-後漢 > 『資治通鑑』和訳/巻6 前255年-前228年

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秦の昭襄王(前255~前251)

昭襄王五十二年(前255年)

◆応侯の引退

河東守王稽坐與諸侯通,棄市。應侯日以不懌。王臨朝而嘆,應侯請其故。王曰:「今武安君死,而鄭安平、王稽等皆畔,內無良將而外多敵國,吾是以憂。」應侯懼,不知所出。

河東守の王稽は、諸侯と通じたことに坐し、棄市された。

河東はもと魏地だが秦がとった。大河の東だから河東という。秦法では、市で死を論じたから棄市という。

應侯は日に以て懌(よろこ)ばず。

王稽は范睢を秦王に薦めたが、范睢はすでに秦の相となった。王稽もまた進用されたが、いま罪により死んだ。ゆえに范睢は悦ばない。あるひとはいう。范睢は初め秦に進用されて相となったが、昭襄王は真に悦んだ。鄭安平が趙に降ると、王稽もまた罪を得た。范睢は相であるが、昭襄王が臨朝して范睢に接しても、范睢は日に日に悦ばなくなった。

昭襄王(始皇帝の曾祖父)は朝に臨んで嘆し、應侯はその理由を聞いた。
昭襄王「いま武安君が死んで、鄭安平・王稽らはどちらも反した。内に良將なく、外に敵國が多い。だから吾は憂いた」と。應侯は懼れ、出る所を知らず。

燕客蔡澤聞之,西入秦,先使人宣言於應侯曰:「蔡澤,天下雄辯之士。彼見王,必困君而奪君之位。」應侯怒,使人召之。蔡澤見應侯,禮又倨。應侯不快,因讓之曰:「子宣言欲代我相,請聞其說。」蔡澤曰:「吁,君何見之晚也!夫四時之序,成功者去。君獨不見夫秦之商君、楚之吳起、越之大夫種,何足願與?」應侯謬曰:「何為不可?!此三子者,義之至也,忠之盡也。君子有殺身以成名,死無所恨!」

燕客の蔡澤がこれを聞き、西して秦に入る。先に人をやって應侯に宣言した。
「蔡沢は、天下の雄辯の士である。彼が王に会えば、君を追いこみ、必ず君の地位を奪うだろう」と。応侯は怒り、蔡沢を召させた。蔡沢は応侯にあい、礼をとるも傲って振る舞った。応侯は不快がり、蔡沢を咎めた。
「あなたは私の相の地位に取って代わると宣伝した。説を聞きたい」
蔡沢「おや?

孔安国によれば、「吁」は疑怪の辞。

今頃なにを言ってるの。そもそも四時の序とは、功が成れば去るものだ。

春は生じ、夏は長じ、秋は実り、冬は閉蔵し……と、四季は役割を果たしたら代謝して、つぎの季節にバトンタッチする。

功が成った後も去らずに失敗した)秦の商君・楚の吳起・越の大夫種らは敬慕すべきだろうか」。
応侯は意味を取り損ね、「なぜ彼らに過ちがあった(当然ながら敬慕すべきだ)。この3人は、義の至、忠の尽である。君子は身を殺して名を成すものだ。死んでも恨まない」と。

蔡澤曰:「夫人立功豈不期於成全邪?身名俱全者,上也;名可法而身死者,次也;名僇辱而身全者,下也。夫商君、吳起、大夫種,其為人臣盡忠致功,則可願矣。閎夭、周公,豈不亦忠且聖乎?!三子之可願,孰與閎夭、周公哉?」應侯曰:「善。」蔡澤曰:「然則君之主惇厚舊故,不倍功臣,孰與孝公、楚王、越王?」曰:「未知何如。」蔡澤曰:「君之功能孰與三子?」曰:「不若。」蔡澤曰:「然則君身不退,患恐甚於三子矣。語曰:『日中則移,月滿則虧。』進退嬴縮,與時變化,聖人之道也。今君之怨已讎而德已報,意欲至矣而無變計,竊為君危之。」應侯遂延以為上客,因薦於王。王召與語,大悅,拜為客卿。應侯因謝病免。王新悅蔡澤計畫,遂以為相國,澤為相數月,免。

蔡沢「ひとが功を立てて(名を成しても)も、身(生命の安全)を全うしなくていいのか。身・名ともに全うするのが上。名を成して身が死ぬのが次。名を成さずに身を全うするのが下。
さて商君・吳起・大夫種は、人心として盡忠致功であるから、敬慕すべきだ。それならば、閎夭・周公もまた、忠かつ聖ではないのか。

閎夭とは、周文王・周武王の賢臣である。

商君ら3人への敬慕は、閎夭・周公に対する敬慕を上回るものか」
應侯「そうだ」
蔡沢「それならば、きみの主君の秦昭襄王は、舊故を惇厚し(古くからの臣を厚遇して)功臣に背かない(正しく待遇する)。孝公・楚王・越王(商君ら3人の各々の君主)と比べて、どちらが優れているか」
応侯「まだ分からん」
蔡沢「君の功績は、商君ら3人と比べてどうだ?」
応侯「およばない」
蔡沢「それならば、きみが身を退かねば、商君ら3人よりひどい目にあう。語に曰く、『日 中すれば則ち移り、、月 満つれば則ち虧く』と。進退を見きわめ、変化に応じるのが聖人の道である。あなたは怨があればすでに讎し(魏斉を殺し)、德があればすでに報いた(王稽・鄭安平を進用した)。もうやり残しはない。(これ以上、ムダに留まると禍いを招くから)あなたのために心配するのだ」
応侯はついに蔡沢を上客として、昭襄王に薦めた。昭襄王は蔡沢と語り、大いに悦び、客卿として拝した。応侯は病気を理由に引退を求めた。昭襄王は、新しい蔡沢の話に悦び(応侯の後任として)相国とした。蔡沢は数ヶ月後、免じられた。

◆荀子が兵を論じる

楚春申君以荀卿為蘭陵令。荀卿者,趙人,名況,嘗與臨武君論兵於趙孝成王之前。王曰:「請問兵要。」臨武君對曰:「上得天時,下得地利,觀敵之變動,後之發,先之至,此用兵之要術也。」荀卿曰:「不然。臣所聞古之道,凡用兵攻戰之本,在乎一民。弓矢不調,則羿不能以中;六馬不和,則造父不能以致遠;士民不親附,則湯、武不能以必勝也。故善附民者,是乃善用兵者也。故兵要在乎附民而已。」

楚の春申君は、荀卿を蘭陵令とした。荀卿とは、趙ひと。名は況。かつて臨武君とともに、兵を趙の孝成王の前で論じた。
趙王「兵要について聞きたい」
臨武君「上は天の時を得て、下は地の利を得る。敵の変動を観て、後に発せば、先手がとれる。これが用兵の要術です」
荀卿「ちがう。古の道を聞くに、用兵・攻戰の根本は、一民にある。弓矢が調はねば、羿(のような名人)でも矢を当てられない。六馬が和さねば、造父ですら遠くまでゆけない。士民が親附しないと、湯・武ですら必ず勝てない。ゆえに、善く民を附するのが、善く兵を用ゐるものです。ゆえに兵要は民を附することにあります」

臨武君曰:「不然。兵之所貴者勢利也,所行者變詐也。善用兵者感忽悠闇,莫知所從出。孫吳用之,無敵於天下,豈必待附民哉!」荀卿曰:「不然。臣之所道,仁人之兵,王者之志也。君之所貴,權謀勢利也。仁人之兵,不可詐也。彼可詐者,怠慢者也,露袒者也,君臣上下之間滑然有離德者也。故以桀詐桀,猶巧拙有幸焉。以桀詐堯,譬之以卵投石。

臨武君「ちがう。兵が貴ぶのは勢利である。兵が行ふのは變詐である。善く用兵する者は、ぼやけて顔も見えない遠方にいて、どこから出てきたのか気づかれない(奇襲に長ける)。孫・吳はこのような兵法を使ったから、天下に敵がなかった。附民とか関係ないし」
荀卿「ちがう。私が言ったのは、仁人の兵、王者の志のことだ。あなたが貴ぶのは、權謀・勢利とのことだが、仁人の兵は詐けない。詐ける相手は、怠慢な者であり、ハダカの(不注意な)者である。君臣の上下の関係が乱れて、徳が離れた者である。

