表紙 > 人物伝 > 「蜀志」に迷いこんだ、生粋の呉の軍師・龐統伝

02) 孫権の目付け役、入蜀を命ず

「蜀志」巻7より、龐統伝をやります。
『三国志集解』を片手に、翻訳します。
グレーかこみのなかに、ぼくの思いつきをメモします。

呉郡の名士は、ジョークを飛ばしあう友達

及當西還,並會昌門,陸勣、顧劭、全琮皆往。統曰:「陸子可謂駑馬有逸足之力,顧子可謂駑牛能負重致遠也。」

龐統は、周瑜の死体をとどけ、荊州に帰ることになった。昌門に、陸勣、顧劭、全琮らが見送りにきてくれた。

盧弼はいう。呉県の昌門である。
陸績、顧邵は、どちらも呉郡の呉県の人。全琮は、呉郡の銭唐県の人。
「呉志」陸績伝はいう。龐統と陸績は、年齢がちかい親友だった。
「呉志」顧邵伝はいう。顧邵は、舅の陸績とおなじく名声があった。
「呉志」全琮伝はいう。中原から逃げた名家が、全琮を頼った。
ぼくは思う。
龐統は、孫呉の中核を占める名士と、すごく近い。仲が良すぎる。
龐徳公がもつ荊州での名声と、周瑜の遺体を収めた手柄が、名士に注目されたのは確かだ。しかし、急に仲良くなりすぎだ。不自然である。おそらく、荊州にいた時代から、呉人と交流があった。
ぎゃくに龐統は、曹魏にいる名士とは、交流がなさそうだ。潁川郡に出かけたり、曹操が襄陽に入ったり、曹魏に参入する機会は、いくらでもあった。でも、まったく曹魏に行きたがらない。
「呉楚を拡げ、独立した国を作る」というビジョンを、龐統は持っていたか。周瑜や魯粛と、同じである。気が合うはずだ。

龐統は云った。
「陸績は、足が速い馬だ。顧邵は、持久力のある牛だ」

云っている内容は、あまり気にしなくて、いいと思う。内容は何であれ、ウィットに富んだ、ご冗談を交わす関係、というのが大切なんだ。
内容については、つぎの裴注が教えてくれます。


張勃吳錄曰:或問統曰:「如所目,陸子為勝乎?」統曰:「駑馬雖精,所致一人耳。駑牛一日行三百里,所致豈一人之重哉!」劭就統宿,語,因問:「卿名知人,吾與卿孰愈?」統曰:「陶冶世俗,甄綜人物,吾不及卿;論帝王之秘策,攬倚伏之要最,吾似有一日之長。」劭安其言而親之。

張勃『呉録』はいう。龐統は、瞬発力のある馬(陸績)よりも、積載量のおおい牛(顧邵)のほうが優れていると、種明かしした。龐統は、顧邵と自分を比較して、それぞれ褒めた。

謂全琮曰:「卿好施慕名,有似汝南樊子昭。雖智力不多,亦一時之佳也。」績、劭謂統曰:「使天下太平,當與卿共料四海之士。」深與統相結而還。

龐統は、全琮についてコメントした。
「汝南郡の樊子昭に似ている。智力は多くないが、好人物だ」

裴注に蒋済『萬機論』がある。樊子昭は、議論をするとき、顔が引きつり、歯が鳴り、ツバが飛んだ。智力は多くないとは、これを指す。笑
盧弼はいう。樊子昭は『汝南先賢伝』と和コウ伝の注釈にみえる。

陸績と顧邵は、龐統に云った。
「天下が太平になったら、また一緒に、人物評をやろう」
龐統は、呉郡の人たちと、深く交流し、荊州に戻った。

どうして、呉郡に親友がいる龐統が「劉備の軍師」になるものか! 益州に行ったきり、漢室の復興を目指すものか!
ポイントは、今回のように、呉臣との「親しい」逸話があるのに、劉備の臣との交流が、まるで残っていないこと。どうやら龐統は、呉臣のくせに、うっかり「蜀志」に放り込まれたのではないかと思うわけです。
陳寿が「蜀志」を充実させるために、所属勢力を変えた?
これで、龐統が劉備のために働かないことが示せれば、「龐統=死ぬまで呉臣」説が成立します。笑


