劉繇や曹操に近かった、会稽太守の王朗
『三国志集解』で、華歆伝と王朗伝を、途中までやります。
楊賜に師事し、李傕の政策で会稽太守となる
王朗は、あざなを景興という。東海の人。
この王朗伝にひく『朗家伝』はいう。郯県の主簿の張登、県長の王儁は、王朗と同県の人である。同郡というだけでない。『晋書』王皇后伝も、王氏が郯県の人という。王氏は、王朗の孫娘である。
王朗は通經し、郎中、菑丘長。太尉の楊賜に師事した。185年、楊賜が死んだ。王朗は官位を棄て、服喪した。孝廉にあがり、公府に辟されたが、応じず。
徐州刺史の陶謙は、王朗を茂才に察した。ときに献帝は長安にいる。関東で兵は立つ。王朗は、陶謙の治中となる。別駕の趙昱らと、陶謙に説いた。「長安の天子から、王命をうけよう」と。陶謙は、趙昱に文書をもたせ、長安におくる。天子は、陶謙を安東將軍とする。趙昱を、廣陵太守とする。
ぼくは思う。広陵は、徐州刺史から見てウザい人が赴任する、ちょっとした僻地なのだね。
天子は、王朗を、會稽太守とする。
『後漢書』袁閎伝はいう。袁忠は、官位を棄てて、会稽の上虞で賓客となった。太守の王朗と会った。王朗が飾っているので、袁忠は病だと言い、王朗と会わない。謝承『後漢書』でも、袁忠は王朗のゼイタクを嫌う。『東観記』でも、袁忠は王朗のゼイタクを嫌う。
ぼくは思う。袁忠は、こちらでやりました。
列伝35「袁安伝」を読む 3)実はダークだった名家
「蜀志」許靖伝はいう。会稽太守の王朗は、もとより許靖と旧知である。王朗は、許靖に文書を与えた。「私には2人の男子がいる。上の男子は、王粛という。39歳だ。会稽で生まれた」と。また許靖伝の注釈にも、王朗がある。
『朗家伝』はいう。王朗は、会稽が始皇帝を祭るのを、やめさせた。始皇帝は徳がないからだ。会稽を4年治めた。
ぼくは思う。4年という数字は、計算に役立つ。助かるなあ。
献帝は、趙昱を広陵太守、王朗を会稽太守とした。李傕のもと、関東の秩序を回復するための政策である。馬日磾と趙岐を送ったのと、おなじ政策である。趙昱と王朗は、陶謙の部下としてでなく、李傕の政策として、関東の海沿いを任された。
劉繇派として、袁術軍の孫策と、徹底抗戦する
孫策は、長江を渡った。王朗の功曹・虞翻は、孫策を避けろと言った。王朗は漢吏だから、孫策と戦った。
まず王朗は、袁術と敵対して、劉繇にちかい。196年に孫策と戦った。いっぽう華歆は、馬日磾とつながり、袁術と敵対せず、199年か200年に孫策と戦った。まったく前提がちがう。比べても、仕方がない。王朗、華歆は、「孫策が順に勝ち進んだ、一連の江南平定戦」だと思ってると、誤りを犯す。前者で孫策は、袁術とちかい。後者で孫策は、曹操とちかい。
袁術が死ぬまでの忠臣、死ぬまで献帝の忠臣、孫策伝 02
王朗は、馬日磾とつながらない。史料に直接は書いてないが、馬日磾と劉繇は、つながらない。劉繇や王朗は、馬日磾が死んでから、揚州に派遣された。だから劉繇は、馬日磾とつながった人(袁術、孫策、華歆)と、なじんでない。
劉繇を揚州に送り込んだのは、誰だろう。長安の、どの派閥だろう。うー。
これ、鍾繇ら、のちに曹操に結びつく人たちじゃないか。荀彧は『三国志』荀彧伝で、「劉繇とむすび」と口走っていた。馬日磾とは別系統として、関東を安定させようとしたのは、鍾繇-荀彧のラインかも知れない。ただし鍾繇だけでは、小粒だ。潁川系の親玉がいるかも知れない。また考えよう。
王朗は孫策にやぶれ、海をわたり、東冶に逃げた。孫策に破られた。
孫策は、王朗を問い詰めた。だが王朗が儒雅だから、殺さず。王朗は、親舊を集めた。物資に乏しく、先行きがまるで分からないが、王朗は義ある行動をした。
『献帝春秋』はいう。孫策は、王朗を追いつめた。
曲阿から広陵へ海でわたり、曹魏に列す
朗被徵未至。孔融與朗書曰:「世路隔塞,情問斷絕,感懷增思。前見章表,知尋湯武罪己之跡,自投東裔同鯀之罰,覽省未周,涕隕潸然。主上寬仁,貴德宥過。曹公輔政,思賢並立。策書屢下,殷勤款至。知棹舟浮海,息駕廣陵,不意黃熊突出羽淵也。談笑有期,勉行自愛!」
曹操は上表して、王朗を徴した。王朗は、曲阿から長江や海をわたり、何年もかかって、許都にきた。
王朗が徴される前、孔融は王朗に文書を与えた。「王朗が広陵で休んだとき、黄熊に出くわしたとか。気をつけてね」と。
『漢晋春秋』はいう。198年、王朗は曹操にゆく。曹操の前で、孫策をほめた。
朗家傳曰:朗少與沛國名士劉陽交友。陽為莒令,年三十而卒,故後世鮮聞。初,陽以漢室漸衰,知太祖有雄才,恐為漢累,意欲除之而事不會。及太祖貴,求其嗣子甚急。其子惶窘,走伏無所。陽親舊雖多,莫敢藏者。朗乃納受積年,及從會稽還,又數開解。太祖久乃赦之,陽門戶由是得全。
諌議大夫となる。司空の軍事に参じた。
『朗家傳』はいう。王朗は、沛国の劉陽と交際した。劉陽は、莒令(琅邪)となった。30歳で死んだ。劉陽は、曹操が漢室を滅ぼすことを心配した。曹操は、劉陽の子孫につらくあたる。王朗が、劉陽の遺族を守った。
魏国が建つと、軍祭酒、魏郡太守。少府、奉常、大理。大理として、罰をゆるめた。鍾繇は、法に明るい。王朗と鍾繇は、たたえられた。
三国志キャラ伝>王朗伝
問答のテーマは、「ほどよく節約するのは、難しい」という話。ここでぼくは、あえて裏読みする。王朗が貧しかったのは、孫策に敗れて、袁術の下にいたとき。袁術と曹操を、比較しているのではないか。袁術は、ものが不足しすぎた。曹操は、ものが溢れている。袁術は、力が及ばずにコケたけど、曹操は力があり余りすぎて、コケるかも知れない。そういう王朗なりの警告、もしくは皮肉じゃなかろうか。曹操には、不快な比較だ。
おわりに
というわけで、華歆と王朗のちがいは、明らかになりました。
華歆は、袁術の死後、曹操派に転じた孫策にやぶれたとき、曹操に近づいた。
王朗は、袁術の生前、袁術派の孫策にやぶれたとき、すでに曹操に近かった。王朗は、孫策と戦う前から、劉繇-曹操と近かった。複雑だなー、もう。
今回の結論は、以上のとおりですが、モヤモヤは消えない。
馬日磾、袁術、陶謙、曹操など、史料によって、政治態度が正反対の人たちについて議論しているから、むずかしい。オセロをやっているようだ。ちょっと仮定を変えると、ぜんぶが逆に裏返る。また考えてみます。華歆や王朗は、彼らそのものは、王朝の正統性に関係ない。だから、列伝が、いいヒントになると思うのです。110507