-後漢 > 『資治通鑑』 前漢の成帝期を抄訳・上(前32-23)

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前32、石顕が失脚し、外戚の王氏から五侯

春、石顕が失脚し、王氏が五侯をだす

孝成皇帝上之上建始元年(己丑,公元前三二年)
春,正月,乙丑,悼考廟災。

建始元年、春正月乙丑、悼考廟が火災した。

応劭はいう。民を安んじ、政を立てるを「成」という。
荀悦はいう。成帝は、劉驁あざなは太孫。
胡三省はいう。宣帝は、史皇孫を「悼考」とした。
ぼくは思う。いま王莽は、14歳。


石顯遷長信中太僕,秩中二千石。顯既失倚,離權,於是丞相、御史條奏顯舊惡;及其黨牢梁、陳順皆免官,顯與妻子徙歸故郡,憂懣不食,道死。諸所交結以顯為官者,皆廢罷;少府五鹿充宗左遷玄菟太守,御史中丞伊嘉為雁門都尉。

石顕は、長信中太僕にうつる。秩は中2千石。

『百官表』はいう。長信中太僕は、皇太后の輿馬をつかさどる。常置でない。

石顕は(元帝が崩じたので)権力から離れる。丞相と御史は、石顕の旧悪を條奏した。石顕の党与である、牢梁と陳順を免官した。石顕は妻子とともに故郷にかえり、憂いて食えずに道中で死んだ。石顕と交結した者は、みな廃された。

胡三省はいう。石顕は元帝にくっつく。元帝が崩じたので、権限をうしなう。中書令という枢機の官から、太后宮の管理者に移ってしまった。
ぼくは思う。王太后が権力の中心にいるが、やはり中書令が文書行政の中核なのね。王太后が、じかに命令するわけじゃない。王太后の兄・王鳳が中核なのだ。
ぼくは思う。元帝を描くなら、儒者を重んじ、同じぐらい石顕を重んじるという、(儒者から見れば)矛盾した人材活用を言えば良いだろう。儒者から見れば、「儒者だけを用いろよ」と思う。だが元帝は、宦官も儒者もどちらも大切なのだ。こちらのバランス感覚のほうが、人材の資源を有効につかえている。
もし石顕が、始皇帝の趙高のような宦官なら、元帝が死んだら、権力を振るうだろう。だが石顕は、ふつうに元帝に寄生した宦官なので、元帝が死んだら、すぐに退場した。「元帝が石顕を重んじた」と言わずして、どう言えるものか。元帝が石顕にだまされた、なんてことはない。

少府の五鹿充宗は、玄菟太守に左遷された。御史中丞の伊嘉は、雁門都尉に左遷された。

司隸校尉涿郡王尊劾奏:「丞相衡、御史大夫譚,知顯等顓權擅勢,大作威福,為海內患害,不以時白奏行罰,而阿諛曲從,附下罔上,懷邪迷國,無大臣輔政之義,皆不道!在赦令前。赦後,衡、譚舉奏顯,不自陳不忠之罪,而反揚著先帝任用傾覆之徒,妄言『百官畏之,甚於主上』;卑君尊臣,非所宜稱,失大臣體!」於是衡漸懼,免冠謝罪,上丞相、侯印綬。天子以新即位,重傷大臣,乃左遷尊為高陵令。然群下多是尊者。衡嘿嘿不自安,每有水旱,連乞骸骨讓位。上輒以詔書慰撫,不許。

司隸校尉する涿郡の王尊が劾奏した。「丞相の匡衡と、御史大夫の張譚は、石顕になびいた。匡衡と張譚は、大臣の資格がない」と。匡衡は丞相と侯爵の印綬を返還した。成帝は即したばかりで、大臣を傷めつけたくない。匡衡を高陵令とした。匡衡は群下に尊敬されているが、免官を願った。成帝は許さない。

ぼくは思う。成帝に新たな時代を見る人々は、石顕がにくければ、石顕と協調していた(協調せざるを得なかった)匡衡すら排除したい。


立故河間王元弟上郡庫令良為河間王。有星孛於營室。赦天下。
壬子,封舅諸吏、光祿大夫、關內侯王崇為安成侯;賜舅譚、商、立、根、逢時爵關內侯。夏,四月,黃霧四塞,詔博問公卿大夫,無有所諱。諫大夫楊興、博士駟勝等對,皆以為「陰盛侵陽之氣也。高祖之約,非功臣不侯。今太后諸弟皆以無功為侯,外戚未曾有也,故天為見異。」於是大將軍鳳懼,上書乞骸骨,辭職。上優詔不許。

もと河間王たる劉元の弟・上郡庫令する劉良を河間王とする。星孛が營室にある。天下を赦した。

『晋書』天文志はいう。営室には2つの星がある。天子の宮である。1つは玄宮。もう1つは清廟。

正月壬子、成帝のおじで、諸吏・光祿大夫する関内侯たる王崇を、安成侯とした。おじの王譚、王商、王立、王根、王逢が、ときに関内侯となる。

ぼくは思う。石顕と王氏は、バトンタッチのように、没落と興隆のタイミングが接する。
『恩沢侯表』はいう。安成侯の食邑は、汝南にある。


夏、王氏が黄霧と2つの月をだす

夏,四月,黃霧四塞,詔博問公卿大夫,無有所諱。諫大夫楊興、博士駟勝等對,皆以為「陰盛侵陽之氣也。高祖之約,非功臣不侯。今太后諸弟皆以無功為侯,外戚未曾有也,故天為見異。」於是大將軍鳳懼,上書乞骸骨,辭職。上優詔不許。

夏4月、黄霧が四塞した。成帝が理由をきくが、みな答えない。諫大夫の楊興、博士の駟勝はいう。「高祖の約では、功臣でないと侯爵としない。外戚の王氏は功績がないのに、侯爵である。だから陰陽が乱れた」と。
大将軍の王鳳は、辞職をねがう。成帝は許さず。

御史中丞東海薛宣上疏曰:「陛下至德仁厚,而嘉氣尚凝,陰陽不和,殆吏多苛政。部刺史或不循守條職,舉錯各以其意,多與郡縣事,至開私門,聽讒佞,以求吏民過,譴呵及細微,責義不量力;群縣相迫促,亦內相刻,流至眾庶。是故鄉黨闕於嘉賓之歡,九族忘其親親之恩,飲食周急之厚彌衰,送往勞來之禮不行。夫人道不通則陰陽否隔,和氣不興,未必不由此也。《詩》云:『民之失德,乾□侯以愆。』鄙語曰:『苛政不親,煩苦傷恩。』方刺史奏事時,宜明申敕,使昭然知本朝之要務。」上嘉納之。

御史中丞する東海の薛宣が上疏した。「陰陽が調和しないのは、苛政のせい。部刺史は、職務をきちんとしない」と。成帝は、この意見を嘉納した。

ぼくは思う。中華書局版の956頁に注釈がくわしい。


八月,有兩月相承,晨見東方。
冬,十二月,作長安南、北郊,罷甘泉、汾陰祠,及紫壇偽飾、女樂、鸞路、騂駒、龍馬、石壇之屬。

8月、2つの月が、上下に出て、明け方の東の空にある。

応劭はいう。京房『易伝』はいう。君が弱く、婦のようだと、その陰に乗じられ、2つの月がでる。ぼくは思う。外戚の王氏の悪口である。

冬12月、長安の南北郊をつくる。甘泉と汾陰の祠をやめる。130617

中華書局版の957頁にある。むずかしいなあ。

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前31、匡衡が祭祀を定め、王鳳が杜欽に頼る

春、匡衡の意見に基づき、南北郊を始める

孝成皇帝上之上建始二年(庚寅,公元前三一年)
春,正月,罷雍五畤及陳寶祠,皆從匡衡之請也。辛巳,上始郊祀長安南郊。赦奉郊縣及中都官耐罪徒;減天下賦錢,算四十。
閏月,以渭城延陵亭部為初陵。

春正月、雍五畤と陳寶祠をやめる。みな匡衡の意見にもとづく。

ぼくは思う。王莽より前に、いちど祭祀を体系づけたのが、この匡衡である。「王莽の1つ前に、スフィンクスに挑んだ勇者」として、『漢書』匡衡伝を読まねばならない。

正月辛巳、はじめて成帝は、長安の南郊で郊祀する。奉郊する県(南北の郊のある2県)で赦する。中都官(京師の諸官府)の刑徒を赦する。天下の賦銭を120減らして、40とする。
閏月、渭城の延陵亭部を初陵(成帝の陵墓)とする。

三月,辛丑,上始祠后土於北郊。
丙午,立皇后許氏。後,車騎將軍嘉之女也。元帝傷母恭哀後居位日淺而遭霍氏之辜,故選嘉女以配太子。

3月辛丑、はじめて成帝は、后土を北郊で祠する。
3月丙午、皇后の許氏を立てる。許皇后は、車騎将軍の許嘉の娘である。元帝は、母の恭哀后が、皇后の地位についてすぐに、霍氏の罪を得たことを傷ましく思い、許嘉の娘を太子(いまの成帝)の妻としていた。