臨武君の戦い方が通用するのは、くさった国のくさった軍だけである。内政・統治・訓練がきちんと徹底されていれば、臨武君の戦い方は通用しないと。

ゆえに桀が桀を騙せば、うまくいくこともあるが、

低レベル同士の戦いなら、臨武君のいう奇襲ができるが、

桀が尭を騙すことは、タマゴを石に投げるようなもの。

このあと荀子のレクチャーが続くが、、読みたいのはこれじゃないので、省略します。臨武君が論破されます。


陳囂問荀卿曰:「先生議兵,常以仁義為本。仁者愛人,義者循理,然則又何以兵為?凡所為有兵者,為爭奪也。」荀卿曰:「非汝所知也。彼仁者愛人,愛人,故惡人之害之也;義者循理,循理,故惡人之亂之也。彼兵者,所以禁暴除害也,非爭奪也。」

陳囂は荀卿に問う。「先生が兵を議せば、常に仁義を根本とする。仁は人を愛すること。義は理に循ふこと。それならば、どうやって兵を為すのか。兵とは争奪のことだが」
荀卿「わかってない。仁とは人を愛すること。人を愛しても、ことさらに悪人はこれを害する。義は理に循ふこと。理に循っても、ことさらに悪人はこれを乱す。兵とは、暴を禁じ害を除くことである。爭奪のことではない

◆その他のできごと

燕孝王薨,子喜立。
周民東亡。秦人取其寶器,遷西周公於憚狐之聚。

燕の孝王が薨し、子の喜が立つ。
周民が東に亡した(秦の民になるのを拒んだ)。秦人は周の宝器をうばい、西周の文公(武公の子)を憚狐の聚に遷した。
楚王が魯を莒に遷して、その地を奪った(魯の滅亡)

昭襄王五十三年(前254年)

摎伐魏,取吳城。韓王入朝。魏舉國聽令。

摎が魏を伐ち、吳城(河東郡;虞城)を取った。韓王が(秦に)入朝した。魏は国を挙げて(秦の)令を聽く。

昭襄王五十四年(前253年)

王郊見上帝於雍。
楚遷于鉅陽。

昭襄王は、上帝に雍で郊見した。
楚が鉅陽に遷った。

昭襄王五十五年(前252年)

衛懷君朝於魏,魏人執而殺之;更立其弟,是為元君。元君,魏婿也。

衛の懷君が魏に朝した。魏人は執えて殺した。更めて弟を立てた。元君である。元君は魏の婿である。

昭襄王五十六年(前251年)

秋,〔後九月〕[6],王薨,〔子〕孝文王〔柱〕立[7]。尊唐八子為唐太后,以子楚為太子。趙人奉子楚妻子歸之。韓王衰絰入吊祠。

秋、秦の昭襄王が薨じた。子の孝文王が立つ。唐八子を唐太后として、

「八子」は、秦宮のなかの女官の官名である。

子の楚を太子とした。趙人は子楚の妻子を奉り、趙に帰った。

子楚は始皇帝の父。やっと出てきた。

韓王は衰絰して(喪服をきて)吊祠に入る。

燕王喜使栗腹約歡於趙,以五百金為趙王酒。返而言於燕王曰:「趙壯者皆死長平,其孤未壯,可伐也。」王召昌國君樂閒問之,對曰:「趙四戰之國,其民習兵,不可。」王曰:「吾以五而伐一。」對曰:「不可。」王怒。群臣皆以為可,乃發二千乘,栗腹將而攻鄗,卿秦攻代。將渠曰:「與人通關約交,以五百金飲人之王,使者報而攻之,不祥,師必無功。」王不聽,自將偏軍隨之。將渠引王之綬,王以足蹙之。將渠泣曰:「臣非自為,為王也!」燕師至宋子,趙廉頗為將,逆擊之,敗栗腹於鄗,〔樂乘〕敗卿秦(樂乘)於代,追北五百餘里[8],遂圍燕。燕人請和,趙人曰:「必令將渠處和。」燕王〔以〕(使)將渠為相而處和[9],趙師乃解去。

燕王の喜は、栗腹をつかわして、趙を歡することを約した。5百金で趙王のために酒をつくった。栗腹は帰国してから燕王にいう。
趙の壮者(成人した兵士)は、みな長平で死んだ。孤(戦死者の下の世代)は、まだ成人してない。伐てる」
王は昌國君の樂閒を召して問う。
昌国君「趙は四戰の國です。民は兵に習らう。伐てない」
燕王「5倍の兵力で伐とう(それなら勝てるよね)」
昌国君「伐てません」
燕王は怒った。郡臣はみな「伐てる」というから、2千乗を発した。栗腹が鄗を攻め、卿秦が代を攻めた。
將渠というひとが止めた。「(趙とは)関を通じて交を約した。5百金でつくった酒を飲ませ(趙と親交を結んだのに)使者が(逆に弱点を見つけて来て)攻めるのは、不祥である。出師は功がないだろう」
燕王は聴かず、みずから偏軍をひきいた。將渠が、王の綬を引っ張るから、王は將渠を蹴った。將渠は泣いた。
「臣は自分のために、綬を引っ張ったのではない。王のためです」
燕の軍は宋子に至ると、趙の廉頗が将となり、迎撃した。栗腹を鄗(鉅鹿)で敗った。楽乗(趙の将)は、卿秦(燕の将)を代で破った。

名前が混乱してるが、『戦国策』に基づいて改める。

北に5百餘里を追いかけ、ついに燕を囲んだ。
燕人が和を請ふと、趙人は、「將渠に和睦交渉を担当させろ」といった。燕王が將渠を交渉にゆかせ、趙軍は囲みを解いた。

趙平原君卒。

趙の平原君が卒した。150728

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秦孝文王・荘襄王(前250~前251)

孝文王元年(前250年)

冬,十月,已亥,王即位;三日〔辛丑〕薨[10]。子楚立,是為莊襄王。尊華陽夫人為華陽太后,夏姬為夏太后。

冬10月の已亥、秦の孝文王が即位した。三日で薨じた。子の楚が立つ。これが莊襄王である。華陽夫人を華陽太后として、夏姬(荘襄王の母)を夏太后とした。

燕將攻齊聊城,拔之。或譖之燕王,燕將保聊城,不敢歸。齊田單攻之,歲餘不下,魯仲連乃為書,約之矢以射城中,遺燕將,為陳利害曰:「為公計者,不歸燕則歸齊。今獨守孤城,齊兵日益而燕救不至,將何為乎?」燕將見書,泣三日,猶豫不能自決,欲歸燕,已有隙;欲降齊,所殺虜於齊甚眾,恐已降而後見辱。喟然嘆曰:「與人刃我,寧我自刃!」遂自殺。聊城亂,田單克聊城。歸,言魯仲連於齊,欲爵之。仲連逃之海上,曰:「吾富貴而詘於人,寧貧賤而輕世肆志焉!」

燕将が齊の聊城(東郡)を拔いた。
あるひとが燕王にそしった。燕將は聊城を保って、わざと帰らない(不自然ですよね。実は燕に謀反する計画があるんですよ)と。
斉の田単が(燕将の守る)聊城を攻めた。1年余でも下らなかった。魯仲連は文書をつくり、城中に射た。そのなかで燕将に利害を述べた。「あなたのために計画を立てた。燕に帰らず、斉に帰せよ。いまひとりで孤城を守れば、斉の田単の兵が日に日に増える。燕の援軍は間に合わない。どうにもならんでしょ」と。燕将はこれを見て、3日泣いても決められない。
燕に帰るにしても、讒言があったから、燕王と気まずい。斉に下るにしても、斉兵をたくさん殺したから、辱められるだろう。「人に斬られるよりは、自分で斬る」といって自殺した。聊城は乱れ、田単が聊城を得た。
田単が帰ってから(聊城を得たのは魯仲連の功績なので)爵位を与えようとした。魯仲連は海上に逃げた。「富貴になって人に指図されるより、貧賤でも好きなように生きたい」と。

だったら、なぜ田単に協力したんだろう、魯仲連は。


魏安釐王問天下之高士於子順,子順曰:「世無其人也;抑可以為次,其魯仲連乎!」王曰:「魯仲連強作之者,非體自然也。」子順曰:「人皆作之。作之不止,乃成君子;作之不變,習與體成;〔習與體成〕[11],則自然也。」

