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『「三国志」軍師34選』を読む
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3)盧植、蔡邕、田豊
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盧植
◆入りては相、出ては将
盧植は、鄭玄と並ぶ代表的な儒者。『礼記解話』を著した、訓詁学をやった人。
盧植が研究した「礼」とは、西欧の自然法、世の中の基本原理、法律の根本。国家の経営方法を考えることに繋がる。
黄巾のとき、北中郎将として、張角を追い詰めた。皇甫嵩が、
「盧植は将軍を途中でクビになった。だが私が張角に勝てたのは、盧植の計略を引き継いだからだ」
と言ってくれたから、尚書に返り咲いた。
盧植は、董卓の皇帝廃立に反対した。殺されかけたが、蔡邕が命乞いしてくれた。盧植は故郷に引っ込む途中、追手を予測して道を変えた。
盧植が公孫瓉と劉備に教えたのは、孔子が子路に教えたのと同じ構図だ。子路は腕っ節が強く、孔子を守りたいと思っていた。だが孔子は、子路をたしなめた。
「暴虎馮河の命知らずを、私は用いないよ。大軍を指揮できるのは、驕らず、よく考える人物なのだ」
盧植も同じ思いで、公孫瓉と劉備には、分別を学んでほしかった。盧植は、自分が大軍を率いるときの部将を、教育・育成したのだ。
◆儒将の時代
三国時代は、武官・文官の区別がなく、流動的だ。宰相も将軍も、どちらも務まる逸材が尊重された。
盧植だけでなく、橋玄も儒将。
『礼記』を解釈する「橋君学」を継承し、度遼将軍として鮮卑・南匈奴・高句麗を討ち、司徒・司空を務めた。
曹操の目標は、橋玄だった。
戦争は政治の延長。戦争は、局地戦よりも長期戦で勝敗が決まる。国家経営と軍隊指揮は、分けられないのが、三国時代だ。
◆感想
「盧植が、自分の部将を育てていた」とは、初めて聞くことなので、とても驚きでした。 『三国志』の「先主伝」なんかだと、劉備は学問は好きではなく、遊びまくって青年時代を費やしたようで。公孫瓉も、勝手に振る舞って滅びた。
盧植は、宰相としても将軍としても優れたようだが、教育者としては落第したということが、いま判明しました(笑)
蔡邕
陳留郡出身。『後漢書』の前身である『東観漢記』の編纂に携わり、熹平石経を太学に立てた。
◆董卓の「軍師」
董卓は、名士の名誉を回復した。何顒や荀爽を高位につけ、董卓の部下は将校に留めた。
「本来の無道な行いを抑え、残忍な性格を隠し、名士を登用した」
と『後漢書』にあるのを、渡邉氏も支持する。
董卓は、「尚父」という称号や、天子専用の青い傘の使用を、蔡邕に諌められて辞めた。董卓は「軍師」として、蔡邕を尊重した。
◆後漢の再編成
蔡邕は董卓に召し出される前、流刑に処せられていた。 「十意」を著し、後漢の礼儀・祭祀・暦法・官職・地理・車服を書きとめていた。
これは、蔡邕が師と仰いだ胡広の『漢制度』を引き継ぎ、『独断』を著した活動につながる。尚書に保管された文書をもとに、有職故実を後世に伝えようとした。
蔡邕は董卓に仕え、記録に基づき、漢を再建しようとしていた。
◆操れなかった「董卓の恐怖心」
袁紹が絶縁した。董卓は、名士を味方につけ、政治を安定させることに失敗した。反董卓連合が結成されると、恐怖におののき、長安に逃げた。郿塢の30年分の食料は、董卓の虚勢と恐怖を示す。
董卓が殺され、哀悼の声を上げたのは、蔡邕だけ。王允に見咎められ、蔡邕は「軍師」の地位から降ろされた。最高の儒者である鄭玄は、つぶやいた。
「漢の世のことは、誰とともに正せばいいのだ」
◆感想
最後の節のタイトルは、本のまま引用しましたが、謎めかされているから、推測が必要。本文に答えが書いてない。
意味は・・・
蔡邕は、「董卓の軍師」として、長年の目標=漢の制度の回復をしたかった。だが、董卓は恐怖心に捕われて、「蔡邕の君主」としての役割を果たせなくなった。蔡邕が目標を果たすためには、董卓の恐怖心を緩和してやるべきだったが、そこまでは出来なかった。
ですね。
蔡邕が泣いたのは、自らの目標と後漢のためだったとは。そういう解釈も、「董卓の軍師」という、まるでありそうもない言葉の組み合わせを持ち込むことで、成立してしまうから凄い。
『後漢書』の注として、よく『東観漢記』が引かれるが、蔡邕が編纂したとは知らなかった。
田豊
鉅鹿郡出身。
袁紹は、もっとも熱心に名士を集めた群雄だ。だから袁紹が離れた途端、名士が一斉に董卓を裏切った。
その袁紹の下で、抜きん出て「軍師」となり、公孫瓉を滅ぼしす計略を提供した田豊は、才能が高い。
◆名士を尊重しない公孫瓉
戦いに勝つためには、ときに悪逆な手段も必要。だが、いちいち名士に批判されるのは、面倒だ。君主権力の確立に、邪魔となる。
公孫瓉は「名士を尊重しない」を選択した群雄。
もとは盧植の門下で、儒将の流れを汲んだ。だが劉虞を殺してから、名士と決裂した。
「名士を優遇しても、名声や能力のおかげで高位に就いたと思う。君主たるオレの好意に感謝しない」
これが公孫瓉の言い分。
公孫瓉は、占い師や商人と、義兄弟の契りを結んだ。名士に頼らない権力基盤を得ようとした。前半の劉備集団に似ている。
結果、公孫瓉が易京で孤立したとき、誰も救出に来なかった。
◆名士を活かせない袁紹
袁紹は、官渡で曹操に敗れた。なぜか。荀彧の分析に従うなら、
「適材適所をやらず、決断力に欠け、法術主義をとらず、評判を気にしたから」
となる。裏返せば、
「名士の言いなりに人材を配置し、名士の意見を広く聞き、法家でなく儒家に従い、名声を尊重した」
となる。
群雄が一方的に名士に従うと、君主権力を確立できない。だから、袁紹が曹操に負けることを田豊が予言しても、打ち手がなかった。官渡に負けた後、いくらか名士を抑圧しなければ、再戦の体制が整えられない。袁紹には、それは出来なかった。
◆前半で退場した群雄の特徴
公孫瓉のように名士を抑圧すると、政権を保持できない。
袁紹のように名士を尊重すると、地域の支配は安定するが、君主権力が弱いから、軍事的に敗退する。
三国政権を樹立できたのは、名士層と自分の権力をせめぎ合った、曹操・劉備・孫権だけだった。
◆感想
袁紹が負けた理由を説明して見せてくれたのが、すごかった。
田豊の抜擢と不遇は、袁紹が「とことん名士を尊重」と基本方針を定めたとき、すでに決まってしまった。袁紹の参謀会議での混乱を、名士たちの個人的感情や出身地派閥で捉えるだけでなく、公孫瓉との対比で捉えてある。
ただただ、すごいなあ、、と思いました。
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このコンテンツの目次
『「三国志」軍師34選』を読む
1)軍師とは何か
2)郭泰と許劭
3)盧植、蔡邕、田豊
4)程昱、許攸、郭嘉、孔融
5)荀彧、呉質、陳羣
6)何晏、鄧艾、鍾会
7)司馬懿、王粛
8)阮籍、嵇康、杜預
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