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- 成帝の外戚;許皇后、班倢伃、趙皇后と趙昭儀
元帝の王皇后
孝元王皇后,成帝母也。家凡十侯,五大司馬, 外戚莫盛焉。自有傳。元帝の王皇后は、成帝の母である。王氏から10人の侯爵、5人の大司馬がでた。もっとも盛んな外戚である。王元后伝がある。
師古曰:「十侯者,陽平頃侯禁、禁子敬侯鳳、安成侯崇、平阿侯譚、成都侯商、紅陽侯立、曲陽侯根、高平侯逢時、安陽侯音、新都侯莽也。五大司馬者,鳳、音、商、根、莽也。一曰,鳳嗣禁為侯,不當重數。而十人者,淳于長即其一也。」師古はいう。10人の侯爵とは、、はぶく。5人の大司馬とは、王鳳、王音、王商、王根、王莽である。王鳳は王禁を嗣いで侯となった。ダブルカウントである。
何焯はいう。元后伝で、王元后の姉子の淳于長が、定陵侯となった。王氏の親族は、淳于長をくわえて10人の侯爵である。周寿昌はいう。王氏という姓のなかでカウントせよ。王禁は王鳳は父子だが、2人に数えてもよい。また王莽は簒奪者だから、侯爵にカウントするな。
ぼくは思う。10人と5人という数字が美しいから、まとめたのだろう。
成帝の許皇后;博識で硬派な「おじさん」
孝成許皇后,大司馬車騎將軍平恩侯嘉女也。元帝悼傷母恭哀后居位日淺而遭霍氏之辜,故選嘉女以配皇太子。初入太子家,上令中常侍黃門親近者侍送,還白太子懽說狀,元帝喜謂左右:「酌酒賀我!」左右皆稱萬歲。久之,有一男,失之。及成帝即位,立許妃為皇后,復生一女,失之。成帝の許皇后は、大司馬・車騎將軍・平恩侯の許嘉の娘である。元帝の母・恭哀后の許氏は、霍光と霍皇后に殺された。ゆえに許嘉の娘を、皇太子(元帝の子=成帝)に配させた。
ぼくは思う。外戚伝上の、許氏と霍氏をやらねば。外戚伝の下から始めたのは、判断を誤ったなあ。ちくま訳は、外戚伝の上から、今日の通勤時間に読んだ。
ぼくは思う。元帝にとって、許氏は「失われた家族」だから、欲望の対象である。外戚伝下は「外戚の王氏」と、「王氏のライバル」の2つに分類できる。そして王元后伝は、べつに列伝がある。ゆえに外戚伝下は、「王氏のライバル」たちの列伝だと見なせる。王氏は、ここに記述を持たないくせに存在感があるから、「空虚な中心」である。班固は、「王氏のライバル」を、わりと厳しく記す。もし班固が王莽をけなしたければ、王莽の敵対者を持ち上げても良さそうなのだが。『漢書』イコール、王莽の悪事をあばく、という構図で読んではいけない、と気づかせるのが外戚伝下。
元帝は、中常侍と黄門に、許氏を迎えさせた。太子=成帝と、許氏のようすを報告させた。元帝は喜んで「酒を酌んで私を賀せ」という。左右の者は、みな万歳した。許氏は1男を生むが死ぬ。太子=成帝が即位すると、許妃は許皇后となる。1女を生むが死んだ。
ぼくは思う。外戚の王氏の権力の源泉は、元帝との関係性。しかし元帝は、王氏よりも許氏に親しみを感じている。まずは許氏を圧倒しないと、王氏の執政はない。
ぼくは思う。王莽を理解するなら、霍光を理解せねばならない。よく「王莽は簒奪さえしなければ、霍光のような名臣だった」という評価があるほど、両者は似ている。霍氏が許氏を倒し、王氏が許氏を倒せば、「ウラのウラはオモテ」というロジックにより、許氏と敵対した者として、霍氏と王氏は同じコインの側にのる。
初后父嘉自元帝時為大司馬車騎將軍輔政,已八九年矣。及成帝立,復以元舅陽平侯王鳳為大司馬大將軍,與嘉並。杜欽以為故事后父重於帝舅,乃說鳳曰:「車騎將軍至貴,將軍宜尊(重)之敬之,將軍宜尊(重)之敬之, 景祐本無「重」字。 無失其意。蓋輕細微眇之漸,必生乖忤之患, 不可不慎。衞將軍之日盛於蓋侯,
師古曰:「衞將軍,衞青也,武帝衞皇后之弟。蓋侯,王信也,武帝之舅。
近世之事,語尚在於長老之耳,唯將軍察焉。」久之,上欲專委任鳳,乃策嘉曰:「將軍家重身尊,不宜以吏職自絫。賜黃金二百斤,以特進侯就朝位。」後歲餘薨,諡曰恭侯。許后の父・許嘉は、元帝のとき、大司馬・車騎将軍となり、8,9年の輔政をする。成帝がたつと、成帝のおじ・陽平侯の王鳳が、大司馬・大将軍となる。許嘉と王鳳がならぶ。杜欽はいう。「漢室の故事では、皇后の父のほうが、皇帝のおじより尊重される。
沈欽韓はいう。『公羊伝』はいう。天子は王后の父を臣とせずと。『御覧』410はいう。袁嶠と褚左軍解交はいう。皇后が臨朝して執政すると、将軍が国にゆき、外姓の太上皇となると。
ぼくは思う。後漢の事例でも、皇帝の実母の家系より、前皇帝の皇后の家系のほうが、臨朝していた。前皇帝の皇后が、傍流の家から、皇族をつれてくる。傍流の実母は、客として「迎えられる」者であり、主体にならない。この『公羊伝』の規定が、前漢末を知るときにカギになりそう。王元后がずっと執政するのは、このロジックだから。成帝のおじ(前皇后の兄)の王鳳は、成帝の義父(皇后の父)の許嘉に、気をつかえ。衛青(武帝の皇后の兄)は、蓋侯の王信(武帝の父の皇后の兄弟)よりも権勢があった。長老は武帝の故事を知っており、いま成帝の朝廷も同じになる。王鳳より許嘉が盛んとなるはずだ」と。久しくして成帝が、「私は王鳳に輔政させたい。王鳳に黄金2百斤をたまい、特進侯とする」という。
周寿昌はいう。『後書続志』では「特侯」という。『後漢書』鄧禹伝にひく『漢官儀』はいう。諸侯のなかで功徳が優盛な者は、朝廷に敬われ、位は特進となる。三公の下。1年余して、許嘉は薨じた。恭侯。
ぼくは思う。成人した成帝にとって、もう皇后の家がある。母系の王氏に執政させる必要はない。だが成帝が、母系の王氏を選んだ。許氏は元帝の「失われた家族」として敬われたが、外戚として政治力を発揮するには、到らなかったようです。まあ、霍氏に敗れている時点で、一族の政治資本の蓄積は、もとから少なかった、もしくは破壊されていそうだ。
后聰慧,善史書,自為妃至即位,常寵於上,後宮希得進見。皇太后及帝舅憂上無繼嗣,時又數有災異,劉向、谷永等皆陳其咎在於後宮。上然其言。於是省減椒房掖廷用度。[一]師古曰:「椒房殿皇后所居。」 皇后乃上疏曰(中略)上於是采劉向、谷永之言以報曰(後略)許皇后は聡慧であり、史書を善くする。太子の后から皇后になるまで、許氏は寵愛された。許氏が成帝を独占するので、後宮の者は成帝と会えない。王皇太后、成帝のおじの王氏たちは、継嗣がないのを憂いた。しばしば災異があった。劉向と谷永は、「災異の原因は後宮にある」という。成帝も合意した。皇后の衣食住を節約した。皇后は上疏した。
はぶく。上海古籍5965頁。都合でこのページの下でやります。まずは地の文だけを追いたい。劉向らは「許皇后のせいで、継嗣ができない。許皇后のせいで、災異が起きた」という。許皇后は、男性の学者と張りあい、自分が正しいことを力説する。きっと成帝は、聡明だから許皇后が好きだったのだが、聡明すぎるので、許皇后が煙たくなったのだろう。成帝は、劉向と谷永の意見を採用して、皇后に返答した。
ぼくは思う。許皇后は、劉向のような学者と、儒学等のテキスト(象徴界=父の名)をあやつる。『漢書』に長文が掲載されるほど、レベルが高いのでしょう。そして許皇后は、子ができない。まるで「男性」である。許皇后が男性の外戚のようだから、許皇后の父・許嘉は、まるで女性的だった。逆転している。つまり災異がおこる。
ぼくは思う。成帝は、皇后の一族である許氏よりも、実母の一族である王氏を頼った。平たく言えば、マザコンである。なぜマザコンになったか。許皇后が、あまりに「男まさり」だったからだろう。個人レベルで、許皇后は、成帝の「母」の位置に入りこむことができなかった。成帝の生物的な母である王元后が、名実ともに「母」の位置を占めつづけた。氏族のレベルで、許氏は皇后の位置に入りそこね、王氏に外戚権力を与え続けた。武帝の前例に沿えば、王氏が衰退して、許氏の天下が(短期間でも)訪れるのが、前漢におおいパタンらしい。上で杜欽がいったように。
ぼくは思う。成帝の許皇后は、「妻」ないしは「母」になりそこね、雄弁に言論を操ってしまったがゆえに、王氏が退場する機会をうばった。許皇后が「男性」であったことが、王莽の出現する伏線である。
是時大將軍鳳用事,威權尤盛。其後,比三年日蝕,言事者頗歸咎於鳳矣。而谷永等遂著之許氏,許氏自知為鳳所不佑。久之,皇后寵亦益衰,而後宮多新愛。后姊平安剛侯夫人謁等為媚道祝謯後宮有身者王美人及鳳等,事發覺,太后大怒,下吏考問,謁等誅死,許后坐廢處昭臺宮,親屬皆歸故郡山陽,后弟子平恩侯旦就國。凡立十四年而廢,在昭臺歲餘,還徙長定宮。このとき大将軍の王鳳が執政して、威権が盛んとなる。のちに、しきりに3年も日食があった。
先謙はいう。河平3年8月、同4年3月、陽朔元年2月である。
ぼくは思う。許皇后が「男性」だから、日食があるのだ。外戚権力のなかで、たちが悪いのは、皇后の一族が強すぎることでなく、皇后が「男性」であることだ。こちらのほうが、よほど「陰が陽をおかす」と言える。ぼくはこのページで、許皇后の長文にわたる論争を省略しては、いけなかったのかなあ。「とにかく長い」という字数=ちくま訳8ページ分によって、その内容の正誤はどうあれ、許皇后の「男性」ぶりがわかるのだ。日食の原因を、王鳳が強すぎることに求める者がある。だが谷永らは、許皇后が原因とした。許皇后は、王鳳が佑けてくれないと知る。
先謙はいう。王鳳が死んだのは、陽朔3年である。許皇后が廃されたのは、鴻嘉3年である。王鳳の死から4年後である。許皇后が死んで、外戚の王氏の本格的な執政が始まった。久しくして、成帝から許皇后への寵愛がおとろえた。成帝は後宮で、新たに多くの者を寵愛する。許皇后の姉・平安剛侯夫人の許謁らが、後宮で寵愛される王美人や、王鳳らを呪詛した。
董教増はいう。平安侯は、百官表にない。銭大昭はいう。地理志で、千乗郡に平安侯国がある。ここは王舜が封じられた。もし豫章郡の安平侯国ならば、長沙孝王の子が封じられている。涿郡の安平は、侯国でない。ぼくは思う。ミスか?