魏の安釐王は、天下の高士について子順に問う。
子順「世に然るべき人材がいない。あえて挙げるなら魯仲連かな」と。
魏王「魯仲連に(臣下としての)態度を強いれば、彼の態度は自然でなくなってしまう(長所が消える)」。子順「ひとは誰でも態度を作っているもの。態度を作っても、長所が消えなければ、君子になれる。態度を作っても、長所が変わらなければ、……習ひて與に體 成る。これを自然という」と。

むずかしくて分かりませんでした。


莊襄王元年(前249年)

呂不韋為相國。
東周君為諸侯謀伐秦,王使相國帥師討滅之,遷東周君於陽人聚。周既不祀。周比亡,凡有七邑:河南、洛陽、穀城、平陰、偃師、鞏、緱氏。

呂不韋が、秦の相国となる。
東周君は諸侯とともに伐秦を謀った。王は相國に軍をひきいさせ、東周君らを討滅した。東周君を陽人聚に遷した。周の祭祀が絶えた。周が滅亡するとき、7邑だけを有した。河南、洛陽、穀城、平陰、偃師、鞏、緱氏である。

胡三省が地名をがんばっている。199頁。


以河南、洛陽十萬戶封相國不韋為文信侯。
蒙驁伐韓,取成皋、滎陽,初置三川郡。

河南・洛陽の10萬戸を、相國の不韋に封じて、文信侯とした。
蒙驁が韓を伐ち、成皋・滎陽を取った。はじめて三川郡を置く。
楚が魯を滅ぼした。魯頃公を卞に遷して家人(斉の民)とした。

莊襄王二年(前248年)

〔夏,四月〕,日有食之[12]。
蒙驁伐趙,〔定太原〕[13],取榆次、狼孟等三十七城。
楚春申君言於楚王曰:「淮北地邊於齊,其事急,請以為郡而封於江東。」楚王許之。春申君因城吳故墟以為都邑,宮室極盛。

〔夏,四月〕日食。
蒙驁が趙を伐ち、榆次・狼孟ら37城を取った。
楚の春申君が楚王にいう。「淮北の地は斉と国境を接する。事態は急である。郡をつくって(私を)江東に封じよ」と。楚王は許した。春申君は、呉の故墟に城を築いて都邑をつくり、宮室は極めて盛んだった。

莊襄王三年(前247年)

王齕攻上黨諸城,悉拔之,初置太原郡。
蒙驁帥師伐魏,取高都、汲。魏師數敗,魏王患之,乃使人請信陵君於趙。信陵君畏得罪,不肯還,誡門下曰:「有敢為魏使通者死!」賓客莫敢諫。毛公、薛公見信陵君曰:「公子所以重於諸侯者,徒以有魏也。今魏急而公子不恤,一旦秦人克大梁,夷先王之宗廟,公子當何面目立天下乎!」語未卒,信陵君色變,趣駕還魏。魏王持信陵君而泣,以為上將軍。信陵君使人求援於諸侯。諸侯聞信陵君復為魏將,皆遣兵救魏。信陵君率五國之師敗蒙驁於河外,蒙驁遁走。信陵君追至函谷關,抑之而還。

王齕は上黨の諸城を攻め、すべて抜き、初めて太原郡を置く。
蒙驁は師を帥ゐて魏を伐ち、高都・汲を取る。魏師 數々敗れ、魏王 之を患ふ。乃ち人をして信陵君を趙に請はしむ。信陵君 罪を得ることを畏れ、還ることを肯ぜず。門下に誡めて曰く、「敢て魏使の為に通ずる者あらば死せよ」と。賓客 敢て諫むるもの莫し。
毛公・薛公 信陵君に見ひて曰く、「公子が諸侯から重んじられる理由は、ただ魏国があるからだ。いま魏がピンチなのに、あなたが救わねば、秦軍はすぐに(魏都の)大梁をおとし、先王の宗廟を破壊するだろう。あたなは何の面目があって天下に立つか」
語が終わる前に、信陵君の顔色が変わって、馬車で魏に還る。
魏王は信陵君につかまって泣き、上將軍とした。信陵君は人をつかわし、諸侯に魏を救わせた。諸侯は、信陵君が魏将にもどったと聞き、みな魏を救う兵を出した。信陵君は5國の師をひきい、蒙驁を河外で破った。蒙驁は遁走した。信陵君は追って函谷關に至り、ここを抑えてから還った。

安陵人縮高之子仕於秦,秦使之守管。信陵君攻之不下,使人謂安陵君曰:「君其遣縮高,吾將仕之以五大夫,使為執節尉。」安陵君曰:「安陵,小國也,不能必使其民。使者自往請之。」使吏導使者至縮高之所。使者致信陵君之命,縮高曰:「君之幸高也,將使高攻管也。夫父攻子守,人之笑也;見臣而下,是倍主也。父教子倍,亦非君之所喜。敢再拜辭!」使者以報信陵君。信陵君大怒,遣使之安陵君所曰:「安陵之地,亦猶魏也。今吾攻管而不下,則秦兵及我,社稷必危矣。願君生束縮高而致之!若君弗致,無忌將發十萬之師以造安陵之城下!」

安陵の人である縮高の子は、秦に仕えて、管城(河南郡の中牟県)の守りを担当する。信陵君が攻めても下らない。信陵君は安陵君に使者を送った。「あなたが縮高を遣わし、縮高が私に仕えるなら、五大夫の爵位をあげよう。節尉を執る権限を与えよう

堅城の守将の父を連れてこれば、守将は心が砕けて、開城するはず。

安陵君「安陵は小國であり、私は民を思いどおりにできない。信陵君の使者が、縮高に直接 交渉しなさい」
信陵君の使者が、縮高のところにゆき、信陵君の命を伝えた。
縮高「私を厚遇して、管城の攻撃軍に加えるつもりですね。父が攻めて子が守れば、人に笑われます。しかし管城の攻撃を断れば、主君に背くことになる。私が子を(秦から)背かせることを期待しているのでしょうが、そんな状況を信陵君が喜ぶはずがない」
信陵君は(縮高の言い草に)大怒して、安陵君にいう。
「安陵は、魏の領土のようなもの(魏襄王が弟を封じた地だから)。もし私が管城を落とせず、秦兵が(管城を救って)わが軍を攻めれば、魏の社稷が危うくなる。縮高の勧誘に協力してくれ。協力してくれねば、安陵を10万で攻めてやる

安陵君曰:「吾先君成侯受詔襄王以守此城也,手授太府之憲,憲之上篇曰:『子弒父,臣弒君,有常不赦。國雖大赦,降城亡子不得與焉。』今縮高辭大位以全父子之義,而君曰『必生致之』,是使我負襄王之詔而廢太府之憲也,雖死,終不敢行!」縮高聞之曰:「信陵君為人,悍猛而自用,此辭必反為國禍。吾已全己,無違人臣之義矣,豈可使吾君有魏患乎!」乃之使者之舍,刎頸而死。信陵君聞之,縞素辟舍,使使者謝安陵君曰:「無忌,小人也,困于思慮,失信於君,請再拜辭罪!」

安陵君「わが祖先の成侯は、魏襄王の詔を受け、安陵を守ることになった。手ずから魏の太府にしまわれた法典を受けた。そこに『臣が君を弑し、子が親を弑すれば、赦すことがない。国難・大赦のときも、例外はない』と書いてある。いま縮高は、父子の義を全うしようとしている。これをジャマするのは、魏襄王に逆らうことになる。死んでも協力しない」
縮高はこれを聞き、「信陵君の人となりは悍猛であり、彼の言葉(に従えば)必ず魏に国禍をもたらす。私が私を全うする(信陵君への協力をこばむ)のは、人臣の義(魏のためになること)に違わない」と。縮高は自刎して死んだ。信陵君はこれを聞き、縞素・辟舍して、安陵君に使者をやって謝った。「無忌(信陵君=私)は小人である。思慮に困して、君の信を失った。再拜・辞罪を請う」と。

胡三省はいう。安陵君は、魏国から封建を受けた。縮高は安陵君から住居をもらった。縮高の子は、魏の民とならず、秦に逃げて臣従し、秦のために管城を守った。ときに秦が魏に兵を加え、大梁(魏都)を取ろうとした。安陵君は魏国が宗主国であり、縮高は先に魏国の民であったのに、魏国の危機を見ても救わなかった。信陵君(公子無忌)は魏のために軍を挙げて(秦軍に)臨んだ。安陵君は太府の憲(魏国の法典)のことを述べ、縮高は大臣の義(臣下としての行動ルール)をのべて、信陵君への協力を拒んだ。縮高は死んでも避けず(死んでも魏国に協力せず;秦軍の進攻を妨げるために行動せず)かえって(法典やルールに守ることを)求め、死を得たと謂うべきだろうか。信陵君は縮高のために喪服をつけて安陵君に謝ったが、いずれの処か(なぜそんなことをしたか)知らない。
ぼくは思う。君臣の関係と、親子の関係が対立したときの葛藤の一例。


