-後漢 > 『漢書』郊祀志 高皇帝と孝文帝の時代の記述

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高皇帝・孝文帝の時代

『漢書』郊祀志 上より、高皇帝と孝文帝の時代を抄訳。

高皇帝が祭祀を重んじて、秦の方法をつぐ

漢興,高祖初起,殺大虵,有物曰:「蛇,白帝子,而殺者赤帝子也。」

漢が興って、高祖がはじめて起つとき、大虵を殺した。鬼神が出てきて、「蛇は白帝の子である。蛇を殺したのは、赤帝の子である」という。

及高祖禱豐枌榆社,侚沛,為沛公,則祀蚩尤,釁鼓旗。遂以十月至霸上,立為漢王。因以十月為年首,色上赤。

高祖が豊の枌榆郷の社をまつる。

鄭氏はいう。枌榆とは、郷の名である。社は枌榆にある。
晋灼はいう。枌とは、白榆である。社は豊の東北15里にある。
師古はいう。白榆の樹を社神とするから、この名がついた。

沛をしたがえて沛公となると、蚩尤をまつり、鼓旗に血をぬった。十月に霸上(長安の東)にゆき、立って漢王となった。ゆえに10月を年のはじめとして、色は赤をとうとぶ。

二年(冬), 東擊項籍而還入關,問:「故秦時上帝祠何帝也?」對曰:「四帝,有白、青、黃、赤帝之祠。」高祖曰:「吾聞天有五帝,而四,何也?」莫知其說。於是高祖曰:「吾知之矣,乃待我而具五也。」乃立黑帝祠,名曰北畤。有司進祠,上不親往。悉召故秦祀官,復置太祝、太宰,如其故儀禮。因令縣為公社。 下詔曰:「吾甚重祠而敬祭。今上帝之祭及山川諸神當祠者,各以其時禮祠之如故。」

高皇帝の2年冬、東して項籍を撃ちて還りて関に入る。高皇帝が問う。「もとの秦のとき、上帝の祠には、帝を祭ったか」と。答えた。「四帝です。白帝・青帝・黄帝・赤帝の祠がある」と。

何焯はいう。黒帝がない。秦は水徳=黒帝にあたる。

高皇帝「私は天に五帝があると聞くが、なぜ1人足りないのか」と。だれも答えを知らない。だから高皇帝は、「ちゃんと五帝を(1人残らず)祭ろう」と。黒帝の祠を立てて、「北畤」と名づけた。有司が祠を祭って、高皇帝は自らは行かない。もとの秦の祀官を全て召して、もとの儀礼のまま、太祝・太宰をさせた。

ぼくは思う。前漢のすべての祭祀は、とりあえずは秦家の流用である。曹丕も後漢の祭祀を流用した。儀礼の担当官も、漢代(曹操期)からの流用と言っていいだろう。軍事や政治が優先だから、この態度は「普通」なんだが、儒学の当為が強調される時代においては、手抜き・サボりの類いと見なされよう。

県に公社(官社)を立てさせた。詔を下した。「私は祠を立てて祭を敬することを、甚だ重んじる。いま上帝の祭と山川の諸神の祭るべき者は、みな時々に(季節がきたら)もとどおり祠を祭れ」と。

王朝の性質や運命は、初代のキャラに左右されるなら。漢代に祭祀=儒教が、みっちり整備される伏線は、高皇帝が張った。これを実現したのが王莽だった!高皇帝と王莽が、前漢という王朝をはさんで、1つにつながる。


後四歲,天下已定,詔御史令豐治枌榆社,常以時,春以羊彘祠之。令祝立蚩尤之祠於長安。長安置祠祀官、女巫。其梁巫祠天、地、天社、天水、房中、(當)〔堂〕上之屬; 晉巫祠五帝、東君、雲中君、巫社、巫祠、族人炊之屬; 秦巫祠杜主、巫保、族纍之屬; 荊巫祠堂下、巫先、司命、施糜之屬; 九天巫祠九天: 皆以歲時祠宮中。其河巫祠河於臨晉,而南山巫祠南山、秦中。秦中者,二世皇帝也。 各有時日。

