表紙 > 漢文和訳 > 「荀彧伝」:赤壁を撤退させ、曹操の天下統一を妨げたのは荀彧だ

02) 宦官の派閥、袁紹の派閥

荀彧について考えを深めるチャンスに恵まれたので、
その成果を書き留めます。
 ◆赤壁を撤退させ、曹操の天下統一を妨げたのは荀彧である。
 ◆荀彧は、全土統一という目標に殉じた。漢室に殉じていない。
これを示すために、『三国志』の列伝を抄訳します。

陳寿と裴松之の引用は、ぼくがほしいところのみ。
盧弼『三国志集解』も見ながら、こちらも好みで引用します。

荀氏は、潁川&三公の名門

荀彧字文若,潁川潁陰人也.祖父淑,字季和,朗陵令.

荀彧は、あざなを文若という。潁川郡の潁陰県の人だ。

荀彧は曹操に、潁川系の名士を呼び込んだ。『後漢書』列伝52は、荀淑、韓韶、鍾晧、陳寔。すべて潁川出身。曹操を支えた名士の、上の世代。

祖父の荀淑は、あざなを季和という。荀淑は、朗陵令。

朗陵県は、汝南郡。『三国志集解』より。
潁川郡と汝南郡は、洛陽の南西にあって、隣同士の郡です。


當漢順、桓之閒,知名當世. 有子八人,號曰八龍.彧父緄,濟南相.叔父爽,司空.

荀淑は、順帝と桓帝のとき、名を知られた。

曹操の祖父、宦官の曹騰と同時代の人。

荀淑には、8人の子がいた。「八龍」と呼ばれた。
荀淑の次男は荀緄である。荀緄は、荀彧の父だ。荀緄は、濟南相だ。
荀淑の六男は、荀爽である。荀爽は、司空だ。荀爽は、荀彧の叔父だ。

荀彧は、三公の甥です。曹操は、三公の子だけどね。笑


張璠漢紀曰:董卓秉政,復徵爽,爽欲遁去.爽起自布衣,九十五日而至三公.

張璠『漢紀』がいう。董卓が執政した。董卓は、たびたび荀爽を招いた。荀爽は、逃げようとした。荀爽は、無位無官から、95日で三公(司空)になった。

『集解』は、93日で三公になった史料を紹介。
ぼくが思うに、記録を破られたから、対抗したんだと思う。つまり、荀爽のあとに、94日でフリーターから三公になった人が出た。荀爽に勝たせるため、2日をサバ読んだとか。
94日で三公になった人を、ぼくは知らん。ダメじゃん。

どこの派閥に属しますか

彧年少時,南陽何顒異之,曰:「王佐才也.」

荀彧は若いとき、南陽郡の何顒に会った。何顒は荀彧を、特別に評価した。何顒は言った。「荀彧は、王佐の才である」

何顒は、袁紹と「奔走の友」となった人。やたら人物評をバラ撒いたのではない。袁紹の味方となりそうな若者を、スカウトしたと思う。
曹操には「天下を平定するのはキミだ」と言った。つまり袁紹のために、天下を走り回れと言った。
荀彧には「袁紹を助けるのが、キミの仕事だ」と言ったんだろう。


典略曰:中常侍唐衡欲以女妻汝南傅公明,公明不娶,轉以與彧.父緄慕衡勢,為彧娶之.彧為論者所譏.

『典略』がいう。中常侍の唐衡は、汝南郡の傅公明に、娘を嫁がせたいと思った。だが傅公明は、婚姻を断った。唐衡は傅公明をあきらめ、娘を荀彧に嫁がせた。

唐衡は、桓帝を助けて梁冀を倒した宦官。五侯。

荀彧の父・荀緄は、唐衡の権勢を味方にしたいと思った。だから結婚を認めたのだ。荀彧は、宦官の娘を娶ったから、謗られた。

臣松之案:彧婚之日,衡之沒久矣.慕勢之言為不然也.臣松之又以為緄八龍之一,將有逼而然,何云慕勢哉?