王使人行萬金於魏以間信陵君,求得晉鄙客,令說魏王曰:「公子亡在外十年矣,今復為將,諸侯皆屬,天下徒聞信陵君而不聞魏王矣。」王又數使人賀信陵君:「得為魏王未也?」魏王日聞其毀,不能不信,乃使人代信陵君將兵。信陵君自知再以毀廢,乃謝病不朝,日夜以酒色自娛,凡四歲而卒。
韓王往吊,其子榮之,以告子順。子順曰:「必辭之以禮。『鄰國君吊,君為之主。』今君不命子,則子無所受韓君也。」其子辭之。

秦王は、使者に万金をもたせて魏王に与え、信陵君との関係を裂き、晋鄙の客(の引き渡し)を求めた。

信陵君は晋鄙を殺したのは、上巻にある。

使者は魏王にいう。「公子(信陵君)は国外に出て十年が経ち、いま魏将に復して、諸侯はみな信陵君に属した。天下の徒が信陵君の(為政者としての評判)を聞くが、魏王のことを聞かない」と。
秦王はまた、しばしば使者をやって信陵君を賀した。「魏王になることが出来ましたか。まだですか」と。魏王は日々、自分の評判が低い(信陵君の評判が高い)のを聞き、べつのひとに信陵君の兵を率いさせた。

ぼくは思う。わかりやすい離間の計。信陵君の評判が高く、魏王の評判が低いから成り立つという、凡人の計略である。

信陵君は役職・名誉を奪われたので、病気といって朝廷にゆかず、日夜 酒色におぼれて4年で卒した。
韓王は(信陵君の)弔問にゆくと、その子は栄誉と考え、子順に告げた。子順「辞退するのが『礼』です。『隣国の君主の弔問は、君主が行うものだ』と。いま韓王は子に命じるな(自分で行け)。そうすれば子は韓王から(弔問をせよという命令を)受けない(から弔問に行かない)」と。韓王の子は辞退した。

〔夏〕,五月[14],丙午,王薨。太子政立,生十三年矣,國事皆〔委〕(決)於文信侯[15],號稱仲父。
晉陽反。

夏5月の丙午、秦王が薨じた。太子の政が立った。生まれてから十三年。国事はすべて文信侯(呂不韋)が決して、「仲父」と称した。

「仲父」とは、斉桓公が管仲を礼遇したときの名。

晉陽が反した。

この年、秦が攻めて晋陽を得て、太原郡を置いた。ほどなく秦で荘襄王の喪があったから、晋陽が反したのである。

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始皇帝上(前246~前228)

始皇帝元年(前246年)

蒙驁擊定之。
韓欲疲秦人,使無東伐,乃使水工鄭國為間於秦,鑿涇水自仲山為渠,并北山,東注洛。中作而覺,秦人欲殺之。鄭國曰:「臣為韓延數年之命,然渠成,亦秦萬世之利也。」乃使卒為之。注填閼之水溉舄鹵之地四萬餘頃,收皆畝一鐘,關中由是益富饒。

蒙驁は、晋陽を撃って定めた。
韓は秦人を疲れさせ、討伐をさせぬため、水工の鄭国をつかって(河川の工事をして)秦(の国土を河川で)を隔てた。涇水をうがち、仲山から渠をつくって北山とあわせ、東に流れて洛水に注ぐようにした。

地形について胡三省が204頁に注釈してる。

工事の途中で秦人に築かれ、鄭国が殺されそうになる。
鄭国「私は韓国のために数年の命(国の寿命)を延ばしたい。もし渠が成れば(河川の工事が終われば)秦国にとっても萬世の利となる」と。工事が完成すると、干潟ができて4萬餘頃の耕作地ができ、どこも畝あたり一鐘を収穫して、関中は富饒となった。

ぼくは思う。韓国は、秦軍の行動を妨げるために、工事を命じた。しかし鄭国は、もっと大きな視点を持っており、秦国が天下統一したら、秦国のために収穫を上げると説いた。韓王の視野のせまさ、鄭国と秦国の視野のひろさが窺われる。


始皇帝二年(前245年)

麃公將卒攻卷,斬首三萬。
趙以廉頗為假相國,伐魏,取繁陽。趙孝成王薨,子悼襄王立,使武襄君樂乘代廉頗。廉頗怒,攻武襄君,武襄君走,廉頗出奔魏。久之,魏不能信用。
趙師數困於秦,趙王思復得廉頗,廉頗亦思復用於趙。趙王使使者視廉頗尚可用否。廉頗之仇郭開多與使者金,令毀之。廉頗見使者,一飯斗米,肉十斤,被甲上馬,以示可用。使者還報曰:「廉將軍雖老,尚善飯;然與臣坐,頃之三遺矢矣。」趙王以為老,遂不召。楚人陰使迎之。廉頗一為楚將,無功,曰:「我思用趙人。」卒死於壽春。

麃公(姓名は不詳)の將が、にわかに巻城を攻めて、3萬を斬首した。
趙は廉頗を假相國として、魏を伐って繁陽(魏郡)を取らせた。趙孝成王が薨じ、子の悼襄王が立った。(新しい趙王は)武襄君の樂乘を、廉頗に代えようとした。廉頗は怒り、武襄君を攻めた。武襄君はにげ、廉頗は魏に出奔した。しばらくして、魏は廉頗を信用できない。
趙軍はしばしば秦軍に困らされ、趙王は廉頗に戻ってもらいたい。廉頗もまた趙将に戻りたい。趙王は使者をやり、廉頗が復帰できるか確認させた。廉頗の仇である郭開は、使者に多額の金を与え、廉頗のことを誹謗させた。廉頗は使者に会うと、多量の米と肉・馬を食べ、甲をかぶって馬にのり(健康状態・意思ともに趙軍に戻れることを)をアピールした。
使者は還ってから趙王に報告した。「廉將軍は老いたが、飯をたくさん食べる。しかし私と同座していると、三たび脱糞した」と。趙王は、廉頗が老いたと考え、ついに召さなかった。

ぼくは思う。魏も同じだったが、戦国の六国が滅びるときは、いずれも人材とか評判がうまく噛みあない。

ひそかに楚人が廉頗を迎えた。廉頗は楚將となったが、功績がない。「私は趙人を用いたいのに」と。にわかに寿春で死んだ。

始皇帝三年(前244年)

大饑。蒙驁伐韓,取十二城。
趙王以李牧為將,伐燕,取武遂、方城。李牧者,趙之北邊良將也,嘗居代、雁門備匈奴,以便宜置吏,市租皆輸入莫府,為士卒費,日擊數牛饗士;習騎射,謹烽火,多間諜,為約曰:「匈奴即入盜,急入收保。有敢捕虜者斬!」匈奴每入,烽火謹,輒入收保不戰。如是數歲,亦不亡失。匈奴皆以為怯,雖趙邊兵亦以為吾將怯。趙王讓之,李牧如故。王怒,使他人代之。歲餘,屢出戰,不利,多失亡,邊不得田畜。王復請李牧,李牧杜門稱病不出。王強起之,李牧曰:「〔王〕必(欲)用臣[16],臣如前,乃敢奉令。」王許之。

おおいに饑えた(五穀が熟れないことを「大饑」という)。蒙驁は韓を伐ち、12城を取った。
趙王は李牧を將にして燕を伐ち、武遂(河間)・方城(広陽)を取った。李牧とは、趙の北辺の良將である。かつて代・雁門にいて匈奴に備え、便宜を以て吏を置き、市租は府に入れずに士卒のために費し、日々しばしば牛を殺して士に饗した。騎射に習ひ、烽火を謹み、間諜を多くし、約を為して曰く、
「匈奴が入って(趙国の財産を)盜んだら、急いで畜産を囲いこんで守れ。捕虜になったものは斬る」
匈奴が侵入するごとに烽火で合図して、すぐに畜産を囲いこんで戦わない。
このように数年がたち、失った畜産がない。匈奴は李牧が怯んだ(怯んで匈奴との戦いを避けている)と考え、趙の辺境の兵も(上官の李牧が)怯んだと考えた。趙王はこれを咎めたが(匈奴と戦えよと叱咤するが)、李牧はもとのまま。趙王は怒り、他人と交代させた。
歳余、しばしば匈奴と戦ったが利あらず、多くの畜産を失って、辺境で牧畜ができなくなった。趙王が李牧に復帰を願うと、李牧は病気だといい閉門して断った。趙王が復帰を強制すると、李牧は「私を用いるなら、前と同じようにやらせて下さい。それなら受ける」という。趙王は許した。

