表紙 > 人物伝 > 王朝の歴史家が伝説化した、孤高の詐欺師・魯粛伝

02) 袁術はなぜ見限られたか

前回、魯粛が周瑜に投資したのは、魯氏の滅亡を回避するため、起死回生を願ったからだと考察しました。
今回は、袁術を好意的に評価しつつ、魯粛を解明します。

周瑜が、下賤の人を集めた事情

周瑜は、孫策や魯粛の家族を保護した。
なぜ名族の周瑜は、こんな物好きをしたのか。

周瑜を理解するためには、三国時代でなく、後漢末の視点で揚州を見るべきだ。
後漢末の揚州では、袁術や周瑜みたいな、後漢の名族が、自前の勢力の確立を競った。周瑜と袁術は、ライバルである。

これは『呉書見聞』の指摘です。賛成です。

ただしぼくが見るに、四世三公&直系の袁術のほうが、二世三公&傍流の周瑜よりも、有利だった。だから周瑜は、袁術よりも、下賤の囲い込みに熱心になるしかなかった。

周瑜が、足許を見回した。
腕っ節が強いだけの孫策とか、財力だけは潤沢だが、未来が見えてしまうせいで、余計に不安になっている魯粛とかが、ウロウロしていた。
周瑜は、袁術に対抗するため、自ら足を運んで、味方につけた。
周瑜と魯粛の出会いは、この文脈で理解したい。

前頁でも書きましたが、周瑜はわざわざ遠出して、魯粛に会いに行った。のちに魯粛は、周瑜を頼るために引越しをやり、袁術の兵に追われている。
周瑜が、袁術のテリトリーまで侵入して、人材を刈り取っていたことが分かる。なぜこんな頑張るかと言えば、周瑜が袁術に劣ったからだ。袁術は、何もしなくても、ただ座っているだけで、強いのだ。

袁術サマの戦略

袁術は、魯粛を東城長に任じた。魯粛にとって、故郷の長官だから、嬉しい役名である。
ここで一句、できました (笑)

周瑜が下賤を誘うには、面会を以てし、
袁術が下賤を誘うには、官位を以てす。

袁術のやり方は、批難されることではない。
君主が官位を配ることに、原価はかからない。最小のコストで勢力を拡大することができる、最良の手段だ。

後漢の霊帝は、官位を売り、国庫を潤した。商売の天才だ。

だが官位が商品的な価値を持つのは、秩序が整っているときだけ。
誰かが、
「こんなのは、紙切れに過ぎない」
と言い出せば、まったく価値のない言葉遊びになる。銀行で取り付け騒ぎが起きるように、一斉に瓦解するリスクと、隣り合わせです。

っていうか、後漢では、紙はまだ貴重品だけど。


袁術はのちに皇帝を名乗ります。
袁術その人が傲慢な性格だっとか、そういう感情論で、袁術を弾劾してはいけないと思う。官位を配ることで勢力を拡大したんだから、ゆくゆく彼自身が皇帝になり、配った官位を保障する必要がある。
「この紙幣は、銀行へ持っていけばいつでも、金塊に代えることができるんだ」
というのが金本位制だ。金本位制のとき、紙幣は問答無用に信用されて、流通する。貨幣価値が下がらない。袁術はこれを目指した。

ぼくは袁術が好きなので、弁護したいのです。

袁術は「綱紀がない」人だったか

陳寿が記すには、魯粛は、
「袁術は、綱紀がなくて、ともに事業を立てられない」
と判断して、周瑜のいる南方へ移住したと。
「袁術の発行した株券は、どうせすぐ暴落するさ」
という判断だ。

ただし、袁術の綱紀を責めてはいけない。
綱紀の件は、魯粛が袁術を見限ると決めた後に、あとづけした理由に過ぎない。「顔が気に食わない」でも良かった。だが、そんな理由を吐いたら、魯粛自身が評判を下げるから、もっともらしいことを言った。

もしくは『呉書』を書いた人が、
「袁術は、綱紀のない人だと、よく言われている。魯粛が見限ったのも、同じ理由によるものだろう
などという、最低の手抜きをして、書いただけかも知れない。

陳寿は、韋昭『呉書』を丸写しした部分が多いらしい。韋昭は立場上、袁術を批判しなければならない。袁術について、細かな考察をするだけで叛逆を疑われるから、ちゃんと書き残していないのだ。


なぜ魯粛は、袁術を見限ったか。
答えは、カンタンだ。
「すでに、周瑜に投資をした後だったから」だ。
魯粛は周瑜に、穀物倉を1つ差し出し、母親まで預けた。それなのに袁術に付けば、穀物倉は丸損だし、母親の命も脅かされる。
まるで先見のないぼくですが、魯粛と同じ局面に遭えば、迷わず周瑜についていく。よほど周瑜が極悪でなければ。

さすがに周瑜は、名声の低下を恐れて、魯粛の母親を斬りはしなかっただろうが。


例えるなら、住宅の購入を決め、頭金を払った家族に対して、別の会社の営業マンが、売り込みにいくようなものだ。
ちょっとお値打ちで、ちょっと快適そうな住宅を進めたところで、どうなるものでもない。
すでに決まりましたので、ごめんなさい」
が、家族にとっての偽りなき、断る理由です。遅かったね、袁術。

次回、魯粛が劉曄からの手紙に、悩まされます。