表紙 > 人物伝 > 「蜀志」に迷いこんだ、生粋の呉の軍師・龐統伝

03) 龐統が死んだから、劉備は独立

「蜀志」巻7より、龐統伝をやります。
『三国志集解』を片手に、翻訳します。
グレーかこみのなかに、ぼくの思いつきをメモします。

龐統の作戦は、劉備という人材を使い捨てる

益州牧劉璋與先主會涪,統進策曰:「今因此會,便可執之,則將軍無用兵之勞而坐定一州也。」先主曰:「初入他國,恩信未著,此不可也。」璋既還成都,先主當為璋北征漢中,統複說曰:「陰選精兵,晝夜兼道,徑襲成都;璋既不武,又素無預備,大軍卒至,一舉便定,此上計也。楊懷、高沛,璋之名將,各仗強兵,據守關頭,聞數有箋諫璋,使發遣將軍還荊州。將軍未至,遣與相聞,說荊州有急,欲還救之,並使裝束,外作歸形;此二子既服將軍英名,又喜將軍之去,計必乘輕騎來見,將軍因此執之,進取其兵,乃向成都,此中計也。退還白帝,連引荊州,徐還圖之,此下計也。若沈吟不去,將致大因,不可久矣。」先主然其中計,即斬懷、沛,還向成都,所過輒克。 」

益州牧の劉璋は、劉備と、涪県で会見した。
龐統は劉備に、作戦をのべた。
「この場で劉璋を捕えなさい。兵を使わず、一州が定まります」
劉備は、龐統に抵抗した。
「劉璋さんの心づかいを、踏みにじれない」
劉璋が成都にかえった。劉備は、漢中に行くことになった。
龐統は、ふたたび劉備に述べた。
成都を奇襲しましょう。劉璋は降伏する。これがベストです」

龐統は、何を云っているか。ずばり、傭兵・劉備を、今回で使い切ろうとしている。
劉備は劉璋と同族だ。ゆえに劉璋は、劉備を信頼している。これを活かし、一気に益州を劉備に奪わせ、孫権の領土としたい。
「劉璋を殺せば、劉備の名声が落ちる」という心配がある。だが龐統は、そんな心配はしない。なぜなら龐統は、呉臣だから。今回で劉備を使い切り、捨てるつもりである。
保険の営業マンと同じだ。営業マンをノルマで追いこむ。友人や親戚と、すべて契約させた上で、営業マンを解雇する。「もうお前は、友人や親戚がいないんだろ。だったら、この会社に必要ない人間だ」と。
劉備は、劉璋を殺せば、大陸に生き場がない。地理的に、すべて踏破してしまった。もう誰も劉備を信じない。雇ってくれる勢力はない。だから劉備は、劉璋を殺さなかった。成都を奇襲しなかった。仁愛ゆえではない。

龐統は云った。
「中策は、白水関の2将を攻めること。下策は、白帝城にもどり、荊州から出直してくることです」
劉備な中策を採用し、成都に勝ち進んだ。

くれぐれも云うが、龐統は孫権のために、作戦を立てている。劉備は、孫権のために、戦わされている。


劉備と龐統のケンカで、君臣を論じても仕方ない

於涪大會,置酒作樂,謂統曰:「今日之會,可謂樂矣。」統曰:「伐人之國而以為歡,非仁者之兵也。」先主醉,怒曰:「武王伐紂,前歌後舞,非仁者邪?卿言不當,宜速起出!」於是統逡巡引退。先主尋悔,請還。統複故位,初不顧謝,飲食自若。先主謂曰:「向者之論,阿誰為失?」統對曰:「君臣俱失。」先主大笑,宴樂如初。

劉備は、涪で宴会した。劉備は龐統に「楽しいなあ」と云った。
龐統は「他人の国を攻めています。喜んではいけない」と責めた。
劉備と龐統は、ケンカした。龐統は「劉備さんも私も、悪かった」と云った。劉備は、もとどおり宴会した。

下に、たっぷり裴註があるように、物議をかもす場面。
ぼくの読み方に沿わせるなら、龐統の意図はどんなか。
案1。成都で、いよいよ王手をかけたとき、劉璋をあっさり降伏させるため、劉備には仁徳者でいてもらう必要があった。
案2。まるで益州の主人のように喜ぶ(たかが傭兵隊長の)劉備に、腹が立った。
ともあれ、いま龐統が堂々と意見を述べたのは、龐統の立場が強いことを示す。ただの軍師じゃなく、監軍みたいなポジションか。
たとえば、魏の鍾会に掣肘をくわえた、衛瓘である。


習鑿歯曰:夫霸王者,必體仁義以為本,仗信順以為宗,一物不具,則其道乖矣。今劉備襲奪璋土,權以濟業,負信違情,德義俱愆,雖功由是隆,宜大傷其敗,譬斷手全軀,何樂之有?龐統懼斯言之泄宣,知其君之必悟,故眾中匡其失,而不脩常謙之道,矯然太當,盡其蹇諤之風。夫上失而能正,是有臣也,納勝而無執,是從理也;有臣則陛隆堂高,從理則群策畢舉;一言而三善兼明,暫諫而義彰百代,可謂達乎大體矣。若惜其小失而廢其大益,矜此過言,自絕遠讜,能成業濟務者,未之有也。

