」したのは、ただの退廃ではなかろう。
天下を大赦していう。「舂陵侯の子孫の劉伯升とその同族者、婚姻者や党与、さらに北狄・胡虜の善于である輿、南蛮である若豆と孟遷は、大赦しない。これらを捕縛した者は上公に封じ、1万戸を食み、宝貨5千万を賜う」と。
ぼくは思う。王莽の政敵が明らかになった。劉伯升の名があるが、これは光武帝への配慮だろう。もとは「更始帝の劉玄め」だったはずだ。北の単于、南の蛮族。ぎゃく言えば、この3方面をつぶせば、王莽は安泰なのだ。そういう意味で、更始帝の先進性は評価されねばならない。「王莽を倒せるのか」「王莽をいかに倒すのか」「王莽を倒したあと、どう行動するのか」という問題を、最先端で立問&回答してきたのが、更始帝なんだから。
ぼくは思う。赤眉は、政治勢力として認識されない。大赦を外すにも、対象が定まらない。『後漢書』劉盆子伝には、それなりに首領の名があるが。長安から見れば、いないも同然なんだろう。
又詔:「太師王匡、國將哀章、司命孔仁、兗州牧壽良、卒正王閎、揚州牧李聖亟進所部州郡兵凡三十萬眾,迫措青、徐盜賊。納言將軍嚴尤、秩宗將軍陳茂、車騎將軍王巡、左隊大夫王吳亟進所部州郡兵凡十萬眾,迫措前隊醜虜。明告以生活丹青之信,複迷惑不解散,皆並力合擊,殄滅之矣!大司空隆新公,宗室戚屬,前以虎牙將軍東指則反虜破壞,西擊則逆賊靡碎,此乃新室威寶之臣也。如黠賊不解散,將遣大司空將百萬之師征伐剿絕之矣!」遣七公幹士隗囂等七十二人分下赦令曉諭雲。囂等既出,因逃亡矣。また王莽は詔する。「太師の王匡、國將の哀章、司命の孔仁、兗州牧の壽良、卒正の王閎、揚州牧の李聖は、州郡の兵30余万で進軍して、青徐州の盗賊を迫措せよ。納言將軍の嚴尤、秩宗將軍の陳茂、車騎將軍の王巡、左隊大夫の王吳は、州郡の兵10万で進軍して、前隊(南陽)の醜虜(更始帝や光武の兄弟)を迫措せよ。来降者は殺さないと鮮明に宣言せよ。
ぼくは思う。これが王莽軍の最後の名簿まとめ。また、南陽を「前隊」とするあたり、典拠があるのかも知れないが、軍事の最前線というニュアンスが、奇しくも込められていて良い。実際には、こんな「内地」を、フロンティアにしてはいけないのだが。
ぼくは思う。莽新の行く末がヤバくなったとき、王莽が真っ先にやったのが、若づくり。つぎに、外戚を固めること。もともと王莽の家は、前漢の外戚として、権力を握った。外戚は、皇族を支えるため、必要不可欠だという認識だろう。最後に、皇族の結束を固めること。つぎに王邑の話がある。わりに平凡なんだw大司空・隆新公の王邑は、宗室の戚属であり、以前に虎牙將軍として東西で勝利した。新室の威宝之臣である。もし苦戦する方面があれば、大司空の王邑が1百万で、逆賊を征伐するだろう」と。
ぼくは思う。王邑は光武帝に敗れる。王邑の輝かしさを言うほど、光武帝の戦功が大きくなる。たしかに光武帝は、更始帝の配下として、莽新の主力を破る(ように描かれる)。光武帝の正統性があるとしたら、莽新の主力を撃破したことだ。しかしそれは、光武帝が更始帝に謀反する原因にならない。光武帝は(兄の劉伯升が)更始帝と対立してしまったので、奇跡的なキャリアを放棄して河北をさまよった。「いちど膝を曲げる」のが光武帝の戦歴である。
王莽は、七公幹士の隗囂ら72人を天下に派遣し、赦令を下して(王莽も意図を)説明させる。隗囂らは長安を出ると逃亡した。
夏、昆陽で42万が、光武帝に破られる
四月,世祖與王常等別攻潁州,下昆陽、郾、定陵。莽聞之愈恐。遣大司空王邑馳偉至雒陽,與司徒王尋發眾郡兵百萬,號曰「虎牙五威兵」,平定山東。地皇4年4月、光武帝は下江の王常と別れ、潁川を攻めた。昆陽、郾県、定陵の3県を下す。王莽はいよいよ恐れた。
ぼくは思う。王莽は「恐」するだけ。受け身である。このあたりから、『後漢書』光武紀が始まっているから。もし王莽に積極的な行動があっても、光武帝の威光に(史料上において)かき消される。つまらなくなってきた。
ぼくは思う。『漢書』のどこかに、再末期の王莽を、いきいきと描いた列伝が、紛れ込んでいるに違いない。班固が、光武帝に乗っ取られた王莽伝だけで、満足するとは思えない。紀伝体の歴史書は「どこに何が書いてあるか分からない」から、ドラマが生まれる。史家が記述を散らかすことにより、「政治的に正しくないので、正面から言えないこと」を伝えたり、形式・構成・順序によって何かを仄めかしたりできる。竹簡や木簡という閲覧性の悪いメディアだから、はじめて表現できることがある。表現の欲望が起動される。
(あり得ないけど)中国古代に、パソコンばりに便利なツールがあったら、ここまで文書の文化は発展しなかっただろう。権力者が「どこに何が書いてあるか」を瞬時に検索して、指摘してきたら、書き手として楽しくない。
大司空の王邑を洛陽に進める。司徒の王尋とともに、1百万の「虎牙五威兵」と号する。山東を平定したい。
きましたねー、最大の見せ場。王莽vs光武帝。
ぼくは思う。のちの河北の戦歴に比べると、このときの光武帝の戦歴が過剰に輝かしい。これほど天才的な軍事的才能があるなら、なぜ天下統一に何十年もかかるんだろう。思うに、王莽と光武帝の接点を強調するために、脚色が過ぎたのだろうか。それにしても、莽新のおもな将軍が、荊州で敗れたのは、さすがに事実だろうし。光武帝でなく、更始帝の諸将の功績が大きいのか。それが光武帝に帰されたので、過剰に見えるのか。
もしも織田信長が「今川義元の後継者」であることを、政権の根拠にしたら。桶狭間の奇跡だけが、ゴッテゴテにデコレーションされ、他の戦いが全て過小評価されるのだろう。
ぼくは思う。光武帝と王莽は、直接の帝位の受け渡しがないからこそ、数少ない接点から膨らまされた。王莽の亡き後、脚色の必要性が薄れるので、通常のタッチに戻った。だから、一進一退となる。
得顓封爵,政決於邑,除用征諸明兵法六十三家術者,各持圖書,受器械,備軍吏。傾府庫以遣邑,多齎珍寶、猛獸,欲視饒富,用怖山東。邑至雒陽,州郡各選精兵,牧守自將,定會者四十二萬人,餘在道不絕,車甲士馬之盛,自古出師未嘗有也。王邑は(権限委譲されて)封爵と政策を決定できる。兵法63家に明るい者を従軍させる。図書・器械・軍吏を完備する。府庫を傾けて、王邑に供給する。珍寶・猛獸を従軍させる。饒富を見せつけ、関東を圧倒する。
先謙はいう。『芸文志』では兵書53家、班固の自注では10家を省くという。「7略」の兵法とは、63家である。『後漢書』光武紀では、63家の兵法家が数百人くる。
ぼくは思う。これは光武帝のための神話だが。意図せず(もしくは班固の意図どおり)莽新の財力と人材の豊富さを表現した。猛獣や珍宝は「四方の異民族も、莽新を応援している」という示威である。
ぼくは思う。光武帝の功績を強調したい。だから後漢の当局としては、王邑の敗北をもって、莽新が滅びたという見解をとりたい。だから王邑の軍備は強調される。だが、長安で敗北する王莽は、あっさり殺される。描写が少ない。赤眉の功績を強調しても、仕方ないからね。
王邑は洛陽で、州郡の精兵を選ぶ。王邑が牧守をひきいる。王邑軍は42万を編成した。道は埋め尽くされ、車甲・士馬の強盛は、古代に前例がない。
ぼくは思う。これを倒した光武帝の功績も、古代に前例がない。いやあ、媚びてると、かゆくなりますね。ともあれ、三公の王氏が2人で率いたのは、揺るがないだろう。王莽にとって、気合の入った討伐軍であることは、確認されねばならない。