呪詛が発覚した。王皇太后は怒って、許皇后の姉・許謁を誅死させた。許皇后も連坐し、皇后を廃して(上林苑のなかの)昭臺宮に徙された。許氏の親属は、みな故郷の山陽にかえる。皇后の弟子・平恩侯の許旦は封国にゆく。許皇后は14年で廃された。昭臺宮に徙されてから、1年余で長定宮にもどる。
後九年,上憐許氏,下詔曰:「蓋聞仁不遺遠,誼不忘親。前平安剛侯夫人謁坐大逆罪,家屬幸蒙赦令,歸故郡。朕惟平恩戴侯,先帝外祖,魂神廢棄,莫奉祭祀,念之未嘗忘于心。其還平恩侯旦及親屬在山陽郡者。」是歲,廢后敗。先是廢后姊孊寡居,與定陵侯淳于長私通,因為之小妻。長紿之曰:「我能白東宮,復立許后為左皇后。」廢后因孊私賂遺長,數通書記相報謝。長書有誖謾,發覺,天子使廷尉孔光持節賜廢后藥,自殺,葬延陵交道廄西。のち9年たち、成帝は許氏をあわれむ。詔した。「平安剛侯の夫人・許謁が、大逆の呪詛をしたので、許氏の家属を帰郷させた。だが、平恩戴侯の許広漢は、父の元帝の外祖父である。平安侯の祭祀を絶やしたくない。親属を山陽から長安によべ」と。
この歳、もと皇后の許氏が自殺した。なぜ自殺したか。許氏の姉の許ビは、ひとりで暮らした。許ビは、定陵侯の淳于長と私通して、淳于長の小妻となる。淳于長はいう。「東宮は私の言うことをきく」
周寿昌はいう。趙氏=趙飛燕が成帝の皇后になったのは、淳于長のおかげである。ときに淳于長は、東宮に口がきけた。だから許ビは、淳于長を信じた。淳于長はいう。「廃された許氏を、ふたたび立てて「左皇后」としよう」
沈欽韓はいう。のちに西晋末の劉聡、周宣帝は「左皇后」という称号をつかった。
ぼくは思う。淳于長は、王元后の姉の子。淳于長は、成帝に趙皇后をめとらせ、その趙皇后とダブる位置に、いちど廃された許氏を置こうとした。淳于長は、何がしたかったんだろう。トリッキーな動きをしている。淳于長を分かれば、王莽のことがわかりそう!許氏は、姉の許ビを通じて、淳于長に賄賂と文書をおくる。淳于長がおごり、許氏の計画が発覚した。成帝は、廷尉の孔光に持節させ、許氏に毒薬をわたした。許氏は自殺して、延陵の交道にある廐の西に葬られた。130129
淳于長は、『漢書』侫幸伝にある。 ぼくは思う。王莽がライバルである淳于長を倒した材料、最大のスキャンダルが、この「廃された許氏を、左皇后にする」という計画だった。淳于長は、政治生命を賭けてでも、許氏に「左皇后」という、中途半端な称号を与えたかった。なぜだろう。淳于長は、いくら王元后の姉子であれ、王氏でない。王氏に匹敵するのは、許氏だけだった。「ウラのウラはオモテ」つまり、王氏の敵の敵は味方、というわけで、淳于長は許氏に皇后の地位を与えたかったのか。ともあれ、皇后の権力が強いのは「女性」性があるから。子を作れるし、男性原理では割り切れないから。しかし許氏は、その強みを活かせない。
ぼくは思う。許氏は、男性原理で動く。もし「左皇后」になっても、「女性性」豊かな趙皇后とはバッティングしない。この点で淳于長は、2人の「皇后」を斡旋することに、矛盾を感じていなかったのかも。あたかも親近する男性を、権限のある官職に推薦するような身振りで、淳于長は許氏を「左皇后」にしようとしたのだろう。
成帝の班倢伃;詩賦する軟派な「おじさん」
孝成班倢伃,帝初即位選入後宮。始為少使,蛾而大幸, 為倢伃,居增成舍, 再就館, 有男,數月失之。成帝遊於後庭,嘗欲與倢伃同輦載,倢伃辭曰:「觀古圖畫,賢聖之君皆有名臣在側,三代末主乃有嬖女, 今欲同輦,得無近似之乎?」 上善其言而止。太后聞之,喜曰:「古有樊姬,今有班倢伃。」 倢伃誦詩及窈窕、德象、女師之篇。 每進見上疏,依則古禮。成帝の班倢伃は、成帝が即位したとき後宮に入る。はじめ少使で、すぐに成帝に愛されて、倢伃となり増成宮にすむ。
応劭はいう。後宮には8区がある。増成は第3区である。斉召南はいう。『黄図』によると、武帝のとき8区ある。8区が上海古籍5975頁にあり。増成も含まれる。
ぼくは思う。これは班彪のおばだっけ。教養にあふれたセリフを記すために、わざわざ列伝を設けられたようなもの。『漢書』は公的なものだが、この列伝だけは班氏の自慢である。成帝は、許皇后といい、班婕妤といい、学問のできる妻がおおいなあ。
増成宮から出て、男子を出産したが、数ヶ月で死んだ。成帝が後宮で、班婕妤を同乗させようとした。
沈欽韓はいう。『拾遺記』に、成帝が大液池のそばで遊んだとある。ここに宵遊宮をつくり、、などの情景描写がある。上海古籍5975頁。『芸文類集』にひく『漢官儀』はいう。成帝は、皇后や倢伃らと4人乗りした。班婕妤がことわる。「古代の画像を見ると、賢聖の君主は名臣を同乗させ、末代の君主は女性を同乗させる。成帝は末代の君主になるな」と。成帝は、女性との同乗をやめた。王皇太后は、班婕妤の話を聞いて喜んだ。「古代には楚王の妻・樊姫が、禽獣の肉を食べずに、楚王の狩猟を辞めさせた。現代では班婕妤が、成帝に女性との周遊を辞めさせた」と。
ぼくは思う。成帝の妻たちは、王皇太后(王莽のおば)と、許皇后との2種類の派閥がある。どうやら班婕妤は、王皇太后の派閥に属するらしい。すなわち主流派。というわけで『漢書』の著者は、王皇太后には好意的にならざるを得ない。許皇后に冷たくならざるを得ない。班婕妤は『詩経』などに詳しく、上疏は古礼に則る。
班婕妤が詳しかった文献の説明は、上海古籍5976頁。
自鴻嘉後,上稍隆於內寵。倢伃進侍者李平,平得幸,立為倢伃。上曰:「始衛皇后亦從微起。」乃賜平姓曰衛,所謂衛倢伃也。其後趙飛燕姊弟亦從自微賤興,踰越禮制,盛於前。 班倢伃及許皇后皆失寵,稀復進見。鴻嘉三年,趙飛燕譖告許皇后、班倢伃挾媚道,祝詛後宮,詈及主上。許皇后坐廢。考問班倢伃,倢伃對曰:「妾聞『死生有命,富貴在天。』 修正尚未蒙福,為邪欲以何望?使鬼神有知,不受不臣之愬; 如其無知,愬之何益?故不為也。」上善其對,憐憫之,賜黃金百斤。鴻嘉よりのち、(成帝は許皇后を遠ざけ)後宮で寵愛者をふやす。班婕妤は、侍者の李平を成帝に勧めて、倢伃とした。成帝は「武帝の衛皇后も、微賤な身分だった」といい、李平を衛平と改姓させた。
周寿昌はいう。谷永の上疏にいう。建始と河平のとき、許皇后と班婕妤への寵愛が、王朝をかたむけたと。これは陽朔の前の話であり、鴻嘉になると成帝は、許皇后や班婕妤への寵愛を失った。李平などに関心がうつった。
ぼくは思う。後宮の優れた人物になるには、皇帝から寵愛されるだけではダメ。他の妻をバックアップせねば。『三国志』の后妃伝でもそうだった。許皇后はこれができず、自己主張ばかりした。班婕妤は、李平などを推薦した。班婕妤のほうが優れているのだ。
ぼくは思う。衛皇后の子の系統が、成帝である。つまり成帝から見ると衛皇后は、何代か前の祖母である。また成帝は、自分の寵愛の移動させかたを、武帝に準えている。すごい意気ごみ!のちに趙飛燕の姉妹が、微賤な出自からおこり、成帝に寵愛された。趙飛燕は礼制をやぶった。班婕妤と許皇后は、成帝からの寵愛がもうない。鴻嘉3年、趙飛燕は「許皇后と班婕妤が、成帝を呪詛した」という。許皇后は廃された(上述)。班婕妤は考問され、回答した。「『論語』で子夏が司馬牛に言った。死生や富貴は天命が決めると。私は正しきを修めても、福がこない。邪をなして成帝を呪い、なにを望むものか」と。成帝は班婕妤をあわれみ、黄金1百斤を賜る。
ぼくは思う。班婕妤への寵愛は、許皇后への寵愛と、並記されるものなのね。つまり成帝は、許皇后を愛するのと同じ仕方で、班婕妤を寵愛した。つまり学問ができる妻として。許皇后は政治について雄弁であり、『尚書』などをひく。班婕妤は文化について雄弁であり、『詩経』などに通じる。得意分野が違うだけで、似ている。ただし、より「うるさい」のは、政治に雄弁な許皇后のほうだろう。まあ政治というメジャー路線の教養だから、班氏でなく許氏が皇后になったのだろう。妻の地位は、男性の官爵に比せられるように(比せられるがゆえに)政治的な優劣によって決まるのだ。
ぼくは思う。許皇后は「おじさん」だった。だからあたかも男性の権臣が失脚するように、「ねえちゃん」である趙飛燕に敗れた。政治声明を発行して抗議した。この世でいちばん固い者(皇帝)に、固い意見をぶつけても、正面衝突して、弱いほうが割れるだけだ。班婕妤も「おじさん」に違いないが、許皇后よりは「おばさん」要素が残っていたので、趙飛燕に失脚させられなかった。漢詩を述べることで、柔軟に反論した。
趙氏姊弟驕妒,倢伃恐久見危,求共養太后長信宮, 上許焉。倢伃退處東宮,作賦自傷悼,其辭曰。(中略)至成帝崩,倢伃充奉園陵,薨,因葬園中。趙飛燕の姉妹がおごる。
沈欽韓はいう。『西京雑記』はいう。趙飛燕が皇后となる。その妹の昭陽殿は、趙飛燕に文書をおくる。「私たちは成帝の寵愛を受ける。この踊躍する心を、35条に書いてみたよ」と。
ぼくは思う。成帝は在位が長い。前半は、マザコンから脱出すべく、「学問ができる妻」許皇后と班婕妤に依存した。やがて成帝が自立してくると、マザコンを克服したと自己認識したらしく、1周まわって、かえって母系の王氏を重用した。「ぼくは、もうマザコンじゃないから、余裕をもって主体性と主導権を持って、マザーに頼ることができるのさ」という屈節した心境だろう。成熟した成帝は、母系を重用しても自尊心は傷つかない。自尊心が高まると、同世代の「学問ができる妻」がライバルとなり、疎ましくなった。だから若くてキレイな趙飛燕におぼれた。退行した。退行して子供に戻った成帝は、誰かに政治をやらせねばならない。外戚の王氏が、継続して役割を果たした。
ぼくは思う。成帝期は、その中央にある鴻嘉(前20-前17)を境界にして、2つに分けられるなあ。未熟ゆえに成熟を装う前半(許皇后と班婕妤を愛する)、成熟したと自己認識したゆえに退行した後半(趙飛燕を愛して王氏を頼る)である。
再説する。王莽に到る王氏を隆盛させたのは、「幼くてマザコン」の成帝でない。後漢は「幼くてマザコン」の幼帝が、外戚に臨朝させるが、成帝は違うのだ。じゃあ成帝はどんなか。「マザコンを卒業したと内外(とくに自分自身)にアピールしたい」成帝が、王氏に執政させたのだ。成帝は、成熟の経路が、ちょっとずつズレている。このズレが王氏の長期政権をまねいた。班婕妤は危険を感じて、「長信宮で王皇太后に仕えたい」という。成帝は許した。班婕妤は東宮に退き、賦をつくり自らを悼んだ。その賦は、はぶく。
成帝が崩じると、班婕妤は、成帝の園陵に奉仕した。班婕妤が薨じると、成帝の園陵のなかに葬られた。
成帝の趙皇后と昭儀;美貌の少年、病弱な少女
孝成趙皇后,本長安宮人。 初生時,父母不舉,三日不死,乃收養之。及壯,屬陽阿主家, 學歌舞,號曰飛燕。 成帝嘗微行出,過陽阿主,作樂。上見飛燕而說之, 召入宮,大幸。有女弟復召入,俱為倢伃,貴傾後宮。成帝の趙皇后は、もとは長安の宮人(官婢)である。誕生して、父母が世話しないが、3日死なないので養育された。陽阿主の家に属した。
師古はいう。宮人とは、省中の侍史、官婢である。宮人という。天子の掖庭(後宮)の人ではない。『漢官儀』にある。長安の人とあるが、これは甘泉らにある諸宮でないと区別している。沈欽韓はいう。『漢官儀』はいう。宮人とは、官婢から8歳以上の者を選び、皇后より以下に侍る者である。35歳で嫁ぎに出される。