胡三省はいう。霍氏のことは、宣帝の本始3年にある。
ぼくは思う。外戚の王氏のライバルたちは、霍光の時代から、いろいろ引きずる。これを整理しなければ、元帝の妻の3つ巴をいうことができない。王莽の伝記の主軸にしたいと思っているから。


上自為太子時,以好色聞;及即位,皇太后詔采良家女以備後宮。大將軍武庫令杜欽說王鳳曰:「禮,一娶九女,所以廣嗣重祖也。娣侄雖缺不復補,所以養壽塞爭也。故后妃有貞淑之行,則胤嗣有賢聖之君;制度有威儀之節,則人君有壽考之福。廢而不由,則女德不厭;女德不厭,則壽命不究於高年。男子五十,好色未衰;婦人四十,容貌改前;以改前之容侍於未衰之年,而不以禮為制,則其原不可救而後徠異態;後徠異態,則正後自疑,而支庶有間適之心。是以晉獻被納讒之謗,申生蒙無罪之辜。今聖主富於春秋,未有適嗣,方鄉術入學,未親后妃之議。將軍輔政,宜因始初之隆,建九女之制,詳擇有行義之家,求淑女之質,毋必有聲色技能,為萬世大法。夫少戒之在色,《小卞》之作,可為寒心。唯將軍常以為憂!」鳳白之太后,太后以為故事無有;鳳不能自立法度,循故事而已。鳳素重欽,故置之莫府,國家政謀常與欽慮之,數稱達名士,裨正闕失;當世善政多出於欽者。

成帝が太子のとき、好色だった。即位すると、王太后は良家の娘を後宮におく。大将軍武庫令(大将軍府のなかで武器庫を管理する長官)の杜欽が、大将軍の王鳳にいう。「皇帝の妻には、古制において定員がある。多すぎてはいけない」と。
王鳳は杜欽の受け売りを、王太后に説明した。王鳳は杜欽を重んじて、自府においた。王鳳の善政は、杜欽から出た。

ぼくは思う。王鳳は、能力ではなく、血縁によって高位を得た。いま成帝が幼いから、政治をしなければならないが、能力がない。だから杜欽に頼ったのだね。外戚の政治家としては、理想的じゃないか。


匈奴の情勢について

夏,大旱。
匈奴呼韓邪單于嬖左伊秩訾兄女二人;長女顓渠閼氏生二子,長曰且莫車,次曰囊知牙斯;少女為大閼氏,生四子,長曰雕陶莫皋,次曰且麋胥,皆長於且莫車,少子鹹、樂二人,皆小於囊知牙斯。又它閼氏子十餘人。顓渠閼氏貴,且莫車愛,呼韓邪病且死,欲立且莫車。顓渠閼氏曰:「匈奴亂十餘年,不絕如發,賴蒙漢力,故得復安。今平定未久,人民創艾戰鬥。且莫車年少,百姓未附,恐復危國。我與大閼氏一家共子,不如立雕陶莫皋。」大閼氏曰:「且莫車雖少,大臣共持國事。今捨貴立賤,後世必亂。」單于卒從顓渠閼氏計,立雕陶莫皋,約令傳國與弟。呼韓邪死,雕陶莫皋立,為復株累若鞮單于。復株累若鞮單于以且麋胥為左賢王,且莫車為左谷蠡王,囊知牙斯為右賢王。復株累單于復妻王昭君,生二女,長女雲為須卜居次,小女為當於居次。

夏、おおいに日照した。
匈奴の呼韓邪単于が死んだ。呼韓邪の次男は、嚢知牙斯である。嚢知牙斯は、右賢王となる。呼韓邪は、王昭君とのあいだに、2人の娘をつくる。130617

ぼくは思う。匈奴伝は、まあいいや。
ぼくは思う。いよいよ王莽が15歳になりました。大人だな。物心がついた直後から、おじの王鳳が最高権力者になっている。王莽は、石顕の時代を、あまり意識して見ていないだろう。もちろん知識として分かっており、哀帝期の浮き沈みのときに、参考にしただろうが。皇帝の交替は、重臣を交替させる。

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前30、許嘉・張譚・匡衡を免じ、王鳳が専権

孝成皇帝上之上建始三年(辛卯,公元前三零年)
春,三月,赦天下徒。

春3月、天下の刑徒と赦した。

秋、許嘉を免じて、王鳳が専権する

秋,關內大雨四十餘日。京師民相驚,言大水至;百姓奔走相蹂躪,老弱號呼,長安中大亂。天子親御前殿,召公卿議。大將軍鳳以為:「太后與上及後宮可御船,令吏民上長安城以避水。」君臣皆從鳳議。左將軍王商獨曰:「自古無道之國,水猶不冒城郭;今政治和平,世無兵革,上下相安,何因當有大水一日暴至,此必訛言也!不宜令上城,重驚百姓。」上乃止。有頃,長安中稍定;問之,果訛言。上於是美壯商之固守,數稱其議;而鳳大慚,自恨失言。
上欲專委任王鳳,八月,策免車騎將軍許嘉,以特進侯就朝位。

秋、関内で40日以上、連続で雨ふる。京師の民はおどろき、大水がくるという。長安は混乱した。大将軍の王鳳はいう。「王太后と成帝は、船を御せ。吏民は長安の城にのぼって大水を避けろ」と。君臣はみな王鳳に合意する。
左将軍の王商だけがいう。「古代の無道な国ですら、洪水は城郭を冒さない。まして今日の政治は優れている。大水はこない」と。果たして王商の言うとおりとなり、王鳳は失言を恥じて恨んだ。

胡三省はいう。だから王鳳は、王商を排斥した。

成帝は、王鳳に全権をあずけたい。8月、車騎将軍の許嘉を免じて、特進とした。

胡三省はいう。漢制において、列侯で朝廷に奉じる者は、長安にいる。位は三公につぐ。特進の地位を賜った者は、列侯の上であり、三公の次である。
ぼくは思う。三公-特進-列侯、である。特進とは、三公と列侯のあいだに、ムリにねじこんだ。官爵は相対的な高低が問題だからね。きちんと序列を規定すれば、無限に作り出すことができるのだ。
ぼくは思う。成帝の皇后の許氏の外戚を、高官からはずした。元帝の外戚の王氏にしぼって、朝廷を回していこうという発想です。


冬、張譚と匡衡が免官される

張譚坐選舉不實,免。冬,十月,光祿大夫尹忠為御史大夫。
十二月,戊申朔,日有食之。其夜,地震未央宮殿中。詔舉賢良方正能直言極諫之士。杜欽及太常丞谷永上對,皆以為後宮女寵太盛,嫉妒專上,將害繼嗣之咎。
越巂山崩。 丁丑,匡衡坐多取封邑四百頃,監臨盜所主守直十金以上,免為庶人。

御史大夫の張譚は、官僚の選挙が正しくないので、免じられた。冬10月、光祿大夫の尹忠が、御史大夫となる。

ぼくは補う。張譚は、石顕が失脚したとき、匡衡とともにケチがついた。

12月戊申ついたち、日食あり。同日の夜、未央宮の殿中で地震あり。賢良・方正で、直言・極諫できる士を挙げさせた。杜欽と太常丞の谷永が上対した。

『続漢書』はいう。太常丞は、比1千石。行礼と祭祀の小事をつかさどる。諸曹のことをつかさどる。
『漢旧儀』はいう。丞とは、廟中を挙げ、法にあらず。ん?

