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- 王氏の祖先から、父の王禁まで
王莽のおば、元帝の皇后、成帝の母、王政君をやります。『漢書』巻68・元后伝です。かつて3年半前、ちくま訳だけを見て、エッセイ風にこの列伝を扱った。
『漢書』元后伝で、王莽を知る/列伝要約と考察
その内容は以下のとおり。/『漢書』のいじわる。偶然の外戚権力。頼れる父性、王鳳。伝国璽を投げた心境。壊された元帝の廟。王莽はなぜ恩知らずか。
今日は『漢書補注』を見て、やろうと思います。
この列伝の主人公は、呼称の変化が激しい。姓名である「王政君」では、ピンとこないので、列伝のタイトルに基づいて「王元后」で原則として統一します。皇后になる前も、夫の元帝が死んだあとも、一貫して「王元后」と記します。
王莽の祖先は、虞舜、斉王の田氏
孝元皇后,王莽之姑也。莽自謂黃帝之後,其自本曰。孝元皇后は、王莽のおば。
周寿昌はいう。『後漢書』張衡伝はいう。永平のとき、張衡は侍中となり上疏した。『漢書』王莽伝には、簒奪の記事があるだけである。年月を編集して、災害と吉祥を記して、「元后本紀」をつくれと。班固は、この「元后伝」を外戚伝のあとにおく。張衡の主張を、班固は用いなかった。けだし元后が葬られたのは、莽新の建国5年である。その11年後に王莽が死んだ。もし王莽伝を本紀の体裁にしなければ、11年の記事を書けない。
ぼくは思う。『漢書』は、王莽までカバーする必要があったのか。後漢の張衡は、「莽新の11年の記事は、必要ない」という前提で話しているように見える。周寿昌の心配は、的はずれである。思うに『漢書』は、後世にいう「断代史」の意識で書かれていない。なるべく広い範囲を、すなわち可能な限り今日に近いように、という思いで『漢書』が作られたのだろう。だから王莽伝がある。後漢の記事も、班氏が『東観漢記』などで書いていたらしいし。
王莽はみずから「黄帝の子孫だ」と自称した。王莽『自本』の自作系図はいう。
ぼくは思う。班固は、「王莽の血筋に信憑性が薄いのは、自己申告だからだ」と言いたいようだ。王莽の血筋の出典は、王莽自身が書いた本であることを、わざわざ暴露している。しかし、他人の系図を、どこの誰が書くものか。よほどの暇人か、お節介焼きです。自分の血統は自分で管理する。必要があれば、自分で報告する。王莽は、別にマナー違反をしたわけじゃなかろう。まるで日本中世の裁判のように。原告が証拠を集める。原告が、資金もしくは情熱が尽きたら、自動的に被告の勝訴する。鎌倉幕府の制定した規則ですら、幕府が裁判の場で提示するのでなく、原告が証拠を持ちだして、幕府に対してすら説明しなければならない。
ぼくは思う。「自本」というネーミングセンスは、公正さを欠くイメージを読者に与えるから、いまいちだったが。プライベートな記録でも、公的な意味を持たせたければ、もう少しコピーライティングのセンスが必要だった。
ぼくは思う。恐らく漢代、国家権力が系図を管理する仕組みはなかっただろう。官職は世襲でない。国家が管理する理由がない。また各個人も、系図を管理する動機が起きにくい。
ぼくは思う。こちらも日本史との比較により、性質が浮き上がる。日本は世襲への親和性が高い。『日本系譜総覧』という、ぼくが中学生のときに筆写して遊んだ本があるのだが、日本人の系図は「とにかく長い」のが特徴だ。本郷和人氏によれば、才覚で就任した1世代限りの官僚はバッシングされるが、世襲の議員は得票でき、むしろ歓迎される。ゆえに日本人は、やたらと系図を知りたがる&作りたがる。漢代は、「祖先にこんな有能な官僚がいた」という個別エピソードとか、血縁集団の序列を決める世代カウント(排行)は管理されていそうだが、系図に関してはどうだろう。もしかしたら、『漢書』諸侯王表、世系表などにあるように、一覧「表」で理解していたのか。っていうか班固が『漢書』をまとめるとき、各家に系図を提出してもらったのかな。
ぼくは思う。諸侯に到らぬ官僚の家なら、系図のノー管理もあり得るだろう。では、皇帝の家は?というか、血筋が政治的に重要な意図を持つのは、皇帝を輩出する可能性がある家に限られるだろう。ゆえに「系図を管理(創出)すること」は大逆罪の一歩手前ではなかろうか。王莽だって『自本』の内容の正誤は、じつはそれほど重要なテーマでない。むしろ、『自本』という系図を管理(創出)したことを以て、帝位に色気を感じていたことの証明になる。班固の編集の都合上、王莽の祖先がここに記されるが。ほんとうは王莽が「孺子嬰に政権を奉還したくない」とき、この『自本』が作られたはずだ。ゆえに王莽の祖先の話は、(一見すると時系列が混乱するのだが)王莽の皇帝即位の直前に置かれるべきである。歴史の「語り」としては、それが正しい。
ぼくは思う。系図は大きく2つに分類できる。男系の系図と、婚姻の系図だ。前者はスッキリと原稿用紙に書くことができる。ウェブで、テキストを打っても成立する。後者は複雑だから、糸をほぐすセンスが必要だ。ウェブでは図形にせざるを得ない。問題は、漢代の人々が、どちらの系図により近いかたちで、血縁を理解していたかだ。これにより、彼らの生活空間をかなり正確に把握できそう。「外戚」という権力が、どういう「図」で理解されていたのか。両漢を考えるとき、すごく重要では?やばい!すごくおもしろいテーマを見つけた。
ぼくは思う。系図の形式としては、他にも、「私」を基点にして、父母、父母の父母、と祖先を2乗する系図がある。女系をスッキリ結んだ系図もあるかも知れない。だが、前近代の歴史の参考とするなら、これは使いにくいだろう。血縁や系図には「自明な理解の仕方」があるのでなく、主義主張ありきで描かれ方が決まるのだ、という話をしたかった。逆に系図を見れば、彼らの理解を窺うことができるはずだ、と言いたかった。
黃帝姓姚氏,八世生虞舜。舜起媯汭,以媯為姓。 至周武王封舜後媯滿於陳,是為胡公,十三世生完。完字敬仲,犇齊, 齊桓公以為卿,姓田氏。十一世,田和有齊國,(三)〔二〕世稱王, 至王建為秦所滅。項羽起,封建孫安為濟北王。至漢興,安失國,齊人謂之「王家」,因以為氏。黄帝は、姓を姚氏という。8世の孫は虞舜である。虞舜は媯汭に起ち、「媯」を姓とした。
師古はいう。媯(女+為)は、川水の名である。この川水べりに住んだので、虞舜はこれを姓とした。
渡邉義浩先生の『王莽』はいう。王莽は自作の系図『自本』で、黄帝と舜の末裔であると強調し、胡公、敬仲(田完)、田安の世系であると明言する。胡公と敬仲に関わる記事は、『春秋』3伝のなかで『左氏伝』だけに見られる。敬仲は「義」「仁」を称えられ、子孫が斉王になると予言される。『自本』と整合する。
同じく『王莽』はいう。七廟合祀が最終的に確立したのは、後05年、王莽が上奏して、宣帝の父の廟を毀すことを定めたことによる。王莽による宗廟の理解は、自らの宗廟を作り上げた際の王莽伝の記事に示される。『左氏伝』の経義に基づく劉歆の説に従って、王莽は自らの宗廟を樹立した。(中略)劉向・劉歆の行った校書は、固定した形を持っている何種類かの本を比較検討して、字句を正すものではない。不確定な巻ごとに別々になっていることさえある素材を、1つの書籍としてまとめる作業だと考えられる。政治状況を反映する字句を紛れ込ませることは、比較的容易であった。(中略)父の劉向は、宗室の生まれを誇りとした。『列女伝』は外戚権力に対する批判である。子の劉歆は、黄門郎として王莽の同僚となった。自分を抜擢してくれた王莽に思い入れがあった。『左氏伝』に王莽に有利な記述を差しこむことに大きな抵抗はなかったと思われる。
同じく『王莽』はいう。後07年、東郡太守の翟義が蜂起した。王莽は、政権を孺子嬰に返還する意図があることを述べる「大誥」を作成し、桓譚を派遣して全国に告知した。王莽は新を建国するため、孺子嬰に政権を返さない正統性を必要とした。ここで、漢火徳説・漢堯後説と、王莽舜後説とが結合する。(中略)王莽は後09年、『尚書』堯典篇「舜は堯の政治の終わりを文祖(堯の廟)に受けた」に基づき、高祖劉邦の高廟を「文祖廟」と改名した。高祖を堯と位置づけ、その後裔である高祖の廟を文祖廟とすることで、舜の後裔たる王莽が、堯舜革命を規範に漢新革命を成し遂げる正統性を主張した。(中略)王莽が今文『尚書大伝』の周公を典拠すると、やがて政治を孺子嬰に奉還しなければならない。この限界を超えて、古文『左氏伝』を典拠に、漢堯後説と王莽舜後説を立証することにより、王莽は自らの地位を「居摂践祚」から天子へと推しあげたのである。
ぼくは思う。時系列が前後するけど、王莽の祖先が決定されたのは、古文学者の劉歆による『左氏伝』編纂事業と、二人三脚である。翟義の反乱を受け、「孺子嬰に政権を奉還する」と約束してしまったが、この約束を破るために設定された「祖先の神話」である。はじめから重いなあw
周武王が、虞舜の後裔である媯満を、陳国に封じて胡公とした。13世の孫が媯完である。媯完は、あざなを敬仲という。斉国に出奔して、斉桓公から卿にしてもらい、田氏を姓とする。媯完=田完から11世のち、田和が斉国を領有した。3世のちに斉王を称した。斉王の田建にいたり、秦国に滅ぼされた。項羽が起つと、田建の孫・田安を済北王とした。
周寿昌はいう。項籍伝はいう。項羽は黄河を語り、趙国をすくう。田安は済北の数城をくだして、兵を率いて項羽に降った。項羽は田安を済北王とした。劉昭はいう。済北は、前漢の旧国である。旧国とされる理由は、項羽が田安を封じたからである。前漢が興り、田安は済北国を失った。もと斉王だったので、斉人に「王家」と呼ばれた。ゆえに「王」を姓とした。
ぼくは思う。斉を支配した田氏というのは、やたら人数が多い。宮城谷氏の小説で、田横について読んだが、田氏だらけ!蜀漢の軍師で法正がいるが、法正の祖先も田氏だ。このサイト内の「元は斉王家、法正の先祖たち」でやりました。
元は斉王家、法正の先祖たち
王莽の曽祖父、王賀が魏郡にゆく
文、景間,安孫遂字伯紀,處東平陵, 生賀,字翁孺。為武帝繡衣御史,逐捕魏郡羣盜堅盧等黨與,及吏畏懦逗遛當坐者, 翁孺皆縱不誅。它部御史暴勝之等奏殺二千石,誅千石以下, 及通行飲食坐連及者,大部至斬萬餘人,語見酷吏傳。翁孺以奉使不稱免, 嘆曰:「吾聞活千人有封子孫,吾所活者萬餘人,後世其興乎!」文帝と景帝のあいだ、王安の孫・王遂(あざなは伯紀)が、東平陵(済南郡)に居住する。王遂の子は、王賀(あざなは翁孺)である。王賀は、武帝の繡衣御史となる。王賀は、魏郡の羣盜である堅盧とその党与を捕らえた。群盗にひるんだ(職務を履行しなかった)吏人も、群盗に連坐した。だが王賀は、群盗も吏人も殺さない。它部御史の暴勝之らは、2千石を殺し、1千石より以下を誅した。
師古はいう。暴勝之は、「2千石を殺したい」と上奏し、許可を受けてから殺した。1千石より以下は、上奏する必要がなく、即座に殺した。群盗に関係し、通行や飲食して連坐した者は、1万余人が斬られた。酷吏傳☆にある。王賀は、職務(群盗と吏人の処罰)が足りないので、罷免された。王賀は歎じた。「1千人を活かせば、子孫は封建されると聞く。私は1万余人を活かした。後世、わが王氏は振興するだろう」と。
ぼくは思う。美談っぽくて煙に撒かれるが、騙されてはいけない。けっきょく1人も助かっていない。殺された事実は、動かない。王駕がやったのは、死刑のタイミングの引き伸ばしだ。本当に助けるなら、朝廷に働きかけて、政治的に解決してくれないと!「だから王氏は、栄え損ねたのだ」と結論を付けられても仕方ないと、ひそかに心配する。。
翁孺既免,而與東平陵終氏為怨,乃徙魏郡元城委粟里,為三老,魏郡人德之。元城建公曰: 「昔春秋沙麓崩,晉史卜之,曰:『陰為陽雄,土火相乘, 故有沙麓崩。後六百四十五年,宜有聖女興。』其齊田乎! 元后始攝政,歲在庚申,沙麓崩後六百四十五歲。」 今王翁孺徙,正直其地, 日月當之。元城郭東有五鹿之虛,即沙鹿地也。 後八十年,當有貴女興天下」云。罷免されたのち王賀は、東平陵の終氏と、怨恨しあう関係になった。
沈欽韓が東平陵の位置を記す。上海古籍6011頁。『氏族略』で「陵終氏」という復姓が出てくるが、この部分の区切を誤ったものだ。魏郡の元城県の委粟里に移住して、三老となった。魏郡の人々に、王賀は徳とされた。元城の建公(元城の老人)はいう。「春秋晋の史官によると、この地にある沙麓山が崩れた645年後(今から80年後)、この地から聖女が興るらしい。いま王賀が移住してきた。斉王の田氏の子孫・王賀の家から、聖女が出るかも」と。
ぼくは補う。史官の話、予言の解釈について、上海古籍6011頁。陰気(王氏)が、陽気(漢室)をつぶして、土(王莽)と火(漢室)が相乗して、山(土徳)を崩して、、とか李奇が解釈している。ぼくは思う。「火が消えた」なら王氏に有利だが、「山が崩れた」では王氏に不吉である。この予言の解釈、莽新にとって大丈夫なのか?それとも班固が、「王氏が興隆する予言は、そのスタート段階から不吉だった」なんて言いたいのか。まさかね。ここは王莽『自本』を、班固が丸写ししているのだろう。でなければ、班固がこんな話を「創作」する必要がない。
ぼくは思う。こういうのは「老人」が言うからおもしろいんだなあ。分別ある男性の老人が、史書等に基づいて行う予言と。分別ない女子が、神がかって行う予言と。同じ「近代的には不合理」な発言でも、両者には有意な差がありそうな気がする。統計を取ったら、何かが言えるかも。王莽は「父性権力」である。元后伝で、ずっと男系の系図を述べてきた。ここは分別ある男性の老人が、王氏の興隆を落ちついて発言してくれるほうが、「似つかわしい」と思う。王莽もそういう神話を好みそう。だから莽新にとって、赤眉「呂母」の破壊力があるわけで。
王翁孺生禁, 字稚君,少學法律長安,為廷尉史。本始三年,生女政君,即元后也。禁有大志,不修廉隅,好酒色,多取傍妻,凡有四女八男:長女君俠,次即元后政君,次君力,次君弟;長男鳳孝卿,次曼元卿,譚子元,崇少子,商子夏,立子叔,根稚卿,逢時季卿。唯鳳、崇與元后政君同母。母,適妻,魏郡李氏女也。 後以妒去,更嫁為河內苟賓妻。王賀は、王禁(あざなは稚君)をうむ。長安で法律を学び、廷尉史となる。本始3年(前71)、王禁は王政君という娘をうむ。王元后である。王禁は大志があり、廉隅を修めない。酒色を好み、傍妻が多い。4女8男をつくる。
ぼくは思う。王駕が1万人を延命して積んだ徳は、早くも実現されたわけだw 王禁のたくさんの子たちが、宮廷で諸侯の位をみっちり独占するんだから、乱交も悪ばかりとは言えない?