師古はいう。陽阿とは、平原郡にある県である。「河陽」とも記されるが、ミスである。先謙はいう。『漢書』五行志では河陽主家、『漢紀』と『列女伝』でも河陽とある。先謙はいう。河陽なら、上党郡にある県である。平原には陽阿があるが、河陽であれば河内郡である。師古は平原というが、それもちがう。五行志下、地理志下を見よ。
ぼくは思う。けっきょく、だれの家なんだろう。
歌舞をまなび、「飛燕」と号する。成帝が微行したとき、陽阿主の家で趙飛燕とあい、入宮させる。妹も寵愛され、倢伃となる。
ぼくは思う。成帝の微行は、天子としての職務の放棄である。職務を放棄した先で知りあった趙飛燕を、天子の住居である後宮に持ちこむ。成帝は、尊卑を流動させる。人類学的には、おもしろいテーマだが、成帝は「祖先の祭祀を、自分の子孫に守らせる」ことを放棄している。あとで趙飛燕らが、成帝の子を抹殺したという疑惑の記事がある。「継嗣を持たない」という意思表明もまた、成帝の職務放棄=退行をあらわす。趙飛燕は「どれだけ交わっても、子ができない妻」の役割を期待されているのだろう。それって、1周したマザコンじゃん。子が母親に愛されることを願っても、母親と子を作ることはできない。子供がいらない成帝は、「若いねえちゃん」を侍らせているように見えて、マザコンに退行しているのだ。
ぼくは思う。成帝がとくに病んでいると言いたいのでない。人間は、多かれ少なかれ病んでいる。しかし成帝は、天子である。天子が、人間なみに病むと、歴史が期待する役割を果たせない。いや、すべての天子は人間だから、つねに役割を果たせない。天子が「いかにして人間らしく振る舞い、役割に失敗するか」を読むのが、ぼくらは楽しいのか。当為において本紀は、静的でロジカルであるべきだが、『漢書』の本紀はイキイキしている。この逸脱がおもしろく、かつ秦漢帝国の永続を妨げる。
ぼくは思う。キリスト教がユダヤ教から分離して独自性を獲得したのは、有限の身体を持った人間であるイエスを、全知全能の神と等号で結んだこと。この強引?な等号が、さまざまな葛藤をもたらし、かつ普遍性をもたらした。天子というのも、人間の病理を持ちながら、天の子なんだから、キリストと似ている。大澤真幸『〈世界史〉の哲学・古代篇』を読んでます。
許后之廢也,上欲立趙倢伃。皇太后嫌其所出微甚,難之。太后姊子淳于長為侍中,數往來傳語,得太后指,上立封趙倢伃父臨為成陽侯。後月餘,乃立倢伃為皇后。追以長前白罷昌陵功,封為定陵侯。許皇后が廃されると、成帝は趙倢伃=趙飛燕を皇后にしたい。王皇太后は「趙飛燕は微賤だから、皇后にするな」という。王皇太后の姉子の淳于長は侍中である。淳于長が王皇太后に口をきき、趙倢伃の父・趙臨を成陽侯とした。
ぼくは思う。趙飛燕を、生後3日も放置した父親である。王皇太后の意図はわからないが、淳于長が強引に「趙飛燕の出自は、微賤じゃない。成陽侯の家柄だよ」という既成事実をつくった。1月余、趙倢伃は皇后となる。これより前に淳于長は、昌陵の建築を中止させた。この功績により、淳于長を定陵侯に封じた。
ぼくは思う。ロコツに因果関係を書き誤っている。もはや意図的でしょう。誰が見ても、淳于長は趙飛燕を皇后にする功績があったから、侯爵をもらったのだ。そもそも淳于長を「侫幸伝」に収録すること自体、班彪による悪意を感じるのだ。
皇后既立,後寵少衰,而弟絕幸,為昭儀。居昭陽舍,其中庭彤朱,而殿上髤漆, 切皆銅沓(冒)黃金塗, 白玉階, 壁帶往往為黃金釭,函藍田璧,明珠、翠羽飾之, 自後宮未嘗有焉。姊弟顓寵十餘年,卒皆無子。末年,定陶王來朝,王祖母傅太后私賂遺趙皇后、昭儀,定陶王竟為太子。趙皇后は、のちに寵愛が衰えたが、妹が寵愛され、昭儀となり、昭陽舍に居住する。前例がないほど、住居が装飾された。
沈欽韓はいう。『西京雑記』はいう。趙皇后は、体が軽く、腰が弱い。趙皇后は歩行の進退がうまく、妹の趙昭儀でも及ばない。妹の趙昭儀は、骨が弱いが肌は豊かである。ぼくは思う。趙皇后は、まるで「美貌の少年」のようだ。趙昭儀は「病弱な少女」のようだ。どちらも子ができない。
ぼくは思う。さすが「成熟を拒む」成帝である。「成」帝なのに。趙氏の姉妹は、子ができないからこそ、寵愛が続いたのだ。もし子を授かったら、適当に子を殺して(次に事例あり)ほかの女性に寵愛がうつるだけだ。趙氏の姉妹に、子供ができないことに、成帝が成熟しない原因を求めることはできない。原因があるとしたら、成帝である。成帝は、王皇太后=王莽のおば、という「巨大な母」の支配下から抜け出せなかったなあ。母親の「見ている」前で、子作りができる男性は少ないと思う。ちなみに、王莽のあざなは「巨君」である。「巨大な母」の手先だなあ。
沈欽韓はいう。『西京雑記』は昭陽舎の装飾を描写する。上海古籍5981頁。匠人の丁緩と李菊は、天下第一のタクミと言われた。
趙氏の姉妹は10余年の寵愛を受けたが、子がない。
沈欽韓はいう。『西京雑記』はいう。慶安世は、15歳で、成帝の侍郎となる。鼓琴がうまい。『双鳳離鸞』の楽曲がうまい。趙皇后がよろこび、慶安世を後宮に出入させた。趙皇后は子がないから、子ができるよう祈祷した。趙皇后は別室をつくり、誰も入らせない。軽薄な少年を女装させて、後宮に10数人いれた。趙皇后は淫通した。休息させず、少年が痩怠すれば、べつの少年に交代させた。ついに趙皇后は、成帝の子ができなかった。
ぼくは思う。成帝は、趙皇后が成人女性として「子供がほしい」と願ったから、これを遠ざけたのだろう。妹の趙倢伃は、子供を欲しがらなかった、つまり成熟の拒否に協力したから、愛されたのだろう。成帝の末年、定陶王が来朝した。定陶王の祖母・傅太后は、私的に趙皇后と趙昭儀に賄賂した。定陶王は、太子となることができた。哀帝である。
明年春,成帝崩。帝素彊,無疾病。是時楚思王衍、梁王立來朝,明旦當辭去,上宿供張白虎殿。 又欲拜左將軍孔光為丞相,已刻侯印書贊。 昏夜平善,鄉晨,傅絝韤 欲起,因失衣,不能言,晝漏上十刻而崩。民間歸罪趙昭儀,皇太后詔大司馬莽、丞相大司空曰:「皇帝暴崩,群眾讙譁怪之。掖庭令輔等在後庭左右,侍燕迫近,雜與御史、丞相、廷尉治問皇帝起居發病狀。」趙昭儀自殺。翌年春、成帝が崩じた。成帝の体質は強く、疾病がない。このとき、楚思王の劉衍、梁王の劉立が、長安に来朝していた。翌朝に2王が辞去するので、成帝は白虎殿に宿泊した。
師古はいう。白虎殿は未央宮のなかにある。
ぼくは思う。天子は、このように定期的に皇族を長安によんで、交流したんだなあ。成帝みずから、見送りをしている。かなりの厚遇である。曹魏の皇族が、待遇がつめたく、天子や洛陽の官僚との交流を絶たれたことの「特異さ」に、気づける。成帝は、左将軍の孔光を丞相にしたいので、すでに印璽を刻み、任命の文書を準備していた。成帝は夜には健康だが、翌朝に着衣できず、言葉がでなくなり、昼の漏10刻に崩じた。民間では「趙昭儀が、成帝を殺した」という。王皇太后は、大司馬の王莽と、丞相・大司空の孔光に、死因の調査を命じた。
ちくま訳はいう。1日を100刻にわかち、夏分は昼を60刻、冬分は昼を40刻とした。「漏」とは水時計である。
劉敞はいう。このとき孔光は丞相となるが、まだ拝命していない。また大司空でもない。「丞相・大司空」の5字は誤りである。王鳴盛はいう。前夜のうちに孔光は成帝より、丞相と博山侯の印綬をもらった。『漢書』孔光伝にある。劉敞はなぜ、まだ拝命しないと言うのか。劉敞が誤りである。
ぼくは思う。孔光伝を読まねばならないが。孔光は王莽に近く、趙皇后や趙昭儀から見ると、煙たかったのだろう。しかし孔光の任命を、成帝の死因と見るのは、うがち過ぎだ。おそらく成帝は、自然な病死で良いと思う。読解のポイントは、「なぜ成帝が死んだか」でなく、「なぜ成帝の自然死を、王皇太后が政治的事件に仕立てたか」であろう。王皇太后は、趙皇后たちを排撃する材料として、実子の成帝の死すらも利用したのだ。けっきょく成帝は、死後に「ママの傀儡」であることを事後的に証明してしまった。そりゃ、子作りを拒むよなあ。成帝が幼児ならまだしも、45歳もしくは46歳で死んだのに、「ママから見たら、いくつになっても子供だもの」という扱いである。これが病因である。
王皇太后はいう。「掖庭令の輔らは、成帝のそばにいた。御史、丞相、廷尉らと、成帝の発病について調査せよ」と。趙昭儀は自殺した。
ぼくは思う。趙昭儀の権力は、子を媒介にしないから、成帝1代限りである。成帝が死ねば、趙昭儀の立場を裏づけるものがない。王皇太后は、自分が圧勝することを知っていて、趙昭儀をわざわざ追いつめたのだ。「出自が賤しいくせに。子孫を遺さないくせに」という、漢室の主催者としての怒りだろう。「巨大な母」は、漢室を取り仕切っている。嫁いびりの変形である。
哀帝既立,尊趙皇后為皇太后,封太后弟侍中駙馬都尉欽為新成侯。趙氏侯者凡二人。後數月,司隸解光奏言: 臣聞許美人及故中宮史曹宮皆御幸孝成皇帝,產子,子隱不見。(中略)魯嚴公夫人殺世子,齊桓召而誅焉,春秋予之。 趙昭儀傾亂聖朝,親滅繼嗣,家屬當伏天誅。前平安剛侯夫人謁坐大逆,同產當坐,以蒙赦令,歸故郡。今昭儀所犯尤誖逆,罪重於謁,而同產親屬皆在尊貴之位,迫近幃幄, 羣下寒心,非所以懲惡崇誼示四方也。請事窮竟,丞相以下議正法。哀帝が立つと、趙皇后を皇太后として、趙皇太后の弟・侍中・駙馬都尉の趙欽を、新成侯とした。趙氏から2名の侯爵がでた。数ヶ月して、司隷の解光が上奏して、調査結果を報告した。
銭大昭はいう。成帝の元延4年、司隷校尉をはぶく。綏遠2年、哀帝が司隷校尉をふたたび設置した。ただ「司隷」といい、「校尉」をつけない。解光はいう。成帝のとき、許美人(もとの許皇后)と、中宮史の曹宮(曹暁の子)は、どちらも成帝の子を産んだ。だが子は行方不明だ。殺された。
ぼくは思う。解光の発言は、まるで「紀伝本末体」のように、日時が記され、人物の言動が記される。班彪がその気になれば、これを「地の文」として扱い、記事にすることができた。だが班彪は、「あくまで解光が言ったことですがね」という体裁で、長々と事件を記した。ちくま訳で、4頁だ。新事務本館の食堂で、ちくま訳を読んでいて、「おいおい、この話は、どこへ行くんだ?どこで終わるんだ?これは外戚列伝だったはずだけど」と不安になったほどだ。
ぼくは思う。カギカッコのない原文を読むと、地の文なのか、引用された文なのか、見失う。しかしこの「見失いやすい」ことが、班彪の意図に通じると考えられる。微妙なテキスト裁きである。
ぼくは思う。かりにも許美人と中宮史の曹宮とが、成帝の子を産んでいるが、趙昭儀の姉妹に抹殺されたなんてことがあれば、前漢の恥である。というか、成帝の妻である班婕妤が、きちんと管理しろよ!という感想が出てくる。だから「解光いわく」と、括弧に入れている。だが括弧に入れてでも記し、班彪が省略はしていない。引用の体裁をとりながら、「ほんとは書くべきことじゃないんだが、じつは真実でね」という、メタ・メッセージを、ぼくは受信する。『春秋』の筆法では、国内の大悪は記さず、小悪を記す。成帝の子が殺されるなんて、大悪に違いないのだが、それを括弧に入れることで、悪の度合をおとして、きちんと記録する。
