表紙 > ~後漢 > 曹操の献帝奉戴をめぐる、劉表の動き (むじんさんのツイートより)

献帝が李傕から曹操に移ったときの、牧守の反応

むじんさん(@yunishio)の110501のツイートを引用し、
すこし、自分なりに考えてみました。

むじんさんのツイート

括弧数字は、発言の順番に、ぼくが振ったもの。
赤字や下線は、ぼくがつけたものです。以下、5つのツイートを引用。

(1) 張繡はもともと李傕政権から将軍号をもらっている。李傕は袁術と連絡を取っていた。張繡が身を寄せた南陽郡はもともと袁術の勢力圏。張繡ははじめ劉表と敵対していたが、劉表は袁術とも敵対している。張繡が袁紹、曹操のいずれに就くべきかを検討したのは袁術死後が初めて。

(2) 張繡が袁術一派だとすると、東州兵を通じて劉璋、李厳との関係も浮上してくるな。そもそも劉表にしても実はさほど袁紹とは親しくはなく、皇統に関する見解は袁術に近い。袁術と劉表をまとめて曹操が追討の勅令を引きだしたのも両人の立場が近かったからだろう。この追討令を劉璋は受けとっている。

(3) 益州の東州兵は、興平建安の飢饉のとき三輔、南陽から流入してきており、張繡や王忠とおなじ流れをくんでいる。さらに南陽からは有力武将の李厳が入っており、東州兵にも大きな影響力を有したものと思われる。その李厳は最初、秭帰に駐屯して劉表と対峙していた。故郷南陽と挟み撃ちにする形勢。

(4) 曹操が官渡において袁紹と対峙したとき、劉表は北に張繡、西に李厳、南に張羨と、南陽勢力にぐるりと包囲される形であった。長沙太守の張羨は南陽郡のひと。また東の孫氏も、もとは南陽から勢力を扶植していた軍閥。劉表は南陽人との折り合いが悪い。だから南陽郡と漢水をへだてて襄陽に治府を置いた。

(5) 張羨の配下に桓階がおり、桓階は孫堅の故吏であり劉表に勧めて孫堅の遺体を息子の孫策に返還させた人物。劉表包囲網の一環として孫策との連絡に一役買ったことはまず間違いない。張羨は零陵を支配下に収めているが、孫策の配下にも零陵の黄蓋がいる。

以下、ぼくが考えたことを記します。
むじんさんのツイートは、献帝の所在による差異が、はぶかれている気がする。李傕政権のときと、曹操政権のときで、牧守たちの対応は、まるで違う。検討してみました。

劉表が張繍を助けた理由は、曹操の献帝奉戴

ツイート(1) について。李傕-袁術-張繍が、つながったという話。張繍のおじ・張済は、李傕の同僚である。張繍も、その流れをくむ。これは、間違いない。

『三国志』董卓伝の後半はいう。李傕は、車騎将軍、池陽侯となり、司隸校尉、假節。郭汜は、後將軍、美陽侯となる。樊稠は、右將軍、萬年侯。李傕、郭汜、樊稠の3人が、朝政をつかむ。張済は驃騎将軍、平陽侯となり、弘農にいる。『後漢書』献帝紀、董卓伝はどちらもいう。張済は、鎮東将軍となった。のちに驃騎将軍にうつった。つまり陳寿は、張済が鎮東将軍になった話を、はぶいた。
何が言えるか。
李傕、郭汜、樊稠は、長安にいる。張済は、長安の外に出ている。政権の中心にはいない。張済は、外から長安を守っている。もしくは、李傕と共倒れにならないように、距離を保っている。もともと、李傕、郭汜、樊稠という3人が、三公でもないのに執政している時点で、人数が多すぎる。弘農に出ているのは、不自然でない。
もともと張済は、どこから来たのか。李傕と同レベルの、中堅以下の将校だ。
『三国志』董卓伝はいう。王允は董卓を倒したのち、董卓軍の上級将校を、長安で味方にした。胡軫、徐栄、楊定らだ。ぎゃくに王允は、主要でない将校を、フォローしそこねた。陳留や潁川に遠征している、李傕、郭汜、張済だ。名がならんでる。
史料はこちら:献帝の動向を知るために、李傕・郭汜伝01同02

