党錮が解けると、寿命が尽きた賢者たち
吉川版で、荀淑、韓韶、鍾晧、陳寔伝をやります。ただ抄訳して、読みなおしやすくした。上表文のたぐいをはぶき、、関連する事件と人物にしぼった。どうぞ。
荀淑伝だけ、半年ほど前にやった。今回は、つづき。
『後漢書』荀淑伝:荀彧の祖父は、梁冀と対立し、神君と呼ばれた
荀淑の兄の子、典型的な党人・荀昱と荀曇
荀淑の兄の子は、荀昱という。あざなを伯條。荀曇という。あざなを無智。荀昱は沛相となり、荀曇は廣陵太守となる。兄弟とも、宦官をにくむ。宦官の支党が任地(沛国、広陵)にいたら、わずかな罪でも誅した。
のちに荀昱は、李膺とともに死んだ。荀曇は、終身、禁錮された。
司徒の袁逢に服喪し、95日で三公となる荀爽
延熹九年,太常趙典舉爽至孝,拜郎中。對策陳便宜曰 (中略) 奏聞,即棄官去。
荀淑の子は、荀爽。あざなを慈明という。一名は諝。12歳で、『春秋』『論語』につうず。太尉の杜喬は、「荀爽は、人の師となるべき」と言った。経書ばかり読み、慶吊にゆかず。就職せず。潁川の人は言った。「荀氏八龍のうち、慈明は無雙だ」と。
延熹九年(166)、太常の趙典が、至孝の科目にあげた。郎中となる。対策した。上奏するや、すぐに官位を棄てて去った。
党錮にあい、海上に隠れた。漢水の岸をうろつく。10余年、著述して碩儒となる。党錮が解かれると、五府に辟された。司空の袁逢は、有道の科目にあげた。応じず。袁逢が死ぬと、荀爽は3年の服喪した。
当時の風俗は、妻の服喪をやらず、親が死んでも、自分の病気を療養した。ひそかに君父(上司である、太守や令長)に、諡号した。荀爽は、経典を根拠にして、当時の風俗をただした。すこしは改まった。
爽見董卓忍暴滋甚,必危社稷,其所辟舉皆取才略之士,將共圖之,亦與司徒王允及卓長史何顒等為內謀。會病薨,年六十三。
のちに三公の車にめされ、大將軍の何進の從事中郎となる。
何進は、荀爽が応じないとこまるから、侍中にしてあげた。何進が敗死したので、命令はリセット。献帝が即位し、董卓がきつく召した。逃げられず、平原相となる。宛陵にくると、光祿勳となる。着任して3日で、司空となる。はじめに召されてから、95日。長安の遷都にしたがう。
董卓は、社稷をあやうくする。荀爽が辟するのは、才略ある人士だ。人士とともに、董卓を殺そうとした。司徒の王允、董卓の長史・何顒とともに、董卓を殺そうとした。たまたま病死した。63歳だった。
荀爽は、いろいろ書いたが、ほぼ失われた。
荀彧が献帝のそばに置く、『漢紀』の著者・荀悦
悅字仲豫,儉之子也。儉早卒。悅年十二,能說《春秋》。家貧無書,每之人間,所見篇牘,一覽多能誦記。性沉靜,美姿容,尤好著述。靈帝時閹官用權,士多退身窮處,悅乃托疾隱居,時人莫之識,唯從弟BE77特稱敬焉。初辟鎮東將軍曹操府,遷黃門侍郎。獻帝頗好文學,悅與BE77及少府孔融侍講禁中,旦夕談論。累遷秘書監、侍中。
荀爽の兄の子は、荀悦。荀彧と並び称された。
荀悦は、あざなを仲豫。荀儉の子(荀淑の孫)だ。荀儉が早く死に、貧しい。12歳で『春秋』ができる。書物を買えないので、他人の本を暗記した。霊帝が宦官をもちいるので、こもる。誰も荀悦を知らない。従弟の荀彧だけが、とくに荀悦をほめるえ。曹操の鎮東將軍府に辟され、黃門侍郎にうつる。
