表紙 > ~後漢 > 『後漢書』列伝52・荀淑、韓韶、鍾晧、陳寔伝を抄訳

党錮が解けると、寿命が尽きた賢者たち

吉川版で、荀淑、韓韶、鍾晧、陳寔伝をやります。ただ抄訳して、読みなおしやすくした。上表文のたぐいをはぶき、、関連する事件と人物にしぼった。どうぞ。

訓読された文書を見て、口語に要約する。それほど意味のある活動ではない。では、なぜやっているか。「読んだ」という行為の痕跡を、ホームページに叩きつけているだけ。あとで読み直すとき、自分用のガイドとする。
荀淑伝だけ、半年ほど前にやった。今回は、つづき。
『後漢書』荀淑伝:荀彧の祖父は、梁冀と対立し、神君と呼ばれた


荀淑の兄の子、典型的な党人・荀昱と荀曇

淑兄子昱字伯條,曇字無智。昱為沛相,曇為廣陵太守。兄弟皆正身疾惡,志除閹宦。其支黨賓客有在二郡者,纖罪必誅。昱後共大將軍竇武謀誅中官,與李膺俱死。曇亦禁錮終身。

荀淑の兄の子は、荀昱という。あざなを伯條。荀曇という。あざなを無智。荀昱は沛相となり、荀曇は廣陵太守となる。兄弟とも、宦官をにくむ。宦官の支党が任地(沛国、広陵)にいたら、わずかな罪でも誅した。

ふつうに、まったく融通のきかない党人だ。

のちに荀昱は、李膺とともに死んだ。荀曇は、終身、禁錮された。

司徒の袁逢に服喪し、95日で三公となる荀爽

爽字慈明,一名諝。幼而好學,年十二,能通《春秋》、《論語》。太尉杜喬見而稱之,曰:「可為人師。」爽遂耽思經書,慶吊不行,征命不應。潁川為之語曰:「荀氏八龍,慈明無雙。」
延熹九年,太常趙典舉爽至孝,拜郎中。對策陳便宜曰 (中略) 奏聞,即棄官去。

荀淑の子は、荀爽。あざなを慈明という。一名は諝。12歳で、『春秋』『論語』につうず。太尉の杜喬は、「荀爽は、人の師となるべき」と言った。経書ばかり読み、慶吊にゆかず。就職せず。潁川の人は言った。「荀氏八龍のうち、慈明は無雙だ」と。
延熹九年(166)、太常の趙典が、至孝の科目にあげた。郎中となる。対策した。上奏するや、すぐに官位を棄てて去った。

166年は、第1次・党錮の禁だ。なぜ、ずっと引きこもっていたのに、このタイミングで、出てきたのか。きっと、陳蕃が輔政するから、発言をゆるされるチャンスだと思った。そして、言い逃げをした。荀爽が言った内容は、三年喪をやれ、儒教の規定を守れ。とか。


後遭黨錮,隱於海上,又南遁漢濱,積十餘年,以著述為事,遂稱為碩儒。黨禁解,五府並辟,司空袁逢舉有道,不應。及逢卒,爽制服三年,當世往往化以為俗。時人多不行妻服,雖在親憂猶有吊問喪疾者,又私諡其君父及諸名士,爽皆引據大義,正之經典,雖不悉變,亦頗有改。

党錮にあい、海上に隠れた。漢水の岸をうろつく。10余年、著述して碩儒となる。党錮が解かれると、五府に辟された。司空の袁逢は、有道の科目にあげた。応じず。袁逢が死ぬと、荀爽は3年の服喪した。

袁逢が司徒をしたのは、178年のみ。応じないものの、挙将となってくれたから、袁逢のために服喪したのですね。袁逢が、宦官よりの政治家だったから、応じなかったのだろうか。荀氏は、宦官をバイキンみたいに嫌う家であるなあ。

当時の風俗は、妻の服喪をやらず、親が死んでも、自分の病気を療養した。ひそかに君父(上司である、太守や令長)に、諡号した。荀爽は、経典を根拠にして、当時の風俗をただした。すこしは改まった。

