表紙 > 孫呉 > 陳寿説+10歳で、赤壁開戦に猛反対した陸績伝

03) 赤壁に反対し、左遷&死

『呉書』第十二より、陸績伝をやります。以下2つを指摘。
 ●陸績は、陳寿がいうより、5~10歳ほど年長だ。
 ●陸績は、赤壁に反対して鬱林にゆき、鬱病になった。

転職した孫策をゆるし、出仕する

孫策在吳,張昭、張紘、秦松為上賓,共論四海未泰,須當用武治而平之,績年少末坐,遙大聲言曰:「昔管夷吾相齊桓公,九合諸侯,一匡天下,不用兵車。孔子曰:'遠人不服,則脩文德以來之。'今論者不務道德懷取之術,而惟尚武,績雖童蒙,竊所未安也。」昭等異焉。

孫策が呉にいるとき、張昭、張紘、秦松を、上賓にまねいた。

このサイトの、張紘伝と虞翻伝で、書きました。彼らは、孫策を曹操に帰順させようとしている人たちだ。孫策も、それを望んでいる。
孫策と孫権を、曹操に帰順させる能吏・張紘伝
孫権を曹操に帰順させ損ねた、一途の虞翻伝

陸績は若かったが、張昭たちの議論に参加した。

付き合っている顔ぶれを見れば、わかる。陸績も、孫策を曹操に従わせたい人間の一員だ。陸績は、孫策の武力を活かし、揚州の沈静化をねらった。
父・陸康は、袁術の部将・孫策に殺された。だが孫策が反省した。いま孫策は、献帝の部将に転職した。だから陸績は、孫策と付き合ってあげている。
くどくなるが、年齢の件。もし陸績を、陳寿説+10歳しても、なおこの顔ぶれのなかで、いちばん若い。

張昭は、陸績の言い分に、感心した。

趙一清は『太平御覧』巻二六四にある『陸績別伝』をひく。会稽太守の王朗は、陸績に命じて、功曹とした。陸績の政治は、会稽郡にいきとどいた。
盧弼は考える。王朗が会稽太守だったのは、孫策に破られる、建安元年(196年)までだ。王朗が功曹を任命できるのは、それ以前だ。このとき陸績は数歳にすぎない。どうして子供が、功曹になれるか。『陸績別伝』は、信じることができない。
(また出てきましたね、盧弼いわく「数歳」が、、)
ぼくは思う。『陸績別伝』は、陸績が袁術を訪れたとき、すでに成年だったと伝える記録である。おおっ!
いくら自分の仮説に都合がいいからと云って、やたら取りあげるのは、公平でない態度です。知っています。つつしみます。ただ指摘できるのは、『陸績別伝』のような反証があるから、陸績の年齢を安易に確定できないってこと。享年と、遺言(予言)だけじゃ足りないのだ。
めぼしい反証がないことが、歴史学が「客観的」であるための条件だと。遅塚忠躬氏は、書いていた。いま陸績6歳ミカン説に、反証が出てきた。


孫策を、曹操に帰順させる、プロジェクト員

績容貌雄壯,博學多識,星曆算數無不該覽。虞翻舊齒名盛,龐統荊州令士,年亦差長,皆與績友善。

陸績は、見目も頭もよかった。天文ができた。

趙一清はいう。賈逵、張衡、陸績、王蕃は、みな北極星が動かず、天の中心にあることを云った。

虞翻と龐統は、年齢も名声も陸績より上だが、陸績と仲よく付き合った。

虞翻は、生年が分からない。龐統は178年か179年の生まれだそうだ。
陳寿は、陸績を188年という前提で「年齢が上だが」と書いている。だが案外、陸績は、龐統と同年代かも知れない。つまり、袁術にミカンをもらったとき、16歳である。『陸績別伝』がいうように、王朗の功曹になったのが、19歳とか。この年齢は、ない話ではない。
なぜ荊州の龐統が、陸績と付き合えたか。龐統が揚州に流れてきたのだ。陸績は、父・陸康が廬江太守だったせいで、揚州に密着している。龐統は、潁川あたりをブラブラし、前歴に不明がおおい。龐統が揚州にきて、揚州で人脈をつくっただろう。龐統が、孫呉の軍師として益州に乗りこむ話は、あながち誤った妄想ではないかも。
「蜀志」に迷いこんだ、生粋の呉の軍師・龐統伝


