李固が死んだら、馬融の責任だ
『後漢書』を、抄訳します。原文は、省かずに載せます。『資治通鑑』で概観した、後漢の後半を知るために、列伝を読んでいます。
岩波版の『後漢書』を参考に、適宜、李賢の注釈もひろいます。
南海郡から帰るなら、手ぶらになれ
吳祐は、あざなを季英という。陳留の長垣の人だ。父の呉恢は、南海太守だ。
ぼくは思う。儒教で名を立てた人は、父が南方の地方官という人がおおいか。胡広の父は、交趾に赴任した。
呉祐は12歳で、父に従って、南海で就職した。呉恢は、竹をあぶり、經書を筆写したい。呉祐は、父を諌めた。「いま私たちは、五領を越えて、遠い海濱にきた。南海には、珍怪な品がおおい。南海から、なにかを持ち帰ったら、天子に疑われ、外戚からはヨコセと言われる。むかし馬援は、交趾からハトムギを持ち帰って、疑われた。ぎゃくに王陽は、手ぶらで帰って、名声をえた」
父の呉恢は、呉祐に従う。呉恢は、呉祐の首を撫でて、言った。「呉氏は、代々、季子がいる」と。
呉祐は20歳になり、父が死んだ。簷石(貯蓄)がないが、贍遺(贈与)を受けず。つねに豚を飼い、經書を吟じた。父の旧知が、呉祐に言った。「あなた(呉祐)は太守の子なのに、生業が賎しい。あなたがよくても、父(呉恢)が可哀想だ」と。呉祐は、辭謝しただけで、生活をかえず。
ぼくは思う。後漢には、このように、就職しなくても生活できる人が、在野にたくさんいたのだろう。価値観ひとつで、就職することを決めた。現代日本の、「とりあえず大学を出たら、働いておけ」というプレッシャーとは、ちがう。
当然、太守たちは、こういう在野の豪族?たちを、統御せねばならん。
目下を抜擢する才能がある
のちに孝廉にあがる。郡中は、呉祐のために、祖道した。
李賢はいう。祖道とは、土をもって、祭壇をつくること。『五経要義』はいう。祭りをおこない、道路のために祈ること。ぼくは補う。道中の安全を、祈ってくれたのだ。
呉祐は、祭壇をこえて、小史する雍丘の黃真とともに語り合い、友となった。呉祐と黃真は、時が移るまで語り、この場は別れた。
功曹は、呉祐がおごるから、クビにしたい。陳留太守は、呉祐をかばう。「呉祐は、知人の明がある。呉祐はクビだとか、言うな」と。のちに黄真は、孝廉にあがり、新蔡の県長となる。世は、黄真の清節をたたえた。
ぼくは思う。陳留の功曹は、せっかく祭りのとき、呉祐が私語するから、怒ったんだろう。黄真と仲よくなり、長時間ダベっているなよと。呉祐は、のちの素晴らしい県長と、たちまち仲良くなった。人物を見抜く目があるでしょ?というエピソードだ。
ときに公沙穆(列伝72)が、太学にきた。金がないから、雇用されて労働した。公沙穆は、呉祐に雇われ、臼つきの賃労働をした。呉祐は、公沙穆と語って、おおいに驚いた。公沙穆と、仕事場で仲良くなった。
膠東侯相として、豪族の抗争をとめる
呉祐は、光祿で働いたとき、四行があるから、膠東侯相にうつる。
『後漢書』黄琬伝はいう。旧制にある。光禄の三署郎(五官署と、左右の署にいる郎官)をあげるとき、高功、久次、才徳が、もっと異なるものを、茂才と四行となす。
吉川はいう。膠東は、山東省。侯相は、侯国の実質の為政者。郡の太守に相当。
ときに濟北の戴宏の父は、縣丞だ。戴宏は16歳で、父に従い、県の丞舍にいる。呉祐は、いつも戴宏が書物を読む声を聞いた。呉祐は、戴宏と友となった。戴宏は、やがて儒教の第一人者となった。戴宏は、名を東夏(東方)に知られた。戴宏は、官位が、酒泉太守までいたる。
呉祐の政治は、仁簡(慈愛があり、簡素)だ。訴訟があれば、役所の門を閉ざして、呉祐は自分を責めた。訴訟をやめさせ、道理を説明した。呉祐みずから、村里をまわり、和解させた。訴訟はなくなり、吏人は呉祐を欺かず。
『後漢書』左雄伝:孝廉を40歳以上に限定し、豪族の抗争を抑止
呉祐の部下・嗇夫の孫性は、税金をフトコロにいれた。父に布をわたした。
孫性の父は怒って、孫性を呉祐に自首させた。呉祐は、孫性の父をほめた。「親族の不正をあばくのは、すばらしい」と。孫性の父に謝し、布をあげた。
この話は、『資治通鑑』142年にある。142年、梁冀の風潮にあらがう官吏
梁冀でも宦官でも、同じだが。中央の権力者が、支配を強めようとすると、地方の長官に、一族の者を任命する。結果、地方の豪族と折り合いがつかず、摩擦が増える。呉祐が膠東侯相をしたとき、梁冀の最盛期である。おそらく、梁氏の求心力がつくった摩擦を、呉祐のような官吏が、緩和したのだろう。
毋丘長に、子孫を残させる
安丘の男子・毋丘長は、母とともに、市にゆく。醉客は、母を辱めた。毋丘長は、酔客を殺した。安丘の役人は、毋丘長を追いかけ、膠東で捕えた。呉祐は、毋丘長に言った。「母を辱められたら、怒るのは人情だ。もし毋丘長を赦したら、法規にそむく。だが、毋丘長を刑すのは忍びない。どうするか」と。毋丘長は、みずから手カセして言った。「呉祐さんに迷惑はかけられん。罰してくれ」と。呉祐は、毋丘長に聞く。「妻子はあるか」と。毋丘長は言う。「妻はいるが、子はない」と。
呉祐は、毋丘長を安丘にうつし、妻といっしょに投獄した。妻が妊娠した。冬の終わり、毋丘長は死刑となる。毋丘長は、指を噛み切って飲みこみ、血を吹きながら言った。「妻が生んだ子を、吳生と名づけよ。この子が、呉祐さんに報いるのだ」と。毋丘長は、首をつって死んだ。
李固を弁護し、梁冀によって左遷される
呉祐は、膠東に9年いた。齊相にうつる。
ぼくは思う。もともと、京師にろくな人脈がないじゃないか。その分、東の果てで、調停係りとして、職務に集中できたのだ。
大將軍・梁冀は、呉祐を長史とした。梁冀が、太尉の李固を誣奏する。呉祐はこれを聞き、梁冀と言い争った。だが呉祐は、梁冀の誣奏をとめられず。
ときに扶風の馬融が、梁冀のために章草を書いた。呉祐は、馬融に言った。「李固の罪は、馬融がつくったのだ。もし李固が誅されたら、馬融は、どのツラさげて天下にまみえるか」と。梁冀が怒って入室したので、すぐに呉祐は去った。
ぼくは思う。『資治通鑑』147年に、このエピソードがある。呉祐は、官位が高くなく、政権は持たないが、キラリと光るエピソードがある。
梁冀は呉祐を、河間相とした。呉祐は辞退して、家に帰る。もう出仕せず。野菜をつくり、経書を教授した。98歳で死んだ。
呉祐の長子は、呉鳳だ。樂浪太守までなる。呉祐の少子、呉愷だ。新息令となる。呉鳳の子は、呉馮だ。鯛陽侯相となる。みな世に、名声がある。101224