表紙 > 漢文和訳 > 「荀彧伝」:赤壁を撤退させ、曹操の天下統一を妨げたのは荀彧だ

06) 荀彧は、なぜ魏公に反対か

荀彧について考えを深めるチャンスに恵まれたので、
その成果を書き留めます。
 ◆赤壁を撤退させ、曹操の天下統一を妨げたのは荀彧である。
 ◆荀彧は、全土統一という目標に殉じた。漢室に殉じていない。
これを示すために、『三国志』の列伝を抄訳します。

荊州征伐は、王者の戦いの最終仕上げ

太祖將伐劉表,問彧策安出,彧曰:「今華夏已平,南土知困矣.可顯出宛、葉而閒行輕進, 以掩其不意.」

曹操は、劉表を討伐しようとした。曹操は荀彧に、どんなルートで攻めるか問うた。荀彧は答えた。

蜜月です。何をやるにも、荀彧の意見を聞いてから。

「曹操公は、中原を平定されました。南方は、プレッシャーを感じています。宛城や葉県を、堂々と軽騎で進みなさい。劉表の抵抗心を、叩きのめしなさい」

原文は「あらわに出でて、不意をおおうべし」である。
劉表は困憊している。曹操が大っぴらに進軍し、劉表の不意を飲み込めと。「不意」とは、意ならずも曹操に従っていない、という劉表の心。天下統一を間近にした荀彧が、中華思想でアレンジして、劉表の心を表現している。楚の蛮族を教化してやろう、と。笑
ちくま訳は「公然と進み、その一方で劉表の不意をつけ」とある。公然と進むのと、不意をつくのが、矛盾する。だから、ちくまは、「その一方で」という、原文にない言葉が勝手に足されている。不自然である。誤訳?


太祖遂行.會表病死,太祖直趨宛、葉如彧計,表子琮以州逆降.

曹操は、荊州に進軍した。たまたま劉表が病死した。
曹操は荀彧の計どおり、宛城や葉県に急行した。劉表の子・劉琮は、荊州ごと曹操に降伏した。

ちくまは「不意をつく」という。劉琮に降伏されたから、曹操の進軍はバレている。ちくまの解釈では、曹操は、荀彧の計略を失敗したことになる。
ちがう。タイミング良く、すばやく明白に圧迫したから、劉琮が自発的に降伏したのだ。そうでないと「如彧計」じゃない。

史料から抹殺された、赤壁の戦い

列伝はつぎの行で、5年後の建安十七年に飛ぶ。
直前まで、曹操が1つ行動を起こすごとに、荀彧に伺いを立てた。列伝が濃密だ。それなのに、いきなり5年もブランクである。不自然すぎる。
以下は、ぼくの妄想です。

荀彧は劉琮を降したあとも、曹操の作戦を担当した。
曹操は烏林で滞陣した。疫病が流行った。荀彧に、撤退を相談した。
荀彧は、こう言ったのかも知れない。
「孫権を無視しても構いません。天下統一には、無関係の小軍閥です。疫病で兵を失う前に、撤退してください」
荀彧は思ったかも知れない。
曹操公は軽率です。今回は荊州に飽き足らず、揚州に突っこむ予定だったかも知れませんね。ダメです。頭を冷やしなさい」

荀彧の進言は、いつもブレーキとハンドルである。アクセルになることはない。烏林の曹操に手紙を送るなら、こんなだっただろう。


曹操は荀彧に従って、撤退した。荀彧のおかげで、赤壁の被害は軽微。
荀彧は言った。
「孫権は、烏林の戦役で動揺しています。合肥にプレッシャーを与えれば、孫権はさっさと降伏するでしょう。1年遅れましたが、曹操公の天下統一は完成です」
だが孫権が降らない。曹操は荀彧を疎んじた。荀彧は、いちども計略を誤ったことがない。曹操は、荀彧を信仰すらした。荀彧が、初めて間違えた。曹操は軽率なので、ひどく荀彧を疎んじた。

道づれなのでしょうか。荀攸の列伝も、赤壁でパタリと沈黙する。赤壁で曹操を誤らせた当事者じゃないから、荀攸への風当たりは甘い。だが以後、荀攸も軍事を担当しない。魏の高官となっていく。