後公車征為大將軍何進從事中郎。進恐其不至,迎薦為侍中,及進敗而詔命中絕。獻帝即位,董卓輔政,複征之。爽欲遁命,吏持之急,不得去,因複就拜平原相。行至宛陵,複追為光祿勳。視事三日,進拜司空。爽自被征命及登臺司,九十五日。因從遷都長安。
爽見董卓忍暴滋甚,必危社稷,其所辟舉皆取才略之士,將共圖之,亦與司徒王允及卓長史何顒等為內謀。會病薨,年六十三。

のちに三公の車にめされ、大將軍の何進の從事中郎となる。

何進のもとには、えらく人材があつまる。なぜか。何進が大将軍になったのは、黄巾のとき。党錮が解除された。つまり、党錮でこまってた人は、とりあえず、何進の大将軍府に集まったのだ。

何進は、荀爽が応じないとこまるから、侍中にしてあげた。何進が敗死したので、命令はリセット。献帝が即位し、董卓がきつく召した。逃げられず、平原相となる。宛陵にくると、光祿勳となる。着任して3日で、司空となる。はじめに召されてから、95日。長安の遷都にしたがう。

董卓は「名士」に迎合したというが。党錮とぎゃくの政策をやれば、自然とそうなるわけで。「名士」がつよいのでなく、党錮がマズかっただけ。裏返しをやっただけ。クリエイティブじゃない。党人の生き残り、荀爽をヒステリックに重用したことから、これがうかがえる。

董卓は、社稷をあやうくする。荀爽が辟するのは、才略ある人士だ。人士とともに、董卓を殺そうとした。司徒の王允、董卓の長史・何顒とともに、董卓を殺そうとした。たまたま病死した。63歳だった。

荀爽が病死しなければ、王允とならぶ首謀者だったはず。『超・アレ国志』を読んでから、王允と聞くと、やせたスキンヘッドのドクターしか、思い浮かばない。まずいなあ。


著《禮》、《易傳》、《詩傳》、《尚書正經》、《春秋條例》,又集漢事成敗可為鑒戒者,謂之《漢語》。又作《公羊問》及《辯讖》,並它所論敘,題為《新書》。凡百餘篇,今多所亡缺。

荀爽は、いろいろ書いたが、ほぼ失われた。

范曄は論じる。荀爽、鄭玄、申屠蟠は、儒学ができる人。鄭玄と申屠蟠は、董卓をことわった。荀爽は、白髪から進行した「黄髪」だったが、董卓に応じてしまった。


荀彧が献帝のそばに置く、『漢紀』の著者・荀悦

兄子悅、BE77並知名。BE77自有傳。
悅字仲豫,儉之子也。儉早卒。悅年十二,能說《春秋》。家貧無書,每之人間,所見篇牘,一覽多能誦記。性沉靜,美姿容,尤好著述。靈帝時閹官用權,士多退身窮處,悅乃托疾隱居,時人莫之識,唯從弟BE77特稱敬焉。初辟鎮東將軍曹操府,遷黃門侍郎。獻帝頗好文學,悅與BE77及少府孔融侍講禁中,旦夕談論。累遷秘書監、侍中。

荀爽の兄の子は、荀悦。荀彧と並び称された。
荀悦は、あざなを仲豫。荀儉の子(荀淑の孫)だ。荀儉が早く死に、貧しい。12歳で『春秋』ができる。書物を買えないので、他人の本を暗記した。霊帝が宦官をもちいるので、こもる。誰も荀悦を知らない。従弟の荀彧だけが、とくに荀悦をほめるえ。曹操の鎮東將軍府に辟され、黃門侍郎にうつる。

