表紙 > 人物伝 > 王朝の歴史家が伝説化した、孤高の詐欺師・魯粛伝

03) パトロン・周瑜の影響力

魯粛が孫権に仕えることに、まだ妨害が入ります。

袁術の兵に、捨て台詞する

裴注『呉書』より。
魯粛は、男女300余人を連れて、南下を開始した。魯粛を、袁術の騎馬が追ってきた。
さて袁術軍は、魯粛という人材を惜しんだのか、人口の流出を嫌ったのか。おそらく後者だと思う。
天下を治めるのは、希少価値のある資源を手に入れた群雄だ。後漢末にもっとも不足したのは、人口です。袁術は、州の境界を守る役人に、人口の流出を取り締まらせていたんだ。さすが、的を射た政策だ。

魯粛は、役人に言った。
「袁術は、功績があっても賞与がなく、犯罪をしても刑罰がない。どうしてキミらは、袁術のために働いているのかね」
がーん!
権力の本質を突いた指摘です。
『韓非子』は君主が権力を保つために、賞罰の権利だけは必ず握っておけ、と言っている。賞罰こそ、権力の源泉。
現代の会社で、人事権のある上司や部署が強いのと、同じです。逆に、いくら人事部を名乗っても、人事権がなければ、ただの雑用係だと蔑まれることに通じます。

なんか今、余計なことを書いた気がします。。


前頁で見たように、袁術は官位を撒き、のちに皇帝を名乗るという冒険までして、バンク・オブ・袁術が発行した貨幣の価値を、高めようとした。それを魯粛が、全否定した。
魯粛は商人だから、袁術が大暴落することを、見抜いていたのでしょう。この点は、さすが。

魯粛は、袁術の役人の目の前で、弓術を披露した。魯粛がうまく的を射たから、袁術の役人は引き下がった。
的を射た袁術の政策は、実現されなかった。つまらん・・・

劉曄は、曹操の手下ではない

魯粛が、故郷の徐州から揚州に渡ろうとしたとき、劉曄が魯粛に手紙を書いた。

劉曄の手紙は、袁術の差し金ではない。友情の表れ。

「急いで徐州に戻って、老母を迎え、徐州に留まりなさい」
魯粛は、母親を連れて、中原に帰ろうとした。

劉曄が、同郷の友・魯粛に言ったのは、
「母親を周瑜から取り戻せ」
ということです。 劉曄が魯粛を引きとめたタイミングは、不明。漢文は、時制に無頓着なので、こういうとき困ります。
ぼくは、劉曄が曹操に仕官するため、徐州を立ち去る前に、友人・魯粛に書いたのだ読みます。

劉曄の手紙は、原文で「遺した」ものだ。ちくま訳は「遣した」で読んでいるが、間違いでしょう。
漢字が似てるが「のこした」と「よこした」は違う。

だから、
「曹操の臣・劉曄が、孫権の臣を切り崩すため、魯粛を勧誘した」
という解釈は、ちくまの誤訳が招いたものだろう。『呉書見聞』も、ちくまと同じく「遣した」で読んでいましたが、違うと思う。

劉曄は手紙のなかで、「鄭宝」という人を首領に仰ごうと言っている。曹操に仕えている劉曄が、こんな三流のボスを推すのは、おかしい。
陳寿が伝えた、手紙の内容に誤りがあるのではない。手紙の時期を、劉曄が曹操に仕える前だと読めば、筋が通る。
のちに魏で手腕を発揮する劉曄ですら、マイナーな首領を推薦したほど、後漢末の徐州は、混乱していたことが分かる。鄭宝は、大した勢力に成長しなかったから、劉曄のミスである。

孫策と魯粛は、ともに周瑜に援助された

魯粛と孫策は会ったか。
ぼくは、チラッと会いはしたが、交流がなかったと思う。
2人の面会を伝えるのは、裴注『呉書』です。魯粛が長江を渡ると、孫策は魯粛を「雅奇」したらしい。
でも陳寿の本文では、魯粛が南下したとき、すでに孫策が死んでいた。会っていないことになる。

ムリに両書をつなぎ合わせて納得するなら、
魯粛は周瑜の食客(飼い犬)として、同じく周瑜の飼い犬の孫策に、チラッと会っていた。

孫堅が死に、軍閥がいちど解体した。孫策と周瑜がふたたび合流したとき、周瑜は孫策の臣下になる義理はなかった。たまたま周瑜は、孫策の武力と人望を認めたから、手を組んだだけだろうね。

周瑜の飼い犬(改め同盟者)としての孫策が、魯粛を孫氏の臣下として扱えるわけがない。
「周瑜の見込んだ魯粛という奴は、なるほど、奇抜な若者だなあ」
と、周瑜の顔を立てるため、褒めただけじゃないかな。

周瑜が、孫策と魯粛を引き合わせた台詞を想像する。
「こちらは(私が家族を援助した)孫策だ。生まれ年が同じで、無二の親友だ。こちらは(同じく私が援助している)魯粛だ。魯粛にも(孫策と同様、周氏を引き立てるための)活躍を期待しているよ」

190年代末に向け、袁術が死んだころ、「後漢の三公の家柄」という後光が色あせた。パトロンを気取っていた周瑜は、孫氏の臣下として、定着したんだと思う。

次回の「総合三国志同盟」の勉強会で、周瑜伝を読みます。臣下に定着するプロセスに着目して、原文を読もうと思います。

孫策が死に、魯粛が南下したのは、こんな時期でした。