ぼくは思う。班婕妤をしいたげた趙昭儀は、『漢書』における決定的な悪役である。だが班彪がそれを地の文で(自分の言葉として)記せば、「公式であるべき歴史書で、自分の家の正統性を主張した」ことになる。だから引用文にして、これを薄めたのだ。このように「括弧つき」「抹消線ぶくみ」「グレイ80%」「語尾をにごす」等の表記は、ぎゃくに目をひく。墨塗りの文書があると、ぎゃくに裏から透かしてみたくなる。賈詡が馬超に用いたのと同じ。あざとい技法!成帝は「趙昭儀は子がないが、趙昭儀の立場を脅かす者を出さない」といった。
ぼくは思う。前述のように、マザコンの弊害である。許皇后は、学問のライバルとして成帝と張りあったが、身体は女性である。このあたりが「分裂」気味なんだけど。もし、もと皇后の許氏に子供ができれば、許氏は皇后に返り咲く。前に「左皇后」として復帰する話が列伝にあったが、この出産の問題が関係するのだろう。
淳于長は、許氏を「左皇后」にする斡旋をひきうけた。許氏の姉を「小妻」とした。淳于長は、成帝の寵愛が、どちらに転んでも保身できるように、許氏と趙氏の両者とのあいだに、良好な関係をつくった。成帝が成熟を拒否したので、趙氏が寵愛された。淳于長は、こちらに加担した。もし許氏の子が生きながらえ、太子になれば。成帝は「即位の時期がながい壮健な天子」「学問に通じた皇后」「皇后が生んだ嫡子」という、まったく申し分ない天子となる。だが成帝はこれを拒んだ。成帝のこの病理が、結果的に王莽に政権を転がり込ませるのだが。まだ王莽の意図は、政治に影響しないだろう。王皇太后は「実子・成帝が、順調に成熟してくれて、名君となれば満足」という態度だろう。執政者である王莽のおじたちも、王皇太后の意図に沿うだろう。
ぼくは思う。淳于長の動きが、この外戚列伝のなかでも、というか許皇后伝と趙皇后伝のあいだで、読解しづらくなっている。この「読みにくさ」は、編者の班氏によるワナだろう。淳于長の事績を散らかして、見えなくする。許氏の称号が、コロコロ変遷するのを利用して、話の一貫性を消す。地の文と引用文で幻惑する。
ぼくは思う。『漢書』において、王元后伝と王莽伝は、すこぶる読みやすい。王莽伝なんて、上中下を設けて、高帝紀より文字数がおおい。到れり尽くせりだ。反対に王莽の好敵手のはずの淳于長は、列伝が侫幸伝に放り込まれる。淳于長が大活躍した成帝期末、外戚伝のなかで、許皇后伝と趙皇后伝に事績が分散される。列伝という体裁による必要悪とはいえ、時系列が前後する。淳于長(に連なる趙氏)の記述が、司隷の解光による上奏と地の文とに分散されて、「いま読者がどこにいるのか分からない」ことになる。記述を散らかすことで、「ウソを書く」「黙殺する」ことなく、淳于長をけなせる。班氏は「淳于長を不当に冷遇した」という批判を受けなくて良い。さらに班氏は、淳于長が分かりにくいだろ!と申し立てる者に対して、「あんたの読解スキルが足りないんだろ」とすら言える。班氏の編纂方針は、わりにあざとい。ぼくら『漢書』読者に求められるのは、淳于長伝を再構築することだろうなあ。『春秋』において、魯厳公の夫人・哀姜は、世子を殺したので、斉桓公に誅された。趙昭儀が成帝の継嗣を殺したのも、同種の罪であり、家属を天誅に伏させるべきだ。さきの平安剛侯の夫人・許謁(許皇后の姉、成帝に寵愛される王美人や、おじの王鳳を呪詛)の兄弟は、赦令により(族殺されず)帰郷を命じられた。趙昭儀は許謁より重罪なのに、趙昭儀の兄弟が尊貴之位にある。丞相より以下は、趙昭儀とその兄弟を法に照らして裁けと。
哀帝於是免新成侯趙欽、欽兄子成陽侯訢,皆為庶人,將家屬徙遼西郡。時議郎耿育上疏言: 臣聞繼嗣失統,廢適立庶, 聖人法禁,古今至戒。然大伯見歷知適,逡循固讓, 委身吳粵,權變所設,不計常法,致位王季,以崇聖嗣,卒有天下, 子孫承業,七八百載,功冠三王,道德最備,是以尊號追及大王。故世必有非常之變,然後乃有非常之謀。孝成皇帝自知繼嗣不以時立,念雖末有皇子,萬歲之後未能持國, 權柄之重,制於女主,女主驕盛則耆欲無極, 少主幼弱則大臣不使, 世無周公抱負之輔,恐危社稷,傾亂天下。知陛下有賢聖通明之德,仁孝子愛之恩,懷獨見之明,內斷於身,故廢後宮就館之漸,絕微嗣禍亂之根, 乃欲致位陛下以安宗廟。愚臣既不能深援安危,定金匱之計, 又不知推演聖德,述先帝之志, 乃反覆校省內,暴露私燕, 誣汙先帝傾惑之過,成結寵妾妒媚之誅,甚失賢聖遠見之明,逆負先帝憂國之意。(後略)
哀帝為太子,亦頗得趙太后力,遂不竟其事。傅太后恩趙太后,趙太后亦歸心, 故成帝母及王氏皆怨之。ここにおいて哀帝は、新成侯の趙欽、趙欽の兄子・成陽侯の趙訢を、2人とも免じて庶人とした。2人は家属をひきいて、遼西郡に徙そうとした。
銭大昭はいう。外戚侯表はいう。成陽節侯の趙臨は、皇后の父なので侯爵に封じられた。子の趙訢が嗣いだ。新成侯の趙欽は、皇太后の弟だから封じられた。建平元年、趙昭儀に坐して、継嗣が耐えて免じられた。議郎の耿育が上疏した。嫡子でなく庶子が嗣ぐのは、聖人が禁じたことだ。だが周の大伯は、弟の王歴に嗣がせ、王歴の子が周文王となり、この周文王が子孫を栄えさせた。庶子を立てることも、非常の変における非常の謀として、有効である。成帝は継嗣がなかった。晩年の子は幼帝となるしかない。周公旦のような補佐がないと前漢が傾く。そう成帝は考えた。だから傍流から、あなた=哀帝を迎えたのだ。成帝が死んだいま、成帝の子殺しを大きな疑獄事件にするのでなく、成帝の生前の思惑(晩年の子は前漢を傾けるから、子を遺さない)に配慮して、事件を治めるべきだ。すでに成帝を葬り、趙太后という尊号を決めたあとに、趙氏の疑惑を掘り起こすな。天下に成帝の意図を伝えろ。事件を明らかにしろと。
ぼくは思う。成帝の個人的な病理が、死後に「解釈」され直した。耿育によって、成帝の「公式見解」が作られた。この見解とは、哀帝の登場を正当化せねばならない。「成帝の子殺しは罪だが、そのおかげで哀帝が即位できた。哀帝が、子殺しを厳格に裁けば、哀帝の立場が弱くなる」となる。
ぼくは思う。王氏が、趙氏を排除できれば、もうこの問題は「用済み」なのだ。趙昭儀が自死した。これ以上、追究しても、それこそ「死体にムチうつ」ことになる。中国史の人々は、わりに「死体にムチうつ」けれどね。「ムチうつ」習慣があるからこそ、「ムチうつな」という耿育の発言は、政治的に有意味である。わざわざ耿育が言わねば、いつまでも趙昭儀の兄弟は、刑罰を受け続けねばならない。
ツイッター用まとめ。嫡子でなく庶子が、継嗣になる正統性。周文王の伯父は、太伯という。太伯は、弟の歴=王季が、周の君主になるべきと直感して、弟の歴=王季に、地位をゆずった。歴=王季の子が、周文王である。周文王の子孫が8百年の繁栄したと。この故事が、前漢の哀帝の正統性を補強する、議郎の耿育の上疏より。後漢末、嫡子でなく庶子を立てようとして、混乱する。袁紹、劉表、曹操、孫権など。「故事と儒教に照らして嫡子を立てろよ、バカだなあ」とは言い切れない。前漢の耿育は「庶子を立てることも、非常の変における非常の謀としては有効」と言った。周文王が庶子の子だから。袁紹らの苦悩が知れるなあ。
ぼくは思う。儒教は「こうやれ」と命じるのでない。自分の判断に、裏づけをくれるだけ。「だから儒教は頼りにならない」とは思わない。思考停止を促す学術の体系なんて、つまらないから。儒教は、正解を示してくれないが、あたかも正解を示すかのような口ぶりで引用されるという特性がある。この逆説にだまされ、「儒教は回答を提供する」と思ってはいけない。それこそ神の啓示ではないのだ。神の啓示もまた、儒教のように「開いた」思考の材料として使用されるのかも知れないが。
哀帝が太子となれたのは、趙太后の協力が大きい。ゆえに哀帝は(耿育に従って)趙氏への追究を完遂しなかった。哀帝の祖母=傅太后と、成帝の趙太后=趙飛燕は、相互に恩を与えて仲が良い。ゆえに、はじめに趙氏に関する調査を命じた王元后=成帝の母と、外戚の王氏は、哀帝を怨んだ。
ぼくは思う。哀帝の時代、王莽は就国させられた。王氏は不遇だった。哀帝が、趙氏への追究をゆるめることは、王氏に抵抗することと同義である。哀帝なりに、自分の立場の正統性や、王氏を抑制する政策を、きちんと取っている。「周文王の父は庶子だが、周王を嗣いだ」ことが、哀帝の立場の儒教的な根拠だ。王莽が根拠とする、周公旦よりもさらに2世代前の古典である。哀帝は、時代を遡ることで、王莽に対抗した。対抗しつつも、議論のやりかたは同型だけど。
哀帝崩,王莽白太后詔有司曰:「前皇太后與昭儀俱侍帷幄,姊弟專寵錮寢,執賊亂之謀,殘滅繼嗣以危宗廟,誖天犯祖, 無為天下母之義。貶皇太后為孝成皇后, 徙居北宮。」後月餘,復下詔曰:「皇后自知罪惡深大,朝請希闊, 失婦道,無共養之禮,而有狼虎之毒, 宗室所怨,海內之讎也,而尚在小君之位,誠非皇天之心。夫小不忍亂大謀,恩之所不能已者義之所割也, 今廢皇后為庶人,就其園。」是日自殺。凡立十六年而誅。先是有童謠曰:「燕燕,尾涏涏, 張公子,時相見。木門倉琅根,燕飛來,啄皇孫。皇孫死,燕啄矢。」成帝每微行出,常與張放俱,而稱富平侯家,故曰張公子。倉琅根,宮門銅鍰也。哀帝が崩じると、王莽は王皇太后に白し、有司に詔させた。「趙皇太后=趙飛燕と趙昭儀は、姉妹で成帝の子孫を絶やした。趙皇太后を孝成皇后に降格して、北宮に徙せ」と。1ヶ月余して、さらに詔して、孝成皇后を庶人とした。孝成皇后=趙飛燕は、その日に自殺した。皇后になり16年で誅された。
ぼくは思う。王莽の逆説。もし王莽が権力を握る過程が、直線的で順調なら、到達点は史実よりも低かったはず。哀帝という敵対者の時代が、王莽の壮年期にはさまった。ゆえに弾みがついた。「哀帝期を否定する」「政敵を定義することで、初めて排除が可能となる」ことにより、足場と跳躍力を得た。やや結果論めいた「後出しじゃんけん」だが、そういうものだと思う。
ぼくは思う。「王莽は簒奪者か改革者か」という問いの立て方は、「彼は肥満か、ぽっちゃりか」と「彼は肥満か、痩せてるか」という2つのどちらに近いだろう。ぼくは前者だと思う。改革とは、自分なりの仕方で対象を再分節すること。つまり改革者が理解したい形態に、対象を作り替えること。対象を、自分の「手の形」に整えたら、当然ながら自分の手で、その対象をつかみやすくなる。というわけで、王莽について考えるとき、「王莽は簒奪者か改革者か」と、同一内容を言い換えるための問いを立てることの意義が薄くないかなあ。せっかくなら、「肥満か、痩せか」に似ている問いを立てたい。これより先に童謡があった。「尾羽の美しい燕=張飛燕に、張公子=成帝が出会った。皇孫=哀帝が死ぬと、燕は矢=糞をついばんだ」と。成帝は微行するとき、張放と同行して、富平侯の家の者だと名のった。ゆえに成帝のことを、童謡では「張公子」というのだ。
王念孫はいう。富平侯とは、張放である。ゆえに成帝は、張放の家属であると、身分をいつわったのだ。ちくま訳はいう。張放とは、張湯の玄孫。元帝の妹の子。一説に、成帝の姉の子。
