表紙 > 孫呉 > 陳寿説+10歳で、赤壁開戦に猛反対した陸績伝

02) 袁術に橘をもらった好青年

『呉書』第十二より、陸績伝をやります。以下2つを指摘。
 ●陸績は、陳寿がいうより、5~10歳ほど年長だ。
 ●陸績は、赤壁に反対して鬱林にゆき、鬱病になった。

ミカンのとき、陸績は何歳か?

績年六歲,於九江見袁術。

陸績が、

陳寿は、陸績が袁術にミカンをもらうエピソードを、193年の出来事とする。ぼくは思う。もともとミカンは、年代不明の逸話だったが、陳寿が193年に固定したようだ。例えば『後漢書』には、具体的な時期は、書かれない。
なぜ193年か。陳寿が思考したプロセスを、ぼくが推測します。
まず、前。192年まで、袁術は南陽郡にいる。献帝の即位前から廬江にいる陸氏が、袁術と面会するのは、地理的にムリだ。
つぎに、後ろ。袁術は194年に陸康を殺す。194年以後、陸績が袁術と親しくするはずがない。ゆえに、193年は不動。

6歳のとき、

なぜ、6歳か。陳寿は、陸績の生年を188年と推定して、193年には6歳とした。
陳寿が、陸績の生年を決めた根拠は2つ。ひとつ、陸績は享年33。ふたつ、陸績は「60年後、天下は統一される」と遺言した。そう、西晋の陳寿は知っている。天下統一は280年と。これだけのアヤフヤな証拠から、188年生まれと逆算したんだ。
(西暦280年-60年間-33歳+数え年1歳=西暦188年)
ぼくは「現代人」だから、陸績の予言&遺言が、的中したと見なさない。っていうか陳寿も「果たして、陸績の云うとおりとなった」と結末を記していない。陳寿も、確証がないのだ。根拠とするには、あまりに弱い。
また60年は、干支が1周する年数だ。1年たりともズレない予言だった、という保証はない。せいぜい「とおい未来に」の意味である。虞翻は、1日単位で占うことができたが、陸績は『易経』の先生ではない。
で、
ぼくは、陳寿を疑う。188年生まれ(ミカンのとき6歳となる)を疑う。
なぜか。6歳の陸績が、袁術に面会する状況が、想定できないからだ。
なぜ淮南にきたばかりの袁術に、(陳寿曰く)6歳の陸績が、ひとりで面会しているのか。陸績の父は、廬江太守の陸康。陸康は袁術に、人質を送ったのか? バカな。「袁術の勢力を最大に見積もる」という、ぼくの趣味に照らせば、陸康の卑屈は、嬉しいことだ。だが、どうもヘンだ。
陸康は、献帝の即位前から、廬江にいる。いま淮南に引っ越した袁術より、陸康のほうが、よほど安定している。陸康は、辺境を治めるバランス感覚を持っている。3郡で、実績がある。幼いわが子・陸績を、とおく淮南に出す理由がない。
そこでぼくは、陸績が10歳ちょいだと仮説する。使者として、充分に役目を果たせる。『後漢書』陸康伝に、
幼年曾謁袁術,懷橘墮地者也,有名稱。
とある。『礼記』のいう「幼学」は、10歳で学問を始めることだ。陸績が10歳でも「幼」だ。話をおもしろくするため、若さは強調されて、伝説される。実際の陸績は、成人前の若者として、袁術を訪れたのでは?
陳寿(もしくは韋昭かも)は、ただ「幼年」とある原史料を出発点に、合理的に状況証拠を吟味して、188年生まれ&193年に6歳で袁術と会う話を推定した。