六月,邑與司徒尋發雒陽,欲室宛,道出潁川,過昆陽。昆陽時已降漢,漢兵守之。嚴尤、陳茂與二公會,二公縱兵圍昆陽。嚴尤曰:「稱尊號者在宛下,宜亟進。彼破,諸城自定矣。」邑曰:「百萬之師,所過當滅,今屬此城,喋血而進,前歌後舞,顧不快邪!」遂圍城數十重。城中請降,不許。嚴尤又曰:「『歸師勿遏,圍城為之闕』,可如兵法,使得逸出,以怖宛下。」邑又不聽。地皇4年6月、大司空の王邑と司徒の王尋は、洛陽を発った。宛県にむかい、頴川に出る。昆陽をすぎる。昆陽は、すでに漢兵(更始帝)に降っている。
ぼくは思う。更始帝の軍を、「光武帝の軍だよ」「漢兵だよ」と連呼することが、もう立派な思考操作なのだ。ぼくは本文にさからい、実態だと思われる「更始帝の軍」という書き方をします。昆陽を更始帝軍が守る。嚴尤と陳茂は、王邑と王尋とあわさり、昆陽を包囲した。厳尤はいう。「尊号を自称する者は、宛県にいる。宛県に進むべきだ。宛県を撃てば、昆陽なんて自ずと定まる」と。王邑はいう。「1百万の軍なら、通過するだけで滅ぼせる。いま昆陽に着手した。前に歌って後に舞う(前に昆陽、後で宛県をつぶす)。楽しくないか」と。昆陽を数十重に包囲する。城中では降伏したい。
厳尤はまたいう。「兵法は、包囲には隙間をつくれという。昆陽の城中から、逃げられる場所をあけ(逃げた者を媒介に、宛城に情報が流れるようにして)宛城を恐れさせよう」と。王邑はゆるさず。
ぼくは思う。王邑は、王莽の賞罰が怖いのかな。王邑は、皇帝なみの権限を持っている。いま天下には「2人の王莽がいる」状態になっている。王莽は、王邑のキャラが自分と同じだから、全権を委任したんだろう。
ぼくは思う。厳尤は、かしこい諌め役。王邑は、頭の固いバカ役。『漢書』での役割は、ハッキリしている。史実の2人がどういうキャラだったかは、永久に分からない。
會世祖悉發郾、定陵兵數千人來救昆陽,尋、邑易之,自將萬余人行陳,敕諸營皆按部毋得動,獨迎,與漢兵戰,不利。大軍不敢擅相救,漢兵乘勝殺尋。昆陽中兵出並戰,邑走,軍亂。大風飛瓦,雨如注水,大眾崩壞號呼,虎豹股栗,士卒奔走,各還歸其郡。邑獨與所將長安勇敢數千人還雒陽。關中聞之震恐,盜賊並起。光武帝が郾県から、定陵の兵を数千つれて、昆陽を救いにくる。王尋と王邑は、みずから1万余人で布陣する。王尋は、諸営に「動くな」といい、単独で更始帝軍と戦う。王尋は不利だが、「動くな」と命じられたので、莽新軍は動かない。更始帝軍は王尋を殺した。
ぼくは思う。抄訳をつくるとき、文脈から主語を「光武帝」とすべきは、光武帝としている。どうやら班固は、光武帝のことは「世祖」と名指しするが、光武帝を名指しできない(光武帝の功績でない)とき、便宜的な概念として「漢兵」というらしい。つまり「漢兵」は、更始帝の兵と考えて良いのだろう。班固は、必ずしも光武帝バンザイでなく、事実を厳密に書こうとしているみたい。『漢書』に惚れこんできたw
ぼくは思う。光武帝が勝てたのは、無名だからだろう。王尋が景気づけするため、遊んだのだ。こういうマグレは、何度もできない。光武帝の最大の功績(莽新に対する勝利)は、光武帝が尊号を自称した反乱軍のトップでなく、無名の宗族の1人だから得られたもの。なんだか屈節している。これを「最大の功績」とほめて良いものか、微妙である。ともあれ最大には違いない。
昆陽の城中から、兵が出た。王邑はにげ、莽新軍は乱れた。大風で瓦がとび、雨が川水にそそぐ。莽新軍は崩壊して、士卒は故郷に還った。王邑は長安の勇敢な兵の数千だけと、洛陽に還る。洛陽は震恐した。盜賊がならびたつ。
ぼくは思う。王莽は受け身で「震恐」が専門です。ほんと、光武帝が出てきた瞬間に、急速につまらなくなる。消化試合に入る。詳細は『東観漢記』を見てね、ということだろうか。こちらも班固が編纂してる。
又聞漢兵言,莽鴆殺孝平帝。莽乃會公卿以下于王路堂,開所為平帝請命金滕之策,泣以視群臣。命明學男張邯稱說其德及符命事,因曰:「《易》言『伏戎於莽,升其高陵,三歲不興。』『莽』,皇帝之名,『升』謂劉伯升。『高陵』謂高陵侯子翟義也。言劉升、翟義為伏戎之兵于新皇帝世,猶殄滅不興也。」群臣皆稱萬歲。又令東方檻車傳送數人,言「劉伯升等皆行大戮」。民知其詐也。関中で王莽は、更始帝が「王莽が平帝を鴆殺した」と言うと聞いた。王莽は公卿らに王道堂であい、平帝の快癒を祈った「金滕之策」を群臣に見せて泣いた。
ぼくは思う。これは封印する規則だったはず。パンドラの箱と同じで、「開けたら効力がない」のだ。「隠されているから欲望の対象になるが、開示されるとつまらなくなる」という規則がある。欲望の対象だから(みんなが見たいから)隠されている、というのは因果が逆である。もっとも分かりやすいのは、人間の性器。
王莽が平帝とのあいだで、「なにか秘密のことをした」から、漢新革命は達成された。「王莽は古文学に通じていて、何かすごい正統性があるらしい。何だか分からないけど」という仕方で、支持されていた。いま封印の箱を開けたら、莽新が理解され(逆説的だが、理解されたことで)正統性がなくなる。明學男の張邯に命じて、王莽の徳と、符命を説明させた。
張邯はいう。「『易経』同人卦に「莽」の字(平たい草むら)がある。いわく、草「莽」に伏兵をおき、高陵に升って展望しても、あえて前進するな。3年、兵を起こすなと。これは王「莽」の時代に、劉伯「升」と「高陵」侯の子である翟義がいるが、彼らの兵は興らないと解釈できる」と。
ぼくは思う。すげえ。王莽の王莽らしさは健在だ。この象徴界のドライブぶりなら、莽新はまだ永続しそうな気がする。ちょっとムリやりだが、ムリにでも、関連づけたのがすごい。また劉伯升は、翟義と同類に見られていたこともわかる。翟義と地域が似ている。翟義の残党が、混ざっていたのかもしれない。「王莽が平帝を毒殺」というメッセージが、翟義と同じだから。群臣はみなで万歳を称えた。東方に檻車で捕虜を数人おくり、「劉伯升らは、みな大戮する」という。だが万民は、これがウソだと知っていた。
ぼくは思う。いや、知らなかったね。王莽の正義も、劉伯升の正義も、戦時においては、どっちもどっちだろう。ぼくは王莽が情報戦略に優れていたとまでは言えない。
王渉と董忠と劉歆がそむく
先是,衛將軍王涉素養道士西門君惠。君惠好天文讖記,為涉言:「星孛掃宮室,劉氏當復興,國師公姓名是也。」涉信其言,以語大司馬董忠,數俱至國師殿中廬道語星宿,國師不應。後涉特往,對歆涕泣言:「誠欲與公共安宗族,奈何不信涉也!」歆因為言天文人事,東方必成。これより先、衛將軍の王渉は、道士の西門君惠を養う。道士から図讖を聞いた。道士は王渉にいう。「天文によると劉氏が復興する。国師公の姓名(劉歆)により明らかだ」と。
ちくま訳はいう。「歆」とは、鬼神が供物を受けること。祭事が、神意にかなうこと。劉氏の神が、供物を受けとってくれることを示す。ってことだろう。王渉は、大司馬の董忠に道士の予言を伝える。王渉と董忠は、しばしば国師公の劉歆に、道士の予言を話した。劉歆は合意しない。
のちに王渉は涕泣して、劉歆に訴えた。「私・王渉は、劉歆と劉氏の宗族のために、予言を伝えている。なぜ信じてくれないか」と。劉歆は「私が天文を見るに、東方(更始帝)が必ず成功する」という。