赤壁の戦いに猛反対し、左遷される

孫權統事,辟為奏曹掾,以直道見憚,出為郁林太守,加偏將軍,給兵二千人。績既有躄疾,又意(在)儒雅,非其志也。

孫権が、孫策をついだ。奏曹掾となった。

『続百官志』はいう。みな郡国は、諸曹掾史をおいた。諸曹は、三公府をマネて置かれた。このとき孫権は、討虜将軍で、会稽太守だった。陸績は、会稽郡の曹掾になったのだ。
ぼくは思う。孫権に、孫策の会稽太守を継がせたのは、2人の人物の方針だ。うちに張昭、そとに張紘。孫権を曹操に帰順させるために、官位を与えた。
陸績もまた、張昭&張紘が配置した人材として、孫権を曹操にエスコートするため、曹掾となった。

陸績は直言したため、孫権にきらわれた。陸績は、鬱林太守となった。

鬱林郡は、孫権伝の赤烏二年(239年)にある。交州に属す。建安十五年(209年)孫権は陸績を、鬱林郡に出した。士燮が、節度を受けたあとである。
ぼくは思う。赤壁の戦いの翌年である。陸績は、赤壁の戦いに反対する、急先鋒だったのではないか。たまたま『三国演義』では、諸葛亮に議論をいどみ、言い負けている。劉備の出自の卑しさを、攻める役目でした。

陸績は、偏将軍を加えられた。兵2000人を与えられた。陸績は、足が悪かった。儒学者になりたかったのに、陸績は、思うとおりにならなかった。

ネットがないと、田舎では、書籍が手に入らない。議論する相手も、見つけにくい。ぼくが、かるく感じていることです。笑


天下統一を遺言&予言して、死ぬ

雖有軍事,著述不廢,作渾天圖,注易釋玄,皆傳於世。豫自知亡日,乃為辭曰:「有漢志士吳郡陸績,幼敦詩、書,長玩禮、易,受命南征,遘疾(遇)厄,遭命不(幸),嗚呼悲隔!」又曰:「從今已去,六十年之外,車同軌,書同文,恨不及見也。」

陸績は軍職にあったが、研究活動をやめなかった。『渾天圖』を書き、『易』『玄』に注釈した。どの著作も、世に伝えられた。

陸績の著作について、盧弼がいっぱい注釈している。どうせ分からないから、また後日。

あらかじめ陸績は、自分が死ぬ日を知っていた。遺言&予言した。
有漢の志士である、吳郡の陸績。わたし陸績は、いろいろ学問したけど、不幸な左遷に遭って、命を落とします。悲しいなあ。いまから60年後、天下は統一されるだろう。統一を、この目で見られないのが残念だ」

盧弼はいう。陸績は、建安二四年(218年)に死んだ。まだ孫呉が建国される前だから、「有漢」といったのだ。
ぼくは思う。盧弼は間違ってないか? 陳寿を鵜呑みにして、193年に陸績が6歳だとすると、32歳で死ぬのは219年だ。どのみち建安年間だから、盧弼はおなじ指摘をしただろうが。
ぼくの設定では、もし孫権が呉帝を名のった後でも、陸績はポリシーにかけて「有漢」と云ったと思う。盧弼の指摘は、計算も理由も、ちがっているのだ。