ちくま訳で「廉隅を修めない」は、「律儀を嫌う」とある。
ぼくは思う。家が興隆するには、こういう「発散」する始祖が必要。天か地か知らないが、活力を「純粋贈与」されねばならない。王賀は美談の主役だったが、純粋贈与の気配はない。どうやら、秦国に滅ぼされた斉国、項羽に封じられた済南では、活力を受けとることができなかった。王莽の家は、王莽の祖父・王禁の代に繁栄が始まった。おちぶれ王族に過ぎなかった前代との違いは、魏郡に移住。王氏は、魏郡から活力をもらった。のちに曹魏が国制をつくるとき、王莽に依拠することがおおい。曹操もまた、済南(というか兗州)にいるとき、数ある群雄の1人だったが、袁紹から魏郡を奪って、最大勢力になった。「漢室を滅ぼす者は魏郡から出る」というジンクスを、漢室の神権担当は得るべきだった。もしくは、光武帝もまた河北を根拠にしていることから、「河北を握った者が勝てる」という一般化をすべきなのか。いやいや、それはツマラナイ。王氏は、べつに河北の生産力に拠って、受命されたのではないからね。長女は王君俠、次女は元后となる王政君、3女は王君力、4女は王君弟。長男は王鳳(あざな孝卿)、次男は王曼(あざな元卿、王莽の父)、3男は王譚(あざな子元)、4男は王崇(あざな少子)、5男は王商(あざな子夏)、6男は王立(あざな子叔)、7男は王根(あざな稚卿)、8男は王逢時(あざな季卿)である。王鳳と王崇のみ、王元后と同母である。王元后らの母は、王禁の嫡妻である。魏郡の李氏の娘である。李氏は嫉妬して王禁を去り、のちに河内の苟賓と再婚した。
ぼくは思う。王莽の父・王曼は、嫡妻の子でない。王莽が不遇からスタートしたのも、頷ける。王鳳が外戚として最初に権力は握るのは当然として。つぎは王崇が執政するんだっけ。王莽の1つ上の世代の、兄弟の葛藤も見ておきたい。
ぼくは思う。王鳳は王莽にとって、実父よりもさらに強烈な「父性」だと思う。なぜなら王莽の父は早死にする。精神分析的な意味における「父殺し」をするヒマもなかった。王莽が殺すべき父は、王鳳なのです。また王鳳は、父の兄、父よりも母が尊い、という性質をもつ。さしあたり王莽は、前半期に王鳳を「父殺し」して、後半期に劉邦を「父殺し」する。2人の父を殺す物語。閉じる
- 宣帝期、太子=元帝の子を産む
義父の宣帝は「心理的現実」の夫
初,李親任政君在身, 夢月入其懷。及壯大,婉順得婦人道。嘗許嫁未行,所許者死。後東平王聘政君為姬,未入,王薨。禁獨怪之,使卜數者相政君, 「當大貴,不可言。」禁心以為然,乃教書,學鼓琴。五鳳中,獻政君,年十八矣,入掖庭為家人子。はじめ母の李氏は、王元后を懐妊するとき、夢で月が懐に入った。
ぼくは思う。『三国志』で孫策が受精したときも、母には月が飛び込んだらしいから、2人は歳の離れた姉弟に当たりますね(笑)ざっと200歳違う。元后は女性であり、孫策は孫権の引き立て役だから、陰の象徴である「月」が宛がわれたんだろう。王元后は婚約しても、結婚の前に婚約者が死んだ。2回あった。のちに東平王が、王元后を姫(妻)に迎えようとしたが、結婚前に東平王が死んだ。
銭大昭はいう。東平王は、王充『論衡』では「趙王」と記される。『論衡』偶会篇はいう。王莽のおば・王正君は、許嫁の2夫が死んだ。趙王も薨じた。
ぼくは思う。こういうとき、東平王が誰だとか、趙王が誰だとかを、『漢書』諸侯王表を調べれば良いのか。でも東平王は、宣帝の子・劉宇が初代のようで、王莽の居摂年間にも記事があるが、それ以前にない。趙王とすべきなんだろう。
『漢書』諸侯王表より、東平王について。
東平思王宇 宣帝子。始封は、甘露二年十月乙亥立,三十二年薨。子は、鴻嘉元年,煬王雲嗣,十六年,建平三年,坐祝詛上,自殺。孫その1は、元始元年二月丙辰,王開明嗣,立五年薨,亡後。孫その2は、中山元始元年二月丙辰,王成都以思王孫桃郷頃侯宣子立,奉中山孝王後,八年,王莽篡位,貶為公,明年,獻書言莽德,封列侯,賜姓王。孫その2の子=曽孫は、居攝元年,嚴鄉侯子匡為東平王。
つまり宣帝の子・劉宇が、甘露2年(前52)に初めて封じられた。鴻嘉元年(前20)、子の劉雲がつぐ。建平3年(前04)、呪詛したので自殺。元始元年(後01)、子の劉開明がつぐ。後継者がおらず、5年後に死亡。ところで元始元年(後01)、平帝が長安にいき空席になった中山王を、劉成都がついだ。8年後、王莽が簒奪して中山公におとされた。翌年、列侯に封じられ、王姓をもらう。これと並行してなのか、居摂元年(後06)、厳郷侯の子匡が、東平王となる。いろいろ書いたけど、「王元后の若いとき東平王はいない。趙王とすべきだろう」「東平王のポジションは、王莽と関連がふかい」という2つが見えれば充分でした。
王禁は怪しみ、卜數者に占わせた。「まさに大貴となる。言えない」という。王禁は納得して、王元后に鼓琴を学ばせた。五鳳のとき(前57-前54)、王元后は18歳となり、太子=元帝の掖庭に入って、家人子となる。
沈欽韓はいう。『論衡』骨相篇はいう。清河の南宮大有と、王元后の父・王チ君は、仲が良かった。王元后の人相を見て「貴くて天下の母となる」という。このとき宣帝の世で、元帝は太子となる。父の王チ君は魏郡都尉となり、娘の王元后を太子の後宮に入れた。
ちくま訳はいう。「家人子」とは、良家の子女が後宮に入るが、官職が定まらないときの呼称である。
ぼくは思う。列伝の作成者の意図を汲むなら、「元后は、皇后となるべき運命を持っている。他の男に嫁ぎ、皇帝に愛されるチャンスを失わぬよう、天が予防している」となる。過保護なパパのようだ。王莽のフィールドで考えるとき、王莽は、王鳳、劉邦、孔子、周公、虞舜、という「父系の系図」を遡れるのだが、最上位にあるのは「天」である。まるで「大祖父」である。
ぼくは思う。「呪われた少女を恐れ、占者がお世辞を言った」と読むこともできる。口で言い表せない貴さって、具体的には何だよ、と突っ込みたい。べつに「皇后になるかも」と言うのは、不敬罪ではない。適当に予言して逃げたのか。
歲餘,會皇太子所愛幸司馬良娣病,且死,謂太子曰:「妾死非天命,乃諸娣妾良人更祝詛殺我。」 太子憐之,且以為然。及司馬良娣死,太子悲恚發病,忽忽不樂,因以過怒諸娣妾,莫得進見者。久之,宣帝聞太子恨過諸娣妾,欲順適其意,乃令皇后擇後宮家人子可以虞侍太子者, 政君與在其中。 及太子朝,皇后乃見政君等五人,微令旁長御問知太子所欲。太子殊無意於五人者,不得已於皇后, 彊應曰:「此中一人可。」 是時政君坐近太子,又獨衣絳緣諸于, 長御即以為〔是〕。 皇后使侍中杜輔、掖庭令濁賢交送政君太子宮, 見丙殿。得御幸,有身。先是者,太子後宮娣妾以十數,御幸久者七八年,莫有子,及王妃壹幸而有身。甘露三年,生成帝於甲館畫堂,為世適皇孫。 宣帝愛之,自名曰驁,字太孫,常置左右。1年余して、たまたま皇太子=元帝は、愛幸する司馬良娣が病死した。司馬良娣は死ぬとき「私は天命で死ぬのでない。他の妻(娣妾や良人)の誰かに呪殺された」という。元帝は司馬良娣を信じ、他の妻を憎んで、子づくりをしない。久しくして、宣帝(元帝の父)は、元帝の逆恨をなだめるため、皇后に命じて、後宮から家人子5名を選び、元帝の前に並べた。
ぼくは思う。王元后を元帝にめあわせたのは、宣帝の「王」皇后である。宣帝が民間にいたころの友人の娘。婚約者に死なれる、というエピソードも同じ。宣帝の王皇后をもとにして、王元后のエピソードが膨らまされたのか。もしくは、生命をつくる結婚と、生命がきえる死去は、親和性のたかい人生のイベントだったのか。
宣帝の王皇后は、成帝の時代まで、生きていた。王元后とは、呼称も紛らわしい。王元后が、頭のあがらなかった1人だろうなあ。直接は記されていないけど。
王元后は、『漢書』で列伝が切り出されたために、ほかの后妃たちから独立した印象がある。実態や記述内容が独立していなくても、列伝の巻の構成によって独立してしまい、后妃のなかでの人間関係が見えにくい。例えば王元后は、同じ元帝の妻である、傅昭儀(哀帝の祖母)、馮昭儀(平帝の祖母)と、ライバルとして対立した痕跡が史料に濃厚なのだが、対立エピソードが直接は記されない。
ぼくは思う。紀伝体の冒頭にある本紀は、「伏線やつながりを拡散させる」役割がある。だが『漢書』の末尾にある、王元后伝、王莽伝は、「伏線やつながりを収束させる」しかない。ここで初出の話を出すと、読者が混乱するから。自然と、他の巻とのつながりが寡黙になりがち。末尾にある本紀(のように広範囲の内容を持った記事)というのは、例えば『三国志』にはないから、読むときに注意だ。『三国志』の末尾なんて、重要度が下がり、無責任にトンボの尻を千切って、終わりなのだ。
元帝はやむを得ず、王元后を選んだ。
この場面を、3年半前、エッセイ調で書いた。まあどうせ列伝が創作だろうし。
5人が元帝の前に並べられたが、元帝は憎しみに胸を焼いているから、興味なし。でも、断っても第2弾があるだけで面倒だから、「あいつがいい」と、視線をやるわけでも、指差すわけでもなく、言った。「え?誰?」なんて聞き返すのは、臣下としてマナー違反だ。指示をするなら、聞こえるように言ってほしいが、上司は往々にして発声に手を抜くものだ。担当者は推測した。「きっとあの子じゃない?元帝のいちばん近くに座っていて、紅色の上着が目立つから、お目に留まったに違いない」と。7,8年も元帝の相手をしても妊娠しない人が10人以上いたのに、元后は1回で身ごもった。幸運のシンデレラストーリだが、舞踏会もガラスの靴もなければ、王子の人探しもない。あるのは、自分の病気を他人のせいにする、司馬良娣の幼稚な心が生んだ逆恨みだけだ。
ぼくは思う。3年半前のぼく、良いことを言うなあ。シンデレラは、中沢『カイエ・ソバージュ』がモチーフにつかう、普遍的な神話だ。王元后を、シンデレラとして認識することで、読解が開けるのか。
宣帝の皇后は、侍中の杜輔と、掖庭令の濁賢に命じて、王元后を太子宮に送らせる。王元后は、元帝と丙殿であった。1度だけで身ごもった。甘露3年(前51)、王元后は甲館の畫堂で、成帝を生んだ。成帝は、嫡流の皇孫とされ、宣帝に愛された。宣帝は、みずから成帝を「驁」と名づけ、あざなを太孫とした。成帝は、つねに宣帝の左右に置かれる。
ぼくは思う。志賀直哉『暗夜行路』の世界である。つまり成帝は、かげの薄い父(元帝)でなく、存在感の強い祖父(宣帝)に寵愛される。史料を読む限り、「成帝は宣帝の子」なんて与太は言えないのだが、少なくとも心理的に、成帝は宣帝の「晩年の少子」だろう。名をつけたのも祖父だし。王元后だって、義父の宣帝のおかげで、宣帝がチャンスをくれなければ、成帝を懐妊できなかった。王元后の「心理的な夫」は、宣帝なんだろう。元帝は、嫉妬ばかりして立場がないなあ!現実よりも「心理的現実」のほうが、人間の行動を規定する。フロイトが提唱した。合意します。
ぼくは思う。成帝の1人目の皇后は、学問が万能で、まさに「男勝り」の許皇后だった。許氏から皇后をもらうのは、宣帝と同じである。つまり成帝は、「父を同じように」でなく、「祖父と同じように」皇后を選んだ。まあ父の元帝は、寵愛する者の遺言を真に受けて、女性を遠ざけるほどだから、手本にならないんだけど。
ちなみに許氏は、「外戚の霍光と霍皇后に殺された」というトラウマをもつ。このトラウマが、本来のトラウマとして機能する(すなわち当事者に意識されずに、しかし行動を縛る)のなら、おもしろい。どんな縛り方をしたのか、仮説を立てたらおもしろそう。王莽が霍光の故事を利用したように、前漢末において霍光は、トラウマなのだ。「トラウマとしての霍光」。おお!いいテーマ!