裴松之は考える。荀彧が結婚したとき、唐衡が死んで、年数が経っている。荀緄が、唐衡の権勢を味方にしたいと思うはずがない。まして荀緄は、名士「八龍」の1人だ。宦官に、ムリやり結婚させられたはずだ。荀緄が「味方にしたいと思い」と書く『典略』はおかしい。

裴松之は矛盾している。荀緄にムリ強いをしたのは誰だ。権勢のある宦官の派閥じゃないのか。唐衡その人は死んでいたとしても、荀緄に強いる派閥はあったんだ。『典略』はおかしくない。
宦官との婚姻が、荀彧が、曹操に共感した理由だと語られる。

袁紹から曹操にうつる

董卓之亂,遂棄官歸,謂父老曰:「潁川,四戰之地也,天下有變,常為兵衝,宜亟去之,無久留.」 郷人多懷土猶豫,會冀州牧同郡韓馥遣騎迎立,莫有隨者,彧獨將宗族至冀州.

董卓の乱のとき。荀彧は、官位を捨てて帰郷した。
荀彧は、父老に言った。
潁川郡は、四戰之地です。天下に事変があれば、つねに兵が衝突します。速やかに去るべきです。潁川に長く留まってはいけません」
だが父老たちは、故郷を離れたがらなかった。

河内郡の司馬朗が、同じことを言っている。司馬懿の兄です。河内郡でも、多くの人が土地にしがみ付き、死んだ。

このタイミングで、同じ潁川出身の韓馥が、騎馬で故郷の人を迎えにきた。韓馥は、冀州牧である。

韓馥は、袁氏の故吏。誘いの内容は「袁紹を頼りませんか」かな。

だが韓馥の誘いに、従う人はいなかった。

司馬朗のときも、同じ。司馬氏以外に、趙達が従った。司馬朗は、黎陽に逃げた。黎陽も冀州です。反董卓軍の混乱を避けた人が、冀州に集まったと分かる。それを結集したのが、袁紹だ。

ひとり荀彧だけ、宗族を率いて、冀州に行った。

「八龍」の他の荀氏はどこに行ったか?
『後漢書』荀淑伝を見ると、この時期、荀彧を家長と仰ぎ、従った人たちばかり。20代の荀彧が家長とは…人材難である。荀氏は軽く没落している?


而袁紹已奪馥位,待彧以上賓之禮.彧弟諶及同郡辛評、郭圖,皆為紹所任. 彧度紹終不能成大事,時太祖為奮武將軍,在東郡,初平二年,彧去紹從太祖. 太祖大悦曰:「吾之子房也.」以為司馬,時年二十九.

袁紹が韓馥から、冀州牧の位を奪った。袁紹は荀彧を、上賓之禮で待遇した。荀彧の弟・荀諶と、同じ潁川郡の辛評や郭圖は、みな袁紹の傘下に入った。
荀彧は、袁紹は大事業を成功できないと、予想した。ときに曹操は、奮武將軍として、東郡にいた。初平二年(191年)荀彧は、袁紹を去り、曹操に従った。
曹操は、大いに悦んだ。「荀彧は、わが子房である」と。

なぜ曹操は、光武帝の故事を引かないか。わざわざ遠い高祖の話か。
権威づけられた『後漢書』が未完成だからだと思う。後漢のとき『漢書』は、文章のお手本として尊敬された。光武帝は現代史で、教科書が整わない。
…なんて推測しましたが、どうでしょう。笑

荀彧は、奮武将軍の司馬になった。このとき29歳。

怪しげな官職の、さらにその司馬とは…。
荀彧は、なぜ袁紹を去ったか。ライバルが多すぎて、自分の発言力が小さいと思ったからだろう。列伝にある「不能成大事」なんて、何も言っていないに等しい。
荀氏は、見劣りする。いちど三公を出したが、いま20代の荀彧が家長。宦官の娘を娶った。多士済々の袁紹の下で、芽が出るとは思えない。


次回から、曹操が荀彧を頼りまくります。