表紙 > 孫呉 > 袁術が死ぬまでの忠臣、死ぬまで献帝の忠臣、孫策伝

01) 194年、20歳で袁術に仕える

『三国志集解』で孫策伝をやります。
なぜ、今までやらなかったのか、自分でも分からないほど、重要かつ楽しい。
1年前、孫策伝をやった。 孫策は袁術に、絶縁状を突きつけていない
このときは『三国志集解』を見ずにやった。
今回は、『三国志集解』をつかい、補足&整理する版です。

徐州の広陵に避難し、194年に袁術軍へ

策字伯符。堅初興義兵,策將母徙居舒,與周瑜相友,收合士大夫,江、淮間人咸向之。
江表傳曰:堅為硃俊所表,為佐軍,留家著壽春。策年十餘歲,已交結知名,聲譽發聞。有周瑜者,與策同年,亦英達夙成,聞策聲聞,自舒來造焉。便推結分好,義同斷金,勸策徙居舒,策從之。
堅薨,還葬曲阿。已乃渡江居江都。 魏書曰:策當嗣侯,讓與弟匡。

孫策は、父が義兵をおこすと、母をつれて舒県にゆく。周瑜と友となる。

廬江の舒県は、孫堅伝に見える。孫策と周瑜の交際は、周瑜伝にある。

『江表伝』はいう。孫堅が朱儁の佐郡となると。家族を寿春におく。孫策と周瑜は同年だ。周瑜と孫策は断金となる。周瑜は孫策を、寿春から舒県に移住させた。

九江郡の寿春だ。寿春は、武帝紀の初平元年にある、揚州刺史の注釈にある。初平四年の九江郡の注釈にもある。ここです。
武帝紀08) 袁術と陶謙を破り、兗州が反す
孫策と周瑜の関係があやしいなあ、というのは、周瑜伝でやりました。
周瑜は荊州で独立をねらったが、『江表伝』が隠蔽した

孫堅が死ぬと、もどって曲阿に葬る。孫策は長江をわたり、江都にすむ。

『郡国志』はいう。呉郡の曲阿だ。「魏志」王朗伝に盧弼が注釈した。『郡国志』はいう。徐州の広陵郡にある、江都である。「呉志」趙達伝の注釈にある『呉録』は、広陵の江都の人・皇象をのせる。
ぼくは思う。なぜ孫策は、わざわざ黄河を北にわたり、徐州に入ったのだろう。故郷では、安心できなかった?周瑜も頼れなかった?孫呉にかかわる人たちの、「避難」の動向を考えるとき、とても気になる記事。『江表伝』じゃなく、陳寿の本文だし。

『魏書』はいう。孫策は、孫堅の侯爵を、弟の孫匡にゆずった。

徐州牧陶謙深忌策。策舅吳景,時為丹楊太守,策乃載母徙曲阿,與呂范、孫河俱就景,因緣召募得數百人。興平元年,從袁術。術甚奇之,以堅部曲還策。

徐州牧の陶謙は、ふかく孫策をきらう。ときに呉景は、丹楊太守だ。孫策は母を曲阿にうつした。孫河、呂範とともに、呉景をたよる。

『郡国志』はいう。丹楊の州治は、宛陵である。「呉志」呂範伝にある。
袁術の爪牙、孫策を助けた軍事マニア、呂範伝 孫権が関羽をやぶり、武昌にもどる。呂範を、宛陵侯に封じ、丹楊太守を領させた。丹楊の郡治は、建業だ。もとは秣陵だ。秣陵県は、丹楊に属す。もとは金陵だ。張紘伝にひく『江表伝』にある。建安十七年、孫権は秣陵を建業と改めた。孫権伝にある。
「呉志」妃ヒン伝はいう。袁術は上表し、呉景を丹楊太守とした。もと丹楊太守の周昕を討伐した。丹楊のことは、嘉禾三年にもある。

