袁術とともに馬日磾を支えた、豫章太守の華歆
『三国志集解』で、華歆伝と王朗伝を、途中までやります。
華歆、邴原、管寧、陶丘洪がならぶ
華歆は、あざなを子魚という。平原の高唐の人だ。高唐は、齊国の名都だ。みな役人は、市里を遊行する。華歆は郡吏となったが、遊行しない。議論は公平で、人を傷つけない。
『魏略』はいう。平原の華歆、北海の邴原、北海の管寧は、ともに遊学した。3人セットで「1龍」とよばれた。
華歆が龍の頭、邴原が龍の腹、管寧が龍の尾。
裴松之は考える。この言葉で、3人の優劣は決まらない。
華歆は、おなじ平原の陶丘洪と、名を知られた。陶丘洪は、自分が華歆よりスゴいと思った。
ときに王芬は、豪傑とともに、霊帝を廃したい。武帝紀にある。『魏書』はいう。王芬は、天下におおきな名声があったと。
王芬は、華歆と陶丘洪をさそう。華歆はとめた。「廃立は、伊尹や霍光でもむずかしかった。王芬は、性格があらっぽく、武にすぐれない。失敗する。陶丘洪は、いくな」と。陶丘洪はゆかず。王芬が失敗すると、陶丘洪は華歆に服した。
この事件は、物語としては、陶丘洪が華歆にやりこめられる話。
孝廉にあがり、郎中となる。病で、去官する。
靈帝が崩じた。何進が輔政した。何進は、河南の鄭泰、潁川の荀攸、平原の華歆らを徴した。
『後漢書』郭泰、符融、許劭、鄭泰、孔融伝を抄訳、『三国志』を補う
荀攸伝はいう。何進は、海内の名士をまねく。荀攸ら20余人は、黄門侍郎となる。
華歆は到り、尚書郎となる。董卓が長安に遷都した。華歆を下邽令とする。華歆は、病ゆえ下邽県にゆかず。藍田より、南陽にゆく。
盧弼はいう。藍田は、京兆郡にある。
華嶠『譜敘』はいう。華歆は、長安の乱をさけた。同志の鄭泰ら6、7人と武関をでた。道で、1人に出会った。華歆は、合流を渋った。みなが合流させた。道中で、合流した人が井戸に落ちた。華歆は救った。
盧弼はいう。華歆と王朗の優劣がわかる。しかし華嶠『譜敘』のエピソードとおなじだ。『世説新語』には、華歆のまねをして、王朗が酒を飲む話があり、これを張華にむけて語ったという設定だ。王朗と華歆は、記号にすぎない。
ぼくは思う。王朗と華歆のできごとでなく、誰でもよかったのだね。っていうか、華嶠は、同姓の華歆をもちあげるために、こういう話を書いているだけだ。とくに参考とする必要はない。
袁術とともに、馬日磾をたすける
ときに袁術が、穣県(南陽)にいた。袁術は、華歆をとどめた。華歆は袁術に説いた。「進軍して、董卓を討て」と。袁術は、華歆の意見を用いることができない。華歆は、袁術を棄てて去りたい。
タイミング的には、呂布が勝手に董卓を殺してしまったので、袁術は「間に合わなかった」というニュアンスで読むことも可能。どのみち失敗だが。
たまたま献帝は、大夫の馬日磾を、関東にやる。馬日磾は、華歆を辟して、太傅の掾とした。
華歆は、徐州に到る。豫章太守を拝した。政治は、清靜で不煩だ。吏民は、華歆を感愛した。
『後漢書』趙岐伝:袁紹に違約され、劉表に洛陽を修理させる趙岐
劉表は、趙岐に協力した。劉表は、曹操に保護されるまで、献帝の味方。
190年代前半は、劉表-趙岐-馬日磾-袁術とつながる。つまり、劉表と袁術は、李傕がささえる献帝が、関東の秩序を回復することに、同意している。じゃあ、劉表が袁術を荊州から追い出したという話も、フィクションかも知れない。
妄想してみました。
曹操は、193年春、袁術を徹底的に叩く。この戦いが発生した原因として、劉表による袁術の追い出しが記される。どうやら、これは曹操目線のフィクション。じつは、ちがうかも。袁術は、とくに劉表と対立しないが、馬日磾を護衛するために、兗州にすすんだ。袁紹と曹操は、李傕がささえる献帝を認めない。だから袁術は、馬日磾のために、曹操を討ちに行った。これが、袁術が北伐した理由。しかし、これをきちんと書くと、曹操が献帝に敵対したことが、バレてしまう。だから、劉表と袁術の対立を、史家がデッチあげた。とか。笑
