鍾繇の祖父~魏建国までの鍾繇伝
『三国志集解』鍾繇伝を見ながら、曹操の献帝奉戴に着目。
鍾繇は、意外とドラスティックな、刑律にきびしい酷吏のようです。
前半は祖父の話。後半から鍾繇が登場し、おもしろくなります。
鍾繇の祖父・元祖「名士」鍾晧
鍾繇字元常,潁川長社人也。
鍾繇は、あざなを元常という。潁川の長社の人だ。
『晋書』宗室伝はいう。司馬孚は、長社県侯となった。
『先賢行状』はいう。鍾皓は、あざなを季明という。門生が1000余人いて、郡の功曹となる。
ぼくは思う。『後漢書』に鍾晧伝があるなら、そちらを見ればいいのだ。いま裴注『先賢行状』で、がんばりすぎることはない。
ときに太丘長の陳寔は、西門亭長となる。鍾晧は、ふかく敬異した。陳寔は鍾晧より17歳わかいが、対等に接した。
たまたま鍾晧は、三公府に辟された。鍾晧は断った。太守が「鍾晧の代わりになるのは、誰か」と聞いた。鍾晧は、「陳寔です」と答えた。陳寔は言った。「鍾晧の人物評価は、独創的だな」と。
鍾晧は、司徒掾となる。道路がぬかるみ、泥がかかるので、司徒の掾属は、司徒の車から離れた。司徒は「お供がいない」と言った。掾属たちは、辞職を願った。
ときに鍾晧は、西曹掾である。鍾晧は、掾属に言った。「キミらが辞職して、司徒に恥をかかせ、キミらが司隷校尉につかまったら、キミらの役人人生は終わりだ」と。掾属たちは、辞職をやめた。
鍾晧は、9回も三公府に辟された。南郷、林慮の県長に遷されたが、つかず。
潁川で期待をあつめたのは、蒼梧太守する定陵の陳稚叔、もと黎陽令した潁陰の荀淑、鍾晧の3人だった。少府の李膺は、つねに3人をほめた。「荀淑は清い見識がある。陳稚叔と鍾晧は、師にあおぐべき徳がある」と。
陳稚叔は、陳臨である。殺人した人を捕えた。陳臨は、殺人者に、子供がいないことを知った。妻を獄中に入れた。男子が生まれた。郡中は、陳臨の采配を歌にして、たたえた。盧弼はいう。蒼梧太守の陳臨と、陳稚叔が同一人物であるかは、わからない。
ぼくは思う。エピソードの色合いからして、潁川「名士」の先がけくさいから、同一人物でいいと思う。郡中で歌われたり、李膺のセリフでほめられたりするあたりが。
李膺のおばは、鍾晧の兄の妻となる。鍾覲を生む。李膺と鍾覲は、年齢も名声もひとしい。李膺の祖父・太尉の李脩は言った。「鍾覲は、わが李氏の性質をうけつぐ。国が傾いても、刑戮をまぬがれる」と。また李膺の妹は、鍾覲の妻となる。
ここで議論することでは、ありませんが。「名士」は、学者のなかでは、「問題がある」議論とされているのかも。あまり多用すると、このサイトの妥当性を下げるのかも知れない。でも、分析概念としては便利だから、カッコツキで使っている。便利すぎるゆえに、危ぶまれているのだろうが。ぼくは、「既存の秩序から独立するため、たがいに褒めあった」と記される人たちが、個人的にキライなので、ややニクシミの感情をこめて使っています。「あなたは清くて、知識が豊かだ」「あなたこそ、人格が洗練されている」「ウフフ」なんて、気持ち悪い。きっと、「名士」が事実としてイヤな奴だったのでなく、たまたまそういう史料の残り方をしただけだろうが。
それから「名士」は、袁術をけなすからね。好きじゃないなあ。これもまた、たまたま、そういう史料の残り方をしただけだろうが。
鍾覲は、州に辟されたが、つかず。
李膺は鍾覲に言った。「就職しろ」と。鍾覲は李膺に言った。「李膺は、祖父・李脩が太尉となり、父・李益が趙相となった。だから李膺は、好きキライを言わずに就職できるのだ。私(鍾覲)はムリだ」と。しかし李膺は、政敵に殺された。
李膺は、後漢のなかで出世することにこだわり、第二次・党錮の禁で殺された。鍾覲は、殺されずにすんだ。後漢後期の葛藤を描いていて、面白い。孫策と周瑜よりも、よっぽど濃くて、楽しくなると思うなあ。笑