ぼくは思う。劉歆も天文がよめる「から」慎重にふるまい、合意を避けていたのね。合意しようが、しまいが、天文の結果は明らかだから。
涉曰:「新都哀侯小被病,功顯君素耆酒,疑帝本非我家子也。董公主中軍精兵,涉領宮衛,伊休侯主殿中,如同心合謀,共劫持帝,東降南陽天子,可以全宗族;不者,俱夷滅矣!」伊休侯者,歆長子也,為侍中五官中朗將,莽素愛之。歆怨莽殺其三子,又畏大禍至,遂與涉、忠謀,欲發。歆曰:「當待太白星出,乃可。」忠以司中大贅起武侯孫亻及亦主兵,複與亻及謀。亻及歸家,顏色變,不能食。妻怪問之,語其狀。妻以告弟雲陽陳邯,邯欲告之。王渉はいう。「新都哀侯(王莽の父)は病弱で、功顕君(王莽の母)は酒をたしなむ。王莽は王氏の子でないと疑う。董忠は中軍の精兵を、王渉は宮衛をつかさどる。殿中をつかさどる伊休侯(劉歆の長子)も、私たちに合意している。王莽を拘束して東にゆき、南陽の天子に降伏しよう。さもなくば劉氏は(王莽に)夷滅される」と。
ぼくは思う。長安の内部で、三公たちが王莽にそむく相談をしているのなら。王莽は、ほんとうに終わりだ。そして更始帝は、誇張なく武力のみによって、王莽を倒した。王尋が死に、王邑が退いたんだから。けっきょく劉氏の正統性というのは、武力のことだったw
もしくは、光武帝による昆陽の戦いの結果を強調するため(昆陽で態勢が決したと見せるため)時系列が決まりにくい陰謀を、この場所に挿入したか。
ぼくは思う。劉歆の家は、父と子が、べつべつに政事に参加している。「あなたの子も我々の味方です」と、別ルートから報された。少なくとも董忠は、劉歆が子と連絡をとってないと思っている。官爵資本のある家庭は、厚みが違う。伊休侯は劉歆の長子である。侍中・五官中郎将となり、王莽に愛される。劉歆は、王莽に3子を殺されたことを怨み、同族が夷滅されるのを畏れた。ついに、王渉・董忠に合意した。劉歆は「木星が出てから動こう」という。
ぼくは思う。劉歆は天文が読める。天文が読める人が、陰謀をねるのだから最強だ。ふつうは、素人が天文を読み損ねるか、読む議論のあいだから情報が漏洩するのだ。司中大贅・起武侯の孫伋もまた、兵をつかさどる。董忠は孫伋をさそった。孫伋は帰家したが食えない。顔色の変化を妻に読まれた。妻は弟の雲陽の陳邯に告げた。陳邯は、王莽に報告したい。
ぼくは思う。妻からモレるのは、孫呉の宮殿の陰謀で、同じことがあった。
七月,亻及與邯俱告,莽遣使者分召忠等。時忠方進兵都肄,護軍王鹹謂忠謀久不發,恐漏泄,不如遂斬使者,勒兵入。忠不聽,遂與歆、涉會省戶下。莽令{帶足}惲責問,皆服。中黃門各拔刃將忠等送廬,忠拔劍欲自刎,侍中王望傳言大司馬反,黃門持劍共格殺之。省中相驚傳,勒兵至郎署,皆拔刃張弩。更始將軍史諶行諸署,告郎吏曰:「大司馬有狂病,發,已誅。」皆令馳兵,莽欲以厭凶,使虎賁以斬馬劍挫忠,盛以竹器,傳曰「反虜出」。下書赦大司馬官屬吏士為忠所詿誤,謀反未發覺者。收忠宗族,以醇醯毒藥、尺白刃叢棘並一坎而埋之。
7月、孫伋と陳邯は、王莽に陰謀を報告した。
王莽は使者をやり、董忠らを個別に召した。ときに董忠は、兵を進めて演習をやる。護軍の王鹹は「董忠が動くのが遅いので、王莽にバレた。王莽の使者を斬り、王莽に突っこめ」という。董忠はゆるさず、劉歆と王渉とともに、省戶のもとに集まる。王莽は帯惲に責問させた。董忠、劉歆、王渉は屈服した。
ぼくは思う。「董忠の決起を遅らせたもの」が、王莽を守った。なんだろう。王莽が漢室に贈与するという仕方で獲得してきた、権威なんだろう。また諸政策をマジメに制作してきたからだろう。「更始帝の暴力が迫る、よし王莽を倒せる」という、思考の短絡は起きなかった。中黃門が拔刃して、董忠らを廬に送る。董忠は拔劍して自刎を試みる。侍中の王望は「大司馬の董忠が(抜剣して)反した」という。黃門が剣を持ち、ともに董忠を格殺した。省中は驚きを伝えあい、勒兵は郎署にくる。みな拔刃・張弩する。
ぼくは思う。大司馬が刀を抜いたので、慌ててみんなで殴り殺す。その余波で、長安の中心部が騒然となる。やばいよ。莽新が滅びるよ。更始將軍の史諶は諸署にゆき、郎吏に告げる。「大司馬の董忠は狂病を発したので、すでに誅した(安心して鎮まりなさい)」と。
王鳴盛はいう。莽新の官職は更始将軍だったが、更始帝が立ったあとは「寧始将軍」に改名された。ぼくは思う。ふつう名詞を忌むのは、下から上への配慮である。しかし、上から下(統一王朝から反乱軍)に忌むのは、珍しいなあ。史諶の官位は、更始と寧始が混乱しているらしい。
ぼくは思う。これは王莽の皇后の父だ。頼るべきは外戚。みな兵を馳せる。王莽は凶を厭う。虎賁に斬馬劍で、董忠の身体を挫かせ、竹器に盛る。「反虜が出た」と伝えた。下書して、大司馬の官屬・吏士のうち、董忠に誤導された者を赦した。董忠の宗族をおさめ、醇醯・毒薬・白刃・叢棘とともに1つに埋めた。
ぼくは思う。呪術により、封印したような感じ?
劉歆、王涉皆自殺。莽以二人骨肉舊臣,惡其內潰,故隱其誅。劉歆と王涉は自殺した。劉歆と王渉は、王莽と血縁ある旧臣である。莽新が内部から潰れるのを悪み、2人を誅殺を隠した。
ぼくは思う。劉歆は、ほんとうに裏切ったのだろうか。判断できない。すべてが未遂である。また劉歆は「木星が出てから」と、時間稼ぎをした。この結果、董忠は決起できなかった。「劉歆にすら裏切られた王莽」というイメージを、あとから作ることも可能だ。死人に口なし。
伊休侯疊又以素謹,歆訖不告,但免侍中中郎將,更為中散大夫。後日殿中鉤盾土山仙人掌旁有白頭公青衣,郎吏見者私謂之國師公。衍功侯喜素善卦,莽使筮之,曰:「憂兵火。」莽曰:「小兒安得此左道?是乃予之皇祖叔父子僑欲來迎我也。」伊休侯の劉畳は、謹厳な性質である。劉歆は最後まで、陰謀を告げない。劉畳は侍中・中郎將を免じられ、中散大夫になっただけ。後日、殿中の鉤盾(少府の属官)の土山にある仙人の像のそばに、青衣の白頭公がでた。ひそかに郎吏は「あの白頭公は劉歆だ」という。
衍功侯の王喜(王光の子)は卦がうまい。王莽が筮させた。「兵火を憂う」とでた。王莽は「小児=王喜は左道をできるか。これは私の皇祖叔父・子僑が私を迎えにきたものだ」と、占いの結果に異論を唱えた。
ぼくは思う。王喜は「劉歆が、漢兵により長安が焼かれる」と解釈した。王莽は「王氏の祖先が、私を迎えにきた」と解釈した。どちらにせよ王莽が死ぬことは、王莽によって合意されている。王莽は、祖先に祝福されて死ぬのか、政敵に殺されるのか、そこを選ぶだけだ。
王邑に皇帝を譲り、新たに三公を立てる
莽軍師外破,大臣內畔,左右亡所信,不能複遠念郡國,欲呼邑與計議。外は軍隊が破れ、内は重臣に叛かれた。
ぼくは思う。莽新は、良くも悪くも、王莽1代限りの芸術作品だった。べつに光武帝が継承する必然性はないが、劉氏のいずれかに帰すことは、王莽も予感していたのかも。王莽の主観の範囲では、もと孺子の劉嬰に、返却することを考えたかも。