195年夏、李傕と郭汜が、長安市街で戦闘を始めた。『三国志』董卓伝にひく『献帝起居注』で、謁者僕射の皇甫酈は、李傕に言った。張済、郭汜、楊定は、李傕をねらっていると。つまり張済は、郭汜と同じ立場。むしろ、長安から距離を置いているだけに、泥試合に巻きこまれずにすむ。郭汜より、有利な立場である。

名を連ねている楊定は、王允が味方にした人物。董卓軍の上級将校か。

張済は、李傕政権の運営者の1人だ。言葉のアヤですが、張繍は李傕政権から将軍号をもらったと言うより、張済の従子として、李傕政権を運営する側にいる。

献帝を長安から脱出させたのは、物理的には、張済だ。『三国志』董卓伝はいう。張済は、陜県から出てきて、献帝を連れ出した。新豊、覇陵のあいだにきたと。『後漢書』董卓伝で、張済は献帝を、弘農に遷したい。つまり長安でなく、張済の軍事拠点・弘農に、献帝を連れてこようとした。
賈詡は、李傕を裏切って、献帝の東遷に同意した。袁宏『後漢紀』にある。のちに賈詡は、張繍の軍師みたいなことをする。賈詡は、張済-張繍が、献帝を手に入れることを、プロデュースしたのだ。賈詡が、曹操を攻める、この活動の一環。

張繍が、もと袁術の勢力圏に入ったのも、間違いない。華歆伝を読むと、袁術が穣県にいたとある。張繍の居場所と同じだ。『三国志』袁術伝には、穣県と書いてない。

むじんさんはツイートではぶいているが、劉表は、はじめ袁術-張繍と対立するが、のちに劉表は張繍と協調する。なにが違うか。献帝の所在がちがう。劉表も、袁術-張繍も、献帝が李傕のもとにいるときは、これに反対しない。李傕政権のもとで、どちらが活躍するかを競う。献帝が李傕から去れば、どちらが献帝を保護するかを競う。しかし、献帝が曹操に拉致られると、状況がかわる。献帝を曹操から救出するという点で、大同団結する。

どこで読んだか忘れたが。優秀な投資家は、朝と夕方で言うことがちがう。「朝令暮改」は、ふつうは悪いこととされる。しかし、その投資家の言い分は、スジがとおっている。「朝と夕方で、状況がちがう。だから、私の判断もかわる」と。
後漢末だって、献帝の所在によって、判断がかわるだろう。変ではない。

『三国志』劉表伝はいう。はじめ劉表は、張済をこばんだ。張済が討ち死にすると、劉表は態度をひるがえし、張繍を迎えた。史料には細かいタイムテーブルが書いていないが。曹操が献帝を獲得した時期と、重なるのではないか。


劉璋は曹操政権を支持したが、「蜀志」が隠す

(2) (3) について。李厳の話は、ぼくの眼中になかった。新しい気づきです。
むじんさんの指摘に加え、タイムテーブルを整理したい。『三国志』李厳伝で、曹操が荊州に入ったとき、李厳が秭歸にいた。李厳は、劉備の死に居合わせたことからも分かるが、ちょっと年齢がくだる。曹操の南下は、約10年後。190年代の議論に、どこまで噛ませられるか、疑問。

「関係ない」というのは簡単。「史料にない」というのは、堅実。しかし、いろいろ推測して結びつけるのが、このホームページの態度。もちろん、これでは、おわりません。

『三国志』劉焉伝を読むと、劉焉は李傕政権に敵対する。李傕政権に、堂々と敵対する牧守は、劉焉をのぞくと袁紹ぐらい。劉焉の敵対は、めずらしい。しかも劉焉は、袁紹とちがい、李傕に戦闘をしかけた。袁紹よりも積極的に、李傕政権を否定する。もちろん、益州が関中に地理的に近くて、可能になった。