鍾晧は、69歳のとき、在野で死んだ。鍾晧の子は、2人だ。鍾迪、鍾敷である。どちらも党錮のせいで、出仕せず。鍾繇は、鍾迪の孫である。
『資治通鑑』初平3年は、鍾繇は鍾晧の曾孫(鍾迪の孫)とするが。
ぼくは思う。鍾迪の子(鍾繇の父)の名を、代案としてあげないかぎり、「鍾繇は、鍾晧の孫」としていいと思う。鍾繇の父は、党錮で就職できなかった。鍾繇の性格に影響を与えそうで、おもしろい。
鍾繇が、荀彧、荀攸、郭図と同僚となる
嘗與族父瑜俱至洛陽,道遇相者,曰:「此童有貴相,然當厄於水,努力慎之!」行未十裏,度橋,馬驚,墮水幾死。瑜以相者言中,益貴繇,而供給資費,使得專學。舉孝廉,
かつて鍾繇は、族父の鍾瑜とともに、洛陽にいく。道で「鍾繇は貴相だが、水難がある」と言われた。鍾繇は水におちた。鍾瑜は、占いを信じ、鍾繇の学費を出してくれた。鍾繇は、孝廉にあげられた。
「後漢末期より前ぐらいの教育制度」 (BLOG『三国志漂流』)
『世説新語』はいう。鍾繇の家は、貧しいが、学問をする。『周易』『老子』をやる。盧弼は考える。『世説新語』に注釈された張夫人(鍾会の母)を伝え、鍾会は14歳で『周易』ができたと。侯康はいう。注釈は「魏志」を出典とするが、『魏略』の誤りである。
謝承『後漢書』はいう。南陽の陰脩は、潁川太守となる。陰脩は、五官掾の張仲を方正の科目にあげた。陰脩は、察功曹の鍾繇、主簿の荀彧、主記掾の張禮、賊曹掾の杜祐、孝廉の荀攸、計吏の郭圖を、みずからの吏とした。潁川郡の政治が、かがやかしい。
除尚書郎、陽陵令,以疾去。辟三府,為廷尉正、黃門侍郎。
鍾繇は、尚書郎、陽陵(京兆)令となる。病気で退職する。三公府に辟され、廷尉正、黄門侍郎となる。
ぼくは思う。これはいつの時代?党錮が解けているから、黄巾の乱のあとだ。霊帝の末期5年くらいに、中央官をウロウロしたことになる。潁川で人材がキラキラしていたのは、党錮のさなかだろう。鍾繇と関中とのかかわりは、陽陵(京兆)令が最初?
鍾繇が李傕を説得し、曹操と献帝をむすぶ
世語曰:太祖遣使從事王必致命天子。
傕、汜等以為「關東欲自立天子,今曹操雖有使命,非其至實」,議留太祖使,拒絕其意。繇說傕、汜等曰:「方今英雄並起,各矯命專制,唯曹兗州乃心王室,而逆其忠款,非所以副將來之望也。」傕、汜等用繇言,厚加答報,由是太祖使命遂得通。
このとき、献帝は長安にいる。李傕と郭汜がみだし、関東と断絶した。曹操は兗州牧となり、はじめて上書した。
『世語』はいう。曹操は、従事の王必を、天子につかわした。
ぼくは思う。曹操が献帝に使者をやったのは、興平二年(195)10月、兗州牧にしてもらってから。献帝が長安を出た後である。曹操は、ちっとも「忠」じゃないよね。
同年7月、献帝が長安を出て、指揮命令がゴチャゴチャになった。ドサクサで曹操は、兗州占領の既成事実を認めてもらった。そのお礼参りの使者・王必が「はじめて」とはね。
李傕と郭汜は、「関東の奴らは、みずから天子を立てたい。曹操は、献帝につくさない」と言った。李傕らは、曹操の使者をとどめ、曹操を拒絶しようとした。
曹操の兗州牧 任命は、節操がないリスキーな判断である。李傕と郭汜が言うとおり、関東の地方官たちは、献帝でない天子を立てようとしている。その曹操に、権威をあたえちゃっていいのか。もはや「敵の敵なら、誰でもいいから味方してほしい」という、非常時の判断か。リクツが通っていないので、後日あらためて考えてみたい問題。
鍾繇は、李傕と郭汜を説得した。「曹操は、王室に心をよせる」と。李傕と郭汜は、鍾繇の発言をもちいて、曹操の使者に厚くむくいた。曹操と献帝の関係は、開通した。
しばしば荀彧は、鍾繇をほめた。鍾繇が、李傕らを説得してくれた。曹操は、鍾繇に心をひらいた。