王莽が作ろうとしたのは、「メタ言語」だという話を、ぼくは中盤でやりました。つまり、皇帝権力とは違う概念や定義をもったものだ。これを積極的に言葉で定義できないのだから、ラカン風には「メタ言語はない」となる。ぼくなりに言えば「莽新という王朝はない」となる。つまり王朝とは、皇帝の一族による世襲が前提であるが、王莽は「メタ皇帝」になった。つまり皇帝より後(もしくは上位概念)の皇帝になった。「世襲を前提にしないから失敗」というのは、皇帝のみにあてはまること。「メタ皇帝」には、あてはまらない。王莽は、世間の人々を惑わせないために、皇太子を立てるが、子殺しに熱心である。世襲を本心から願う人間の態度ではない。
ウィトゲンシュタインは「語りえぬものには沈黙を」と言ったが、「メタ皇帝」はこれ。皇帝に関する言説の世界において、「メタ皇帝」を語ることはできない。『後漢書』も『三国志』も、王莽のことを詳細に語らない(史料に出てこない)理由は、王莽が悪役だからだけでない。王莽は「語りえぬ」ところの「メタ皇帝」だからだ。語るとしても、皇帝の言説に搦めとることができた、「簒奪者」としての側面のみである。そんなの、王莽の本質の1%ぐらいしか指し示していない。
王莽は左右に信じられる者がない。
ぼくは思う。皇帝が至高の存在であれば、それより上に概念を持たないはずだ。命令系統の上下ではなく、概念としての上下ですよ。つまり「皇帝という言葉を使えば、他の全てのものを説明し尽くせる」ということ。裏返せば「「皇帝という言葉をどれだけ駆使しても、説明し尽くせない」ものがない」ということ。
たとえば漢代になると、あの「天」だって、皇帝の性質を説明するための概念である。『白虎通』の規定のなかでは、皇帝より上にある。だが「皇帝を説明するための言葉」として、飼い慣らされている時点で、「天」よりも皇帝のほうが概念が上である。
もともと「天」は、皇帝という概念がなくても説明できた。春秋戦国時代の言説に「天」が含まれるとおり。だが『白虎通』などを通じて、皇帝が専一的に天と接続することにより、皇帝という語を含まずに「天」を説明できないように、思想を操作した。漢代の「儒教国家」を作るとは、「天」にすら、統治における一定の役割を課すことだった。かつて天皇で議論があったように、「天」を統治機構の1つの機関に貶めることが、儒教国家が達成すべきことだった。
王莽は、前漢の皇帝と、後漢の皇帝を接続するものだ。皇帝と皇帝を接続して、関係性を規定する。これは「メタ皇帝」の機能である。漢室の「皇帝」は、王莽を説明するものでなく、王莽に説明されるものである。つまり漢室の「皇帝」は、王莽を規定するのでなく、王莽に規定されるものである。おーっと、困りました。後漢の皇帝は、至高でなくてはならないから、王莽をフロイト的無意識のなかに抑圧する。
王莽は遠方の郡国のことを考えられない。
ぼくは思う。フロイト的な抑圧とは、どんな状態か。ある会議を始めるとき、司会者が「会議を閉会します」と言い間違える。司会者に聞けば「うっかりミスだ」という。他意はないという。だが精神分析では「司会者は会議を早く終わらせたかった」と指摘する。司会者は「言いがかりだ。私はこの会議を重要だと思っている」と言うだろう。だが精神分析者は、司会者の言葉を認めない。
例えば取調官は、容疑者の自白は認めるが、容疑者の否認は認めない。これと同じ仕方により、司会者がなにを言おうが、「あなたは会議をウザいと思っている」という分析から、逃れることはできない。このミスは無意識によるものだが、無意識の働きをみんな知っているから、「うっかりミスした」「うっかり忘れた」ことを、みんな許さないのだ。本音を読み取らざるを得ないのだ。鈴木晶『「精神分析入門」を読む』より。
王莽の存在は、この「会議を終わらせたい」という本心である。本当かも知れないが、言いたくない。分析者に指摘されたら、逃れられない。
「後漢は王莽の制度に基づいて整備された」というのは、渡邉先生が言うことだが、渡邉先生がわざわざ(当たり前のことを)言わねばならないほど、王莽は抑圧されている。「後漢の正統性は、王莽を仲介して獲得された」とは、史書の出来事を順番におっていけば、自然と諒解されることだ。だって王莽がなければ、前漢が続くのみで、光武帝の血統は皇帝になれない。王莽が失敗しなければ、更始帝と光武帝にいくら武力があっても、チャンスが得られない。しかし、どちらも言ってはならない。思うべきですらない、と検閲が働く。この2つの抑圧がある。
フロイトは(フロイトの批判者が強調するように)全ての夢や欲動を、性関係に求めた。被分析者が否定しても(否定すればするほど)性関係の抑圧があることを暴露するという仕組みである。これこそ「身動きの取れない構造論」である。肯定しても性関係、否定しても性関係。ただしそれを言うのも憚られる。わざと口に出す分析者は「いやらしい」ことになる。つまり、三国志ファンのくせに、王莽の話ばかりする人も「いやらしい」のだ。抑圧されるべきことを公言するから、拒絶されるのだ。
ぼくは思う。そういう意味で、このサイトも「いやらしい」サイトになってきた。「あんたには『三国志集解』の正確で網羅的な翻訳を(どうせ能力不足で不可能だろうが)やってもらいたい。三国志の列伝から、人物の新解釈を提示してほしい。そしたら叩く用意があるから」という読者が、一定数はいると思う。しかし、ぼくは「いやらしい」ことに、三国志と関係なさそうな王莽の話ばかりやっている。「閲覧をやめるぞ」というガッカリ感で、読んでおられると思いますが(というか、そんな閲覧者である「あなた」は、こんな細かいところ、読まないか)ぼくは、ぼくなりに「いやらしい」ところを掘りたいと思う。王莽をおもしろがりたいと思う。
後漢や魏晋以降にとって、王莽は、この性関係と同じである。「後漢も魏晋も、王莽の上に成り立っている」ことは、否定できないのだが、肯定したくない。できれば言及したくない。意識の上に持ちこみたくない。見て見ぬふりをしたい。
王莽が後漢と魏晋にとって、まさにトラウマの対象なのだ。負の影響が怨まれているから、トラウマなのでない。これはトラウマという術語の誤用である。影響があること自体を(意図せずとも)黙殺されているから、トラウマと言えるのだ。
王莽は、王邑を呼んで、作戦をねる。
ツイッター用まとめ。ぼくの王莽伝は「王莽とはメタ皇帝である」という結論に達した。フロイトは無意識の抑圧をいい、ラカンは「メタ言語は存在しない」「女性は存在しない」「性関係は存在しない」といい、ウィトゲンシュタインは「語りえぬものには沈黙せよ」という。フロイト的に抑圧され、ラカン的に王莽という皇帝は存在せず、ウィトゲンシュタイン的に黙殺されたのが王莽。
たまたま、フロイト=ラカンと、王莽伝を同時に読んだせいか、「フロイト=ラカンほど、王莽伝の読解にぴったりの思想はない」と確信してる。この誤解(だと思います、たぶん)を抱けたことは最大の幸せ。王莽伝、もうすぐ抄訳が完了する。
ぼくは思う。なんとなく「王莽は漢室にとってのトラウマ」という印象はあったが、どういう理路によって、トラウマと言えるのかは、今回の王莽伝の読解を通じないと、言い当てることができなかったと思う。
後漢末、群雄たちは「漢室が永続する確信」をライバルとして、戦ってきたと思ってた。だがこれは、転移(ライバルのすり替え)が起きていた。群雄たちは無意識のもとで(もしくは史料の外部で)王莽と戦っていたのだ。これを言語化するのが、精神分析者ならぬ、『三国志』の読解者・分析者である、ぼくらの仕事だと思う。
っていうか、本文の抄訳が、停滞しすぎだ!