のち4年して、天下が定まると、御史に詔して、豊で枌榆の社を治させた。つねに季節がめぐるたび、春には羊彘を祠にそなえた。祝官に蚩尤の祠を長安に立てさせた。

「祝」をちくま訳は「はふり」と訓読みして、分かったような気になるが、じつはよく分からない。『漢書補注』によると、校勘により「祝官」とすべきかも知れず、秦代の「祀官」に通じる。祭祀を担当する官職、くらいの理解でいいでしょう。

長安に祀官・女巫を置いて祭った。
梁国の巫は、天・地・天社・天水・房中・堂上のたぐいを祭る。

沈欽韓はいう。『後漢書』桓帝紀に「郡国の諸々の房祀を壊す」とある。ラン巴伝に「巴 ことごとく房祀を壊す」とある。後漢期に壊したものは、いま高皇帝が設置したものと々である。
ぼくは思う。ちくま訳では、長安の祀官の内訳として、「そのうち」とお言葉を補う。「其の」の翻訳だと思う。だが、梁巫とか、次の晋巫は、長安の祀官ではなく、郡国に設けられた(長安とは別の)祀官だろうか。 上で沈欽韓があげるのは、郡国にある廟の話だった。長安が祭祀を一元化するには、呉楚七国の乱を乗りこえるまで、待たねばならない。

晋国の巫は、五帝・東君・雲中君・巫社・巫祠・族人炊のたぐいを祭る。秦国の巫は、杜主・巫保・族纍のたぐいを祭る。荊国の巫は、堂下・巫先・司命・施糜のたぐいを祭る。九天の巫は、九天を祭る。みな歳時をもって(季節がきたら)宮中にて祭る。
河巫の祠は、河を臨晋でまつり、南山の巫は、南山・秦中を祭る。秦中とは、秦の二世皇帝である。それぞれ祭りの時期が定められた。

祭ったものの解説は、1693頁。


其後二歲,或言曰周興而邑立后稷之祠, 至今血食天下。 於是高祖制詔御史:「其令天下立靈星祠, 常以歲時祠以牛。」
高祖十年春,有司請令縣常以春二月及臘祠稷以羊彘,民里社各自裁以祠。 制曰:「可。」

2年後、ある人が「周が興ると邑に后稷の祠を立てて、今に至るまで天下で犠牲が献げされている」と。高皇帝は御史に制詔した。「天下に霊星の祠を立てさせろ。つねに歳時ごとに牛の犠牲を献げさせろ」と。

長安はいう。龍星は、農の幸いを象徴するから祭らせた。

高祖10年春、有司は請う。つねに県で春2月および臘のとき、羊彘をささげて稷を祠り、民里の社ではそれぞれ(その年の収穫に応じて)犠牲をささげて祠ることを。 制して曰く、「可し」と。

文帝が諸侯から山川の祭祀をひきとる

文帝卽位十三年,下詔曰:「祕祝之官移過於下,朕甚弗取,其除之。」
始名山大川在諸侯,諸侯祝各自奉祠,天子官不領。及齊、淮南國廢,令太祝盡以歲時致禮如故。

文帝が即位して13年、詔を下した。「秘祝の官は、過(とが)を下に移す。私はまったく同意できない。秘祝の官をのぞけ」と。

ちくま訳はいう。神より災祥があれば、その咎めを民に転荷する。
ぼくは思う。ちくま訳のいう「祥」は「さいわい」だから、適切でない。漢文帝は、災異が起きたとき、これを自分の責任だと考えられるような君主だった。ということは、これに先立ち、災異を民のせいにしまくる担当官がいたことになる。言論の風土として、災異説がもうあったというのが意外だ。
文帝が「除」いたのは、官職そのもの?それとも発言だけ?

