04) 袁術の遺族を攻め、曹操につく
『三国志集解』で孫策伝をやります。
なぜ、今までやらなかったのか、自分でも分からないほど、重要かつ楽しい。
1年前、孫策伝をやった。 孫策は袁術に、絶縁状を突きつけていない
このときは『三国志集解』を見ずにやった。
今回は、『三国志集解』をつかい、補足&整理する版です。
曹操のため、廬江の劉勲、江夏の黄祖を攻める
建安四年(199)6月、袁術が死んだ。長史の楊弘・大将の張勲は、衆をつれて孫策を頼ろうとした。だが、廬江太守の劉勲は、楊弘・張勲をとらえた。孫策は、劉勲に上繚の宗民を討とうと勧め、劉勲の本拠地を乗っ取った。劉勲は、曹操をたよる。
劉勲のことは、武帝紀の建安四年にある。「魏志」劉曄伝はいう。劉勲は江淮につよく、孫策は劉勲をにくんだ。
武帝紀11) 袁術の死、徐州の地勢
「劉曄伝」:『三国志集解』を横目に、陳寿と裴注の違いをぶつける
孫策にやぶれた劉勲が、曹操を頼ったのは、なぜか。劉曄がみちびき、曹操のもとに連れて行ったらしい。劉曄は、魯粛に「鄭宝いいよ」と推薦するなど、揚州を平定できる君主を探していたみたいだ。孫策は、揚州を平定できる人材に見えなかったらしい。
袁術の死後の主導権争いは、『江表伝』を見なければならない。
孫策は詔勅をもらう。「司空の曹操・衛将軍の董承・益州牧の劉璋とともに、袁術・劉表を討て」と。軍を進めようとしたとき(実は何もしてない)袁術が死んだ。
袁術の従弟の袁胤・女婿の黄猗は、曹操を畏懼して、あえて寿春を守らず、袁術の棺柩と妻子・部曲をともない、皖城の劉勲を頼った。劉勲は糧食が少ないので、従弟の劉偕を、豫章太守の華歆に送り、糧食を求めた。華歆のところ(南昌)も糧食がない。華歆は部下の吏に、劉偕を海昏・上繚に連れてゆかせ、宗帥らに三万石の米を求めた。劉偕は月をまたいで(宗帥らと交渉して)数千石を得られそう。劉偕はこれを従兄の劉勲につたえ、劉勲に襲い取らせようとした。
劉勲は、海昏の邑下に軍を潜ませた。宗帥はこれを知り、備蓄を隠してしまったから、劉勲は何も得られなかった。
ときに孫策は、西のかた黄祖を討つ。孫策が石城に及ぶと、劉勲みずから海昏に向かっていると聞いた。
孫策は、従兄の孫賁・孫輔に8千人で彭沢において劉勲を待ち伏せさせた。孫策は周瑜とともに、2万人で皖城を破って、袁術の百工・鼓吹、部曲3万人と、袁術・劉勲の妻子をとらえた。
孫策は、袁術集団の遺産(ヒトもモノも)を手に入れたい。劉勲が最初の撃破の目標である。つぎに曹操の命令に従って、黄祖を撃った。孫策にとって、勢力拡大の余地があるのは西だけだから、自己の利害とも一致して、黄祖を撃っている。曹操と孫策は、①献帝の権威を認め(袁術の権威を認めず)、②劉表を敵と見なし、③姻戚関係になっているため、公私にわたって、本音と建て前にわたって、協調的な軍閥同士である。
孫策は上表して、汝南の李術を廬江太守として、3千人で皖城を守らせ、ここで得た人口は呉に行かせた。
孫賁・孫輔は、彭沢で劉勲を破った。劉勲は逃げて楚江に入り、尋陽から歩いて置馬亭にゆく。孫策に皖城を奪われたと聞き、西塞山に投じた。
劉勲は沂水に至り、塁を築いて自守し、劉表に告げて、黄祖に救いを求めた。黄祖は、子の黄射に水軍5千をつけて劉勲を救う。孫策は劉勲を破り、劉勲・劉偕は曹操をたよる。黄射はにげる。孫策は、劉勲の兵2千余と、船1千を得た。
孫策は、江夏で黄祖を攻めた。ときに劉表は、従子の劉虎・南陽の韓晞に長矛兵5千をつけ、黄祖の先鋒とした。孫策はこれをおおいに破った。
袁術が荊州にいたとき、劉表と戦った。孫堅が戦死したのは、劉表のせい。もちろん知ってる。しかしこれは、191年とかの話。以後、変化する。
袁術が皇帝を称したころ。劉表は張繍をつかい、曹操を攻撃した。曹昂を殺した。袁術も陳国へ出陣した。「献帝を奉戴する曹操」を支持しないという点で、利害が一致している。袁術が皇帝に即位したのは、曹操が曹昂と典韋を失ったタイミングだ。袁術と劉表は、横目で連携していたのかも。いま、袁術の遺族をかかえる劉勲を、劉表の江夏太守は、そばに置いた。「劉表は、袁術の遺族を保護した」とも言える。孫策が、劉勲と黄祖をセットで攻撃した点から、劉勲と黄祖のつながりが伺える。
これだけじゃ、弱い。もうひとつ!
