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『「三国志」軍師34選』を読む
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6)何晏、鄧艾、鍾会
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何晏
何晏は、何進の孫。曹操の第五夫人の連れ子。帰るべき郷里のない、自称「浮き草」だった。
◆司馬懿と曹爽政権
陳羣の死後、頴川グループの中心は司馬懿。
司馬懿は宗室の一員ではないのに、方面軍の司令官となり、諸葛亮と攻防した。軍事力を独占できなくなった曹氏。宗室の君主権力は、衰退を始めた。
明帝が死んだ。曹爽は、司馬懿を太傅に祭り上げて、名士勢力を削いだ。何晏と夏侯玄と重用して、君主権力を回復した。
◆舜の無為と玄学
曹爽や何晏は、新しい哲学体系を武器に、名士が掲げる儒教と戦おうとした。
『易』『老子』『荘子』を三玄と呼んだ。儒教との関わりの中で、老荘を復興させる思想を、玄学と言った。
さて漢魏革命は、尭舜の禅譲を手本として正統化した。祖先を呼応させるための系譜も作成された。
『論語』には、舜は「無為」により安定支配を行なったと書かれている。だから何晏は『論語集解』を著して、魏の君主権を強めようとした。
曰く、
「舜は何もしなくても(無為)、きちんと官僚を選んだから、政治はうまくいった。だから魏帝は、舜の成功を真似るため、人材登用の権利を握るべきだ。名士が決める郷品に縛られず、吏部尚書(魏帝の役所)が人事を担当すべきだ」
夏侯玄は、
「九品中正を改革せよ。郡中正は、人物評価をするだけ。人事権は、魏の尚書に一元化せよ」
という案を提出した。司馬懿は不気味に沈黙したまま。
◆州大中正の制
司馬懿は、名士のために別案を作った。郡中正の上に、州大中正を置き、頴川グループに独占させる。名士の子孫が、代々高位に就くことを可能にする。
司馬懿はクーデターを起こし、曹爽や何晏を葬った。何晏の玄学という文化が普遍化する前に、司馬懿に打倒された。司馬懿は旧来の儒教を墨守し、名士の支持を集めた。
州大中正は、五等爵制と結合して、西晋以降、貴族制を生む。
◆感想
老荘が盛んに研究されるのは、まさにこのタイミング。弱体化する曹氏を回復し、名士に対抗するためです。この辺りの、政治史&思想史を、詳しく学びたい。学ぶと決めた!
何晏の言ったことの中身は、一般書向けに省略されたこれだけの記述からじゃあ、何も解らない。検討できない。
鄧艾
汝南郡で牛飼いをした。 頴川郡の陳寔の碑文を見て、名とあざなを改めた。
◆司馬氏の腹心として抜擢
頴川グループでは、司馬氏の立場は弱かった。荀氏・陳氏・鍾氏は、少なくとも対等だと思っていた。
司馬懿は、民屯を管轄する典農部に、一族や腹心をつけて、曹魏の財政基盤を横取りしようとしたが、円滑に進まなかった。
司馬氏の「軍師」として、軍事&経済基盤を強化したのが、鄧艾。 鄧艾は『済河論』を書いて、許昌の屯田を廃止し、淮北・淮南の軍屯を勧めた。これが司馬氏の財政を支える。
毌丘倹と諸葛誕の叛乱を平定できたのも、鄧艾が軍屯を設け、財政基盤を作ってくれたからだ。
◆蜀漢を滅ぼす
鄧艾は劉禅を捕らえ、呉に攻め下る許可を求めた。だが司馬昭は、護軍の衛瓘に、待ったをかけさせた。
司馬昭は、孫呉を滅ぼす前に、同僚の名士から抜き出て、曹魏を滅ぼすことを優先していた。名士間のせめぎあいに、微賤から抜擢された鄧艾は気づかなかった。
◆感想
司馬氏というより、司馬懿との個人的な結びつきが強かった印象の鄧艾。司馬昭のときは、ライバルの名士たる鍾会への当て馬として使われた感じだし。
名士は君主権力を否定する存在だから、司馬氏が「名士皇帝」を目指し始めた時点で、自己矛盾が生じているよなあ。司馬氏は荀彧に推挙されたものの、河内郡出身だ。だから「広義の頴川グループ」と、渡邉氏は書き分けている。この距離感がポイント?