李傕と郭汜が、曹操を「関東の連中の1人」としか認識していないとき、鍾繇は、曹操を弁護した。なかなか、できないことです。また、李傕や郭汜が、曹操のことをよく知らないから、鍾繇の「ウソ」が通じたという気もする。袁紹ならムリだった。
どうして鍾繇は、曹操のようなアウトローを支持したか。父が党錮にあい、後漢にウンザリしていたからだろう。後漢の既存の権力とはべつに、頼れる人を探していた。「名士」だもん。祖父・鍾晧だって、後漢に愛想を尽かしていた。李膺と対極的だ。鍾繇は、筋金入りの「反逆者」である。と、これを言うために、このページの前半をつくりました。
のちに李傕が、天子をおどした。鍾繇と、尚書郎の韓斌は、ともに策謀した。献帝が長安を出られたのは、鍾繇の尽力による。鍾繇は、禦史中丞、侍中、尚書僕射となった。
ただし、くり返すけれど、これは鍾繇や荀彧なりのビジョンである。献帝や、延臣たちの総意でない。もと白波とか、河東太守の王邑とか、献帝を「奉戴」したい勢力は、道中にいくらでもいる。献帝だって、助けてくれるなら、あえて遠い曹操を頼る必要はない。
鍾繇は、東武亭侯に封じられた。
関中~河東を、曹操の色に染める
関中の馬騰や韓遂らは、つよい。曹操は、山東や関中を憂う。曹操は上表した。鍾繇を侍中、司隷校尉とし、持節させ、関中の諸軍を督させた。鍾繇に後方をまかせた。鍾繇は長安にゆき、馬騰と韓遂から人質をとった。曹操のいる官渡へ、馬を送った。曹操は、鍾繇を蕭何にたとえた。
匈奴単于(呼廚泉)が、平陽(河東)で乱をおこした。鍾繇は単于をかこむが、勝てない。袁尚がおいた河東太守・郭援が、河東にきた。郭援はつよい。諸将は「単于をかこむのを、やめよう」と言った。鍾繇は、「郭援が汾水をわたる最中なら、勝てる」と言った。張既が馬超をつれてきて、郭援を大破した。
司馬彪『戦略』はいう。袁尚が命じ、高幹、郭援は数万人をひきい、匈奴単于とともに河東を攻めた。袁尚は、馬騰、韓遂とむすびたい。ひそかに馬騰は、袁尚との同盟をゆるした。傅幹が馬騰を説得した。「曹操に味方すべきだ」と。馬騰は納得し、曹操のために馬超をやった。馬超と鍾繇は、郭援らを大破した。
ぼくは思う。馬騰は、いつだって、どっちつかずだなあ。
斬援,降單于。語在既傳。其後河東衛固作亂,與張晟、張琰及高幹等並為寇,繇又率諸將討破之。
郭援を斬り、単于を降した。張既伝にしるす。のちに河東で、高幹が乱をおこしたが、ふたたび鍾繇が破った。
『魏略』はいう。河東太守の王邑を、詔して許都によぶ。
献帝の動向を知るために、李傕・郭汜伝 04
王邑は、天下が定まらないので、河東を離れたくない。河東の吏民も、王邑にいてほしい。曹操は、河東太守の後任に、杜畿を任命した。鍾繇は洛陽にいたが、王邑から杜畿に引きつがれないトラブルをわびた。「もと鎮北將軍、河東太守、安陽亭侯の王邑が起こしたトラブルは、侍中、司隸校尉、東武亭侯の鍾繇のせいです。私(鍾繇)を罰して、爵土をけずってください」と。
自天子西遷,洛陽人民單盡,繇徙關中民,又招納亡叛以充之,數年間民戶稍實。太祖征關中,得以為資,表繇為前軍師。
献帝が長安に行ってから、洛陽に人民がいない。鍾繇は、関中の民を、洛陽にうつす。数年で、洛陽の民戸はふえた。曹操が関中を攻めると、鍾繇は軍資を供給した。前軍師となる。
いま、ちくま訳で確認しました。鍾繇は、張魯討伐にかこつけ、3千の兵で関中に入り、諸将から人質をとろうとした。1万人以上殺して、鍾繇は、関中を平定した。曹操は、鍾繇に関中を任せたことを後悔したと。衛覬は、鍾繇のやりかたに反対した。しかも鍾繇は、河東太守の王邑に治めてもらった、河東の安邑の人。鍾繇は、関中から河東にあった李傕以後の秩序を破壊して、曹操の色に塗りかえたことがわかる。こわい人!
魏國初建,為大理,遷相國。
魏国ができると、鍾繇は大理、相国となる。
以下、気が向いたら、曹丕、魏諷とのからみをやります。おしまい。110401