ぼくは思う。ともあれ成帝は、血縁者の従者に扮したのだ。成帝の自己イメージは、ここで止まっているのだろう。最後まで、「子孫まで祭祀を継続させるべき天子」という自己イメージは獲得されなかった。
ぼくは思う。王朝が内側から滅びるとき、「空虚な中心(ラカンより)」が発生して、その中心が重力を発生させる。天子の候補者や権臣が吸い寄せられ、穴の周りをぐるぐる回る。前漢は成帝の子がなく、曹魏は曹叡の子がない。どちらも生物学的に子がないのでなく、政治的に子が「ない」とされた気配が史書にある。前漢が滅亡した原因は、成帝に子が「ない」からだった。この空虚な中心に吸い寄せられ、もっとも中心に接近したのが、王莽。しかし王莽ですら、中心だと思っていた場所が、中心でなかった。無限に中心に近づいたが、あくまで少しズレた場所を、小刻みに回っているだけだった。空虚な中心は、サイズが小さくなる(近似的にゼロとなる)ことはあっても、消失してゼロになることはない。その点で後漢は、近似的にゼロにして、ズレが露見するのを、2百年も先送りした。このあたりは、易姓革命がつきものの中国の王朝で、うまく言える。ぎゃくに、皇居=江戸城を、空虚な中心だと言ったのは、中沢新一先生だけど、日本の空虚な中心のあり方は、もう1つ次元が高くて、議論が難しそうだ。
ぼくは思う。まるで『鋼の錬金術師』のホムンクルスみたいに、「世界の中心」にいるのが王莽。しかしホムンクルスは、場所は間違ってなかったが、真理を抑えきれなかった。つまり、場所とは異なる次元で、「中心」にはいなかった。王莽は、場所すら間違っていた気配がある。皇居は場所は合っていそうで、、わからないやw閉じる
- 哀帝の外戚;祖母の傅氏、母の丁氏、皇后の傅氏
哀帝の祖母、王皇太后の元同僚
孝元傅昭儀,哀帝祖母也。父河內溫人,蚤卒,母更嫁為魏郡鄭翁妻,生男惲。昭儀少為上官太后才人,自元帝為太子,得進幸。元帝即位,立為倢伃,甚有寵。為人有材略,善事人,下至宮人左右,飲酒酹地,皆祝延之。 產一男一女,女為平都公主,男為定陶恭王。恭王有材藝,尤愛於上。元帝既重傅倢伃,及馮倢伃亦幸,生中山孝王,上欲殊之於後宮,以二人皆有子為王,上尚在,未得稱太后,乃更號曰昭儀,賜以印綬,在倢伃上。昭其儀,尊之也。至成、哀時,趙昭儀、董昭儀皆無子,猶稱焉。元帝の傅昭儀は、哀帝の祖母である。父は河内の温県の人。母は再婚して、魏郡の鄭翁の妻となる。男子の鄭惲を生んだ。傅昭儀は、上官太后の才人となる。
沈欽韓はいう。「才人」とは、伎人の号だろう。『宋書』后妃伝に、晋武帝の司馬炎が、才人をおき、爵位は1千石に視するとある。元帝が太子となると、寵愛された。元帝が即位すると、倢伃となる。他の宮人から人望がある。1男1女をうむ。娘は平都公主であり、子は定陶恭王となる。元帝は、定陶恭王を生んだ傅倢伃と、中山孝王を生んだ馮倢伃を後宮で卓越させるため、倢伃の上に「昭儀」の称号を創設した。2人は王の母であるが、元帝が存命なので、まだ「太后」を称するわけにゆかず、「昭儀」としたのだ。成帝と哀帝のとき、趙昭儀(趙飛燕の妹)と董昭儀がいたが、彼女らは子がなく、王の母でなかった。
沈欽韓はいう。『新唐書』后妃伝はいう。昭儀は四妃の下で、四妃のトップは九嬪であると。漢代に九嬪がないので、昭儀がトップだった。
ぼくは思う。「夫の皇帝が存命で、諸王の母となった者」を昭儀とした。付随的に「倢伃の上」とした。だが後者の序列のほうが、ひとりあるきして、原義を失った。称号とは、差異の記号である。後者の意味がひとりあるきしたのは、まさしく記号の本分である。
元帝崩,傅昭儀隨王歸國,稱定陶太后。後十年,恭王薨,子代為王。王母曰丁姬。傅太后躬自養視,既壯大,成帝無繼嗣。時中山孝王在。元延四年,孝王及定陶王皆入朝。傅太后多以珍寶賂遺趙昭儀及帝舅票騎將軍王根,陰為王求漢嗣。皆見上無子,欲豫自結為久長計,更稱譽定陶王。 上亦自器之,明年,遂徵定陶王立為太子,語在哀紀。元帝が崩じると、傅昭儀は定陶に帰国して、定陶太后と称した。10年たち、子の恭王が薨じた。傅太后の孫が定陶王となる(のちの哀帝)。王母は丁姫。傅太后が孫を養育した。ときに中山孝王(元帝の子、平帝の父)もいて、皇位継承のライバルである。傅太后は、趙昭儀と驃騎将軍の王根に、珍宝と賄賂をおくり、孫の定陶王を推薦した。翌年、定陶王が太子となった。哀帝紀にある。
ぼくは思う。『補注』にとくに注釈なし。
月餘,天子立楚孝王孫景為定陶王,奉恭王後。太子議欲謝,少傅閻崇以為「春秋不以父命廢王父命, 為人後之禮不得顧私親,不當謝。」太傅趙玄以為當謝,太子從之。詔問所以謝狀,尚書劾奏玄,左遷少府,以光祿勳師丹為太傅。1ヶ月後、成帝は、楚孝王の孫・劉景を定陶王として、定陶恭王を嗣がせた。
ぼくは思う。哀帝は、定陶王となった。この哀帝の王爵は、ノーカウントにされた。哀帝の父を、楚孝王の孫が嗣いだのだから。太子(もうすぐ哀帝、傅太后の孫)は、父の定陶王を嗣がない(定陶から出て天子になる)ことを謝りたい。太子の少傅の閻崇はいう。『春秋』では、父の命令で、祖父の命令を廃さない(祖父の命令のほうが優先だ)。祖父よりも父のほうが血縁が近いが、この近さにこだわるな。謝るにはあたらないと。
ぼくは思う。太子(もうすぐ哀帝)の祖父は、元帝である。つまり太子は、祖父の元帝の祭祀を続けるのか、父の定陶王の祭祀を続けるのか、板挟みである。閻崇は、祖父の元帝の祭祀をする(天子となる)ことが優先だと述べたのだろう。ちくま訳と解釈が違っちゃったけど。太傅の趙玄は、謝れ(太子は定陶王を祭るのが本来である)という。太子は趙玄に従い、謝った。成帝は、太子の謝状の意図を確かめた。尚書が趙玄を弾劾して、少府に左遷した。光禄勲の師丹を、太子の太傅とした。
ぼくは思う。成帝としては、太子(もうすぐ哀帝)が、定陶に恋着しているのは望ましくない。「謝」を「あやまる」と読むのか「感謝する」の意味で読むのか、わからないが。どちらにせよ、太子が「定陶に関する責任の主体は私だ」と言っているのは同じだ。自分のやるべき祭祀を代行させたのだから、あやまった。もしくは、自分がやるべき祭祀を代行してもらい、感謝したと。この太子の認識が、成帝を怒らせ、趙玄が左遷された。
詔傅太后與太子母丁姬自居定陶國邸。下有司議皇太子得與傅太后、丁姬相見不,有司奏議不得相見。頃之,成帝母王太后欲令傅太后、丁姬十日一至太子家,成帝曰:「太子丞正統,當共養陛下,不得復顧私親。」王太后曰:「太子小,而傅太后抱養之,今至太子家,以乳母恩耳,不足有所妨。」於是令傅太后得至太子家。丁姬以不小養太子,獨不得。成帝は詔した。太子の祖母の傅太后と、太子の母の丁姫を、(長安にある)定陶の国邸に住まわせた。有司が議して、祖母と母が太子を会わせるなという。成帝の母の王皇太后は、10日に一度、祖母を母と会えるようにした。成帝が王皇太后に反対した。「太子は定陶から出て、天子を嗣ぐ。祖母や母などの私的な血縁者と会わせるべきでない」と。王皇太后はいう。「太子は祖母に抱かれ、養育された。祖母が太子に会うのは、祖母でなく乳母としてだ。面会を妨げるな」と。ただし太子の母の丁姫は、太子を養育しなかったから、丁姫だけは太子に会えない。
ぼくは思う。王皇太后は、傅太后と、どちらも元帝の妻だったという資格において、もと同僚である。だから同僚に寛大なのだろうか。成帝は、自分が子を遺さなかったゆえに、かえって厳格に王朝を運営したい。だが王皇太后(成帝の実母)から見れば、家族のなかの劇場である。女性は、このように柔軟に規制を乗り越えるから、男性から見ると「手ごわい」。
ぼくは思う。王皇太后は、丁姫を厳しく排除している。傅太后はもと同僚だが、丁姫は「家族じゃない」のだ。男性から見ると、これほど厳しく区別しなくても良さそう(傅太后と丁姫はセットだろう)と思えてしまうが、ちがうのだ。王皇太后という「巨大な母」の存在が、前漢末を理解するとき、立ち塞がるなあ!
ぼくは思う。『補注』はたいした情報がない。
成帝崩,哀帝即位。王太后詔令傅太后、丁姬十日一至未央宮。高昌侯董宏希指, 上書言宜立丁姬為帝太后。師丹劾奏「宏懷邪誤朝,不道。」上初即位,謙讓,從師丹言止。後乃白令王太后下詔,尊定陶恭王為恭皇。哀帝因是曰:「春秋『母以子貴』,尊傅太后為恭皇太后,丁姬為恭皇后,各置左右詹事,食邑如長信宮、中宮。追尊恭皇太后父為崇祖侯,恭皇后父為襃德侯。」後歲餘,遂下詔曰:「漢家之制,推親親以顯尊尊,定陶恭皇之號不宜復稱定陶。其尊恭皇太后為帝太太后,丁后為帝太后。」後又更號帝太太后為皇太太后,稱永信宮,帝太后稱中安宮,而成帝母太皇太后本稱長信宮,成帝趙后為皇太后,並四太后,各置少府、太僕,秩皆中二千石。為恭皇立寢廟於京師,比宣帝父悼皇考制度,序昭穆於前殿。成帝が崩じ、哀帝(傅太后の孫)が即位した。王皇太后は詔して、傅太后と丁姫を10日に1回だけ、未央宮に来させる。
先謙はいう。傅太后は、哀帝に面会でき、政治に参加できた。王皇太后は、これを許した。だがのちに、何武は孔光の議論に従わず、傅太后を北宮に居住させた。ついに哀帝は、みずから執政できなかった。ぼくは思う。何武と孔光が何をやったのか、あとで確認。まだ分からん。高昌侯の董宏が上書して「哀帝の母・丁姬を、太后にせよ」という。師丹が劾奏した。「董宏は王朝を誤らせる」と。即位直後の哀帝は、謙譲して(実母を太后にせず)師丹に従った。のちに哀帝は、王皇太后に詔させた。「父の定陶恭王を、定陶恭皇にせよ。『春秋』で母は子を以て貴いという。傅太后を皇太后とせよ」と。
ぼくは思う。傍流から即位した哀帝は、自分の家族の称号をあげてゆく。ただし、おじの成帝の家族の称号を、下げるのでない。ただ追加して、結果的にインフレをつくる。これを「整理」することが、王莽の宿題でもある。1年余して「父を、定陶恭皇でなく恭皇とよべ(定陶をつけるな)。祖母の傅氏を帝太太后とせよ。母の丁后を帝太后とせよ」と。さらに祖母の傅氏を皇太太后、永信宮とした。母の丁氏を帝太后、中安宮とした。成帝の母の王氏を、太皇太后、長信宮(のまま)とした。成帝の趙后を皇太后とした。4太后が並立した。それぞれの太后に、少府、太僕をおき、みな中二千石とする。父の恭皇の寝廟を京師にたてた。宣帝の父・悼皇と同じようにした。
傅太后父同產弟四人,曰子孟、中叔、子元、幼君。 子孟子喜至大司馬,封高武侯。中叔子晏亦大司馬,封孔鄉侯。幼君子商封汝昌侯,為太后父崇祖侯後,更號崇祖曰汝昌哀侯。太后同母弟鄭惲前死,以惲子業為陽信侯,追尊惲為陽信節侯。鄭氏、傅氏侯者凡六人,大司馬二人,九卿二千石六人,侍中諸曹十餘人。傅太后既尊,後尤驕,與成帝母語,至謂之嫗。與中山孝王母馮太后並事元帝,追怨之,陷以祝詛罪,令自殺。元壽元年崩,合葬渭陵,稱孝元傅皇后云。傅太后の父には、同母弟が4人いた。傅太后のおいが官爵をもらった。傅皇后の同母弟が、鄭氏にいる。鄭氏と傅氏から、侯爵が6人、大司馬が2人、九卿と二千石が6人、侍中諸曹が10余人でた。
ぼくは思う。固有名詞ははぶく。
王念孫はいう。侯爵は6人でなく4人とすべきだ。あとでも6人とあるが、4人が正しい。4人とは、傅喜、傅晏、傅商、鄭業である。『漢書』五行志でも、4人とある。
