表紙 > ~後漢 > 『後漢書』郭泰、符融、許劭、鄭泰、孔融伝を抄訳、『三国志』を補う

李膺の親友・符融、月旦評した許劭

吉川版で、符融と許劭伝やります。ただ抄訳して、読みなおしやすくした。
上表文のたぐいをはぶき、、関連する事件と人物にしぼった。どうぞ。

訓読された文書を見て、口語に要約する。それほど意味のある活動ではない。では、なぜやっているか。「読んだ」という行為の痕跡を、ホームページに叩きつけているだけ。あとで読み直すとき、自分用のガイドとする。


郭泰を李膺に紹介してあげた、符融伝

符融字偉明,陳留浚儀人也。少為都官吏,恥之,委去。後遊太學,師事少府李膺。膺風性高簡,每見融,輒絕它賓客,聽其言論。融幅巾奮袖,談辭如雲,膺每捧手歎息。郭林宗始入京師,時人莫識,融一見嗟服,因以介於李膺,由是知名。

符融は、あざなを偉明という。陳留の浚儀の人だ。わかく都官(都官従事)の吏となる。恥として、退職する。のちに太學へゆき、少府の李膺に師事する。符融と会うとき、李膺はほかの賓客をのぞき、符融の話を聞いた。符融はよどまず、李膺は聞きほれた。郭泰が京師にきたが、みな郭泰を知らない。符融は、李膺に郭泰を仲介した

符融は、李膺と唯一無二のつきあいをしてる。郭泰よりも、名声が先にあった。郭泰よりも、符融のほうが、上である。あまり知名度がないけど。


時漢中晉文經、梁國黃子艾,並恃其才智,炫曜上京,臥托養疾,無所通接。洛中士大夫好事者,承其聲名,坐門問疾,猶不得見。三公所辟召者,輒以詢訪之,隨所臧否,以為與奪。融察其非真,乃到太學,並見李膺曰:「二子行業無聞,以豪桀自置,遂使公卿問疾,王臣坐門。融恐其小道破義,空譽違實,特宜察焉。」膺然之。二人自是名論漸衰,賓徒稍省,旬日之間,慚歎逃去。後果為輕薄子,並以罪廢棄。

ときに漢中の晉文經、梁國の黃子艾は、名を知られた。人に会わない。三公は、2人を辟すべきか、判断できない。符融は李膺に言った。「2人は、門を閉ざす。2人の虚名のせいで、洛陽が混乱する」と。李膺は、同意した。2人の名声は、衰えた。

だれにも会わず、名声を検証させない。2人のやり口がキタナイ。『後漢書』は、そういうタッチで書いている。でも、ぼくは思う。李膺や符融が、自分たちによる人物評価をスタンダードにするため、自分たちに敵対する人を、排除したように見える。


融益以知名。州郡禮請,舉孝廉,公府連辟,皆不應。太守馮岱有名稱,到官,請融相見。融一往,薦達郡士范冉、韓卓、孔亻由等三人,因辭病自絕。會有黨事,亦遭禁錮。
妻亡,貧無殯斂,鄉人欲為具棺服,融不肯受。曰:「古之亡者,棄之中野。唯妻子可以行志,但即土埋藏而已。」融同郡田盛,字仲向,與郭林宗同好,亦名知人,優遊不仕,並以壽終。

州郡や三公府は、ていねいに符融を辟した。応じず。太守の馮岱は、名声がある。符融に会いたい。符融と1度、馮岱に会いにいく。同郡の范冉(列伝71)、韓卓、孔伷ら3人をすすめた。符融は、就職せず。党錮があり、禁錮された。

孔伷は、董卓に敵対した豫州刺史!

符融の妻が死んだ。まずしくて、棺がない。寄付もことわった。「古代、そのまま死体を土に埋めた」と。

融同郡田盛,字仲向,與郭林宗同好,亦名知人,優遊不仕,並以壽終。

符融と同郡の田盛は、あざなを仲向。郭泰と仲良し。仕えず、天寿を全うした。

3人の三公の家・袁紹をびびらせた許劭

許劭字子將,汝南平輿人也。少峻名節,好人倫,多所賞識。若樊子昭、和陽士者,並顯名於世。故天下言拔士者,咸稱許、郭。
初為郡功曹,太守徐DA78甚敬之。府中聞子將為吏,莫不改操飾行。同郡袁紹,公族豪俠,去濮陽令歸,車徒甚盛,將入郡界,乃謝遣賓客,曰:「吾輿服豈可使許子將見。」遂以單車歸家。

許劭は、あざなを子將という。汝南の平輿の人だ。わかくして、名節がたかい。人物評価が好き。若樊子昭、和陽士(和洽)は、許劭のおかげで、名を知られた。ゆえに人材を発掘できるのは、許郭(許劭と郭泰)だと言われた。
はじめ郡の功曹になる。徐璆(列伝38)は、許劭をひどく敬う。汝南の府中は、許劭のことを聞き、汝南の吏とした。同郡の袁紹は、公族で豪俠だ。袁紹は、濮陽の県令からもどるとき、賓客から離れた。「許劭に見られちゃう」と。袁紹は、単車に乗りかえた。