李牧至邊,如約。匈奴數歲無所得,終以為怯。邊士日得賞賜而不用,皆願一戰。於是乃具選車得千三百乘,選騎得萬三千匹,百金之士五萬人,彀者十萬人,悉勒習戰;大縱畜牧、人民滿野。匈奴小入,佯北不勝,以數十人委之。單于聞之,大率眾來入。李牧多為奇陳,張左、右翼擊之,大破之,殺匈奴十餘萬騎,滅衣詹襤,破東胡,降林胡。單于奔走,十餘歲不敢近趙邊。

李牧は辺境に至り、趙王との約束どおり(以前の方法で)統治した。匈奴は数年間、趙国から奪えない。李牧が怯んだと認定した。辺境の士は賞賜をもらうが(戦いに)用いず(用いる機会がなく)、みな一戦を願った。ここにおいて李牧は兵備をととのえ、家畜を解き放し、人民が野を満たした。匈奴が少し進入すると、わざと負けた。単于はチャンスだと思い、大勢で侵入した。李牧は、匈奴10万余騎を殺した。単于は逃げて、10余年、趙国の国境に近づかない。

先是時,天下冠帶之國七,而三國邊於戎狄:秦自隴以西有綿諸、緄戎、翟、豲之戎,岐、梁、涇、漆之北有義渠、大荔、烏氏、朐衍之戎;而趙北有林胡、樓煩之戎;燕北有東胡、山戎;各分散居溪谷,自有君長,往往而聚者百有餘戎,然莫能相一。其後義渠築城郭以自守,而秦稍蠶食之,至惠王遂拔義渠二十五城。昭王之時,宣太后誘義渠王,殺諸甘泉,遂發兵伐義渠,滅之;始於隴西、北地、上郡築長城以拒胡。趙武靈王北破林胡、樓煩,築長城,自代並陰山下,至高闕為塞,而置雲中、雁門、代郡。其後燕將秦開為質於胡,胡甚信之;歸而襲破東胡,東胡卻千餘里;燕亦築長城,自造陽至襄平,置上谷、漁陽、右北平、遼東郡以距胡。及戰國之末而匈奴始大。

この時より先、天下に冠帶する国は7つあり、うち3国が戎狄と国境を接する。秦・趙・燕である。

どの地方でどの民族と接するのか、原文を参照。

のちに(秦と接する異民族の)義渠は城郭を築いて自守したが、秦が蚕食した。惠王のとき、ついに義渠の25城を抜いた。昭王の時、宣太后が義渠王を誘い、諸々の甘泉を殺し、ついに兵を発して義渠を伐って滅した。隴西・北地・上郡から始めて、長城を築いて胡族を拒んだ。
趙武靈王は北にゆき林胡・樓煩を破り、長城を築いて、代から陰山の下をつなぎ、高闕までを塞とした。そして雲中・雁門・代郡を置いた。のちに燕將の秦開が胡族の人質となり、信任された。帰国してから、、東胡・東胡を破って、千餘里を退けた。燕もまた長城を築き、造陽から襄平までつくった。上谷・漁陽・右北平・遼東郡を置いて、胡族を防いだ。戦国の末期におよび、匈奴は初めて強大となる。

始皇帝四年(前243年)

春,蒙驁伐魏,取暘、有詭。三月,軍罷。
秦質子歸自趙;趙太子出歸國。
〔秋〕,七月,〔庚寅〕[17],蝗,疫。令百姓納粟千石,拜爵一級。
魏安釐王薨,子景湣王〔午〕立[18]。

春、蒙驁が魏を伐ち、暘・有詭を取った。3月、軍 罷む。
秦の質子が趙から帰る。趙の太子が(秦から)出でて帰国した。
秋7月、蝗・疫あり。百姓に粟千石を納れしめ、爵一級を拜す。
魏の安釐王が薨じ、子の景湣王が立つ。

始皇帝五年(前242年)

蒙驁伐魏,取酸棗、燕、虛、長平、雍丘、山陽等〔二〕(三)十城[19];初置東郡。
初,劇辛在趙與龐煖善,已而仕燕。燕王見趙數困於秦,廉頗去而龐煖為將,欲因其敝而攻之,問於劇辛,對曰:「龐煖易與耳。」燕王使劇辛將而伐趙。趙龐煖禦之,殺劇辛,取燕師二萬。
諸侯患秦攻伐無已時。

蒙驁が魏を伐ち、酸棗・燕・虛・長平・雍丘・山陽ら30城を取る。はじめて東郡を置く。
はじめ劇辛は趙にいて、龐煖と仲がよい。しかしすでに燕に仕えた。燕王は趙がしばしば秦に侵攻され、趙が廉頗から龐煖に將を交替させるのを見て、疲弊した趙を攻めようとした。燕王が劇辛に問うと、劇辛は「龐煖ならばくみしやすい(旧知だし)」という。燕王は劇辛を将として趙を伐たせる。趙の龐煖が燕軍を防ぎ、劇辛を殺して、燕軍2萬を奪った。
諸侯が秦が無已(信陵君)を攻伐するのを患いている時である。

胡三省はいう。翌年、秦以外が合従して、秦を伐つのである。
ぼくは思う。記事の分け方としておもしろい。


始皇帝六年(前241年)

楚、趙、魏、韓、〔燕〕(衛)合從以伐秦[20],楚王為從長,春申君用事,取壽陵。至函谷,秦師出,五國之師皆敗走。楚王以咎春申君,春申君以此益疏。觀津人朱英謂春申君曰:「人皆以楚為強,君用之而弱。其於英不然。先君時,秦善楚,二十年而不攻楚,何也?秦逾黽阨之塞而攻楚,不便;假道於兩周,背韓、魏而攻楚,不可。今則不然。魏旦暮亡,不能愛許、鄢陵,魏割以與秦,秦兵去陳百六十里。臣之所觀者,見秦、楚之日鬥也。」楚於是去陳,徙壽春,命曰郢。春申君就封於吳,行相事。

楚・趙・魏・韓・衛が合従して秦を伐つ。楚王が從長となり、春申君が用事して壽陵を取る。函谷に至ると、秦師が出で、五國の師は皆 敗走した。楚王は春申君を咎め、春申君は益々(楚王と)仲たがいした。

ぼくは思う。秦が函谷関で五国を破るというのは、強烈な原体験になりそう。

觀津の人である朱英は、春申君にいう。「ひとは楚が強いというが、君が楚軍をひきいたら弱かった。しかし私はそうは思わない(楚軍が弱いのは春申君のせいではない)。先君の時、秦は楚と関係がよく、20年も楚を攻めなかった。なぜか。秦が黽阨の塞を越えて楚を攻めるのは道理にあわない。道を両周に借り(領内を通過し)、背後に韓・魏がいるのに楚を攻めることはできかった。だが今日は状況が違う。魏は滅びそうで、許・鄢陵を維持できず、秦に割譲した。秦の兵は陳(楚都)から160里のところにいる(背後から魏の圧力を受けず、秦は楚を攻められる)。秦と楚が決戦する日が近い」と。
楚は陳を去り、寿春にうつって「郢」と命名した。春申君は呉に封ぜられ、相事を行ふ。

秦拔魏朝歌,及衛濮陽。衛元君率其支屬徙居野王,阻其山以保魏之河內。

秦は魏を朝歌(紂の都で、衛康叔が封ぜられたところ;河内郡)で抜き、衛の濮陽に及ぶ。衛元君は支属をつれて野王(河内)に移る。その山で阻んで魏の河内を保つ。

始皇帝七年(前240年)

伐魏,取汲。夏太后薨。蒙驁卒。

秦が魏を伐ち、汲を取る。夏太后(夏姫)が薨ず。蒙驁が卒す。

ぼくは思う。蒙驁は、秦の外征を支えてきたのに、ここで死ぬのか。


始皇帝八年(前239)

魏與趙鄴。韓桓惠王薨,子安立。

魏が趙に鄴を与える(?)。韓桓惠王が薨じ、子の安が立つ。

始皇帝九年(前238年)