劉表は、劉焉の祭祀をチクった。劉表は李傕政権を支持して、劉焉は李傕政権を支持しない。明確だなあ。

劉焉は、すごい。冀州を得るのに、190年代前半を使い果たした袁紹とちがい、劉焉は、みずから州牧を設置して、地域に権力を植えつけた、用意周到な人。まあ袁紹より、年齢が上という事情もあるだろうが。

霊帝の軍制改革の欠陥を突いて、後漢から独立・劉焉伝
制度をつくる人は、自分の有利ないように、制度を設計する。州牧を設置させた劉焉と、あとから制度に乗っかった袁紹とでは、有利さが全然ちがう。

劉焉は李傕に敗れて、綿竹から成都に撤退した。劉焉は194年に死んだ。献帝が長安を出る前である。劉焉が、曹操政権にどういう態度をとったか気になるが、それはわからない。死んじゃあ、仕方ない。

劉璋がついだ。劉璋は、張魯と対立した。

張魯の態度を確認したい。張魯は、李傕政権にも、曹操政権にも、味方しない。もともと張魯は、劉焉の配下みたいな人。劉焉は、李傕政権を認めない。ゆえに張魯も、李傕政権を認めない。のちに曹操は、潼関の戦いのとき、張魯の討伐を宣言した。これは、張魯が、曹操政権と対立した証拠。宗教がからむと、議論が複雑になるので避けるが、ともあれ漢中で、曹操政権から独立をたもった。
ここからは、推測。
劉璋は、張魯と対立した。のちに曹操が荊州にくると、曹操になびいた。劉璋は、曹操が献帝を保護したタイミング(196年)で、献帝の保護に転じたのではないか。劉璋は、父・劉焉の手前、李傕政権を支持できない。劉璋が州牧をやっていられる根拠は、あくまで劉焉の息子だからだ。さすがに李傕はムリだが、曹操なら支持できる。劉璋は、独立の意思に乏しそうだから、長いものに巻かれたいのだ。「献帝は関東にもどったことだし、そろそろ割拠の時代をやめようと」と。

ぼくが上の劉璋伝をつくったとき、李傕と曹操という視点はなかった。
いま書いた話だと、むじんさんが紹介した「袁術と劉表をまとめて曹操が追討の勅令を出し、劉璋がこれを受けた」と整合する。この勅令は、ぼくの知っている範囲では、『三国志』孫策伝にひく『江表伝』。『江表伝』か、、

劉璋伝は、『三国志』では「蜀志」にある。先主伝の前にある。この目次が語るのは、劉備は、劉璋から国を譲られたという建前である。劉璋が曹操を支持したことは、あまり書きたくない。だから、劉璋は「ポリシーなしの能なし」として、描かれているのかも。あ、ちょっと面白いことに、気づいたなあ。

むじんさんの指摘する、南陽の東州兵は、『三国志』劉璋伝にひく『英雄記』にある。東州兵も、タイムテーブルを整理したい。東州兵は、むじんさんの仰るとおり、張繍、王忠の流れをくむだろう。同意。

王忠という人を、ぼくは知らない。調べねば。

ということは、東州兵の政治姿勢は、上に書いた張済と共通。李傕政権を支えるが、ひとたび李傕が傾けば、李傕から献帝を奪ってやりたい。

献帝を奪いたい理由は、野心なのか、王朝を支えるという使命感なのか、それは不明。見る人によって、何とでも言えてしまうから。李傕、劉表、袁術、曹操、すべての人にあてはまる。

東州兵の姿勢は、李傕を攻撃した劉焉に合致する。劉焉が、東州兵を使いこなしたのは、納得できる。劉焉は、つねに中央を見た人だった。
ということは、東州兵は、曹操を支持する劉璋と、対立する。劉璋は、みずから献帝の問題には異議をはさまず、曹操に追従するから。三輔や南陽は、洛陽や長安にちかい。「献帝を何とかしてやる」という、野望ないし使命感をもった人たちだ。

