表紙 > 考察 > 袁術は献帝を手に入れ、禅譲を受けるつもり

02) 董承と袁術の密約?

袁術は、献帝を自分の手元に招こうとしていた!
これを言います。

陶謙と朱儁による、反董卓包囲網を支援した

191年冬、朱儁は洛陽にいる。朱儁は、董卓に頼まれて洛陽を守っている。だが朱儁は、董卓を裏切った。
すでに袁紹をいただく同盟が解散したから、朱儁をトップとする反董卓同盟が新しくできた。陶謙は朱儁を、車騎将軍にした。去年の袁紹と同じ地位だ。同盟を仕切りなおしたことが分かる。
ここで疑問。
南陽の袁術のバックアップなしで、朱儁が洛陽周辺で活躍できるだろうか。孫堅だって洛陽の周りにいるはずだ。おまけに朱儁は、孫堅の元上司だ。朱儁と袁術は、繋がるほうが自然だ。だけど史料がない(と思う)

この空白を埋めてくれるのが、太祖武帝紀。192年末の記事。

袁術與紹有隙,術求援於公孫瓚,瓚使劉備屯高唐,單經屯平原,陶謙屯發幹,以逼紹。太祖與紹會擊,皆破之。

袁術-公孫瓚-陶謙と、袁紹-曹操が対立する構図ができている。192年に陶謙と袁術が同盟関係にあるなら、191年冬にも、同盟関係を想定していい。つまり朱儁の担ぎ上げを、陶謙と袁術が協力した。

『三国志』陶謙伝を読むと、陶謙は袁紹と袁術から独立し、さいごは第三勢力をめざしたように読める。
袁紹と袁術に立ち向かい、袁術に敗れた野心家・陶謙伝
しかし、192年まで陶謙と袁術が連携しているのは、間違いない。


朱儁は、死ぬまで董卓に対抗した人だ。
朱儁から見て、袁紹は頼りない。私利に走り、河北を確保しに行った。いっぽう朱儁から見て、袁術は頼れる。董卓を圧迫し続けた。だから『後漢書』朱儁伝の、

卓後入關,儁守洛陽,而俊與山東諸將通謀為内應。既而懼為卓所襲,乃棄官奔荊州。

にて、朱儁が逃げ込んだ「荊州」は、袁術の南陽である。袁紹と結ぶ、劉表の襄陽には逃げ込まない。また孫堅が死ぬまでは、荊州で袁術が強い。この理由でも、朱儁は袁術を頼ったといえる。

『後漢書』朱儁伝を、狩野直禎氏の翻訳を横目に読む
で妄想したことが、陶謙-袁術ラインを確認し、裏づけられました。

袁術は董卓を討ち、献帝を手にしたい。

董承とむすび、献帝を手に入れようとする

太祖武帝紀の建安元年(196年)の記事。

太祖將迎天子,諸將或疑,荀彧、程昱勸之,乃遣曹洪將兵西迎,衛將軍董承與袁術將萇奴拒險,洪不得進。

訳します。曹操が献帝を迎えるため、曹洪に行かせた。衛将軍の董承と、袁術の部将が、曹洪をはばんだ。
武帝紀にある話だから、とっくに内容は知っているはずなのに、改めてみると不思議。これってどういう意味だろう? 虚心に読めば、董承と袁術が、曹操の献帝奉戴を妨害したということだ。(そのままですね)

董承とは、献帝の祖母・董太后のおい。董卓が192年に死に、195年に献帝が長安を脱出。董承は、李傕や郭汜から、献帝を守り続けた。
遅くとも196年時点で、袁術と董承は連携している。あとは妄想の領域。連携を始めた時期を、どこまで遡らせるか。袁術は張温と結びついていた(かも知れない)から、長安とのパイプがあるのは、想定していい。

もしや董承は、献帝を袁術に届けるため、動いていた?

さすがに、強引です。強引を分かりつつ、楽しんで書いています。笑

同じく献帝を「守った」楊奉や韓暹も、のちに曹操に負けると袁術を頼った。袁術の手が、献帝周辺に伸びていないと、楊奉や韓暹の行動が説明できない。

董承の死の時期からも、袁術との関係が伺える。
董承は劉備に、曹操暗殺を持ちかけた。ぼくの妄想に則れば、董承は曹操を倒し、献帝を袁術に届けたかった。しかし、、
199年12月、袁術が死んだ。200年1月、董承が死んだ。
2人の死が近すぎる。密接な関係を、想定したくなる。

内でも外でも、曹操が勝った。この事実は揺らがない。
怪しいのは、劉備。曹操に降伏し、董承に味方し、袁術を討つといい、すぐ曹操に背いた。裏切りまくって、正体が見えない。
董承の秘密を漏らしたのは、劉備か? 袁術が死に、劉備は何らかの理由で、すぐに董承を始末したくなった。劉備は、曹操に董承を殺させるため、秘密を漏らしたとか? うーん、、よく分からない。劉備は、また考えます。


献帝を迎えるための、地理的な作戦

まとめに代えまして。
はじめ袁術は、南陽に献帝を迎え、うまくいけば禅譲させるつもりだった。後漢の初代・光武帝が始まった土地で、献帝を終わらせる。ドラマチックな筋書きです。朱儁を助けた。
でも孫堅が死に、劉表に荊州を追い出された。計画変更。袁術は匡亭で破れ、寿春に行った。

匡亭で負けた袁術を、曹操は執拗に追う。武帝紀より。

四年春,荊州牧劉表斷術糧道,術引軍入陳留,屯封丘,黑山餘賊及於夫羅等佐之。術使將劉詳屯匡亭。太祖擊詳,術救之,與戰,大破之。術退保封丘,遂圍之,未合,術走襄邑,追到太壽,決渠水灌城。走寧陵,又追之,走九江。夏,太祖還軍定陶。

曹操は、袁術を中原から、徹底的に追い出した。曹操は、いつも目の前のことに夢中になり、大局を見失ってしまう人だ。3ヶ月の戦闘に熱中しているだけかも知れない。
ただ結果として、袁術を献帝から遠ざけた。荀彧あたりが、曹操の追撃を止めなかったのは、袁術を脅威に思っていたからでしょう。

太祖武帝紀を見ると、寿春にいった後の袁術は、陳国に何回も攻め込んでいる。汝南と潁川の黄巾を、味方につけている。どちらも、献帝を手に入れるルートになる。曹操もこれを分かっていて、叩いた。袁術を揚州に閉じ込めようとした。

陳国王の劉寵と、袁術との関係も、この文脈で考えねば。
『後漢書』袁術が殺した、弩兵が巧みな皇族の列伝

董承の手引きを期待したが、成就せず。

結果、曹操に献帝を取られたので、袁術は後漢との関係を説明できず、皇帝を称した。ペンによる裏づけがない。失敗するパタンだ。
袁術がバカだから、皇帝即位に脈絡がないのではない。献帝を回収し損ねたから、脈絡がないのだ。まあ、献帝を回収し損ねたのは、地理的な戦略が下手だったから、なんだけど。笑

おわりに

袁術は、献帝を手に入れようとしなかったのではない。
献帝を手に入れることに、失敗したのである。

いくらぼくが袁術が好きで、弁護したくても、彼は敗者です。でも、初めから何も考えていないバカではないと、確認しておきたかった。
「史料にない=存在しない」
とは言い切れないことを、袁術を材料に述べたつもりです。100516