ぼくは思う。成帝というキャラを考えるとき、元帝のカゲの薄さは、1つのキーかも知れない。成帝紀でも、成帝は父の元帝に、「遅刻の原因は、国家のルールのせい」と文句をいう。厳格な「父性」を畏れる態度には見えない。また元帝は、成帝を太子から外そうとする。弟の定陶王(哀帝の父)を、皇帝に立てようとする。だが成帝は、宣帝に寵愛されたから皇帝になれた、云々。
成帝の死後、「3人の祖母」が競争する土壌は、宣帝-元帝-成帝の3代のうち、中間の元帝が系図の線から脱落しかかったとき、用意された。つまり成帝は、祖父の「子」である成帝に帝位をくれてやるくらいなら、弟を皇帝にしたほうがマシだった。弟は、当然ながら宣帝の子(それも正真正銘に生物学的な子)である。しかし、宣帝の愛情においては、弟のほうがまだ「宣帝の息に毒されていない」のだ。誰もが宣帝の子であると公認できる弟のほうが、宣帝の「子」であることが抑圧・隠蔽・禁忌とされている成帝よりも、宣帝との係わりがうすい。隠すから際立つ。正常でないから気になる。逆説的だけど、元帝の胸中はこんな感じかな。
なお「3人の祖母」の件は、外戚列伝下を参照です。
『漢書』巻67:成帝、哀帝、平帝の外戚伝
ぼくは思う。「私の父は誰なんだ」というのは、アイデンティティが不安定になる、典型的かつ魅力的なモチーフ。昨年の平清盛のドラマで、清盛は「白河院のご落胤」だった。育ての父である平氏は、かげが薄かった。苦労ばかりする役回り。
元帝は、傅昭儀と定陶王を愛する
後三年,宣帝崩,太子即位,是為孝元帝。立太孫為太子,以母王妃為婕妤,封父禁為陽平侯。後三日,婕妤立為皇后,禁位特進,禁弟弘至長樂衞尉。永光二年,禁薨,諡曰頃侯。長子鳳嗣侯,為衞尉侍中。皇后自有子後,希復進見。太子壯大,寬博恭慎,語在成紀。其後幸酒,樂燕樂, 元帝不以為能。3年後、宣帝が崩じて、夫の元帝が即位した。子の成帝は太子となる。王元后は、太子の母として倢伃になる。父の王禁は陽平侯に封じられる。3日後、王元后は倢伃から皇后となる。王禁の位は特進。王禁の弟・王弘は、長樂衞尉にいたる。永光2年(前42)、王禁が薨じて、頃侯と諡された。長子(王元后の兄)の王鳳が陽平侯をつぎ、衞尉・侍中となる。
沈欽韓はいう。『西京雑記』はいう。王鳳は5月5日に生まれたので、父は養育したくない。「俗諺で5月5日に生まれた子は、自殺するか父母を殺すかだという」のが理由だ。王禁の叔父はいう。「むかし田文は5月5日に生まれ、父が養育しないが、ひそかに母が養育した。のちに孟嘗君となった。母は薛公大家とよばれた。孟嘗君の故事に照らせば、5月5日の子が不吉とはウソだ。王鳳を養育せよ」と。王禁は、長子の王鳳を養育した。
ぼくは思う。王鳳は、渡邉先生が「王莽が外戚の政治家として、模範とした」人物。王莽の伯父。これくらいの逸話があって、ちょうどよい。また「孟嘗君の生まれ変わり」のような投影もおもしろい。王莽のおじたちは、じつはぼくが、よく分かっていないので。まだ官位は、衛尉と侍中であり、弱々しいけれど。元帝が存命のうち、王氏は弱い。「事故のように成帝を生んだから皇后としたが、あくまで消去法である。王氏を寵愛しているわけじゃない」という扱いだろう。しかしねえ、子づくりなんて「目標設定が適切で、夫婦生活が活発だから生産性が上がる」というものでない。元帝が想定するのとは異なる仕方で、誕生したからこそ、天命を帯びているような気がする。回り回って、王莽の漢新革命へとw王元后は成帝を生んだが、まれにしか元帝に会えない。太子=成帝が成長し、成帝は寬博恭慎である。成帝紀にある。のちに成帝は、飲酒と燕楽が好きで、元帝の統制が効かない。
而傅昭儀有寵於上,生定陶共王。王多材藝,上甚愛之,坐則側席,行則同輦, 常有意欲廢太子而立共王。時鳳在位,與皇后、太子同心憂懼,賴侍中史丹擁右太子, 語在丹傳。上亦以皇后素謹慎,而太子先帝所常留意,故得不廢。いっぽうで元帝は、傅昭儀(哀帝の祖母)を寵愛して、定陶共王を生ませた。定陶王は材芸がおおく、元帝に愛された。いつも元帝の隣に座り、同乗して移動した。元帝は、「王皇后の生む太子を廃して、傅昭儀の生む定陶王を、つぎの天子にしたい」と考えた。ときに王鳳が官職にあり、王元后と太子(成帝)とともに憂懼した。侍中の史丹に助けてもらい、太子を擁立した。師丹伝にある。
ぼくは思う。師丹伝を読まねば!☆元帝は、母の王元后がもとより謹慎であり、太子は(祖父の)宣帝に寵愛されたので、太子の地位から廃さなかった。
ぼくは思う。元帝のつぎ、定陶王でなくて、成帝が皇帝になった。だが成帝のつぎ、成帝に子ができないから、定陶王の子が皇帝(哀帝)となる。この勝敗は「どちらに転んでも、結果は定陶王の系統が勝つ」という点で、虚しいものに思える。だがそうでもない。王氏の子・成帝の時代があったから、外戚の王氏は「いちどは栄えたが、哀帝の時代に冷遇された」というギャップを味わうことになった。王元后は「成帝のとき皇帝の母となり、哀帝のとき、皇帝の義理の祖母となる」というズレた位置にあった。このギャップにより収縮したバネが弾けて戻るとき、王莽が出現する。王元后は「不注意にも」王莽を信頼して、王莽に哀帝のつぎの平帝期に、執政をさせる。伸びる、縮む、伸びる、という反復によって、王氏は高みに跳躍する。「どちらにせよ定陶王が勝つ」と総括できない。成帝は26年も在位するから、リセットされるはずがない。閉じる
- 成帝期、王鳳らが執政する
成帝期、大将軍の王鳳が定陶王を帰藩させる
元帝崩,太子立,是為孝成帝。尊皇后為皇太后,以鳳為大司馬大將軍領尚書事,益封五千戶。王氏之興自鳳始。又封太后同母弟崇為安成侯,食邑萬戶。鳳庶弟譚等皆賜爵關內侯,食邑。元帝が崩じた。王元后の子が成帝となる。王元后は皇太后となり、王鳳は大司馬・大將軍・領尚書事となり、5千戸を増やされた。外戚の王氏は、王鳳から興った。王元后の同母弟の王崇を安成侯として、食邑1万戸。王鳳の庶弟・王譚らは、みな関内侯と食邑をもらう。
ぼくは思う。やはり母の序列により、封爵が決まる。王鳳、王崇、王元后が、王禁の嫡妻・李氏の子である。いま王莽の父の名が出てこないが、もう死んでた?
其夏,黃霧四塞終日。 天子以問諫大夫楊興、博士駟勝等,對皆以為「陰盛侵陽之氣也。高祖之約也,非功臣不侯,今太后諸弟皆以無功為侯,非高祖之約,外戚未曾有也,故天為見異。」 言事者多以為然。鳳於是懼,上書辭謝曰:「陛下即位,思慕諒闇, 故詔臣鳳典領尚書事,上無以明聖德,下無以益政治。今有茀星天地赤黃之異, 咎在臣鳳,當伏顯戮,以謝天下。今諒闇已畢,大義皆舉,宜躬親萬機,以承天心。」因乞骸骨辭職。上報曰:「朕承先帝聖緒,涉道未深,不明事情,是以陰陽錯繆,日月無光,赤黃之氣,充塞天下。咎在朕躬,今大將軍乃引過自予,欲上尚書事,歸大將軍印綬,罷大司馬官,是明朕之不德也。朕委將軍以事,誠欲庶幾有成,顯先祖之功德。將軍其專心固意,輔朕之不逮,毋有所疑。」同年夏、黄霧がでて、四方を終日ふさいだ。成帝は、諫大夫の楊興、博士の駟勝らに質問した。応えた。「高祖の約束で、功臣でないと侯爵としない。いま功績のない王氏が侯爵であるから、天が異常を知らせる」と。
ぼくは思う。王鳳に功績がないのは、元帝の時代に、冷遇されたからだ。活躍の機会がなかった。つまり王鳳の官職が高すぎるのでなく、元帝の死後、急撃に官職を上げすぎた、その傾きを不気味がられている。もしくは、霍光のトラウマにより、外戚に対する警戒が過剰である。霍光のあと、めぼしい外戚は出てない、という理解であっているだろうか。霍光は宣帝の時代まで生きていた。時代が接近している。まだ霍光が死んで35年ほどしか経たない。王鳳は辞職を願う。「諒闇=元帝の喪も明けた。成帝が親政せよ」と。成帝はいう。「赤黄の気は、王鳳でなく私が原因である。王鳳は、私を輔けろ」と。
ぼくは思う。文書は長いのだが、『補注』は少ない。
師古はいう。『尚書』はいう。高宗は諒闇なりと。諒とは信で、闇とは黙である。父のために服喪するとき、3年間、沈黙をまもること。ぼくは補う。3年喪は、漢文帝が縮めた。王鳳の発言のタイミングは、元帝の死から25ヶ月も経ってない。
後五年,諸吏散騎安成侯崇薨,謚曰共侯。有遺腹子奉世嗣侯,太后甚哀之。明年,河平二年,上悉封舅譚為平阿侯,商成都侯,立紅陽侯,根曲陽侯,逢時高平侯。五人同日封,故世謂之「五侯」。太后同產唯曼蚤卒, 餘畢侯矣。太后母李親,苟氏妻,生一男名參,寡居。頃侯禁在時,太后令禁還李親。 太后憐參,欲以田蚡為比而封之。 上曰:「封田氏,非正也。」以參為侍中水衡都尉。王氏子弟皆卿大夫侍中諸曹,分據勢官滿朝廷。5年後、諸吏散騎・安成侯の王崇が薨じ、共侯と諡された。遺腹の子・王奉世が安成侯をつぐ。王元后はひどく哀しんだ。
ぼくは思う。王元后は、同母弟に子がないので、哀しんだ。いくら兄弟であっても、母が違えば、そんな継承は本当でないと。王元后の「母の血筋」に関するこだわりが見える。超然と構えた「女性君主」でなく、良くも悪くも「人間らしい」女性なんだなあ。翌年の河平2年(前27)、成帝は王元后の兄弟を侯爵に封じた。王譚を平阿侯、王商を成都侯、王立を紅陽侯、王根を曲陽侯、王逢を高平侯とした。同時にに封じられたので「五侯」といわれた。 太后と「同産」の兄弟では、早死した王曼をのぞき、みな侯爵となる。
張晏はいう。「同産」とは、父が同じこと。必ずしも母が同じでない。王元后と母が同じなのは、王鳳、王崇である。いま除かれた王曼が、王莽の父である。
ぼくは思う。王元后は、同母弟の王崇が死んだ瞬間に、ヒステリックに5人の異母兄弟を、侯爵とした。失われたからこそ、尊ばれる。しかし、どれだけ穴埋めを過剰にやっても、同母弟・王崇を失った哀しみは癒えない。なんて典型的な「家族の弔い」なのでしょう。つぎに同母弟を盛りたてる。外戚の王氏は、王元后という「巨大な母」のヒステリーのせいで、引きおこされた事態だった。
ぼくは思う。王元后は、最後の最後で、王莽の簒奪に反対するから、理性的で沈着な老女を思わせるけど、全然ちがう。むしろ王氏に権勢を呼びこむことに必死である。傅昭儀、馮昭儀との対決で、まったく押されていない。これは成帝の母としての強さだけでなく(皇帝の母系家族としての特権なら、ライバルの2者も同じだ)王元后の権力への執着だろう。彼女は、王莽の「傀儡」として詔を発した「被害者」のような印象が『漢書』に描かれるが、違うのかも。禅譲そのものへの賛否はともかく、王莽の「改革」を積極的に支援したのが、この王元后だなあ。王莽に心底、反対するなら、王元后の立場から制止することができた。
ぼくは思う。班固は、王莽を貶めるために、王莽を際立たせるために、王元后を「漢室の擁護者」にした。しかし王元后の列伝を、外戚列伝から離脱させることで、ぼくら読者に目配せした。「王莽の簒奪は、王元后との共同作業だったよ」と、分かる人だけに伝えているのだろう。確かに受信しましたw王元后の母の李親は、荀氏の妻となったが、荀参を産んでから独居する。王禁(王元后の父)が存命のとき、王元后は李親(王元后の母)を呼びもどさせた。王元后は異父弟の荀参を憐れみ、田蚡の故事と同じように、荀参を侯爵に封じたい。
李奇はいう。田蚡は、景帝の王皇后と、母が同じで父が違う。ゆえに封じられた。ぼくは思う。いまの場合と、まったく同じである。まして皇后の姓が「王」のところまで、同じである。成帝はいう。「田蚡を封じたのは、正しくなかった」と。成帝は、荀参を侍中・水衡都尉とするに留まった。
周寿昌はいう。王元后の母が再婚して産んだのが、荀参である。荀参が死に、子の荀伋が侍中となる。『漢書』陳湯伝はいう。荀参の妻は、子の荀伋を封じてほしいので、陳湯に賄賂して、上奏して斡旋してくれと求めた。王氏の子弟は、みな卿大夫、侍中、諸曹となる。朝廷に満ちた。
大將軍鳳用事,上遂謙讓無所顓。 左右常薦光祿大夫劉向少子歆通達有異材。上召見歆,誦讀詩賦,甚說之, 欲以為中常侍,召取衣冠。臨當拜,左右皆曰:「未曉大將軍。」 上曰:「此小事,何須關大將軍?」左右叩頭爭之。上於是語鳳,鳳以為不可,乃止。其見憚如此。大將軍の王鳳が執政して、成帝は謙譲して(王鳳の意見を聞き)専断しない。左右の者は、光祿大夫の劉向の少子・劉歆を推薦した。成帝は劉歆が誦讀と詩賦できるので、中常侍にして、衣冠を召取したい。成帝が劉歆の衣冠を受けようとすると、左右が「王鳳の許可がまだです」という。成帝は「こんな小事に王鳳の許可は要らん」というが、左右は叩頭した。王鳳が「劉歆を用いるな」といい、成帝は劉歆を中常侍にできない。このように王鳳は憚られた。