鍾会
頴川グループで、魏の太傅たる鍾繇の末子。司馬氏に堂々とした態度を取ることができる血筋だ。
司馬昭に、「繇」と同音の「遥」を使われたから、「懿」を侵して言い返した。鍾繇と司馬懿は同格である、というのが鍾会の誇り。
◆司馬氏の尖兵
押しも押されもせぬ名士の鍾会だが、司馬氏の「軍師」となり、司馬氏に敵対する名士の思想弾圧をした。
司馬懿が陳羣に引き立てられたように、鍾会は司馬昭に引き立てられようと思ったか。司馬懿は、曹魏で不遇だった荀顗(荀彧の子)を抜擢して、荀氏を味方にした。 「頴川グループ」を味方につける働きかけだ。
鍾会は、司馬師・司馬昭に従軍した。諸葛誕のときは、喪中なのに駆けつけたから、子房(張良)に準えられた。
◆皇帝を殺してもよいか
司馬炎は、至孝の皇帝。父母の喪で、6年間も子供を作らなかった。魯迅に言わせれば、「曹魏への不忠を補うため、無理に孝を行なった」と批判される。
不忠とは、司馬昭が曹髦を殺したこと。
陳泰(陳羣の子)は、賈充の処刑を主張した。陳泰から見れば、司馬懿は父の後継者に過ぎない。懿の子・司馬昭ごときに臣従する必要はない。司馬氏の元同僚たちが、君主権力の確立を阻む。
郭皇太后から、「曹髦は不孝だから、殺されて当然」という詔を得たが、司馬昭は曹髦の親じゃないから、殺害を正統化できない。
杜預が『春秋左氏伝』を論拠にして、「無道な君主なら、殺害して良い」とした。司馬氏は名士だから、儒教を悪用した。
阮籍や嵇康は、司馬氏の儒教の使い方に、違和感を持った。鍾会は、陳泰のように毅然とできた。だが司馬氏に迎合して、嵇康を追い詰めて、刑死させた。
◆裏切りへと向わせた自尊心
鄧艾を追放した。
もともと鍾会は、頴川グループの中心。司馬氏よりも有力。荀氏・陳氏とも、幾代にも婚姻関係がある。姜維まで味方してくれる。進軍して長安さえ取れば、洛陽で呼応する人があるのではないか。そう予想した。
司馬昭は、鍾会の叛乱を予想していた。
頴川グループで格上の鍾氏ですら、司馬氏の力には及ばない。命はない。それを見せつけ、司馬昭は晋王になった。
◆感想
鍾会の腹の底を知っていて、わざと益州に派遣したのは、頴川グループの名士を屈服させるため。蜀漢の命運にドキドキしているファンには、失礼な話だ(笑)
鍾会は死んだとき、まだ40歳。「失敗しても劉備くらいになれる」と言ったのは、若いから。司馬氏に叛乱する前提で、チャンスを気長に狙っていたんだろう。
いちから名士を叩くより、司馬氏の尖兵となってライバルを減らしておくほうが、鍾氏の天下のためにも早道だ。司馬氏以上に、名士叩きに熱心だった鍾会の行動は、そう考えるとすんなり理解できる。
漢魏の「軍師」は、これでおしまい。続きます。
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このコンテンツの目次
『「三国志」軍師34選』を読む
1)軍師とは何か
2)郭泰と許劭
3)盧植、蔡邕、田豊
4)程昱、許攸、郭嘉、孔融
5)荀彧、呉質、陳羣
6)何晏、鄧艾、鍾会
7)司馬懿、王粛
8)阮籍、嵇康、杜預
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