04) 許都を目指さず、遺言せず
孫策は袁術に、絶縁状を突きつけていない。
この仮説を証明します。
孫策は、許都に遠征しようとしない
建安五年,曹公與袁紹相拒於官渡,策陰欲襲許,迎漢帝,密治兵,部署諸將.
孫策の雄大な志を謳う、カッコいい一文。
英雄の最後に、もっともふさわいい。
だが、先人が勘づいているように、許都を攻めるのは、あまりに無茶ではないか。成功の可能性が低すぎる。
どこで読んだか忘れましたが、じつは孫策は、徐州を攻めるつもりだった、という人がいます。戦略的には現実味を帯びるが、作戦の前後関係が、よく分からん。
劉勲を西に駆逐して、なぜいきなり、北に向かうんだ?
ぼくは孫策の北伐は、なかったと思う。
その証拠に、陳寿の本文は、
未發,會為故吳郡太守許貢客所殺.
と続きます。
「いまだ発せざるに」ですよ。また出ました。未遂の記述。
孫策は、許都を目指したのか?
この問いの、肯定の裏づけを取ることも、否定の裏づけを取ることもできない。史料読みを泣かせる、実にセコい書き方です。
死の間際に孫策が、何らかの外征の準備をしていたのは、本当だろう。孫策のやることは、外征しかない。その道すがら、殺されたのだ。
じゃあ、
なぜ未遂の外征の行く先が、許都でなければならなかったか。
注目したいのが「迎漢帝」の3文字だ。
韋昭『呉書』と陳寿では、孫策は後漢の忠臣でなければならない。これで孫策の登場シーンが終わってしまうのに、一度も後漢のために働いていないのは、非常に都合が悪い。
孫策は袁術にベッタリで、いまだ後漢に接点なし。忠臣キャラを挽回せよ!と、歴史家が孫策を急かしているのだ。
こういう歴史家のニーズにより、孫策は許都まで「献帝の救い出そうとしたんだよ」と脚色された。
文書の体裁が整えば、よいのだ。許都を攻める具体的な戦術とか、しち面倒くさい兵站とか、許都を奪ったあとの統治法だとか、いずれも存在するわけがない。軍事ファンが考察するのは滑稽だ。
孫権への遺言は、王朝の都合で創作された
孫策を襲ったのは、許貢の食客。らしい。
下手人について、ぼくは論じる準備がありません。曹操が孫策を暗殺したという説に対しても、何とも言えません。
曹操が袁紹に対抗するパワーの源泉は、献帝の正統性のみだ。もし孫策が、献帝の正統を揺らがせるなら、邪魔だ。でも、殺すほどかなあ。
孫策は、袁術の後継争いに勝ち残れず、死んだのかも。
孫策はひどい傷を受けたが、死なない。
創甚,請張昭等謂曰:「中國方亂,夫以吳、越之衆,三江之固,足以觀成敗.公等善相吾弟!」
呼權佩以印綬,謂曰:
「舉江東之衆,決機於兩陳之間,與天下爭衡,卿不如我;舉賢任能,各盡其心,以保江東,我不知卿.」至夜卒,時年二十六.
ぼくは驚きます。
暗殺されかかったのに、よく喋れるなあ。
孫策の遺言は、じつに美しい。美しいゆえに、ぼくは作り事だと思う。
張昭と孫権は、美しい遺言などなくても、独力でがんばったはずだ。
孫策の遺言を、検証します。
張昭への遺言は、文人なら、誰でも書ける。無視してよし。
孫権への遺言は、孫呉王朝の正統を示すために、捏造されたくさい。
孫権は、孫策の子を押しのけて、初代皇帝になった。即位の経緯に、少しでも後ろ暗さが残ってはいけない。
だから、孫策にベラベラ喋ってもらう必要があった。死を先延ばししてもらった。大雑把に訳すと、
「天下を争うなら、お前はオレに及ばない。賢者を用い、領土を保つなら、オレはお前に及ばない」
有名なセリフだ。孫策は、弟の孫権に君統をゆずることに、はなはだウェルカムだったように書かれている。
内容は、のちの孫権の治世の結果を知った人が、書いたようだ。孫策が遺言したとおりに、歴史が動いた。孫権万歳であり、綺麗すぎる。
もうひとつ、遺言について。
孫策のコメントは、孫権が天下統一できないことを、弁護したような雰囲気もある。
こういうニーズから、孫策に言い訳させた。
「孫権の帝王の資質は、外征に発揮されない。孫権が天下統一できなくても、想定の範囲内である。決して孫権の正統性を、疑ってはいけないよ」
なあんてね。
歴史家にとり、孫策は便利だ。活躍期間が短く、キャラが見えにくいから、粉飾しやすい。ひどい暴君に描かれるのも、活躍時期が短い人物。項羽とか董卓とか、長い眼で見れば曹操とか。孫策は暴君にはされなかったが、「可能性」はありました。
おわりに:孫権は、曹操に従って再出発した
孫策が死に、孫権が立った。
孫権が当主たる裏づけは、曹操&献帝からの援助。
先代の孫策は、漢室を否定して、袁術に従った。新王朝の樹立は、ハイリスク、ハイリターン。安定しない。暗殺された。
張昭は、孫氏の政治方針を転換させた。ただちに孫権のために、曹操から官位を取り寄せた。既存の秩序に、寄りそう方針だ。
河北制圧を終えたあと、荀彧が曹操に、天下統一の道筋を語っている。要点だけ抜けば、
「劉表を降伏させれば、統一事業は完了です」
荀彧がバカなはずはない。ドジッて見逃す人ではない。つまり208年時点で、孫権と劉璋は、曹操に臣従していたのだ。
赤壁開戦は、曹操や荀彧にとって予定外だった。だが、張昭のみならず、孫権にとっても予定外だった。
赤壁を撤退させ、曹操の天下統一を妨げたのは荀彧
降伏するつもりの孫権をだまし、赤壁開戦に導いた魯粛は、こちらを。
王朝の歴史家が伝説化した、孤高の詐欺師・魯粛伝
韋昭『呉書』の作為を暴いてきました。
結論をくり返すと、孫策は袁術に絶縁状を突きつけていない。
孫策は、袁術の部将として兵力を拡大した。袁術の即位を祝福した。献帝に色気を感じることなく、江南で勝手に力尽きた。孫権の未来を照らす遺言はなく、乱闘の中で消え去った。
世論の支持を受けず、孤軍奮闘した孫策。まるで、袁術そっくりである。袁術が「孫策のような息子がいたら、死んでもいい」と言ったが、袁術の願いは叶ったらしい。袁術ファンのぼくは、嬉しいです。100417