表紙 > 曹魏 > 『三国志』巻13より、華歆伝と王朗伝の前半、袁術や揚州との絡み

劉繇や曹操に近かった、会稽太守の王朗

『三国志集解』で、華歆伝と王朗伝を、途中までやります。

楊賜に師事し、李傕の政策で会稽太守となる

王郎字景興,東海(郡)人也。以通經,拜郎中,除菑丘長。師太尉楊賜,賜薨,棄官行服。舉孝廉,辟公府,不應。

王朗は、あざなを景興という。東海の人。

盧弼は考える。郯県は、東海の郡治だ。また郯県は、徐州刺史の州治でもある。後漢末、州治を下邳にうつす。郯県は、ただの郡治にもどった。曹魏の太和六年、東海は郡から国になる。正始五年、曹髦を郯県侯に封じた。
この王朗伝にひく『朗家伝』はいう。郯県の主簿の張登、県長の王儁は、王朗と同県の人である。同郡というだけでない。『晋書』王皇后伝も、王氏が郯県の人という。王氏は、王朗の孫娘である。

王朗は通經し、郎中、菑丘長。太尉の楊賜に師事した。185年、楊賜が死んだ。王朗は官位を棄て、服喪した。孝廉にあがり、公府に辟されたが、応じず。

徐州刺史陶謙察朗茂才。時漢帝在長安,關東兵起,朗為謙治中,與別駕趙昱等說謙曰:「春秋之義,求諸侯莫如勤王。今天子越在西京,宜遣使奉承王命。」謙乃遣昱奉章至長安。天子嘉其意,拜謙安東將軍。以昱為廣陵太守,朗會稽太守。

徐州刺史の陶謙は、王朗を茂才に察した。ときに献帝は長安にいる。関東で兵は立つ。王朗は、陶謙の治中となる。別駕の趙昱らと、陶謙に説いた。「長安の天子から、王命をうけよう」と。陶謙は、趙昱に文書をもたせ、長安におくる。天子は、陶謙を安東將軍とする。趙昱を、廣陵太守とする。

盧弼はいう。『三国志』陶謙伝、裴注とちがう。『後漢書』陶謙伝は、別駕従事の趙昱という。趙昱は、忠直なので、陶謙にうとまれた。陶謙の下邳から出されて、広陵太守となったと。
ぼくは思う。広陵は、徐州刺史から見てウザい人が赴任する、ちょっとした僻地なのだね。

天子は、王朗を、會稽太守とする。

『後漢書』桓曄伝はいう。桓曄の姑(おば)は、司空する楊震の夫人だ。桓曄は洛陽にいっても、いちども楊氏の宿舎に泊まらない。初平のとき、天下が乱れた。桓曄は、会稽にのがれた。ぼくは思う。桓曄-楊賜-王朗とつながり、会稽にいたったか。
『後漢書』袁閎伝はいう。袁忠は、官位を棄てて、会稽の上虞で賓客となった。太守の王朗と会った。王朗が飾っているので、袁忠は病だと言い、王朗と会わない。謝承『後漢書』でも、袁忠は王朗のゼイタクを嫌う。『東観記』でも、袁忠は王朗のゼイタクを嫌う。
ぼくは思う。袁忠は、こちらでやりました。
列伝35「袁安伝」を読む 3)実はダークだった名家
「蜀志」許靖伝はいう。会稽太守の王朗は、もとより許靖と旧知である。王朗は、許靖に文書を与えた。「私には2人の男子がいる。上の男子は、王粛という。39歳だ。会稽で生まれた」と。また許靖伝の注釈にも、王朗がある。


朗家傳曰:會稽舊祀秦始皇,刻木為像,與夏禹同廟。朗到官,以為無德之君,不應見祀,於是除之。居郡四年,惠愛在民。

『朗家伝』はいう。王朗は、会稽が始皇帝を祭るのを、やめさせた。始皇帝は徳がないからだ。会稽を4年治めた。

『隋書』経籍志はいう。『王朗、王粛家伝』で1巻である。
ぼくは思う。4年という数字は、計算に役立つ。助かるなあ。
献帝は、趙昱を広陵太守、王朗を会稽太守とした。李傕のもと、関東の秩序を回復するための政策である。馬日磾と趙岐を送ったのと、おなじ政策である。趙昱と王朗は、陶謙の部下としてでなく、李傕の政策として、関東の海沿いを任された。


