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『「三国志」軍師34選』を読む 2)郭泰と許劭
郭泰
◆豪族を支配に取り込むシステム
前漢は、武帝のころから成長を始めた豪族に適切な対応を取れず、滅びた。
光武帝は、豪族の出身。豪族の力を知っていたので、後漢は豪族を弾圧しなかった。豪族は、郷里社会の支配を確立した。
光武帝は弾圧をしない代わりに、豪族に儒教を学ばせ、支配の一翼を担わせようとした。「仁(思いやり)」を尊ぶ儒教は、貧民から土地を取り上げ、大土地所有を良しとしない。土地を集めるより、キャリア官僚になった方が良いと、豪族を誘導したのだ。
郷挙里選は、郡国から毎年1人ずつ、儒教を基準に官僚候補生を推薦させる制度。貧しい人を助けて、重税を代わりに納めれば「仁」や「清(財物に執着しない)」と評価される。豪族は、ポケットマネーで税を負担しつつ、後漢のキャリア官僚として取り込まれた。
光武帝が作ったこのシステムは、支配を安定させた。

のちに宦官は、郷挙里選で、身内が推薦されるように、太守や国相に圧力をかけた。宦官のこの動きは、光武帝が作ったシステムを壊し、後漢は豪族の協力を取り込めなくなる。儒教官僚は、宦官を批判したが、党錮の禁で締め出された。
党錮の禁で、後漢は豪族の支持を失い、実質的に滅亡した。

◆新しい価値基準
李膺は宦官へ抵抗するさまが慕われた。時間に限りがあるから、面会のハードルを上げた。李膺に会い、評価されたら、名声が得られた。李膺は「登竜門」とされた。
李膺が年齢差を越えて、友と認めたのが、郭泰。

李膺や郭泰による人物評価が、全国に轟いた理由は2つ。
まず、郷挙里選に代わる新しい価値基準が求められたから。郷挙里選は「仁」や「清」ではなく、今や宦官との親しさしか示さない。
次に、後漢の官僚の地位の高さに代わる、価値基準に対抗したから。官僚の地位は、宦官への賄賂の多寡で決まってしまう。

党人たちは「三君」「八俊」のランキングを作ったが、はじめは竇武(外戚)と劉淑(宗室)を持ち上げた。後漢の国家権威を、なお尊重した。だが党錮の禁で、尊重は崩れた。
後漢の官僚に留まるより、李膺に連座する方が「義だ」と評価された。名声に拠りどころを求める人を、名士と呼ぶ。新しい時代の知識人だ。
名士を成立させたのが、「人を育てる人物評価」をした、郭泰である。

◆名士を認定する旅行
郭泰は、党錮の禁を免れた。李膺との親しさを述べて罰を受け、名声を得ることは可能だった。だがそれより、知識人を養成する道を選んだ。
後漢への仕官を勧められると、
「天が滅ぼそうとするものを、私は支えられない」
と断った。李膺が後漢に殺されると、荒野で慟哭した。
「優れた人は、絶え果てた。国は滅ぶだろう」

郭泰は全国を回り、人物評価をして歩いた。郭泰に見てもらいたい豪族は、経済的に援助した。郭泰に面会を求める人の名刺が、山積みになった。
郭泰は、低い社会階層の人でも、名声を与えて名士だと認定した。頴川の門番・庾乗は洛陽留学をさせてもらい、下座で議論に加わった。庾氏は、晋代に貴族に成長した。
社会に流動性を生み出し、大土地所有する豪族も学問に励むようになった。経済力だけでなく、文化を身に付けた名士層が、形成された。
文化には、兵法も含む。

◆感想
光武帝が作った、儒教を使って豪族を取り込む仕組みは、なるほどと思いました。定説なのかな。李膺と郭泰が作った人物評価という秩序が、光武帝による豪族対処法の代替案だと思えば、高い視点が得られ、展望が開けます。
郭泰が、使命感を持って名士を認定して回ったと言えるのか、ちゃんと『後漢書』を読んで確かめたい。話が綺麗すぎるので。
許劭
汝南出身。郭泰の死後は、人物評価家の代表。
郭泰が形成した名士の人物評価は、豪族の支持を得た。豪族は、名士の仲間入りを望んだ。名声は、全国規模で影響した。
袁紹は帰郷するとき、許劭に批判されるのを恐れ、行列を質素にした。

