袁紹と曹操につかず、馬日磾を糾弾した孔融
吉川版で、孔融伝やります。ただ抄訳して、読みなおしやすくした。
上表文のたぐいをはぶき、、関連する事件と人物にしぼった。どうぞ。
張倹を侯覧からかくまい、名声を得る
融幼有異才。年十歲,隨父詣京師。時,河南尹李膺以簡重自居,不妄接士賓客,敕外自非當世名人及與通家,皆不得白。融欲觀其人,故造膺門。語門者曰:「我是李君通家子弟。」門者言之。膺請融,問曰:「高明祖父嘗與僕有恩舊乎?」融曰:「然。先君孔子與君先人李老君同德比義,而相師友,則融與君累世通家。」眾坐莫不歎息。太中大夫陳煒後至,坐中以告煒。煒曰:「夫人小而聰了,大未必奇。」融應聲曰:「觀君所言,將不早惠乎?」膺大笑曰:「高明必為偉器。」
孔融は、あざなを文舉という。魯國の人だ。孔子の20世の孫だ。7世の祖父・孔霸は、前漢の元帝の教師となり、侍中となる。父の孔宙は、泰山の都尉となる。
孔融は、幼いが異才がある。10歳のとき、河南尹の李膺の門番をだました。「李氏の老子は、孔子の旧友です」と。太中大夫の陳煒は、孔融に言った。「聡明な子供は、ふつうの大人になる」と。孔融は、陳煒にやり返した。「陳煒は、さぞかし聡明な子供だったのでしょう」と。李膺は大笑した。
時融年十六,儉少之而不告。融見其有窘色,謂曰:「兄雖在外,吾獨不能為君主邪?」因留舍之。後事泄,國相以下,密就掩捕,儉得脫走,遂並收褒、融送獄。二人未知所坐。融曰:「保納舍藏者,融也,當坐之。」褒曰:「彼來求我,非弟之過,請甘其罪。」吏問其母,母曰:「家事任長,妾當其辜。」一門爭死,郡縣疑不能決,乃上讞之。詔書竟坐褒焉。融由是顯名,與平原陶丘洪、陳留邊讓齊聲稱。州郡禮命,皆不就。
13歳で、父が死んだ。やつれて、評価された。
山陽の張倹(列伝57)は、中常侍の侯覧に怨まれた。張倹は、孔融の兄・孔褒と旧友だ。張倹が、孔褒ににげこむ。孔褒は、たまたま不在だ。16歳の孔融が判断して、張倹をかくまった。張倹は、助かった。のちに、孔褒らは、捕われた。孔褒、孔融、その母が、かばいあった。孔融は、有名になった。平原の陶丘洪、陳留の辺譲と、名がひとしい。州郡に召されたが、就かず。
司徒の楊賜、大将軍の何進に仕え、ミスる
孔融は、楊賜の司徒府に辟された。官僚のうち、貪汚な人をあげろと言われた。孔融は、宦官の親族をおおくあげた。尚書は、宦官がこわい。尚書は、掾属をつかわし、孔融をせめた。孔融は折れず。
河南尹の何進が、大将軍にとなる。楊賜は、孔融をつかい、何進を祝った。何進に会えず。孔融は、謁(名刺)をとりかえし、できごとを楊賜の府に報告して去った。河南尹の官属はこれを恥じ、孔融を暗殺したい。何進の賓客が言った。「孔融は、名声がある。孔融を重んじておけ」と。何進は孔融を辟し、高第にあげ、侍御史とする。中丞の趙舍とうまくゆかず、孔融は退職して、帰宅した。
のちに司空掾に辟される。中軍候となる。
在職3日で、虎賁中郎將にうつる。たまたま董卓が廃立した。孔融は正論を言い、董卓にさからう。議郎となる。北海の黄巾がひどいので、董卓は孔融を北海相とした。
北海を6年治め、許都の議論をリード
孔融は、東海にきた。賊の張饒らが、20万で冀州からもどる。孔融は、やぶれた。4万人をあつめ、城邑をつくる。学校をつくり、賢良の鄭玄、彭璆、邴原らをあげた。子孫がない人、避難してきて死んだ人を祭った。賊の管亥に囲まれた。東莱の太史慈が、平原相の劉備をつれてきた。黄巾をおいはらう。
融負有高氣,志在靖難,而才疏意廣,迄無成功。在郡六年,劉備表領青州刺史。建安元年,為袁譚所攻,自春至夏,戰士所余裁數百人,流矢雨集,戈矛內接。融隱幾讀書,談笑自若。城夜陷,乃奔東山,妻、子為譚所虜。
孔融は、曹操にも袁紹にもつかない。左丞祖は、どちらかとの同盟を進めた。だが孔融は、袁紹と曹操が、漢室をつぶそうとすると知った。ゆえに孔融は怒り、左丞祖を殺した。
孔融は、東海に6年いた。劉備を青州刺史とした。建安元年(196)、袁譚に攻められた。春から夏、籠城戦。孔融は読書していた。陥落した。孔融は、東山ににげた。妻子は、袁譚に捕われた。
献帝が許県にきた。將作大匠、少府となる。孔融が議論をやり、公卿や大夫は、孔融のあとに署名するだけだ。
馬日磾は袁術と同罪だから、礼を加えず
ときに大夫の馬日磾は、山東にゆき、淮南にゆく。しばしば袁術に色目をつかう。
袁術は、馬日磾を軽侮した。袁術は、馬日磾の節をうばう。馬日磾は、淮南を去りたいが、袁術は去らせない。馬日磾にせまり、軍師とした。馬日磾はふかくうらみ、血を吐いてたおれた。
馬日磾の死体が、許都にきた。朝廷は、礼を加えたい。孔融は言った。
「大夫は三公の上・太傅として、東夏をやわらげにいった。だが馬日磾は、奸臣・袁術にこびて、掣肘された。袁術は、ながらく僭逆するのに、馬日磾は袁術に随従した。淮南に、ながくいた。漢室の律法に、罪人と3日つきあえば、事情を知るとある。馬日磾に、礼を加えてはいけない」と。朝廷は、これを認めた。馬日磾に、礼を加えず。
肉刑の議論があった。荊州牧の劉表が、天地を郊祀した。建安五年(200)、皇族が早死にした。献帝はこれを傷み、四時の祭をやりたい。それぞれ孔融は、意見をのべた。はぶく。
時,年饑兵興,操表制酒禁,融頻書爭之,多侮慢之辭。既見操雄詐漸著,數不能堪,故發辭偏宕,多致乖忤。又嘗奏宜准古王畿之制,千里寰內,不以封建諸侯。操疑其所論建漸廣,益憚之。然以融名重天下,外相容忍,而潛怨正議,慮鯁大業。山陽郗慮承望風旨,以微法奏免融官。因顯明仇怨,操故書激厲融曰 (後略)
曹丕が、袁煕の妻をめとる。曹操が烏桓を討つ。飢えたので、曹操が酒を禁じる。曹操が封建の制度をいじる。いちいち孔融が口をだす。以下、はぶく。
孔融は、曹操に殺されましたとさ。
つぎ、荀彧伝だが、大きすぎるテーマ。日を改めます。おわり。110424