02) 196年、袁術の揚州支配が完成
『三国志集解』で孫策伝をやります。
なぜ、今までやらなかったのか、自分でも分からないほど、重要かつ楽しい。
1年前、孫策伝をやった。 孫策は袁術に、絶縁状を突きつけていない
このときは『三国志集解』を見ずにやった。
今回は、『三国志集解』をつかい、補足&整理する版です。
劉繇が袁術をおそれ、呉景に手を出す
これより先、劉繇は揚州刺史となる。寿春に袁術がいるので、曲阿にゆく。ときに呉景は、なお丹楊にいる。孫賁は、丹楊都尉である。
ぼも「なお」って書いてあるから、呉景は、なお丹楊「太守」という読み方でいいだろう。
劉繇がくると、呉景と孫賁をおいはらう。
王朗は、孫策に文書をあたえた。「劉繇は、孫策の一門(呉景や孫賁)に助けられ、黄河をわたった。だが呉景や孫賁は、袁術が置いた官である。劉繇はこれを嫌い、呉景や孫賁を目のカタキにした」と。王朗は、いまの状況を言ったのだ。ぼくは思う。王朗から孫策への文書なんて、知らなかった。
「呉志」朱治伝はいう。このとき呉景は、丹陽にいた。孫策は、廬江にいた。劉繇は、袁術と孫策が合わさるのを恐れた。だから劉繇は、呉景を攻撃した。ぼくは思う。呉景を攻撃したら、ますます袁術と孫策は、密着しちゃうのでは?共通の敵ができるのだから。とにかく、各個撃破しておかないと、手がつけられなくなると思ったか。劉繇が袁術をおそれ、劉繇のほうから、チョッカイを出す。袁術は、これを迎撃する。袁術のカッコよさを強調したいなら、朱治伝は、都合のよい史料だ。
呉景と孫賁は、歴陽(九江)にしりぞく。劉繇は、樊能、于麋、陳横に命じ、江津に屯する。張英は、当利口に屯する。袁術をふせぐ。
ほんとうは偉かった外戚、呉夫人と呉景伝
袁術は、故吏の琅邪の恵衢を、揚州刺史とした。呉景を、督軍中郎将とした。呉景と孫賁に、張英らを討たせた。連年戦うが、勝てず。孫策は、袁術に言った。「私に劉繇を攻めさせてくれ」と。
ぼくが去年に書いたことを、改変して引用。いまの進言を、孫策の独立に向けた動きだと、解釈する人が多い。『資治通鑑』も同じ。そんなワケない!劉繇を追い詰めると有利になるのは、袁術だ。袁術から自立したければ、なぜ袁術のために戦うのか。道理に合わないことである。もし孫策が勝ち、劉繇を追い払えば、跡地を袁術が接収するに決まっている。孫策が、独立の基盤を得られるわけがない。孫策は、政治組織を持ってないのだから。張昭や張紘を整備するのは、もう少しあとだ。
もし、ほんとうに袁術と決別したければ、袁術の敵・劉繇の先兵となり、袁術に攻撃をするのが自然だろう。そして劉繇に、袁術の旧土を請求すればいい。いま劉繇は、袁術にすこし劣っている。孫策が袁術に勝てば、劉繇は孫策にアタマが上がらない。
じっさい孫策は、袁術の部将として、伯父たちの苦戦を助けただけだ。袁術からの独立を狙って、動いたのではない。
朱治伝はいう。朱治は、袁術の政治が成立しないと知った。孫策に「江東を平定して、もどれ」と勧めた。胡三省はいう。長江は、東北にむけて流れる。歴陽から濡須を、江西という。建業を、江東という。
『江表伝』はいう。孫策は袁術に言った。「呉景を助けたい。袁術さまのために、漢室を助けたい」と。袁術は孫策をうらむ。しかし袁術は、劉繇と王朗がいるため、孫策が江東を平定できないと考えた。袁術は、孫策をゆかせた。
あまりにデタラメだから、思わず、打消線を、引いてしまった。笑
袁術は、孫策を折沖校尉、行殄寇將軍とした。兵と賓客があつまる。寿春をでて、歴陽につくころ、孫策軍は5、6千。孫策の母は、曲阿から歴陽にうつる。孫策は、母を阜陵(九江)にうつす。