曹操の父・曹嵩は大尉を1億銭で買ったが、金では名士社会に入れない。曹操は橋玄の紹介で許劭に会ってもらい、いやいや「姦雄」だと、低い評価をされた。
だが評価を得たには変わりなく、汝南の何顒グループの一員になれたから、喜んだ。覇業のスタートラインに立てた。

陳羣の祖父は、陳寔。
「後漢の刑罰を受けたとしても、陳君に謗られたくない」
と郷里の人は戒めあうほど、名士は社会的な権威を持った。

◆名士の弱点は分裂姓
許劭が頴川郡に行ったとき、陳寔に会わなかった。許劭は名門で、貧しい県長に過ぎない陳寔を認めなかったからだ。
許劭は、父の従兄から3代続けて、三公だった。許劭は、宦官にへつらって三公になった親族を嫌った。曹操を卑しんだ背景には、こういう事情がある。ともあれ許劭には、名門の誇りがあった。
人物評価は、数値化できない。主観でしかない。貧しい郭泰は人を育てる評価をしたが、名門を自認する許劭は、恣意的な評価で、人を嫌ってマイナスの評価もした。

陳蕃の妻の葬儀に、許劭は参加しなかった。陳蕃が怒ると、
「あなた(陳蕃)は、性格が険しく、融通が利かない。だから、長幼の序に逆らうことは分かっているが、私は葬儀に行かなかった」
と許劭は答えた。
党人のリーダーである陳蕃に近づくことは、危険だ。だから許劭は、保身のために陳蕃を避けた。名士は互いに協力的だとは限らない。

◆名士が群雄に求めるもの
名士の名声は、主観的で分裂しやすいから、不安定だった。地位を安定させたいが、後漢の官僚になると名声を落とす。
名士は、自分の理想を実現できる国家を作り、官僚になり、そこで地位を安定したいと考えた。黄巾の乱が起き、群雄割拠が始まると、政権を樹立すべく、軍師として主体的に参加していった。

頴川は李膺、汝南は陳蕃が代表だった。
曹操は、許劭から評価を受けたから、汝南が名声の拠点だ。だが汝南の名士は、同郡出身の袁紹に仕えてしまったため、曹操は人材不足になった。のちに荀彧が加わり、頴川の名士を連れてきてくれた。

◆感想
名士の分裂性は、早くも許劭の段階で出ていたとは・・・
許劭も許靖も、付き合いづらい偏屈な人物だ。許劭が和を乱していたからと言って、そのまま名士の弱点だと認定するのは、この時点では危険でしょう。結論は合っていると思うが。
やがて両晋の、泥で泥を洗うような政争に到るのでしょう。

後漢の権威に代わるものとして、名声という尺度が出てきた。少なくとも郭泰のときは、そういうストーリーだった。だが許劭は、後漢の権威に裏付けられて、偉そうだ。この矛盾は何だろう。
「月旦評」という企画の面白さが、許劭が影響力を持った理由。だが評価の中身は、李膺や郭泰がやったように、文化的な価値を重視したものではなく、むしろ当世的だった。こういう理解でいいのか?

名士の分裂性は、日本の文系の学者にも、当てはまると思います。
研究をするときは、理系のようにチームを組まず(組む必要がなく)1人でやる。研究成果とは、すなわち他人の学説の否定。
客観的に正しさを示す指標がないから、人物や研究を評価するとき、恣意的になりがち。同じ穴に住んでいるのに、分裂性を秘めている・・・
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このコンテンツの目次
『「三国志」軍師34選』を読む
1)軍師とは何か
2)郭泰と許劭
3)盧植、蔡邕、田豊
4)程昱、許攸、郭嘉、孔融
5)荀彧、呉質、陳羣
6)何晏、鄧艾、鍾会
7)司馬懿、王粛
8)阮籍、嵇康、杜預