01) 荊州を拡げたい、周瑜の軍師
「蜀志」巻7より、龐統伝をやります。
『三国志集解』を片手に、翻訳します。
グレーかこみのなかに、ぼくの思いつきをメモします。
龐統は「蜀志」に列伝があるから、劉備の軍師だとされる。だがこれは、陳寿のマジックだ。じつは龐統は、死ぬまで孫呉の軍師だった。いちども劉備に仕えていない。これを云います。
荊州の人物批評家の名家、諸葛亮を従弟にむかえる
龐統字士元,襄陽人也。少時樸鈍,未有識者。潁川司馬徽清雅有知人鑒,統弱冠往見徽,徽采桑於樹上,坐統在樹下,共語自晝至夜。徽甚異之,稱統當南州士之冠冕,由是漸顯。
龐統は、あざなを士元という。襄陽郡の人だ。若いとき、鈍そうに見えたから、名声がなかった。
潁川郡の司馬徽は、人を見る目があった。
『通鑑』建安12年にある。劉備は荊州にいて、襄陽で人士をたずねた。司馬徽は云った。「私と同県の龐徳公は、りっぱな人だよ」と。『通鑑』は司馬徽を、襄陽郡の人とする。『世説新語』とちがう。盧弼はいう。おそらく本籍は潁川郡だが、ながれて襄陽郡に住んだのだろう。
龐統が20歳のとき、司馬徽に会った。司馬徽は桑の上にいて、龐統を桑の下におき、昼夜しゃべった。
司馬徽は「龐統は、南州でいちばんの人物になる」と云った。
「司馬徽さんは、どうして世に出ず、糸をつむぐような、女の仕事をしていますか」
司馬徽は、龐統に云った。
「まあ車から降りろ。きみは小道を暴走するだけで、それが正しい道なのか考えない。世俗の栄華を手に入れても、立派だとは限らんよ」
「私は田舎者です。いろんな人生があることを知りませんでした」
ぼくは思う。
司馬徽は、襄陽にいるのか、潁川にいるのか、分からん。
元も子もないことを書きますが、会話の内容は、何でもいい。ともあれ龐統が、人物批評のサロンの一員だと、分かればいい。ただ荊州にとどまらず、名士のメッカ・潁川にまで、交流の輪が届くほどの!
襄陽記曰:諸葛孔明為臥龍,龐士元為鳳雛,司馬德操為水鏡,皆龐德公語也。德公,襄陽人。孔明每至其家,獨拜床下,德公初不令止。德操嘗造德公,值其渡沔,上祀先人墓,德操徑入其室,呼德公妻子,使速作黍,「徐元直向雲有客當來就我與龐公譚。」其妻子皆羅列拜於堂下,奔走供設。須臾,德公還,直入相就,不知何者是客也。德操年小德公十歲,兄事之,呼作龐公,故世人遂謂龐公是德公名,非也。德公子山民,亦有令名,娶諸葛孔明小姊,為魏黃門吏部郎,早卒。子渙,字世文,晉太康中為牂牁太守。統,德公從子也,少未有識者,惟德公重之,年十八,使往見德操。德操與語,既而歎曰:「德公誠知人,此實盛德也。」
『襄陽記』はいう。諸葛亮を臥龍、龐統を鳳雛、司馬徽を水鏡と例えたのは、龐徳公である。司馬徽は、龐徳公より10歳わかい。
劉備は司馬徽に、時世をきいた。司馬徽は「諸葛亮と龐統だけが、時世を知っています」とコメントした。
ぼくは思う。龐徳公という人が、襄陽の名士の親玉だ。
龐徳公の子は、龐山民だ。龐山民は、諸葛亮の姉をめとった。
ともあれ諸葛亮は、襄陽の名士と婚姻して、地位を向上させた。龐氏が「主」で、外者の諸葛亮が「従」だ。龐統は、諸葛亮の従兄にあたる。龐統は諸葛亮より、2つか3つ年上です。家柄も年齢も、龐統が格上だ。
劉表政権を拡大したい、前のめりのブサイク
後郡命為功曹。性好人倫,勤於長養。每所稱述,多過其才,時人怪而問之,統答曰:「當今天下大亂,雅道陵遲,善人少而惡人多。方欲興風俗,長道業,不美其譚即聲名不足慕企,不足慕企而為善者少矣。今拔十失五,猶得其半,而可以崇邁世教,使有志者自勵,不亦可乎?」
のちに龐統は、南郡の功曹になった。
『世説新語』の注釈にある「蜀志」では、周瑜が龐統を、功曹にしたとある。陳寿のテキストに異同がある。
『江表伝』をみると、さきに龐統は功曹になっていた。のちに周瑜が南郡を得てからも、ひきつづき功曹に留任したのではないか。
『御覧』がひく『荊州先徳伝』はいう。周瑜は南郡をえた。龐統の名声をきき、ムリに迫って功曹になってもらった。盧弼はいう。ムリに迫ったというのは、信じられない。
ぼくは思う。ふつうに、劉表で良くないですか? 司馬徽の一派は、劉表に冷たい。諸葛亮しかり。だが龐統は、見た目が冴えないコンプレックスも手伝い、分かりやすい出世の道を望んだ。『世説新語』でも、司馬徽に「ガツガツするな」とたしなめられていたし。
龐統は、人物を批評するのが好きだった。
『三国志』では、許靖、許劭、司馬朗、楊駿、顧邵、陸ボウの子・陸喜。
『後漢書』では、郭泰、許劭と許靖。
龐統は、長所をほめて伸ばした。理由をきかれ、龐統は答えた。
「いま天下は乱れている。よい人材が足りない。10人を抜擢し、半分の5人だけでも有能なら、いいじゃないか」
ぼくは思う。役人の頭数が増えれば、雇うために、パイを広げねばならない。つまり龐統は、拡大主義者である。
劉表は、一部の宗族(蔡瑁や蒯越ら)とは仲がよいが、その他大勢を排除する。部下の頭数が少ないから、勢力が広がらない。龐統は方針を転換させ、劉表の人材を増やそうとしている。
司馬徽や諸葛亮は、劉表をキラい、傍観した。龐統は、諸葛亮のような傍観者をこそ、劉表政権に参加させたい。諸葛亮は「ブサイクな従兄が、焦っているよ」と冷ややかに思っていたのだろうか。
荊州に、拡大主義者・周瑜がきた!
吳將周瑜助先主取荊州,因領南郡太守。瑜卒,統送喪至吳,吳人多聞其名。
呉将の周瑜は、劉備を助け、荊州を取った。周瑜は、南郡によった。
呉から見れば、劉備は傭兵だ。魯粛が勝手に契約するから、周瑜が使っている。このサイト内で、たびたび書いていることです。
周瑜が死んだ。龐統は、周瑜の死体を、呉に送りとどけた。呉人は、おおく龐統をほめた。
きっと龐統は、荊州の現地採用組として、周瑜に仕えた。周瑜の基本路線は、拡大&拡大&拡大である。龐統が、劉表の部下として出来なかったことを、周瑜がやってくれた。龐統は、周瑜の軍師として、曹操の残党を駆逐する戦いに、従ったのだろう。
あとから云うが、龐統が呉の軍師として働いた実績は、「蜀志」に収めるために、抹消された。だから、イメージがわきにくい。
次回「龐統は呉臣だ」と、マジで確信できる人脈のお話。