九江で、袁術と会った。

このタイミングで盧弼は、孫権伝と陸遜伝をひく。陸遜は、呉の赤烏八年(245年)63歳で死んだ。陸遜の生年は、後漢の光和六年(183年)である。陸遜伝がいうには「陸遜は陸績より、数歳、年長である」と。ゆえに陸績が生まれたのは、中平五年(188年)だろう。
ぼくは思う。盧弼に、飛躍がある。なぜ「数歳」が、すぐに5歳差になるのだろうか。
ぼくの感覚では、2歳か3歳差だ。「数」のはばが、ズレてる。ほかの史料に出てくる「数百里」「数千人」も、捉えかたを変えるべきだろうか。
yunishioさんはいう。古代中国で数歳といえば、2~3歳をあらわす。だから「数四」という表現があると。
AkaNisinさんはいう。この前授業で読んだ『漢書』黥布伝では、「四」も「数」と書かれていたと。
お二人の意見は、「4」の扱いが、すでに正反対です。うーん。盧弼の言語感覚を、さぐるしかないか。用例を集める? イヤすぎる。この攻め方では、手づまりです。
ただし、ぼくは思うのです。きっと盧弼は、陳寿が陸績の生年を算出した根拠を、考えいたらずに注釈している。だから、ザックリ「数歳=5年」なんて云うんだ。盧弼は、無視しましょう。ツイッターで、yunishioさんと、AkaNisinさんから、教えを請えただけでも、悩んだ甲斐がありました。ありがとうございました。


袁術に共感した? 青年の陸績

術出橘,績懷三枚,去,拜辭墮地,術謂曰:「陸郎作賓客而懷橘乎?」績跪答曰:「欲歸遺母。」術大奇之。

袁術は陸績に、橘を与えた。

盧弼はいう。初平四年(193年)袁術は、淮南に拠った。これは范曄の献帝紀にある。淮南とは、九江郡のことだ。
以下『集解』にない話ですが、ぼくなりに調べた。
『字典』はいう。「橘」とは、木の名。暖地に栽培されるミカン科の常緑低木。秋にオレンジ色の実ができる。
ぼくは思う。袁術が陸績と面会したのは、ミカンの旬・秋だ。史書にないが、季節まで推定できた。193年、秋。
『晏子』はいう。「橘は、淮南に生えれば、タチバナとなる。淮北に生えれば、カラタチとなる」と。つまり品種&遺伝子的には同じでも、生える場所によって気質が変わってくること。
ぼくはこれを、宮城谷さんの小説で読みました。呉王が、斉人の泥棒を捕まえた。斉の宰相・晏子に「斉人は、手癖がわるい」と云った。呉王から、晏子へのアテツケだ。晏子の答えは「呉の風土が、彼を泥棒に変えたのでしょう。まるで橘が、生える場所によって、名前を変えるように」と。あいまいな記憶からの要約でした。
ぼくは妄想する。
もし袁術が橘に引っ掛けて、天下国家を陸績に語ったとしたら、面白い。皇帝というポジションは、中原(淮北)に1人だけと、後漢で考えられてきた。しかし淮南にくれば、皇帝だって、べつの名前、べつの役割、べつの戦略をもつのだと。
大東文化大の池田先生に「後漢の鄭玄は、皇帝は一人じゃなくていいと唱えた人だ」と聞きました。三国志学会のあとの懇親会で。池田先生は「袁術は、儒学の諸説を無視して、皇帝を名のった。袁術は、バカ」と仰っていました。しかし、袁術が鄭玄を知らなかった証明は、できないわけで。

陸績は、橘を3つ、懐に入れた。

陸績から見て、橘は貴重品だったと分かる。陸績のいる廬江は、淮南のずっと南である。気候としては、橘が育つだろうに。廬江には、長江に隔てられたせいで、タネが伝わってないのだろうか。
この場面、袁術の勘違いだったら、面白い。
「これは、タチバナという果物だ。私は、この歳まで、見たことがなかった。どうだ、珍しいだろう。陸郎にも、あげよう」
陸績は心の中で、
「都会者め。袁術さんは、汝南生まれ、洛陽育ちで、ろくに地方官を経験していない。そりゃ珍しいでしょう。でも、自分の価値観を、押し付けないでほしいな。ぼくは呉郡生まれで、廬陵で育った。たしかにタチバナは貴重だが、知らないことはない」と。
こんなだったら、いかにも袁術らしくて、楽しい。
しかし、心理的な応酬は、それこそ、小説家が直観で感じとる種類の「真実」である。歴史家の領分ではないらしい。遅塚忠躬氏が書いてた。