ぼくは思う。外戚のなかから高官になっても、あまり政治で活躍しない。政治力を理由に、出世したのでないから。曹魏では、外戚の甄氏や郭氏から、有力者が出なかった。外戚の男性は、広義の「おばちゃん」だから、天子の家族であるが、政治をやらない。だから「おばちゃん」が劣ると言いたいのでなく、棲み分けなのだ。「おばちゃん」にしてみれば、政治なんか「ヒマなおじちゃんに、させておけば良い」程度のことだ。政治力で出世した官僚は「おじちゃん」だから、政治をやる。曹魏では、司馬氏などがこれにあたる。で、外戚の男性のくせに、政治力があると「両性具有」の怪物ができる。それが霍光であり、王莽である。
傅太后は、のちに驕慢となり、王皇太后を「嫗」とよぶ。傅太后は、王皇太后や、中山孝王の母・馮太后とともに、元帝につかえた。当時の怨みがあるので、馮太后を呪詛した。傅太后は自殺させられた。元寿元年に、傅太后は崩じた。
ぼくは補う。前02年である。哀帝が死んだ歳である。つまり、哀帝が死に、王氏によって平帝が即位したので、政争に敗れたのだ。「自殺させられた」「崩じた」と、2回も書いてあるのが怪しい。呪詛という理由は、典型的なデッチアゲだ。「呪詛の証拠がない」と弁明しても、「呪詛とは証拠を残さないもの。証拠がないことは、かえって呪詛の証明となる」と言えてしまう。呪詛の有無より、それ以前に政治の決着がついている。傅太后は、渭陵に合葬された。孝元傅皇后といわれた。
哀帝の母・丁姫
定陶丁姬,哀帝母也,易祖師丁將軍之玄孫。 儒林傳丁寬易之始師。」 家在山陽瑕丘,父至廬江太守。始定陶恭王先為山陽王,而丁氏內其女為姬。王后姓張氏,其母鄭禮,即傅太后同母弟也。太后以親戚故,欲其有子,然終無有。唯丁姬河平四年生哀帝。丁姬為帝太后,兩兄忠、明。明以帝舅封陽安侯。忠蚤死,封忠子滿為平周侯。太后叔父憲、望。望為左將軍,憲為太僕。明為大司馬票騎將軍輔政。丁氏侯者凡二人,大司馬一人,將軍、九卿、二千石六人,等中諸曹亦十餘人。丁、傅以一二年間暴興尤盛。然哀帝不甚假以權勢,權勢不如王氏在成帝世也。定陶の丁姬は、哀帝の母だ。易祖師の丁將軍の玄孫である。
『漢書』儒林伝に、丁寬が易之始師だとある。周寿昌はいう。祖師とは、異称である。丁寛は、梁孝王の将軍となった。呉楚の乱で戦ったから、将軍という。丁氏の家は山陽の瑕丘にある。父は廬江太守にまでなる。はじめ、定陶恭王が山陽王となり、丁氏が恭王の姫(妃より下位の妻)となった。定陶王后は張氏であるが、張氏の母は鄭禮である。これは、定陶恭王の母・傅太后の同母妹である。
ぼくは補う。定陶恭王(哀帝の父)は、母の同母妹の子=いとこにあたる張氏を、王妃とした。丁姫は、この近親相姦に割りこんで、哀帝を生んだ。だが王妃の張氏は子がない。河平4年、丁姫が哀帝を生んだ。哀帝が即位し、丁姫は帝太后となる。丁姫には2人の兄がいる。丁忠と丁明である。丁氏は官爵があがる。丁氏から、侯者が2名、大司馬が1名、將軍や九卿や2千石が6名、侍中や諸曹が10余人でた。哀帝の母と祖母、すなわち丁氏と傅氏は、1,2年のうちに盛んになった。だが哀帝は、母系の親族に権勢をあたえないので、成帝期の王氏ほど、外戚が栄えない。
ぼくは思う。哀帝は、在位がたったの6年。成帝は26年。もし哀帝が外戚に権勢をあずけても、丁氏と傅氏は、政治資本の蓄積を始める前に、政権が終わっただろう。もしノウハウがあるなら、大司馬という官職を利用して、丁氏がいかようにも政治をやったはずだ。
ぼくは思う。哀帝が主体的な意思を持って、より具体的には、王氏に権勢を与えた成帝を反面教師にして、外戚を抑えたとは考えにくい。なぜなら、まだ王皇太后が存命だから。哀帝には、成帝期の「精算」が許されない。丁氏に、執政するほどの政治資本がなかった、と考えるのが自然だろう。わざわざ『漢書』にこんな記述があるのは、班彪が「王莽を批判するふり」をするためだ。事実の記述には手を加えず、編者のコメントにおいて、王莽を排撃する姿勢を見せるのだ。
建平二年,丁太后崩。上曰:「詩云『穀則異室,死則同穴』。 昔季武子成寢,杜氏之墓在西階下,請合葬而許之。 附葬之禮,自周興焉。孝子事亡如事存,帝太后宜起陵恭皇之園。」遣大司馬票騎將軍明東送葬于定陶,貴震山東。哀帝崩,王莽秉政,使有司舉奏丁、傅罪惡。莽以太皇太后詔皆免官爵,丁氏徙歸故郡。莽奏貶傅太后號為定陶共王母,丁太后號曰丁姬。建平2年、丁太后が崩じた。哀帝は『礼記』に基づき、定陶にある恭皇(父)の陵墓に合葬した。大司馬・驃騎将軍の丁明が、丁太后の遺骸を定陶まで送った。哀帝が崩じると、王莽が秉政した。丁氏と傅氏の罪悪をあげた。王皇太后が詔して、丁氏と傅氏の官爵を免じた。丁氏は故郷に帰された。王莽は、傅太后(哀帝の祖母)の称号を定陶共母におとして、 丁太后の称号を丁姫におとした。
ぼくは思う。前漢末は、元帝の3人の孫が帝位を継承する。王氏-成帝-政治的な不在。傅氏-定陶恭王-哀帝。馮氏-中山孝王-平帝。という3つである。「政治的な不在」は、人間じゃないんだが。マザコンの成帝が、王氏の圧迫によって、政治的に作り損ねた空席が、「空虚な中心」となって、前漢末を混乱させる。ぼくはこれを「天子の1人」とカウントしたい。
ぼくは思う。王莽の執政は、この「政治的な不在」の後見を務めるという形態で行われる。平帝が立とうが、平帝が死のうが、孺子嬰という文字どおりの「不在」を頂こうが、おあまり関係ない。ずっと天子は「政治的な不在」さんが即いているのだ。でなければ、平帝や孺子嬰の血縁ではない、王氏が執政することの理由が見つからない。
元始五年,莽復言「共王母、丁姬前不臣妾, 至葬渭陵,冢高與元帝山齊,懷帝太后、皇太太后璽綬以葬, 不應禮。禮有改葬,請發共王母及丁姬冢,取其璽綬消滅,徙共王母及丁姬歸定陶,葬共王冢次,而葬丁姬復其故。」 太后以為既已之事,不須復發。莽固爭之,太后詔曰:「因故棺為致椁作冢, 祠以太牢。」謁者護既發傅太后冢,崩壓殺數百人;開丁姬椁戶,火出炎四五丈, 吏卒以水沃滅乃得入,燒燔椁中器物。元始5年、王莽はいう。「哀帝の祖母の傅氏、母の丁氏は、渭陵に葬られ、元帝とおなじ高さの墳墓である。また、皇太太后と帝太后の璽綬とともに、葬られている。礼制に相応しくない。掘り返して、璽綬を取りだせ。祖母の傅氏は定陶に移動させ、母の丁氏は渭陵に埋めもどせ」と。
王皇太后は「わざわざ掘り返さなくても」というが、王莽が押し切った。謁者の護が、掘り返した。傅氏を掘り返すと、土が崩れて数百人が圧殺された。丁氏を掘り返すと、棺が発火して、火炎が4,5丈ものぼった。副葬品が焼けた。
ぼくは思う。王皇太后は、「元帝の孫たち」を主催する者だ。突きつめる必要がない。だが、王莽にしてみれば、政争のメインテーマである。このように、「元帝のどの孫が正統か」に熱中するのは、王莽だけでなく、成帝や哀帝も同じだった。
例えるなら、製造メーカーはどの販売店で売ってくれても同じだが、販売店同士は、しのぎを削る。製造メーカーが「まあまあ、仲良く売ってくれれば良いよ」と言っても、それは通じない。メーカーが「熾烈な販売競争のせいで、うちの製品のイメージが悪くなるんだが」と言っても、販売店たちは競争せざるを得ない。
莽復奏言:「前共王母生,僭居桂宮,皇天震怒,災其正殿;丁姬死,葬踰制度,今火焚其椁。此天見變以告,當改如媵妾也。臣前奏請葬丁姬復故,非是。 共王母及丁姬棺皆名梓宮,珠玉之衣非藩妾服,請更以木棺代,去珠玉衣,葬丁姬媵妾之次。」奏可。既開傅太后棺,臭聞數里。公卿在位皆阿莽指,入錢帛,遣子弟及諸生四夷,凡十餘萬人,操持作具,助將作掘平共王母、丁姬故冢,二旬間皆平。莽又周棘其處以為世戒云。 時有羣燕數千,銜土投丁姬穿中。 丁、傅既敗,孔鄉侯晏將家屬徙合浦,宗族皆歸故郡。唯高武侯喜得全,自有傳。王莽はいう。「傅氏と丁氏は、生前に僭越だった。傅氏の正殿は焼け、丁氏の棺は焼けた。媵妾のように粗末に葬るべきだ」と。傅氏の棺をひらくと、数里先まで臭った。2人の塚をくずし、20日で平地になった。王莽は、陵墓だった地にイバラをめぐらせ、後世の戒めとした。
傅氏と丁氏が敗れ、孔郷侯の傅晏らは、家属をひきいて合浦にゆく。宗族は、みな帰郷させられた。ただ高武侯の傅喜だけは、政治生命を全うした。列伝がある。
ぼくは補う。傅喜伝は、列伝52らしい。いま出てきた孔郷侯の傅晏は、つぎに読む、哀帝の傅皇后の父である。だから代表して、名が出てきた。というか、帰郷だけでは許されず、遠方に徙された。
ぼくは思う。帝位の系統が交代することは、いくらでもある。王莽のように、徹底的に先帝を排除することは少ない。哀帝の母系は、王莽が陵墓を攻撃することによって、初めて、王莽の政敵だったと登録された。王莽は、よほど哀帝の母系を怨んでいたんだなあ、と事後的にわかった。もし王莽が任国で死んでいて、哀帝の死後に復帰しなければ、この「元帝の孫たちの闘争」は、ここまで激しくならなかった。
哀帝の傅皇后
孝哀傅皇后,定陶太后從弟子也。哀帝為定陶王時,傅太后欲重親,取以配王。王入為漢太子,傅氏女為妃。哀帝即位,成帝大行尚在前殿,而傅太后封傅妃父晏為孔鄉侯,與帝舅陽安侯丁明同日俱封。哀帝の傅皇后は、定陶太后(哀帝の祖母)の從弟・傅晏の子である。哀帝が定陶王のとき、祖母が、劉氏と傅氏を重婚させた。哀帝が前漢の太子となると、傅氏は妃となる。哀帝が即位すると、成帝の死体が前殿にあるのに、祖母が傅晏を孔郷侯として、哀帝のおじ・陽安侯の丁明と、同日に封爵した。
時師丹諫,以為「天下自王者所有,親戚何患不富貴?而倉卒若是,其不久長矣!」晏封後月餘,傅妃立為皇后。傅氏既盛,晏最尊重。哀帝崩,王莽白太皇太后詔曰:「定陶共王太后與孔鄉侯晏同心合謀,背恩忘本,專恣不軌,與至尊同稱號,終沒,至乃配食於左坐, 誖逆無道。今令孝哀皇后退就桂宮。」後月餘,復與孝成趙皇后俱廢為庶人,就其園自殺。師丹が、祖母の傅氏を諫めた。「天下は王者=哀帝のものになる。どうして親戚=傅氏と丁氏は、富貴になれぬことを患うのか。成帝の埋葬、哀帝の正式な即位まで待てないなら、哀帝と傅氏の天下は長続きしない」と。
傅晏は数ヶ月余して封じられた。傅妃は皇后となり、傅氏はもっとも尊重された。哀帝が崩じると、王莽が王皇太后に詔を出させ、哀帝の傅皇后と、成帝の趙皇后を庶人とした。傅皇后は自殺した。130202ぼくは思う。哀帝の祖母・傅氏のおまけだ。王莽も、祖母の傅氏とセットで扱っている。すなわち、哀帝の死後に、待遇を最悪にした。閉じる
- 平帝の外戚;祖母の馮氏、母の衛氏、皇后の王氏
平帝の祖母・馮昭儀、傅昭儀との対立
孝元馮昭儀,平帝祖母也。元帝即位二年,以選入後宮。時父奉世為執金吾。昭儀始為長使,數月至美人,後五年就館生男,拜為倢伃。時父奉世為右將軍光祿勳,奉世長男野王為左馮翊,父子並居朝廷,議者以為器能當其位,非用女寵故也。而馮倢伃內寵與傅昭儀等。元帝の馮昭儀は、平帝の祖母である。元帝が即位して2年目、後宮に入る。ときに父の馮奉世は執金吾である。男子を産んで倢伃となる。父の馮奉世は右將軍・光禄勲、兄の馮野王は左馮翊となる。議者は「馮氏が馮昭儀のおかげで官職を得たのでない」という。傅昭儀(哀帝の祖母)とともに、元帝から寵愛された。
ぼくは思う。馮昭儀の列伝のおもなストーリーは、傅昭儀との対決。けっきょく孫の哀帝を即位させた傅昭儀に、負けてしまう。ネタバレ!