4年前に作成:孫権が絶対服従のオヤジ殿、朱治伝
1年前に作成:孫策の家族を拉致し、袁術を裏切らせようとした朱治伝
孫策は、むかうところ敵なし。軍令は整肅で、百姓は孫策軍になつく。
周瑜伝はいう。周瑜の従父・周尚は、丹陽太守である。孫策は長江を東にわたり、歴陽にきた。孫策は、文書を周瑜に与えた。周瑜は、兵をひきいて孫策に合流した。横江をぬいた。ぼくは思う。周尚が丹陽太守なのは、なぜか。呉景の後任として、袁術が任命したんだっけ。袁術は、孫策の強さと、周尚の地縁をつかって、丹陽から劉繇を追いはらおうとした。周瑜が袁術を見限るのは、袁術が皇帝即位したあとだ。周瑜は、喜びいさんで、袁術軍に協力したのだ。
195年、孫策は劉繇をやぶり、徐州を攻める
孫策は、牛渚(丹陽で秣陵の南)で、劉繇から物資をうばう。この歳は、興平二年(195)である。
潘眉はいう。興平二年でなく、興平元年とすべきだ。『後漢書』献帝紀は、興平元年(194)に、劉繇と孫策が戦い、劉繇が敗れたという。孫策が江東に拠ったのは、この歳である。孫策は、朱治を呉郡太守とした。朱治は、呉郡に31年間いて、黄武三年に死んだ。もし興平二年(195)なら、黄武三年まで、30年間しかない。ゆえに、興平元年(194)とすべきだ。
孫策は、長江を初平四年(193)年にわたり、つぎの興平元年(194)に、劉繇を破った。「魏志」武帝紀も同じである。
ぼくは思う。孫策が劉繇を破ったのは、194年か、195年かと。ぼくは195年だと思う。劉備が徐州を得たのは、194年。194年、袁術が劉備討伐を思いつき、孫策は194年から195年にかけて、廬江を攻めた。195年以内に、孫策が廬江からもどってきて、劉繇を攻撃し始めた。劉繇と袁術の戦いは、孫策が廬江にいるあいだ、進んでいた。完成!
194年説のキリフダは、朱治伝ですね。朱治は、孫策が劉繇と戦い始める前年に、呉郡に行っていたかも知れない。孫策に任命権はなく、袁術が任命してくれるのだ。朱治は、孫策の母を、先回りして曲阿(劉繇)から、保護していた。孫策より先に、朱治が動いて呉郡にいても、おかしくない。
彭城相の薛禮、下邳相の笮融 は、秣陵による。
袁術のライバル、腐っても劉繇について『集解』で史料あつめ
孫策は死んだふりをして、笮融を驚かす。孫策は、海陵で、劉繇の別将をやぶる。
『資治通鑑』はいう。興平二年(195)、孫策は劉勲の別将を、海陵で破った。ぼくは思う。潘眉、『後漢書』献帝紀、「呉志」孫策伝は、孫策が194年に劉繇を討ったとするが、劉繇の残敵に、195年まで手こずったことにする。194年説をとっても、笮融とダラダラ戦わせるだけ。前倒しした1年で、何かを言えるわけじゃない。それなら劉繇の撃破は、195年説でいい。孫策の動きを理解しやすい。
盧弼によると、つづく『江表伝』の記述は、地理がおかしいみたい。はぶく。長江の北、徐州まで突っこんでいることに注意。袁術の勢力圏は、淮水の南なのだ。
孫策のキャラが、劉繇を追いはらう
孫策のキャラは、人心をつかむ。劉繇はにげ、太守らもにげた。
4年前に作成:呂布・劉備と同じ穴の梟、太史慈
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『江表伝』はいう。孫策は「孫郎」と呼ばれた。劉繇がにげると、曲阿を手にいれた。孫策は、陳宝をつかわし、母と弟を呼びよせた。