はじめて、名山・大川が諸侯の領地にあるとき、諸侯がこれを祭って、各自で奉祠した。天子の官は、諸侯による山川の祭祀に関知しない。斉国と淮南が廃されると、

先謙はいう。『正義』はいう。斉国には泰山がり、淮南には天柱山がある。
ぼくは思う。斉王と淮南王の列伝を次に読むべきだ。文帝の諸侯に対する政策は、斉国と淮南という、影響のおおきな国によって変化する。呉楚は放置して、子の景帝まで持ち越されるが。

もとのとおり、太祝(天子の官)にすべての季節ごと(歳時)の礼を(山川に対して)行わせた。

明年,以歲比登,詔有司增雍五畤路車各一乘,駕被具;西畤、畦畤寓車各一乘,寓馬四匹,駕被具;河、湫、漢水,玉加各二;及諸祀皆廣壇場,圭幣俎豆以差加之。

翌年(文帝十四年)、その年の穀物が実ったころ、有司に詔した。雍五畤(の祭祀)につかう路車を1乗ずつを増やして、駕(馬車)を飾る器具を増やした。

師古はいう。駕車の飾りと、馬にかぶせる飾りを、どちらも具えさせた。
ぼくは思う。雍五畤の祭祀を、漢文帝が盛んにした。漢文帝が祭祀に力を入れるなんて、珍しい記述。というか、即位してから10年以上、郊祀志に書くべきネタがなかったのだ。

西畤・畦畤の寓車は1乗ずつ増やし、寓馬4匹ずつを増やして、飾りの器具をつけた。河・湫・漢水の祭りには、玉を2つずつ加えた。

先謙はいう。『正義』で「祭る時、各々玉璧2枚を加ふ」とある。
ぼくは思う。諸侯がやっていた山川の祭りを、天子が引き取った。だから、諸侯がやるときより、豪華にせねばならない。差異を見せねばならない。漢文帝の諸侯に対する政策として、寛容そうに見えるが、やはり天子のほうが格上だと示した。

それぞれの祭祀において、どれも壇場を広くして、圭・幣・俎豆には差等をつけて、これを増やした。

漢は水徳か土徳か(not火徳)

魯人公孫臣上書曰:「始秦得水德,及漢受之,推終始傳,則漢當土德,土德之應黃龍見。宜改正朔,服色上黃。」

魯人の公孫臣が上書した。「はじめ秦は水徳を得て、漢はこれを(水徳をそのまま)受けた。終始の傳(ふ)を推すに、

師古はいう。「傳」とは「之に転次すること」をいう。
ものごとの終わりと始まり、王朝の移り変わりについて考えると、、の意味。
先謙はいう。終始五徳の傳は、『史記』始皇帝紀に見える。
ぼくは思う。王朝が交代すると、徳の種類が変わるというのは自明ではない。公孫臣が言い出さないと、だれも気づかない。少なくとも漢文帝は、即位してから15年くらい、秦の水徳のままで平気だった。
というか、秦から漢は武力の革命であり、禅譲でもなんでもないが、徳は変わらないという認識だった。後漢から曹魏への儒教が、いかに「思いこみが強い」かが確認できる。

漢は土徳であるべきで、土徳に応ものとして黄龍が現れた。正朔を改め、服色は黄をとうとべ」と。

時丞相張蒼好律曆,以為漢乃水德之時,河決金隄,其符也。年始冬十月,色外黑內赤,與德相應。公孫臣言非是,罷之。明年,黃龍見成紀。文帝召公孫臣,拜為博士,與諸生申明土德,草改曆服色事。

ときに丞相の張蒼は、律暦をこのむ。漢は水徳であると考え、黄河が金隄をやぶって決壊したのを、水徳の証拠だとした。年は冬10月に始まる。ゆえに色は黒を外とし、赤を内とする。これは水徳に応じる。

服虔はいう。十月は、陰気が外にある。ゆえに「黒を外にする」という。陽気は、なお伏して地にある。だから「赤を内にする」という。ある人曰く、10月は百草の表面が黒くなり、内側は赤くなるのだ。
ぼくは思う。高皇帝が10月に漢王になったから、10月を正月にしたと、上に書いてあった。だがこれが一人歩きして、10月を正月とする理論が後付けされた。その10月を正月とするのは、陰気で黒をとうとぶ水徳ともなじむと。
ぼくは思う。秦が10月を正月とするから、高皇帝はそれ以外の暦の数え方を知らず、秦のままの暦法を継承しただけでは。