ぼくは思う。成帝が「小事」と言っているように、成帝の主観では、これは小事なのだろう。成帝は立派な大人になっても、後漢の和帝や桓帝のような仕方で、クーデターをしなかった。「大事」において王氏に委ねることは、成帝も合意していたのだろう。劉歆の件、事実なんだろうが、記述する位置と文脈が「意図的」である。つまり「どんな小さなことでも、王鳳が決めた」と読めるように、班固が工夫している。
上即位數年,無繼嗣,體常不平。 定陶共王來朝,太后與上承先帝意,遇共王甚厚,賞賜十倍於它王,不以往事為纖介。 共王之來朝也,天子留,不遣歸國。上謂共王:「我未有子,人命不諱, 一朝有它,且不復相見。 爾長留侍我矣!」其後天子疾益有瘳,共王因留國邸,旦夕侍上,上甚親重。大將軍鳳心不便共王在京師,會日蝕,鳳因言「日蝕陰盛之象,為非常異。定陶王雖親,於禮當奉藩在國。今留侍京師,詭正非常, 故天見戒。 宜遣王之國。」上不得已於鳳而許之。 共王辭去,上與相對〔涕〕泣而決。成帝は即位して数年たつが、継嗣がない。健康でない。定陶王(成帝の弟、傅太后の子)が長安にきた。かつて元帝が定陶王を厚遇したから、成帝と王元后は定陶王に、他の王の10倍の賞賜をあげる。成帝は定陶王をとどめ、「私に子がない。いつ死ぬか分からない。定陶王は長安にいて、私に侍れ」という。
ぼくは思う。成帝が王鳳に謙譲し、継嗣をつくらないのは、自分の正統性に疑問があるからか。つまり「私が3歳のときに死んだ祖父の宣帝は、私を皇孫にした。だが顔を知る父の元帝は、弟の定陶王を可愛がった。私は皇帝になったが、本来これは定陶王の天下なのだ」と。当事者意識がないから、王鳳に委ねられるし、弟に譲りたい。
ぼくは思う。成帝の継嗣が空白になるのは、宣帝と元帝の意見が対立したから。宣帝は「成帝が適任」といい、元帝は「定陶王が適任」といい、その対立を成帝が真に受けたから。成帝が遅刻して飲酒したのは、この対立への子供なりの抵抗だよなあ。曹魏の装飾と同じである。
宣帝と元帝の対立が「家族の痕跡」として刻まれた。まあ、どの家族も、多かれ少なかれ病んでいるのだが、今回の病状だけは、わりに長びいて重篤だった。王元后が長生きして、病状の主催者=管理者をやったからだろう。王莽ですら、「途中から参加したプレイヤー」でしかない。この場の「親」つまりディーラーは、王元后だなあ。ますます成帝が病気がちになる。定陶王は、長安の国邸に留まる。朝夕、成帝のそばにきた。
ぼくは思う。成帝が死んだら、すぐに定陶王が即位するためである。宣帝と王元后、元帝と傅太后、という「父母権力」によって、引き裂かれているゆえに、成帝と定陶王という異母兄弟は団結できる。この「父母権力」というのは、ぼくがいま造語しました。先週、『漢書』成帝紀を読んだとき、王元后という「巨大な母」に向けたマザコンに悩まされたと書いたが。宣帝と元帝という、ファザコンにも悩まされる。
フロイト的には、成帝が天子の役割を果たそうとすると、目の前で「父母権力」たちが性交を始める。つまり、祖父の宣帝と母の王元后が交わり、父の元帝と義母の傅太后が交わる。いくつになっても「幼子」のままの成帝は、これを見たくない。定陶王と一緒に怖くて泣く。すると王鳳がきて「きちんと見なさい」という。成帝は、母の王元后が犯されるのを見て、「去勢」されていく。うわあ、前漢の王室、グロいなあ。これも王莽が登場するための、地ならしですw大将軍の王鳳は、日食があると「定陶王が帰藩しないから日食があった」といい、定陶王を帰藩させた。成帝と定陶王は、涕泣して別れた。
ぼくが勝手なことばかり書いてますが、『補注』が過疎なのです。
成帝が王鳳に抵抗し、馮野王を頼りたい
京兆尹王章素剛直敢言,以為鳳建遣共王之國非是, 乃奏封事言日蝕之咎矣。天子召見章,延問以事,章對曰:「天道聰明,(佐)〔佑〕善而災惡, 以瑞異為符效。今陛下以未有繼嗣,引近定陶王, 所以承宗廟,重社稷,上順天心,下安百姓。此正義善事,當有祥瑞,何故致災異?災異之發,為大臣顓政者也。今聞大將軍猥歸日蝕之咎於定陶王, 建遣之國,苟欲使天子孤立於上,顓擅朝事以便其私,非忠臣也。且日蝕,陰侵陽臣顓君之咎,今政事大小皆自鳳出,天子曾不一舉手,鳳不內省責,反歸咎善人,推遠定陶王。 且鳳誣罔不忠,非一事也。前丞相樂昌侯商 本以先帝外屬,內行篤,有威重,位歷將相,國家柱石臣也,其人守正,不肯詘節隨鳳委曲,卒用閨門之事為鳳所罷,身以憂死,衆庶愍之。又鳳知其小婦弟張美人已嘗適人, 於禮不宜配御至尊,託以為宜子,內之後宮,苟以私其妻弟。聞張美人未嘗任身就館也。 且羌胡尚殺首子以盪腸正世, 況於天子而近已出之女也!此三者皆大事,陛下所自見,足以知其餘,及它所不見者。鳳不可令久典事,宜退使就第,選忠賢以代之。」京兆尹の王章は、剛直で敢言できる。王章は「王鳳が定陶王を帰藩させたのは良くない」と封事した。成帝は王章を召して、意見を聞いた。
王章はいう。「1つ、成帝は継嗣がないから、宗廟と社稷の祭祀を続けるため、定陶王をそばに置いた。正しいことである。王鳳が妨げた。2つ、前の丞相・楽昌侯の王商(王元后の親族でない)は、元帝の親族であり、国家の柱石だったが、王鳳が罷免して憂死させた。3つ、王鳳は、小婦の妹・張美人が既婚であるのに、妊娠しやすいので、「未婚だ」と偽って成帝に与えた。羌胡ですら、父親の不詳を避けるため、再婚者が産んだ1人目の子を殺す。いわんや成帝の妻に、既婚者を送るのは適切でない。王鳳を辞職させ、忠賢な者に代えなさい」と。
ぼくは思う。これは意見書であり、新事実は出てこない。『補注』は、語釈はあるけれど、めぼしいのがない。 王鳳に辞めさせられた、王鳳の親族でないほうの丞相・王商は、『漢書』王商伝にあるそうだ。☆
自鳳之白罷商後遣定陶王也,上不能平。及聞章言,天子感寤,納之,謂章曰:「微京兆尹直言,吾不聞社稷計! 且唯賢知賢,君試為朕求可以自輔者。」於是章奏封事,薦中山孝王舅琅邪太守馮野王「先帝時歷二卿,忠信質直,知謀有餘。野王以王舅出,以賢復入,明聖主樂進賢也。」上自為太子時數聞野王先帝名卿,聲譽出鳳遠甚,方倚欲以代鳳。王鳳が定陶王を帰藩させてから、成帝は王鳳に不平がある。
ぼくは思う。王鳳は、「外戚としての王氏」の地位を守るために、定陶王を帰国させた。妊娠しやすい女を送ったのも、同じ動機である。成帝の子が皇帝となれば、「皇帝の祖母の家系」となり、王氏は安泰である。成帝の子の母は、王鳳のメカケの妹だから、王鳳が完全に制御することができる。
ぼくは思う。空集合の皇帝を象徴する記号として、「∅帝」を思いついた。「∅」はempty。∅帝と書いて「エンプテイ」と読む。ダジャレです。前漢の成帝の実子、曹魏の明帝の実子など、「その不在ゆえに政局を混乱させた、空虚な中心」を表現するときに使えないかと。『諡法』に登録されないかなあw
ぼくは思う。漢成帝も魏明帝も『暗夜行路』における、「皇帝・時任謙作」です。この時任は、子づくりに本気が出ないので、∅帝の父親になってしまう。西晋の恵帝も、長子の司馬遹が失われるので、司馬遹の死後は∅帝を抱える。この空虚な中心に向けて、天下がブラックホールのごとく吸いこまれる。
∅帝は、誰もがその存在を確信しているが、誰もその顔を見たことがない。また∅帝が即位すると、その王朝は必ず傾くという呪いがある。実態はないのに、その性質や関係性を表現することは、わりに簡単であるという。
成帝は、王章の意見に感悟した。王章に「王鳳に代えるべき人材を挙げろ」という。王章は封事にて「中山孝王のおじ・瑯邪太守の馮野王がよい。元帝のとき2卿を経験した」という。成帝は、馮野王の名声が王鳳を遙かに越えるので、王鳳から馮野王に代えようとした。
ぼくは補う。このとき中山孝王は、元帝の子、成帝の弟。中山孝王の母が、馮昭儀。外戚列伝下で見ました。抄訳を引用します。
外戚伝はいう。父の馮奉世は右將軍・光禄勲、兄の馮野王は左馮翊となる。議者は「馮氏が馮昭儀のおかげで官職を得たのでない」という。傅昭儀(哀帝の祖母)とともに、元帝から寵愛された。
同伝の注釈で、何焯はいう。王氏は、王鳳のとき馮野王を廃したから、王氏と馮氏とのあいだに怨恨がある。宜郷侯の馮氏は、平帝のときに健在だった(平帝の外戚であった)ので、王莽は深く畏れた。王莽は、宜郷侯を夷滅した。
ぼくは思う。最終的に馮氏は、王氏によって徹底的に滅ぼされる。ネタバレしてしまった。ともあれ、馮昭儀は「3人目の祖母」で、平帝の祖母です。王章は、王氏と傅氏の対立に、同格のライバルである馮氏を持ちこみ、王氏の独裁を破ろうとしている。最下位っぽい馮氏の人材が、なんと王鳳の名声をしのぐという。前漢末は、王氏、傅氏、馮氏の3者の対立であると単純化してよい。この確信が強まってきた。
初,章每召見,上輒辟左右。 時太后從弟長樂衞尉弘子侍中音獨側聽,具知章 言,以語鳳。鳳聞之,稱病出就第,上疏乞骸骨,謝上曰:「臣材駑愚戇,得以外屬兄弟七人封為列侯,宗族蒙恩,賞賜無量。輔政出入七年,國家委任臣鳳,所言輒聽,薦士常用。無一功善,陰陽不調,災異數見,咎在臣鳳奉職無狀,此臣一當退也。五經傳記,師所誦說,咸以日蝕之咎在於大臣非其人,易曰『折其右肱』, 此臣二當退也。河平以來,臣久病連年,數出在外,曠職素餐,此臣三當退也。 陛下以皇太后故不忍誅廢,臣猶自知當遠流放,又重自念, 兄弟宗族所蒙不測,當殺身靡骨死輦轂下, 不當以無益之故有離寑門之心。誠歲餘以來,所苦加侵, 日日益甚,不勝大願,願乞骸骨,歸自治養,冀賴陛下神靈,未理髮齒,期月之間,幸得瘳愈,復望帷幄,不然,必寘溝壑。臣以非材見私,天下知臣受恩深也;以病得全骸骨歸,天下知臣被恩見哀,重巍巍也。 進退於國為厚,萬無纖介之議。 唯陛下哀憐!」其辭指甚哀,太后聞之為垂涕,不御食。王章と会うとき、成帝は左右に人を置かない。ときの王元后の従弟・長楽衛尉の王弘の子である、侍中の王音が、王章と成帝の密談を聞いた。
師古はいう。王弘は、王元后の叔父である。王元后から見ると王音は、従父弟である。ぼくは補う。外戚の王氏が奢侈に走るなかで、王鳳は質素だった。王鳳が死ぬとき、血縁の近い者がみな奢侈なので、わざわざ王音を指名した。王音は主役クラスなのです。渡邉先生の本では、王莽の外戚の政治家としてのモデルは、王鳳だと王音だとしていた。他の外戚の奢侈さは、淳于長に継承されたとあった。王音から報告された王鳳は、病気だから辞職したいという。「王氏の兄弟7人が侯爵になったが、10年の執政で成果がない。
周寿昌はいう。杜欽伝☆はいう。杜欽は王鳳にいう。「大将軍の王鳳は、10年の輔政を悔いたね」と。王鳳は、竟寧元年(前33)から補正して、陽朔まですでに10年がたつ。いま陽朔元年(前024)である。原文では「7年」とあるが、誤りだろう。ぼくは思う。字形が似ているからね。『五経』は日食の原因を、天子でなく大臣とする。『易経』で有能な大臣がないと、天子は右肘が折れたに等しいという。成帝は、実母の王元后に配慮して、王氏に甘いかも知れないが、私は病気なので辞職をする」と。王鳳が切実なので、王元后は垂涕して食事をしない。
ぼくは思う。このように「私は弱いのよ。哀れんでよ。今まで恩を与えてきたでしょ」というのが、母性権力の怖さである。子供は「じゃあ、死ね!」と母親に言いにくい。父殺しは容易にできるのだが、母殺しは困難である。斎藤環が書いてた。『母は娘の人生を支配する―なぜ「母殺し」は難しいのか』
上少而親倚鳳,弗忍廢,乃報鳳曰:「朕秉事不明,政事多闕,故天變(屢)〔婁〕臻, 咸在朕躬。 將軍乃深引過自予,欲乞骸骨而退,則朕將何嚮焉!書不云乎?『公毋困我。』 務專精神,安心自持,期於亟瘳,稱朕意焉。」 於是鳳起視事。上使尚書劾奏章「知野王前以王舅出補吏,而私薦之,欲令在朝阿附諸侯;又知張美人體御至尊,而妄稱引羌胡殺子蕩腸,非所宜言。」遂下章吏。廷尉致其大逆罪,以為「比上夷狄,欲絕繼嗣之端;背畔天子,私為定陶王。」章死獄中,妻子徙合浦。成帝は幼少から、王鳳に親しむ。王鳳を廃するのは忍びない。成帝はいう。「政事を誤り天変を招いたのは、私である。『尚書』周書の洛誥篇で周成王が周公旦に言うだろう。「公よ私を困らせるな」と。王鳳は病気が治ったら、執政をたのむ」と。王鳳は執政を再開した。
王鳳は尚書に、王章を弾劾させた。「王章は馮野王が地方で現職にあるのに、かってに推薦して、諸侯にへつらった。(王鳳のめかけの妹の)張美人は、成帝に寵愛されている。だが王章は、羌胡に例えた。適切でない」と。ついに王章を吏に下す。廷尉は王章を大逆罪とした。「王章は、成帝を羌胡に例え、成帝の子づくりを妨害した。成帝の血統を絶やし、定陶王に代えようとした」と。王章は獄死して、妻子は合浦に徙された。
