表紙 > 漢文和訳 > 「荀彧伝」:赤壁を撤退させ、曹操の天下統一を妨げたのは荀彧だ

05) 河北平定は、荀氏だけの功

荀彧について考えを深めるチャンスに恵まれたので、
その成果を書き留めます。
 ◆赤壁を撤退させ、曹操の天下統一を妨げたのは荀彧である。
 ◆荀彧は、全土統一という目標に殉じた。漢室に殉じていない。
これを示すために、『三国志』の列伝を抄訳します。

曹操が語る、袁紹が天下統一する戦略

彧曰:「不先取呂布,河北亦未易圖也.」

荀彧は言った。
先に呂布を片付けないと、河北を狙えません」

偶然かも知れないが、荀彧はつねに呂布を最優先する。徐州よりも呂布、河北よりも呂布。「荀彧は呂布を懼れた」は、新説か?


太祖曰:「吾所惑者,又恐紹侵擾關中,亂羌、胡,南誘蜀漢,是我獨以兗、 豫抗天下六分之五也.為將奈何?」 彧曰:「關中將帥以十數,莫能相一,唯韓遂、馬超最彊.鍾繇可屬以西事. 則公無憂矣.」

曹操が言った。
「オレが心配なのは、袁紹が関中に侵入することだ。

おいの高幹は并州牧だ。袁紹はルートを確保している。

袁紹は関中で、羌族や胡族を乱す。袁紹が南で、巴蜀や漢中を味方とする。そうなるとオレは、兗州だけを持ち、天下の6分の5と対抗しなければならない。いったい、どうしたものか」

どれだけ無策なんだ。これは「戦略」でなく「悲観」だ。
ただ期せずして、袁紹の天下統一の方法を明らかにしている。曹操が袁紹の部将に徹したら、この手順を唱えたんだろう。関中から漢中へ。

荀彧が言った。
「関中には、將帥が十数人おりますが、バラバラです。ただ韓遂と馬超が、もっとも強い。鍾繇に西方のことを任せれば、曹操公は憂慮がなくなりますよ」

前ページで鍾繇は、曹操のソワソワを気にかけていた。
荀彧が鍾繇の西方行きを勧めたウラに、何かあったか?

官渡でも情けなさ過ぎる曹操

五年,與紹連戰.太祖保官渡,紹圍之.太祖軍糧方盡,書與彧,議欲還許以引紹.

建安五年(200年)曹操は、袁紹と連戦した。曹操は官渡に砦を築き、袁紹に包囲された。曹操は軍糧が尽きそうになった。曹操は、荀彧に手紙を書いた。曹操は、許に撤退して、袁紹を引きつけたいと言った。

曹操が行き当たりばったりなのは、有名。徐州の虐殺もそう。
袁紹は「河北を先に平定し、つぎに洛陽を目指し」というビジョンがある。
曹操は「優秀な人材を招いて、とにかく頑張る」としか言わない。


「今軍食雖少,未若楚、漢在滎陽、成皋閒也.是時劉、項莫肯先退,先退者勢屈也.已半年矣.必將有變,此用奇之時, 不可失也.」
太祖乃住.皆如彧所策.

荀彧は、曹操に返信した。
「食糧が少ないと言っても、楚漢戦争の滎陽や成皋ほどではありません。楚漢戦争のとき、劉邦と項羽は、先に撤退することを拒みました。先に撤退すれば、敵に屈することになるからです。曹操公が官渡で滞陣して、半年です。今にも形勢が動くでしょう。奇策を用いるタイミングを、逃してはいけません」
曹操は官渡に留まった。みな荀彧の言うとおりになった。

曹操の主要な作戦は、すべて荀彧の言いなり。

劉表と袁紹は、どちらが先か

六年,糧少,不足與河北相支,太祖欲因紹新破,以其閒擊討劉表.
彧曰:「今紹敗,其衆離心,遂定之;而背兗、豫,遠師江、漢,若紹收其餘燼, 承虛以出人後,則公事去矣.」