張蒼は、「公孫臣の言うことは正しくない。罷免せよ」とした。

暦法と服色を改めたら、いまの整合が壊れる。

翌年、天水の成紀に黄龍が現れた。

周寿昌はいう。これは文帝15年である。武帝が天水郡を置くのだから、このときは天水県である。

文帝は(土徳を主張する)公孫臣を召して、博士とした。諸生とともに漢が土徳であることを論じて明らかにさせ、暦と服色を改めることを提案させた。

師古はいう。「草」とは創造すること。公孫臣は、土徳に基づいた暦と服色のことを、新たにゼロから提案することになった。


其夏,下詔曰:「有異物之神見於成紀,毋害於民,歲以有年。朕幾郊祀上帝諸神,禮官議,毋諱以朕勞。」 有司皆曰:「古者天子夏親郊祀上帝於郊,故曰郊。」 於是夏四月,文帝始幸雍郊見五畤,祠衣皆上赤。

その夏、詔を下した。「異物の神(黄龍)が成紀に現れたが、民を害することなく、穀物の収穫も良好である。私はちかぢか、上帝・諸神を郊祀しようと思う。礼官は(郊祀の方法を)議論せよ。私の労を諱むなよ」と。

ぼくは思う。漢文帝は「私に労力を費やさせることを、避けようとするな」という。つまり、けっこう面倒くさくて疲れるような儀礼でも良いから、きっちりした郊祀の方法を提案するように、頼むよと。

有司はみないう。「古代、天子は夏に、自ら上帝を郊(邑外=郊外)で祭祀した。ゆえに『郊』というのです」と。
ここにおいて漢文帝は、夏4月、はじめて雍県の郊外にゆき、五畤にまみえた。

劉フンはいう。「三王の郊」といい、夏正(夏王朝の暦)を用いる。このとき10月を歳首(正月)とする。夏正は、10月を正月とする。ゆえに、この祭祀を「夏郊」という。
ぼくは思う。列伝12が張蒼伝。ここに公孫臣も出てくる。読もう。

祭祀の衣は、みな赤をとうとぶ。

ぼくは思う。赤だからって、火徳と認めたのでない。というか、水徳と土徳で争っており、火徳という選択肢はない。劉歆たちの登場まで待たねばならない。どんな徳で、何色をとうとぶべきか、という議論は、当事者たちも頭がパニックになった。立ち入るのは難しい。


新垣平が渭陽に五帝廟を作らせる

趙人新垣平以望氣見上,言「長安東北有神氣,成五采,若人冠冕焉。或曰東北神明之舍,西方神明之墓也。 天瑞下,宜立祠上帝,以合符應。」於是作渭陽五帝廟,同宇, 帝一殿,面五門,各如其帝色。祠所用及儀亦如雍五畤。

趙人の新垣平は、望気できる者であるが、天子にまみえて言う。「長安の東北に神氣があります。五采(五色)を成して、人が冕冠をかぶるようだ。ある人がいうには、東北には神明の舍があり、西方には神明の墓があるとか。

張晏はいう。神明とは、日のこと。日は東北から昇るから、お日さまの家を「陽谷」という。日は西に没するから、お日さまの墓があるという。
師古はいう。張晏は誤りである。神明が東北にいて、西方に墓があるというのは、漢文帝が廟を渭陽に立てたことを指す。
ぼくは思う。ダブルミーニングで、お日さまの話であり、五帝ないし漢文帝の話でもある、という理解でいいと思う。君主は太陽みたいなものだし。

天瑞は下った。上帝を祭るための祠を立てて、この符応に合わせるべきである」と。
ここにおいて渭陽に五帝廟を立てた。五帝廟と同一の建物(屋根)のもとに、帝ごとの殿をつくった。外側には五つの門をつくり、それぞれ五帝を象徴する色でぬった。祭るときに使った犠牲や儀式の方法は、雍五畤のときと同じである。

明年夏四月,文帝親拜霸渭之會, 以郊見渭陽五帝。五帝廟臨渭,其北穿蒲池溝水。 權火舉而祠,若光煇然屬天焉。 於是貴平至上大夫,賜累千金。而使博士諸生刺六經中作王制, 謀議巡狩封禪事。
文帝出長門, 若見五人於道北,遂因其直立五帝壇, 祠以五牢。

