表紙 > ~後漢 > 『後漢書』郭泰、符融、許劭、鄭泰、孔融伝を抄訳、『三国志』を補う

袁紹と曹操につかず、馬日磾を糾弾した孔融

吉川版で、孔融伝やります。ただ抄訳して、読みなおしやすくした。
上表文のたぐいをはぶき、、関連する事件と人物にしぼった。どうぞ。

訓読された文書を見て、口語に要約する。それほど意味のある活動ではない。では、なぜやっているか。「読んだ」という行為の痕跡を、ホームページに叩きつけているだけ。あとで読み直すとき、自分用のガイドとする。


張倹を侯覧からかくまい、名声を得る

孔融字文舉,魯國人,孔子二十世孫也。七世祖霸,為元帝師,位至侍中。父宙,太山都尉。
融幼有異才。年十歲,隨父詣京師。時,河南尹李膺以簡重自居,不妄接士賓客,敕外自非當世名人及與通家,皆不得白。融欲觀其人,故造膺門。語門者曰:「我是李君通家子弟。」門者言之。膺請融,問曰:「高明祖父嘗與僕有恩舊乎?」融曰:「然。先君孔子與君先人李老君同德比義,而相師友,則融與君累世通家。」眾坐莫不歎息。太中大夫陳煒後至,坐中以告煒。煒曰:「夫人小而聰了,大未必奇。」融應聲曰:「觀君所言,將不早惠乎?」膺大笑曰:「高明必為偉器。」

孔融は、あざなを文舉という。魯國の人だ。孔子の20世の孫だ。7世の祖父・孔霸は、前漢の元帝の教師となり、侍中となる。父の孔宙は、泰山の都尉となる。

7世の祖父から、また、えらく飛びました。途中、高官の人はいない?

孔融は、幼いが異才がある。10歳のとき、河南尹の李膺の門番をだました。「李氏の老子は、孔子の旧友です」と。太中大夫の陳煒は、孔融に言った。「聡明な子供は、ふつうの大人になる」と。孔融は、陳煒にやり返した。「陳煒は、さぞかし聡明な子供だったのでしょう」と。李膺は大笑した。

どちらも、有名なお話。


年十三,喪父,哀悴過毀,扶而後起,州裏歸其孝。性好學,博涉多該覽。
時融年十六,儉少之而不告。融見其有窘色,謂曰:「兄雖在外,吾獨不能為君主邪?」因留舍之。後事泄,國相以下,密就掩捕,儉得脫走,遂並收褒、融送獄。二人未知所坐。融曰:「保納舍藏者,融也,當坐之。」褒曰:「彼來求我,非弟之過,請甘其罪。」吏問其母,母曰:「家事任長,妾當其辜。」一門爭死,郡縣疑不能決,乃上讞之。詔書竟坐褒焉。融由是顯名,與平原陶丘洪、陳留邊讓齊聲稱。州郡禮命,皆不就。

13歳で、父が死んだ。やつれて、評価された。
山陽の張倹(列伝57)は、中常侍の侯覧に怨まれた。張倹は、孔融の兄・孔褒と旧友だ。張倹が、孔褒ににげこむ。孔褒は、たまたま不在だ。16歳の孔融が判断して、張倹をかくまった。張倹は、助かった。のちに、孔褒らは、捕われた。孔褒、孔融、その母が、かばいあった。孔融は、有名になった。平原の陶丘洪、陳留の辺譲と、名がひとしい。州郡に召されたが、就かず。

司徒の楊賜、大将軍の何進に仕え、ミスる

辟司徒楊賜府。時,隱核官僚之貪濁者,將加貶黜,融多舉中官親族。尚書畏迫內寵,召掾屬詰責之。融陳對罪惡,言無阿撓。河南尹何進當遷為大將軍,楊賜遣融奉謁賀進,不時通,融即奪謁還府,投劾而去。河南官屬恥之,私遣劍客欲追殺融。客有言於進曰:「孔文舉有重名,將軍若造怨此人,則四方之士引領而去矣。不如因而禮之,可以示廣於天下。」進然之,既拜而辟融,舉高第,為侍御史。與中丞趙舍不同,託病歸家。