陸績は退出するとき、礼をして、橘を地に落とした。
「陸郎は、客として招かれて、橘を持ち帰るのか」

袁術のセリフに注意。「陸郎」と云ってる。6歳の幼児が「郎」だろうか。
袁術は、少年が好きである。おなじころ「郎」と呼ばれたのは、孫策である。孫策は175年生まれ。19歳。陸績も、おなじような青年の風貌を、していなかったか。
袁術は、夢に描いた。未来ある若者を、手元におく。外征は孫策に任せ、内政&文化は陸績に任せる。おなじく若い、周瑜と魯粛も口説いてたなあ。
つぎ。いま袁術の云ったことは、現代風に置き換えると、
「立食パーティに招かれて、並んでいる料理を(まだ会場の誰かが食べるかも知れないのに)保存用の弁当箱に入れて、持って帰るのかね」となる。

袁術がからかうと、陸績は答えた。
「母に食べさせたいのです」

ぼくは思う。陸績はミカンをもらって、「去」っている。
ぼくの仮想ですが。陸績は、父・陸康の代理として、新参の袁術を、見極めにきた。陸康がいる廬江は、異民族への前線だから、離脱するわけにはいかない。
陸績は、廬江の父に復命するために、袁術の前から、退出したんじゃないだろうか。どんな交渉だったのか。内容が気になる。
ぼくは思う。陸績は袁術を「いいおじさん」と思った。袁術の語った天下国家に、陸績は少なからず共感したんじゃないか。
なぜぼくは、陸績が袁術を、好意的に評価したと思うのか。
理由。もし、顔も見たくない奴のくれたミカンなら、母に食べさせようと思うまい。これだけの状況証拠です。堂々巡りですが、陸績が袁術から、戦略を聞かせてもらうためにも、陸績が成長していなければならない。6歳では、いけない。

袁術は、陸績のおこないを、おおいに奇とした。

陸績は、ママにミカンを持って帰る。6歳でなく、10代の青年が、これを現代日本でやれば、マザコンである。だが後漢末なら、孝である。アッパレ。
盧弼はいう。孫策は、興平元年(194年)袁術に命じられて、陸康を攻めた。孫策伝にある。陸康は陸遜に、親戚をつれて呉郡に帰らせた。つまり陸遜と陸績は、呉郡に帰ったのである。
ぼくは思う。ミカンを授受するほどの関係から、どうして、たった1年で、死闘が起きたのか。展開が、急激すぎる。
陸績が持ち帰った袁術からの伝言を、父・陸康が批難したのだろう。わかい陸績から見たら、袁術の革命も視野に入れたプランは、魅力的だった。若者は、とりあえず変革を好むからね。しかし、長いこと後漢の地方官をしてきた陸康にしてみれば、袁術は、漢の逆臣である。陸康の発想は、前ページで見たとおりです。三国志の第ゼロ世代で、後漢の体制内・改革派です。
袁術が陸康に「北伐するから、兵糧ちょうだい。息子さんに、ミカンを持たせたでしょ。返礼が、まだなんだけど」と要望した。そりゃ陸康は、断るだろうさ。
次ページへの展望。
陸績は、この体験から、ガチガチに後漢を擁護するようになる。革命派・袁術に、父を殺された。トラウマというか、怨恨である。ミカンの席で、少しでも袁術を好ましく思ったことは、もうリセットである。
しかも後年、袁術は失敗する。もし陸績の主君が「後漢から自立したい」とホザいたら、全力で止めねばならない。まちがいない。


ここで、小休止

年齢の議論がしんどかったので、ここで改ページ。

以前、ツイートしました。
たった数文字の原文に、ズラッと何行もの注釈がついていると、快感にゾクゾクする。ビョーキだろうか。。ついでに注釈を、ぼくが何倍にも増やしておかずには、いられなくなる。ビョーキだろうか。。 と。
ミカンのくだりは、このビョーキが発動し、心地よかった。このページで消化した陳寿の原文は、たった46文字でした。つけた考察と妄想は、4000文字。

書き終えてから、思う。ミカンのシーンにこだわるのは、ぼくが袁術が好きだからなのかなあ。べつに意識せず、疑問が疑問を生み、金曜日に苦闘してしまった。「袁術が出演する映像」を、明らかにしたかったらしい。
だが、父・陸康に報告したところ、陸康が「袁術のようなやつを、援助する必要はない」と判断したのかも。