曹操の荀彧への依存ぶりを確認するため、長らく列伝を抄訳してきました。列伝の5年のブランクを怪しむためだけに、ここまで来ました。いきなり5年が空白。ギャップに驚いていただけましたら、成功です。

荀彧の死は、漢室と関係ない

十七年,董昭等謂太祖宜進爵國公,九錫備物,以彰殊勳,密以諮彧.彧以為太祖本興義兵以匡朝寧國,秉忠貞之誠,守退讓之實;君子愛人以德,不宜如此.太祖由是心不能平.

建安十七年、董昭らは、曹操を魏公に進め、曹操に九錫を授けようと考えた。ひそかに董昭は、荀彧に相談した。荀彧は反対した。
「曹操公は、漢室を正すために兵を興したのですよ。曹操公は、忠貞之誠をとり、退讓之實を守ります。君子は、仁徳によって、人を愛します。魏公に昇ることは、いけません」

荀彧の一生を見るに、漢室への忠義は、メインテーマではない。それより作戦参謀として、曹操を諭し導くことが、荀彧の本領である。
荀彧が董昭に言ったことを、先入観を抜いて読み直してください。
荀彧は、曹操の人間としてのあり方に、心を砕いている。「曹操は、高位に就いて、驕ってはいけない」と。これが反対の理由だ。
更迭から5年経ったが、荀彧が、曹操を教育するスタンスは変わらない。8つも歳下だけど、性格は荀彧が大人だ。
たしかに魏公就任は、曹丕が禅譲を受けるステップになった。だがこの時点で、禅譲なんて、まるで見えていないことだ。

曹操は、心が平穏でいられない。

「曹王朝に荀彧が反対したから、穏やかでない」
では、ないはずだ。荀彧伝で曹操は、行き当たりばったりで、悲観しがちだ。曹操は、自分のやることを荀彧に叱られたから、ソワソワしたのでは?


會征孫權,表請彧勞軍于譙,因輒留彧,以侍中光祿大夫持節,參丞相軍事.太祖軍至濡須, 彧疾留壽春,以憂薨,時年五十.諡曰敬侯.明年,太祖遂為魏公矣.

曹操は、孫権を征伐しようとした。荀彧に譙県で軍をねぎらわせ、荀彧を譙県に留めた。荀彧を、侍中・光祿大夫持節・參丞相軍事とした。

曹操はふたたび、荀彧を後方に置いて、作戦を練らせようとしている。赤壁の落とし前を、自分で付けてくれ、という意図か。曹操のやり方は、まるで、ドラえもんへの丸投げである。
曹操が、魏公に反対した荀彧を疎んじていたら、ナンバー2とも言うべき職位を、荀彧に与えるだろうか。違うよなあ。

曹操は、濡須に到った。荀彧は病気のため、寿春に留まった。荀彧は死んだ。50歳だった。敬侯と諡られた。翌年、曹操は魏公となった。

列伝の最後の1文が、荀彧の死の意味を象徴する。文学作品として見たとき、感動のクライマックスである。
だが上手すぎて、荀彧のイメージを歪める。荀彧は漢室に殉じたと、、


魏氏春秋曰:太祖饋彧食,發之乃空器也,於是飲藥而卒.咸熙二年,贈彧太尉.

魏氏春秋がいう。
曹操は、荀彧に食品を贈った。荀彧が開封すると、カラだった。荀彧は、薬を飲んで死んだ。

「饋」は、食品を贈ること。ムダに難しい。
「於是」の2字がニクい。空箱と自殺に、因果関係を匂わせている。
原文は「薬」とあるが、ちくまは「毒薬」だ。改竄してある。笑

咸熙二年(265年)荀彧は、太尉を贈られた。

魏の末年である。実質、司馬氏が王朝を仕切る。
魏代が終わるころには「荀彧は、魏の敵」というイメージが、定着していたようです。魏の敵だから、晋の味方だと見なされ、名誉を加えられた?


荀彧、終わりです。ありがとうございました。100414