孔融は、楊賜の司徒府に辟された。官僚のうち、貪汚な人をあげろと言われた。孔融は、宦官の親族をおおくあげた。尚書は、宦官がこわい。尚書は、掾属をつかわし、孔融をせめた。孔融は折れず。
河南尹の何進が、大将軍にとなる。楊賜は、孔融をつかい、何進を祝った。何進に会えず。孔融は、謁(名刺)をとりかえし、できごとを楊賜の府に報告して去った。河南尹の官属はこれを恥じ、孔融を暗殺したい。何進の賓客が言った。「孔融は、名声がある。孔融を重んじておけ」と。何進は孔融を辟し、高第にあげ、侍御史とする。中丞の趙舍とうまくゆかず、孔融は退職して、帰宅した。

曹操と衝突する前から、士大夫の「義務教育」を経ている。つまり、宦官と対立してる。さらに、同僚とうまくいかないとか、いかにも孔融らしい。『三国志』だけでは、気づかない。


後辟司空掾,拜中軍候。在職三日,遷虎賁中郎將。會董卓廢立,融每因對答,輒有匡正之言。以忤卓旨,轉為議郎。時黃巾寇數州,而北海最為賊沖,卓乃諷三府同舉融為北海相。

のちに司空掾に辟される。中軍候となる。

『後漢書集解』は、中軍候でなく、軍中候とする。北軍中候、軍中候。これは、霊帝と何進が軍隊を整備して、洛陽で閲兵をやったときの話か。時期を書いてない。つぎに、すぐ董卓が出てくるから、そうなんだろう。

在職3日で、虎賁中郎將にうつる。たまたま董卓が廃立した。孔融は正論を言い、董卓にさからう。議郎となる。北海の黄巾がひどいので、董卓は孔融を北海相とした。

弱そうな孔融が、北海で黄巾に負けていたのは、罰ゲームだった。それなら、適材適所でない理由が、よくわかる。太史慈や劉備など、どうでもいい人たちを頼るわけだ。


北海を6年治め、許都の議論をリード

融到郡,收合士民,起兵講武,馳檄飛翰,引謀州郡。賊張饒等群輩二十萬眾從冀州還,融逆擊,為饒所敗,乃收散兵保朱虛縣。稍複鳩集吏民為黃巾所誤者男女四萬餘人,更置城邑,立學校,表顯儒術,薦舉賢良鄭玄、彭DA78、邴原等。郡人甄子然、臨孝存知名早卒,融恨不及之,乃命配食縣社。其餘雖一介之善,莫不加禮焉。郡人無後及四方遊士有死亡者,皆為棺具而斂葬之。時,黃巾複來侵暴,融乃出屯都昌,為賊管亥所圍。融逼急,乃遣東萊太史慈求救于平原相劉備。備驚曰:「孔北海乃複知天下有劉備邪?」即遣兵三千救之,賊乃散走。

孔融は、東海にきた。賊の張饒らが、20万で冀州からもどる。孔融は、やぶれた。4万人をあつめ、城邑をつくる。学校をつくり、賢良の鄭玄、彭璆、邴原らをあげた。子孫がない人、避難してきて死んだ人を祭った。賊の管亥に囲まれた。東莱の太史慈が、平原相の劉備をつれてきた。黄巾をおいはらう。

ちゃんと、城邑を成立させてるのね。罰ゲームなのに。


時,袁、曹方盛,而融無所協附。左丞祖者,稱有意謀,勸融有所結納。融知紹、操終圖漢室,不欲與同,故怒而殺之。
融負有高氣,志在靖難,而才疏意廣,迄無成功。在郡六年,劉備表領青州刺史。建安元年,為袁譚所攻,自春至夏,戰士所余裁數百人,流矢雨集,戈矛內接。融隱幾讀書,談笑自若。城夜陷,乃奔東山,妻、子為譚所虜。

孔融は、曹操にも袁紹にもつかない。左丞祖は、どちらかとの同盟を進めた。だが孔融は、袁紹と曹操が、漢室をつぶそうとすると知った。ゆえに孔融は怒り、左丞祖を殺した。

わりに不穏当なことが、断定した調子で書いてあるなあ。

孔融は、東海に6年いた。劉備を青州刺史とした。建安元年(196)、袁譚に攻められた。春から夏、籠城戦。孔融は読書していた。陥落した。孔融は、東山ににげた。妻子は、袁譚に捕われた。

袁譚が青州を平定するのは、建安元年。わりにおそい。


及獻帝都許,征融為將作大匠,遷少府。每朝會訪對,融輒引正定議,公卿大夫綿隸名而已。

献帝が許県にきた。將作大匠、少府となる。孔融が議論をやり、公卿や大夫は、孔融のあとに署名するだけだ。

馬日磾は袁術と同罪だから、礼を加えず

初,太傅馬日磾奉使山東,及至淮南,數有意于袁術。術輕侮之。遂奪取其節,求去又不聽,因欲逼為軍帥。日磾深自恨,遂嘔血而斃。及喪還,朝廷議欲加禮。融乃獨議曰:

