01) 父・陸康は、辺境の名官
『呉書』第十二より、陸績伝をやります。虞翻伝のつぎに列伝がある。
このページで指摘すること。2つ。
●陸績は、陳寿がいうより、5~10歳ほど年長だ。
●陸績は、赤壁に反対して鬱林にゆき、鬱病になった。
陸績の年齢は、本文につけた注釈で、くわしく考えます。
陸績が赤壁に反対した件を、さきに書いておきます。
陸績と陸遜は、方針が正反対である
陸績は、後漢の再興を願いつづけた。おそらく陸績は『三国演義』よろしく、赤壁の開戦に反対した。結果、孫権の不興を買って、左遷された。
いっぽう陸遜は、陸績と対照的だ。
陸遜は、すばやく変節し、孫権の独立に加担した。だから陸遜は、孫権から重職を与えられた。
陸遜伝の冒頭だけでも、陸績伝のつぎに、このページでやる予定。
陳寿ですら、見誤った陸績
陳寿は、陸遜が(孫呉という正統性のあやしい王朝ででも)栄達したことに、目を奪われた。あたかも陸氏の主導権が、陸績でなく、はじめから陸遜にあるかのように、勘違いした。勘違いを前提に、列伝を書いた。史料批判が必要だと思う。だから、このページでやります。陸績を復権させます。
陸康の怨みは、子の陸績に継がれた。かなり遠縁の陸遜は、陸康の恨みなど、サッパリ抱かない。だから陸遜は、すぐに孫権に従ったのだ。陸遜伝を読めば、分かることです。これも。
陸氏の主流は、陸績。陸績は、後漢の再興を願った。っていうか、常識ある士大夫ならば、後漢の再興を願って当然だ。陸遜が、変わり者なのだ。
虞翻につづき、陸績が治められている「呉志」第十二は、後漢への思慕を消せなかった人たちの、列伝だと思います。
陳寿は、韋昭『呉書』への史料批判が不充分だったから、韋昭のマジックに落ちた。つまり「呉志」第十二の人物は、孫権の強烈なキャラクターと対立したみたいに、描かれる。ちがう。
この列伝で孫権と対立するのは、「独立する正統性が、まるでない」という孫権の泣き所を、チクチク攻撃しつづけた人だ。
後漢の価値観から言えば、良識の持ち主たちと云える。以下、史料。
父の陸康は、後漢の体制内にいる改革派
陸績字公紀,吳郡吳人也。父康,漢末為廬江太守。
陸績は、あざなを公紀という。呉郡の呉県の人だ。
呉県は、盧弼が孫策伝で注釈した。
陸績の父・陸康は、
范曄『後漢書』陸康伝はいう。陸康の祖父は、陸続といい、独行伝にある。
陸績の父・陸ホウは、志操があり、たびたび就職を断った。霊帝が、銅人をつくるために、新税を課した。陸ホウは、霊帝を諌めた。陸ホウは、廷尉に捉えられた。侍御史の劉岱は上表して、陸ホウの釈放を訴えた。陸ホウは、郷里に帰ることができた。
ぼくは思う。侍御史の劉岱とは、劉繇の兄だろうか。劉岱は、陸ホウとおなじく、体制内の改革派だろう。
霊帝を批判した人々が、三国の群雄の第ゼロ世代だ。霊帝が権力を集中させた後漢を批判した。ゼロ世代は、後漢を相対化する発想がない。陸績の父・陸ホウは、典型的なゼロ世代である。体制内の改革派である。
さきの展望を述べておきます。袁紹、袁術、曹操らは、第イチ世代だ。イチ世代は、ゼロ世代とちがう発想をして、ゼロ世代を乗り越えていった。イチ世代は、体制外の改革派になったり、革命派になったりした。
漢末に廬江太守となった。
たまたま廬江の賊が、4県を攻め陥とした。陸康は、廬江太守となった。献帝が即位すると、天下は大乱した。陸康は、険しい道から、孝廉と計吏を献帝に送り、朝廷に貢献した。献帝は陸康を、忠義将軍とし、秩禄は中二千石とした。袁術は、孫策に陸康を攻めさせた。
孫策伝に見える。廬江郡は、孫堅伝で、盧弼が注釈した。
ぼくは思う。陸康は(おそらく董卓の有無にかかわらず)献帝を支持している。後漢への支持が前提である。董卓の乱は、西北のこと。陸康がいるのは、東南だ。董卓にまつわる、派閥争いの外側にいる。
謝承後漢書曰:康字季寧,少惇孝悌,勤脩操行,太守李肅察孝廉。肅後坐事伏法,康斂屍送喪還潁川,行服,禮終,舉茂才,曆三郡太守,所在稱治,後拜廬江太守。
謝承『後漢書』はいう。陸康は、あざなを季寧という。若くして惇で、孝悌。脩に勤め、操行。呉郡太守の李肅は、陸康を孝廉にあげた。
【追記】ニセクロさんに、教えていただきました。ニセクロさんの書き下し文を、引用いたします。
謝承の後漢書に曰く:陸康は字を季寧といい,少なきより惇(あつ)くして孝悌であり,勤めて操行(操(みさお)のある行い)を修めてきたため,太守の李肅が孝廉に察した。引用おわりです。ありがとうございました。
呉郡太守の李粛って、だれだろう。盧弼の注釈はない。いつも同じ不満を垂れているが。盧弼は、ここでこそ、がんばってほしい。
李粛は、のちに法にしたがい、死刑となった。陸康は、李粛の死体を、李粛の故郷・潁川に送った。
陸康は、李粛の喪をやりとげた。
陸康は、茂才に挙げられた。3郡の太守をつとめた。治めた郡で、陸績はたたえられた。
若くして陸康は、呉郡に仕えた。義烈であることを、たたえられた。高成の県令になった。恩信をもって治めたので、盗賊がいなくなった。揚州や呉郡は、陸康の仕事ぶりを上表した。
光和元年(178年)陸康は、武陵太守となった。桂陽太守、楽安太守をつとめた。すべての郡で、政治をほめられた。
ぼくは思う。
陸康の赴任先は、辺境である。霊帝が目をそらしたテーマは、辺境の守備。霊帝は、中央の改革に熱心だったが、地方はおルスだった。霊帝の欠陥をおぎなう人材が、陸康だった。
陸氏は霊帝に「中央ばかりでなく、地方に目を向けろ、ボケ」と思っていたのかも知れない。だが活躍の場所がちがうから、宦官と正面衝突しない。というか、宦官や霊帝とぶつかるのを避けるため、辺境から、王朝に尽くすことを選んだか。霊帝の政策はキライでも、後漢そのものは、永続すると、後漢の儒教人なら考える。陸康も、この発想の枠内だろうから。
のちに陸康は、廬江太守となった。
陸康が担当すると「寇盗を治め、また息(や)む」となる。つまり、積極的に討伐しない。盗まなくても、生活できる経済を整えてやるのが、陸康の方針だろう。霊帝が、集権のために重税を課す方針とは、正反対だ。
ぼくは思う。
霊帝のつぎ、董卓は、霊帝の政策を、いろんな意味で改めていった。陸康は、おなじ辺境・西涼から乗りこんだ董卓の改革に、いくらか期待をしていたのではないか。献帝に(必要性もないのに)朝貢したことからも、うかがえる。
さっきも書いたが、廬江は遠い。何進派、袁紹派、董卓派、という区別のそとにいる。っていうか、異民族の対策で、内輪もめに参加しているヒマはない。
陸績の家は、後漢の体制内から、改革をうったえる人。父・陸康は、単なる「孫策にやられた人」ではなかった。次回、陸績が登場。年齢について。