興平元年(194)、孫策は袁術にしたがう。孫堅の部曲を還される。

孫策が20歳のときだ。後漢の官位制度でも、20歳が区切りだった。なんだっけ。詳しくは、忘れましたが、役人として一人前になるのは20歳。


吳曆曰:初策在江都時,張紘有母喪。策數詣紘,咨以世務,曰:「方今漢祚中微,天下擾攘,英雄俊傑各擁眾營私,未有能扶危濟亂者也。先君與袁氏共破董卓,功業未遂,卒為黃祖所害。策雖暗稚,竊有微志,欲從袁揚州求先君餘兵,就舅氏於丹楊,收合流散,東據吳會,報讎雪恥,為朝廷外籓。君以為何如?」紘答曰:「既素空劣,方居衰絰之中,無以奉贊盛略。」策曰:「君高名播越,遠近懷歸。今日事計,決之於君,何得不紆慮啟告,副其高山之望?若微志得展,血讎得報,此乃君之勳力,策心所望也。」因涕泣橫流,顏色不變。紘見策忠壯內發,辭令慷慨,感其志言,乃答曰:「昔周道陵遲,齊、晉並興;王室已甯,諸侯貢職。今君紹先侯之軌,有驍武之名,若投丹楊,收兵吳會,則荊、揚可一,讎敵可報。據長江,奮威德,誅除群穢,匡輔漢室,功業侔於桓、文,豈徒外籓而已哉?方今世亂多難,若功成事立,當與同好俱南濟也。」策曰:「一與君同符合契,(同)有永固之分,今便行矣,以老母弱弟委付於君,策無複回顧之憂。」

『呉歴』はいう。孫策は、服喪する張紘にせまり、戦略を聞き出した。

孫策の自立心を言うため、アトヅケしたみたいな史料。盧弼の注釈も、とくにないので、やりません。張紘は、広陵の人。孫策は江都にいたから、しばしば訪問したと。
孫策と孫権を、曹操に帰順させる能吏・張紘伝


江表傳曰:策徑到壽春見袁術,涕泣而言曰:「亡父昔從長沙入討董卓,與明使君會於南陽,同盟結好;不幸遇難,勳業不終。策感惟先人舊恩,欲自憑結,原明使君垂察其誠。」術甚貴異之,然未肯還其父兵。術謂策曰:「孤始用貴舅為丹楊太守,賢從伯陽為都尉,彼精兵之地,可還依召募。」策遂詣丹楊依舅,得數百人,而為涇縣大帥祖郎所襲,幾至危殆。於是複往見術,術以堅餘兵千餘人還策。

『江表伝』はいう。孫策は、寿春で袁術に会い、泣いた。袁術は、すぐに孫堅の兵を、孫策に返さない。袁術は言った。「呉景を丹楊太守に、孫賁を丹楊都尉にした。丹楊で兵を集めろ」と。

孫賁は、あざなを伯陽という。孫権の従子で、孫策の従兄である。
ぼくは思う。袁術の言っていることは、ふつうにスジが通っていないか?孫堅の兵と言ったって、呉景や孫賁が継承し、丹楊に連れていった。袁術が、手元にガメているのでない。袁術は、手元に兵を遊ばせるほど、余裕がない。それでもなお、もし孫策が、いま以上に兵がほしいならば、丹楊で新たに獲得せよと。超・ふつうだ。笑

孫策は、数百を得た。涇県の祖郎に襲われ、死にかけた。袁術は見かねて、孫策に千人をもどした。

もともと「孫堅軍」なんて、はじめから、あってなきがもの。荊州を北上し、デタラメに雪だるま式に増幅し、パアアと空中分解したのだ。『江表伝』は、孫呉の求心力を言いたいから、ゆがんだ表現をしているのだ。実際は、袁術軍を孫策につけたのだろう。


袁術に愛されるが、太守任命を2回違約

太傅馬日磾杖節安集關東,在壽春以禮辟策,表拜懷義校尉,術大將喬蕤、張勳皆傾心敬焉。術常歎曰:「使術有子如孫郎,死複何恨!」策騎士有罪,逃入術營,隱於內廄。策指使人就斬之,訖,詣術謝。術曰:「兵人好叛,當共疾之,何為謝也?」由是軍中益畏憚之。術初許策為九江太守,已而更用丹楊陳紀。

太傅の馬日磾は、関東を安集するため、寿春にきた。

『後漢書』献帝紀の初平三年(192)8月、太傅の馬日磾、太僕の趙岐は、天下をまわる。興平元年(194)12月、馬日磾は寿春で死んだ。
ぼくは思う。馬日磾が、寿春についたのは、いつだろう。袁紹に到着するのは、193年である。少なくとも、出発の翌年になった。馬日磾は、2年弱くらい、寿春にいた。なぜ寿春にとどまったか。袁術が拘留した、という理解で正解なのか。李傕や郭汜みたいに?もしくは馬日磾は、袁術をハブにつかって、関東を平定しようとしたとか。丸腰でウロウロするよりも、頼れそうな人を見繕い、号令をかけたほうが、効率がよい。

