表紙 > 人物伝 > 王朝の歴史家が伝説化した、孤高の詐欺師・魯粛伝

04) 史家が作った、ニセ孫権

魯粛が、やっと孫権に仕えました。
すれ違いが始まります。

魯粛が、天下統一を語る

孫権と魯粛は面会した。
宴会のあと、孫権はみなを帰らせたが、魯粛だけを残した。イスを交わらせて、こっそり語った。

真夜中の公園だ。恋愛の告白シーンである。

孫権曰く、
「父や兄のように、漢室を復興したいんだ」
魯粛が答えるには、
「漢室は、もうダメです。劉邦のように建国しなさい」
この話で、魯粛は比喩を使います。
 劉邦:項羽:楚の義帝
 孫権:曹操:漢の献帝
天子を差し挟んだ乱暴なやつがいるから、復興は不可能ですよ。自前で王朝を作っちゃうしか、天下を治める手はありませんよ、と。
孫権は、
私は漢室を、輔けたいんだ。魯粛の発言は却下だ」
と答えた。
孫権の真意は、どこにあるだろうか。
ぼくは、孫権の台詞は本音だと思う。孫権は、魯粛がムチャなことを言ったから、持て余したのだと思う。

孫権が魯粛に、金品を与えた理由

孫権の世話係・張昭は、
「魯粛は若いくせに傲慢だから、用いるな」
と言った。孫権は、張昭の指導が気に食わないのか、魯粛に金品を与えた。魯粛の母親にも、「擬其旧」してゼイタクをさせた。つまり、以前と同じレベルのゼイタクをさせたことになる。
ちくま訳では、富貴だった魯粛の実家と同じレベルだと解釈する。
だがぼくは、違うと思う。周瑜の家に匿われていたときと同じレベルなんだ。孫権は、周瑜に代わって、魯粛の家族の保護者になった。サービスの質を落としてはいけない。

ちくま訳だけ読むと、「実家と同じくらい、という漢字が原文にあるのかな」と思う。だが原文には、何と同じレベルだったかなんて、書いてない。原文に触れるべきなんだ。


世間のファンが思う魯粛&孫権は、こうだろう。
孫権は、張昭の批判を気に留めず、魯粛&母親を厚遇した。孫権と魯粛は、志を共有した君臣となった・・・
ちがう!
上で見たように、孫権が魯粛に金を与えたのは、周瑜から引き継いで、仕方なくだ。周瑜がせっかく拾った大粒の原石を、孫権が失ったとすれば、孫権軍の未来は暗い。魯粛の意見には、さっぱり賛同できないが、とりあえず養っただけだ。

「鶏鳴狗盗」
という故事成語があります。斉の孟嘗君は、何の役に立つか分からない、売れない芸人すら養い、人望を集めた。
孫権は魯粛を、使いどころのない暴言者だと思ったが、度量を示すために飼った。

孫権が魯粛の話を聞くとき、周りに人を置かなかったのは、魯粛の暴言を恐れたからかも。

孫権は、魯粛がうとい。
その証拠に孫権は、魯粛に公的な仕事を一切任せていない。山越を平定するとか、荊州に黄祖を討つとか、とても大事な時期なのに、魯粛は飼い殺されている。
孫権は、今回ばかりは、張昭の言いつけを快く守ったのだ。

赤壁を開戦させる

曹操が荊州を降した。ぼくたちが『演義』でイメージを持っている以上に、孫権が曹操を迎えることは、当たり前だったはずだ。
曹操は強いし、後漢の皇帝を奉っている。曹操は、孫権が抵抗すると思ってなかったし、孫権も、自分が曹操に抵抗すると思っていなかったはずだ。
赤壁を開戦させたのは、魯粛だ。

魯粛は、孫氏の会議で、降服が議論されたとき、黙っていた。
「独不言」
である。なぜ黙っていたかと言えば、発言する権利がなかったからだろう。孫権とビジョンを違え、名声も官職もない魯粛は、議題が何であろうと、黙っているしかない。
決して、作戦があるから黙ったのではない。孫権のブレーンとして、状況を見守ってたわけでもない。孤立だ。

呉の歴史家が作った、ニセ孫権

いま孫権は、揚州を平定して、得意になっていた。漢室を輔けるというのは、漠然としたお題目だ。かと言って、漢室を倒す野心もない。
「今は、力をつくすだけ」
と孫権が魯粛に言っているけど、孫権の戦略眼は、それだけ。孫権が鈍いのではなく、大抵の人間は、もっと劣るでしょう。
その状況で曹操が来たら、お迎えして当然だ。

裴注『魏書』と『九州春秋』で魯粛は、孫権に降服を勧めて、斬られそうになったとある。東晋の孫盛は、
「群臣がみな降服しろと言ったのに、魯粛だけが斬られそうになったのは、おかしい」
と指摘した。確かに、話が矛盾する。
これはぼくの妄想ですが、
魯粛は、孫権に抗戦を説いて、斬られそうになったんじゃないか。孫権が魯粛を斬るなら、むしろ理由はこちらだ。

これで『魏書』『九州春秋』を、「一片の真実を含むかも知れない記録」だと扱い、無視せず、筋道を通すことができます。

漢室を輔けたい(少なくとも漢室と敵対したくない)孫権にとって、魯粛の言は、寝耳に水だ。
「暴言癖のある食客が、また余計なことを! もし曹操に聞かれてしまったら、不忠を責められてしまうぞ」
と、孫権がキレたんだと思う。

孫権は後年、あっさり曹丕に臣従した。呉王になるのも、呉帝になるのも、遅い。孫権は、位を上り詰める野心がなかったと思う。

皇帝になった後は、野心に目覚めて性格が変わるが。

だが『呉書』を編纂する立場だと、
「初代皇帝は、曹操に反発する気がなく、帝位にも執着しない、淡白な人でした」
では、非常に困る。

孫皓は、魏晋に敵対する皇帝だったから。

だから史家は、心の中ではじつは曹操に対抗していた若き孫権を、でっち上げた。誰にも言わないけれど、魯粛と心を通わせていた、ニセ孫権が作られた。
魯粛は漢を滅ぼすつもりで、曹操を討ちたかった。だから、赤壁へと導いた。孫権はその魯粛に騙されて開戦し(後述)勝利した。結果オーライで、呉の歴史家が書き換えた。