『三国志』は、劉璋が軟弱だから、東州兵が暴れたという。ちがう。劉璋が益州に籠もろうとするから、東州兵が「故郷を目指したい、曹操を攻めたい。曹操から献帝を奪いたい」と言って、暴れたのだ。

劉璋伝を読むと、ネックは張魯である。張魯に巴郡を抑えられて、荊州への道が開けない。張魯に手をつっこまれて、劉璋と趙韙の関係がねじれ、成都に閉じこもった。どういう構図か。曹操を支持する劉璋は、張魯と劉表に囲まれて、身動きがとれない。張魯と劉表は、漢水をつうじて、やんわり同盟関係にあるのだろう。

官渡のとき劉表は、周囲を味方に囲まれた

(4) (5) について。官渡のときの情勢を考える。むじんさんは、「曹操が官渡において袁紹と対峙したとき、劉表は北に張繡、西に李厳、南に張羨と、南陽勢力にぐるりと包囲される形」とする。ちょっとちがう気がする。
順に検討する。
北。劉表と張繍は、敵でない。曹操政権に反対して、方針を共有している。張繍が劉表の敵になった(張繍が曹操に投降した)とき、張繍は南陽から出ているだろう。劉表にとって、脅威でない。
西。益州のうち、荊州と接する巴郡は、張魯が抑えている。張魯-劉表-東州兵は、曹操の献帝奉戴をにがにがしく思う。敵でない。まして劉表は、彼らの故郷・南陽を抑えている。
南に張羨。これは、劉表の敵。実際に戦っている。
東。孫堅-桓階-張羨-孫策-黄蓋というつながり。たびたび書くが、孫策は袁術が死んでから、曹操の部将として働く。劉表にとっては、敵である。ただし、張羨も孫策も、官渡のころに死んだ。つまり曹操は、せっかく南方に布石したのに、暗殺やら病死やらで、南方の味方を失った。
劉表は、張羨と孫策が片づき、周囲が味方ばかりになった。

劉表が荊州に入った190年代前半と、曹操が献帝を奉戴した190年代後半は、情勢がちがう。南陽と劉表のかかわりは、時期を区切って考えたい。190年代前半は、李傕政権の内側において、劉表と南陽人は、ライバルだった。190年代後半は、曹操政権を支持しないという点で、劉表と南陽人は共闘の傾向が強まった。これがぼくの考えです。


劉表は、曹操にも袁紹にも、味方しない。もし官渡を「天下分け目」だと考えるなら、これに参戦しなかった劉表は、優柔不断の馬鹿。どちらにも恩を売らず、どちらからも怨まれる。しかし官渡は、「天下分け目」でない。黄河の渡し場をめぐる、局地戦。劉表は、参加する必要がない。

日本人は「関が原」の感覚で捉えるから、誤るのだ。

その証拠に、官渡が終わっても、天下は統一されない。曹操と袁紹は、決着がつかず。のちに曹操は、荊州や揚州を放置して、北伐に10年弱をついやした。劉表は、周囲に敵がいなくなったので、儒学を興隆させた。天地を郊祀した。揚州は、孫権が孫策をついだが、安定せず。曹操の出先機関としての役割を、あまり果たしていない。益州は、劉璋が張魯に押されっぱなし。

今回は主題ではないが。「曹操の献帝奉戴に、NO!」という運動は、官渡に前後して、急速に下火になった。賈詡は、張繍を曹操につかせた。劉表は北伐せず、献帝にかかわらない。なぜか。袁術がコケたからだと思う。領土、兵力、人材、家柄。いろいろ揃えた袁術は、曹操を攻めても勝てず、皇帝を名のっても盛り返さず。自粛モードが支配した感じだ。
懲りていないのは、劉備くらいだろうか。


以上、むじんさん、すみませんでした。おしまい。110509