劭嘗到潁川,多長者之游,唯不候陳寔。又陳蕃喪妻還葬,鄉人畢至,而邵獨不往。或問其故,劭曰:「太丘道廣,廣則難周;仲舉性峻,峻則少通。故不造也。」其多所裁量若此。
曹操微時,常卑辭厚禮,求為己目。劭鄙其人而不肯對,操乃伺隙脅劭,劭不得已,曰:「君清平之奸賊,亂世之英雄。」操大悅而去。

かつて許劭は、潁川(郡治は陽翟)にいく。陳寔だけを、たずねず。陳蕃の妻が死んだが、許劭だけ行かず。許劭は、理由を聞かれた。許劭は、答えた。「陳寔は、志は広大だが、周到でなく、実現できない。陳蕃は性格がキツく、融通がきかない。だから、付き合わないのだ」と。許劭の鑑定は、こんな感じだ。

いずれも、正解。しかし、陳寔の理想も、陳蕃のガンコも、美点ともなりえる。ぼくは前職で上司に、「短所とは、長所がつよく前面に出すぎること」だと言われた。忘れられない名言。

曹操が無名のとき、許劭は会わない。曹操がおどしたので、許劭は言った。「清平の奸賊、亂世の英雄」と。曹操は、悅んで去った。

劭從祖敬,敬子訓,訓子相,並為三公,相以能諂事宦官,故自致台司封侯,數遣請劭。劭惡其薄行,終不候之。
劭邑人李逵,壯直有高氣,劭初善之,而後為隙,又與從兄靖不睦,時議以此少之。初,劭與靖俱有高名,好共核論鄉黨人物,每月輒更其品題,故汝南俗有「月旦評」焉。

許劭の從祖(父のいとこ)は、許敬だ。許敬の子は、許訓だ。許訓の子は、許相だ。許敬、許訓、許相は、みな三公となる。許相は、宦官にへつらい、三公になった。許相は、しばしば許劭をまねく。

恵棟『後漢書補注』はいう。『三国志』和洽伝にひく『汝南先賢伝』は、許相でなく、許クとする。許クは、あざなを季闕。桓帝のとき、司徒となる。許クは、河南の人(これは潁川の誤り)。許クは、許劭と仲がわるい。『後漢書』何進伝はいう。袁紹は、少府の許相を殺した。この許相は、三公になったことはない。明らかでない。
ぼくは思う。許相と、許クは、別人でいいのかも。やはり、わからん。

許劭は、許相をにくみ、就職せず。
許劭と同邑の李逵は、許劭と仲たがい。李逵は、従兄の許靖とも、仲がわるい。世論は、李逵との不仲を、許氏のマイナスとした。はじめ許劭と許靖は、月旦評をした。

きわめて、せまい地域での、人物評価だ。あまり、影響はない。
ぼくは思う。袁紹が、許劭からの評価を恐れたのは、なぜか。許劭が、宦官ともつながる三公の家だからでは?もちろん、許劭の発言がもつ影響力を、気にしただろうが。


司空楊彪辟,舉方正、敦樸,征,皆不就。或勸劭仕,對曰:「方今小人道長,王室將亂,吾欲避地淮海,以全老幼。」乃南到廣陵。徐州刺史陶謙禮之甚厚。劭不自安,告其徒曰:「陶恭祖外慕聲名,內非真正。待吾雖厚,其勢必薄。不如去之。」遂複投揚州刺史劉繇于曲阿。其後陶謙果捕諸寓士。乃孫策平吳,劭與繇南奔豫章而卒。時年四十六。
兄虔亦知名,汝南人稱平輿淵有二龍焉。

司空の楊彪が、許劭を辟した。方正、敦樸の科目にあがる。みな、就かず。許劭は言った。「いま、小人が道長し、王室は亂れそう。私は淮海ににげ、老幼を全うしたい」と。南へ、廣陵にゆく。

ここにあるセリフが、許劭から後漢への、離縁メッセージです。郭泰の言葉と比較して、味わってみたい。そして、広陵は、すでに避難先であることに注意。広陵から、さらに南方に逃げて、孫呉に行った人たちもいるのに。

徐州刺史の陶謙は、許劭を厚遇した。許劭は言う。「陶謙は、内面は真正でない。陶謙の勢力は、かならず薄まる。陶謙を去ろう」と。揚州刺史の劉繇を、曲阿にたよる。のちに陶謙は、寓士(地域に身を寄せる人士)をとらえた。

陶謙は、真心がない。許劭の言うとおりになったのだ。しかし、劉繇に身を寄せるとは、センスがないなあ。孫策の台頭までは、想定外だったようです。そりゃ、そうだよな。

孫策に攻められた。劉繇とともに、豫章ににげ、死んだ。46歳だった。
兄の許虔も、名を知られた。汝南の人は言った。「平輿には、2龍(許虔と許劭)がいる」と。

おわり。叩いても、あまり他の人物が出てこない列伝でした。分量も少ない。やっぱり、仕官していないと、限界がある。在野で、ウロウロしただけだ。郭泰、符融、許劭は、けっきょく何もしていない。彼らの影響力を、過剰に見積もってはいけない。郭泰たちが強調されるのは、范曄『後漢書』の編集方針にすぎないのだから。もし、南朝宋を研究対象とするなら、存分に、郭泰や許劭を強調すればいい。しかし、いやしくも後漢末を研究対象とするなら、郭泰や許劭は、無視してもいいだろう。
鄭泰伝、孔融伝につづく。