李膺の親友・符融、月旦評した許劭
吉川版で、符融と許劭伝やります。ただ抄訳して、読みなおしやすくした。
上表文のたぐいをはぶき、、関連する事件と人物にしぼった。どうぞ。
郭泰を李膺に紹介してあげた、符融伝
符融は、あざなを偉明という。陳留の浚儀の人だ。わかく都官(都官従事)の吏となる。恥として、退職する。のちに太學へゆき、少府の李膺に師事する。符融と会うとき、李膺はほかの賓客をのぞき、符融の話を聞いた。符融はよどまず、李膺は聞きほれた。郭泰が京師にきたが、みな郭泰を知らない。符融は、李膺に郭泰を仲介した。
ときに漢中の晉文經、梁國の黃子艾は、名を知られた。人に会わない。三公は、2人を辟すべきか、判断できない。符融は李膺に言った。「2人は、門を閉ざす。2人の虚名のせいで、洛陽が混乱する」と。李膺は、同意した。2人の名声は、衰えた。
妻亡,貧無殯斂,鄉人欲為具棺服,融不肯受。曰:「古之亡者,棄之中野。唯妻子可以行志,但即土埋藏而已。」融同郡田盛,字仲向,與郭林宗同好,亦名知人,優遊不仕,並以壽終。
州郡や三公府は、ていねいに符融を辟した。応じず。太守の馮岱は、名声がある。符融に会いたい。符融と1度、馮岱に会いにいく。同郡の范冉(列伝71)、韓卓、孔伷ら3人をすすめた。符融は、就職せず。党錮があり、禁錮された。
符融の妻が死んだ。まずしくて、棺がない。寄付もことわった。「古代、そのまま死体を土に埋めた」と。
符融と同郡の田盛は、あざなを仲向。郭泰と仲良し。仕えず、天寿を全うした。
3人の三公の家・袁紹をびびらせた許劭
初為郡功曹,太守徐DA78甚敬之。府中聞子將為吏,莫不改操飾行。同郡袁紹,公族豪俠,去濮陽令歸,車徒甚盛,將入郡界,乃謝遣賓客,曰:「吾輿服豈可使許子將見。」遂以單車歸家。
許劭は、あざなを子將という。汝南の平輿の人だ。わかくして、名節がたかい。人物評価が好き。若樊子昭、和陽士(和洽)は、許劭のおかげで、名を知られた。ゆえに人材を発掘できるのは、許郭(許劭と郭泰)だと言われた。
はじめ郡の功曹になる。徐璆(列伝38)は、許劭をひどく敬う。汝南の府中は、許劭のことを聞き、汝南の吏とした。同郡の袁紹は、公族で豪俠だ。袁紹は、濮陽の県令からもどるとき、賓客から離れた。「許劭に見られちゃう」と。袁紹は、単車に乗りかえた。
曹操微時,常卑辭厚禮,求為己目。劭鄙其人而不肯對,操乃伺隙脅劭,劭不得已,曰:「君清平之奸賊,亂世之英雄。」操大悅而去。
かつて許劭は、潁川(郡治は陽翟)にいく。陳寔だけを、たずねず。陳蕃の妻が死んだが、許劭だけ行かず。許劭は、理由を聞かれた。許劭は、答えた。「陳寔は、志は広大だが、周到でなく、実現できない。陳蕃は性格がキツく、融通がきかない。だから、付き合わないのだ」と。許劭の鑑定は、こんな感じだ。
曹操が無名のとき、許劭は会わない。曹操がおどしたので、許劭は言った。「清平の奸賊、亂世の英雄」と。曹操は、悅んで去った。
劭邑人李逵,壯直有高氣,劭初善之,而後為隙,又與從兄靖不睦,時議以此少之。初,劭與靖俱有高名,好共核論鄉黨人物,每月輒更其品題,故汝南俗有「月旦評」焉。
許劭の從祖(父のいとこ)は、許敬だ。許敬の子は、許訓だ。許訓の子は、許相だ。許敬、許訓、許相は、みな三公となる。許相は、宦官にへつらい、三公になった。許相は、しばしば許劭をまねく。
ぼくは思う。許相と、許クは、別人でいいのかも。やはり、わからん。
許劭は、許相をにくみ、就職せず。
許劭と同邑の李逵は、許劭と仲たがい。李逵は、従兄の許靖とも、仲がわるい。世論は、李逵との不仲を、許氏のマイナスとした。はじめ許劭と許靖は、月旦評をした。
ぼくは思う。袁紹が、許劭からの評価を恐れたのは、なぜか。許劭が、宦官ともつながる三公の家だからでは?もちろん、許劭の発言がもつ影響力を、気にしただろうが。
兄虔亦知名,汝南人稱平輿淵有二龍焉。
司空の楊彪が、許劭を辟した。方正、敦樸の科目にあがる。みな、就かず。許劭は言った。「いま、小人が道長し、王室は亂れそう。私は淮海ににげ、老幼を全うしたい」と。南へ、廣陵にゆく。
徐州刺史の陶謙は、許劭を厚遇した。許劭は言う。「陶謙は、内面は真正でない。陶謙の勢力は、かならず薄まる。陶謙を去ろう」と。揚州刺史の劉繇を、曲阿にたよる。のちに陶謙は、寓士(地域に身を寄せる人士)をとらえた。
孫策に攻められた。劉繇とともに、豫章ににげ、死んだ。46歳だった。
兄の許虔も、名を知られた。汝南の人は言った。「平輿には、2龍(許虔と許劭)がいる」と。
おわり。叩いても、あまり他の人物が出てこない列伝でした。分量も少ない。やっぱり、仕官していないと、限界がある。在野で、ウロウロしただけだ。郭泰、符融、許劭は、けっきょく何もしていない。彼らの影響力を、過剰に見積もってはいけない。郭泰たちが強調されるのは、范曄『後漢書』の編集方針にすぎないのだから。もし、南朝宋を研究対象とするなら、存分に、郭泰や許劭を強調すればいい。しかし、いやしくも後漢末を研究対象とするなら、郭泰や許劭は、無視してもいいだろう。
鄭泰伝、孔融伝につづく。