天は後漢を見捨てたと言った、郭泰伝
吉川版で、郭泰伝やります。ただ抄訳して、読みなおしやすくした。
上表文のたぐいをはぶき、、関連する事件と人物にしぼった。どうぞ。
郭泰について、以前に書いたもの。
渡邉義浩『「三国志」軍師34選』を読む 2)郭泰と許劭
『後漢書』何顒伝:何顒グループの母体は、袁氏と荀氏か
天が滅ぼす後漢を、私は支えられない
郭泰は、あざなを林宗という。太原の界休の人だ。家は世よ貧賤だ。はやくに父が死ぬ。母は、郭泰を県廷で働かせたい。郭泰は言った。「大丈夫が、なぜ、つまらん仕事をするか」と。県廷で働かず。
成皋の屈伯彥に学ぶ。3年で、墳籍(古典)につうじた。洛陽で、河南尹の李膺と友になる。郭泰の名は、京師を震わす。郭泰が気侠するとき、衣冠した諸儒は、車が千両も、黄河で郭泰を見送った。郭泰と李膺は、船に同乗する。神仙のようだった。
司徒の黃瓊が、郭泰を辟した。太常の趙典が、郭泰を有道の科目であげた。郭泰は就職をすすめられると、断った。「私は、夜は天文現象を見て、昼は人事を見ている。天が後漢を廃する。後漢を、支えることはできない」と。
人物をよく知り、士人をはげました。郡国を周遊した。かつて陳梁のあいだで、雨にあい、頭巾が折れた。「林宗巾」として、流行った。
ある人が、汝南の範滂(列伝57)に問うた。「郭泰は、どんな人か」と。范滂は答えた。「隠者だが、親との縁はつづく。貞潔だが、世俗とまじわる。天子は、郭泰を臣とできない。諸侯は、郭泰を友とできない。それ以上、言いようがない」と。
のちに母が死んだ。郭泰は、至孝をほめられた。郭泰は人物評論をしたが、ロコツで危うい議論はしない。ゆえに宦官は、郭泰をキズつけられない。党錮がおき、知名之士が、おおく害された。郭泰と、汝南の袁閎(列伝35)だけは、害をまぬがれた。門を閉じて、弟子1000人に教授した。
第二次党錮の翌年に死に、蔡邕が弔う
明年春,卒于家,時年四十二。四方之士千餘人,皆來會葬。同志者乃共刻石立碑,蔡邕為其文,既而謂涿郡盧植曰:「吾為碑銘多矣,皆有慚德,唯郭有道無愧色耳。」
建甯元年(168)、太傅の陳蕃、大将軍の竇武は、宦官に殺された。郭泰は、野で哭いた。「王業は、どこにいくのか」と。
翌年(169)春、郭泰は在家で死んだ。42歳だった。四方から、1千余人が葬儀にきた。志がおなじ人が、石碑をつくる。蔡邕が作文した。蔡邕は、涿郡の盧植に言った。「郭泰の碑文だけは、オオゲサな賛辞を書かずにすんだ」と。
郭泰が鑑定した人物たち
郭泰は、人物を鑑定した。みな、郭泰の鑑定にこたえた。文飾ばかりでなく、ちゃんと実態のある人物を、范曄が、ここ『後漢書』郭泰伝の後ろにまとめる。
●左原は、陳留の人だ。左原が法をおかしたとき、郭泰がなぐさめた。「古代、違法しても、忠臣になった人がいる。左原は、反省しろ」と。あとで左原は、郭泰の教えを破った。左原は、恥じた。郭泰は、左原を更正させた。
孟敏字叔達,钜鹿楊氏人也。客居太原。荷甑墯地,不顧而去。林宗見而問其意。對曰:「甑以破矣,視之何益?」林宗以此異之,因勸令遊學。十年知名,三公俱辟,並不屈雲。
庾乘字世遊,潁川鄢陵人也。少給事縣廷為門士。林宗見而拔之,勸遊學官,遂為諸生傭。後能講論,自以卑第,每處下坐,諸生博士皆就讎問,由是學中以下坐為貴。後征辟並不起,號曰「征君」。
●茅容は、あざなを季偉という。陳留の人だ。鶏を料理し、母に食わせた。茅容は、粗末な野菜を食べた。郭泰は、これをほめた。
●孟敏は、あざなを叔達という。鉅鹿の楊氏の人だ。太原にゆき、荷物から甑(こしき)を落とした。孟敏は、ふり返らない。郭泰が、理由をきく。孟敏は言った。「壊れたものを見ても、利益がない」と。郭泰がほめた。
●庾乘は、あざなを世遊という。潁川の鄢陵の人だ。下座から、よく論じた。すぐれた人が、下座につく習慣になった。たびたび辟されたので、「徴君」と言われた。
賈淑字子厚,林宗鄉人也。雖世有冠冕,而性險害,邑裏患之。林宗遭母憂。淑來修吊,既而钜鹿孫威直亦至。威直以林宗賢而受惡人吊,心怪之,不進而去。林宗追而謝之曰:「賈子厚誠實凶德,然洗心向善。仲尼不逆互鄉,故吾許其進也。」淑聞之,改過自厲,終成善士。鄉里有憂患者,淑輒傾身營救,為州閭所稱。
史叔賓者,陳留人也。少有盛名。林宗見而告人曰:「牆高基下,雖得必失。」後果以論議阿枉敗名雲。
宋果、賈淑、史叔賓。はぶく。
●黄允は、あざなを子艾という。濟陰の人だ。郭泰は黄允に言った。「あなたの才能は、人をとびぬける。偉業をする器量がある。しかし道を守れず、失敗する」と。
のちに司徒の袁隗は、從女を黄允に嫁がせたい。袁隗は、黄允に会って言った。「こんな婿なら、すばらしい」と。黄允は、妻の夏侯氏をおいだした。夏侯氏は、姑に言った。「親族をあつめて、別れを言いたい」と。賓客300余人をあつめる。夏侯氏は、黄允の汚点15を発表した。黄允は、世間に見棄てられた。
●謝甄は、あざなを子微という。汝南の召陵の人だ。陳留の邊讓と、ともに談論を善くした。郭泰とあうと、連日連夜、語りあった。郭泰は、門人に言った。「謝甄と辺譲は、どちらも英才があまりある。だが、成功しない。惜しいなあ」と。
謝甄は、こまかいシキタリにからみ、世間に批判された。辺譲は、曹操を輕侮したので、曹操に殺された。
又識張孝仲芻牧之中,知范特祖郵置之役,召公子、許偉康並出屠酤,司馬子威拔自卒伍,及同郡郭長信、王長文、韓文布、李子政、曹子元、定襄周康子、西河王季然、雲中丘季智、郝禮真等六十人,並以成名。
王柔、その他の人たち60人。はぶく。
つぎは符融伝と、許劭伝です。つづく。