崔發曰:「邑素小心,今失大眾而征,恐其執節引決,宜有以大慰其意。」於是莽遣發馳傳諭邑:「我年老毋適子,欲傳邑以天下。敕亡得謝,見勿複道。」邑到,以為大司馬。大長秋張邯為大司徒,崔發為大司空,司中壽容苗為國師,同說侯林為衛將軍。崔發は、王莽に注意した。「王邑は小心だ。王邑を呼べば、昆陽での敗戦を咎められると思い、自殺します。王邑を慰めろ」と。王莽は王邑にいう。「私には子がない。王邑に天下を伝承したい(敗戦を咎めない)」と。王邑が到着し、大司馬となる。 大長秋の張邯を大司徒に、崔發を大司空とする。司中する壽容の苗訢を國師とする。同說侯の林を衛將軍とする。
ぼくは思う。三公たちが謀反したから、三公が新しくなった。
莽憂懣不能食,亶飲酒,啖鰒魚。讀軍書倦,因憑幾寐,不復就枕矣。性好時日小數,及事迫急,亶為厭勝。遣使壞渭陵、延陵園門罘罳,曰:「毋使民複思也。」又以墨洿色其周垣。號將至曰「歲宿」,申水為「助將軍」,右庚「刻木校尉」,前丙「耀金都尉鸀,又曰「執大斧,伐枯木;流大水,滅發火。」如此屬不可勝記。王莽は、心がふさいで食欲がない。酒ばかり飲み、アワビばかり食べた。軍事の本を読んでも飽き、座ったまま眠り、横にならなかった。時日(吉日)と小数(占い)を好む。事態は迫急するが、何もしない。
ぼくは思う。酒とアワビは呪術だ!皇后を立てることと、アワビを食べることには、同じ効果がある。王莽は「将軍」じゃない。いかにも皇帝として、必要な職務を果たす。
ぼくは思う。袁術さんは、ハマグリを兵糧の足しにしたんだっけ。似てるなあw
先謙はいう。曹操も鰒魚を喜んで食べた。南朝宋の蘇軾『鰒魚行』はいう。王莽と曹操という両雄は、どちらも漢家を盗んだ。また同じ嗜好をもっていたと。
ぼくは思う。このように、王莽を曹操を「簒奪者」というレッテルを貼って、理解したと偽装するのは、王莽と曹操が抑圧されている証拠だ。精神分析において、乳児期に圧倒的な権力を持っていた父親と、圧倒的な愛を持っていた母親を、「くそジジ、くそババ」と貶すことで、乳児期の不安を抑圧すると見なすのと同じである。曹操が受禅せず、曹丕まで待ったのは、曹操自身が抑圧の対象となることを、認識していたからかも。青空の下で学習する、「よい子の楽しい歴史」は、曹丕の名だけ覚えれば良いのだ。「後漢の丞相の息子・曹丕が、受禅した」と編集しても、物語り(@野家啓一)は成立する。曹操は物語りに配慮することで、王莽の失敗をくり返さないようにした。
渭陵と延陵園の門を破壊し、垣根を黒く塗りつぶした。「万民に漢室を思い出させるな」と。
ぼくは思う。漢室という王朝は、けっきょく象徴界の建築物である。あたかも言語のように、渭陵がシニフィアンとなり、漢室というシニフィエをつなぎとめている。渭陵を破壊すれば、漢室は象徴界、想像界から消滅する。垣根を塗りつぶすのも、表象する機能を、停止させるためだ。墨塗りの教科書と同じ。
ただし「塗りつぶされたものがある」ことは、それ自体もなにかを表象する。王莽は後手に回っていることが、よくわかる。将軍号を「歲宿」「助將軍」「刻木校尉」「耀金都尉鸀」と改変した。「執大斧は、枯木を伐つ。流大水は發火を滅す」など、将軍号に意味をこめて、凝った。『漢書』が記しきれない。
ぼくは思う。すべて有効な呪術です。もしインターネットが発達した時代なら、王莽の呪術により、更始帝は自壊しただろう。離れた場所にいる相手に、言語によってダメージを与える。これを呪術という。ネットがないものの、将軍号をいじくることで、更始帝に呪いをかけた。きっと効くはず!閉じる
- 地皇4年下、王莽が殺され、綬と首が奪われる
秋、鄧曄が武関を開き、弘農の大姓を下す
秋,太白星流入太微,燭地如月光。
成紀隗崔兄弟共劫大尹李育,以兄子隗囂為大將軍,攻殺雍州牧陳慶、安定卒正王旬,並其眾,移書郡縣,數莽罪惡萬於桀、紂。地皇4年秋、太白星が太微に入り、月のように明るい。
ぼくは思う。劉歆が予言した、王莽の滅びるとき!天水郡の成紀県にいる隗崔の兄弟は、大尹の李育をおどした。兄子の隗囂を大將軍にした。
沈欽韓はいう。成紀は天水郡にある。顔師古が隴西郡というが、誤りである。先謙はいう。『後漢書』隗囂伝で、隗崔と兄の隗義が、大尹の李育を殺した。隗囂たちは、雍州牧の陳慶を殺し、安定卒正の王旬を殺し、州郡の兵をうばった。
先謙はいう。隗囂伝では、安定大尹の王向を殺す。隗囂は「王莽は、桀や紂みたいに悪いやつだ」と文書を回覧した。
ぼくは思う。王莽は、たった1人で、輔政者、建国者、さらに亡国者までに例えられた。ここまで「多義的な記号」は珍しい。王莽が対象aになってゆく。あぶない!
是月,析人鄧曄、于匡起兵南鄉百餘人。時析宰將兵數千屯鄡亭,備武關。曄、匡謂宰曰:「劉帝已立,君何不知命也!」宰請降,盡得其眾。曄自稱輔漢左將軍,匡右將軍,拔析、丹水,攻武關,都尉硃萌降。進攻右隊大夫宋綱,殺之,西拔湖。
この月、析県の鄧曄と于匡が、南郷(析県の郷)で1百余人と起兵し、武関(の莽新軍)に備える。鄧曄らは「すでに劉氏の皇帝が立った。どうして天命を知らないのか」と脅し、析県の県宰を降伏させた。県兵をあわす。鄧曄は、みずから輔漢左將軍を名のり、于匡は右將軍を名のる。
析県、丹水の2県をぬき、武関を攻めた。武関都尉の硃萌がくだる。右隊大夫の宋綱を殺す。西して湖県(弘農郡)をぬく。
莽愈憂,不知所出。崔發言:「《周禮》及《春秋左氏》,國有大災,則哭以厭之。故《易》稱『先號啕而後笑』。宜呼嗟告天以求救。」莽自知敗,乃率群臣至南郊,陳其符命本末,仰天曰:「皇天既命授臣莽,何不殄滅眾賊?即令臣莽非是,願下雷霆誅臣莽!」因搏心大哭,氣盡,伏而叩頭。又作告天策,自陳功勞,千餘言。諸生小民會旦夕哭,為設飧粥,甚悲哀及能誦策文者除以為郎,至五千餘人。{帶足}惲將領之。王莽は、いよいよ憂いた。『周礼』春官の属である女巫氏の職と、『春秋左氏伝』宣公12年にもとづき、群臣をひきいて南郊にゆき、符命の本末をのべた。心臓をたたいて大哭し、伏して叩頭した。
『易経』同人卦によれば、泣いたあと、いいことがある。王莽の功績をのべた1千余言の天策をつくり、暗誦してくれた人を、郎に採用した。5千人が暗誦をして、新室に取り立てられた。帯惲が、採用された者をひきいる。
ぼくは思う。王朝の末期を、ここまで詳細に書いてくれることも、あまりなかろう。読めることに、感謝します。ウソがまじっているかも知れないがw
莽拜將軍九人,皆以虎為號,九曰「九虎」將北軍精兵數萬人東,內其妻子宮中以為質。時省中黃金萬斤者為一匱,尚有六十匱,黃門、鉤盾、臧府、中尚方處處各有數匱。長樂禦府、中禦府及都內、平准帑藏錢、帛、珠玉財物甚眾,莽愈愛之,賜九虎士人四千錢。眾重怨,無鬥意。九虎至華陰回溪,距隘,北從河南至山。于匡持數千弩,乘堆挑戰。鄧曄將二萬餘人從閿鄉南出棗街、作姑,破其一部,北出九虎後擊之。六虎敗走。史熊、王況詣闕歸死,莽使使責死者按在,皆自殺;其四虎亡。三虎郭欽、陳□、成重收散卒,保京師倉。王莽は、九虎将軍を任命した。9人のうち6人は敗走した。内訳は、2人は自殺、4人が逃亡。残り3人は、京師の倉を守った。
『三国演義』の五虎将軍につうじる。任命したあと成果がないのも、蜀漢に似ている。「形から入る」のは、象徴界においては有効だが、現実界である戦場では、役に立たない。戦時の官制や将軍の編成は、流動的で美しくないほうが、実態に即してうまく動くのだ。ぼくは思う。詳細は上海古籍6209頁。抄訳どころか、省略しちゃった。