鎮東将軍って、開府するんだ。知らなかった。おそらく、荀彧の口利きで、就職ができた。後漢の朝廷のレベルには、達していない人だろう。

献帝は文学をこのむ。荀悦、荀彧、少府の孔融は、ともに禁中で、献帝に侍講した。ひねもす、べしゃり。秘書監、侍中。

時,政移曹氏,天子恭己而已。悅志在獻替,而謀無所用,乃作《申鑒》五篇。其所論辯,通見政體,既成而奏之。其大略曰 (中略) 帝覽而善之。

ときに政治は、曹操にうつる。献帝は、恭しくする。荀悦は、献帝を支えたいが、謀略は用いられない。『申鑒』を書いて、政体について論じた。献帝は、内容を善しとした。

どうせ、何を言ってもムダである。曹操がつよいに、決まっている。テーマ設定が、そもそも腐っている。荀悦は、献帝を輔けたのでない。献帝のヒマつぶしに、付き合ったのだ。荀彧が、献帝の遊び相手に選んだのかもしれない。それくらい、ツブの小さい人物。


帝好典籍,常以班固《漢書》文繁難省,乃令悅依《左氏傳》體以為《漢紀》三十篇,詔尚書給筆劄。辭約事詳,論辨多美。其序之曰 (後略)。又著《崇德》、《正論》及諸論數十篇。年六十二,建安十四年卒。

献帝は典籍が好きだが、班固『漢書』が読みづらい。『左氏傳』の文体で、荀悦に『漢紀』30篇をつくらせた。尚書に命じ、筆記用具をあたえた。うまく書けた。『漢紀』の序文はいう。「光武帝が中興する前なら、名君や賢臣のダイジェストが読めるよ」と。建安14年(209)、62歳で死んだ。

泰山の賊に認められた県長・韓韶

韓韶字仲黃,潁川舞陽人也。少仕郡,辟司徒府。時,太山賊公孫舉偽號歷年,守、令不能破散,多為坐法。尚書選三府掾能理劇者,乃以韶為贏長。賊聞其賢,相戒不入贏境。餘縣多被寇盜,廢耕桑,其流入縣界求索衣糧者甚眾。韶湣其饑困,乃開倉賑之,所稟贍萬餘戶。主者爭謂不可。韶曰:「長活溝壑之人,而以此伏罪,含笑入地矣。」太守素知韶名德,竟無所坐。以病卒官。同郡李膺、陳寔、杜密、荀淑等為立碑頌焉。

韓韶は、あざなを仲黃。潁川の舞陽の人だ。司徒府に辟された。ときに泰山の賊・公孫舉は、天子を号した。太守や県令は、平定できない。尚書は、三公府の掾から、韓韶を選んだ。贏県の県長となる。賊は韓韶が賢いので、贏県に入らず。
周囲の県から、食料の提供をもとめられた。韓韶は、かってに倉を開けた。泰山太守は、韓韶をとがめず。病気のため、韓韶は、在官で死んだ。同郡の李膺、陳寔、杜密、荀淑らは、韓韶のために石碑をたてた。

この4人が、いっしょに1つのことをする。韓韶の事績よりも、こちらの石碑のほうが、興味ぶかい。年齢は、どんな感じなんだろう。


子融,字無長。少能辯理而不為章句學。聲名甚盛,五府並辟。獻帝初,至太僕。年七十卒。

韓韶の子は、韓融だ。あざなを元長。道理に明るく、章句をやらない。五並に辟された。献帝のはじめ、太僕となる。70歳で死んだ。

えらく短い。よく名前を見るのに。
董卓に辟された。関東の袁紹たちを、なだめるため、董卓が送り出そうとした人材の1人。党人の系統だから、みんな言うことを聞くと思ったのか。父は県長にすぎないから、名門でない。李膺、陳寔、杜密、荀淑にほめられたという、名声だけに価値がある人物。


陳寔を友とし、李膺に歎じられ、就職しない鍾晧

鐘皓字季明,潁川長社人也。為郡著姓,世善刑律。皓少以篤行稱,公府連辟,為二兄未仕,避隱密山,以詩律教授門徒千余人。同郡陳寔,年不及皓,皓引與為友。皓為郡功曹,會辟司徒府,臨辭,太守問:「誰可代卿者?」皓曰:「明府欲必得其人,西門亭長陳寔可。」寔聞之,曰:「鐘君似不察人,不知何獨識我?」皓頃之自劾去。前後九辟公府,征為廷尉正、博士、林慮長,皆不就。時,皓及荀淑並為士大夫所歸慕。李膺常歎曰:「荀君清識難尚,鐘君至德可師。」