馬日磾は孫策を、懷義校尉とした。

盧弼は、校尉の注釈をがんばる。また今度。

袁術の大將・喬蕤、張勳は、孫策に心をよせた。袁術は言った。「孫策のような子がいたら、死んでもいい」と。

『後漢書』袁術伝はいう。建安二年、袁術は僭号した。張勲と橋蕤は、呂布を攻めた。大敗した。曹操は袁術を攻めた。袁術は、淮水をわたって逃げた。橋蕤をきった。張勲は逃げた。いま孫策を敬愛したのは、この2人である。

袁術は孫策の兵士の罪をゆるした。袁術に愛される孫策を、ますます軍中は憚った。袁術は、孫策を九江太守にすると言ったが、丹楊の陳紀を九江太守とした。

銭大昕はいう。潁川の陳紀とは、別人である。そのとおり。
ぼくは思う。孫策が活躍したのは、袁術から寵愛されたから。袁術が、孫策との約束を守らなかったのは、なぜか。「孫策を可愛がりすぎると、軍全体のバランスがくずれるな」という、トップとしての配慮かも知れない。孫策ばかり優遇したら、周囲に不満がたまる。橋蕤とか張勲のような大将が、ワカゾウにペコペコしているのは、愉快な図でない。
もはや小説の域だが、袁術はたわむれに、「孫策を九江太守にしてやろう」と言ったことが、あったかも。しかし孫策は若すぎるから、時期を区切らない約束だっただろうたとえば社長が、ハキハキしゃべる新人にむかって「彼は優秀だ。いずれ、うちのエースになる人間だよ。アッハッハ」と、新人歓迎の飲み会で戯れる感じですね。本気にするなよ。しかし後世、孫呉から見れば、「袁術は違約しやがった!」と宣伝する材料となる。


後術欲攻徐州,從廬江太守陸康求米三萬斛。康不與,術大怒。策昔曾詣康,康不見,使主簿接之。策嘗銜恨。術遣策攻康,謂曰:「前錯用陳紀,每恨本意不遂。今若得康,廬江真卿有也。」策攻康,拔之,術複用其故吏劉勳為太守,策益失望。

袁術は、徐州を攻めたい。廬江太守の陸康は、軍糧をださない。袁術は大怒した。かつて孫策は、陸康に面会にゆき、主簿にあしらわれたことがある。孫策は、陸康を怨む。袁術は言った。「もし陸康をとらえたら、廬江は孫策のものだ」と。孫策は、陸康をぬいた。

廬江は、孫堅伝にひく『呉録』にある。陸康も、孫堅伝にある。
孫堅伝02) 兵糧を集め、1人で董卓と戦う
『後漢書』陸康伝はいう。袁術は寿春に屯する。袁術の部曲は、飢えた。陸康は、廬江を閉門して、袁術をこばむ。袁術はいかり、孫策に廬江をかこませた。2年間、孫策の攻撃を受けた。廬江が陥落して1ヶ月余、陸康は死んだ。70余歳だ。
陸康の縁者は、飢えた。朝廷は、陸康をあわれむ。陸康の子・陸儁を、郎中とした。末子の陸績は、孫呉につかえた。鬱林太守となった。かつて袁術と会ったとき、陸績はミカンをおとした。
陳寿説+10歳で、赤壁開戦に猛反対した陸績伝
盧弼は考える。孫策が廬江を攻めたのは、本意でない。太史慈伝にひく『江表伝』に、孫策の本音がある。ぼくは思う。『江表伝』で反論されても、説得力がない。陳寿の本文を見ると、孫策は陸康に恨みがあり、やる気たっぷりに出撃してるように見える。『後漢書』陸康伝によると、2年も、ねばりづよく包囲している。もし孫策が不本意なら、適当な理由をつけて、撤退すればよい。陸康に籠城された時点で、手を引くのが兵法である。袁術も、孫策を本気で咎めたりはしなかろう。可愛がってるし。

袁術は、故吏の劉勲を廬江太守とした。孫策は、ますます失望した。

失望したのは、事実だろう。若者であろうと、手柄を立てたら、きちんと評価されたい。しかし孫策は、袁術の部将をつづける。心底、袁術のやりかたに不信感があるなら、どうして袁術のために働くか。ちまたのリーマンだって、グチりながらも、なかなか仕事をやめない。独立したいか、独立できるかは、べつの話だ。
劉勲は、袁術の死後、孫策のライバルとなる。着目したい人!


次回、揚州刺史の劉繇との対決!つづきます。