建安六年(201年)食糧の供給が続かないので、曹操は、河北平定ができないと思った。曹操は、河北の食糧が回復するまでの間に、劉表を討ちたいと考えた。

曹操は、まだ袁紹が怖いのでしょう。

荀彧は言った。
「袁紹は官渡で破れ、人々の心が離れています。袁紹を平定すべきです。もし兗州と豫州に背を向け、長江や漢水に軍を出せば(劉表を攻めれば)どうなるか。袁紹は復活して、曹操公の本拠地を奪うでしょう」

また荀彧は、曹操の意見をくつがえした。攻める順番を決めるのは、荀彧である。これで勝ってしまうのが、荀彧のすごいところ。


八年,太祖錄彧前後功,表封彧為萬歲亭侯.

建安八年(203年)曹操は、荀彧のこれまでの功績を理由に、荀彧を萬歲亭侯にするよう上表した。

天下統一について語り、孫権を見逃す

九年,太祖拔鄴,領冀州牧.或說太祖「宜復古置九州,則冀州所制者廣大,天下服矣.」 太祖將從之.

建安九年(204年)曹操は、鄴を陥落させた。曹操は、冀州牧を領した。ある人が、曹操に説いた。
「古代の九州制に戻しましょう。冀州の領域が、広大になります。天下は、冀州牧の曹操公に、屈服するに違いありません」
曹操は「それは、いい考えだ」と、認めようとした。

いつだって軽率に流れそうになる、曹操です。
荀彧伝は、一問一答の掛け合いのようです。陳寿が意識したのか?


彧言曰:「若是,則冀州當得河東、馮翊、扶風、西河、幽、并之地, 所奪者衆.必人人自恐不得保其土地,守其兵衆也. 且人多說關右諸將以閉關之計;一旦生變,則袁尚得寬其死,而袁譚懷貳,劉表遂保江、漢之間, 天下未易圖也.

荀彧が、曹操に言った。
「もし九州制に戻せば、冀州は、河東、馮翊、扶風、西河を吸収します。幽州や并州でも、領地を奪われる人が、多く発生します。領地を奪われる人は、兵を集めて曹操公に対抗するでしょう。関中の諸将は、函谷関を閉じます。いちど事変が始まれば、袁尚は生き延び、袁譚は曹操公に二心を抱きます。

袁譚の長男・袁譚は、曹操に降伏している。

劉表は、長江と漢水のあたりを保ちます。天下統一が遠ざかります」

荀彧は、孫権をライバルに見なしていない。
それが分かるセリフです。のちに、致命的な失敗に繋がります。。


「願公急引兵先定河北,然後修復舊京,南臨荊州,責貢之不入, 則天下咸知公意,人人自安.天下大定,乃議古制,此社稷長久之利也.」
太祖遂寢九州議.

荀彧は言った。
「曹操公は、急いで河北を平定して下さい。つぎに洛陽を修復して下さい。南の荊州の劉表は、入貢しないことを責めなさい。劉表は、曹操公に同調します。天下は統一されるでしょう。九州制の議論は、その次にやりなさい。この手順が、社稷の長久之利です」

天下統一を語る荀彧。諸葛亮の隆中対に比してもいい。

曹操は、九州制の議論を寝かせた。

荀氏の最盛期は、河北平定のとき

是時荀攸常為謀主.彧兄衍以監軍校尉守鄴,都督河北事.太祖之征袁尚也, 高幹密遣兵謀襲鄴,衍逆覺,盡誅之,以功封列侯.太祖以女妻彧長子惲,後稱安陽公主. 十二年,復增彧邑千戶,合二千戶.

このとき荀攸は、曹操の参謀トップだ。荀彧の兄・荀衍は、監軍校尉として鄴を守った。荀衍は、河北の政治を都督した。
曹操が袁尚を征伐したとき、高幹がひそかに鄴を襲った。荀衍は、高幹軍の襲撃を覚り、返り討ちにした。荀衍は、列侯に封じられた。

ぼくは知らなかったが、輝かしい功績です。かなり!

曹操は娘を、荀彧の長男・荀惲の妻にした。妻は、のちに安陽公主と呼ばれた。
建安十二年、荀彧は食邑が千戸から二千戸に増えた。(つぎ最終回)