鐘皓は、あざなを季明。潁川の長社の人だ。郡の著姓で、世よ刑律にくわしい。公府に辟されたが、2人の兄より先に就かない。同郡の陳寔は、歳は若いが、鍾晧と友となる。郡の功曹となり、司徒府に辟さる。断った。
太守は聞いた。「鍾晧に代わるのは、だれか」と。「西門亭長の陳寔だ」と答えた。陳寔は言った。「鍾晧は、人物についてサッパリ分からない様子だ。なぜ私を知っていてくれたか」と。
鍾晧は、自らを劾めて去る。9たび公府に辟された。廷尉正、博士、林慮長をなるが、どれも就かず。ときに鍾晧と荀淑は、士大夫に慕われた。李膺はつねに歎じた。「荀君は、清識難尚。鐘君は至德可師」と。

皓兄子瑾母,膺之姑也。瑾好學慕古,有退讓風,與膺同年,俱有聲名。膺祖太尉脩,常言:「瑾似我家性,邦有道不廢,邦無道免于刑戮。」複以膺妹妻之。瑾辟州府。未嘗屈志。膺謂之曰:「孟子以為'人無是非之心,非人也'。弟何期不與孟軻同邪?」瑾常以膺言白皓。皓曰:「昔國武子好昭人過,以致怨本。卒保身全家,爾道為貴。」其體訓所安,多此類也。

鍾晧の兄の子は、鍾瑾だ。鍾瑾の母は、李膺のおばだ。鍾瑾は、李膺とともに名声がある。李膺の祖父・太尉の李修は言った。「鍾瑾は、わが家の性質がある」と。また李膺の妹を、鍾瑾の妻とした。
鍾瑾は、州郡に就かない。李膺は鍾瑾に言った。鍾瑾は、うまく言い返した。

面倒になってしまった。はぶく。『三国志』鍾繇伝の裴注にも、鍾瑾あり。
関中~河東の秩序を破壊し、曹操色にぬりかえた鍾繇伝


年六十九,終於家。諸儒頌之曰:「林慮懿德,非禮不處。悅此詩書,弦琴樂古。五就州招,九應台輔。逡巡王命,卒歲容與。」皓孫繇,建安中為司隸校尉。

鍾晧は、69歳で在家で死んだ。儒者たちは、就職しなかった鍾晧をたたえた。鍾晧の孫は、鍾繇。鍾繇は、建安のとき、司隷校尉となる。

県長どまりだが、逮捕され、張譲の父を弔った陳寔

陳寔字仲弓,潁川許人也。出於單微。自為兒童,雖在戲弄,為等類所歸。少作縣吏,常給事廝役,後為都亭佐。而有志好學,坐立誦讀。縣令鄧邵試與語,奇之,聽受業太學。後令複召為吏,乃避隱陽城山中。時有殺人者,同縣楊吏以疑寔,縣遂逮系,考掠無實,而後得出。乃為督郵,乃密托許令,禮召楊吏。遠近聞者,鹹嘆服之。

陳寔は、ざなを仲弓。潁川の許県の人だ。地位の低い家。子供の遊びで、人気がある。県吏となり、いやしい仕事をする。学びたい。縣令の鄧邵は、ためしに語り、太学に行かせてくれた。また県吏となるが、陽城の山中にかくれた。殺人を疑われた。拷問された。のちに督郵となり、自分を拷問した人を、礼により召した。

身分の低い人が、苦学する話。意外にめずらしい話。


家貧,複為郡西門亭長,尋轉功曹。時中常侍侯覽托太守高倫用吏,倫教署為文學掾。B35E知非其人,懷檄請見。言曰:「此人不宜用,而侯常侍不可違。寔乞從外署,不足以塵明德。」倫從之。於是鄉論怪其非舉,寔終無所言。倫後被征為尚書,郡中士大夫送至輪氏傳舍。倫謂眾人言曰:「吾前為侯常侍用吏,陳君密持教還,而于外白署。比聞議者以此少之,此咎由故人畏憚強禦,陳君可謂善則稱君,過則稱己者也。」寔固自引愆,聞者方歎息,由是天下服其德。