『魏略』はいう。揚州刺史の劉繇が死んだ。劉繇の兵は、華歆を主君にしたい。華歆は、献帝の命令がないのに、揚州刺史になりたくない。劉繇の兵は、数ヶ月、華歆のそばにいた。華歆は兵にあやまり、去らせた。揚州刺史とならなかった。
劉繇の兵たちの動きを見ると、まるで劉繇も、なりふり構わず、揚州刺史になったかと思われるほど、勝手だ。まあ、袁術へ先に攻めたのは、劉繇だったしなあ。劉繇も、ふつうに野心ある群雄なんだ。かるく献帝にゴリ押しで、揚州牧になる。
袁術の死後、曹操派の孫策に降伏する
孫策は、江東を侵略した。華歆は、孫策が用兵をうまいと知る。華歆は、幅巾をかぶり、孫策を奉迎した。
ぼくは思う。ちくま訳は「隠士がかぶるもの」とする。ちょっとちがう。華歆は、「豫章太守を辞めましたよ」と、孫策に伝えたのだろう。
孫策は、華歆を上賓之禮で遇した。
華歆は、袁術-馬日磾の派閥にとどまっている。ゆえに華歆と孫策は、敵対する関係となった。いま馬日磾と袁術がすでに死んだ。袁術-馬日磾の派閥は、空ッポだ。華歆は、孫策に勝てないと知り、降伏した。つまり、曹操がたすける献帝に降伏したのだ。
孫策が華歆を攻めるのは、『江表伝』の記述。ちょっと不安。
袁術が死ぬまでの忠臣、死ぬまで献帝の忠臣、孫策伝 04
胡沖『呉歴』はいう。孫策は豫章を撃った。さきに孫策は、虞翻をゆかせ、華歆を説得した。華歆は、孫策を歓迎した。孫策は華歆に言った。「私・孫策のほうが若い。子弟之禮をとります」と。
『通鑑収攬』はいう。華歆と王朗は、どちらも城を陥とされた。王朗は全力で戦い、華歆は降伏したと。ぼくは思う。華歆と王朗は、『世説新語』で船に同乗するエピソードがあるとおり、比較の対象となる。孫策に対する、対照的な態度も、好対照。なぜ、孫策に対して、態度がちがうか。つぎに王朗伝をやり、解き明かしたい。
華嶠『譜敘』はいう。孫策は、豫章を力攻めしかなった。華歆は、みずから出てきた。孫策の会議で、華歆は、いちばん最初に発言した。華歆は、たくさん飲酒しても乱れない。江南では「華独坐」と言った。
虞溥『江表伝』はいう。孫策がきた。功曹の劉壹は、華歆に「孫策に降伏せよ」と言った。華歆は言った。「私は、揚州刺史・劉繇に置かれた。孫策に降伏できない」と。劉壹は言った。「王朗は孫策に降伏したが、許された。華歆も、降伏してよい」と。華歆は、孫策に降伏した。
華歆は、馬日磾と同行して、豫章太守となった。劉繇が置いたのでない。華歆が、みるみる孫策に降伏する様子が描かれるが、どうせウソである。孫策スゲー!のバイアスが、かかっている。華歆が孫策をおそれるセリフを、『江表伝』は言わせたかった。孫策を強く見せるため、華歆に葛藤させた。華歆に、「劉繇」なんて言ってしまい、足がついた。地名や人名など、固有名詞をつけて、それっぽくする。困った史料だ。
つぎ、孫盛の意見がついてるが、無視。
曹操と孫権を仲だちすると言い、揚州を去る
のちに孫策が死んだ。曹操は官渡にいる。上表して、天子は華歆を徵した。孫権は、華歆を行かせたくない。華歆は孫権に言った。「あなた・孫権は、王命を奉ったばかりだ。曹操と交好を始めたばかりだ。私が曹操のところにゆき、孫権との仲だちをする。もし私を揚州におけば、役に立たない。孫権にとって、利益でない」と。孫権は悦び、華歆をゆかせた。
孫策に降伏したということは、華歆は、曹操がたすける献帝を支持する立場。そりゃ、許都にゆきたいね。
賓客や旧知の人が、1千余人、華歆を見送った。贈り物を受けとり、のちに返した。
華歆は、議郎となる。司空軍事に参じた。尚書、侍中。荀彧にかわり、尚書令となる。曹操は孫権を征するとき、華歆を軍師とした。魏国ができると、御史大夫。
ぼくは思う。いま省いてしまったが、裴注『魏書』で、華歆は献帝から璽綬をうばい、曹丕にうつす。もし華歆が、袁術の即位を見ていたら。もしくは、即位儀礼を補佐していたら。曹丕の禅譲を演出する役割は、適任である。袁術が皇帝即位したとき、華歆は敵対の形跡がない。ほんのり、袁術を補佐していたかも知れないなあ。楽しい妄想。
つぎ、おなじ巻の王朗伝。つづく。