習鑿歯はいう。劉備の蜀とりは、仁義に反する。龐統の諫言は、正しい。劉備のように、侵略をたのしむ君主は、成功できない。

臣松之以為謀襲劉璋,計雖出於統,然違義成功,本由詭道,心既內疚,則歡情自戢,故聞備稱樂之言,不覺率爾而對也。備宴酣失時,事同樂禍,自比武王,曾無愧色,此備有非而統無失,其雲「君臣俱失」,蓋分謗之言耳。習氏所論,雖大旨無乖,然推演之辭,近為流宕也。

蜀とりは、もとは龐統のアイディアだ。龐統も仁義に反する。だが、侵略を楽しんだ劉備は、もっと仁義に反する。龐統は「劉備さんも私も悪かった」と云ったが、方便である。ほんとうは、劉備が悪い。

ぼくは、この議論に参加しない。なぜなら、「龐統は、劉備の部下ではない」と思うからだ。すでに書いたとおりです。
まあ、酒の場でのケンカをテーマにして、しかめツラして(しかも漢文で!)議論するなんて、ブドウ糖のムダだと思うのです。


龐統が死んだから、劉備が独立戦争を始めた

進圍雒縣,統率眾攻城,為流矢所中,卒,時年三十六。先主痛惜,言則流涕。拜統父議郎,遷諫議大夫,諸葛亮親為之拜。追賜統爵關內侯,諡曰靖侯。

雒城を包囲したとき、龐統は、矢に当たって死んだ。36歳だった。

「劉備軍が、龐統を暗殺した」という話を、ぼくはやりません。暗殺を言い出すと、キリがないですから。陳寿が伝えるとおり、雒城の守備隊に殺されたと考える。
劉備にとって、龐統の戦死は、絶好のチャンスとなった。劉備は、孫権の傭兵から独立した。このあと魯粛が、関羽に「荊州を返せ」と交渉するのは、傭兵の契約期間を、劉備が勝手に終了したからだ。
龐統は、劉備の独立を、みずから軍中に身をおくことで、抑えた。龐統の真骨頂は、劉備を孫権の傭兵として、つなぎとめたことだ。つなぎとめて、孫呉に益州を得させた。文学的?な表現をするなら「周瑜の軍師」をつらぬいて、龐統は死んだ。
龐統の役割は、劉備を利用することに苦労した、魯粛に通じる。

龐統の父は、劉備の役人となり、諸葛亮に親族として敬われた。龐統は、関内侯となり、靖侯とおくられた。

龐統の父が、初登場! いままで、何をしていたんだろう。
諸葛亮は、龐統の従弟である。これにて晴れて諸葛亮は、龐氏の名声を手に入れた。諸葛亮による、乗っ取りが完了である。
龐統が死んで、諸葛亮が益州にきた。『演義』では「劉備が諸葛亮を呼んだから、龐統は手柄を焦った」となる。逆だ。「龐統が死んだから、劉備は諸葛亮を呼ぶことができた。劉備軍としての戦争を始めた」である。


龐統の遺族は、魏に降伏してゆく

統子宏,字巨師,剛簡有臧否,輕傲尚書令陳袛,為袛所抑,卒於涪陵太守。統弟林,以荊州治中從事參鎮北將軍黃權征吳,值軍敗,隨權入魏,魏封列侯,至钜鹿太守。

襄陽記曰:林婦,同郡習禎妺。禎事在楊戲輔臣贊。曹公之破荊州,林婦與林分隔,守養弱女十有餘年,後林隨黃權降魏,始複集聚。魏文帝聞而賢之,賜床帳衣服,以顯其義節。

龐統なきあと、龐氏は蜀臣となり、魏臣となった。

龐氏は、劉備の臣下ではない。成り行きで、ちょっと劉備に仕えたが、とくに制約がなければ、中原に帰りたかったのだ。潁川や襄陽の名士に連なる家だからね。


おわりに

龐統は、孫権(周瑜や魯粛)が、傭兵・劉備に送った目付け役だ。意外にちゃんと、スジが通ったような気がします。

龐統の役割は、魯粛に近い。「劉備のなかに置かれた魯粛」である。

しかし龐統は、呉臣と認識されない。なぜか。
陳寿は『三国志』を書いているとき、「蜀志」の人物が少ないことに、不満をもった。愛国心ゆえだけではなく、歴史書の分量&体裁として整わない。だから、諸葛亮につぐ軍師系っぽい人材を探し、龐統と法正をまとめて、「蜀志」第九をつくった。

諸葛亮を引き立てる、という演出効果も、陳寿は期待したか。

陳寿が、龐統の列伝を「蜀志」に立てたせいで、龐統が「蜀のナンバーツーの軍師」と、勘違いされるにいたった。

もし龐統が長生きしたら、劉備を困らせ、孫権を利する行動を、どうどうと始めただろう。蜀ファンは、龐統の早死にを、悲しむ必要はない。また「龐統が死ななければ、関羽は孤立しなかった」とは期待できない。

「蜀志」をほぐすと、バラバラになりそうだ。龐統のように、蜀臣ぶっているけど、じつは違う人が、ほかに、いないかなあ。100625