翌年の夏4月、文帝はみずから霸水と渭水の合流地点にゆき、郊祀して渭陽の五帝にまみえた。五帝廟は渭水に臨んでおり、五帝廟の北側は蒲池・溝水が設けられていた。火をかかげて祭ると、その光は天に連なるようであった。ここにおいて新垣平を上大夫として、千金を賜った。
博士・諸生に六経を検討させ、テキストを採取して『王制』をつくった。巡狩・封禅のことを謀議させた。

王鳴盛はいう。『史記索隠』にひく劉向『七録』には、漢文帝がつくった書物は『本制』『兵制』『服制』篇である。封禅書にある『王制』がこれにあたるだろう。べつに『礼記』王制篇を作ったのではない。
『説文解字』によれば『礼記』は孔子の家の壁から出てきたもので、、
などと意見が割れつつ、、武帝が封禅のときに参考にした文書は、少なくともこのとき文帝が制作させた『王制』に基づくのだろうと。当事者たちがパニックになっている議論に、首を突っこむのは得策でない。


文帝出長門, 若見五人於道北,遂因其直立五帝壇, 祠以五牢。

文帝は長門(亭)を出たとき、もし北にゆく道の方向に五人(五帝)を見るようであった。だから、その場所に五帝壇をつくって、五牢をまつった。

ぼくは思う。漢文帝でも、幻?を見るのか。もしくは、五帝壇をつくった場所に理由づけをするために、漢文帝が「五帝を見た」という後付けの話をつくったか。


新垣平が改元をさせるが、周鼎を見つけず

其明年,平使人持玉杯,上書闕下獻之。平言上曰:「闕下有寶玉氣來者。」
已視之,果有獻玉杯者,刻曰「人主延壽」。平又言「臣候日再中」。居頃之,日卻復中。於是始更以十七年為元年,令天下大酺。平言曰:「周鼎亡在泗水中,今河決通於泗,臣望東北汾陰直有金寶氣, 意周鼎其出乎?兆見不迎則不至。」於是上使使治廟汾陰南,臨河,欲祠出周鼎。人有上書告平所言皆詐也。下吏治,誅夷平。

その(五帝を祭った)翌年、新垣平は人に玉杯を持たせ、闕下に上書して献じた。平 言上して曰く、「闕下に寶玉の氣 來たる有り」と。
已に之を視て、果して玉杯を獻ずる者有り。刻に「人主 延壽たり」と曰ふ。平 又 言ふ、「臣 日の再び中す(1日に2回、太陽が南中する)を侯ふ」と。居りて之の頃、日 却りて、復た中す。是に於て始めて更めて十七を以て元年と為す。天下をして大酺せしむ。
平 言ひて曰く、「周の鼎 亡はれて泗水の中に在り。今 河 決し、泗に通ず。臣 東北の汾陰を望むに、直に金宝の気有り。周の鼎 其に出づるを意とすや。兆 見はれども、迎へざれば則ち至らず」と。是に於て上 使をして廟を汾陰の南に治せしめ、河に臨み、祠りて周鼎を出さんと欲す。人 上書して新垣平を「言ふ所 諧詐なり」と告ぐる有り。吏に下して治し、平を誅夷す。

『通鑑』が全文をひいているので、新しみがなかった。


是後,文帝怠於改正服鬼神之事,而渭陽、長門五帝使祠官領,以時致禮,不往焉。

この後、文帝は正(律暦)・服(服色)を改めることと、鬼神のことを怠るようになった。渭陽・長門の五帝は、祠官に領させて(祭祀を代行させ)、時を以て(季節がきたら)礼を致させた。文帝みずからは行かない。

明年,匈奴數入邊, 興兵守御。後歲少不登。數歲而孝景卽位。十六年,祠官各以歲時祠如故,無有所興。

翌年、匈奴がしばしば長城を越えて、辺境に入ってくるため、兵を興して防いだ。のちに年ごとの穀物の収穫が少なくなった。数年で、景帝が即位した。景帝が在位した16年間、祠官はそれぞれ季節ごと(歳時)に祭ることは、もとのまま。新たに儀礼を興すことはなかった。

ぼくは思う。この書きぶりだと、匈奴から守り、不作に苦しむと、祭祀を豪華にして、威信を見せている場合ではない、という景帝の方針が見える。
この地味さもまた、次の武帝が登場する伏線となるのですが。

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