杜欽と谷永は、後宮に女官が多すぎるから、女官たちが嫉妬して、成帝の継嗣が残りにくくなるといった。

胡三省はいう。けだし許后と班倢伃のことをいう。
ぼくは思う。成帝は子供を残せず、傍流から哀帝が即位する。王莽が失脚する。

越巂山が崩れた。
12月丁丑、匡衡が免じられ、庶人となる。130617

中華書局版961頁。なんか、罪せられた事情が、いろいろ詳細に注釈されている。『漢書』匡衡伝をあとで読もう。

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前29、王商が丞相、谷永が光禄、王尊が京兆

春、中書の宦官をやめ、王商が丞相に

孝成皇帝上之上建始四年(壬辰,公元前二九年)
春,正月,癸卯,隕石於亳四,隕於肥累二。
罷中書宦官。初置尚書員五人。三月,甲申,以左將軍樂昌侯王商為丞相。

春正月癸卯、隕石あり。
中書の宦官をやめる。はじめて尚書に(宦官でない)定員5名をおく。

胡三省が官制の変遷をのべる。中華書局版962頁。

3月甲申、左將軍する樂昌侯たる王商を丞相とする。

夏、谷永が後嗣を心配して、光禄大夫に

夏,上悉召前所舉直言之士,詣白虎殿對策。是時上委政王鳳,議者多歸咎焉。谷永知鳳方見柄用,陰欲自托,乃曰:「方今四夷賓服,皆為臣妾,北無熏葷、冒頓之患,南無趙佗、呂嘉之難,三垂晏然,靡有兵革之警。諸侯大者乃食數縣,漢吏制其權柄,不得有為,無吳、楚、燕、梁之勢。百官盤互,親疏相錯,骨肉大臣有申伯之忠,洞洞屬屬,小心畏忌,無重合、安陽、博陸之亂。三者無毛髮之辜,竊恐陛下捨昭昭之白過,忽天地之明戒,聽晻昧之瞽說,歸咎乎無辜,倚異乎政事,重失天心,不可之大者也。陛下誠深察愚臣之言,抗湛溺之意,解偏駁之愛,奮乾剛之威,平天覆之施,使列妾得人人更進,益納宜子婦人,毋擇好醜,毋避嘗字,毋論年齒。推法言之,陛下得繼嗣於微賤之間,乃反為福;得繼嗣而已,母非有賤也。後宮女史、使令有直意者,廣求於微賤之間,以遇天所開右,慰釋皇太后之憂慍,解謝上帝之譴怒,則繼嗣蕃滋,災異訖息!」杜欽亦仿此意。上皆以其書示後宮,擢永為光祿大夫。

夏、成帝は直言之士をめして、白虎殿で對策させた。

師古はいう。白虎殿は、未央宮にある。

ときに王鳳に全権が委任されている。議者はおおくが罪過に帰した。谷永は、王鳳が意見を採用する(器量がある)と知る。谷永はひそかに自らに託して(責任をとるつもりで)いう。
谷永いわく「成帝は、耽溺と偏愛をおさえて、外見や血筋や年齢にこだらわず、おおくの婦人を納れて、後嗣をつくれ。

胡三省はいう、王鳳はこのとき、張美人を成帝のもとに納れていた。谷永は、張美人を寵愛せよと、仕向けているのだ。

成帝の子を身ごもれば、その婦人が微賤の生まれでも、かえって福となる。子を身ごもれば、その婦人は微賤でなくなるからだ。

ぼくは思う。母は子の貴しをもって貴し、とは書いてない。師古が「もし子を得れば、その母の貴賤を論じないものである」と注釈するのみ。
ぼくは思う。成帝ほど、後嗣の心配をさせた皇帝はない。成帝は、前51年生まれ。つまり王莽より6つ上の「兄」である。王元后の子だから、いちおう従兄なのだ。王莽の世代は、前漢「末」期だけあって、子をつくれずに、塞がってゆく。王莽もまた、子を殺しまくったから、同じ塞がりをもつ。

後嗣をつくり、成帝の母・王元后をなぐさめろ」と谷永はいった。
杜欽も合意した。成帝は後宮に、谷永の意見を示し、谷永を光禄大夫とする。

ぼくは思う。いま時点の見通しを。王莽には3人の父がいる。リアルな父の王曼。しかし早死するので、影響が小さい。伯父の王鳳。これが意識にのぼる、実質的な父だろう。実父のように看病する。そして3人目の父は元帝である。元帝は、おばの王元后の夫だから、父の世代である。この第3の父が、儒家を好む皇帝として、前漢のバランスを崩した。「祭祀をどうしよう」という問題を(無視しようと思えば無視できたのに)前景化した。だから子の成帝は、祭祀をとっかえひっかえして、苦しむ。子ができないのを、祭祀の方法のせいにして悩む。
王莽は、「父」元帝と「兄」成帝の悩みを解決する、賢い弟である。


夏,四月,雨雪。

夏4月、雪ふる。

秋冬、黄河が決壊し、王尊が京兆尹に

秋,桃、李實。
大雨水十餘日,河決東郡金堤。先是清河都尉馮逡奏言:「郡承河下流,土壤輕脆易傷,頃所以闊無大害者,以屯氏河通兩川分流也。今屯氏河塞,靈鳴犢口又益不利,獨一川兼受數河之任,雖高增堤防,終不能洩。如有霖雨,旬日不霽,必盈溢。九河故跡,今既滅難明,屯氏河新絕未久,其處易浚;又其口所居高,於以分殺水力,道裡便宜,可復浚以助大河,洩暴水,備非常。不豫修治,北決病四、五郡,南決病十餘郡,然後憂之,晚矣!」事下丞相、御史,白遣博士許商行視,以為「方用度不足,可且勿浚。」後三歲,河果決於館陶及東郡金堤,氾濫兗、豫,入平原、千乘、濟南,凡灌四郡、三十二縣,水居地十五萬餘頃,深者三丈;壞敗官亭、室廬且四萬所。

秋にモモとスモモが実る。
10余日も大雨がふる。黄河が東郡の金堤で決壊する。
これより先、清河都尉の馮逡は上奏していた(中略)。馮逡の提案を実行しないから、黄河が決壊して、兗州と豫州がひたる。東郡、平原、千乗、済南の4郡で、32県がひたった。

『漢書』溝洫志にもある。


冬,十一月,御史大夫尹忠以對方略疏闊,上切責其不憂職,自殺。遣大司農非調調均錢谷河決所灌之郡,謁者二人發河南以東船五百□叟,徙民避水居丘陵九萬七千餘口。
壬戌,以少府張忠為御史大夫。

冬11月、御史大夫の尹忠の職務ぶりを成帝が責めたら、尹忠が自殺した。大司農の非調が、銭穀を徴発して、洪水にある地域に銭穀をもたらす。 謁者2名が河南から舟500ででて、民97000人を丘陵に避難させた。
11月壬戌、少府の張忠が、御史大夫となる。

南山群盜傰宗等數百人為吏民害。詔發兵千人逐捕,歲餘不能禽。或說大將軍鳳,以「賊數百人在轂下,討不能得,難以示四夷;獨選賢京兆尹乃可。」於是鳳薦故高陵令王尊,征為諫大夫,守京輔都尉,行京兆尹事。旬月間,盜賊清;後拜為京兆尹。

南山の群盗が、吏民を殺害する。ある者が王鳳に「盗賊は天子の膝元にいて、討伐できない。だが賢者を京兆尹にすれば治まる」という。王鳳は、もと高陵令の王尊をめして、諫大夫とし、京輔都尉を守させ、京兆尹の職務をさせた。

胡三省はいう。武帝の元鼎4年、あらためて三輔都尉をおいた。京兆を京輔都尉という。馮翊を左輔都尉という。扶風を右輔都尉という。

旬月のうちに、盗賊は治まった。のちに王尊は京兆尹を拝する。

匡衡と谷永が、西域で専権した陳湯を廃す

上即位之初,丞相匡衡復奏:「射聲校尉陳湯以吏二千石奉使,顓命蠻夷中,不正身以先下,而盜所收康居財物,戒官屬曰:『絕域事不覆校。』雖在赦前,不宜處位。」湯坐免。後湯上言:「康居王侍子,非王子。」按驗,實王子也。湯下獄當死。

成帝が即位した直後、なんども丞相の匡衡は上奏した。「射声校尉の陳湯は、匈奴を討伐したときに顓命し、康居の財物をかすめる。外域での犯罪は裁かれず、また以前に赦免されているが、射声校尉の官職におくな」と。

胡三省はいう。竟寧元年7月に赦されている。
『漢辞海』はいう。【顓】愚鈍なさま、おろか。善良なさま、よい。顓民とは、善良な民衆のこと。もっぱらにす。独占する。顓権する。ひとすじに守る。顓頊は黄帝の孫。

陳湯は免じられた。
のちに陳湯は「康居王は侍子であり、王の実子でない」という。確かめると、康居王は実子だった。陳湯は下獄されて死にそう。

ぼくは思う。陳湯は、わりと『資治通鑑』で活躍した。


太中大夫谷永上疏訟湯曰:「(中略)竊恐陛下忽於鼙鼓之聲,不察《周書》之意,而忘帷蓋之施,庸臣遇湯,卒從吏議,使百姓介然有秦民之恨,非所以厲死難之臣也!」書奏,天子出湯,奪爵為士伍。