伐魏,取垣、蒲〔陽〕[21]。
夏,四月,寒,民有凍死者。王宿雍。己酉,王冠,帶劍。
楊端和伐魏,取衍氏。

秦が魏を伐ち、垣・蒲(晋の公子の重耳がいたところ)を取る。
夏4月、寒くて凍死した民がいた。秦王(始皇帝)が雍に宿す。己酉、王が冠して劍を帶ぶ。
楊端和が魏を伐ち、衍氏(鄭州)を取る。

◆始皇帝の母と、嫪毐のこと

初,王即位,年少,太后時時與文信侯私通。王益壯,文信侯恐事覺,禍及己,乃詐以舍人嫪毐為宦者,進於太后。太后幸之,生二子,封毐為長信侯,以太原為毐國,政事皆決於毐;客求為毐舍人者甚眾。王左右有與毐爭言者,告毐實非宦者,王下吏治毐。毐懼,矯王御璽發兵,欲攻蘄年宮為亂。王使相國、昌平君、昌文君發卒攻毐,戰咸陽,斬首數百;毐敗走,獲之。

はじめ秦王が即位したとき、年少であり、ときどき太后は文信侯と私通した。王が益々壮となると(成長すると)文信侯は発覚して禍が及ぶのを恐れ、舍人の嫪毐が宦者だと偽り、太后に進めた。太后は嫪毐を幸して2子を生み、嫪毐を長信侯に封じ、太原を嫪毐の封国にした。政事は全て嫪毐が決した。王の左右が嫪毐と争い、宦官でないと暴露した。嫪毐が起兵したので、秦王は相國・昌平君・昌文君に咸陽で平定させた。

秋,九月,夷毐三族;黨與皆車裂滅宗;舍人罪輕者徙蜀,凡四千餘家。遷太后於雍萯陽宮,殺其二子。下令曰:「敢以太后事諫者,戮而殺之,斷其四支,積之闕下!」死者二十七人。齊客茅焦上謁請諫。王使謂之曰:「若不見夫積闕下者邪?」對曰:「臣聞天有二十八宿,今死者二十七人,臣之來固欲滿其數耳。臣非畏死者也!」使者走入白之。茅焦邑子同食者,盡負其衣物而逃王。王大怒曰:「是人也,故來犯吾,趣召鑊烹之,是安得積闕下哉!」王按劍怒而坐,口正沫出。使者召之入,茅焦徐行至前,再拜謁起,稱曰:

秋9月、嫪毐を夷三族にした。太后を雍の萯陽宮(秦文王が建てた)に伐つし、嫪毐との2子を殺した。
秦王が令する。「太后のことで口を出せば、四肢を斬って闕下に積む」
使者は27人。齊の客である茅焦が上謁して諌めたいという。秦王は使者をやり、「闕下に積まれたいか」と拒絶した。
茅焦「天には28宿があり、死者は27人である。私が諌めて死ねば、28の数と符合する。死を畏れない」
死者は秦王に報告した。茅焦の邑子・同食する者は、(巻き込まれるのを恐れて)衣物を背負って逃げた。秦王は大怒した。
「この人は、ことさらに私に恥をかかせようとする。鍋で煮ろ。闕下に積むものか(積むだけでは済まないぞ)」
王は剣を按じて、怒って座った。口から泡を出した。死者が茅焦を召し入れた。茅焦はおもむろに前進して、再拜・謁起していう。

「臣聞有生者不諱死,有國者不諱亡。諱死者不可以得生,諱亡者不可以得存。死生存亡,聖主所欲急聞也,陛下欲聞之乎?」王曰:「何謂也?」茅焦曰:「陛下有狂悖之行,不自知邪?車裂假父,囊撲二弟,遷母於雍,殘戮諫士,桀、紂之行不至於是矣。今天下聞之,盡瓦解,無向秦者,臣竊為陛下危之!臣言已矣!」乃解衣伏質。王下殿,手自接之曰:「先生起就衣,今願受事!」乃爵之上卿。王自駕,虛左方,往迎太后,歸於咸陽,復為母子如初。

「生きていれば死を諱まないという。国があれば亡びを諱まないという。死を諱めば生を得られず、亡びを諱めば国は存続できないという。死生・存亡は、聖主の聞きたがることであるが、陛下は聞きたいか」
秦王「なんだ?」
茅焦「陛下に狂悖の行があることを自覚しないか。假父(嫪毐)を車裂にし、二弟(同母弟)を囊撲し、母を雍に遷し、諫士を殘戮した。桀・紂の行いですら、これほど悪くない。天下がこれを聞けば、尽く瓦解して、秦に従うものがなくなる。陛下のために危ぶんでいる」と。

ぼくは思う。呂不韋や、始皇帝の母、嫪毐を咎めるのではない。彼らを罰した始皇帝のほうが、咎められている。

茅焦は衣を解いて質に伏した。秦王は殿を下り、手で接して、「先生、起ちて衣を就けよ。今 願はくは事を受けん(教えに従おう)」と。乃ち之を爵して上卿す。秦王は自ら馬車にのり、左方を虚とし(空席にして)、往きて太后を迎へ、咸陽に歸す。復た母子と為ること初の如し。

きちんと誤りを認める始皇帝。立派なひと!


◆春申君が楚を乗っ取る

楚考烈王無子,春申君患之,求婦人宜子者甚眾,進之,卒無子。趙人李園持其妹欲進諸楚王,聞其不宜子,恐久無寵,乃求為春申君舍人。已而謁歸,故失期而還。春申君問之,李園曰:「齊王使人求臣之妹,與其使者飲,故失期。」春申君曰:「聘入乎?」曰:「未也。」春申君遂納之。既而有娠,李園使其妹說春申君曰:「楚王貴幸君,雖兄弟不如也。今君相楚二十餘年而王無子,即百歲後將更立兄弟,彼亦各貴其故所親,君又安得常保此寵乎!非徒然也,君貴,用事久,多失禮於王之兄弟,兄弟立,禍且及身矣。今妾有娠而人莫知,妾幸君未久,誠以君之重,進妾於王,王必幸之。妾賴天而有男,則是君之子為王也。楚國盡可得,孰與身臨不測之禍哉!」春申君大然之。乃出李園妹,謹舍而言諸楚王。王召入,幸之,遂生男,立為太子。

楚の考烈王には子がなく、春申君が心配して、子だくさんの婦人を進めたが、子ができない。趙人の李園は、妹を楚王に進めたいが、楚王は子ができないと聞き、久しく寵愛されぬことを恐れ、春申君の舍人にしてくれと頼んだ。謁見してから帰るとき、わざと(帰りのお迎えを)遅らせた。春申君が理由を問う。
李園「齊王は使者をやって私の妹を求めました。その使者と飲んでいて遅れました」
春申君「妹はもう斉王に嫁入りしたのか」
李園「まだ」
春申君は、李園の妹を妻にした。妊娠したころ、李園がいう。
「楚王には子ができない。もし楚王の弟が即位すれば、20余年も宰相をしてきた春申君は(臣下として権限が大きすぎるから)身に禍いが及ぶ。わが妹(春申君の子を妊娠)を楚王に嫁入りさせれば、春申君の子がつぎの楚王になれる」
楚王は、春申君の子を(自分の子と思って)太子とした。

李園妹為王后,李園亦貴用事,而恐春申君泄其語,陰養死士,欲殺春申君以滅口;國人頗有知之者。楚王病,朱英謂春申君曰:「世有無望之福,亦有無望之禍。今君處無望之世,事無望之主,安可以無無望之人乎!」春申君曰:「何謂無望之福?」曰:「君相楚二十餘年矣,雖名相國,其實王也。王今病,旦暮薨,薨而君相幼主,因而當國,王長而反政,不即遂南面稱孤,此所謂無望之福也。」「何謂無望之禍?」曰:「李園不治國而君之仇也,不為兵而養死士之日久矣。王薨,李園必先入,據權而殺君以滅口,此所謂無望之禍也。」「何謂無望之人?」曰:「君置臣郎中,王薨,李園先入,臣為君殺之,此所謂無望之人也。」春申君曰:「足下置之。李園,弱人也,僕又善之。且何至此!」朱英知言不用,懼而亡去。後十七日,楚王薨,李園果先入,伏死士於棘門之內。春申君入,死士俠刺之,投其首於棘門之外;於是使吏盡捕誅春申君之家。太子〔悍〕立[22],是為幽王。