ぼくは思う。事実関係で争っているのでない。ただ先に政治の勝敗ありきで、あとは文書家が、どうにでも解釈する。成帝は王鳳を「父殺し」したかった。これは王章の助けを受けて、ほぼ成功した。だが外戚権力の厄介さは、王鳳と王元后が密接なところ。さすがに「母殺し」まではできず、イモヅル式に「父殺し」にも失敗した。成帝は、死ぬまで成熟できないでしょう。この王鳳との和解が、成帝の決定的な挫折でしょう。「去勢」された。
ぼくは思う。王鳳は、∅帝の誕生を切望している。そのためには成帝が、(できれば下賤な身分の)女と性交して、太子を作ってくれなくては。だが「殺し損ねた父親」である王鳳の眼光のもとで、成帝は「男性」になれない。性交に成功しない。王鳳にとってはジレンマだが、これは全ての家庭が抱えている問題だよなあ。入り婿(マスオさん)が、妻の父(波平さん)から「早く孫を見せろ」と圧迫されると、萎えるという。
王氏が奢侈を極め、王鳳は王音に嗣がす
自是公卿見鳳,側目而視,郡國守相刺史皆出其門。 又以侍中太僕音為御史大夫,列于三公。而五侯羣弟,爭為奢侈,賂遺珍寶,四面而至;後庭姬妾,各數十人,僮奴以千百數,羅鐘磬,舞鄭女,作倡優,狗馬馳逐;大治第室,起土山漸臺,洞門高廊閣道,連屬彌望。 百姓歌之曰:「五侯初起,曲陽最怒,壞決高都,連竟外杜, 既壞決高都作殿,復衍及外杜里。」師古曰:「成都侯商自擅穿帝城引水耳,曲陽無此事。又雖大作第宅,不得從長安至杜陵也。(按)李說為(近)是。」 土山漸臺西白虎。」〔其〕奢僭如此。 然皆通敏人事,好士養賢,傾財施予,以相高尚。成帝が王鳳と和解してから、公卿が王鳳に会うとき、目をそらした。郡国の守相や刺史は、みな王氏からでた。王章の密談を王鳳に報せた侍中・太僕の王音は、御史大夫となり三公に列する。
五侯の郡弟は、奢侈を競って珍宝をバラまいた。百姓はうたう。「五侯のなかでも、曲陽侯の王根がもっとも奢侈である」と。王氏は人事に通じて、士を好んで賢を養い、財を傾け予を施し、王氏同士で高尚とした。
ぼくは思う。奢侈の描写と、その『補注』ははぶく。王氏のなかで、ポトラッチしている。競争的な贈与をしている。「質素だから王莽の模範」である、王鳳と王音は、もっとも官職が高い。爵位は他と同じ侯に違いないが、王鳳と王音は政治にて「ポトラッチ」ができる。だから財物に関しては、淡泊なんじゃないかな。べつに2人が無欲なのでなく、脱世や超越するのでなく、ポトラッチに敗北して降りているのでもない。
上海古籍3021頁に、ぜいたくぶりに対する注釈あり。「外杜」という長安の地名、宮殿の西におく白虎など。白虎をおく等の建造物は、師古によると、みな天子の制であると。王氏がポトラッチで打ち負かそうとしたのは、なんと成帝だった。ということが読み取れる。「ルールにおいて臣下は、天子の制を使ってはいけない。ルール違反したから、王氏はダメ」では、なんの説明にもならない。派手な宮殿は、天子によるポトラッチであり、それを臣下がやると(臣下がやるゆえに一層)天子の威信を打ち負かす。「これだけムダなことができる」という威信の表現だから。
鳳輔政凡十一歲。陽朔三年秋,鳳病,天子數自臨問,親執其手,涕泣曰:「將軍病,如有不可言,平阿侯譚次將軍矣。」鳳頓首泣曰:「譚等雖與臣至親,行皆奢僭,無以率導百姓,不如御史大夫音謹敕, 臣敢以死保之。」及鳳且死,上疏謝上,復固薦音自代,〔言〕譚等五人必不可用。 天子然之。王鳳は11年、輔政をした。
ぼくは思う。王鳳と成帝が「和解」したのは、王鳳が死ぬ前年。成帝は、もうちょい黙っていれば、王氏の権力が「雨降って地固まる」にならなかった。上にある(ぼくが描写をはぶいた)五侯のポトラッチは、王鳳の最後の1年に、エスカレートしたのでしょう。「政権が転覆を回避すると、以前に増して強くなる」という、パラドクスがある。骨折と同じだなあ。陽朔3年(前22)秋、王鳳が病気になる。天子はしばしば訪問して、手をとって涕泣した。「王鳳が病気で、何も言えなくなりそうだ。平阿侯の王譚に、大将軍を嗣がせる」と。
師古はいう。成帝は「王鳳が死ぬなんて言いたくない」と言ったのだ。ぼくは補う。つまり、誰が見ても「王鳳は死ぬね」とコメントせざるを得ない状況だった。王鳳は頓首して泣いた。「王譚は私に血縁が近いが、行動は奢僭である。百姓を率導できない。御史大夫の王音がよい。王音は謹敕である」と。王鳳が固く王音を願い、「王譚ら五侯を用いない」というから、成帝は従った。
ぼくは思う。王莽の正史『莽新書』を作るなら、第1巻は王鳳伝だろう。『三国志』が曹操の武帝紀から始まるように。王元后に託するのは変則的だし、重たい。むしろ漢室の陣営に属するべきだ。
初,譚倨,不肯事鳳, 而音敬鳳,卑恭如子,故薦之。鳳薨,天子臨弔贈寵,送以輕車介士,軍陳自長安至渭陵,諡曰敬成侯。子襄嗣侯,為衛尉。御史大夫音竟代鳳為大司馬車騎將軍,而平阿侯譚位特進,領城門兵。谷永說譚,令讓不受城門職,由是與音不平,語在永傳。
音既以從舅越親用事,小心親職,歲餘,上下詔曰:「車騎將軍音宿衛忠正,勤勞國家,前為御史大夫,以外親宜典兵馬,入為將軍,不獲宰相之封,朕甚慊焉!其封音為安陽侯,食邑與五侯等,俱三千戶。」王譚は王鳳に仕えないが、王音は王鳳を敬い、子のように卑恭である。だから王鳳は王音を推した。
ぼくは思う。王音は王莽と同世代である。王音だけでなく、王莽や淳于長もまた、王鳳に仕えることで政治的立場を得た。王鳳が偉大なる「莽新の初代」である。王鳳という「父」と、王元后という「母」が、君臨した。本来の「父」は成帝であるべきだが、役割を果たせない。というか成帝は、王鳳の子の立場に回っている。その時点で最上位の「父」になることはできない。王鳳が薨じると、成帝は臨弔・贈寵した。輕車・介士で、王鳳の死体を送らせた。軍陳は長安から渭陵まで。敬成侯という。子の王襄が、爵位をつぎ衛尉となる。御史大夫の王音は、ついに王鳳に代わり、大司馬・車騎將軍となる。
ぼくは思う。王氏の中心者が、どういう順序で継承されるのか、見ておきたい。王莽には、どういう経路でくるんだろう。いま王音にゆくことで、血縁としては遠くなったが。いっぽう、平阿侯の王譚は特進となり、城門兵を領した。谷永が王譚に「城門兵を領する官職を辞退せよ」という。王音は不平に思った。谷永伝☆にある。
ぼくは思う。王譚は「城門の管理」という職務すら、不適切なのだ。つまり官僚として向いていない。まあ城門は、曹操が洛陽北部尉になったように、重要な役職。どう重要か。城門というのは、長安の内外を隔てる。城門をいかに管理するかということは、大室幹雄氏のいう都市と農村を、適切に弁別することに通じる。まるで「皇帝の口」を管理するようなもの。悪い者を皇帝の口に入れると、王朝が滅びるよ。また「皇帝の肛門」でもある。トーラスを裏返すと、口と肛門ができる。ラフォン『ラカンのトポロジー、精神分析空間の位相構造』を読んでます。王音は、より成帝に血縁の近い者(王元后の兄弟・五侯)を飛びこえて、慎重に執政する。1年余して、成帝はいう。「車騎将軍の王音は、忠正である。前に御史大夫、いま車騎将軍をやる。功績があるのに封爵がない。王音を安陽侯とする。食邑は5侯と同じ。3千戸とする」
ぼくは思う。王鳳は、血縁の近さよりも、政治への適性を優先して、王音を推薦した。王氏のなかで車騎将軍を回したのだから「私的」だが、政治の適性を優先したから「公的」である。
この王鳳の配慮の結果を、成帝が補強した結果、「王氏を分裂させる工作」となる。成帝がとくに陰謀しなくても、自然と王氏は分裂する。王鳳は、この分裂を見越してまでも(分裂を予測することはそれほど難しくない)王音を推薦した。わりに「公的」なバランス感覚がある。王莽はこの系譜にある政治家である。
五侯が王音を圧倒、王莽が新都侯
初,成都侯商嘗病,欲避暑,從上借明光宮。 後又穿長安城,引內灃水注第中大陂以行船,立羽蓋,張周帷,輯濯越歌。 上幸商第,見穿城引水,意恨,內銜之,未言。後微行出,過曲陽侯第,又見園中土山漸臺似類白虎殿。 於是上怒,以讓車騎將軍音。商、根兄弟欲自黥劓謝太后。はじめ成都侯の王商が病気になり、避暑したいので長安城を壊し、灃水を引きこむ。成帝が訪問して「王商が長安城を壊した」と怒った。のちに成帝が微行して、曲陽侯の王根の宮殿を見た。「私の白虎殿に似ている」と怒った。
ぼくは思う。どんな土木建築をしたのかは、『補注』上海古籍6023頁。成帝は王音を責めた。怒られた王商と王根の兄弟は「黥劓して王元后にわびる」という。成帝は大怒した。
ぼくは思う。王鳳のときと同じ。成帝は、母の王元后が哀しむと思うと、決行できない。いつまでも成熟しない。「微行する」という退行した行動をやり、そこで「見たくないもの」を目撃する。だが母を哀しませたくないので、明らかに王氏が悪いのに「見なかったふり」をする。屈節するなあ。ますます退行するなあ。
上聞之大怒,乃使尚書責問司隸校尉、京兆尹「知成都侯商擅穿帝城,決引灃水,曲陽侯根驕奢僭上,赤墀青瑣, 紅陽侯立父子臧匿姦猾亡命,賓客為羣盜,司隸、京兆皆阿縱不舉奏正法。」二人頓首省戶下。又賜車騎將軍音策書曰:「外家何甘樂禍敗, 而欲自黥劓,相戮辱於太后前,傷慈母之心,以危亂國!外家宗族彊,上一身弱日久, 今將一施之。 君其召諸侯,令待府舍。」成帝は尚書を使わし、司隷校尉と京兆尹を責めた。「王商が長安城に穴を開け、王根が天子の宮殿をたて、紅陽侯の王立は、父子で姦猾・亡命をかくまう。王立の賓客は、群盗となる。司隷校尉と京兆尹は、王氏に阿縱して取り締まらなかった」と。司隷と京兆の2人は、省戶のもとで頓首した。
顧炎武はいう。省戸とは、禁門のこと。蔡邕『独断』はいう。禁中というのは、門戸が出入を禁じるから。天子に侍御する者でないと、門戸を入れない。王元后の父が王禁という名なので、「禁中」でなく「省中」という。
ぼくは思う。成帝への去勢は、反復的で強烈です。成帝は行政官に大怒しているが、もっとも怒られるべきは、成帝その人である。成帝が、それを最も知っているから、つらい。そりゃ子もできないよ、という結論に到る。また成帝は、車騎將軍の王音に策書を賜る。「なぜ外戚(王商と王根)は、禍敗を甘樂し、みずから黥劓して、王元后の前でわざわざ自分を戮辱するか。なぜ慈母之心を傷つけて、国を危亂するのか。外戚は強く、私は弱い。王音は外戚の諸侯を召して、府舍で待たせろ(詔を待て)」と。
ぼくは思う。成帝が王元后に、過剰に目配りしていておもしろいから、原文にちかい抄訳をつくった。また成帝は、王音に五侯を制御することを期待するが、王音はできない。王音から見ると、五侯は世代が1つ上だし。おろおろする王音は、王鳳が成帝にプレゼントした「友だち」かも知れない。ともあれ、王鳳の死後、王音の時代でなく、五侯の時代がきて、外戚権力は腐った。この腐乱のなかから、次代の王莽と淳于長が出てくる。もし王莽が、いち早く王鳳の後継者になっていれば、五侯と熾烈に衝突して、相互に摩耗して終わっただろう。莽新の時代はこなかった。王音は、王莽の登場を準備するための「もう1人の王莽」である。
是日,詔尚書奏文帝時誅將軍薄昭故事。車騎將軍音藉槀請罪, 商、立、根皆負斧質謝。上不忍誅,然後得已。この日、成帝は尚書に詔して、漢文帝が外戚の薄昭を誅殺した故事を報告させた。車騎將軍の王音はが謝罪して、王商と王立は斧を背負った。成帝は王氏を誅するに忍びなかった。王氏は赦された。
周寿昌はいう。『漢書』文帝紀の注釈に詳しい。薄昭とは文帝の母のおじである。文帝の故事を調べたのは、王氏を誅殺するためである。
ぼくは思う。これは「漢家の故事」に依拠した政策判断なのか。儒教に基づくなら、母の親族を殺すなど、あってはならない。だが「漢家の故事」ならば、それが可能になる。成帝は、自分で記録を読むのでなく、尚書に調べさせる。「漢家の故事」にアクセスして利用するのは、わりに専門的で難しい仕事なのだ。例えば成帝が、みずからできない。発注してると、対応が遅れるし、機密が漏れるのに。
ぼくは思う。儒教はこのとき、「現代史」として経典が編纂される。政治的な判断が反映される。また「漢家の故事」とは、まさに政治的な判断の反映である。儒教と故事を対置するのでなく、もっとダイナミックに混ぜないと、この時代を理解できないのかも。切断すると「理解」できるが、それと同時にいろいろ台無しになるのだ。「ルールを破りながら、ルールをつくる」「ルールをつくりながら、ルールを破る」など、言葉にすると矛盾めいたことが前漢末になされる。後漢代なら、もうちょい価値観が安定するだろうが。