太中大夫の谷永が上疏して、谷永をせめた。成帝は陳湯を長安から出して、爵位をうばって士伍とした。

中華書局版966頁。よってたかって、陳湯を責めるのだ。


會西域都護段會宗為烏孫兵所圍,驛騎上書,願發城郭、敦煌兵以自救;丞相商、大將軍鳳及百寮議數日不決。鳳言:「陳湯多籌策,習外國事,可問。」上召湯見宣室。湯擊郅支時中寒,病兩臂不屈申;湯入見,有詔毋拜,示以會宗奏。湯對曰:「臣以為此必無可憂也。」上曰:「何以言之?」湯曰:「夫胡兵五而當漢兵一,何者?兵刃樸鈍,弓弩不利。今聞頗得漢巧,然猶三而當一。又《兵法》曰:『客倍而主人半,然後敵。』今圍會宗者人眾不足以勝會宗。唯陛下勿憂!且兵輕行五十里,重行三十里,今會宗欲發城郭、敦煌,歷時乃至,所謂報讎之兵,非救急之用也。」上曰:「奈何?其解可必乎?度何時解?」湯知烏孫瓦合,不能久攻,故事不過數日,因對曰:「已解矣!」屈指計其日,曰:「不出五日,當有吉語聞。」居四日,軍書到,言已解。大將軍鳳奏以為從事中郎,莫府事壹決於湯。

たまたま西域都護の段会宗が烏孫に包囲された。丞相の王商、大将軍の王鳳たちは、対処できない。西域に通じた陳湯に質問すると、陳湯は「包囲は解ける。5日以内にその報せがくる」という。4日で、包囲が解けたという報告が入った。
大将軍の王鳳は、陳湯を従事中郎として、大将軍府の属吏とした。王鳳は、どんなことも陳湯に相談した。130618

『続漢書』はいう。大将軍府には、従事中郎が2人ある。秩は6百石。職務は謀議に参じること。
ぼくは思う。王鳳が人材をひろく用いることが、よくわかる。この「王鳳すごい」という結論のために、元帝期から活躍してきた陳湯を、さんざん批判する文書を『資治通鑑』が引用した。ご苦労である。

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前28、許皇后が、劉向と谷永の祭祀に反論

春、許氏の祭祀の倹約に、許皇后が抗議

孝成皇帝上之上河平元年(癸巳,公元前二八年)
春,杜欽薦犍為王延世於王鳳,使塞決河。鳳以延世為河堤使者。延世以竹落長四丈,大九圍,盛以小石,兩船夾載而下之。三十六日,河堤成。三月,詔以延世為光祿大夫,秩中二千石,賜爵關內侯、黃金百斤。

春、杜欽が、犍為の王延世を王鳳にすすめる。王延世が黄河を治水した。36日で堤防ができた。3月、王延世を光禄大夫、関内侯とした。

ぼくは思う。王莽はいま18歳。


夏,四月,己亥晦,日有食之。詔公卿百僚陳過失,無有所諱。大赦天下。光祿大夫劉向對曰:「四月交於五月,月同孝惠,日同孝昭,其占恐害繼嗣。」是時許皇后專寵,後宮希得進見,中外皆憂上無繼嗣,故杜欽、谷永及向所對皆及之。上於是減省椒房、掖廷用度,服御、輿駕所發諸官署及所造作,遺賜外家、群臣妾,皆如竟寧以前故事。

夏4月己亥みそか、日食あり。光禄大夫の劉向がいう。「4月と5月のあいだの己亥に月食があった。月は恵帝期と、日は昭帝期と同じだ。恵帝も昭帝も継嗣がなかった」と。このとき許皇后が寵愛をもっぱらにして、子供ができない。杜欽と谷永は、子づくりを要請した。
ここにおいて成帝は、後宮の調度をひかえめにして、外戚の許氏に下げわたす。元帝の竟寧期と同じ。

皇后上疏自陳,以為:「時世異制,長短相補,不出漢制而已,纖微之間未必可同。若竟寧前與黃龍前,豈相放哉!家吏不曉,今壹受詔如此,且使妾搖手不得。設妾欲作某屏風張於某所,曰:『故事無有。』或不能得,則必繩妾以詔書矣。此誠不可行,唯陛下省察!故事,以特牛祠大父母,戴侯、敬侯皆得蒙恩以太牢祠,今當率如故事,唯陛下哀之!今吏甫受詔讀記,直豫言使後知之,非可復若私府有所取也。其萌牙所以約制妾者,恐失人理。唯陛下深察焉!」

許皇后は、杜欽と谷永に反論した。「時代によって制度はことなり、それぞれ長所と短所がある。もし元帝の竟寧期と、宣帝の黄龍期を比べても、どちらに依拠すべきか決まらないものだ。私の家属は聡明でないので、元帝の竟寧期と同じくせよと詔されても、対処できない。祖父の許広漢、父の許嘉、叔祖の許延寿に、大牢を祭ることを、これまで漢家から認めてもらってきた。許氏の祭祀を、倹約しろと言われても困るんですけど」と。

ぼくは思う。『漢書』許皇后伝を読んだときも、これを省略したんだった。中華書局版969頁の胡三省の注釈をみながら、ちゃんと読み直したい。


上於是采谷永、劉向所言災異咎驗皆在後宮之意以報之,且曰:「吏拘於法,亦安足過!蓋矯枉者過直,古今同之。且財幣之省,特牛之祠,其於皇后,所以扶助德美,為華寵也。咎根不除,災變相襲,祖宗且不血食,何戴侯也!傳不雲乎:『以約失之者鮮』,審皇后欲從其奢與?朕亦當法孝武皇帝也。如此,則甘泉、建章可復興矣。孝文皇帝,朕之師也。皇太后,皇后成法也。假使太后在彼時不如職,今見親厚,又惡可以逾乎!皇后其刻心秉德,謙約為右,垂則列妾,使有法焉!」

谷永と劉向は、災異の原因が後宮にあるといい、成帝は「許皇后は祭祀を倹約しろ」と命じた。
成帝はいう。「私は武帝の祭祀もまた手本としよう。甘泉、建章の祭祀を復興しよう。また文帝は、わが師である。文帝期に照らせば、許皇后が、わが母の王皇太后よりも、豪華な祭祀をするのは正しくない。許皇后は、後宮の規則に従うように」と。

ぼくは思う。許皇后が、許広漢、許延寿、許嘉という高官の家から出たせいで、このトラブルが起きている。外戚が一時的に高位に登るのは、良しとしても。その家族が世襲めいたことをすると、強くなり過ぎる。その強さは、一流の学者である谷永や劉向と、許皇后が政治声明で競い合っていることから明らかである。教育が行き届き過ぎている。文化資本がすばらしい。
ぼくは思う。成帝に子ができないのは、許皇后が実家の権勢と資本をカサにきて、「男みたいに」張り合ってくるからだろう。その許皇后が、身体だけでも女性としての役割を果たせば、問題はなかったのだが。「成帝は子をつくれ」とは「許皇后の権勢をほどほどに抑えろ」と同義かも。
許皇后は、霍光の事件にからんで、父の元帝が許氏をあわれみ、立てられた者だ。つまり成帝にとっては「父の思惑」のかたまりである。このように前漢の皇帝の父子は、父が子を呪い、子が孫を呪う。成帝は、祖父の宣帝から可愛がられて皇帝になれた。父の元帝とは不仲である。許皇后は父の負の遺産なのね。


秋、太上皇の寝廟をもどし、法令を整理したい

給事中平陵平當上言:「太上皇,漢之始祖,廢其寢廟園,非是。」上亦以無繼嗣,遂納當言。秋,九月,復太上皇寢廟園。

給事中する平陵の平當が上言した。「太上皇は、漢家の始祖である。太上皇の寢廟園を廃するのは、正しくない」と。成帝は継嗣がないから、平当の提案をみとめた。秋9月、太上皇の寢廟園をもどす。

ぼくは思う。成帝は、許皇后の実家のために、祭祀のもとでを費やしている場合ではない。許氏の祭祀よりも、劉氏の祭祀が優先である。劉氏の祭祀を節約して、許氏を祭祀していたら、本末転倒である。そういうわけで、ヒステリックに、劉氏に関係する祭祀をもどしてゆく。整理は進まんなあ。
ぼくは思う。散らかった部屋を整理するとき。ふるい本をゴミ捨て場に置いて、あいたスペースで、ジグソーパズルをする。ふと「ぼくはパズルよりも、本が好きだった。パズルをするために、本を捨てるなんて、本末転倒である」と気づく。本をしばるヒモをほどく。パズルをする床面積はなくなったが、ぼくの部屋はこれで良いのだ。というのが成帝w
先週から(元帝期から)少しずつ本を片づけてきた。一見すると、整頓が行き届き、部屋が快適になったように思える。しかし、片づけた結果、日常が退屈になった(成帝に子ができない)。パズルどころでなく(許氏の祭祀を手厚くせず)本を再びぶちまける(劉氏の祭祀をもどす)。片づけ始める前よりも、散らかった(前漢の各時代の祭祀を、ぜんぶ手当たり次第に参照した)と。


詔曰:「今大辟之刑千有餘條,律令煩多,百有餘萬言;奇請,它比,日以益滋。自明習者不知所由,欲以曉喻眾庶,不亦難乎!於以羅元元之民,夭絕亡辜,豈不哀哉!其議減死刑及可蠲除約省者,令較然易知,條奏!」時有司不能廣宣上意,徒鉤摭微細,毛舉數事,以塞詔而已。