家が貧しい。ふたたび郡の西門亭長、功曹となる。ときに中常侍の侯覧が命じて、潁川太守の高倫に、ある吏人を文学掾に選ばせた。陳寔は、高倫に言った。「あの吏人は、文学掾に適さない。だが侯覧の命令に逆らえない。私・陳寔が選出したことにして、高倫の名声が下がらないようにする」と。のちに文学掾が不適任だとわかった。陳寔は、人選ミスは、自分の責任だと言った。

話はわかるが、どうしてこれが「えらい」のか、よく分からん話。


司空黃瓊辟選理劇,補聞喜長,旬月,以期喪去官。複再遷除太丘長。修德清靜,百姓以安。鄰縣人戶歸附者,寔輒訓導譬解,發遣各令還本司官行部。吏慮有訟者,白欲禁之。寔曰:「訟以求直,禁之理將何申?其勿所拘。」司官聞而歎息曰:「陳君所言若是,豈有怨於人乎?」亦意無訟者。以沛相賦斂違法,乃解印綬去,吏人追思之。

司空の黃瓊は、陳寔を聞喜長とする。太丘長となる。陳寔を慕って、越境して人が集まる。陳寔は、「越境を禁ずる前に、私の言い分を聞け」と言った。沛相が、違法な徴税をした。印綬を解いて去った。

列伝の数をこなしてると、わかってくる。「みな、ほめた」「ついてきた」「ひきとめられた」は、とくに裏づけがなくても書ける、定型文。とくに訳さなくても、意味は同じだなあ。


及後逮捕黨人,事亦連寔。餘人多逃避求免,寔曰:「吾不就獄,眾無所恃。」乃請囚焉。遇赦得出。靈帝初,大將軍竇武辟以為掾屬。時中常侍張讓權傾天下。讓父死,歸葬潁川,雖一郡畢至,而名士無往者,讓甚恥之,寔乃獨吊焉。及後複誅黨人,讓感寔,故多所全宥。

党人が逮捕された。みな「陳寔は、逃げてくれ」と言った。陳寔は言った。「私が獄に就かねば、みな頼る人がいない」と。 恩赦で、出られた。霊帝の初め、竇武に辟され、大将軍府の掾属となる。
張譲の父が死んだ。潁川の名士は、誰も参列しない。陳寔だけが参列した。党人を誅殺したとき(169)、死なずにすんだ人がおおい。

寔在鄉閭,平心率物。其有爭訟,輒求判正,曉譬曲直,退無怨者。至乃歎曰:「寧為刑罰所加,不為陳君所短。」時、歲荒民儉,有盜夜入其室,止于梁上。寔陰見,乃起自整拂,呼命子孫,正色訓之曰:「夫人不可不自勉。不善之人未必本惡,習以性成,遂至於此。樑上君子者是矣!」盜大驚,自投於地,稽顙歸罪。寔徐譬之曰:「視君狀貌,不似惡人,宜深克己反善。然此當由貧困。」令遺絹二匹。自是一縣無複盜竊。

郷人は、陳寔の判決を怨まない。「刑罰を加えられてもよいが、陳寔にそしられたくない」と言った。盗人が梁上にいたが、見のがした。盗賊は、改心した。

太尉楊賜、司徒陳耽,每拜公卿,群僚畢賀,賜等常歎寔大位未登,愧於先之。及黨禁始解,大將軍何進、司徒袁隗遣人敦寔,欲特表以不次之位。寔乃謝使者曰:「寔久絕人事,飾巾待終而已。」時,三公每缺,議者歸之,累見征命,遂不起,閉門懸車,棲遲養老。中平四年,年八十四,卒於家。何進遣使弔祭,海內赴者三萬餘人,制衰麻者以百數。共刊石立碑,諡為文范先生。有六子,紀、諶最賢。