197年ごろ、袁術の豫章太守・諸葛玄が死んだとき。諸葛亮は、荊州にのがれた。袁術が任じた太守の遺族を、劉表は引き取った。191年と同じく、袁術と劉表が、ずっと対立してたら、諸葛亮を拒否りそうなものだ。以上、推測を楽しみました。
さらに展望を。
劉勲は袁術の遺族をひきいる。孫策は、袁術の遺族を攻撃して、曹操の味方をする。孫策が袁術に敵対したとしたら、袁術の死後だろう。「孫策に仕えないが、孫権に仕えた」という人が多い。袁術-劉勲-(孫策)-孫権という、いびつな揚州の継承と、関係があるのかも。袁術の死後の孫策だけ、順当でない。敵対的な継承である。袁術が死んでから、孫策は敵を増やしまくった。となると。孫権政権(というか孫呉の王朝)の性格とか、赤壁開戦の経緯とか、これらの問題に飛び火する!ぴー。
孫策が置いた廬江太守の李術は、孫権には叛乱する。孫策-孫権の継承は、兄弟の間だけど、敵対的な継承だったのかも。方針が変わったのかも。
『呉録』は孫策から献帝への上表を載せる。「建安四年(199)12月8日、沙羨で黄祖を攻めた。12月11日、周瑜、呂範、程普、孫権、韓当、黄蓋らと、黄祖を破った」と。
「曹操のために、がんばったよ」という報告のための上表。
官渡や許都でなく、広陵の陳氏を攻めて死去
吳曆曰:曹公聞策平定江南,意甚難之,常呼「猘兒難與爭鋒也」。
乃以弟女配策小弟匡,又為子章取賁女,皆禮辟策弟權、翊,又命揚州刺史嚴象舉權茂才。建安五年,曹公與袁紹相拒於官渡,策陰欲襲許,迎漢帝,未發,會為故吳郡太守許貢客所殺。先是,策殺貢,貢小子與客亡匿江邊。策單騎出,卒與客遇,客擊傷策。
袁紹がつよい。孫策が江東をおさえた。『呉歴』はいう。曹操は、孫策と衝突したくない。曹操は、孫氏と婚姻した。曹操は、揚州刺史の厳象に命じて、孫権を茂才にあげた。
孫策は、漢帝を迎えるため、許都を襲いたい。発する前に、もと呉郡太守・許貢の食客に殺された。単騎のとき、襲撃された。
ちくま訳の孫策伝は、本文と注釈が13ページ離れている場所がある。こりゃ、全体像がわからないわけだ。誰が悪いって、陳寿が関係する史料を、はぶきすぎたのだ。孫策の動き、よほど孫呉に都合が悪いのかなあ。史料はおおいのに、陳寿は異常に簡潔だ。孫策の最期だって、ただの犬死だろうね。
岱字孔文,吳郡人也。受性聰達,輕財貴義。其友士拔奇,取於未顯,所友八人,皆世之英偉也。太守盛憲以為上計,舉孝廉。許貢來領郡,岱將憲避難於許昭家,求救於陶謙。謙未即救,岱憔悴泣血,水漿不入口。謙感其忠壯,有申包胥之義,許為出軍,以書與貢。岱得謙書以還,而貢已囚其母。吳人大小皆為危竦,以貢宿忿,往必見害。岱言在君則為君,且母在牢獄,期於當往,若得入見,事自當解。遂通書自白,貢即與相見。才辭敏捷,好自陳謝,貢登時出其母。岱將見貢,語友人張允、沈昬令豫具船,以貢必悔,當追逐之。出便將母乘船易道而逃。貢須臾遣人追之,令追者若及於船,江上便殺之,已過則止。使與岱錯道,遂免。被誅時,年三十餘。
『呉録』はいう。孫策は、高岱を殺した。不興を買った。
『江表伝』はいう。広陵太守の陳登は、射陽(広陵)にいる。陳登は、陳瑀の従兄の子だ。陳登は、孫策にやぶれた陳瑀の仇討をしたい。孫策は丹徒(呉郡)にきた。孫策は狩猟をして、殺された。
袁紹伝はいう。建安五年(200)、黎陽にきた。孫策は、同じ歳の4月に殺された。孫策が「曹操と袁紹が対峙するので、出陣してきた」は、誤りである。陳登を攻めたのが正解だ。裴松之は上記『江表伝』にくわえ、『九州春秋』、孫盛『異同評』を見たあと、孫策が陳登を目標にしたという。原文は、はぶく。
ぼくも、それでいいと思う。孫策は曹操のために、長江をさかのぼり、西へ劉勲と黄祖を攻めた。本拠地の江東を、徐州の広陵からおりてきた陳氏に脅かされた。孫策は、江東を取り戻すため、呉郡につっこみ、そこで死んだ。スジがとおるなあ。
孫策は、キズがひどい。張昭に孫権を託した。
孫策は26歳で死んだ。孫権が皇帝となると、孫策を長沙桓王とする。孫晧のとき、孫策の孫が即位するとウワサされた。殺された。
ぼくは思う。孫策は袁術の部将をつらぬいた。袁術の死後、曹操にしたがった。孫策は、曹操の部将として死んだ。末期の孫策の態度に同調できない人が、孫権の朝廷をつくる。魯粛、諸葛瑾など、「孫策に仕えないが、孫権に仕えた士大夫」らである。彼らは、失敗した袁術から離脱したが、「江南で独立する」着想は、袁術を継承する。これを言い直すと、
前半の孫権のもとには、2種類の人がいた。①孫策を支え、曹操に従いたい人たちと、②孫権から参入し、曹操に従わない人たち。二者の対立が、どう転がるか。孫権伝に宿題を残して、孫策伝はおしまい。100412