成帝は詔した。「いま、大辟之刑は、1千余条ある。100余万字ある。おおすぎる。刑罰を整理して軽減しろ」と。有司たちは、法令の整理に手がつけられない。

ぼくは思う。整理者たる王莽が、いま登場しようとしている。
ぼくは思う。百科事典は権威をもつ。中国皇帝は、中華世界のすべての書物を体系化して、まとめようとする。テキストを全て編集して決定版をつくることは、天下を支配することに等しい。いま漢家は、その支配力が薄まっている。劉向に図書館を任せるなど、整理のニーズは感じているが、追いついていない。王莽の登場が待たれるなあ!
ぼくは思う。父の宣帝から「儒学に傾倒しすぎて、バランス感覚のないやつ」と心配された元帝。この元帝は、儒家にありそうな「優しすぎる」政治をしたことが、弊害を生んだのではない。おそらく宣帝は「優しすぎる」ことを心配したのだろうが、宣帝の心配は的中しない。
ぼくが思うに、元帝が「祭礼とはいかにあるべきか」という質問を設定したことが、漢家にとっての弊害となった。儒家の問いは、故事の整理によって証明されねばならない。あたかも近代の科学が、観察と実験によって証明されなければならないように。故事を研究して、果てしなく頭の中がグルグルすることになった。この時代には、特定の著者をもった、確固たるテキストの原本があるわけじゃない。著者もテキストも生成的である。その意味で、ロラン・バルトの世界である。バルトの世界において、子世代の王莽の登場がセットされた。
ぼくは思う。勉強で肝心なのは、問題を解くことではなく、問題を設けること。誰もが「分からないが、知りたくもない」「分かりきっており、考えようとも思わない」ことに、問題を見いだすと、思考がおおきく転回する。元帝が祭礼について問題設定したことが、前漢の末路へのレールを引いたような気がする。
スフィンクスが余計な質問を投げるから、みんな不幸になるのだ。


匈奴單于遣右皋林王伊邪莫演等奉獻,朝正月。

匈奴の単于の使者が、正月に朝見する。130618

中華書局版970年で、時期についてもめている。

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前27、王莽のおじが五侯、夜郎が叛く

春、伊邪莫演が漢家に降伏する

孝成皇帝上之上河平二年(甲午,公元前二七年)
春,伊邪莫演罷歸,自言欲降:「即不受我,我自殺,終不敢還歸。」使者以聞,下公卿議。議者或言:「宜如故事,受其降。」光祿大夫谷永、議郎杜欽以為:「漢興,匈奴數為邊害,故設金爵之賞以待降者。(中略)不如勿受,以昭日月之信,抑詐諼之謀,懷附親之心,便!」對奏,天子從之。遣中郎將王舜往問降狀,伊邪莫演曰:「我病狂,妄言耳。」遣去。歸到,官位如故,不肯令見漢使。

春、匈奴の伊邪莫演が、漢家に降伏したい。議者は「降伏を入れよう」という。光祿大夫の谷永、議郎の杜欽はいう。

ぼくは思う。許皇后と論争していたのも、劉向、谷永、杜欽である。この3人が、この時期の見識ある人物なのね。『漢書』谷永伝、『漢書』杜欽伝をそれぞれ読みましょう。

「漢初から匈奴は脅威であり、金爵の賞をあたえて降伏を待っていた。いま降ってきた伊邪莫演は、匈奴の主流ではない。伊邪莫演の降伏は詐欺かも知れないし、かりに伊邪莫演を受け入れたら匈奴の主流との関係が悪化するかも知れない。降伏を受け入れるな」と。
成帝は、降伏を入れない。中郎将の王舜を、伊邪莫演のもとにゆかせ、降伏の意志を確認した。伊邪莫演は「降伏はウソだ」といって、去った。伊邪莫演は匈奴の領域に帰ると、漢家の使者と会わない。

胡三省はいう。史書いわく、谷永と杜欽は、匈奴の事情をよく分かっていた。
ぼくは思う。『資治通鑑』は匈奴の記事がおおい、とぼくは感じる。だが、匈奴を漢家と対等の規模の国とみるなら、匈奴の記事が少ないと見なすべきだろう。いまの抄訳では、匈奴や西域は、だいぶザツにやってます。


夏、王莽のおじが同日の5侯となる

夏,四月,楚國雨雹,大如釜。
徙山陽王康為定陶王。

夏4月、楚国でおおきな雹がふる。
山陽王の劉康を、定陶王とする。

六月,上悉封諸舅:王譚為平阿侯,商為成都侯,立為紅陽侯,根為曲陽侯,逢時為高平侯。五人同日封,故世謂之「五侯」。太后母李氏更嫁為河內苟賓妻,生子參;太后欲以田□分為比而封之。上曰:「封田氏,非正也。」以參為侍中、水衡都尉。

6月、成帝はおじたちを封じた。王譚を平阿侯、王商を成都侯、王立を紅陽侯、王根を曲陽侯,王逢時を高平侯とする。

封地が属する郡など、位置情報は中華書局版971頁。

5人は同日に封じられ、「五侯」といわれる。王元后の母の李氏は、河地の苟賓と再婚して、荀参を生む。王元后は、田蚡の故事にならって、荀参を侯爵にしたい。

李奇はいう。田蚡と景帝の王皇后は、母が同じで父が違う。

だが成帝は「田蚡を侯爵にした、故事が正しくない」という。荀参は侍中・水衡都尉となる。

ぼくは思う。成帝は、母である王元后には、ものを申せる。皇后である許氏には、論争をふっかけられ、タジタジである。成帝は、それほど学問ができないから。それほど、学問という文化資本は、前漢という、制度が混乱して、学問に対するニーズが高まった時期において、優位にたてる材料である。王莽が出てくるわけだ。


御史大夫張忠奏京兆尹王尊暴虐倨慢,尊坐免官;吏民多稱惜之。湖三老公乘興等上書訟(中略)。書奏,天子復以尊為徐州刺史。

御史大夫の張忠が「京兆尹の王尊は、暴虐で倨慢である」と上奏した。王尊は免官された。吏民はおおくが王尊を惜しんで上書した。はぶく。

厳耕望氏の本で、京兆尹は激務なので、地方官として、もっとも優秀な人材が任命されるとあった。王尊は、京兆尹がつとまった、稀有な人材だったのでしょう。そのぶん、クセも強かったはず。成帝期の名物キャラですね。『漢書』王尊伝を読もう。列伝46のようです。

湖県(京兆)の三老の公乗らは、上書して王尊を弁護した。成帝は、王尊を徐州刺史とした。

胡三省はいう。公乗とは、爵位の名を姓にしたのだ。ここは公乗さん。
ぼくは思う。わざわざ王尊が配属されるということは、徐州刺史は、わりに舵取りが難しいポストだったのだろうか。とくに徐州の反乱は書かれていない。のちに呂母が出てくるのは、青州だし。


夜郎王が自大し、牂柯太守の陳立が鎮定

夜郎王興、金句町王禹、漏臥侯俞更舉兵相攻。牂柯太守請發兵誅興等。議者以為道遠不可擊,乃遣太中大夫蜀郡張匡持節和解。興等不從命,刻木象漢吏,立道旁,射之。
杜欽說大將軍王鳳曰:「蠻夷王侯輕易漢使,不憚國威,恐議者選耎,復守和解;太守察動靜有變,乃以聞(中略)。即以為不毛之地,無用之民,聖王不以勞中國,宜罷郡,放棄其民,絕其王侯勿復通。如以先帝所立累世之功不可墮壞,亦宜因其萌牙,早斷絕之。及已成形然後戰師,則萬姓被害。」

夜郎王の興が起兵した。牂柯太守は、援兵をもとめるが、牂柯は遠すぎる。太中大夫する蜀郡の張匡が使者となるが、和解できず。夜郎王は、漢吏の木像をつくり、それを射た。

さすが夜郎だけあって、セコい。本物を射ればいいのにw

杜欽は大将軍の王鳳に「南蛮の夜郎は、放棄せよ。奪取するためのコストのほうが大きい」という。

大將軍鳳於是薦金城司馬臨邛陳立為牂柯太守。立至牂柯,諭告夜郎王興,興不從命;立請誅之,未報。(中略)蠻夷共斬翁指,持首出降,西夷遂平。

大將軍の王鳳は、金城司馬する臨邛の陳立を、牂柯太守とした。陳立の戦いにより、西夷は平らいだ。130618

戦況ははぶく。
『考異』はいう。西南夷伝では、河平期に平定されたとある。だが、胡旦『漢春秋』には、この歳の前27年の11月に平定したという。根拠はわからない。

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前26、劉向が経伝を校訂し、成帝に王鳳を警告

春夏、楚王の子を広戚侯とする

孝成皇帝上之上河平三年(乙未,公元前二六年)
春,正月,楚王囂來朝。二月,乙亥,詔以囂素行純茂,特加顯異,封其子勳為廣戚侯。 丙戌,犍為地震,山崩,壅江水,水逆流。

春正月、楚王の劉囂(宣帝の子、成帝の叔父)が来朝した。2月乙亥、劉囂の子・劉勲を廣戚侯とした。2月丙戌、犍為で地震あり。山が崩れて、長江が塞がって逆流した。

ぼくは思う。王莽が20歳になりました!