献帝は文学をこのむ。荀悦、荀彧、少府の孔融は、ともに禁中で、献帝に侍講した。ひねもす、べしゃり。秘書監、侍中。
ときに政治は、曹操にうつる。献帝は、恭しくする。荀悦は、献帝を支えたいが、謀略は用いられない。『申鑒』を書いて、政体について論じた。献帝は、内容を善しとした。
献帝は典籍が好きだが、班固『漢書』が読みづらい。『左氏傳』の文体で、荀悦に『漢紀』30篇をつくらせた。尚書に命じ、筆記用具をあたえた。うまく書けた。『漢紀』の序文はいう。「光武帝が中興する前なら、名君や賢臣のダイジェストが読めるよ」と。建安14年(209)、62歳で死んだ。
泰山の賊に認められた県長・韓韶
韓韶は、あざなを仲黃。潁川の舞陽の人だ。司徒府に辟された。ときに泰山の賊・公孫舉は、天子を号した。太守や県令は、平定できない。尚書は、三公府の掾から、韓韶を選んだ。贏県の県長となる。賊は韓韶が賢いので、贏県に入らず。
周囲の県から、食料の提供をもとめられた。韓韶は、かってに倉を開けた。泰山太守は、韓韶をとがめず。病気のため、韓韶は、在官で死んだ。同郡の李膺、陳寔、杜密、荀淑らは、韓韶のために石碑をたてた。
韓韶の子は、韓融だ。あざなを元長。道理に明るく、章句をやらない。五並に辟された。献帝のはじめ、太僕となる。70歳で死んだ。
董卓に辟された。関東の袁紹たちを、なだめるため、董卓が送り出そうとした人材の1人。党人の系統だから、みんな言うことを聞くと思ったのか。父は県長にすぎないから、名門でない。李膺、陳寔、杜密、荀淑にほめられたという、名声だけに価値がある人物。
陳寔を友とし、李膺に歎じられ、就職しない鍾晧
鐘皓は、あざなを季明。潁川の長社の人だ。郡の著姓で、世よ刑律にくわしい。公府に辟されたが、2人の兄より先に就かない。同郡の陳寔は、歳は若いが、鍾晧と友となる。郡の功曹となり、司徒府に辟さる。断った。
太守は聞いた。「鍾晧に代わるのは、だれか」と。「西門亭長の陳寔だ」と答えた。陳寔は言った。「鍾晧は、人物についてサッパリ分からない様子だ。なぜ私を知っていてくれたか」と。
鍾晧は、自らを劾めて去る。9たび公府に辟された。廷尉正、博士、林慮長をなるが、どれも就かず。ときに鍾晧と荀淑は、士大夫に慕われた。李膺はつねに歎じた。「荀君は、清識難尚。鐘君は至德可師」と。
鍾晧の兄の子は、鍾瑾だ。鍾瑾の母は、李膺のおばだ。鍾瑾は、李膺とともに名声がある。李膺の祖父・太尉の李修は言った。「鍾瑾は、わが家の性質がある」と。また李膺の妹を、鍾瑾の妻とした。
鍾瑾は、州郡に就かない。李膺は鍾瑾に言った。鍾瑾は、うまく言い返した。
関中~河東の秩序を破壊し、曹操色にぬりかえた鍾繇伝
鍾晧は、69歳で在家で死んだ。儒者たちは、就職しなかった鍾晧をたたえた。鍾晧の孫は、鍾繇。鍾繇は、建安のとき、司隷校尉となる。
県長どまりだが、逮捕され、張譲の父を弔った陳寔
陳寔は、ざなを仲弓。潁川の許県の人だ。地位の低い家。子供の遊びで、人気がある。県吏となり、いやしい仕事をする。学びたい。縣令の鄧邵は、ためしに語り、太学に行かせてくれた。また県吏となるが、陽城の山中にかくれた。殺人を疑われた。拷問された。のちに督郵となり、自分を拷問した人を、礼により召した。