久之,平阿侯譚薨,諡曰安侯,子仁嗣侯。太后憐弟曼蚤死,獨不封,曼寡婦渠供養東宮,子莽幼孤不及等比, 常以為語。平阿侯譚、成都侯商及在位多稱莽者。久之,上復下詔追封曼為新都哀侯,而子莽嗣爵為新都侯。後又封太后姊子淳于長為定陵侯。王氏親屬,侯者凡十人。久しくして、平阿侯の王譚が薨じた。安侯と諡さる。子の王仁が、平阿侯をつぐ。王元后は、弟の王曼が早死したのを憐れ。王曼だけが兄弟で封じられていない。
ぼくは思う。王元后の悪いクセは、一族の者が死ぬと、ついつい「王氏からもっと侯爵を出したい」と考えてしまう。王崇の死で五侯が発生して、王鳳の死で王音が「六侯」に加わり、王譚の死で王莽と淳于長が登場した!王曼の寡婦である渠を、東宮で養った。子の王莽は幼孤で、外戚としての待遇を受けない。つねに王元后は、王莽を話題にした。平阿侯の王譚、成都侯の王商や、爵位にある王氏らは、王莽をたたえた。成帝は、王曼を新都哀侯に追封し、王莽に新都侯を嗣がせる。また王元后の姉子の淳于長を定陵侯とした。王氏の親属から侯爵が10人でた。
ぼくは思う。莽新の国号の由来がでてきた!『補注』注釈なし。
上悔廢平阿侯譚不輔政而薨也,乃復進成都侯商以特進,領城門兵,置幕府,得舉吏如將軍。杜鄴說車騎將軍音令親附商,語在鄴傳。成帝は「平阿侯の王譚に執政させず(王鳳に従って王音に執政させるうち)王譚が死んでしまった。これを悔いる。成都侯の王商に執政させよう。城門兵を領させ、幕府を置かせろ。将軍のように吏人を挙げる権限を王商に与えろ」と。
ぼくは思う。成帝は、王鳳への抵抗に失敗し、王商と王立への抵抗にも失敗した。その結果、王氏の内部の序列を、前漢の権限の序列に一致させた。、なんて書けば難しそうだが、結局は「政治を放棄して、王氏に丸投げした」のだ。王鳳が存命なら、王鳳は政治ができ、王氏の族長でもあった。だが王鳳が死ぬと、成帝は「王氏の序列を無視してまで、王音を重用するのが面倒くさい」となった。皇帝権力が強いなら、王氏の序列がどうあろうが、有能な官僚を使えばよい。むしろ前漢の官職がもとになり、王氏の内部で序列が作られるはずだ。だが、その逆転が起こった。王氏の内部の序列に、前漢が従わなかったことを「悔い」て、明らかに政治に適任でない王商に、政権をゆだねる。さすがに車騎将軍や大将軍にはしたくないから、将軍と同等の人事権をつけて。この点だけは、かろうじて抵抗の痕跡があるかな。杜鄴は王音に「車騎将軍の王音が、王商を(前漢に)親附させろ」と説いた。『漢書』杜鄴伝にある。☆
ぼくは思う。杜鄴伝、読みたいなあ。王音では、王氏を制御できない。成帝が放棄したが、杜鄴は諦めていないようだ。杜鄴が、わざわざ要請するほど、王商は前漢に懐かない。驕慢なのだろう。
王氏爵位日盛,唯音為修整,數諫正,有忠節,輔政八年,薨。弔贈如大將軍,諡曰敬侯。子舜嗣侯,為太僕侍中。特進成都侯商代音為大司馬衛將軍,而紅陽侯立位特進,領城門兵。商輔政四歲,病乞骸骨,天子憫之,更以為大將軍,益封二千戶,賜錢百萬。商薨,弔贈如大將軍故事,諡曰景成侯,子況嗣侯。紅陽侯立次當輔政,有罪過,語在孫寶傳。上乃廢立而用光祿勳曲陽侯根為大司馬票騎將軍,歲餘益封千七百戶。高平侯逢時無材能名稱,是歲薨,諡曰戴侯,子買之嗣侯。王氏の爵位は、日ましに盛んとなる。ただ王音だけが修整・諫正し、忠節がある。輔政8年して、王音は薨じた。
ぼくは思う。成帝の時代は、王鳳と王音の2人が、外戚として執政した。という理解で良さそうだ。次に、王莽のおじの名がいろいろ出てくる。だが成帝末の混乱として、無視することができそう。成帝は王音に、大将軍のような葬礼の器物をあげる。敬侯と諡する。子の王舜が爵位をつぎ、太僕・侍中となる。
特進・成都侯の王商が、大司馬・衛將軍となる。紅陽侯の王立が、特進となり城門兵を領する。王商は輔政4年で、病気なので辞職を願う。成帝は王商を憫れみ、大將軍にして2千戸を益封し、銭1百万を賜う。王商が薨じると、王音の前例どおり、大将軍のように器物をもらい、景成侯と諡される。子の王況が爵位をつぐ。紅陽侯の王立が、つぎに輔政するが、罪過がある。『漢書』孫宝伝にある。☆
ぼくは思う。世代は無視して、執政の順序だけをまとめると。王鳳-王音-王商-王立-王根である。王鳳と王音のあいだに、幻の王譚の執政期がある。成帝が、王商に大将軍を与えるあたりから、「官打ち」が始まっているように見える。
ぼくは思う。「特進」は、つぎの執政者の予約かなあ。このあたり、『補注』はほぼ沈黙を保っている。情報はおおいけど、複雑でないので。王莽が登場する前に、王氏は余りに長い政権を運営するなあ。
成帝は王立を廃して、光祿勳・曲陽侯の王根を用い、大司馬・票騎將軍とする。1年余して、17百戸を益封する。
高平侯の王逢時は、才能がないが名声がある。この歳に王逢時が死んで、戴侯と諡され、子の王買之が爵位をつぐ。
ぼくは思う。才能がないが、王氏の繁栄という「時」に「逢」ったおかげで、高平侯になれた。その子は、「之」つまり爵位を「買」った。この不自然な2字名は、ウソなのか。本当だとしても、同時代に軽蔑され、あだ名をつけられたのか。閉じる
- 哀帝期、王元后が王莽をかくまう
哀帝が即位、王氏が外戚を外れる
綏和元年,上即位二十餘年無繼嗣,而定陶共王已薨,子嗣立為王。王祖母定陶傅太后重賂遺票騎將軍根,為王求漢嗣,根為言,上亦欲立之,遂徵定陶王為太子。時根輔政五歲矣,乞骸骨,上乃益封根五千戶,賜安車駟馬,黃金五百斤,罷就第。綏和元年(前08)、成帝は即位して20余年だが、継嗣がない。弟の定陶共王はすでに死んだので、子が定陶王(哀帝)である。定陶王の祖母・傅太后は、驃騎将軍の王根に賄賂をかさねた。王根の口添えで、定陶王を太子にしてもらう。
ぼくは思う。傅太后の列伝を読んだとき、なぜ賄賂の相手が他の誰でもない王根なのか、と疑問だった。王氏の有力者は多いのに。成帝の末期、たまたま王根が執政者だったのか。というか、それだけ。王鳳のとき、王氏の孫を画策したが、失敗した。王氏は、定陶王を拒むことができない。ときに王根は、5年で引退をねがう。成帝は5千戸を益封した。安車・駟馬、黃金5百斤を賜う。王根を免じて、屋敷に帰した。
ぼくは思う。骸骨を乞われたら=引退を願われたら、官爵や財物をさらに贈るのが、成帝のときの方法。つまり「いまの官爵や財物では、激務に釣りあわないから、辞めるなんて言うのか」というロジックである。本音か建前かは別として、そういうロジックである。
先是定陵侯淳于長以外屬能謀議,為衛尉侍中,在輔政之次。是歲,新都侯莽告長伏罪與紅陽侯立相連, 長下獄死,立就國,語在長傳。故曲陽侯根薦莽以自代,上亦以為莽有忠直節,遂擢莽從侍中騎都尉光祿大夫為大司馬。これより先、定陵侯の淳于長は、外属として謀議ができ、衛尉・侍中となる。王根に次いで輔政する。この歳、新都侯の王莽は、淳于長の罪を告げた。紅陽侯の王立と、淳于長が連なった罪である。
師古はいう。淳于長は、まだ告発されていなかった、古い罪を王莽に暴かれた。ぼくは補う。王立は罪があるから、王根に代わった。いま王根が引退して、王立と同罪である淳于長が執政したら、わざわざ王立を廃した意味がない。淳于長は獄死して、王立は就国した。淳于長伝にある。☆
もと曲陽侯の王根は、自分の代わりに王莽を推薦した。成帝は、王莽が有忠・直節なので、王莽を抜擢し、侍中・騎都尉・光祿大夫から、大司馬にする。
ぼくは思う。王莽は、成帝が死ぬ1年前に大司馬となった。ほぼ「外戚の王氏」の賞味期限が切れた時期だ。というか、王氏が退蔵しまくって、もはや腐っている。王莽にとって、つぎの哀帝期は、不本意な雌伏のときという。だが、もしこのリセット期間がなければ、叔父たちの延長となり、メリハリがなかった。改革どころでなかった。
歲餘,成帝崩,哀帝即位。太后詔莽就第,避帝外家。哀帝初優莽,不聽。莽上書固乞骸骨而退。上乃下詔曰:「曲陽侯根前在位,建社稷策。侍中太僕安陽侯舜往時護太子家,導朕,忠誠專壹,有舊恩。新都侯莽憂勞國家,執義堅固,庶幾與為治,太皇太后詔休就第,朕甚閔焉。其益封根二千戶,舜五百戶,莽三百五十戶。以莽為特進,朝朔望。」又還紅陽侯立京師。哀帝少而聞知王氏驕盛,心不能善,以初立,故優之。1年余して、成帝が崩じた。哀帝が即位した。王元后が詔して、王莽を帰宅させる。王元后は王莽に、哀帝の外戚との接触を避けさせた。
ぼくは思う。外戚の王氏を退蔵させているのは、この王元后の執着心だ。上にも書いたが、「野心家の王莽と、被害者の王元后」という構図は、まったくの誤りだ。というか、逆転させても良いほどだw哀帝は、はじめ王莽に優しいので、王莽の帰宅を聴さず。王莽は上書して、つよく引退を願って退出した。哀帝は詔した。「曲陽侯の王根は、社稷の策を建てた。侍中・太僕・安陽侯の王舜は、かつて太子の私を護衛した。旧恩がある。新都侯の王莽は、國家を憂勞し、執義すること堅固。私は王莽と統治をやりたい。王元后が王莽を帰宅させたが、私はそれを閔れむ。王根に2千戸、王舜に5百戸、王莽に350戸を増封せよ。
ぼくは思う。王莽がいちばん増封が少ない!まだ、執政の経験がある王根がいる。この王根は、特大の戸数をもらう。王舜は、個人的な恩義を「精算」する目的で増封する。王莽を特進とし、新月と満月に朝廷にこい」と。また(罪により就国した)王立を京師にもどした。哀帝は小さなころから王氏の驕盛を聞いており、心では王氏と馴染まない。だが即位したばかりなので、王氏を優遇した。
ぼくは思う。王元后が王莽を帰宅させたのは、「母心」だろう。王莽を保護したいという母性だろう。王根までは、すでに執政を終えた。世代の上である。だが王莽は、未来がある。王元后が哀帝の外戚を倒してから、王元后が地ならしをしてから、王莽を迎えるつもりだろう。王莽の学識と仁徳は、王元后に母性を発揮させるのに充分。
ぼくは思う。また哀帝は、王莽がひっこんで、王氏の執政者がいない朝廷が、ぎゃくに不気味である。王莽が出てきて、きちんと権力闘争をして、傷ついて、王氏が衰退するところまで、役者を務めあげてほしかろう。王莽が出てこないと、哀帝は王氏を衰退させることもできないのだ。そういう意味で王莽の就国は、「戦略的な撤退」なんだろう。皮肉やレトリックでなく。また結果(王氏の再興)に引きずられずとも、そう思う。
後月餘,司隸校尉解光奏:「曲陽根宗重身尊,三世據權,五將秉政,天下輻湊自效。 根行貪邪,臧累鉅萬,縱橫恣意, 大治(第宅)〔室第〕, 第中起土山,立兩市,殿上赤墀,戶青瑣;遊觀射獵,使奴從者被甲持弓弩,陳為步兵;止宿離宮,水衡共張, 發民治道,百姓苦其役。內懷姦邪,欲筦朝政, 推親近吏主簿張業以為尚書,蔽上壅下,內塞王路,外交藩臣,驕奢僭上,壞亂制度。案根骨肉至親,社稷大臣, 先帝棄天下,根不悲哀思慕,山陵未成,公聘取故掖庭女樂五官殷嚴、王飛君等, 置酒歌舞,捐忘先帝厚恩,背臣子義。及根兄子成都侯況幸得以外親繼父為列侯侍中,不思報厚恩,亦聘取故掖庭貴人以為妻,皆無人臣禮,大不敬不道。」於是天子曰:「先帝遇根、況父子,至厚也,今乃背忘恩義!」以根嘗建社稷之策, 遣就國。免況為庶人,歸故郡。根及況父商所薦舉為官者,皆罷。1ヶ月余して、司隸校尉の解光が奏した。
銭大昭はいう。「校尉」2字は、衍字である。「曲陽侯の王根は、3世で5将軍が執政するから、巨万の財産を集め、奢侈な土木工事をやり百姓を苦しめる。近吏・主簿の張業を尚書として、政治を損なう。王氏は成帝の外戚だが、成帝の山陵ができる前に、成帝の後宮の女官を奪う。王根の兄子・成都侯の王況は、父をついで列侯・侍中であるが、後宮の貴人をめとり妻とする。不敬・不道である」と。
哀帝はいう。「王根と王況は、成帝の恩義に背忘した」と。王根は社稷の策を建てた(哀帝を即位させた)から、就国とした。王況を免じて庶人として帰郷させた。王根と、王況の父・王商が、推挙した官僚は、みな辞めた。
ぼくは思う。哀帝初、王氏の有力者は、王根と王況のようです。官僚を推挙した実績があることが、何よりもの権勢のあかし。奢侈とか、あまり重要でない。ところで、王莽は、目の敵にされない。まだ執政者になったばかりだからか。もしくは、成帝末に執政したというのは「王莽をもちあげる神話」で、実際はそれほど凄くなかった?