秋冬、劉向が、天下の経伝、諸子、詩賦を整理

秋,八月,乙卯晦,日有食之。
上以中秘書頗散亡,使謁者陳農求遺書於天下。詔光祿大夫劉向校經傳、諸子、詩賦,步兵校尉任宏校兵書,太史令尹鹹校數術,侍醫李柱國校方技。每一書已,向輒條其篇目,撮其指意,錄而奏之。

秋8月乙卯みそか、日食あり。
成帝は、中秘書の蔵書が散亡するので、謁者の陳農に天下からテキストを集めさせた。光祿大夫の劉向に、經傳、諸子、詩賦を整理させた。步兵校尉の任宏校に兵書を整理させた。太史令の尹鹹を數術、侍醫の李柱國に方技を整理させた。1書の整理がおわると、條ごとに篇目をつけ、意味をまとめ、記録して報告した。

劉向以王氏權位太盛,而上方向《詩》、《書》古文,向乃因《尚書‧洪範》,集合上古以來,歷春秋、六國至秦、漢符瑞、災異之記,推跡行事,連傅禍福,著其占驗,比類相從,各有條目,凡十一篇,號曰《洪範五行傳論》,奏之。天子心知向忠精,故為鳳兄弟起此論也;然終不能奪王氏權。

劉向は、王氏の権位がとても盛んなので、古文『尚書』洪範などにもとづき、『洪範五行伝論』を上奏した。成帝は、劉向の心が忠精であると知る。ゆいえに王鳳の兄弟のために、劉向に議論をさせた。これがのちに、王莽による簒奪をまねく。

ぼくは思う。劉向は、成帝に「王氏の権力を削らないと」と、暗黙に主張した。だが成帝はその意味がわからず、劉向の成果を、王鳳と共有してしまった。だから前漢は滅亡したと。
ぼくが思うに、王莽までは「ふつうの外戚」です。王元后の兄弟が、つぎつぎと最高位につくのが異常(前例が少ない)だが、それ以外にはとくに特徴はない。大司馬・大将軍の組合せを越えない。金銭的に豪奢でも、そちらでガス抜きしてくれるなら、漢家にとって何ら問題ない。王莽という「問題を解く者」が出てきてしまうから、簒奪が可能になるわけで。
ぼくは思う。以前から思っていた。「説明をつけてしまう」ことと「支配する」ことは、限りなく等しいと。王莽は、漢家とはどういう王朝で、どのように運用すべきかを、見事に説明してしまった。だから漢家が説明の対象となり、その瞬間に支配された。


河復決平原,流入濟南、千乘,所壞敗者半建始時。復遣王延世與丞相史楊焉及將作大匠許商、諫大夫乘馬延年同作治,六月乃成。復賜延世黃金百斤。治河卒非受平賈者,為著外繇六月。

黄河が平原で決壊して、済南と千乗に流れこむ。ふたたび、王延生と、丞相史の楊焉、將作大匠の許商、諫大夫の乘馬延年に、治水をさせた。堤防が6ヶ月でできた。治水工事に従事した日数が6ヶ月未満(途中参加、途中リタイア)した者でも、6ヶ月なみの賃金を払った。130620

ぼくは思う。中華書局版977頁で解釈がもめている。

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前25、王鳳が、丞相の王商を病死させる

春夏、王鳳が、丞相の王商を病死させる

孝成皇帝上之上河平四年(丙申,公元前二五年)
春,正月,匈奴單于來朝。赦天下徒。
三月,癸丑朔,日有食之。

春正月、匈奴の単于が来朝した。天下の刑徒を赦する。
3月癸丑ついたち、日食した。

琅邪太守楊肜與王鳳連昏,其郡有災害,丞相王商按問之。鳳以為請,商不聽,竟奏免肜,奏果寢不下。鳳以是怨商,陰求其短,使頻陽耿定上書,言「商與父傅婢通;及女弟淫亂,奴殺其私夫,疑商教使。」天子以為暗昧之過,不足以傷大臣。鳳固爭,下其事司隸。太中大夫蜀郡張匡,素佞巧,復上書極言詆毀商。有司奏請召商詣詔獄。上素重商,知匡言多險,制曰:「勿治!」鳳固爭之。

琅邪太守の楊肜と、王鳳は婚姻関係がある。瑯邪で災害があるので、丞相の王商が、事情を按問した。王鳳は楊肜を弁護し、王商は楊肜を罷免したい。成帝は王商をみとめた。王鳳は王商をうらむ。

ぼくは思う。王鳳のライバルの王商。『漢書』列伝52が、王商・史丹・傅喜伝です。べつの家の王氏。涿郡の人。王鳳の弟にも王商がいるから、ややこしい。

しきりに頻陽(左馮翊)の耿定に、王商の短所を上書させた。王鳳がしつこいので、成帝は王鳳を司隷に捕らえさせた。太中大夫する蜀郡の張匡はへつらい、王商を批判した。成帝は王商を重んじるので、「王商を裁くな」という。王鳳は「王商を裁け」とねばる。

夏,四月,壬寅,詔收商丞相印綬。商免相三日,發病,歐血薨,謚曰戾侯。而商子弟親屬為駙馬都尉、侍中、中常侍、諸曹、大夫、郎吏者,皆出補吏,莫得留給事、宿衛者。有司奏請除國邑;有詔:「長子安嗣爵為樂昌侯。」

夏4月壬寅、王商から丞相の印綬を没収する。王商は免じられて3日で、発病して死んだ。戻侯とする。王商の子弟たちは、官職をやめた。有司は「王商の爵位を没収しよう」というが、成帝は王商の子・王安嗣に、楽昌侯を嗣がせた。

胡三省はいう。成帝の母の党与は、衰微した。


張禹が丞相となり、西域の罽賓に通じる

上之為太子也,受《論語》於蓮勺張禹,及即位,賜爵關內侯,拜為諸吏、光祿大夫,秩中二千石,給事中,領尚書事。禹與王鳳並領尚書,內不自安,數病,上書乞骸骨,欲退避鳳;上不許,撫待愈厚。六月,丙戌,以禹為丞相,封安昌侯。
庚戌,楚孝王囂薨。

成帝は太子になると、張禹から『論語』をならう。即位すると、張禹を関内侯とする。張禹は、王鳳とならんで尚書を領する。張禹は(王鳳と衝突したら危険なので)免官を願う。成帝は免官しない。6月丙戌、張禹は丞相、安昌侯となる。
6月庚戌、楚王の劉囂が薨じた。

初,武帝通西域,罽賓自以絕遠,漢兵不能至,獨不服,數剽殺漢使。久之,漢使者文忠與容屈王子陰末赴合謀攻殺其王;立陰末赴為罽賓王。後軍候趙德使罽賓,與陰末赴相失;陰末赴鎖琅當德,殺副已下七十餘人,遣使者上書謝。孝元帝以其絕域,不錄,放其使者於縣度,絕而不通。及帝即位,復遣使獻謝罪。漢欲遣使者報送其使。杜欽說王鳳曰(中略)於是鳳白從欽言。罽賓實利賞賜賈市,其使數年而壹至雲。

武帝のとき西域に通じたが、罽賓には通じない。漢兵は到達できず、使者は殺された。杜欽は王鳳に、罽賓に通じる政策をいう。王鳳は杜欽を採用した。罽賓が利益につられ、漢家とつながった。130620

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前24、王鳳が、定陶王・王章・馮野王を退ける

孝成皇帝上之上陽朔元年(丁酉,公元前二四年)
春,二月,丁未晦,日有食之。三月,赦天下徒。
冬,京兆尹泰山王章下獄,死。

春2月丁未みそか、日食。3月、天下の刑徒を赦する。
冬、京兆尹する泰山の王章が下獄され、死んだ。

時大將軍鳳用事,上謙讓無所顓。左右嘗薦光祿大夫劉向少子歆通達有異材,上召見歆,誦讀詩賦,甚悅之,欲以為中常侍;召取衣冠,臨當拜,左右皆曰:「未曉大將軍。」上曰:「此小事,何須關大將軍!」左右叩頭爭之,上於是語鳳,鳳以為不可,乃止。王氏子弟皆卿、大夫、侍中、諸曹,分據勢官,滿朝廷。杜欽見鳳專政泰重,戒之曰:「願將軍由周公之謙懼,損穰侯之威,放武安之欲,毋使范雎之徒得間其說。」鳳不聽。