家が貧しい。ふたたび郡の西門亭長、功曹となる。ときに中常侍の侯覧が命じて、潁川太守の高倫に、ある吏人を文学掾に選ばせた。陳寔は、高倫に言った。「あの吏人は、文学掾に適さない。だが侯覧の命令に逆らえない。私・陳寔が選出したことにして、高倫の名声が下がらないようにする」と。のちに文学掾が不適任だとわかった。陳寔は、人選ミスは、自分の責任だと言った。
司空の黃瓊は、陳寔を聞喜長とする。太丘長となる。陳寔を慕って、越境して人が集まる。陳寔は、「越境を禁ずる前に、私の言い分を聞け」と言った。沛相が、違法な徴税をした。印綬を解いて去った。
党人が逮捕された。みな「陳寔は、逃げてくれ」と言った。陳寔は言った。「私が獄に就かねば、みな頼る人がいない」と。
恩赦で、出られた。霊帝の初め、竇武に辟され、大将軍府の掾属となる。
張譲の父が死んだ。潁川の名士は、誰も参列しない。陳寔だけが参列した。党人を誅殺したとき(169)、死なずにすんだ人がおおい。
郷人は、陳寔の判決を怨まない。「刑罰を加えられてもよいが、陳寔にそしられたくない」と言った。盗人が梁上にいたが、見のがした。盗賊は、改心した。
太尉の楊賜、司徒の陳耽は、公卿となるごとに歎じた。「陳寔より先に、昇進しても恥ずかしい」と。
党錮が解かれた。大將軍の何進、司徒の袁隗は、トップの待遇で陳寔をむかえたい。陳寔は使者に謝った。「世間には、出て行かないよ」と。三公が欠けるごとに、陳寔の名がでる。門をとざして車をかけた。
中平四年(187)、84歳で、在家で死んだ。何進がとむらい、3万余人がくる。石碑に「文範先生」と刻む。子は6人。陳紀、陳諶がかしこい。
長安遷都に反対し、袁紹から太尉を譲られた陳紀
陳紀は、あざなを元方。家庭はなごやか。党錮のとき、發憤して『陳子』を書く。党錮が解けると、四府に命ぜられたが、就かず。父が死に、血を吐いて悲しむ。豫州刺史は、尚書に提案し、陳紀の悲しみぶりを画像にした。
董卓が洛陽に入る。五官中郎将にさせられた。侍中となる。平原相となる。董卓は、長安に遷したい。「長安は四方をかこまれ、陸の海。関東が起兵した。長安には前漢の宮室がある。遷都しよう」と。
陳紀は反対した。「関東を討伐すれば、万民が苦しむ。長安に遷るのは、道のりが危険だ」と。董卓は、言い返せない。
司徒にされかけたが、すぐに平原に赴任した。太僕、尚書令。
建安初(196)、袁紹が太尉となった。袁紹は、陳紀に太尉をゆずる。陳紀は受けず、大鴻臚となる。71歳にて、在官で死んだ。
弟諶,字季方。與紀齊德同行,父子並著高名,時號三君。每宰府辟召,常同時旌命,羔雁成群,當世者靡不榮之。諶早終。
陳紀の子・陳羣は、曹魏の司空。司空の陳羣は、太僕(九卿)の陳紀にひけをとった。陳紀は、聞喜や太丘の県長の陳寔にひけをとった。
陳紀の弟は、陳諶。あざなを季方。陳紀と徳がひとしい。陳寔、陳紀、陳諶の父子で「三君」と言われた。三公府から召されるたび、ギフトがならぶ。当世の人は、これを栄とした。早くに死んだ。
おわりです。潁川のお祭りでした。党錮のせいで、何もしてない。何進や董卓により、公職に招かれると、寿命が尽きる。中途半端な世代の人たちでした。110429