年三十二卒。長子宏,會稽南部都尉,次子叡,長水校尉。

陸績が死んだとき、32歳だった。

陸績が袁術にミカンをもらったとき、6歳でなく、ぼくが仮定したように、例えば15歳だとしたら。陸績は210年に死ぬ。これくらいが妥当だろう。なぜか。
陸績の落ちこみ方は、ひどい。足も悪い。恵まれない辺境で、長年も研究できるほど、陸績はタフではなさそうだ。左遷された途端、1年や2年で、これまでの研究成果を慌てて編集した。さっさと死んだのだ。イナカでは、新しい文献が手に入らないから、陸績は研究の継続を、断念したと思う。
(虞翻は対照的。虞翻は辺境で弟子をとり、70歳まで生きた)
もし陳寿のいう年齢を採用すると、10年も鬱林郡で研究したことになる。22歳から32歳のあいだ、ずっとだ。とても陸績には、耐えられない。
以上の状況証拠からぼくは、陳寿が計算した、陸績の生年は、誤りだと結論づけます。すなわち陸績の、天下統一までの年数の予言は、当たらなかった
陳寿がつかったであろう、計算式を再掲載しときます。
(西暦280年-60年間-33歳+数え年1歳=西暦188年)

陸績の長子・陸宏は、會稽南部都尉となった。次子陸叡は、長水校尉となった。

陸瑁(陸遜の弟)伝はいう。陸瑁の従父・陸績は、早く死んだ。二男一女をのこした。みな数年で、鬱林から帰った。陸瑁は、陸績の遺児をやしなった。
裴注はこのあと、陸績の娘で、張温の弟に嫁いだ人の話を載せる。陸績の話じゃないので、今日はやりません。


おわりに:陸遜伝との整合性

陸績伝を読み、以下の2つを指摘しました。
 ●陸績は、陳寿がいうより、5~10歳ほど年長だ。
 ●陸績は、赤壁に反対して鬱林にゆき、鬱病になった。

ついでに、陸遜伝をつぶしておく。
陳寿は、陸遜伝にいう。「陸遜は、陸績より数歳、年長だった。だから陸遜は、陸康の没後、一族をつれた」と。
これを、史料批判せねばならん。ぼくの仮説では、陸績は10歳ほど、年長になった。陸遜より、陸績が年上となる。陸遜との上下が、逆転する。きちんと、陸遜伝を叩いておく必要がある。

『三国志』の記述スタイルは、2つに分けることができる。
まず著者が、手元の史料を引用&要約する場合。つぎに著者が、著者なりに、因果関係を推定して、説明する場合。
前者は「はい、そうなんですね」と、読むしかない。だが後者は、ぼくなりに批判することが可能である。「スジのとおる推測」を競うという点では、後世人でも、わりと互角に張り合えるかも。もちろん、扱える材料の量は、後世人に不利だ。しかし「スジをとおす」という点で後世人(ぼくたち)は、1700年分の英知の実績を、西洋の成果もふくめ、参考にできる。歴史哲学とか。


このページで書いたように、陳寿は、陸績が188年生だと推測した。陳寿の推測の結果に照らすと、陸績は陸遜より、年下という設定になった。

注意したいのは、陸績が陸遜に「族兄さん」と呼んだ話が、直接あるのではないこと。陳寿が推測した結果、計算&比較して、年下になっただけだ。

また陸遜は、たしかに独立した孫権の下で、陸氏をひきいた。
陸遜を記録した史料は、必然として増えるだろう。陳寿は、史料の分量に目がくらんだ。陸遜の主導権を過去まで遡らせ、「陸康の死後、陸遜が一族を率いた」という話を、陳寿は組み立ててしまった。

陸康の死後、陸遜が一族をまとめる話が、直接に載っているわけではない。陸氏が、袁術軍から逃げながら、リーダーを決めている話もない。

おまけに、陳寿のなかでは、陸遜が陸績より年長だから、「陸遜が年長ななので、一族を率いた」という因果関係まで、勝手に追加した。

大切なので、くり返します。
史書にある因果関係は、著者が説明のため、つけ加えたものだ。ゆえにぼくらは、史料に載っている事実とおなじレベルで、歴史家のいう因果関係を信じる必要がない。

陳寿は状況証拠を「合理的」に組み立て、陸遜伝の冒頭を書いた。この合理性がくずれたなら、もう陸遜伝の冒頭を信じる必要はない。陸遜伝の冒頭がちがっていても、ぼくの仮定が無効にはならない

陸遜伝の読み方とも、整合させたところで、おしまい。101030