195年、劉繇を豫章に追いはらい、曲阿を手に入れましたよと。それだけ。195年秋冬、献帝が曹陽で敗れて、袁術が1回目の皇帝即位を検討した。袁術伝にあること。けっきょく未遂に終わった。このとき、ちょうど劉繇を追いはらった直後なんですね。なるほど。「献帝の生死が不明かも?じゃあ、袁術さまが皇帝になるべきだな」というのは、揚州を獲得したノリで、言っちゃったのかも。
196年、会稽と呉郡を平定し、袁術の揚州完成
呉郡の人・厳白虎は、1万余人をかかえる。呉景は、厳白虎を討ちたい。孫策は言った。「厳白虎より、会稽が先だ」と。孫策は浙江をわたり、会稽による。東冶をほふる。厳白虎をやぶる。
「呉志」宗室伝より:袁術をめぐる、孫氏の去就
東冶は、王朗伝にある。王朗伝、やりたいなあ。どうでもいいが、4年前に、このHPでいちばん初めに着手した列伝が、王朗伝だった。完成させず、放置してあるが。
臣松之案:許昭有義於舊君,謂濟盛憲也,事見後注。有誠於故友,則受嚴白虎也。
『呉録』はいう。ときに烏程の鄒他、錢銅、さきに合浦太守した嘉興(呉郡)の王晟らは、数千をもつ。孫策は、彼らを討つ。孫策の母・呉氏は言った。「王晟は、孫堅と付き合いがあった。見のがせ」と。孫策は厳白虎を討ち、弟の厳輿を討った。厳白虎は、餘杭(呉郡)の許昭に投じた。程普は許昭を討ちたいが、孫策がとめた。「許昭は、旧君につくした人だ」と。
ぼくは思う。いまこの『呉録』は、呉郡平定のエピソードでした。
孫策は長吏をとりかえ、会稽太守となる。呉景を丹陽太守にもどす。
呉景は呉景太守だったが、劉繇に追われた。袁術は、呉景を広陵太守にうつした。197年、袁術が僭号すると、呉景は東に帰りたい。孫策は、呉景を丹陽太守とした。ぼくは思う。孫策が袁術に絶縁するのは、僭号がキッカケかどうかは、次のページで検討するが。ともかく、呉景が丹陽にもどったのは、197年でいいだろう。なぜ、広陵太守の呉景が、必要なくなったか。呂布が、劉備から徐州を奪ったからだ。呂布は袁術寄りだから、広陵に呉景を置いて、ぶつける必要はない。べつに、孫策と呉景が袁術をキラわなくても、呉景が広陵から去る説明はつく。
孫賁を豫章太守とした。
盧弼は考える。豫章太守は、はじめ周術だ。周術が病死して、袁術が諸葛玄を置いた。後漢は朱晧を豫章太守としたが、笮融に殺された。笮融は、豫章太守に代わった。劉繇が敗れると、後漢は、華歆を豫章太守とした。孫策は、虞翻に華歆を説得させた。華歆は、豫章郡をゆずった。これが、豫章太守の一部始終である。諸葛亮伝、劉繇伝、華歆伝、虞翻伝にある。
豫章を分割し、廬陵郡をおき、孫賁の弟・孫輔を太守とする。
謝鍾英はいう。『豫章記』はいう。興平元年(194)、揚州刺史の劉遵は、廬陵郡と鄱陽郡をおきたいと上書した。194年、はじめて廬陵が置かれたと。『江表伝』はいう。ときに丹陽の僮芝は、みずから廬陵太守を名のる。孫策は、孫賁の弟・孫輔を南昌におく。周瑜は巴丘にきて、廬陵の攻撃をたすける。おそらく孫策が廬陵郡を設置したのは、僮芝を継承したものだ。
盧弼は、謝鍾英を正しいとする。興平に、僮芝が廬陵太守を自称した。建安元年(196)、孫策が孫輔を任命して、廬陵郡を「追認」した。
ぼくは思う。孫策による郡の再編は、袁術の揚州支配が完成したことを指す。袁術が皇帝即位するのは、197年だしね。孫策伝のこのあたりの記述は、いかにも横並びに孫策が太守を任命したように記すが。勢力の伸張にあわせて、けっこう時期がバラバラである。よく陳寿がやる、「時系列をすっ飛ばして単純化」である。
丹陽の朱治を、呉郡太守とする。
彭城の張昭、廣陵の張紘、秦松、陳端らが、孫策の謀主となる。
『江表伝』はいう。孫策は、奉正都尉の劉由、五官掾の高承を、許都に送った。
次回、袁術が皇帝を名のります。つづく。