01) 抹殺された、赤壁の史料
荀彧について考えを深めるチャンスに恵まれたので、
その成果を書き留めます。
タイトルに書きましたとおり、
赤壁を撤退させ、曹操の天下統一を失敗させたのは荀彧である!
と証明するために、『三国志』の列伝を抄訳します。
それから、荀彧の死因についても、ぼくの仮説を書きます。
この文書で明らかにしたいこと
曹操は荀彧に頼りきりでした。
思慮なく突っ走る曹操を、荀彧はつねに引き止める立場。引き止めることが、つねに曹操を成功に導いた。曹操の中原制覇は、ぜんぶ荀彧の指導の結果だ。これは過言ではないはず。
だが荀彧は、ご存知のとおり、曹操の魏公就任に反対し、喧嘩別れして死ぬ。これは小説や単なるイメージでなく、陳寿の本文にあること。
ただぼくは、陳寿がそう書いた、と述べるのみです。
曹操と荀彧の仲たがいは、いつからか。
列伝を見ると、
赤壁から荀彧死去までの5年間、列伝に記述がない。死に際がハデなので見落としがちです。でも、ザクッと記録がない。じつに不自然。
赤壁をターニングポイントに、何かあった。列伝の沈黙は、これを示す。何があったか。荀彧の失敗があったのだと、ぼくは思う。
きっと荀彧は、
「荊州の烏林に滞陣しても、メリットが小さい。疫病はひどい。意地を張り、ムリに揚州に突っこんではいけない。いちど引きなさい。船を残し、敵に使わせるのはシャクだから、船を焼きなさい」
と曹操に言ったのだ。
結果、孫権と劉備の自立を助長してしまった。赤壁撤退がもつ、大きな歴史的意義を、荀彧は過小評価した。1年以内に曹操は合肥を攻めた。荀彧が賛成したのだろう。これで赤壁の撤退をチャラにできると、荀彧は思っていたのだろう。
だが、歴史はそうならなかった。
「史料にないもの」の推測は、シロウトにしか許されない。
曹操は荀彧に過度に依存しているから(次ページ以降で詳述)荀彧に裏切られたときの怒りも大きい。
荀彧は裏切ったのでなく、見誤っただけだ。だが曹操の目には、裏切ったと映った。まるで幼稚な反応だが、それが曹操という人だ。曹操は、荀彧の話を聞くのを辞めた。
荀彧が死んだ原因
曹操が魏公に昇るとは、赤壁で破れ、天下統一に失敗したから、已むなく進んだ道だ。石井仁氏が『魏の武帝』で述べておられる。
荀彧は魏公に賛同できないが、曹操を魏公に追いやった原因は、赤壁での、荀彧の進言ミスにもある。オモテから反対できない。ジレンマだ。
列伝のブランクを経まして。荀彧の最期の仕事は、孫権を討伐することだ。5年ぶりに任された。
曹操から見れば、「荀彧はオレより、後の時代まで生き残るやつ」だろう。5年間の暇は、曹操から荀彧への「長すぎない、適切な」罰だ。
もし荀彧が曹操の8歳上なら、5年の意味が変わる。永久に活躍の場を奪う、終身刑に等しい。だが今回は、こちらではない。
曹操の心理を、推測します。
「やはり荀彧なしでは、呉も蜀も併呑できない。かつて荀彧は、オレを中原制覇に導いた。むかしの冴えを、もう1回発揮してくれ。赤壁のミスを、自ら償うチャンスをやろう。荀彧が孫権を倒してくれたら、オレは、魏公にならなくてすむ。郡臣からオレへの風当たりは弱まるはずだ」
これを受け、荀彧の思いは、
「ええ? 今さら何を言い出すのですか?」
だったでしょう。さらに荀彧に語らせれば、
「赤壁のとき、私は確かに形勢を見誤りましたよ。でも曹操さんがヒステリーを起こさず、私の言うことを聞き続けていれば、孫権と劉備が今日のように伸張することは、絶対に防げた。もっとも大切な5年間に、私を外しちゃってさあ。
鼎立が固まる末期症状まで放置しておいて、私にどうしろと。私でもムリに決まっているでしょう」
とかね。
荀彧は、曹操のあまりの情けなさと勝手さと、天下統一するという当初の目標とのギャップに苦しみ、「憂死」した。
荀彧は、後漢の忠臣ではない
荀彧は、『後漢書』に専伝が立っている。
『後漢書』で荀彧は、曹氏の禅譲に抵抗して、後漢に殉じたという位置づけだ。顕彰するために、立伝された。
だがぼくは、ナマモノの荀彧は、違うと思う。
歴史家が、うまい具合に荀彧という素材を発掘して、お好みに料理しただけである。
荀彧が目指したのは、天下の統一。統一できれば、曹操は魏公や魏王に昇る必要がなかった。後漢という秩序のもと、中国がまとまることができる。漢か魏か、という議論そのものが、生じない。
まず当時の曹操は、魏公ですらない。禅譲を連想させる手続きは、オモテに出ていない。曹丕の禅譲という結果から遡って、荀彧の胸のうちを創作してはいけない。
単純に、赤壁でミスったことを後悔した。赤壁の後、5年間も沈黙させられたことを、悔しがった。鼎立に憂い、死んだ。
荀彧が殉じたとすれば、漢室の存続にでなく、曹操と目指した天下統一の目標にである。
次回から史料に基づき、こんな荀彧像をご紹介します。