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『「三国志」軍師34選』を読む
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4)程昱、許攸、郭嘉、孔融
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程昱
兗州東郡東阿県の人。
県丞が黄巾の呼応したから、民衆は恐慌した。程昱は、
「愚民と、事をはかることはできない」
と言い、豪族の薛房と協力して、黄巾を撃退した。名士の郷里社会への影響力が、豪族の支持によって発揮されたという例だ。
◆郷里社会への影響力
曹操は徐州で虐殺をした。
曹操が兗州を拠点にできたのは、名士の鮑信と陳宮のおかげだ。曹操もまた、名士に依存して地域支配をする群雄だった。 陳宮は虐殺を嫌って、曹操を見限った。曹操は、兗州を保てない。
曹操の領土は、3県だけになった。荀彧は、
「程昱は、東阿県の民の望だ」
と称した。程昱は、郷里の豪族を説得し、曹操に味方させる役割を負った。程昱は、兗州従事の薛悌とともに、3城を全うした。黄巾のとき味方したもの、同じ薛氏。
荀彧が言った「民の望」とは、豪族の支持を得ているという意味だ。
程昱は『演義』で手練手管を尽くす人だが、正史では兗州の支配を安定させる役割の人だ。他にも程昱は官渡のとき、鄄城を少数で守り、増援を必要としなかった。
曹操が中原を平定し、兗州がほかの群雄から狙われなくなると、程昱は引退した。
孔融や荀彧は、君主権を強化する曹操に殺されたが、程昱は巧みなタイミングで引退した。三公に任命された矢先、80歳で死んだ。
◆感想
名声の範囲において、程昱は「県レベル」の人だ。
曹操が始めて根拠地を持ったころには、抜き差しならない貴重な存在だが、だんだん影が薄くなった。名声の範囲で、「軍師」を分類したら、面白いかも。
「荀彧と程昱のどちらが上か?」という議論は、好き嫌いが混じって決着がつきにくい。だが、「荀彧は少なくとも郡、程昱はせいぜい県」と言えば、これ以上争わなくていい。
もし程昱の方が頭脳が上だったとしても、程昱は荀彧と張り合えない。
許攸
南陽郡出身、何顒グループ。
◆情報戦の勝利
淳于瓊は1万を率いて、輸送隊を迎えにいった。
許攸が曹操に帰順して、リークした。荀攸と賈詡が勧めたので、曹操は精鋭を率いて烏巣を攻撃した。勝った。
しかし袁紹の本陣には、曹操の内情を伝える手紙が多くあった。
袁紹と曹操はもともと同じ何顒グループに属した。
許攸は袁紹を諌めて、曹操と戦うなと言った。許攸は、袁紹・曹操の臣下の間で、情報が漏れあっているのを知っていた。
弟が袁紹に仕える荀彧、かつて袁紹に仕えた郭嘉は、袁紹と戦えと言った。一方、袁紹と接点の薄い孔融は、袁紹の勢力が大きいから、戦うなと言った。
荀彧と郭嘉の情報は的を射ており、孔融は外れた。
名士の交友関係がもたらす情報・分析は、メディアを持たない群雄に重んじられた。
◆感想
曹操と袁紹の人脈は重複が多い。
渡邉氏は「何顒グループ」という、字面が不思議な言葉を連発しているんですが、言わんとしていることは解る。
『三国演義』をはじめ物語では、許攸が烏巣の情報を漏らしたことが、藪から棒に描かれる。しかし、情報漏洩が日常的に起きていないと、曹操は許攸を信じられなかろう。
「幼馴染だから、信じた」
だけでは、弱すぎる。そうだったのか!