後二歲,傅太后、帝母丁姬皆稱尊號。有司奏「新都侯莽前為大司馬,貶抑尊號之議,虧損孝道,及平阿侯仁臧匿趙昭儀親屬,皆就國。」天下多冤王氏。2年後、哀帝の母系である、祖父の傅太后、母の丁姫に尊号を贈ろうとした。有司は奏した。「新都侯の王莽は、さきに大司馬だったが尊号に反対して、哀帝の孝を妨害する。また平阿侯の王仁は、趙昭儀(成帝の皇后・趙飛燕の妹)の親属をかくまう。王莽と王仁を就国させろ」と。天下の多くは、王氏の冤罪だと考えた。
ぼくは思う。王莽が就国したのは事実だが。「王莽が強行に哀帝に反対して、哀帝の母系をけなした」というのは、事実でなさそう。史料操作のにおいがする。どうやら王莽は、大司馬としての手腕を発揮する前に、王元后によって(王氏にとって積極的かつ戦略的に)辞職した。傷つくことを回避された。成帝が執政し、王根と王況のような、主要な人材が政争に敗れたので、巻きこまれて就国した。なんでも王莽を主人公にして把握したら、単純化して分かりやすいが、まだ王莽は主役でない。王莽以前の王氏が、思ったより盛んなので、ぎゃくに驚いてます。
諫大夫楊宣上封事言:「孝成皇帝深惟宗廟之重,稱述陛下至德以承天序,聖策深遠,恩德至厚。惟念先帝之意,豈不欲以陛下自代,奉承東宮哉! 太皇太后春秋七十,數更憂傷, 敕令親屬引領以避丁、傅。 行道之人為之隕涕,況於陛下,時登高遠望,獨不慙於延陵乎!」哀帝深感其言,復封商中子邑為成都侯。
元壽元年,日蝕。賢良對策多訟新都侯莽者,上於是徵莽及平阿侯仁還京師侍太后。 曲陽侯根薨,國除。諫大夫の楊宣は上封した。「成帝は外戚を重んじて、王氏が栄えた。成帝が哀帝に天子を嗣がせるとき、成帝の母・王元后を東宮で養うこと(王氏を虐げないこと)を願ったはずだ。王元后は70歳である。王元后は心を憂傷し、哀帝の母系である傅氏と丁氏を避けようとする。道行く人も(老いた王元后の自分勝手な態度を怪しみ、哀帝の母系のために)隕涕する。まして哀帝の悲しさはもっと大きい。(王元后を適切に介護してあげねば)延陵=成帝に申し訳がたたない」と。哀帝は感じ入り、再び王商の中子・王邑を成都侯とした。
ぼくは思う。哀帝は、王氏を政敵と見なさない。もはや「介護してやるべき、前時代の残骸」と見ている。哀帝は若く、王元后はばあさんである。哀帝が、そういう発想しても自然である。爵位はあげるが、嗣がせない。官職はあげない。この方針により、王氏が退場するのは時間の問題である。元寿元年(前02)、日食あり。賢良は対策して、新都侯の王莽(の冤罪)を訴えた。哀帝は、王莽と平阿公の王仁を、京師にもどし、王元后に侍らせた。
ぼくは思う。王莽は官職にもどったのでなく、王元后のそばに置かれただけ。王氏を主要な官職を除くのは、とっくに完了した自明のこと。哀帝の親属が、高官にある。王莽の帰国は、王元后と会わせないという私的なペナルティである。新都侯として長安にいない王莽は、「おばに会えない」という刑罰を受けた。賢良は「それは王元后が可哀想だ」というが、「王莽を官職にもどせ」とまでは言わない。同情されてる。曲陽侯の王根が薨じ、国が除かれた。
ぼくは思う。哀帝は、口実を設けて王氏の爵位をはがす。しかし反対があるのは事実。ゆえに、王氏の現行世代が死に絶えたタイミングで、順番に国を除いていく。合理的だ。やはり王氏は「前世代の遺物」である。閉じる
- 平帝と孺子期、王莽が王元后を圧倒
平帝期、王莽が王元后を「母殺し」する
明年,哀帝崩,無子,太皇太后以莽為大司馬,與共徵立中山王奉哀帝後,是為平帝。帝年九歲,(常)〔當〕年被疾, 太后臨朝,委政於莽,莽顓威福。翌年(前01)、哀帝が崩じた。子なし。王元后は王莽を大司馬として、ともに中山王を徴して天子とした。平帝である。平帝は9歳で病気がち。王元后が臨朝して、王莽に政治を委任する。
ぼくは思う。王氏が毒殺すべきは、むしろこの哀帝だった。だが毒殺するほど、中央に近くなかったが。王元后は70歳を越えたので、「何もできない」と哀帝に見積もられた。だが哀帝の死後、みょうにがんばった。王莽を大司馬にしたことより、平帝の外戚を長安に入れないことが、王元后の重要な政治判断である。これを判断して実行できたのは、王元后だろう。王元后の「王氏を盛りたてたい」という意志は、70歳を越えてなお(越えたからこそ)より強固である。まだ王莽のしわざでない。
王氏の権力の源泉は、皇帝の母だったこと。だが平帝の母でも祖母でもない。しかし、平帝の母系を「消毒」し、平帝を成帝の「もらい子」にすることで、王氏が君臨する。同じ権力の源泉のロジックなら、平帝の母系が(哀帝の母系のように)君臨しても不思議でないが、それを敢えて潰した。平帝の祖母・馮太后は、すでに傅太后に滅ぼされた。母の衛姫だけがいる。
紅陽侯立莽諸父,平阿侯仁素剛直,莽內憚之,令大臣以罪過奏遣立、仁就國。莽日誑燿太后,言輔政致太平,羣臣奏請尊莽為安漢公。後遂遣使者迫守立、仁令自殺,賜立諡曰荒侯,子柱嗣,仁諡曰刺侯,子術嗣。是歲,元始三年也。明年,莽風羣臣奏立莽女為皇后。 又奏尊莽為宰衡,莽母及兩子皆封為列侯,語在莽傳。紅陽侯の王立は、王莽の諸父である。平阿侯の王仁は剛直である。王莽は内心で憚る。大臣に罪を奏させ、王立と王仁を就国させた。王莽は、王元后を誑燿して、「輔政して太平にするよ」という。群臣に奏させ、王莽を安漢公に推させた。使者をやり、王立と王仁を自殺させた。王立を荒侯とし、子の王柱がつぐ。王仁を刺侯として、子の王術がつぐ。元始3年(後03)である。
ぼくは思う。王莽が安漢公になるあたりから、王莽の「母殺し」が起動するなあ。王莽から見ると王元后は、王氏を甘やかして、王立と王仁のような悪者をのさばらせた。一族を栄えさせるのは、王元后の「母性愛」なのだが、正しい政治を志す王莽にとっては、「甘すぎる」のだ。王立と王仁の諡号は、どちらも悪い意味。王莽の反発心が見える。王莽の政治は、まず「殺母」によって始まった。前漢を改革する、簒奪する、というのは、その次の段階の話だ。
ぼくは思う。王元后から見れば、「なぜ王莽は、わが家族の王氏でありながら、家族を弾圧するのでしょう。なぜ家族に、政治的な儒教的な正しさを求めるのでしょう。家族なら、みんな好きにさせる。それでいいじゃないの」であろう。翌年、王莽は群臣に風して、王莽の娘を皇后とした。
ぼくは思う。王莽の娘が皇后となる意味は。王元后の支配を脱するためだ。王元后は成帝の母に違いない。だが王莽から見ると、王氏を甘やかしすぎる。むしろ老害。ゆえに王莽は「皇后の父」となることで、王元后よりも皇帝との距離が近い親属になる。王元后の言うことを、聞く必要がない。王元后は平帝の「義理の祖母」であるが、王莽は平帝の「皇后の実父」なのだ。また王莽は宰衡となる。王莽の母と2人の子が列侯となる。王莽伝にある。
ぼくは思う。王禁の子、王元后と王鳳を「王氏」と読んでいたが。ここにおいて、別家である「王莽の王氏」が立ち上がった。王莽が、王仁と王立を排斥したように、前者と後者は区別されるべきだ。
そして『補注』はほぼ沈黙のまま。王莽伝で、たっぷり情報をくれるのか? もしくは、『補注』が注釈するまでもなく、班固が本文に書き込んだのか。班固の記述は、陳寿のように「欠落を埋める」という欲望を喚起しないのか。あまりに完成しているから、「どのように読むか」という姿勢からしか、読者は出発できない。
莽既外壹羣臣,令稱己功德,又內媚事旁側長御以下,賂遺以千萬數。白尊太后姊妹君俠為廣恩君,君力為廣惠君,君弟為廣施君,皆食湯沐邑,日夜共譽莽。莽又知太后婦人厭居深宮中,莽欲虞樂以市其權, 乃令太后四時車駕巡狩四郊,存見孤寡貞婦。春幸繭館, 率皇后列侯夫人桑,遵霸水而祓除; 夏遊篽宿、鄠、杜之間; 秋歷東館,望昆明,集黃山宮;冬饗飲飛羽, 校獵上蘭, 登長平館, 臨涇水而覽焉。太后所至屬縣,輒施恩惠,賜民錢帛牛酒,歲以為常。太后從容言曰: 「我始入太子家時,見於丙殿,至今五六十歲尚頗識之。」 莽因曰:「太子宮幸近,可壹往遊觀,不足以為勞。」於是太后幸太子宮,甚說。 太后旁弄兒病在外舍, 莽自親候之。其欲得太后意如此。王莽はすでに外台にいて、群臣に功徳を称えられる。内では後宮の長御より以下に、千万の賄賂をあたえる。王元后の姉妹に「君」の称号と沐邑をあげる。女性らも王莽を誉めた。
ぼくは思う。王元后の姉妹だから、みんな、ばあさんである。もはや、「老人のおもちゃ」を与えて、この世からのご退場を、エスコートしているように見える。ポトラッチ的に、特権や勲章をもらうと、人間は執着がうすれて、あの世に旅立ちやすくなるようです。王莽は、王元后ら婦人が、宮中で退屈しているので、ツアーを組んだ。王元后は「私が成帝の太子宮に入ったとき、この丙殿で成帝に会った。5,60年前だ。懐かしい」という。王莽は、思い出の地に案内して、王元后を歓ばせた。
ぼくは思う。巡行のルートや、ツアーの内容ははぶく。上海古籍6029頁。王元后の弄子が病気になると、王莽が見舞った。
ぼくは思う。王元后に気に入れられるための演出で、見え見えすぎて『漢書』に本音を暴露されているが、王莽の心遣いが優秀であることは確かだ。サービスが人気のホテルが、「金銭の奴隷め。そんなに宿泊料金が欲しいのか」と軽蔑されることはない。サービスの質は、きちんと評価される。同じように、王莽も賞賛されていいと思う。
ぼくは思う。王莽に権力を担当させたのは、王元后だ。王莽の接待に、目じりを下げていたのも、王元后だ。王元后は、王莽が可愛いのだろう。だが王莽は、王元后に巧みにへりくだりながら、果実を刈り取ってゆく。伯父の王鳳と同じやり方だ。王莽が「欺く」のに最もパワーを費やした相手は、元后だろう。敵は、天下万民でもなければ、百官百卿でもなかった。顔の見えない天下万民なんて、埒外である。百官のなかに、王莽の進捗をとめる者が出てこない。『漢書』の性質上、王莽の反対者を、もっと強調しても良さそうなのに。
王莽が居摂し、践祚する
平帝崩,無子,莽徵宣帝玄孫選最少者廣戚侯子劉嬰,年二歲,託以卜相為最吉。乃風公卿奏請立嬰為孺子, 令宰衡安漢公莽踐祚居攝,如周公傅成王故事。太后不以為可,力不能禁,於是莽遂為攝皇帝,改元稱制焉。俄而宗室安衆侯劉崇及東郡太守翟義等惡之,更舉兵欲誅莽。 太后聞之,曰:「人心不相遠也。 我雖婦人,亦知莽必以是自危,不可。」其後,莽遂以符命自立為真皇帝,先奉諸符瑞以白太后,太后大驚。平帝が崩じて、子なし。王莽は宣帝の玄孫のうち、最少者の者を選ぶ。廣戚侯の子・劉嬰である。年2歳。
ぼくは思う。元帝の子孫が絶えたという。これで完全に、王元后の政治的な立場がなくなった。「成帝の母」であることの意味がないから。2歳の劉嬰は、皇帝即位していないともされる。もはや完全に「空虚な中心」である。神話めいてきた。
本題に関係ないが、いま思ったこと。「受肉する荀彧」を書く準備ができそう。受肉とは、等号の魔力ないしは暴力である。どういうことか。ユダヤの全能の神が、たかが人間のイエスとして生まれた(肉を受けた)。結果、全く違うはずの神と人間が、イコールで結ばれた。普遍性を持たなかったユダヤ教は、この等号によって「キリスト教」に変化し、世界に広がるべき普遍性を獲得する。漢室という「神」が、荀彧という「人」に受肉し、曹操に殺された。曹操は、神を殺すことができないが、まずは受肉した荀彧を、十字架(というより、寿春の駐屯地)で殺した。キリスト教の諸論に沿えば、荀彧論をやれそうだ。大澤真幸『〈世界史〉の哲学』読み中。
卜相が「劉嬰が最も良い」という。王莽は公卿に諷して、劉嬰を「孺子」とした。宰衡・安漢公の王莽が、居摂して践祚した。周公の故事のとおり。
ぼくは思う。劉氏の君主は「天子」ではなく「孺子」である。どちらも「子」がついてる。「子」は、大人が約束してつくった象徴界から自由である。現世でもっとも高位にある「天子」と、生死に接近した「孺子」は、一周まわって、メビウスの輪のようにつながってる。クラインの壺も、クロスキャップも、「表と裏」「内部と外部」という区分けを拒否する。「表と思ったら裏で、裏と思ったら表で」では、表現が充分でない。そういう区分けができない。これを区分けるためには、「解釈」という切断をしなければならない。王莽による「孺子」は、この区分けがない、ラカン的な、精神病的な、前分析的な、概念だと思う。王莽は、象徴界の天才であるのに(天才であるからこそ)象徴界の限界を見定め、現実界や想像界にアクセスする。「もっとも切れ味のよい剣を持つ者だけが、誰にも斬れない者を知る」という逆説だなあ。
ぼくは思う。きちんと王莽が「践祚」したとある。べつに解釈論を戦わせる必要はなくて、王莽は皇帝即位している。『尚書』の周公の故事に基づくのは事実だろうが、7年という期限つきであれ、皇帝即位した。
ぼくは思う。魏王の曹丕は、成人して践祚(≒即位)を確実に済ませた献帝を降ろした。期間限定7年とはいえ、すでに践祚した安漢公の王莽は、2歳で「孺子」という未分化で不可解な称号の劉嬰を降ろした。王莽のほうが、はるかに「落差」「飛び幅」が小さいことに注意したい。「王莽は急撃にやり、曹丕は慎重にやる。だから前者は失敗し、後者は成功した」は明らかな誤り。ぎゃく。王元后は王莽の居摂・践祚に反対だが、禁じられない。王莽はついに「摂皇帝」となる。改元して称制した。
ぼくは思う。まるで『補注』がない。書くべきことは、王莽伝に全部ある。ここで重複して、注釈する必要がないのだろう。にわかに宗室の安衆侯の劉崇と、東郡太守の翟義らが王莽を悪み、挙兵した。王元后は挙兵を聞いた。「男女の心理は、それほど違わない。私は婦人だが、王莽が危ういのは分かる。もう王莽はダメだ」と。
ぼくは思う。王元后の絶望のセリフは、王莽の「母殺し」が見事に成功したことを示す。はじめ幼児は、母の歓ぶことをやる。母は、自分が理解できないことを子がやっても、子を褒めない。だから、母から自立しない限り、母の理解の範囲で子は育つ。
ぼくは思う。王元后は、実子の成帝には「母殺し」されなかったが、同族の従子の王莽には「母殺し」をされた。王元后は確かに悲劇だが、こういう悲劇は、どの家庭でも起きており、精神を病ませる原因になっているwのちに王莽は符命を理由に「真皇帝」になるという。王莽は王元后に、符瑞を奉る。王元后は大驚した。