建昭中,上幸虎圈鬬獸,後宮皆坐。熊佚出圈, 攀檻欲上殿。左右貴人傅昭儀等皆驚走,馮倢伃直前當熊而立,左右格殺熊。上問:「人情驚懼,何故前當熊?」倢伃對曰:「猛獸得人而止,妾恐熊至御坐,故以身當之。」元帝嗟嘆,以此倍敬重焉。傅昭儀等皆慙。明年夏,馮倢伃男立為信都王,尊倢伃為昭儀。元帝崩,為信都太后,與王俱居儲元宮。 河平中,隨王之國。後徙中山,是為孝王。後徵定陶王為太子,封中山王舅參為宜鄉侯。參,馮太后少弟也。是歲,孝王薨,有一男,嗣為王,時未滿歲,有眚病, 太后自養視,數禱祠解。建昭のとき(前38-前34)、上林苑にある虎圏で、元帝たちは闘獣をみた。オリを破ってクマが出た。傅昭儀はにげた。馮昭儀はクマの前に立つ。「猛獣が私を食べれば、元帝には危害が及ばないと思った」という。元帝は嗟嘆した。傅昭儀は、逃げたことを恥じた。翌年夏、馮氏の子(のちの中山孝王)が信都王になり、馮氏は倢伃から昭儀となる。
元帝が崩じると、馮昭儀は「信徒太后」となる。河平のとき、就国する。子が中山にうつる。のちに定陶王が太子となると(哀帝)、中山王のおじ・馮参が宜郷侯となる。馮参とは、馮太后の少弟である。この歳、子の中山孝王が薨じ、孝王の子(馮太后の孫、のちの平帝)が中山王をつぐ。平帝は、まだ1歳未満で病気となる。馮太后が平帝を看病して、平癒を祈祷した。
ぼくは思う。『補注』にあまり注釈がない。語釈のみ。
哀帝即位,遣中郎謁者張由將毉治中山小王。由素有狂易病, 病發怒去,西歸長安。尚書簿責擅去狀, 由恐,因誣言中山太后祝詛上及太后。太后即傅昭儀也,素常怨馮太后,因是遣御史丁玄案驗,盡收御者官吏及馮氏昆弟在國者百餘人,分繫雒陽、魏郡、鉅鹿。數十日無所得,更使中謁者令史立 與丞相長史大鴻臚丞雜治。立受傅太后指,幾得封侯, 治馮太后女弟習及寡弟婦君之,死者數十人。巫劉吾服祝詛。毉徐遂成言習、君之曰「武帝時毉修氏刺治武帝得二千萬耳, 今愈上,不得封侯,不如殺上,令中山王代,可得封。」立等劾奏祝詛謀反,大逆。責問馮太后,無服辭。立曰:「熊之上殿何其勇,今何怯哉!」太后還謂左右:「此乃中語,前世事, 吏何用知之?是欲陷我效也!」乃飲藥自殺。哀帝が即位すると、中郎謁者の張由が、平帝の治療にきた。
先謙はいう。『続志』によると、潅謁者郎中は、比3百石。この「中郎」は、「郎中」とすべきか。張由はパニックになりやすい。張由は中山でパニックになり、長安に帰った。尚書が張由に「かってに中山から帰ってきたな」と問責した。張由は「馮太后が、哀帝と傅太后を呪詛する。この報告のために帰還した」と言い、自分を正当化した。
傅太后(哀帝の祖母)は、馮太后(中山王=平帝の祖母)に宿怨がある。傅太后は、馮氏の在官者1百余人をとらえ、数十日、取り調べた。中謁者令の史立が、丞相長吏、大鴻臚丞とともに取り調べた。馮氏の縁者が、数十人も死んだ。傅太后はいう。「馮太后は、元帝をクマから守って勇敢だったが、(いま哀帝の死を願うとは)なんと卑怯なのだ」と、馮太后をなじった。大逆の罪を着せられ、馮太后は服毒自殺した。
ぼくは思う。固有名詞をいっぱい省いた。けっきょくは、元帝の後宮の「嫉妬」闘争が、元帝の死後もつづいている。だれが元帝の嫡孫=天子の祖母となるか、という戦いである。もちこすなあ。2世代にわたり「祖母」の地位が争われるのは、成帝が子を残さなかったから。もし成帝が子を残せば、王皇太后が「祖母」として安定して占めた。またその地位に、政治的な魅力はなかったはず。なぜなら、成帝の皇后(許氏など)が「皇帝の母」なる外戚権力として君臨する。「祖母」は出番がなかったはずだ。
先未死,有司請誅之,上不忍致法,廢為庶人,徙雲陽宮。既死,有司復奏「太后死在未廢前。」有詔以諸侯王太后儀葬之。宜鄉侯參、君之、習夫及子當相坐者,或自殺,或伏法。參女弁為孝王后,有兩女,有司奏免為庶人,與馮氏宗族徙歸故郡。張由以先告賜爵關內侯,史立遷中太僕。
哀帝崩,大司徒孔光奏「由前誣告骨肉,立陷人入大辟,為國家結怨於天下,以取秩遷,獲爵邑,幸蒙赦令,請免為庶人,徙合浦」云。馮太后が自殺する前、有司は「馮太后を誅するべきだ」というが、哀帝は忍びず馮太后を廃して庶人とし、雲陽宮に徙せと詔した。馮太后が自殺すると哀帝は、庶人におとす詔書の発行前に馮太后が自殺したのだから、馮太后を諸侯王の太后の儀礼で葬らせた。宜郷侯の馮参らは自殺した。
馮参の娘は、中山孝王后である。2人の娘がある。全員を庶人にして、馮氏の宗族を帰郷させた。張由は、馮太后の大逆を報告したから、関内侯を賜った。史立は、馮氏の罪を調べたから、中太僕となる。
哀帝が崩じると、大司馬の孔光が奏した。「張由と史立は、無罪の馮氏を陥れた。庶人として合浦に徙すべきだ」と。
何焯はいう。張由と史立を罪としただけで、馮氏の爵位や称号をもどさない。王氏は、王鳳のとき野王を廃したから、王氏と馮氏とのあいだに怨恨がある。宜郷侯の馮氏は、平帝のときに健在だった(平帝の外戚であった)ので、王莽は深く畏れた。王莽は、宜郷侯を夷滅した。
ぼくは思う。元帝の3人の妻と、3人の孫。王氏-成帝-不在。傅氏-定陶王-哀帝。馮氏-中山王-平帝。王氏は、いち早く成帝を輩出したので、傅氏と馮氏のように対等な対立はしなかった。だが潜在的には、3者は等距離でライバルである。王氏は成帝の死後、ほかの2人の孫が皇帝になったので、かえって立場が弱くなった。王氏から見れば、こんな話になる。はじめ成帝が天子だから優越は絶対的。つぎに、傅氏と馮氏が争ううちは、傍観者ないし審判者として振る舞える。だが王莽が傅氏と哀帝を除いた結果、王氏と馮氏の対立が鮮明になった。傅氏という「共通の敵」が消えることで、かえって馮氏が王氏にとって脅威になった。まして馮氏は、現在の天子・平帝を輩出しているから立場が強い。というわけか。
ぼくは思う。となると、「王莽が平帝を殺した」という言説の真実っぽさが際立つ。「王莽は傀儡である幼帝をどう扱ったか」ではなく、元帝の3人の妻と、3人の孫、3人の皇帝、3氏の外戚の対立である。問題のあり方が、順番にスライドする。妻の対立のときは「嫉妬」であり、天子の人生は「後継」の問題だった。いま外戚の一族をあげた「夷族」の対立にシフトした。ここまでシフトすると、3人の「祖母」たちは、部外者になる。つまり、王太后は対立の主人公になれない。
ぼくは王莽が平帝を毒殺していないと思う。史料を読んでも、翟義のアジテーションを真に受ける必要はないのだから。また、王莽が毒殺しないが、「毒殺した」という虚偽が流通したという時代状況をいかに理解するか、という問題のほうに、取り組んでみたいから。いくら王莽が、外戚である馮氏を殺せても、平帝には手は出さない。
中山衛姫、平帝の母
中山衛姬,平帝母也。父子豪,中山盧奴人,官至衛尉。子豪女弟為宣帝倢伃,生楚孝王;長女又為元帝倢伃,生平陽公主。成帝時,中山孝王無子,上以衛氏吉祥,以子豪少女配孝王。元延四年,生平帝。中山王の衛姬は、平帝の母である。父の衛子豪は、中山の盧奴の人である。官職は衛尉に到る。衛子豪の妹は、宣帝の倢伃となり、楚孝王をうむ。衛子豪の長女は、元帝の倢伃となり、平陽公主をうむ。
ぼくは思う。代々、前漢の皇帝に女性を送りこんでいる家って、ほかにどんながあるんだろう。倢伃となり、子もできてるから、「身分が低いけど、とりあえず頭数だけ預けた」程度ではない。また、衛氏が皇帝の母になったのは、中山王の妻としての資格によるもので、まったくの偶然だなあ。この中山孝王は、元帝の子なんだけど。成帝のとき、中山孝王は子がないから、衛子豪の少女を孝王にめあわせた。元延4年(前09)、中山孝王と衛姫のあいだに平帝が産まれた。
平帝年二歲, 孝王薨,代為王。哀帝崩,無嗣,太皇太后與新都侯莽迎中山王立為帝。莽欲顓國權,懲丁、傅行事,以帝為成帝後,母衛姬及外家不當得至京師。乃更立宗室桃鄉侯子成都為中山王,奉孝王後,遣少傅左將軍甄豐賜衛姬璽綬,即拜為中山孝王后,以苦陘縣為湯沐邑。又賜帝舅衛寶、寶弟玄爵關內侯。賜帝三妹,謁臣號修義君,哉皮為承禮君,鬲子為尊德君, 食邑各二千戶。莽長子宇非莽隔絕衛氏,恐久後受禍,即私與衛寶通書記,教衛后上書謝恩,因陳丁、傅舊惡,幾得至京師。平帝が2歳のとき、中山孝王が薨じたので、平帝が中山王を嗣ぐ。哀帝が崩じると、王太皇太后と新都侯の王莽は、平帝を天子に迎えた。王莽は、傅氏と丁氏に国権を奪われたのに懲りた。平帝に成帝を嗣がせ、母の衛姫を中山に留めて、京師に入らせない。
ぼくは思う。哀帝は「なかったこと」になった。つまり馮氏の孫を、王氏の孫にしたのだ。元帝と王元后が成帝をうみ、成帝の「養子」として平帝がもらわれてきた。中国史では、日本史のように「養子」という概念はないけど。王莽は、劉成都に中山王として、中山孝王を嗣がせた。少府・左将軍の甄豊を遣わして、衛姫に中山孝王后の璽綬を与えた。苦陘縣を、衛姫の湯沐邑とした。
ちくま訳はいう。劉成都とは、宣帝-東平思王-桃郷頃侯の劉宣-劉成都という系譜をもつ。つまり宣帝の曽孫である。
ぼくは思う。劉成都が、中山孝王を嗣いだのだから、平帝の中山王としての履歴は抹消された。これにより衛姫の身分は、「前の中山王の妻の1人だが、正妻でない。子に恵まれなかった未亡人」となる。平帝は、天子として前漢の皇統に、より具体的には王元后の孫として、奪われてしまったのだ。また衛姫は、現在の中山王の実母でもない。平帝を授かる前にリセットされた。王氏によって。平帝のおじの衛宝、その弟の衛玄を、關內侯とした。平帝の3人の妹に「君」の称号を与え、食邑2千戸とした。王莽の長子・王宇は、衛氏と平帝を隔絶させると、後に禍いになると考えた。王宇は、衛宝に文書をおくった。「私たち王氏は(平帝を長安に差し出した)衛王后に感謝している。丁氏と傅氏に旧悪があるので、衛王后を京師に招きにくい。だが私は、衛王后が京師に来られるようにしたい」と。
ぼくは思う。王宇は、彼自身の政治感覚に基づいて、衛氏を京師から遠ざけることが、王氏にとってリスクになると感じているみたい。なかなか正確なセンスです。でも王莽に内緒でやるのは、どうかなあw
何焯はいう。丁氏と傅氏を懲らしめたのは、王太皇太后の意思である。国権を握ったのは、王莽の私心である。ぼくは思う。王莽と王太皇太后が、異なる次元で闘争していることに、留意せねば。王太皇太后は、元帝の妻としての抗争をする。加齢して、孫自慢をする祖母としての抗争をやる。王莽は、漢室の権力をめぐる闘争をやる。「王太皇太后は、漢室を守りたい。王莽は、漢室を奪いたい」という、二元論で把握すると、わけが分からなくなる。注意。