官渡前夜からの駆け引きは、ぼくたちが思うよりも、ずっとオープンだったのかも知れない。袁紹も曹操も、その他名士の皆さんも、みんな大人だから知らん振りしていたが。
郭嘉
頴川郡出身。袁紹に仕えたが、荀彧の推挙で曹操に移った。
曹操は猜疑心が強いから、程昱は早々と引退したし、賈詡は旧臣でないのに機密を預かっているから、個人的な交際を全くしなかった。許攸、孔融、荀彧は殺された。 だが郭嘉は、曹操とせめぎあわなかった。
◆策略を誤らない軍師
「袁紹が公孫瓉と争う内に、呂布を滅ぼしましょう」
「孫策は暗殺されるでしょう」
「袁紹と戦って下さい。勝てますよ」
「劉表を攻めるふりをすれば、袁譚と袁尚は争うでしょう」
「劉表は劉備を統御できないので、烏桓討伐をしても平気です」
「烏桓を攻めるには、輜重を持たず、2倍速で進軍を」
いずれもヒットした。
38歳で、郭嘉は死んだ。曹操は惜しんだ。
「軍師の諸君は、みな私と同年輩だ。ただ郭嘉だけが、若かった。天下の事がすめば、後事を彼に託そうと思っていたのだが・・・」
赤壁では領土を失わず、打撃は小さかったが、天下統一が頓挫したのは確かだった。
曹操は、郭嘉の死を悼んだ。
「郭嘉の策略があれば、赤壁であんな目に遭わなかった。哀しいかな奉孝、痛ましいかな奉孝、惜しいかな奉孝・・・」
◆感想
「三国に生き残れる群雄は、名士とせめぎ合わねばならん」
という渡邉氏が自ら引いたレールに、必ずしも乗らない例外の軍師がいたことを、示したかったのでしょう。
魏公や魏王就任のようなストレスフルな局面で、郭嘉がどう立ち回るか、見てみたい。そういうファンにあるまじき興味から、ぼくは郭嘉の早い死を悔しく思う(笑)
孔融
魯国出身、孔子20世孫。10歳で李膺に認められた。
何進は、侮辱されながらも、孔融を配下に招いた。
孔融は、董卓の皇帝廃立に抵抗したが、殺されずに北海国相になった。
北海国で、孔融は儒将として、黄巾の残党と戦った。
黄巾に勝てないから、学校を建て、邴原や鄭玄を推挙した。だが、黄巾には対抗できない(当たり前)。
太史慈を派遣して、劉備に助けを求めた。
袁譚に敗れて、妻子を捕虜にされた。城内で白兵戦が起きても、脇息に寄りかかって、読書をしていた(当事者意識ゼロ)。
献帝に召されて、許で少府(財政担当)となった。
曹操が肉刑を復活しようとすると、反対した。
◆漢の正統性を保証していた儒教
儒教ははじめ、哲学だった。
景帝のとき董仲舒が、国家の保護を受け、天人相関説で皇帝の支配を正統化するようになった。
儒教が宗教になったのは、王莽のとき。緯書を偽作し、孔子を「漢を支持する、予言をする神」に変えた。
孔融は皮肉屋で、国政にまで口を出すようになった。孔融が、漢の簒奪を妨げる恐れが出てきた。 曹操は、孔融の不孝・不忠を口実にして弾劾した。論点をすり替え、孔融と交友のある名士が動揺するのを回避したのだ。
◆感想
「孔融の交友関係」とある。渡邉氏もダジャレを言うらしい!
孔子の後裔であることがキャラづけとして印象が強いが、渡邉氏はあくまで李膺に褒められたことが、孔融の名士としての地位を保障したことを強調している。
名士は全員が儒教徒だが、孔融は名士の盟主に祭り上げられていない。なぜだか解らない。孔子の子孫は、他に大勢いたのか。いや、いただろうが、『三国志』では目立たないぞ。渡邉氏の言うとおり、血筋より名声により、存在感が決まったのか・・・?
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このコンテンツの目次
『「三国志」軍師34選』を読む
1)軍師とは何か
2)郭泰と許劭
3)盧植、蔡邕、田豊
4)程昱、許攸、郭嘉、孔融
5)荀彧、呉質、陳羣
6)何晏、鄧艾、鍾会
7)司馬懿、王粛
8)阮籍、嵇康、杜預
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