太尉の楊賜、司徒の陳耽は、公卿となるごとに歎じた。「陳寔より先に、昇進しても恥ずかしい」と。

陳寔伝は、名言がおおい。すぐれた伝記作家が、ついてたらしい。

党錮が解かれた。大將軍の何進、司徒の袁隗は、トップの待遇で陳寔をむかえたい。陳寔は使者に謝った。「世間には、出て行かないよ」と。三公が欠けるごとに、陳寔の名がでる。門をとざして車をかけた。
中平四年(187)、84歳で、在家で死んだ。何進がとむらい、3万余人がくる。石碑に「文範先生」と刻む。子は6人。陳紀、陳諶がかしこい。
  

長安遷都に反対し、袁紹から太尉を譲られた陳紀

紀字元方,亦以至德稱。兄弟孝養,閨門雍和,後進之士皆推慕其風。及遭黨錮,發憤著書數萬言,號曰《陳子》。黨禁解,四府並命,無所屈就。遭父憂,每哀至,輒歐血絕氣,雖衰服已除,而積毀消瘠,殆將滅性。豫州刺史嘉其至行,表上尚書,圖像百城,以厲風俗。

陳紀は、あざなを元方。家庭はなごやか。党錮のとき、發憤して『陳子』を書く。党錮が解けると、四府に命ぜられたが、就かず。父が死に、血を吐いて悲しむ。豫州刺史は、尚書に提案し、陳紀の悲しみぶりを画像にした。

董卓入洛陽,乃使就家拜五官中郎將,不得已,到京師,遷侍中。出為平原相,往謁卓,時欲徙都長安,乃謂紀曰:「三輔平敞,四面險固,土地肥美,號為陸海。今關東起兵,恐洛陽不可久居。長安猶有宮室,今欲西遷何如?」紀曰:「天下有道,守在四夷。宜修德政,以懷不附。遷移至尊,誠計之末者。愚以公宜事委公卿,專精外任。其有違命,則威之以武。今關東兵起,民不堪命。若謙遠朝政,率師討伐,則塗炭之民,庶幾可全。若欲徙萬乘以自安,將有累卵之危,崢嶸之險也。」卓意甚忤,而敬紀名行,無所複言。

董卓が洛陽に入る。五官中郎将にさせられた。侍中となる。平原相となる。董卓は、長安に遷したい。「長安は四方をかこまれ、陸の海。関東が起兵した。長安には前漢の宮室がある。遷都しよう」と。
陳紀は反対した。「関東を討伐すれば、万民が苦しむ。長安に遷るのは、道のりが危険だ」と。董卓は、言い返せない。

時議欲以為司徙,紀見禍亂方作,不復辨嚴,即時之郡。璽書追拜太僕,又征為尚書令。建安初,袁紹為太尉,讓于紀;紀不受,拜大鴻臚。年七十一,卒於官。

司徒にされかけたが、すぐに平原に赴任した。太僕、尚書令。
建安初(196)、袁紹が太尉となった。袁紹は、陳紀に太尉をゆずる。陳紀は受けず、大鴻臚となる。71歳にて、在官で死んだ。

子群,為魏司空。天下以為公慚卿,卿慚長。
弟諶,字季方。與紀齊德同行,父子並著高名,時號三君。每宰府辟召,常同時旌命,羔雁成群,當世者靡不榮之。諶早終。

陳紀の子・陳羣は、曹魏の司空。司空の陳羣は、太僕(九卿)の陳紀にひけをとった。陳紀は、聞喜や太丘の県長の陳寔にひけをとった。

世代をくだるごとに、官位はあがるが、格付けは落ちたと。

陳紀の弟は、陳諶。あざなを季方。陳紀と徳がひとしい。陳寔、陳紀、陳諶の父子で「三君」と言われた。三公府から召されるたび、ギフトがならぶ。当世の人は、これを栄とした。早くに死んだ。

おわりです。潁川のお祭りでした。党錮のせいで、何もしてない。何進や董卓により、公職に招かれると、寿命が尽きる。中途半端な世代の人たちでした。110429