劉繇派として、袁術軍の孫策と、徹底抗戦する

孫策渡江略地。朗功曹虞翻以為力不能拒,不如避之。朗自以身為漢吏,宜保城邑,遂舉兵與策戰,敗績,浮海至東冶。策又追擊,大破之。朗乃詣策。策以儒雅,詰讓而不害。雖流移窮困,朝不謀夕,而收恤親舊,分多割少,行義甚著。

孫策は、長江を渡った。王朗の功曹・虞翻は、孫策を避けろと言った。王朗は漢吏だから、孫策と戦った。

孫策への対応について、華歆と王朗は、ちがう。華歆は、すんなり降伏した。王朗は、ねばって抗戦した。なぜか。時期と、立場がちがう
まず王朗は、袁術と敵対して、劉繇にちかい。196年に孫策と戦った。いっぽう華歆は、馬日磾とつながり、袁術と敵対せず、199年か200年に孫策と戦った。まったく前提がちがう。比べても、仕方がない。王朗、華歆は、「孫策が順に勝ち進んだ、一連の江南平定戦」だと思ってると、誤りを犯す。前者で孫策は、袁術とちかい。後者で孫策は、曹操とちかい。
袁術が死ぬまでの忠臣、死ぬまで献帝の忠臣、孫策伝 02
王朗は、馬日磾とつながらない。史料に直接は書いてないが、馬日磾と劉繇は、つながらない。劉繇や王朗は、馬日磾が死んでから、揚州に派遣された。だから劉繇は、馬日磾とつながった人(袁術、孫策、華歆)と、なじんでない。
劉繇を揚州に送り込んだのは、誰だろう。長安の、どの派閥だろう。うー。
これ、鍾繇ら、のちに曹操に結びつく人たちじゃないか。荀彧は『三国志』荀彧伝で、「劉繇とむすび」と口走っていた。馬日磾とは別系統として、関東を安定させようとしたのは、鍾繇-荀彧のラインかも知れない。ただし鍾繇だけでは、小粒だ。潁川系の親玉がいるかも知れない。また考えよう。

王朗は孫策にやぶれ、海をわたり、東冶に逃げた。孫策に破られた。

孫策は、王朗を問い詰めた。だが王朗が儒雅だから、殺さず。王朗は、親舊を集めた。物資に乏しく、先行きがまるで分からないが、王朗は義ある行動をした。

ぼくは思う。物資に乏しいのは、袁術の描写ですね。孫策は、袁術の部将。王朗は、袁術の傘下に入ったのだ。袁術は、短期間で、戦闘をやりまくった。飢饉になった。だから、ろくに食べられなくなった。


獻帝春秋曰:孫策率軍如閩、越討朗。朗泛舟浮海,欲走交州,為兵所逼,遂詣軍降。策令使者詰朗曰:「問逆賊故會稽太守王朗:朗受國恩當官,雲何不惟報德,而阻兵安忍?大軍征討,倖免梟夷,不自掃屏,複聚黨眾,屯住郡境。遠勞王誅,卒不悟順。捕得雲降,庶以欺詐,用全首領,得爾與不,具以狀對。」朗稱禽虜,對使者曰:「朗以瑣才,誤竊朝私,受爵不讓,以遘罪網。前見征討,畏死苟免。因治人物,寄命須臾。又迫大兵,惶怖北引。從者疾患,死亡略盡。獨與老母,共乘一欐。流矢始交,便棄欐就俘,稽顙自首於征役之中。朗惶惑不達,自稱降虜。緣前迷謬,被詰慚懼。朗愚淺駑怯,畏威自驚。又無良介,不早自歸。於破亡之中,然後委命下隸。身輕罪重,死有餘辜。申脰就鞅,蹴足入絆,叱吒聽聲,東西惟命。」

『献帝春秋』はいう。孫策は、王朗を追いつめた。

ぼくは思う。しょーもない小説。土台の史料がなくても、書ける内容。


曲阿から広陵へ海でわたり、曹魏に列す

太祖表徵之,朗自曲阿輾轉江海,積年乃至。
朗被徵未至。孔融與朗書曰:「世路隔塞,情問斷絕,感懷增思。前見章表,知尋湯武罪己之跡,自投東裔同鯀之罰,覽省未周,涕隕潸然。主上寬仁,貴德宥過。曹公輔政,思賢並立。策書屢下,殷勤款至。知棹舟浮海,息駕廣陵,不意黃熊突出羽淵也。談笑有期,勉行自愛!」