鄧曄開武關迎漢,丞相司直李松將二千餘人至湖,與曄等共攻京師倉,未下。曄以弘農掾王憲為校尉,將數百人北度渭,入左馮翊界,降城略地。李松遣偏將軍韓臣等徑西至新豐,與莽波水將軍戰,波水走。韓臣等追奔,遂至長門宮。王憲北至頻陽,所過迎降。大姓櫟陽申碭、下邽王大皆率眾隨憲,屬縣□嚴春、茂陵董喜、藍田王孟、槐裏汝臣、盩厔王扶、陽陵嚴本、杜陵屠門少之屬,眾皆數千人,假號稱漢將。鄧曄は、武関をひらいて、漢兵をむかえた。丞相司直の李松は2千をひきいて湖県にくる。鄧曄と李松が(三虎将軍の守る)京師倉を攻めた。下せない。
ぼくは思う。九虎将軍が、3分の1しか残っていないが、機能している!鄧曄は、弘農掾の王憲を校尉とする。数百をひきい、王憲は渭水を北にわたり、左馮翊の境界に入り、城と地をうばう。李松は、偏將軍の韓臣らを西して新豐にゆかす。莽新の波水將軍は逃げた。韓臣らは王莽を追って、長門宮に入る。
銭大昭はいう。『後漢書』では波水将軍の竇融とする。孟建(班固)が歴史を編纂するとき、外戚の竇氏が貴盛だったので、莽新の波水将軍のくせに敗れて逃げた、竇融の名をはぶいた。王憲は北して、頻陽にゆく。通過した場所はくだる。大姓である櫟陽の申碭、下邽の王大らが、王憲にしたがう。三輔の諸県で大姓がくだり、数千になる。「漢将」を仮号する。
ぼくは思う。「漢室」が復興することは、自明でない。また、王莽を軍事的に倒した者が、漢室を復興することは、自明でない。いま鄧曄らは、劉氏を頂いていない。また鄧曄は、更始帝に合意していない。とりあえず「王莽以外なら、漢室じゃないか」という、ザックリとした連想があるだけ。みな漢室の他を知らないから。鄧曄の軍が通過したところでは、現地の大姓(豪族)が、つぎつぎと漢に降伏した。豪族たちは、漢将を名のった。
隗囂が長安を攻める
時李松、鄧曄以為,京師小小倉尚未可下,何況長安城!當須更始帝大兵到。即引軍至華陰,治攻具。而長安旁兵四會城下,聞天水隗氏兵方到,皆爭欲先入城,貪立大功鹵掠之利。ときに李松と鄧曄は、京師にある小さな穀倉を(三虎将に妨害されて)落とせない。長安など落とせない。更始帝の大軍が、到着するのを待って、華陰で攻具を準備する。だが、天水郡の隗囂が到着し、四方から長安に攻めかかった。みな真っ先に王莽を討ち、略奪の利益を得たい。
ぼくは思う。ふつうに、ワクワクする軍記物だ。考察の余地なし。注意したいのは、隗囂や鄧曄、更始帝が滅ぼそうとしているのは、前漢=莽新の長安である。前漢、莽新、後漢のあいだに、区切のスラッシュをひくなら、莽新と後漢のあいだである。つまり、あたかも統一秦が敗れたように、前漢=莽新が滅ぼされようとしている。鄧曄が「漢兵」と名乗っているからといって、だまされてはならない。更始帝が「劉氏が復興すべきだ」と言っても、政体に連続性はない。
後漢は、前漢(=莽新)を滅ぼして天下統一した、統一王朝である。というか、隗囂は光武帝のライバルになる。光武帝は「前漢の後継者」として、隗囂と戦ったのでない。前漢=莽新を滅ぼした利益をめぐり、その配分をかけて戦ったのだ。
もし光武帝が事実をすんなり受け入れれば、莽新はトラウマとして抑圧されなかった。だが後漢が、前漢と継承し(ウソ、長安を滅ぼすことに加担したくせに)、莽新を否定し(ウソ、儒教を重んじ、洛陽を首都にしたところから莽新のマネだ)たという建前を採用したから、莽新は抑圧された。
莽遣使者分赦城中諸獄囚徒,皆授兵,殺豨飲其血,與誓曰:「有不為新室者,社鬼記之!」更始將軍史諶將度渭橋,皆散走。諶空還。眾兵發掘莽妻子父祖塚,燒其棺槨及九廟、明堂、辟雍,火照城中。或謂莽曰:「城門卒,東方人,不可信。」莽更發越騎士為衛,門置六百人,各一校尉。王莽は囚徒を赦し、軍団に編成した。豨の血をすすり、新室のために戦うことを誓わせた。外戚の更始将軍の史諶が囚徒の兵を率いて、渭橋をわたった。みな散って逃げた。史諶は兵を失って還る。囚徒の兵たちは、王莽の、妻子や父祖の陵墓をあばき、その棺槨、九廟、明堂、辟雍を焼いた。或者が王莽にいう。「城門の兵士は山東の人だ。信じられない」と。
ぼくは思う。莽新を傾けたのは、山東地方の盗賊でした。旧秦をつぐ関中政権にとって、旧斉は、2百年が経ってもライバルでありつづけた。王莽は、門兵を越人に代えた。門ごとに校尉と、兵6百人おいた。
ぼくは思う。越人は、辺境すぎて、地域のアイデンティティがないのか。ただの屈強なお人形だ。後漢末には、呉越の誇りがつよく出てくるのだが。
冬、王莽が斬られ、新将が死に絶える
十月戊申朔,兵從宣平城門入,民間所謂都門也。張邯行城門,逢兵見殺。王邑、王林、王巡、{帶足}惲等分將兵距擊北闕下。漢兵貪莽封力戰者七百餘人。會日暮,官府邸第盡奔亡。二日己酉,城中少年硃弟、張魚等恐見鹵掠,趨訁雚並和,燒作室門,斧敬法闥,呼曰:「反虜王莽,何不出降?」火及掖廷承明,黃皇室主所居也。10月戊申ついたち、漢兵は、宣平門(都門)から長安城に入った。
師古はいう。長安城の東門、北頭を出た第一の門である。張邯は城門で、兵に遭遇して殺された。王邑、王林、王巡、帯惲らは、北門を防衛する。漢兵のうち、王莽軍と力戦して、爵位を封じられた者は7百余人いる。日が暮れ、官府や邸第は、莽新の官僚がいなくなった。2月己酉、長安城中の硃弟と張魚が、室門を焼いた。
ぼくは思う。放火した名もなき2人は「放火の功績」により、更始帝か光武帝に褒賞されたのだろう。だから、名が残った。長安の建物の構成は、上海古籍6211頁。長安城中の人々は「反虜の王莽よ。なぜ出てきて降らないのか」という。掖庭の承明殿に引火した。黃皇室主(王莽の娘・平帝の皇后)の住居である。
ぼくは補う。皇后伝で、王皇后は火のなかに身投げした。前漢と莽新は、1つの連続した政体である。この王皇后の身を焼くことで、それが明らかになった。
莽避火宣室前殿,火輒隨之。宮人婦女啼呼曰:「當奈何!」時莽紺袀服,帶璽韍,持虞帝匕首。天文郎桉栻於前,日時加某,莽旋席隨斗柄而坐,曰:「天生德於予,漢兵其如予何!」莽時不食,少氣困矣。王莽は、宣室前殿に避難する。宮人や婦女は「どうしよう」という。ときに王莽は璽綬をおびて、虞帝の匕首をもつ。
胡三省はいう。虞帝は伝説の人物である。なぜ王莽が、虞帝の匕首を持つのか。偽物だ。バーカ。ぼくは思う。王莽は、偽物であっても(偽物だから)虞帝の匕首に、呪術的な力が宿ると信じているのだ。呪術を全否定する近代人より、敵の呪術だけを否定する前近代人のほうが、態度が煮えきらない。天文郎に日時を占わせた。王莽は「天は私に徳を与えた。漢兵が私をどうにかできるか」という。王莽は食べておらず、気力が減退する。
天文郎については、上海古籍6211頁。はぶく。
師古はいう。『論語』は孔子の言葉を載せる。「天は私に徳を与えた。桓魁が私をどうにかできるか」と。王莽はこのセリフを引用したのだ。ぼくは補う。史家は、このセリフを引用したのだw
ぼくは思う。ほんとかウソか分からない(と断ることが野暮な)のが、白川静『孔子伝』です。わりに面白いのに、何回も読み始めては、停滞している。この孔子の危機についても、説明と推測がついていた。再着手せねば。
三日庚戌,晨旦明,群臣扶掖莽,自前殿南下椒除,西出白虎門,和新公王揖奉車待門外,莽就車,之漸台,欲阻池水,猶抱持符命、威鬥,公、卿、大夫、侍中、黃門郎從官尚千餘人隨之。王邑晝夜戰,罷極,士死傷略盡,馳入宮,間關至漸台,見其子侍中睦解衣冠欲逃,邑叱之令還,父子共守莽。軍人入殿中,呼曰:「反虜王莽安在?」有美人出房曰「在漸台。」眾兵追之,圍數百重。臺上亦弓弩與相射,稍稍落去。矢盡,無以複射,短兵接。王邑父子、{帶足}惲、王巡戰死,莽入室。下□時,眾兵上臺,王揖、趙博、苗、唐尊、王盛、中常侍王參等皆死臺上。10月3日庚戌、早朝、王莽はわきを抱えられ、和新公の王揖が車で、未央宮の漸台に運ぶ。王莽は、符命と威鬥を手放さない。