ときに大将軍の王鳳が政事をやり、成帝は王鳳に謙譲して、専決できない。左右の者が、かつて光祿大夫の劉向の少子・劉歆を、中常侍に推薦した。成帝は「中常侍の人事など、王鳳に確認しなくてよい」というが、左右は「いいえ、王鳳の合意をとってくれ」と叩頭した。果たして王鳳が反対して、劉欽は中常侍にならず。
王氏の子弟は、朝廷に満ちた。九卿、大夫、侍中、諸曹となり、それぞれの官職に散らばる。杜欽は王鳳の専権をみて、王鳳を戒めた。「周公旦のように謙懼し、穣侯の威を損ない、武安の欲を放て。范雎のように、つかのまの権勢を楽しむな」と。王鳳は聴かず。

胡三省はいう。周公が成王を輔政するとき、管蔡で反乱があるとの流言があると、周公は東に飛び出した。周公の懼れがわかる。ぼくは思う。杜欽いわく、王鳳も周公のように高位にあるのだから、反対者に足下を救われることを懼れ、警戒を怠るな。できるなら権限を自ら削れ。ということか。
胡三省はいう。穣侯と范雎は『資治通鑑』周紀にある。武安侯の田蚡は、武帝紀にある。


日食の原因は、定陶共王か王鳳か

時上無繼嗣,體常不平。定陶共王來朝,太后與上承先帝意,遇共王甚厚,賞賜十倍於它王,不以往事為纖介;留之京師,不遣歸國。上謂共王:「我未有子,人命不諱。一朝有它,且不復相見,爾長留侍我矣!」其後天子疾益有瘳,共王因留國邸,旦夕侍上。上甚親重之。大將軍鳳心不便共王在京師,會日食,鳳因言:「日食,陰盛之象。定陶王雖親,於禮當奉籓在國;今留侍京師,詭正非常,故天見戒,宜遣王之國。」上不得已於鳳而許之。共王辭去,上與相對涕泣而決。

ときの成帝には継嗣がない。定陶共王が来朝した。王元后と成帝は、元帝の意志をうけて、定陶共王を厚遇した。

胡三省はいう。元帝は、定陶共王を皇太子にしたかった。
ぼくは思う。成帝からつぎの世代へのバトンが回らないと、父・元帝の呪いが再登場する。成帝は「私に子ができないのは、私が皇帝になるべきでは、なかったからか」と考える。儒者たちによる長子相続の主張も、誤りに思えてくる。王元后まで、定陶共王を支持している。「わが子の系統で子孫が栄えないなら、べつの妻の子の系統に移っても仕方がない」と考えているみたい。王元后は、外戚の王氏よりも、皇帝の劉氏の血統を重んじている。いわゆる夫婦別姓でも、王元后は「漢家のおばさん」である。のちに王莽にいうようにね。

賞賜は、他の王の10倍である。京師にとどめ、定陶に帰国さない。成帝は定陶共王にいう。「私には子がない。京師にいて私に仕えてくれ」と。成帝が病気になると、定陶共王が朝夕はべる。
王鳳は、日食を定陶共王が京師にいるせいだとした。定陶共王は京師を辞去するとき、成帝と涕泣しあった。

王章素剛直敢言,雖為鳳所舉,非鳳專權,不親附鳳,乃奏封事,言:「日食之咎,皆鳳專權蔽主之過。」上召見章,延問以事。章對曰:

王章は剛直・敢言である。王鳳により京兆尹に挙げてもらったが、王鳳の専権を非難した。「日食は王鳳が専権して、成帝をしのぐから」という。成帝は「もっと詳しく」という。王商はこたえた。

「天道聰明,佑善而災惡,以瑞異為符效。今陛下以未有繼嗣,引近定陶王,所以承宗廟,重社稷,上順天心,下安百姓,此正議善事,當有祥瑞,何故致災異!災異之發,為大臣顓政者也。今聞大將軍猥歸日食之咎於定陶王,建遣之國,苟欲使天子孤立於上,顓擅朝事以便其私,非忠臣也。且日食,陰侵陽,臣顓君之咎。今政事大小皆自鳳出,天子曾不壹舉手,鳳不內省責,反歸咎善人,推遠定陶王。且鳳誣罔不忠,非一事也。前丞相樂昌侯商,本以先帝外屬,內行篤,有威重,位歷將相,國家柱石臣也,其人守正,不肯屈節隨鳳委曲;卒用閨門之事為鳳所罷,身以憂死,眾庶愍之。又鳳知其小婦弟張美人已嘗適人,於禮不宜配御至尊,托以為宜子,內之後宮,苟以私其妻弟;聞張美人未嘗任身就館也。且羌、胡尚殺首子以蕩腸正世,況於天子,而近已出之女也!此三者皆大事,陛下所自見,足以知其餘及它所不見者。鳳不可令久典事,宜退使就第,選忠賢以代之!」

「正しくないと災異がある。陛下が定陶共王を京師におくのは、宗廟を承け、社稷を重んじるから。これは正しい。定陶共王を帰藩させた王鳳が正しくないから、日食になった。さきの丞相の王商は、宣帝の外戚であったが、王鳳が憂死させた。王鳳は、小婦弟の張美人が既婚者なのに、後宮に入れた。羌胡ですら、嫁いで最初に産んだ子を(前夫の子かも知れないので)殺す。まして成帝に既婚者を嫁がせるとは。定陶共王、王商、張美人の3つが、王鳳の悪事である。王鳳の官職をやめさせ、忠賢な者に交代させよ」と。

ぼくは思う。王鳳の事績が(批判者の目を通してだが)よく整理されている。王鳳の強さは、この3つで語り尽くすことができる。王鳳ファンとして、感謝せねばならない。
そして劉歆の件は、やはり些事だったw


京兆尹の王章が、馮野王を宰相に薦める

自鳳之白罷商,後遣定陶王也,上不能平;及聞章言,天子感寤,納之,謂章曰:「微京兆尹直言,吾不聞社稷計。且唯賢知賢,君試為朕求可以自輔者。」
於是章奏封事,薦信都王舅琅邪太守馮野王,忠信質直,知謀有餘。以王舅出,以賢復入,明聖主樂進賢也。上自為太子時,數聞野王先帝名卿,聲譽出鳳遠甚,方倚欲以代鳳。章每召見,上輒辟左右。時太后從弟子侍中音獨側聽,具知章言,以語鳳。鳳聞之,甚憂懼。杜欽令鳳稱病出就第,上疏乞骸骨,其辭指甚哀。太后聞之,為垂涕,不御食。上少而親倚鳳,弗忍廢,乃優詔報鳳,強起之;於是鳳起視事。

王商と定陶共王のことは、成帝も不満だった。成帝はいう。「京兆尹の王章は、私と同じ意見である。忠賢な者に執政させよう」と。
王商は封事にて、信都王のおじ・瑯邪太守の馮野王を推薦した。成帝は太子のとき、馮野王の名声を聴いていたので、王鳳を馮野王に代えたい。ときに、王元后の従弟子の侍中する王音が、馮野王を用いる計画を聴いた。

元后伝はいう。王元后の従弟の衛尉する王弘は、子を侍中の王音という。
師古はいう。王弘は、王元后の叔父である。王音は王元后の従父弟である。師古が見るに、のちに顔氏の注釈で「王音は従舅なので用事する」とある。王弘は、王元后の叔父でよい。
ぼくは思う。王音は、王鳳や王元后と同世代になりました。

王音が王鳳に伝えた。王鳳が「病気なので免官してくれ」という。王元后が垂涕したので、成帝は王鳳を退けられない。

上使尚書劾奏章:「知野王前以王舅出補吏,而私薦之,欲令在朝,阿附諸侯;又知張美人體御至尊,而妄稱引羌胡殺子蕩腸,非所宜言。」下章吏。廷尉致其大逆罪,以為「比上夷狄,欲絕繼嗣之端,背畔天子,私為定陶王。」章竟死獄中,妻子徙合浦。自是公卿見鳳,側目而視。馮野王懼不自安,遂病;滿三月,賜告,與妻子歸杜陵就醫藥。

成帝は尚書に、王章を劾めさせた。「馮野王は、王の舅として長安を出た(九卿でなく上郡太守となった)のに、王章はかってに中央官に推薦した。また王鳳がくれた張美人は、その身体は至尊である。だが王章は、羌胡が初子を殺す故事をみだりに引用して、張美人をけなした」と。

