西暦83年生まれの荀淑から、上の世代は不明
荀攸について勉強会をやり、
党人としての荀氏の歴史に興味を持ちました。
考察というより、基本的な知識の整理という意味で、
荀淑伝をやります。
荀彧の祖父は、荀子の子孫、83年生まれ
荀淑字季和,潁川潁陰人,荀卿十一世孫也。少有高行,博學而不好章句,多為俗儒所非,而州裏稱其知人。
荀淑は、あざなを季和という。
あとで没年と享年から推定できるが、西暦83年生まれ。
潁川の潁陰の人だ。荀卿から、十一世の孫だ。
荀淑は、わかくして行いが高かった。博学だが、一章一句にこだわって読まない。おおくの世間の儒者から、荀淑は非難された。だが、豫州潁川の人は、荀淑のひとを見る目をたたえた。
清流の人物として、梁冀とやんわり衝突
安帝時,征拜郎中,後再遷當塗長。去職還鄉里。當世名賢李固、李膺等皆師宗之。
安帝のとき、荀淑は郎中になった。のちに當塗県長にうつった。荀淑は、職を去って、郷里にかえった。
李固と李膺らは、どちらも荀淑を師とあおいだ。
ところで、李固と李膺は、関係あったっけ?
及梁太后臨朝,有日食地震之變,詔公卿舉賢良方正,光祿勳杜喬、少府房植舉淑對策,譏刺貴幸,為大將軍梁冀所忌,出補朗陵侯相。
梁太后が臨朝した。日食と地震があった。
梁太后は公卿にめいじ、賢良方正な人材を、あげさせた。光祿勳の杜喬と、少府の房植は、荀淑をあげた。
荀淑は、梁太后がかわいがっている人を批判した。大将軍の梁冀は、荀淑を忌んだ。荀淑は洛陽から出されて、朗陵侯の相となった。
荀淑が対立した梁冀ですが、袁氏は梁冀と仲がよかった。
神君として死に、李膺に祭られる
蒞事明理,稱為神君。頃之,棄官歸,閒居養志。產業每增,輒以贍宗族知友,年六十七,建和三年卒,李膺時為尚書,自表師喪。二縣皆為立祠。
荀淑の政治は、道理がとおった。だから荀淑は「神君」と呼ばれた。
このころ官位を捨てて、潁川に帰った。ひっそり生活して、志を養った。財産がふえるたび、宗族や知友にゆずった。
『後漢書』は荀彧を、聖漢に殉じた忠臣にえがく。その荀彧の祖父で、しかも荀子の子孫なのだから、清くなければならない。荀淑その人について、ほとんど語らない、ただ枠組みだけの列伝だろうか。
149年、67歳で死んだ。
ときに李膺は、詔書だった。師である荀淑の喪を、あらわした。荀爽がおさめた2県に、ほこらが建った。
荀氏の八龍:六男の荀爽にならぶ、三男の荀靖
有子八人:儉、緄、靖、燾、汪、爽、肅、專,並有名稱,時人謂之「八龍」。
初,荀氏舊裏名西豪,潁陰令勃海苑康以為昔高陽氏有才子八人,今荀氏亦有八子,故改其裏曰高陽裏。
荀淑には、8子がいた。儉、緄、靖、燾、汪、爽、肅、專だ。みな名を知られた。「八龍」とよばれた。
はじめ荀氏の家がある場所は、西豪という地名だった。潁陰令をつとめる勃海の苑康は、センギョクにちなみ、高陽里と地名をあらためた。
靖有至行,不仕,年五十而終,號曰玄行先生。
八龍の1人・荀靖は、ピッタリ儒教どおりに、行動した。後漢につかえず、50歳で死んだ。玄行先生と呼ばれた。
そろそろ会社に行かねば。つづきは後日。100906