ぼくは思う。命と同じくらい大事な、シニフィアン!ぼくはソシュールを、丸山圭三郎を中間にはさんで、勉強しようと思ってます。町田健『ソシュールと言語学』は、著者が慎重というか、科学的すぎて、ちょっとおもしろくない。公卿・大夫・侍中・黃門郎の從官は、1千余人の兵とともに従う。王邑は昼夜戦い、兵士が尽きたので、王莽のもとに還る。子の侍中の王睦が、衣冠を解いて逃げそうなので、叱って父子で王莽を守る。軍人が殿中に入り、「反虜の王莽はどこだ」という。美人が「漸台にいる」という。数百重にかこむ。
王邑の父子、帯惲、王巡は戦死した。王揖、趙博、苗訢、唐尊、王盛、中常侍の王參らは、みな臺上で死んだ。
商人杜吳殺莽,取其綬。校尉東海公賓就,故大行治禮,見吳問:「綬主所在?」曰:「室中西北陬間。」就識,斬莽首。軍人分裂莽身,支節肌骨臠分,爭相殺者數十人。公賓就持莽首詣王憲。憲自稱漢大將軍,城中兵數十萬皆屬焉,舍東宮,妻莽後宮,乘其車服。商人の杜吳が王莽を殺して、天子の綬をうばう。
ぼくは思う。王莽の首と、天子の綬は、どちらもシニフィアンなんだろう。どちらが重要なシニフィアンなのか、じつは判定がむずかしいw校尉する東海の公賓就は、かつて大行をやり、治禮を知る。
師古はいう。公賓が姓で、就が名。さきに礼を経治し、天子の綬を判別できた。沈欽韓はいう。『続百官志』によると、鴻臚の大行令は、治礼郎47人をつかさどる。
杜呉が持つのが、王莽の綬と気づいた。公賓就「綬主はどこにいたか」、杜呉「室中の西北にある陬間にいた」と。公賓就は王莽の首級を斬った。
ぼくは思う。杜呉は「商人」なので、自分が奪った物が、何なのか知らないのね。自分が殺した人が、誰なのか知らないのね。おもしろい。戦功を立てるにも、文化資本が必要なのだ。筋肉だけじゃ、王莽の綬ですら、宝の持ち腐れ。
沈欽韓はいう。『東観記』はいう。公賓就は、滑侯に封じられた。ぼくは思う。杜呉は封じられてないのだ。文化資本がないと、まったく功績がムダである。
ぼくは思う。ぼくらはテレビというメディアを通じて、政治家の顔を知っている。画質が改善されたので、政治家の身体性(わずかな顔色の変化)まで見ることができる。政治家は現実界に引きずり降ろされている。だが王莽の時代は、璽綬の形や色を、勉強するしかない。個人の身体的特徴に、テレビのある時代ほど政治的な意味がない。王莽の身体は、そりゃ存在しているのだが。それよりも、王莽が帯びる璽綬の形や色によって、王莽は認識される。象徴界が勝っている世界だ。
軍人は王莽の身体を分裂させ、支節・肌骨を臠分した。
ぼくは思う。王莽の暦のロジックのなかに、人間の身体の部品の数と、天地の真理の数を、一致させる話があったはず。王莽の身体は、部品単位に解体されて、ついに天を象徴するものになった。王莽の身体は、死んだら「もの自体」に戻るかと思いきや。死んでもなお、象徴界のなかに留まりつづけた。
ぼくは思う。おなじくバラされた敵役は、項羽である。史家のニーズにより、前漢の敵・項羽と、後漢の敵・王莽は、解体シーンがリアルに記された。敗者はいつも、バラされたんだろう。ただ史書に残らないだけで。候補者を探すのは、楽しいことですw王莽の部品を奪いあい、数十人が死んだ。公賓就は、王莽の首級を王憲にとどけた。王憲は漢大將軍を自称する。城中の兵・数十万數が、みな王憲に属した。東宮にいて、王莽の後宮の女を妻として、車服を乗っとる。
六日癸醜,李松、鄧曄入長安,將軍趙萌、申屠建亦至,以王憲得璽綬不輒上、多挾宮女、建天子鼓旗,收斬之。傳莽首詣更始,懸宛市,百姓共提擊之,或切食其舌。10月6日癸丑、李松と鄧曄が、長安に入る。将軍の趙萌と申屠建も、長安に到る。
沈欽韓はいう。『東観記』では申屠志である。王憲は璽綬と宮女、天子の鼓旗を独占したので、鄧曄に殺された。王莽の首は、更始帝に送られ、宛城でさらされた。万民は、王莽の首を撃った。ある人は、王莽の舌を切りとり、食べた。
莽新の諸将の後始末
莽揚州牧李聖、司命孔仁兵敗山東,聖格死,仁將其眾降,已而歎曰:「吾聞食人食者死其事。」拔劍自刺死。及曹部監杜普、陳定大尹沈意、九江連率賈萌皆守郡不降,為漢兵所誅。莽新の揚州牧である李聖と、司命の孔仁は、山東で敗れて死んだ。李聖は格死し、孔仁は軍をひきいて降る。「食邑をもらった人は、食邑を与えた者のために死ぬ」といい、抜剣して自殺した。
ぼくは思う。『贈与論』の端的な表現!曹部監の杜普、陳定大尹の沈意、九江連率の賈萌は、みな郡城を守る。漢兵に誅された。
沈欽韓はいう。『寰宇記』と『輿地志』はいう。豫章太守の賈萌は、安世侯の張普とともに、兵を興して王莽を誅そうとした。張普は莽新にねがえった。賈萌は張普を新茨の野で伐ったと。
『水経注』はこの戦地を載せる。賈萌が張普と戦った場所に、賈萌廟がある。賈萌が張普に殺害されたので、廟が立てられた。『寰宇記』はいう。賈萌は、安成侯の張普とともに、王莽を打倒しようとしたが、張普がうらぎった。王莽は賈萌をとらえて殺した。人々は感嘆して、賈萌の廟をつくってあげた。
ぼくは思う。ねがえって莽新に味方する人も、いるんだなあw この事件は、王莽が戦死するより前のことだろう。更始帝は制御できないが、他の地域の反乱は、ちゃんと鎮圧していた。王莽から爵位をもらった者が、各地で味方してくれた。
全祖望はいう。『御覧』にひく謝承『後漢書』では、賈萌は王莽を討って、死んだという。『漢書』王莽伝では、賈萌は莽新の九江太守となり、漢兵を拒んで死んだという。賈萌の官職も、莽新への敵味方の態度も異なる。九江太守と豫章太守として、2人の賈萌がいたのか。
賞都大尹王欽及郭欽守京師倉,聞莽死,乃降,更始義之,皆封為侯。太師王匡、國將哀章降雒陽,傳詣宛,斬之。嚴尤、陳茂敗昆陽下,走至沛郡譙,自稱漢將,召會吏邱。尤為稱說王莽篡位天時所亡、聖漢復興狀,茂伏而涕泣。聞故漢鐘武侯劉聖聚眾汝南稱尊號,尤、茂降之。以尤為大司馬,茂為丞相。十余日敗,尤、茂並死。郡縣皆舉城降,天下悉歸漢。賞都大尹の王欽は、郭欽と京師倉を守る。王莽が死んだと聞き、降った。更始帝は、王欽と郭欽を封侯にした。太師の王匡、國將の哀章は、洛陽が陥落して、宛城に送られて斬られた。
嚴尤と陳茂は、昆陽で敗れて、沛郡の譙県ににげた。漢將を自称して、吏邱をあつめる。厳尤は「王莽は簒奪して天の時を亡った。聖漢が復興した」と文書を作成した。陳茂は伏して涕泣した。
もと漢の鐘武侯の劉聖は、汝南で兵をあつめて尊号を賞した。ぼくは思う。出やがった!自称する奴らが。王莽が死んで初めて、タガが外れたのだ。後漢末よりも、自称をやり放題の状況が生まれた。5人の天子が並ぶ。散発した天子をカウントすると、もっと増える。
『後漢書』劉玄伝では「劉望」とされる。ぼくは思う。劉玄のあざなは、劉聖公だった。だから、文字をズラして、ごまかしたのかな。
厳尤と陳茂は、劉聖にくだる。厳尤が大司馬、陳茂が丞相となる。10余日で敗れて、厳尤も陳茂も死んだ。郡県は、すべて城をあげて降り、天下は全てが漢室(更始帝)に帰した。
ぼくは思う。「漢」という便利な用語で、班固は複雑なプロセス(更始帝と光武帝の対立、光武帝の独立戦争)を削除している。これは『漢書』だからね。王莽が死ねば、もう良いのだ。下手なことを書いて、光武帝の威光を減じたらダメだし。