曹操は上表して、王朗を徴した。王朗は、曲阿から長江や海をわたり、何年もかかって、許都にきた。
王朗が徴される前、孔融は王朗に文書を与えた。「王朗が広陵で休んだとき、黄熊に出くわしたとか。気をつけてね」と。

ぼくは思う。なぜ王朗は、会稽を南下するときも、許都へ北上するときも、海路を選ぶか。東海の出身だから、航海に自信があったのかも知れない。年数が分からないが、王朗は、袁術の王朝が解体した時期をねらって、船に乗りこんだのだろう。いつでも逃げられるように、さっきから、親旧をあつめていた。


漢晉春秋曰:孫策之始得朗也,譴讓之。使張昭私問朗,朗誓不屈,策忿而不敢害也,留置曲阿。建安三年,太祖表徵朗,策遣之。太祖問曰:「孫策何以得至此邪?」朗曰:「策勇冠一世,有俊才大志。張子布,民之望也,北面而相之。周公瑾,江淮之傑,攘臂而為其將。謀而有成,所規不細,終為天下大賊,非徒狗盜而已。」

『漢晋春秋』はいう。198年、王朗は曹操にゆく。曹操の前で、孫策をほめた。

しょーもない小説。198年という年次は、「いかにもありそう」なので、心にくいなあ。


拜諫議大夫,參司空軍事。
朗家傳曰:朗少與沛國名士劉陽交友。陽為莒令,年三十而卒,故後世鮮聞。初,陽以漢室漸衰,知太祖有雄才,恐為漢累,意欲除之而事不會。及太祖貴,求其嗣子甚急。其子惶窘,走伏無所。陽親舊雖多,莫敢藏者。朗乃納受積年,及從會稽還,又數開解。太祖久乃赦之,陽門戶由是得全。

諌議大夫となる。司空の軍事に参じた。

「參司空軍事」は、華歆とおなじ。

『朗家傳』はいう。王朗は、沛国の劉陽と交際した。劉陽は、莒令(琅邪)となった。30歳で死んだ。劉陽は、曹操が漢室を滅ぼすことを心配した。曹操は、劉陽の子孫につらくあたる。王朗が、劉陽の遺族を守った。

盧弼はいう。王儁や劉陽は、武帝紀の建安13年にひく『逸士伝』にある。


魏國初建,以軍祭酒領魏郡太守,遷少府、奉常、大理。務在寬恕,罪疑從輕。鍾繇明察當法,俱以治獄見稱。

魏国が建つと、軍祭酒、魏郡太守。少府、奉常、大理。大理として、罰をゆるめた。鍾繇は、法に明るい。王朗と鍾繇は、たたえられた。

『魏略』が、曹操と王朗の問答を載せる。4年前ちょい、やった。いちばん初めに、つくった列伝。レイアウトがくずれているし、内容も、ひどい「やりっぱなし」だなあ。陶謙に察せらる前で、終わっている。ぼくが、懐かしいだけのページ。
三国志キャラ伝>王朗伝
問答のテーマは、「ほどよく節約するのは、難しい」という話。ここでぼくは、あえて裏読みする。王朗が貧しかったのは、孫策に敗れて、袁術の下にいたとき。袁術と曹操を、比較しているのではないか。袁術は、ものが不足しすぎた。曹操は、ものが溢れている。袁術は、力が及ばずにコケたけど、曹操は力があり余りすぎて、コケるかも知れない。そういう王朗なりの警告、もしくは皮肉じゃなかろうか。曹操には、不快な比較だ。


おわりに

というわけで、華歆と王朗のちがいは、明らかになりました。
華歆は、袁術の死後、曹操派に転じた孫策にやぶれたとき、曹操に近づいた。
王朗は、袁術の生前、袁術派の孫策にやぶれたとき、すでに曹操に近かった。王朗は、孫策と戦う前から、劉繇-曹操と近かった。複雑だなー、もう。
今回の結論は、以上のとおりですが、モヤモヤは消えない。
馬日磾、袁術、陶謙、曹操など、史料によって、政治態度が正反対の人たちについて議論しているから、むずかしい。オセロをやっているようだ。ちょっと仮定を変えると、ぜんぶが逆に裏返る。また考えてみます。華歆や王朗は、彼らそのものは、王朝の正統性に関係ない。だから、列伝が、いいヒントになると思うのです。110507