李園の妹が楚王后となった。李園は外戚として権勢を得て、春申君から秘密が漏れるのを恐れて殺そうとした。楚王が病むと、朱英が春申君にいう。「あなたには望まない福、望まない禍、望まない人材がある」
春申君「なんのこと?」
朱英「あなたは20余年、楚の宰相だが、実態は王である。いま王が死ねば、王が成長するまでは王として振る舞える。これが望まない福。李園は口封じのために、あなたを殺すだろう。これが望まない禍。私はあなたのために、先手を打って李園を殺してあげる。これが望まない人材」
春申君「まさかね。そんなこと起こるはずがない」
春申君は李園に殺された。太子(春申君の子)が楚の幽王となった。

王以文信侯奉先王功大,不忍誅。

秦王は文信侯(呂不韋)が、先王の時代から功績が大きいので、誅するに忍びず。

始皇帝十年(前237年)

冬,十月,文信侯免相,出就國。

冬10月、文信侯(呂不韋)が相を免じられ、封国にゆく。

宗室大臣議曰:「諸侯人來仕者,皆為其主游間耳,請一切逐之。」於是大索,逐客。客卿楚人李斯亦在逐中,行,且上書曰:「昔穆公求士,西取由余於戎,東得百里〔奚〕於宛,迎蹇叔於宋,求丕豹、公孫支於晉,併國二十,遂霸西戎。孝公用商鞅之法,諸侯親服,至今治強。惠王用張儀之計,散六國之從,使之事秦。昭王得范睢,強公室,杜私門。此四君者,皆以客之功。由此觀之,客何負於秦哉!夫色、樂、珠、玉不產於秦而王服御者眾,取人則不然,不問可否,不論曲直,非秦者去,為客者逐。是所重者在乎色、樂、珠、玉,而所輕者在乎人民也。臣聞泰山不讓土壤,故能成其大;河海不擇細流,故能就其深;王者不卻眾庶,故能明其德。此五帝、三王之所以無敵也。今乃棄黔首以資敵國,卻賓客以業諸侯,所謂藉寇兵而賚盜糧者也。」王乃召李斯,復其官,除逐客之令。李斯至驪邑而還。王卒用李斯之謀,陰遣辯士齎金玉遊說諸侯,諸侯名士可下以財者厚遺結之,不肯者利劍刺之,離其君臣之計,然後使良將隨其後,數年之中,卒兼天下。

宗室・大臣は議した。「諸侯が人を秦に送りこむのは、秦の君臣の関係を壊すため。外国人はすべて追い払え」と。
客卿である楚人の李斯が、外国人の有用性を説いて、重用された。こうして数年のうちに、秦は天下を取ることになる。

始皇帝十一年(前236年)

趙人伐燕,取貍、陽〔城〕[23]。兵未罷,將軍王翦、桓齮、楊端和伐趙,攻鄴,取九城。王翦攻閼與、轑陽,桓齮取鄴、安陽。
趙悼襄王薨,子幽繆王遷立。其母,倡也,嬖於悼襄王,悼襄王廢嫡子嘉而立之。遷素以無行聞於國。

趙人が燕を伐ち、貍・陽城を取る。兵が罷む前に、秦の將軍の王翦・桓齮・楊端和が趙を伐ち、鄴を攻めて9城を取る。王翦は閼與・轑陽を攻め、桓齮は鄴・安陽を取る。

趙は燕の方向に領土を拡大しているあいだに、秦に自領を取られた。

趙の悼襄王が薨じ、子の幽繆王の遷が立つ。その母は倡である。悼襄王に寵愛され、悼襄王は嫡子の嘉を廃して(娼の子を)立てた。趙王の遷は、素行の悪さが国で知られていた。

ぼくは思う。寵愛する娼の子を立て、廃嫡までするとか、亡国フラグ。


文信侯就國歲餘,諸侯賓客使者相望於道,請之。王恐其為變,乃賜文信侯書曰:「君何功於秦,封君河南,食十萬戶?何親於秦,號稱仲父?其與家屬徙處蜀!」文信侯自知稍侵,恐誅。

文信侯は封国にいって1年余。諸侯・賓客の使者は、道にごった返す。秦王は事変を恐れて、文信侯に手紙をおくる。「君は秦に対してどんな功績があり、河南に封じられ、10萬戸を食むのか。秦に対してどんな親族関係があり、『仲父』を称するのか。家属とともに蜀に移れ」と。
文信侯は不興を買っていると悟り、秦王に誅されるのを恐れた。

始皇帝十二年(前235年)

文信侯飲酖死,竊葬。其舍人臨者,皆逐遷之。且曰:「自今以來,操國事不道如嫪毐、不韋者,籍其門,視此!」
自六月不雨,至於八月。發四郡兵助魏伐楚。

文信侯が酖を飲んで死に、ひそかに葬られた。その舍人は哭して、みな(文信侯の死体を)追って移動した。
6月から8月まで雨ふらず。4郡の兵を発して、魏を助けて楚を伐つ。

始皇帝十三年(前234年)

桓齮伐趙,敗趙將扈棷於平陽,斬首十萬,殺扈棷。〔冬,十月,桓齮復伐趙〕

桓齮が趙を伐ち、趙將の扈棷を平陽で敗る。斬首すること十萬、扈棷を殺す。

始皇帝十四年(前233年)

桓齮伐趙,〔殺其趙將〕[25],取宜安、平陽、武城。〔趙王以李牧為大將軍,戰於宜安、肥下,秦師敗績,桓齮奔還。趙封李牧為武安君〕。
韓王納地效璽,請為籓臣,使韓非來聘。韓非者,韓之諸公子也,善刑名法術之學,見韓之削弱,數以書干韓王,王不能用。於是韓非疾治國不務求人任賢,反舉浮淫之蠹而加之功實之上,寬則寵名譽之人,急則用介冑之士,所養非所用,所用非所養。悲廉直不容於邪枉之臣,觀往者得失之變,作《孤憤》、《五蠹》、《內外儲》、《說林》、《說難》五十六篇,十餘萬言。

桓齮が趙を伐ち、宜安・平陽・武城を取る。趙王は李牧を大將軍とし、宜安・肥下で戦う。秦師は敗績し、桓齮は奔り還った。趙は李牧を武安君に封じた。
韓王は地を納め璽を效ひ、(秦の)藩臣たらんことを請ふ。韓国は、韓非に使者をさせた。韓非とは、韓の諸公子である。刑名・法術の学を善くしたが、韓王に上書が用いられない。

王聞其賢,欲見之。非為韓使於秦,因上書說王曰:「今秦地方數千里,師名百萬,號令賞罰,天下不如。臣昧死願望見大王,言所以破天下從之計。大王誠聽臣說,一舉而天下之從不破,趙不舉,韓不亡,荊、魏不臣,齊、燕不親,霸王之名不成,四鄰諸侯不朝,大王斬臣以徇國,以戒為王謀不忠者也。」王悅之,未任用。李斯嫉之,曰:「韓非,韓之諸公子也。今欲並諸侯,非終為韓不為秦,此人情也。今王不用,又留而歸之,此自遺患也。不如以法誅之。」王以為然,下吏治非。李斯使人遺非藥,令早自殺。韓非欲自陳,不得見。王後悔,使赦之,非已死矣。

秦王は韓非を賢い(官僚として能力がある)と考え、会いたい。韓非は秦王に意見した。李斯が嫉妬して、「韓非は韓に利して、秦に損をさせるために動いている」と吹き込み、韓非を自殺させた。

始皇帝十五年(前232年)

王大興師伐趙,一軍抵鄴,一軍抵太原,取狼孟(番吾);遇李牧〔於番吾,秦師敗〕(而)還[26]。
初,燕太子丹嘗質於趙,與王善。王即位,丹為質於秦,王不禮焉。丹怒,亡歸。

秦王はおおいに師を興して趙を伐ち、一軍を鄴に抵て、一軍を太原に抵て、狼孟・番吾を取った。李牧に遇って(秦軍は李牧に負けたことがあるから)還った。

胡三省はいう。秦軍は李牧を恐れる。趙は李牧を殺してしまって、すぐに滅びる。

はじめ、燕の太子である丹は、かつて趙の人質となり、秦王と仲がよかった。秦王が即位すると、丹は秦の人質となったが、秦王が礼遇しないので、丹が怒って亡歸した。

始皇帝十六年(前231年)