ぼくは思う。成帝は、王章に合意していたくせに。王鳳への「クーデター」は、すべて王章に、なすりつけられた。

王章は獄中で死に、妻子は合浦へ。公卿は王鳳を見るとき、側目して視た。馮野王は病気になった。

大將軍鳳風御史中丞劾奏「野王賜告養病而私自便,持虎符出界歸家,奉詔不敬。」杜欽奏記於鳳曰:「二千石病,賜告得歸,有故事;不得去郡,亡著令。《傳》曰:『賞疑從予,』所以廣恩勸功也;『罰疑從去,』所以慎刑,闕難知也。今釋令與故事而假不敬之法,甚違『闕疑從去』之意。即以二千石守千里之地,任兵馬之重,不宜去郡,將以制刑為後法者,則野王之罪在未制令前也。刑賞大信,不可不慎。」鳳不聽,竟免野王官。

王鳳は、御史中丞に馮野王をそしらせた。「病気だといい、虎符をもったまま(任地である上郡の)郡境をこえ、帰宅した。不敬である」と。杜欽は王鳳に、馮野王を弁護する法的な根拠をいう。だが王鳳は馮野王を免官した。

時眾庶多冤王章譏朝廷者,欽欲救其過,復說鳳曰:「京兆尹章,所坐事密,自京師不曉,況於遠方!恐天下不知章實有罪,而以為坐言事。如是,塞爭引之原,損寬明之德。欽愚以為宜因章事舉直言極諫,並見郎從官,展盡其意,加於往前,以明示四方,使天下咸知主上聖明,不以言罪下也。若此,則流言消釋,疑惑著明。」鳳白行其策焉。

ときに衆庶は「王章は無罪だった。王鳳は、やりすぎだ」という。杜欽が王鳳を諫めた。

胡三省はいう。杜欽の罪は、谷永よりも浮(表面的でウワベだけ)である。杜欽は、王鳳とともに計議した。王鳳のために文章をつくったことは、過失である。
ぼくは思う。王鳳のバランスを支えた杜欽に着目せねば。『漢書』杜延年伝にある。杜欽は、杜延年の子である。


是歲,陳留太守薛宣為左馮翊。宣為郡,所至有聲跡。宣子惠為彭城令,宣嘗過其縣,心知惠不能,不問以吏事。或問宣:「何不教戒惠以吏職?」宣笑曰:「吏道以法令為師,可問而知;及能與不能,自有資材,何可學也!」眾人傳稱,以宣言為然。

この歳、陳留太守の薛宣は、左馮翊となる。郡の統治がうまい。薛宣の子・薛恵は、県の統治もできない。或者が薛宣に「なんで子の薛恵に、統治のコツを教えないか」ときく。薛宣は笑って、「統治の腕前は素質であって、学習できるものでない」という。衆人は合意して、薛宣をほめた。130620

胡三省はいう。衆人は合意したかも知れないが、ほんとにそうかよ。

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前23、劉歆が、王氏を退けろと成帝に極諫する

孝成皇帝上之上陽朔二年(戊戌,公元前二三年)
春,三月,大赦天下。御史大夫張忠卒。

春3月、天下を大赦した。御史大夫の張忠が卒した。

王莽が23歳である。


劉歆が、王氏を退けろと成帝に極諫する

夏,四月,丁卯,以侍中、太僕王音為御史大夫。於是王氏愈盛,郡國守相、刺史皆出其門下。五侯群弟爭為奢侈,賂遺珍寶,四面而至,皆通敏人事,好士養賢,傾財施予以相高尚;賓客滿門,競為之聲譽。劉向謂陳湯曰:「今災異如此,而外家日盛,其漸必危劉氏。吾幸得以同姓末屬,累世蒙漢厚恩,身為宗室遺老,歷事三主。上以我先帝舊臣,每進見,常加優禮。吾而不言,孰當言者!」遂上封事極諫曰:

夏4月丁卯、侍中・太僕の王音を、御史大夫とする。いよいよ王氏が盛んとなる。郡國の守相、刺史は、みな王氏の門下から出る。五侯の群弟は、奢侈をきそう。賓客が王氏のもとに満ちる。
劉向は陳湯にいう。「今日の災異は、外戚が盛んになり、劉氏が弱まるからだ。

ぼくは思う。董仲舒が始め、劉向によって確立する災異説は、王氏を批判するという、現実的な要請によってつくられた。さきに災異説があり、王氏に適用されたのではない。劉向がリアルタイムで感じている問題意識が、災異説をつくる動機になり、材料にもなった。
ぼくは思う。孟子と荀子の違いは、戦国中期と後期の違いにあるという。生産力の向上とか、戦国諸国の淘汰とか。このように、外的要因から思想を理解するのは、1つの方向としては有効である。もちろん、それだけじゃつまらんけど。
ぼくは思う。後漢において、「王莽を批判する」ことは、政治的に正しく、学問的にも正しいとされただろう。だから劉向の学問は、権威をもった。劉向は、皮肉なことに、彼が批判した王莽の悪事によって、自身の学説を後世に定着させた。もし王氏の悪事がなければ、劉向の学説は、着目されにくい。

私(劉向)は、皇帝と同姓であり、3代の皇帝に仕えてきた。成帝は私を優遇してくれるが(王氏に警戒せよという)本心を言わないできた」と。陳湯に告白した劉向は、成帝を極諫した。

「(前略)夫大臣操權柄,持國政,未有不為害者也。故《書》曰:『臣之有作威作福,害於而家,凶於而國。』孔子曰:『祿去公室,政逮大夫,』危亡之兆也。今王氏一姓,乘硃輪華轂者二十三人,青、紫、貂、蟬充盈幄內,魚鱗左右。大將軍秉事用權,五侯驕奢僭盛,並作威福,擊斷自恣,行污而寄治,身私而托公,依東宮之尊,假甥舅之親,以為威重。尚書、九卿、州牧、郡守皆出其門,管執樞機,朋黨比周;稱譽者登進,忤恨者誅傷;游談者助之說,執政者為之言,排擯宗室,孤弱公族,其有智能者,尤非毀而不進,遠絕宗室之任,不令得給事朝省,恐其與己分權;數稱燕王、蓋主以疑上心,避諱呂、霍而弗肯稱(中略)如不行此策,田氏復見於今,六卿必起於漢,為後嗣憂,昭昭甚明。唯陛下深留聖思!」
書奏,天子召見向,歎息悲傷其意,謂曰:「君且休矣,吾將思之。」然終不能用其言。

劉向はいう。「王氏が国政をにぎる。『書経』も『論語』も、臣下が主君を害することを警告する。

師古はいう。『論語』にて後嗣は、魯の公室から権限が去ること5世、政事は大夫に4世のあいだ握られている、という。ゆえに三桓氏の子孫は衰微した。

いま王氏のうち、青・紫の綬をもち、貂・蝉の冠をつける者が、成帝の左右に、魚鱗のように充満している。王氏の五侯は、驕奢である。尚書、九卿、州牧、郡守は、みな王氏の門下から輩出されている。王氏は、燕王や蓋主のことをいい、

胡三省はいう。燕王と蓋主は、昭帝紀にある。
師古はいう。宗室の親近する者が反逆した事件である。
ぼくは思う。王氏は「劉氏に権限をあたえると、反逆する。だから外戚が権限を持っていたほうが良いのよ」という風潮をつくる。燕王と蓋主のことを、ぼくは知らない。いかんなあ。昭帝期とか、なにも知らんぞ。

前漢の呂氏や霍氏のことを言わない。

胡三省はいう。呂氏と霍氏は、外戚として権限をもち、のちに一族が誅滅された。だから王氏は、この外戚の前例について、言いたがらない。

いま私の(王氏を退けろという)意見を採用しなければ、春秋斉が田氏に簒奪されたように、劉氏は簒奪されてしまう。成帝は、よく考えてください」と。
成帝は劉向に会い、劉向の本心について、悲歎して悲傷した。だが劉向の意見を、成帝は用いられない(王鳳を廃することができない)。

ぼくは思う。『資治通鑑』はここで巻が変わる。ここまでが王鳳のターンで、次の巻の冒頭で王鳳が死ぬ。王鳳の弟たちが宰相となり、やがて王莽が登場してゆく。


秋,關東大水。八月,甲申,定陶共王康薨。
是歲,徙信都王興為中山王。

秋、関東で洪水。8月甲申、定陶共王が薨じた。

ぼくは思う。成帝の弟が死んだ。成帝も定陶共王も、王莽と同世代である。定陶共王の子が、哀帝である。つまり哀帝は、王莽より世代が1つ下なのだ。この哀帝も、後継者を残しそこねる。

この歳、信都王の劉興を、中山王にうつす。130620

ぼくは補う。これが平帝の父である。平帝もまた、哀帝と同世代である。王莽より1つ世代が下である。王莽は「子どもたちの面倒をみる」ことで、国政を整備した。
ぼくは思う。ここで『資治通鑑』は巻30が終わる。成帝は、上の上、上の下、中、下の4巻で構成される。下巻の途中(というか、開始早々)で、成帝が死んで哀帝の時代となる。成帝の上の上、上の下をまとめて「上」とし、中と下で「下」とするくらいで、良いと思う。いま、まだ上の上が終わったところ。

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