初,申屠建嘗事崔發為《詩》,建至,發降之。後複稱說,建令丞相劉賜斬發以徇。史諶、王延、王林、王吳、 趙閎亦降,複見殺。初,諸假號兵人人望封侯。申屠建既斬王憲,又揚言三輔黠共殺其主,吏民惶恐,屬縣屯聚,建 等不能下,馳白更始。はじめ漢の申屠建は、かつて莽新の崔發に『詩経』を学んだことがある。崔發は、申屠建に降伏した。崔發は、符命について(符命では漢室の天命がないと)発言した。申屠建は、更始帝の丞相の劉賜に崔發を斬らせた。
外戚の史諶と、王延、王林、王吳、 趙閎は、みな更始帝に降って殺された。
はじめ(漢の名を)假號した兵士は、更始帝から封侯にしてもらいたい。申屠建は(王莽の財宝を独占した)王憲を斬った。また申屠建は、「三輔の吏民は主君を殺した(更始帝が封爵しなくてよい)」と揚言した。吏民は惶恐して、属県にあつまる。申屠建は、吏民を征圧できない。
申屠建は、更始帝に(三輔の吏民が漢の名を仮りて、王莽の討伐に協力したから、彼らに本物の漢室の封爵を賜るよう)報告した。
ぼくは思う。申屠建の動きが気になるが。これは更始帝の政権を分析するときに、見るべきこと。「王莽に反対する」では大同団結があったが、王莽が倒れてみれば、利権を争って、ここから戦いが激化する。ともあれ王莽伝は、そろそろ終わりです。閉じる
- 更始2-3年、更始帝から光武帝へ
更始2年、更始帝のおだやかな征圧
二年二月,更始到長安,下詔大赦,非王莽子,他皆除其罪,故王氏宗族得全。三輔悉平,更始都長安,居長樂宮。府藏完具,獨未央宮燒攻莽三日,死則案堵複故。更始至,歲餘政教不行。更始2年(後24)2月、更始帝は長安にきた。大赦した。王莽の子を除き、罪を除いた。王氏の宗室を殺さない。三輔は全て平らいだ。更始は長安に都し、長楽宮にいる。未央宮だけが3日間の戦いで焼けたが、それ以外の建屋は保全された。更始帝がきて、1年余で政教は滞った。
ぼくは思う。光武帝の登場が近づいてきた。
更始3年、赤眉が長安を前漢ごと滅ぼす
明年夏,赤眉樊崇等眾數十萬人入關,立劉盆子,稱尊號,攻更始,更始降之。赤眉遂燒長安宮室市里,害更始。民饑餓相食,死者數十萬,長安為虛,城中無人行。宗廟園陵皆發掘,唯霸陵、杜陵完。六月,世祖即位,然後宗廟社稷複立,天下艾安。更始3年夏、赤眉の樊崇ら数十万が入関した。劉盆子を皇帝に立てた。更始帝は劉盆子に降った。赤眉は長安の宮室・市理を焼き、更始帝を殺した。
ぼくは思う。王莽が畏れた「現実界の身体」は、王莽に直接は飛びかからず、更始帝に飛びかかった。赤眉による長安の破壊を、時代の画期とみるべきだ。だから、前漢、王莽、更始、赤眉、光武、のあいだに区別のスラッシュを引くなら、更始と赤眉のあいだだ。光武帝は、だいぶ遅れてやってくる。というか、王莽と関係ないじゃん。昆陽で、たまたま遭遇したが、光武帝が主戦力でもなかった。
ぼくは思う。この「前王朝との関係の薄さ」でいくと、王莽と光武帝の関係は、献帝と司馬炎の関係に似ているかも知れない。更始帝の時代はちょっと短いので埋没したが、曹魏の時代はちょっと長いので、独立した時代として認識された。しかし構造は同じだ。更始帝の重臣が光武帝となり、曹魏の重臣が西晋をつくった。光武帝が更始帝を見殺しにしたように、西晋は曹魏に冷淡であった。
人民は飢えて相食む。死者は数十万である。長安は空虚となり、城中に人の往来がない。
ぼくは思う。南陽の更始帝は、前漢や新室の内側から出てきた、ただの改革勢力。山東の赤眉は、前漢や新室の外側からやってきた、物騒な革命勢力だ。
ちなみに、この王莽伝下だけは、3年前に書いたものを『補注』で補いながら、大幅に加筆しています。いま「内側の改革勢力」という注釈を読んで、なるほど「そういう考え方もある、いいことをいう」と思ってしまったw霸陵と杜陵をのこし、宗廟と園陵は発掘された。
ぼくは思う。幸運な覇陵と杜陵は、だれの陵墓だっけ。6月、光武帝が即位した。光武帝は、宗廟と社稷を復興した。天下は平安となりましたとさ。130303
劉フンはいう。王莽は38歳で大司馬となり、51歳で居摂し、54歳で真皇帝となり、68歳で誅死した。居摂3年で、初始元年と改元した。始建国が5年、天鳳が6年、地皇が4年だった。
班固による賛
贊曰:「王莽始起外戚,折節力行,以要名譽,宗族稱孝,師友歸仁。及其居位輔政,成、哀之際,勤勞國家,直道而行,動見稱述。豈所謂「在家必聞,在國必聞」,「色取仁而行違」者邪?莽既不仁而有佞邪之材,
又乘四父歷世之權,遭漢中微,國統三絕,而太后壽考為之宗主,故得肆其奸惹,以成篡盜之禍。推是言之,亦天時,非人力之致矣。班固の賛はいう。王莽は外戚として官歴をはじめ、宗族に「孝」、師友に「仁」とされた。成帝と哀帝のとき、国家のために輔政した。『論語』で孔子が子張に言ったように、王莽は「不仁が仁者のふりをして、外見と行動にズレがある」ではないか。王莽は不仁だから、侫邪な人材を用いる。
王莽は4世の外戚で、漢室は3たび皇統が絶えた。
新宮一成『夢分析』によると、3はファルスを象徴する数字で、4は結婚を象徴する数字だ。前漢の皇帝はファルスで、外戚の王氏は婚姻する者。みごとに一致する。
先謙はいう。王鳳、王音、王商、王根が秉政した。王莽の諸父だ。王元后が臨朝している。王莽の簒奪は、防げなかった。これは「天の時だから、人力では致せない」不可抗力である。
ぼくは思う。ここまでは班固は認めちゃうのね。
及其竊位南面,處非所據,顛覆之勢險於桀、紂,而莽晏然自以黃、虞復出也。乃始恣睢,奮其威詐,滔天虐民,窮凶極惡,流毒諸夏,亂延蠻貉,猶未足逞其欲焉。是以四海之內,囂然喪其樂生之心,中外憤怨,遠近俱發,城池不守,支體分裂,遂令天下城邑為虛,丘□發掘,害遍生民,辜及朽骨,王莽の皇位には根拠がない。夏桀王や殷紂王よりも倒錯している。黄帝や虞舜の子孫を自称して、天下の民をだました。四夷の異民族との関係を乱したが、王莽の欲望は充足されない。
ぼくは思う。班固は、王莽が貪欲に、自分の権威づけをしたことを、怒っている。祖先を尊い者といい、四夷を侮辱したことが、貪欲より発したことと理解している。内外が憤怨して、王莽の長安城をぬき、王莽の身体を切り刻んだ。天下の城邑は空虚となり、丘陵は盗掘された。民は害され、骨が晒された。
自書傳所載亂臣賊子無道之人,考其禍敗,未有如莽之甚者也。昔秦燔《詩》、《書》以立私議,莽誦《六藝》以文奸言,同歸殊途,俱用滅亡,皆炕龍絕氣,非命之運,紫色蛙聲,余分閏位,聖王之驅除云爾!記録にのこる乱臣賊子のなかで、王莽ほど無道で、王莽ほど禍敗を味わった者はいない。王莽は『詩経』『尚書』をかってに解釈し、『六芸』により文飾して、奸悪な文書をつくった。『易経』にいう、徳がないが高位にある者だ。天命も持たない者だ。
王莽とは、紫のように、赤と青の中間色である。音楽の調律をはずれた雑音である。閏月のように余計な時代である。以上のように秩序を逸脱したものは、聖王の光武帝によって駆除されたと言うべきだ。130303
ぼくは思う。この時代の批評は、秩序の構築をほめ、逸脱をけなす。ここで班固は、きわめて「誰が書いても同じ」文書をつくった。これだけが班固の本心と見なすと、話がつまらなくなる。王莽伝の末尾の賛なんて、書籍のあとがきと同じで、本文を読んでないやつも読むのだ。ここがいちばん、防御が固いと見なせる。
班固が編纂の過程でこめた、いろんな「フロイト的書き間違い」から、班固の歴史観をこれまで見てきた。「書き間違い」でないにしろ、不自然な表現がいっぱいあった。ぼくらが王莽伝を読むことは、班固を精神分析することと同義だったのだ。という結語にて、おしまい。王莽伝下は10日間の作業でしたが、会社の飲み会が週2回あるなどのハプニングをはさんだ「紫色の1週間」でした。閉じる