韓獻南陽地。〔秋〕,九月[27],發卒受地於韓。魏人獻地。
代地震,自樂徐以西,北至平陰;臺屋牆垣太半壞,地坼東西百三十步。

韓は南陽の地を(秦に)献じた。

漢代の南陽郡である。秦・楚・韓が分けあっていた。

秋9月、卒を発して韓から地を受けとる。魏人は(秦に)地を献じた。
代で地震があり、樂徐より西、北は平陰までが揺れた。家屋の大半が壊れ、地が東西130歩も割けた。

始皇帝十七年(前230年)

內史〔騰〕(勝)滅韓[28],虜韓王安,以其地置潁川郡。
華陽太后薨。趙大饑。衛元君薨,子角立。

内史(京師を掌り、秦の36郡でも置かれる)の勝が韓を滅し、韓王の安を虜とした。韓の地に潁川郡を置いた。

歴史的な瞬間!
韓景侯が陽翟に都したから、陽翟県が頴川の郡治となった。
ぼくは思う。楚漢戦争について知るために資治通鑑の秦紀を読んでます。「韓を滅ぼして穎川郡を置く」とかがリアルタイムで起きてて萌えます。異文化をもつ旧楚の都のあった地域(魏が取った範囲の荊州や揚州)と、さらに南方の地域(呉が取った範囲の荊州や揚州;漢民族の住む所じゃない!)の特性が意識できる。
漢の地図だけ見てると、平らかで地域性を忘れそうになるが(不注意なぼくが悪い)楚漢の地理感覚を持った人が転生したら、後漢末をどう見るか、どういう領土的な戦略を立てるか…と考えると楽しい。袁術の本拠地の移転は、まんま楚の遷都だし。やっぱり関中と漢中は密接だし。陳勝呉広の乱を吸収して強化される袁術軍。彼らは楚地で伝統的な権威を担ぎたがっている。自立するから、うまく使わないと。

華陽太后が薨じた。趙で大饑あり。衛元君が薨じ、子の角が立つ。

始皇帝十八年(前229年)

王翦將上地,兵下井陘,〔羌瘣將囗囗兵,楊〕端和將河內兵[29],共伐趙。趙李牧、司馬尚禦之。秦人多與趙王嬖臣郭開金,使毀牧及尚,言其欲反。趙王使趙蔥及齊將顏聚代之。李牧不受命,趙人捕而殺之;廢司馬尚。〔翦擊趙軍,大破之,殺趙蔥,顏聚亡,遂圍邯鄲〕[30]。

王翦が上地(上郡上県)の兵をひきい、井陘を下す。端和は河内の兵をひきい、ともに趙を伐つ。趙の李牧・司馬尚が(秦軍の王翦・端和)を防ぐ。
秦人は、たくさんの金を、趙王の嬖臣である郭開に与えて、「李牧・司馬尚が謀反する」と言い触らさせる。趙王は趙蔥および齊將の顔聚に交替させた。李牧は命を受けず、趙人は李牧を捕えて殺した。司馬尚を廃した。

王翦が趙軍をやぶり、交代した将軍は敗れて、趙都の邯鄲が囲まれた。


始皇帝十九年(前228年)

〔冬,十月〕[31],克邯鄲,虜趙王遷,〔盡定趙地〕[32]。王如邯鄲,故與母家有仇怨者皆殺之。還,從太原、上郡歸。
太后薨。
王翦屯中山以臨燕。趙公子嘉帥其宗族數百人奔代,自立為代王,趙之亡,大夫稍稍歸之,與燕合兵,軍上谷。 楚幽王薨,國人立其弟郝。〔春〕,三月[33],郝庶兄負芻殺之,自立。
魏景湣王薨,子假立。

秦軍は邯鄲をやぶり、趙王の遷を捕虜にした。秦王は邯鄲にゆき、母家の仇怨があるものを殺した。還って、太原から上郡に還る。
太后(秦王の母、もと邯鄲の美女)が薨じた。
王翦は中山に屯して燕に望む。趙公子の嘉は、宗族數百人をひきいて代に奔り、自ら立って代王となる。趙が亡ぶと、大夫は稍稍と(代王に)帰した。燕と兵をあわせ、上谷に軍す。
楚の幽王が薨じ、國人は弟の郝を立てた。3月、郝の庶兄である負芻がこれを殺し、自立した。
魏景湣王が薨じ、子の假が立つ。

◆燕太子の丹のこと

燕太子丹怨王,欲報之,以問其傅鞠武。鞠武請西約三晉,南連齊、楚,北媾匈奴以圖秦。太子曰:「太傅之計,曠日彌久,令人心惛然,恐不能須也。」頃之,將軍樊於期得罪,亡之燕;太子受而舍之。鞠武諫曰:「夫以秦王之暴而積怒於燕,足為寒心,又況聞樊將軍之所在乎!是謂委肉當餓虎之蹊也。願太子疾遣樊將軍入匈奴。」太子曰:「樊將軍窮困於天下,歸身於丹,是固丹命卒之時也,願更慮之!」鞠武曰:「夫行危以求安,造禍以為福,計淺而怨深,乃連結一人之後交,不顧國家之大害,所謂資怨而助禍矣!」太子不聽。

燕の太子である丹は、秦王を(冷遇されたから)恨み、報復したくて、傅の鞠武に問う。鞠武「西して三晋と約し、南して齊・楚と連なり、北は匈奴を動かして秦を図れ」と。太子「太傅の計は迂遠なので、実現不可能だ」

ぼくは思う。秦王に報復するというよりも、秦を滅ぼして、燕が天下を統一するための計略である。

しばらくして將軍の樊於期が罪を得て、燕に亡命した。
鞠武が諌めた。「秦王は燕のことを怒っているのに、(秦の罪人である)樊於期まで抱えこむな。樊於期は匈奴にやってしまえ」と。 太子「樊於期は天下に窮困して、私を頼ってきた。これは私が命がけになるべきときだ」。鞠武「軽率に1人の樊於期をかばったばかりに、国が災厄を被るぞ」

太子聞衛人荊軻之賢,卑辭厚禮而請見之。謂軻曰:「今秦已虜韓王,又舉兵南伐楚,北臨趙。趙不能支秦,則禍必至於燕。燕小弱,數困於兵,何足以當秦!諸侯服秦,莫敢合從。丹之私計愚,以為誠得天下之勇士使於秦,劫秦王,使悉反諸侯侵地,若曹沫之與齊桓公,則大善矣;則不可,因而刺殺之,彼大將擅兵於外而內有亂,則君臣相疑,以其間,諸侯得合從,其破秦必矣。唯荊卿留意焉!」荊軻許之。於是舍荊卿於上舍,太子日造門下,所以奉養荊軻,無所不至。及王翦滅趙,太子聞之懼,欲遣荊軻行。

太子は、衛人の荊軻が賢(有能)だと聞き、礼を厚くして迎えた。
荊軻「すでに秦王は韓王を捕虜にして、南に楚を伐ち、北に趙に臨む。趙は支えきれず、禍いは燕に及ぶ。燕は弱くて抵抗できない。始皇帝を暗殺するしかない」
太子が荊軻に贅沢をさせた。秦将の王翦が趙を滅ぼすと、太子が懼れ、荊軻に決行してほしい。

荊軻曰:「今行而無信,則秦未可親也。誠得樊將軍首與燕督亢之地圖,奉獻秦王,秦王必說見臣,臣乃有以報。」太子曰:「樊將軍窮困來歸丹,丹不忍也!」荊軻乃私見樊於期曰:「秦之遇將軍,可謂深矣,父母宗族皆為戮沒!今聞購將軍首,金千斤,邑萬家,將奈何?」於期太息流涕曰:「計將安出?」荊卿曰:「願得將軍之首以獻秦王,秦王必喜而見臣,臣左手把其袖,右手揕其胸,則將軍之仇報而燕見陵之愧除矣!」樊於期曰:「此臣之日夜切齒腐心也!」遂自刎。太子聞之,奔往伏哭,然已無奈何,遂以函盛其首。太子豫求天下之利匕首,使工以藥焠之,以試人,血濡縷,人無不立死者。乃裝為遣荊軻,以燕勇士秦舞陽為之副,使入秦。

荊軻「暗殺するにも、秦王と会う場がない。樊於期の首を献上するという用件をつくれば、秦王に会える」。太子「樊於期は私を頼ってきたのに、殺すのは忍びない」。荊軻はこっそり(太子に内緒で)樊於期に会い、計画を説明した。樊於期は自刎した。荊軻は、樊於期の首をもって、秦王に会いにゆく。150729

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