劉備が龐統を軽んじたのは、呉臣だから

先主領荊州,統以從事守耒陽令,在縣不治,免官。吳將魯肅遺先主書曰:「龐士元非百里才也,使處治中、別駕之任,始當展其驥足耳。」諸葛亮亦言之於先主,先主見與善譚,大器之,以為治中從事。

劉備は、荊州を領した。龐統は、従事となり、来陽県令になった。

『郡国志』はいう。荊州の桂陽郡だ。

龐統は、耒陽県を治めない。龐統は、クビになった。

『演義』で龐統は、酒ばかり飲む。張飛に怒られる。
能力よりも、ひどく小さい仕事を与えられると、心がすさむ。やがて適応しようとする。適応するため、酒を飲み、判断力を落とす。わざと、小さい仕事に相応しい、バカな頭を作ろうとする。仕事と頭脳のレベルが一致すると、ストレスが減るからね。
なぜ『演義』のネタを雄弁に語るか。ぼくが経験者だから。笑

呉将の魯粛は、劉備に手紙をかいた。
「龐統は、百里四方を治める才能ではありません。治中や別駕にしてこそ、力を発揮するのです」

盧弼が、治中と別駕を説明しているが、よく分からん。どこで文章が切れるか、いまいち判定できないので、翻訳できません。
魯粛は、なぜ劉備の人事に口を出したか。劉備は孫権の傭兵で、魯粛はその管理者である。龐統は、孫権から劉備への支給人員だ。会社が営業マンに向かって、こう要望するのと同じだ。
「せっかく営業アシスタントを派遣したのに、どうして活かさないのかね。アシスタントに社内処理を任せ、もっと売り上げをあげてくれよ」

諸葛亮も、劉備に龐統を推薦した。

本田透『ろくでなし三国志』はいう。孫権から見れば、諸葛亮は、天下三分の戦略家でない。諸葛瑾の弟で、傭兵・劉備の管理担当者だ。諸葛亮は、孫権が自分に何を期待しているか、分かっている。天下三分を孫権には隠し、いまは職務を果たすべきだ。
「劉備さま、孫権さんがつけたアシスタントは、活用するべきです」
また諸葛亮から見て、龐統は、荊州での人脈の拠りどころとなる従兄である。龐統を差し置き、諸葛亮が出しゃばると、自分の人気が急落する。

龐統は、侍中従事となった。


江表傳曰:先主與統從容宴語,問曰:「卿為周公瑾功曹,孤到吳,聞此人密有白事,勸仲謀相留,有之乎?在君為君,卿其無隱。」統對曰:「有之。」備歎息曰:「孤時危急,當有所求,故不得不往,殆不免周瑜之手!天下智謀之士,所見略同耳。時孔明諫孤莫行,其意獨篤,亦慮此也。孤以仲謀所防在北,當賴孤為援,故決意不疑。此誠出於險塗,非萬全之計也。」

『江表伝』はいう。宴席で、劉備が龐統にきいた。
周瑜が、私を呉に抑留するという作戦は、本当にあったのか」
「ありましたよ」
「そうだったのか。私はウカツだった。周瑜は、恐いなあ」

『江表伝』だから、参考にならない。ただ周瑜をほめるために、あとから作った話でしょう。龐統が周瑜の部下だった、という設定を活かし、創作した。周瑜は劉備を逃がしたが、惜しかったんだぞ、と。