初,漢高祖入咸陽至霸上,秦王子嬰降於軹道,奉上始皇璽。及高祖誅項籍,即天子位,因御服其璽,世世傳受,號曰漢傳國璽。以孺子未立,璽臧長樂宮。及莽即位,請璽,太后不肯授莽。莽使安陽侯舜諭指。舜素謹敕,太后雅愛信之。舜既見,太后知其為莽求璽,怒罵之曰:「而屬父子宗族蒙漢家力,富貴累世, 既無以報,受人孤寄,乘便利時,奪取其國, 不復顧恩義。人如此者,狗豬不食其餘, 天子豈有而兄弟邪!且若自以金匱符命為新皇帝, 變更正朔服制,亦當自更作璽,傳之萬世,何用此亡國不祥璽為,而欲求之?我漢家老寡婦,旦暮且死,欲與此璽俱葬,終不可得!」はじめ高祖が咸陽に入ると、秦帝の子嬰から始皇璽をもらう。高祖が天子に即くとき、始皇璽を身につけた。「漢伝国璽」とよぶ。孺子がいまだ立たないので、伝国璽は長楽宮にある。王莽が即位するとき、伝国璽を欲した。
ぼくは思う。頼りないから、象徴化したものを欲する。つまり、毎日が楽しくないから、記念日をつくる。関係性が安定しないから、おそろいの装飾品を身につける。自我の確立しない若者が、やりがちである。秦帝から漢高祖への権力の継承が、万人に納得されないから、始皇璽を「伝国璽」と読み換えて身につける。いま王莽の革命に伝国璽が使われても、「本来の用途そのまま」である。王元后は、王莽に渡したくないようだが、渡すしかない。なぜなら漢新革命は、秦漢革命よりも危ういから。統一戦争という供犠を差し出していないから、さらに不安定である。王莽の従弟・安陽侯の王舜が、王元后を説得にゆく。王元后はいう。「金匱と符命により新たな皇帝になるなら、正朔と服制を変更して、璽を自作すれば良い。どうして秦漢の璽を求めるのか。
ぼくは思う。正論だ! すげー! しかし「新たな王朝ゆえに、旧王朝とのつながりを欲する」というのは、漢高祖がやったことだ。そして後漢がやったこと。後漢は、前漢との連続性が少ない。かつて『後漢書』を読みながら、光武帝には劉氏にライバルが多いこと、光武帝は血筋が前漢から遠く、軍事的にも後出であり、前漢を嗣ぐ必然性がないことを確認した。それゆえに、前漢と王莽の育てた、漢家の故事と、儒教の経義を濃厚に受け継いで、国づくりをした。
ぼくは思う。前漢の中期までのように、体系化された思想装置がなくても統治できるなら、それに越したことがない。「働かなくて食えるなら、働かないよ。でも食えないから、生産性をあげる工夫をするよ」と同型だと思う。食えない者ほど、勤労に関する哲学が発達する。親が建てたマンションの家賃で生きている若者が、同窓会で「堕落者」のように言われる倒錯が起きる。私は漢家の老いた寡婦である。今日にも死ぬ。私は伝国璽とともに葬られたいが、叶わなくなった」と。
ぼくは思う。伝国璽は、埋葬しちゃだめだよw 充分に練られた政治声明じゃないにしろ。王元后の本質がわかる。つまり王元后は、退蔵するおばあさんである。昔話や推理小説で、たっぷり財産と名誉をためこみ、枯れ枝のような指を宝石でゴテゴテにデコる。そして殺される。というパターン。王氏に爵位を呼びこんだのも、この性質による。
太后因涕泣而言,旁側長御以下皆垂涕。舜亦悲不能自止,良久乃仰謂太后:「臣等已無可言者。 莽必欲得傳國璽,太后寧能終不與邪!」太后聞舜語切,恐莽欲脅之,乃出漢傳國璽,投之地以授舜,曰:「我老已死,(知)〔如〕而兄弟,今族滅也!」 舜既得傳國璽,奏之,莽大說,乃為太后置酒未央宮漸臺,大縱衆樂。王元后が涕泣し、そばの長御らも垂涕した。王舜が「必ず王莽が伝国璽を得るだろう」と迫るから、王元后は伝国璽を地に投げた。「もう私は死ぬが、王莽と王舜の兄弟(従兄弟)は、いまに族滅される」と。王舜は伝国璽を得て、王莽にわたす。王莽は悦び、王元后を未央宮の漸臺によび、酒宴する。
沈欽韓はいう。『玉璽記』はいう。王元后が伝国璽を地に投げたから、上の1角が欠けたと。『後漢書』曹皇后紀はいう。曹丕が璽綬を求めると、曹皇后は地に投げたと。これは『漢書』王元后伝に似てる。
莽又欲改太后漢家舊號,易其璽綬,恐不見聽,而莽疏屬王諫欲諂莽,上書言:「皇天廢去漢而命立新室,太皇太后不宜稱尊號,當隨漢廢,以奉天命。」莽乃車駕至東宮,親以其書白太后。太后曰:「此言是也!」 莽因曰:「此誖德之臣也, 罪當誅!」王莽は王元后に、漢家の旧号を辞めさせ、璽綬を変えたい。王元后が許さないのを恐れた。王莽の疏属の王諫が王莽にへつらって上書した。「漢室の天命は、新室にうつる。王皇太后という前漢の尊号を使うべきでない(王皇太后の地位を落とすべきだ)」と。
ぼくは思う。王諫は「王莽と王元后が対立している」と見て、王元后を過剰にけなしてしまった。王莽はそこまで望まない。「母殺し」は、あくまで象徴的にやることである。実際に殺したいのでない。つまり実際に、王元后の爵位を貶めたいのでない。実際に殺したら、精神分析のマターでなく、殺人事件のマターになる。王莽は車駕で東宮にゆき、王諫の上書を、王元后に見せた。王元后は「王諫は正しい。私は漢室の尊号を使えない」という。
師古はいう。これは王元后が怒ったセリフであると。つまり「王諫めが、正しいことを言いやがる」とでも意訳すべきか。しかしぼくは、王元后が同意したように見える。というか文字どおり読めば、そうなる。王莽は、王元后が「王諫を許せない」と怒るか、「新室の尊号をくれ」と言うかを期待した。だが王元后が、王莽の期待に反して、投げやりに合意したように見える。王莽はいう。「王諫は誖德之臣である。誅すべきだ」と。
於是冠軍張永獻符命銅璧,文言「太皇太后當為新室文母太皇太后」。 莽乃下詔曰:「予視羣公,咸曰『休哉! 其文字非刻非畫,厥性自然。』予伏念皇天命予為子,更命太皇太后為『新室文母太皇太后』,協于新(室)故交代之際, 信於漢氏。哀帝之代,世傳行詔籌,為西王母共具之祥, 當為歷代(為)母, 昭然著明。予祗畏天命,敢不欽承!謹以令月吉日,親率羣公諸侯卿士,奉上皇太后璽紱, 以當順天心,光于四海焉。」太后聽許。莽於是鴆殺王諫,而封張永為貢符子。ここにおいて、冠軍県(南陽郡)の張永が、符命・銅璧を献上した。「太皇太后は、新室文母太皇太后となれ」とある。王莽が詔を下した。「銅璧には、刻むのでなく描くのでなく、自然と文字が浮き出ている。王元后をこの称号に変えよう。王元后は、西王母のような人物である」と。
ぼくは思う。なんで人の手を経ずに漢字が表れるのか? なんて突っ込みは、してはいけない。天意なんだ。例えば「母」という字は、乳房を連想した字形だから、百歩譲って、天然100%で浮き上がるかも知れない。だが「太」は、「大」という漢字に意味を付け加えるため「、」を加えたものだから、天然100%ということはなかろう。人間による「差異の体系」への志向性が紛れ込んでいるだろう。シニフィアンが連鎖しているだろう。
王元后は称号を変えた。王莽は王諫を鴆殺した。張永を貢符子とした。
ぼくは思う。貢符子とは、貢符の子爵?
ぼくは思う。『補注』は、版本による異同とか、ちょっとした語釈をやるだけ。『三国志集解』のように、事実関係を補足してくれない。『漢書』が唯一絶対すぎるのだ。突っこまれるべき、ワキの甘さを作った陳寿は、ぎゃくに偉大だ。開かれた知性を担保した。『漢書』を読むことは訓詁学だが、『三国志』を読むことは小説的な創作となる。ならないと主張する(主張すべき)人も多いけれどw
元帝の陵墓を毀され、84歳で死ぬ
初,莽為安漢公時,又諂太后,奏尊元帝廟為高宗,太后晏駕後當以禮配食云。及莽改〔號〕太后為新室文母, 絕之於漢,不令得體元帝。墮壞孝元廟, 更為文母太后起廟,獨置孝元廟故殿以為文母篹食堂, 既成,名曰長壽宮。以太后在,故未謂之廟。莽以太后好出遊觀,乃車駕置酒長壽宮,請太后。既至,見孝元廟廢徹塗地,太后驚,泣曰:「此漢家宗廟,皆有神靈,與何治而壞之! 何為毀壞之!」 且使鬼神無知,又何用廟為!如令有知,我乃人之妃妾,豈宜辱帝之堂以陳饋食哉!」私謂左右曰:「此人嫚神多矣,能久得祐乎!」飲酒不樂而罷。はじめ王莽が安漢公のとき、王元后にへつらい、元帝廟を「高宗」とした。王莽が王元后を「新室文母」に改めると、漢室との関係性を絶やすため、元帝の祭祀を停止させた。元帝廟を壊し、その一部の建材を流用して文母太后(王元后)の廟に改めて「長寿宮」とする。
ぼくは思う。元帝と王元后を並べて祭るのでなく、いちどは「高宗」として不毀の気配を見せた廟を、王元后の廟に置き換える。上書きである。元帝に始まる、前漢末期の皇帝たちを、王元后に象徴させ、置換して、新室の一部としたのか。王元后は遊観が好きで、車駕に酒を置き、長寿宮にゆく。元帝廟が壊されているので、驚き泣いた。「漢家の宗廟には、神霊がいる。漢家になんの罪があって、廟を壊したか。神霊がないなら廟はいらない。王莽も廟をつくるから、神霊があると考えるのだろう。私は元帝(の神霊)の妃妾である。どうして元帝の堂を辱めて、食物を供えられるか」と。王元后は左右に「王莽は神霊をけなす。神霊の援助を得られない」という。飲酒しても楽しまず、長寿宮を立ち去った。
ぼくは思う。このあたりは、「心理の機微を読み取れない王莽」が浮かびあがる。同時に「血縁者の心理を暗転させても、象徴界に整合性が必要。むしろ象徴化とは切り捨てる働きのことだから、王莽の判断で”正しい”のだ」とも考えられる。
自莽篡位後,知太后怨恨,求所以媚太后無不為,然愈不說。 莽更漢家黑貂,著黃貂, 又改漢正朔伏臘日。太后令其官屬黑貂,至漢家正臘日,獨與其左右相對飲酒食。簒奪してから王莽は、王元后に怨恨されると知る。王元后にこびたいが、失敗する。漢家の黒貂を、黄貂に改めた。漢家の正朔・伏臘の日を改めた。王元后は漢家の制度を使いつづけ、(王莽と会わずに)左右の者とだけ飲食した。
孟康はいう。侍中がつける「貂」である。
沈欽韓はいう。『通典』で高堂隆が伏臘を説明し、宋代の祝穆『事文類集』で漢代の伏臘を記す。ぼくがよく分からないので、はぶく。『後漢書』陳寵伝はいう。陳寵の祖父・陳咸は、王莽のときに漢代の祖臘をつづけた。陳咸は「どうして王氏の祖臘を知るもんか」という。
ぼくは思う。正朔や服制も、「差異の体系」です。違うことに意味があり、違うこと以外に意味がない。王莽の政権を受け入れない態度とは、王莽に対する挙兵よりも、「漢家と同じで、王莽と違う」制度に従うこと。後者のほうが、本質的な問題なので、王莽にとってダメージが大きい。
太后年八十四,建國五年二月癸丑崩。三月乙酉,合葬渭陵。莽詔大夫揚雄作誄曰:「太陰之精,沙麓之靈,作合於漢,配元生成。」著其協於元城沙麓。(泰)〔太〕陰精者, 謂夢月也。太后崩後十年,漢兵誅莽。
初,紅陽侯立就國南陽,與諸劉結恩,立少子丹為中山太守。世祖初起,丹降為將軍,戰死。上閔之,封丹子泓為武桓侯,至今。王元后は84歳で、建国5年2月癸丑に崩じた。3月乙酉、渭陵に葬られた。王莽は詔して、大夫揚雄に「誄」を書かせた。「月の精から生まれた王元后は、婚前に予言されたように、漢家と婚姻して、元帝から成帝を生んだ」と。
王先慎はいう。揚雄のつくった誄は、『類集』15、『古文苑』20にある。ぼくは思う。文中はムリに「分かりやすく」抄訳してしまったが。「元」「成」というのは、ほのめかしだろう。
ぼくは思う。王元后の死後、こうして揚雄に謳われた事実によって、王元后の誕生前、婚姻前の神話が生まれた可能性だってある。史料を読むときは、往復運動をするとおもしろい。「太陰」とは女性の最高位である。べつに月の夢が、事前に用意されていなくても、揚雄が連想することができる。王元后が崩じて10年後、王莽は漢兵に誅された。
はじめ紅陽侯の王立は、南陽に就国した。諸劉と結恩した。王立の少子・王丹は、中山太守となる。何焯はいう。『後漢書』王丹伝の王丹とは、別人である。周寿昌はいう。中山郡は元帝の永元2年から、中山国にもどった。平帝のとき、王元后は桃郷侯を中山王にして、中山孝王(平帝の父)のあとを嗣がせた。
何焯はいう。王立は紅陽に封じられた。成帝の河平2年である。平帝の元始4年、子の王桂がつぐ。ときに中山国が、まだ廃されない。ゆえに中山太守を置けないはずだ。王丹が中山太守となったのは、莽新のときか。しかるに王莽は、中山を常山と改称した。太守を卒正、連率、大尹とした。「中山太守」は莽新のときいない。
光武帝が起兵すると、王丹は将軍となるが戦死した。光武帝は、王丹の子・王泓を武桓侯とした。
周寿昌はいう。(諸侯王)表によると、建武元年、王泓は父の王丹が将軍だったので、武桓侯となる。この王元后伝と同じである。だが『後漢書』は王丹の記事を載せない。
ぼくは思う。これが、パンドラの箱に残った1つだけの希望か。王泓は「二王の後」として扱ってもらえない。もしかすると班固と同時代には、まだ王泓かその子ぐらいが、現存したかも知れない。
司徒掾班彪曰:三代以來,春秋所記,王公國君,與其失世,稀不以女寵。漢興,后妃之家呂、霍、上官,幾危國者數矣。及王莽之興,由孝元后歷漢四世為天下母,饗國六十餘載,羣弟世權,更持國柄, 五將十侯,卒成新都。位號已移於天下,而元后卷卷猶握一璽, 不欲以授莽,婦人之仁,悲夫!司徒掾の班彪はいう。前漢の外戚は、呂氏、霍氏、上官氏が国家を危うくした。だが王元后は、漢帝4代のとき天下の母となり、60余年も権力の座にいた。王氏から、5将10侯がでた。ついに王莽がでた。王元后は、王莽から伝国璽を守ろうとした。婦人之仁、悲しきかな。130205
ぼくは思う。王元后の行動は、ふつうに列伝を読むと、呂氏、霍氏、上官氏の同類だと思う。しかし最後に王莽が出たおかげで、評価が逆転して「漢家を守った母」となった。プロセスと結果が乖離して、誤読されやすいのは、すべての史料の特徴。
ぼくは思う。地の文で書いてあることと、最後についた評価のギャップが、『漢書』の特徴。王元后は、呂后の再来のように見えて、最後は「漢家の良き母」とする。王莽は、周公のような名臣のように見えて、最後は「簒奪者め」とする。これが学術論文だったら、「結論と論証が整合しない」ことになる。班固が発明した、紀伝体という史書においては、このギャップも含めて、味わいだったのかも知れない。
ぼくは思う。青汁の「まずい、もう1杯」というのが、歴史に残るCMになったように。かんたんに整合性に回収されない宙づりなところが、史書を開かれたものにする。「王莽伝を書きたいから、班氏は『漢書』をつくった」と、目的と結果を逆転したような言説が出るほどだが、これが良いのだ。つぎ、王莽伝かなあ!閉じる