01) 周瑜に、救われた魯粛
この文章で解き明かしたいこと:
●名門の周瑜は、孫策と魯粛を同じように援助して、勢力拡大した
●魯粛は死ぬまで孫権と意見が合わず、煙たがられた
赤壁は、魯粛が起こした詐欺事件である
●魯粛は劉備に、荊州を貸していない
魯粛は劉備を、傭兵として利用することに執着した
●魯粛は死後に、孫呉王朝の歴史家の都合で、英雄に化けた
お人よしでも、戦略家でもない。
商人が本領で、ときどき詐欺師めいたことをする、魯粛を描きます。
なぜ魯粛は、母と別居したか
魯粛の家族歴は、あまり幸福ではない。
生まれてすぐに父が死んだ。
『呉書見聞』という、孫呉に関して勉強になるサイトがあります。http://f27.aaa.livedoor.jp/~sonpoko/
曰く、父親の名前が分からないのは、魯粛が下賤の身分の出身者だから。同様に父の名が分からないのが、孫堅だ、と。確かに!
父を失くした魯粛は、祖母と一緒に住んだ。「魯粛伝」の冒頭だけ読み、ぼくは疑問に思った。
「母親はどこいったんだ? すでに故人?」
しかし魯粛の母は、死んでいない。後で出てくる。
なぜ一緒に住んでいないか。魯粛の父母が離婚したから? なんて思ったが、これは下衆の勘ぐりでしかない。史料的根拠がない。
魯粛は母親を隠して、避難させていたんだと思う。
魯粛の周囲は、危険に満ちていた。魯粛は、男伊達に物品をバラ撒き、人望を得ていた。羽振りがいい人は、敵を作る。家族が、いつ敵対勢力に狙われてもおかしくない。
でも、魯氏は財に富んだと、陳寿が書いている。子供を親戚に預けて、お仕事に勤しむシングルマザーと、同じではない。
「ああ、お母さんに安心して暮らしてもらいたいなあ」
この魯粛のニーズを汲み取り、魯粛が差し出した穀物倉のお返しに、魯粛の母親を保護したのが、周瑜です。周瑜は、そういう男です。
魯粛の投資は、起死回生の願い
周瑜は魯粛を訪れて、親交を結んだ。魯粛が穀物倉を差し出して、周瑜と仲良くなった。陳寿が記したことだ。
「僑札の分を定めた」
とある。子産と季札の故事を踏まえた表現だ。
周瑜と魯粛は、互いに入れ込んだ。
後で書くが、周瑜は袁術と対抗するため、味方を探していた。
このとき、
魯粛は、ジリ貧だっただろう。情勢の移ろう徐州の南で、身の振り方に窮していた。
「自衛のために、故郷の若者を味方にした。軍事訓練をした。でも、官軍の精鋭に比べたら、どうしても見劣りがする。訓練が我流だから、仕方ないけど。で、次にどうしたものか・・・」
歴史を読むとき、のちの展開をアタマから叩き出して、見るべきだ。魯粛が、全財産の半分を差し出したのは、危険すぎる大博打だ。
「ええい、全財産の半分を賭けるぜ!」
という人の、どこが冷静で、どこに余裕があるものか。
「ああ周瑜さん、よく来てくれた。これ以上遅かったら、魯氏は滅びていたよ。助けて! お願いします! この穀物倉は、私の誠意です」
みたいな感じかなあ。
魯粛は気取った態度を取っただろうが、内情はこうだっただろう。
そういう意味では、切羽詰ったときに守りに入らず、賭けに出られた魯粛はすごかった。
裴注『呉書』曰く、魯粛は徐州を「遺種の地」ではないと考えた。ちくま訳では原文が消えていますが、子孫を残せない土地という意味。
「狂児」と言われようとも、ママゴトに武装せざるを得ないほど、魯粛は危機感を持っていました。徐州で暮らしているだけでも、不安でした。
周瑜から、魯粛への見返り
これはぼくの想像ですが、周瑜は穀物倉をもらったお返しに、魯粛の母を引き取ったんじゃないかろうか。
穀物倉の話は、魯粛が一方的に投資をした美談のようになっている。だが、全力で周瑜を頼った魯粛は、何らかの確約を求めたはずだ。
「投資が無駄になったら、周瑜と刺し違えて死ぬ!」
というほど、魯粛は切迫していたかも知れない。
魯粛は、口に出してホシイホシイと言わなかっただろうが、周瑜はその場で「証書を発行」したはずだ。
「あなたの母親の、安全を保障しましょう。魯粛さん、家族に気兼ねせずに、存分に雄飛しなさい」
母親コレクター:周瑜
周瑜は、母親コレクターである。
将来が有望な人の母親を引き取って、味方につけるという作戦を好んだ。魯粛も、ワンオブゼムでしょう。
なぜ、こんなことを言うか。他に有名な例があるから。
周瑜は、孫堅が董卓を討つために出陣したとき、孫策とその母を引き取って、舒で屋敷を与えた。
周瑜は、名族だ。従祖父とその子が、後漢で三公になった。乱世のシェルターを持っていた。そのシェルターに、身分の低い有能者の家族を囲い込み、援助したんじゃないか。
どちらも商業取引で儲けた、新興豪族だろう。
次回、魯粛が袁術を見限ります。