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『「三国志」軍師34選』を読む
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5)荀彧、呉質、陳羣
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荀彧
頴川郡出身。荀彧が曹操のために描いたグランドデザインは、献帝を擁立することだ。
◆王佐の才の自律性
荀彧が名士を政権に参入させると、荀彧の派閥が増える。出身地が他でも、荀彧が推挙したなら「頴川グループ」と呼ぼう。
頴川グループは、曹操の下で初めて形成されたのではない。党人の流れを汲む。人物評価をしあう、自律した政治集団。荀淑(荀彧の祖父)、鍾皓(鍾繇の曽祖父)、陳寔(陳羣の祖父)たち。
頴川グループの根底には、儒教が存在し、儒教は漢を正統化するための宗教。曹操の障害となるのは、必至だった。
◆荀彧は漢の忠臣か否か
曹操が魏公に推薦されると、荀彧は儒教を拠りどころに非難した。だが荀彧は、漢の忠臣とは言い切れない。なぜなら、曹操の勢力強大化に努めたから。諸葛亮とは、違う。
荀彧は、曹操を劉邦に例え、献帝を義帝に例えた。義帝は、項羽に殺された、仮置きの皇帝だった。
ではなぜ荀彧は死んだか。
目指す国家像が違ったから。荀彧は、名士が主役たる「儒教国家」を再建したかった。曹操は、弛緩した後漢「儒教国家」を復興せず、君主権力を強化したかった。
◆君主権力の確立と建安文学
頴川グループにとって、荀彧の死は衝撃。個人的に欠陥の多かった孔融が死んだときと、インパクトがまるで違う。 だが名士は、武力では屈服しない。曹操は、文化的な価値において、名士を屈服させる必要があった。建安文学を創り、儒教を相対化した。
◆感想
渡邉氏は直言していないが、素直に読めば、
「荀彧は儒教国家を作りたかった。皇帝の姓は、劉氏だろうが、曹氏だろうが、どちらでも良い。むしろ皇帝の姓は曹氏になる方が、意見を通しやすい。劉協は不要になったら殺せばよい」
となる。
渡邉氏にかかると名士は、自己実現が優先した人たちだ。群雄に服従しないように、漢朝にも服従しない。党人の魂は生きている。
呉質
済陰郡の出身。文学の才能で台頭した、異色の「軍師」。
◆建安文学と曹魏の建国
曹操の文学は、魏を正統化するもの。
「酒に対えば、当に歌うべし」
という短歌行だって、最後は周公の故事を持ち出し、殷周革命を思い出させ、漢魏革命を連想させる仕組みだ。
曹操は、文学者の丁儀を丞相西曹掾(人事官)に就け、文学を基準とする人事を始めた。司馬懿も、慌てて文学を学んだ。
曹丕は『典論』で、創作理論を語った。
◆後継者争いと九品中正制度
曹丕は、曹植と太子を争った。
呉質は、行李(荷物入れ)にもぐって宮中に参内し、曹丕の相談を受けた。呉質のアドバイスの一例。
「曹植さまのように美辞麗句が浮かばないなら、曹操さまの出征のときは、ただ無言で涙を流し、見送りなさい」
曹植には文学で叶わない。曹丕は嫡子相続を正統とする、儒教を味方に付けるしかなかった。陳羣や崔琰が、曹丕を支持した。
曹操は、名士の協力を断ち切ってまで、曹植を後継者に指名できる状況ではなかった。曹操が後継問題に迷ったから、名士への借りができた。九品中正制度を承諾し、名士に借りを返した。
◆郷里に小便をかけてやる!
呉質は曹丕の四友に数えられ、振威将軍・仮節・都督河北諸軍にまでなった。呉質の娘は、司馬師に嫁いだ(のち離婚)。
だが曹丕が死ぬと、呉質は後ろ盾をなくした。孫呉は、呉質からの降伏書を偽造した。孫呉に漬け込まれるほど、隙があった。
呉質は、文学を基盤したが、名士に認定されなかった。主の曹丕すら、名士に助けられて、後継者の地位を得たのだ。
文学は、儒学に代わる価値として、定着しなかった。呉質は不遇を怒り、同郷の董昭に、上記の恨み言を言った。
◆感想
曹操は、文学で君主権力を強化しようとして、失敗した。呉質が、文学政策と運命を共にした人だとは知らなかった。
渡邉氏は、すでに文学の敗退を明言してしまった。驚いた!
陳羣
頴川郡の人。荀氏、鍾氏と並び、名士を代表する一族。
孔融から将来を嘱望され、荀彧の娘を娶った。
◆劉備との決裂
名士本流だが、最初に使えたのは、意外にも豫州牧の劉備。別駕従事に招かれた。 陶謙から徐州牧を譲られたとき、陳羣は反対した。
「劉備将軍が徐州牧となれば、袁術と衝突します。袁術は強い。同時に、背後を呂布に攻められたら、徐州を保てません」
劉備は陳羣に従わず、陳羣の言ったとおりに徐州を失った。
◆名士本流は、人事が得意
陳羣は、劉備を去った。 次の曹操は、名士の本流の使い方を心得ていた。仕官して間もないのに、司空西曹掾属(人事担当官)にした。人材収拾&配置に、名士は才能を発揮した。
名士の価値基準と、曹操の意向が、対立することがあった。王模と周逵のときは、曹操が間違って、詫びた。名士と君主のせめぎあいだ。
陳羣が喪で退職した。丞相東曹掾は、名士の崔琰。丞相西曹掾は、文学の丁儀。文学が名士を圧倒し、崔琰は殺された。
荀彧の娘婿として、名士の自律的秩序を守る責任が、陳羣にのしかかった。
◆九品中正制度と貴族制
陳羣は曹丕の後継を支持し、魏の建国を承認した。
曹丕が、陳羣に聞いた。
「私が魏帝となったとき、キミは表情が暗かったが」
「あ、いいえ。心では喜んでいたのですが、漢への義のため、オモテに出さなかっただけです」
陳羣は、漢のために死んだ、孔融と荀彧を悼んでいたはずだ。
魏を認めた代わり、陳羣は九品中正制を捻じ込んだ。
中正官は名士が就き、儒教の徳目で郷品が決められた。名士の自律的秩序のとおりに、魏の指導層を独占できる国家ができた。
荀彧の娘婿として、責任を果たした。
◆感想
曹操は2回負けた。まず呉蜀に割拠を許したこと。次に、人事制度を名士に乗っ取られたこと。
内憂外患とは、まさにこれだ。
「曹操は後継者問題で、ギリギリ失敗しなかった」
と思っていたが、名士との闘争という意味では、大失敗だったのか!曹植と迷ったせいで、曹丕が名士の力を借りたんだから。
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このコンテンツの目次
『「三国志」軍師34選』を読む
1)軍師とは何か
2)郭泰と許劭
3)盧植、蔡邕、田豊
4)程昱、許攸、郭嘉、孔融
5)荀彧、呉質、陳羣
6)何晏、鄧艾、鍾会
7)司馬懿、王粛
8)阮籍、嵇康、杜預
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