莽白太皇太后詔有司曰:「中山孝王后深分明為人後之義,條陳故定陶傅太后、丁姬誖天逆理,上僭位號, 徙定陶王於信都,為共王立廟於京師,如天子制,不畏天命,聖人言, 壞亂法度,居非其制,稱非其號。是以皇天震怒,火燒其殿,六年之間大命不遂,禍殃仍重, 竟令孝哀帝受其餘災,大失天心,夭命暴崩,又令共王祭祀絕廢,精魂無所依歸。朕惟孝王后深說經義,明鏡聖法,懼古人之禍敗,近事之咎殃,畏天命,奉聖言,是乃久保一國,長獲天祿,而令孝王永享無彊之祀,福祥之大者也。朕甚嘉之。夫襃義賞善,聖王之制,其以中山故安戶七千益中山后湯沐邑,加賜及中山王黃金各百斤,增傅相以下秩。」王莽は王元后から有司に詔させた。「哀帝の母系家族である傅太后と丁姫は、天子でもない定陶王の霊廟を京師に立てるなど、礼制をやぶった。哀帝の6年間、大命が遂行されず、天心を失い、哀帝は急死して祭祀が絶えた。だが平帝の母系家族である衛氏は経義を理解しており、褒賞されるべきだ。衛王后のために、中山の故安県7千戸を増やす。中山王に黄金1百斤を与える。中山の傅相より以下、秩禄を増やそう」と。
ぼくは思う。平帝の祖母、馮氏が存命であれば、馮氏も褒める対象になったか。判断がむずかしい。なぜなら、馮氏は王元后の同僚であるから、王元后が張りあってしまう可能性がある。しかし現時点で、馮氏が生き残っていないから、王元后は寛大(もしくは関心を持たず)に差配をすることができる。王元后は、哀帝の母を、哀帝と会わせなかった。哀帝の母と同じく、平帝の母もまた他人であり、王元后は「わが家のことではない」のだ。だから王莽が、もっぱら政治的な判断で、平帝の母系を扱える。
衛后日夜啼泣,思見帝,而但益戶邑。宇復教令上書求至京師。會事發覺,莽殺宇,盡誅衛氏支屬。衛寶女為中山王后,免后,徙合浦。 唯衛后在, 王莽篡國,廢為家人,後歲餘卒,葬孝王旁。衛王后は日夜、啼泣して平帝に会いたがったが、戸邑が増えただけだった。王宇が指図して、衛氏に「京師に行きたい」という上書を書かせた。王宇の関与が発覚して、王莽は王宇を殺した。衛氏の支属も殺した。衛宝の娘は、中山王后だったが、免じられて合浦にゆく。ただ衛王后だけが存命である。漢新革命ののち、衛王后は廃されて家人となり、1年余で死んだ。中山孝王のそばに葬られた。
ぼくは思う。『補注』にさっぱり、めぼしい注釈がない。
平帝の王皇后、王莽の娘
孝平王皇后,安漢公太傅大司馬莽女也。平帝即位,年九歲,成帝母太皇太后稱制,而莽秉政。莽欲依霍光故事,以女配帝,太后意不欲也。莽設變詐,令女必入,因以自重,事在莽傳。太后不得已而許之,遣長樂少府夏侯藩、宗正劉宏、少府宗伯鳳、尚書令平晏納采, 太師光、大司徒馬宮、大司空甄豐、左將軍孫建、執金吾尹賞、行太常事太中大夫劉歆及太卜、太史令以下四十九人賜皮弁素績, 以禮雜卜筮,太牢祠宗廟,待吉月日。明年春,遣大司徒宮、大司空豐、左將軍建、右將軍甄邯、光祿大夫歆奉乘輿法駕,迎皇后於安漢公第。平帝の王皇后は、安漢公・太傅・大司馬の王莽の娘である。平帝は9歳で即位した。王太皇太后が稱制して、王莽が秉政した。
ぼくは思う。王氏が称制する。これは成帝の母、平帝の規則上の祖母という資格によるものだ。やはり馮氏と衛氏は、孫を王氏に奪われてしまったのだ。
王鳴盛はいう。元后伝によると、孺子嬰は2歳で即位した。『後漢書』で、沖帝は3歳、質帝は9歳である。史書は「年○歳」という記法がある。劉敞は「年」が衍字というが、そうでもない。王莽は霍光の故事をまねたいので、娘を平帝にめあわせたい。王太皇太后が反対したが、王莽がねじこむ。王莽伝にある。王元后は仕方なく許した。 長樂少府の夏侯藩、宗正の劉宏、少府の宗伯鳳、尚書令の平晏を、婚礼の使者にした。
師古はいう。宗伯鳳とは、姓が宗伯、名が鳳である。「納采」とは『礼記』によると、婚礼のとき、納采問名する者で、採択して結婚を許諾することをいう。太師の光、大司徒の馬宮、大司空の甄豐、左將軍の孫建、執金吾の尹賞、行太常事する太中大夫の劉歆と、太僕と太史令より以下49人に皮弁と素績を賜り、卜筮して太牢を宗廟に祭り、吉き月日を待つ。
師古はいう。皮弁とは、鹿皮の冠。形は、人が手を合わせた形に似ている。素績とは、素裳のこと。朱衣のこと。上海古籍6005頁。
ぼくは思う。ここに登場した人は、王莽の賛同者。覚えねば。王莽は、まだ「馮氏の孫を借りた」状態だが、娘をめあわせれば、平帝を王氏の皇后にすることができる。翌年春、大司徒の馬宮、大司空の甄豊、左將軍の孫建、右將軍の甄邯、光祿大夫の劉歆らが、王莽の屋敷に娘を迎えにゆく。
ぼくは思う。この5人が「首班」にして「主犯」ですw
宮、豐、歆授皇后璽紱, 登車稱警蹕,便時上林延壽門, 入未央宮前殿。羣臣就位行禮,大赦天下。益封父安漢公地滿百里,賜迎皇后及行禮者,自三公以下至騶宰執事長樂、未央宮、安漢公第者,皆增秩,賜金帛各有差。皇后立三月,以禮見高廟。尊父安漢公號曰宰衡,位在諸侯王上。賜公夫人號曰功顯君,食邑。封公子安為襃新侯,臨為賞都侯。馬宮、甄豊、劉歆は、王莽の娘に、璽紱を授けた。吉日に、王皇后が未央前殿にゆく。天下を大赦し、王莽を増封した。皇后の迎えに協力した者を増秩して、金帛を賜った。王皇后が立って3ヶ月で、高廟にまみえた。王莽を宰衡として、諸侯王の上とした。王莽の夫人を「功顕君」として、食邑を与える。王莽の子・王安を襃新侯、王臨を賞都侯とした。
ぼくは思う。襃新と賞都をアナグラムすると、褒賞新都、になる。つまり、もと新都侯の王莽を褒賞すると。
王皇后の道程などは、上海古籍6005頁にある。長安城内の地理です。
后立歲餘,平帝崩。莽立孝宣帝玄孫嬰為孺子,莽攝帝位,尊皇后為皇太后。王皇后が立って1年余で、平帝は崩じた。
ぼくは思う。平帝は、中山王の時代から、病弱だった。平帝の病弱さは、前漢末期の政治情勢を、おおきく決める。病弱な平帝は、病弱という属性ゆえに、成帝の子という「空虚な中心」に接近を許された。もし健康な壮年の皇族であれば、接近すべくもなかった。王莽は、皇族のなかから他を探しただろう。だが当然の帰結として、病弱なので死にやすい。平帝の死の原因は、王莽の毒牙でなく、「空虚な中心」の発生させた引力だろう。王莽は、孺子嬰という、さらに「空虚な中心」に近い者をもってきた。嬰児とは、死者にもっとも近い。王莽は、成帝の子という「死者の席」に、はじめに病気の幼児=平帝、つぎに死者と隣接した嬰児=孺子嬰を置いたのだ。最後は、王莽みずからが供犠になる。まるで、「ありとあらゆるものを投げこみ、万策尽きたから、自分が穴に飛びこんでみた」ようなものだ。
ぼくは思う。平帝の病弱は、それ自身が「空虚」との親和性が強いが、それゆえに政情を混乱させる。かつて長安からきた医師が、パニックを起こした。このページの上方です。まだ中山王の平帝(1歳未満)が病気になり、長安から張由が治療にきて、精神が異常になった。「由素有狂易病, 病發怒去,西歸長安。尚書簿責擅去狀, 由恐,因誣言中山太后祝詛上及太后」と。ここから平帝の祖母の疑獄事件がおこる。張由はどういう状態なんだろ。いったい張由は、平帝の何に触れて、発狂したのだろう。この「精神病」を分析すると、いろいろ言えそうだ。哀帝の当局から「中山王を治療しなさい」と言われながら、同時に「可能であれば中山王を殺しなさい」と暗黙に命じられて、ダブルバインドに混乱したのか。王莽は、宣帝の玄孫・劉嬰を「孺子」として、王莽が帝位を摂った。王皇后を尊び、王皇太后とした。
三年,莽即真,以嬰為定安公,改皇太后號為定安公太后。太后時年十八矣,為人婉瘱有節操。自劉氏廢,常稱疾不朝會。莽敬憚傷哀,欲嫁之,乃更號為黃皇室主, 令立國將軍成新公孫建世子襐飾將毉往問疾。 后大怒,笞鞭其旁侍御。因發病,不肯起,莽遂不復彊也。及漢兵誅莽,燔燒未央宮,后曰:「何面目以見漢家!」自投火中而死。3年して、王莽は真皇帝となる。劉嬰は定安公となる。娘の王皇太后を、定安公太后とする。王太后は18歳であり、人となりは婉静で節操がある。劉氏が廃されてから、朝会に出ない。王莽は敬憚して傷哀して、再婚させたい。王莽は娘の称号を「黄皇室主」とした。
師古はいう。王莽は土徳を自称したから「黄皇」という。「室主」というのは、漢制の公主に同じ。
ぼくは思う。王莽は娘を、漢室の皇后OGでなく、新室の皇族と位置づけた。だから再婚させようとした。娘の扱いは、わりにザツである。称号を変えれば、娘も心変わりするよ、と言わんばかりだ。典型的な「父親」には違いないが。父親の権力は「象徴化」の暴力であり、女性である娘の思い(象徴化の対象として馴染まないもの)は無視される。そういうもの。王莽がバカなのでない。王莽は、立國將軍・成新公・孫建の世子を着飾らせ、娘を見舞わせた。娘は大怒して、そばの侍御を笞鞭した。娘は発病し、起てない。王莽は再婚を強いない。漢兵が王莽を誅すると、未央宮が燃えた。娘は「どんな顔して漢家に会おうか」といい、火中に身を投じた。
ぼくは思う。王莽は、1代で余りに完成しているがゆえに、滅びた。男子は王莽に殺され、女子は火中に投じた。前半生で、天下統一の戦いをしなかったから、1代で完成したのだろう。子世代が「余剰」になってしまった。後漢は、光武帝、明帝、章帝の3代をかけて、やっと王莽と同レベルの仕事をした。3代で完成したので、4代の和帝のときから新展開になった。
外戚伝の上下の賛
贊曰:易著吉凶而言謙盈之效,天地鬼神至于人道靡不同之。 夫女寵之興,繇至微而體至尊, 窮富貴而不以功,此固道家所畏,禍福之宗也。序自漢興,終于孝平,外戚後庭色寵著聞二十有餘人,然其保位全家者,唯文、景、武帝太后及邛成后四人而已。至如史良娣、王悼后、許恭哀后身皆夭折不辜,而家依託舊恩,不敢縱恣,是以能全。其餘大者夷滅,小者放流,烏嘑!鑒茲行事,變亦備矣。後宮で天子に愛されて権勢をもった者は、20余人いた。だが家系を全うできたのは、文帝の太后、景帝の太后、武帝の太后、元帝の王皇后の4家だけである。戻太子の妻(史皇孫の母)史良娣、史皇孫の妻・王悼后、先帝の許皇后は、権勢を持たないから家系が全うした。130202
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