01) 袁紹は挫折し、袁術は諦めず
袁術は、献帝を自分の手元に招こうとしていた!
これを言います。
根拠は『資治通鑑』と、『三国志』太祖武帝紀です。
袁術は、献帝を無視していない
「袁術は献帝を無視し、脈絡なく皇帝を名乗った」
というのは、正しくありません。
袁術は敗者だから記録にないですが、自王朝を正統化する手続きを、入念に踏んでいたはずです。膨大な文書が発行されたはずです。
袁術がやろうとしたのは、献帝から禅譲を受けることです。
なぜ放伐でなく、禅譲か。
武力で漢皇帝を倒しても、支持を得られないからだ。董卓が失敗したばかりだ。蔡邕に掣肘された。漢皇帝は、武力では倒せない。漢皇帝の正統性は、小難しい儒教によって、ガチガチに固められている。ペンを倒すのは、剣ではなくペンなのです。
「献帝が、後嗣をのこさずに死んだから、漢王朝は滅びた」という判断にはならない。後漢では、皇帝の夭折は、頻繁。
前漢末の王莽は、ペンの力で漢皇帝を倒した。袁術がモデルとするとしたら、唯一、学問の神様・王莽だ。
禅譲を受けるには、手元に漢皇帝がいなければならない。皇帝の印綬やらIDカードやらを、儀式にて、袁術に手渡してもらわねば。
袁術は手元に、献帝を収める必要がある。
袁術は最後まで、董卓から献帝を救おうとした
今週は『資治通鑑』を翻訳してるので、これに拠って、経緯を確認。
191年2月、孫堅が董卓を、洛陽から追いはらった。孫堅は袁術の部将だから、袁術の手柄である。
いっぽう袁紹は、同盟の筆頭のくせに、董卓と戦うのをあきらめた。
191年秋、冀州牧の韓馥は、袁紹への補給をケチった。袁紹は、本拠地がないことが不安になり、延津に進み、冀州を奪いにいく。つまり袁紹は、董卓の戦線に背を向けたのだ。
191年10月、董卓がもと司空の張温を殺した。罪状は、
「袁術と通じたから」
張温と袁術が、ほんとうに通じていたかは、史料からは分からない。
さきに天文で「大臣が1人死ぬ」と出た。董卓が、占いに該当するのが自分だったら困るので、あらかじめ大臣たる張温を殺した。『通鑑』は、董卓が張温を殺した理由を、これにする。筋は通るが、検証できない。笑
逆にぼくが「張温と袁術のつながりは事実」と云っても、筋は通る。
ただ史料から抽出しておきたいのは、たとえ口実にせよ、董卓の筆頭に想定する敵が、袁紹でなくて袁術だということ。袁紹は冀州に飛んでいったが、袁術は南陽で、長安を伺いつづけている。
袁術がなぜ長安を狙うか。目的は2つだろう。まず董卓を倒すこと。つぎに献帝を手に入れること。
「奸臣の魔の手から、献帝をお救いもうしあげる」
という袁術のスローガンは、史料に残っていない。
のちに袁術は、献帝を無視して、皇帝を名乗った。こんな袁術が、献帝救出を叫ぶことを、後世人は、感覚的に受け付けられない。だから余計に、記録から抹殺されちゃうよね。「誤記だ」と。
でも袁術が、献帝奉戴というスローガンを掲げることは、きわめて自然だ。誰でも二言目には「漢皇帝のため」と口走る時代だ。
次回、朱儁と陶謙、董承と劉備、地理的戦略について。