ときに大夫の馬日磾は、山東にゆき、淮南にゆく。しばしば袁術に色目をつかう。

「意あり」を、吉川注は「色目をつかう」とする。馬日磾が、袁術に色目をつかう。よく分からない。馬日磾の意思が、袁術とおなじところにあった。つまり賛同した、くらいの意味だと思う。

袁術は、馬日磾を軽侮した。袁術は、馬日磾の節をうばう。馬日磾は、淮南を去りたいが、袁術は去らせない。馬日磾にせまり、軍師とした。馬日磾はふかくうらみ、血を吐いてたおれた。
馬日磾の死体が、許都にきた。朝廷は、礼を加えたい。孔融は言った。

「日磾以上公之尊,秉髦節之使,銜命直指,甯輯東夏,而曲媚奸臣,為所牽率,章表署用,輒使首名,附下罔上,奸以事君。昔國佐當晉軍而不撓,宜僚臨白刃而正色。王室大臣,豈得以見脅為辭!又袁術僭逆,非一朝一夕,日磾隨從,周旋曆歲。《漢律》與罪人交關三日已上,皆應知情。《春秋》魯叔孫得臣卒,以不發揚襄仲之罪,貶不書日。鄭人討幽公之亂,斫子家之棺。聖上哀矜舊臣,未忍追案,不宜加禮。」朝廷從之。

「大夫は三公の上・太傅として、東夏をやわらげにいった。だが馬日磾は、奸臣・袁術にこびて、掣肘された。袁術は、ながらく僭逆するのに、馬日磾は袁術に随従した。淮南に、ながくいた。漢室の律法に、罪人と3日つきあえば、事情を知るとある。馬日磾に、礼を加えてはいけない」と。朝廷は、これを認めた。馬日磾に、礼を加えず。

馬日磾の意図が、分からない。孔融はたしかに、馬日磾が袁術に媚びたと言った。しかしこれは、孔融が自説をとおすために、解釈をアレンジしたのかも知れない。袁術にながく留まったのは、事実であろうが、馬日磾が媚びたかどうかは、分からない。上にあった「馬日磾が媚びたから、袁術が馬日磾を軽侮した」というのも、よく分からない話。


時論者多欲複肉刑。融乃建議曰 (中略) 朝廷善之,卒不改焉。是時,荊州牧劉表不供職貢,多行僭偽,遂乃郊祀天地,擬斥乘輿。詔書班下其事。融上疏曰 (後略)。五年,南陽王馮、東海王祗薨,帝傷其早歿,欲為修四時之祭,以訪於融。融對曰(後略)。

肉刑の議論があった。荊州牧の劉表が、天地を郊祀した。建安五年(200)、皇族が早死にした。献帝はこれを傷み、四時の祭をやりたい。それぞれ孔融は、意見をのべた。はぶく。

初,曹操攻屠鄴城,袁氏婦子多見侵略,而操子丕私納袁熙妻甄氏。融乃與操書,稱「武王伐紂,以妲己賜周公」。操不悟,後問出何經典。對曰:「以今度之,想當然耳。」後操討烏桓,又嘲之曰:「大將軍遠征,蕭條海外。昔肅慎不貢楛矢,丁零盜蘇武牛羊,可並案也。」
時,年饑兵興,操表制酒禁,融頻書爭之,多侮慢之辭。既見操雄詐漸著,數不能堪,故發辭偏宕,多致乖忤。又嘗奏宜准古王畿之制,千里寰內,不以封建諸侯。操疑其所論建漸廣,益憚之。然以融名重天下,外相容忍,而潛怨正議,慮鯁大業。山陽郗慮承望風旨,以微法奏免融官。因顯明仇怨,操故書激厲融曰 (後略)

曹丕が、袁煕の妻をめとる。曹操が烏桓を討つ。飢えたので、曹操が酒を禁じる。曹操が封建の制度をいじる。いちいち孔融が口をだす。以下、はぶく。

曹操の執政期は、べつの問題が多いので、今日はやりません。

孔融は、曹操に殺されましたとさ。

つぎ、荀彧伝だが、大きすぎるテーマ。日を改めます。おわり。110424