親待亞於諸葛亮,遂與亮並為軍師中郎將。

劉備は、諸葛亮のつぎに、龐統を待遇した。龐統は、諸葛亮とともに、軍師中郎将になった。

「魏志」劉表伝がひく『傅子』はいう。傅巽は龐統にあい、「半英雄」だと云った。「英雄」ではないから、諸葛亮の次席なんだ。
ぼくは『傅子』が、ちがうと思う。
龐統が、いちはやく軍師中郎将に出世したのは、孫権の目付け役からだ。諸葛亮は劉備信者だから、使いやすい。劉備の理想としては、諸葛亮だけを軍師中郎将にした。だが諸葛亮だけでは、荊州が治まらない。
理由は2つだ。
まず荊州の実質の君主・孫権だから。赤壁に勝ったのは、孫権だ。荊州の人士から見たら、「劉備は、孫権に雇われて、仮に駐屯している」軍人にすぎない。ならば、孫権側の監察官を、できるだけ高位に迎えて、荊州の人士をなだめる必要がある。
つぎに、荊州での名声は、諸葛亮より龐統がずっと上だから。年齢も、龐統が上だ。ほんとうは劉備は、龐統を上席とすべきだ。だが、自主性を失いたくない劉備は、諸葛亮と龐統を、同じ高さにすることで、折り合った。


孫権の目付け役として、劉備に蜀とりを命じる

九州春秋曰:統說備曰:「荊州荒殘,人物殫盡,東有吳孫,北有曹氏,鼎足之計,難以得志。今益州國富民強,戶口百萬,四部兵馬,所出必具,寶貨無求於外,今可權藉以定大事。」備曰:「今指與吾為水火者,曹操也,操以急,吾以寬;操以暴,吾以仁;操以譎,吾以忠;每與操反,事乃可成耳。今以小故而失信義於天下者,吾所不取也。」統曰:「權變之時,固非一道所能定也。兼弱攻昧,五伯之事。逆取順守,報之以義,事定之後,封以大國,何負於信?今日不取,終為人利耳。」備遂行。

『九州春秋』はいう。龐統は劉備に、益州を攻めろと云った。劉備は答えた。
「私は曹操と正反対にやると決めている。いま劉璋を攻めたら、曹操の二番煎じになってしまう。私が、曹操の劣化コピーになってしまう。劉璋を攻めたくない」
龐統は押し切り、劉備は劉璋攻めを、納得させられた。

曹操の反対をいく。劉備の基本方針として、有名なセリフです。
『九州春秋』は晋代に司馬彪が書いた。龐統=蜀臣と位置づける陳寿『三国志』を前提に書いたから、龐統が「劉備さん、蜀で独立を」みたいな語調になっている。ぼくは、違うと思う。
龐統が、劉備に蜀とりを勧めたなら、本音はこうだ。
「周瑜さまは、無念にも死んだ。劉備さんは、周瑜さまの代わりに、益州を攻めなさい。傭兵の仕事を、ちゃんとやりなさい。孫権さまが、前線・荊州にあなたを置いているのは、蜀とりを期待しているからだ」
ぼくは『九州春秋』を疑ったが、龐統が蜀とりを勧めたことは、くつがえさない。なぜなら、龐統が蜀とりの軍師を、みずから務めたから。


亮留鎮荊州。統隨從入蜀。

劉備は、諸葛亮を荊州にのこして、守らせた。龐統は、劉備に従って、蜀に入った。

これは、劉備軍の戦いではない。孫権軍の戦いである。
いまの蜀攻めで、劉備は主力メンバーを、みんな荊州に置いてきた。その理由は、雇われ仕事だからだ。劉備は、わざわざ自腹を切りたくない。孫権に支給された人数と兵糧をつかい、いやいや働くのみ。
黄忠や魏延は、荊州で臣従した人だ。劉備に臣従したのか、劉備の雇い主・孫権に臣従したのか、疑わしい。劉備にとって、荊州での合流組は「身銭」ではない。だから益州入りに使った。
ネタを先取りしますと。
龐統が死ぬと、劉備の前から、孫権が送った目付け役はいなくなった。蜀攻めは、劉備軍みずからの戦いに変わる。劉備は張り切り、張飛、趙雲、諸葛亮を益州に招いた。ロコツだよな。笑


次回、蜀攻めをやります。劉備の独立の動機は、龐統の死!